誇る者は主を誇れ

聖書:エレミヤ書9章22-23節, コリントの信徒への手紙二 10章12-18節

 わたしたちは、コリントの信徒への手紙の二によって礼拝の御言葉を聴こうとしております。コリントの人々は、パウロとその同労の伝道者によって初めて福音を聞きました。パウロは、コリントに教会を建てたのです。今日でも、新しいところに、新しい集会を開いて福音を説教し、教会を開拓することは並大抵のことではできません。地域から警戒され、他の宗教からは反対され、隣近所からは騒音やら何やらで、苦情が来ることでしょう。使徒言行録に伝えられているように、使徒たちは暴力や投獄にも耐えて宣べ伝えていたことが分かります。わたしたちの国でも、キリスト教は時の権力者から歓迎された時もありますが、大弾圧を受けた時代の方がはるかに長く、先の太平洋戦争の時代にも、礼拝が特高警察に監視され、少しでも国の政策に従わないと見なされれば、投獄される牧師もいました。そして時の政府によって会堂を取り壊された教会も少なくありません。

さて、コリント教会は創立時の苦難が一段落し、信者も増えて次の指導者たちの時代になった時、この教会にいろいろな問題が起こったことは、コリントの第一の手紙二よって分かります。創立者である使徒パウロは、コリントの教会の他にもトルコやギリシャ、マケドニアの各地を伝道し、たくさんの教会を建てたことが知られています。彼はこの時すでに使徒たちの中でも誰よりも活躍した伝道者でありました。彼の働きの全体像は、聖書の中に明らかにされていますが、しかしその時代を生きた人々にとってはどうだったでしょうか。案外身近にいる先生のことは、分かっていなかったのではないでしょうか。

それは教会の信者たちばかりでなく、後から来た教師、指導者たちも同じことでした。彼らはパウロがどんなに自分たちのために労苦したか、また教会を去った後も、心にかけ、旅先から手紙を書いて、教会の中に起こった問題について助言をしてくれるまでは、ほとんど何も分かっていなかったのでしょう。後々までうるさいことを言うのは、パウロ自身のためではない。それほど重要なことででもなければ、いつまでも関わって、うるさいと思われたくはないはずです。ところがコリント教会の問題は大変深刻でありました。

人が集まっていれば、教会が成り立つのではありません。人が集まって、神を礼拝し、神の言葉を教えられることが肝心であります。そのためにはまず、わたしたちは、異邦人であり、神がどなたかを知らなかった自分を、神に出会わせてくださった方を知らなければなりません。その方、イエス・キリストはわたしたちのために何をしてくださったのか、これが教えられなければ教会は成り立ちません。つまり、神の言葉が正しく宣べ伝えられなければ教会は成り立たないのです。そして、わたしたちがこの方、イエス・キリストによって罪赦される約束をいただいたこと。キリストのものとされたことを信じなければなりません。教会はキリストの体であることを信じ、聖餐を受けるのです。その聖餐についても、パウロはコリント教会の人々に手紙で教えました。そして聖書によって全世界の教会に教えることになったのです。

さて、コリントの第二の手紙では、教会の人々がパウロの忠告を受け入れたこと。その忠告の中に込められた使徒の愛と熱意によって悔い改めに至ったことが書かれています。その彼らに対してパウロは自分がずいぶん理解された、受け入れられたと感じたと思います。しかし、ここに至ってからも、パウロはコリント教会に対して厳しい言葉を書くことを止めてはいません。先週の聖書10章7節でも「あなたがたは、うわべのことだけ見ています」と厳しく語っています。

口先だけの言葉、目の前にある外面的な魅力ではなく、本当の心がどこにあるのか、教会はそれを見なければならない。見かけばかりで人を判断することしかしないならば、見かけだけで騙されてしまうからです。虚偽、心にもない言葉で人々を虜にしようとする人々は教会の中にも入り込んで来るからです。そういう時、それを判断するのは、真実を見抜くのはだれでしょうか。パウロでしょうか。教会はいつまでもいつまでもパウロの助言、パウロの叱責が来るまで当てにしていてよいのでしょうか。そんなことはできません。パウロは教会の人々が成長することを願うのです。自分で真実を見抜く力が与えられるように願うのです。そういうわけで、パウロは偽りの使徒、見かけだけの指導者について、批判、非難の言葉を続けています。

