あなた方を造り上げる言葉

聖書:出エジプト記19章5-6節, コリントの信徒への手紙二12章16-21節

先週、成宗教会は大塚啓子先生に礼拝に奉仕をしていただき、礼拝を豊かに守ることができ、感謝です。また初めて会食の時を持つことができ、お話を伺って大変良かったとの感想を参加者の皆さんから伺うことができました。大塚先生は女性の教職として、結婚、出産、育児をなさりながら、同時に教職の務めを忠実に果たして来られた方です。ご主人が教会と関わりない所から出発されたという点では、私の場合もそうでありましたから、私もたとえ中年で献身した者であっても、若い世代の女性教職の足を引っ張らないように、と心がけて参りました。大塚先生は間違いなく日本基督教団の将来を担う教職のお一人になられるでしょう。そして、わたしたちの教会が東日本連合長老会と共に歩み始めた頃から、成宗に説教に奉仕してくださった神学生の方々もまた、今は教団の中で重要な働きを担う教会の教職についておられるのであります。

さて、今日の説教題を「あなた方を造り上げる言葉」としましたが、造り上げるとは、家を建てるという言葉と同じです。つまり、あなたがた個々人の徳を高める(今の時代ではこの言葉も、残念ながらあまり使われないのですが)ということが目指しているのは、共同体を建てることです。それは、主イエス・キリストに結ばれた教会共同体を建てること。すべての言葉は、すべての業、活動に向かわせるための言葉であり、それは教会共同体を建てるためにあなたがたに語られている、ということなのです。

最近、成宗教会にある郵便物が送られて来ました。それはある小さな教会の創立70年を記念する冊子でした。失礼ながら、以前から礼拝出席も大変少なく創立以来の教師もご高齢で、将来どうなるのか、と思われましたが、最近新しい教職が与えられ、きれいな装丁の記念誌が発行されるに至ったようです。高齢の教会員の群れの中に、優しい笑顔の先生が映っていました。主の慰めに満ちた御言葉、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)を思い起こしました。

しかしまた、もう一つの文書が教会に届きました。それは秋田楢山教会からで、牧師館建築の献金のお願いでした。その文書の差出人は飯田啓子先生。去年の講壇交換で成宗にいらしてくださった大曲教会の牧師先生でした。飯田先生は無牧になった楢山教会の代務者となっていらっしゃることが分かりました。何年か前には楢山教会は礼拝出席が四十数名の教会でした。日本の社会全体に少子高齢化が進んでいますが、東京にいるわたしたちには理解が決して十分ではない深刻さが地方の教会にあります。わたしたちが教会を建てようとするとき、この教会のことだけを考えるとか、自分たちの教会だけを建てようとする各個教会主義では、もはや教会は建てられないということを知らなければなりません。

そして、主キリストが建てられる教会を思います時に、弟子たちに命じられて、宣べ伝えさせた福音を思います時に、本来、各個教会主義はありえないことでした。わたしたちは聖書に聞き、この事実を教会の歴史から学び、そして福音の本質に立ち帰らなければならないのであります。

使徒パウロが伝道した各教会、また個人に宛てた手紙の中で、最も分量が大きいのが、コリント教会への手紙になります。パウロが各個教会主義であることはあり得ないことです。彼は各地に出かけて宣べ伝え教会を建てました。そしてその教会を去りました。もし、前の教会のことはもう考えない、後に残された人々にすっかり任せたというのであれば、これらの手紙は書かれなかったはずです。ところがそうではありませんでした。パウロはその後の教会を心にかけていました。たくさんの問題が起こったこと。小さな群れには小さな群れの悩みがある以上に、大きな群れ、力ある人々がいる群れには、また大きな様々の問題が起こることは想像ができます。主に従う群れをかき乱そうとする力、群れの中心にいる人々を堕落させて教会を主イエスの体から根こそぎ引き離すことは、悪に仕える者の大きな目標になるからです。

パウロは彼らに手紙を書き、一つ一つの教会の問題について悔い改めに導く教えを送りました。その中で、主の教会を建てるために労苦する自分の働きこそ使徒にふさわしいものであることを証ししたのです。コリントの人々の中、悔い