12節。「わたしたちは、自己推薦する者たちと、自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。」わたしたちとは、使徒たち、キリストの教えを忠実に従う伝道者です。他方、

パウロに敵対する者たちは、自己推薦する者たちと呼ばれています。彼は、彼らは問題外だとします。もし、彼らがキリストに出会い、その弟子たちによって開始された伝道をよく考える視野を持っていたならば、自分を重んじて、自分は素晴らしいと吹聴することなどできなかったでしょう。ところが彼らは自分を重んじることが最優先なので、遠くを見る、全体を見ることなどしないのです。ただ目の前に居る、近くにいる者同士、比べ合ったり、時にはお世辞を言い合ったりしていても、実際には自分をどうやって立派に見せようか、ということ以外は考えていないのです。

大変愚かしいことですが、これはコリント教会に限ったことではありません。自分が最も重んじられるように、見劣りがしないようにということが一番の関心になっている指導者がいます。そうするとその教会は大変不幸なことになります。そういう指導者は牧師であれ、長老であれ、自分より能力その他でも常に劣った人に囲まれていたいので、結果的に優れた人々を遠ざけることになるのです。教える者がいつになっても教える立場でいたいために、信徒に賢くならないように配慮する牧師の教会は不幸です。

さて、13節では、パウロも自己推薦をしているように見えます。しかし、彼に敵対する人々との自己推薦との違いに注目しましょう。「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。」限度、ということが言われています。その限度とは神が割り当ててくださった限度です。それは、神が与えてくださった現実です。パウロはコリント教会まではるばる出かけて行った。キリストの福音を携えて、だれよりも早くあなたがたのところまで行った、ということ。

これこそは、神が与えてくださった現実。実際に起こったことに他なりません。彼は事実を述べ、これは神が与えてくださった自分の限度である。それ以上、なかったこと、起こらなかったことを、いかにもあったことのように脚色して造り上げたりは、決してしないのです。ところがパウロを貶めようとする人々は、無かったことをあったことのように、すなわち、パウロが労苦して建てた教会を自分たちが労苦して建てたかのように吹聴する、これこそは、神の割り当ててくださった限度を超えて誇ることではないでしょうか。

パウロはこのような自己推薦をする人々を、批判しました。その事によって、彼らの自己推薦に感心し、惑わされていたコリント教会の人々を改めて戒めている訳です。それは何のためでしょうか。パウロはこのような偽りの指導者たちと争うつもりもないし、相手にしている時間ももったいなかったことでしょう。しかし、パウロはこの自分たちと彼らの誇りの違いをしっかりと教会の人々に認識してもらいたいのです。15節でパウロは自分の目的、希望を述べています。

「ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、あなたがたを超えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。」使徒たちの希望、願い、それは正にキリストの御心に他ならないと思いますが、それは、教会の人々の信仰が成長することです。あなたがたが成長し、わたしたち使徒たちの働きがあなたがた自身の間で増し加わることです。それこそは、使徒たち自身の働きの結果なのですから。

そしてその働きがコリント教会を超えて他の地域にまで広がって行くのであるならば、実際に、広がって行くのは何でしょうか。ひとりの人が東奔西走し、七面八飛の大活躍をすることでしょうか。あの先生は偉い。あの長老は素晴らしいと言われることでしょうか。偉い人も年を取ります。素晴らしい人も年を取ります。人をほめたたえる、互いに褒め合うことは、ある程度は良いことですが、それだけに終始するようでは、教会は形成されないでしょう。教会が建つか倒れるか。それは、キリストの体になるかならないかの問題だからです。だとすれば、コリント教会、つまり各個教会を超えて他の地域にまで広がって行くのは、実際は何か?その答は明らかです。それは福音の宣教です。御言葉を宣べ伝える、それは御言葉なる神、イエス・キリストに従うことであり、聖霊の神の働きに加えられることであります。わたしたちのいただいている賜物のすべては、その目的に用いられる時、豊かに生かしていただけるでしょう。

そして、パウロが「わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです」という時、その意味するところを深く思うのです。わたしたちは小さな教会ですが、日々喜んで労苦して教会を建てています。しかし、過去を振り返って思うことは、現在のわたしたちの教会の働きは、多くの教師、長老、役員の働きに支えられて来たことです。過去の方々の労苦なしに、決して今のわたしたちはありません。そして東日本連合長老会に加盟してから、特に思うことですが、目に見えない所で多くの教会が、自分の各個教会のためにではなく、主の体の教会を形成しようと労苦していることが分かって来るのです。目に見えない、ということは、どの教会がどれだけのことをしている、とか、どの人がどれだけ働いているとか、そういう細かい所までは分からないということです。

しかし、わたしたちが安らかに眠っている時も、目覚め社会を見守っている職務の働きがあるように、主の守りが働いて教会の職務を行わせてくださっていることを思わずにはいられない。だからこそわたしたちは、自分ばかりを持ち上げるような考えはあり得ないことを自覚させられるのではないでしょうか。

「誇る者は主を誇れ」とは今日読んでいただいたエレミヤ書からの引用です。その意味は、神をすべての幸いを造り出し給う方であるから、人間が自分を高くしてはならない。神にのみ栄光を帰し、他のものをあがめてはならないということです。神のみをあがめ、礼拝せよ、ということです。しかしながら、パウロが伝えたいメッセージは、少し異なります。キリストに従うわたしたちが生きて求めるべきものは、ただ神の御心にかない、御心を喜ばせるものとなることでありますが、実際わたしたちは、ほとんど誰もが、あまりにも大きい自己自身への愛着があるために、何が御心なのかが、しばしば分からなくなってしまう者であります。正しいと思ってしていることでも、わたしたちは特に自分自身の問題については、とても正しい裁き、判断をすることはできないものです。

そういうわたしたちが、ただ一つ誇ることができるのは、ただお一人の正しい方。裁き主です。この方にすべてのことを御心に委ね、神の裁き給うところに任せる。そのことを誇りに思いなさいと、わたしたちは勧められています。この聖句の「誇る」という言葉は、「勝利を喜ぶ」「勇み立つ」という意味でもあります。ローマの信徒への手紙にある(5章3節)「それだけではなく患難をも喜んでいる(口語訳聖書)」の喜ぶと同じです。弱さと過ちに満ちているわたしたちのために、神は御子をくださいました。わたしたちの罪を負い、十字架に死んで、死に勝利してくださったキリストが、わたしたちのために執り成す方として天におられるので、わたしたちは安らかに生きることができます。わたしたちはこの主を誇りましょう、喜びましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神様

7月最初の聖餐礼拝を感謝し、御名をほめたたえます。豊かな憐れみによってわたしたちの背きの罪を赦し、礼拝に御言葉を与えられ、真に感謝申し上げます。どうか、わたしたち、過去の教会の恵みに囲まれ、東日本の地域教会の恵みに囲まれていることを日々新たに思い、感謝し、謙って新たに従って行く者とならせてください。

今、時代は急速に変化し、時代について行くことに懸命になるばかりに、大切なもの、過去からの恵みを捨て去ってしまう人々が多くいることを心配する者です。大切なものは何かを確信をもって伝え、身をもって証ししていく教会とならせてください。また、偽りの情報を流す者があり、何を信じて良いのか不安に思う社会であります。主よ、どうぞ、あなたこそ真実な方であり、真心をもって人々を救いに招いておられることを、多くの人々が知ることができますように。

本日の定例長老会が御心に適って、教会形成の未来を拓くために役立つものとなりますように。私たちは4年前にカンボジア伝道に遣わされている今村宣教師ご夫妻をお招きしましたが、この年も11月に再びお招きする計画をもっております。どうか、大きな働きをなさっておられる今村先生ご夫妻を主が助け給い、ご無事に帰国されますように道を開いてください。また、9月の初めには、子どもと楽しむ音楽会を今年も計画しております。どうかこの計画も御心によって恵みに満ちた会となりますようにお導きください。

教会の信徒の方々、求道者の方々のために祈ります。どうぞイエス・キリストの真実に出会うことができますように。今苦しんでいる方々に癒しを、悲しんでいる方々に大きな慰めをお与え下さい。

今日の聖餐式、真の神の愛に感謝を以て応えるわたしたちでありますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。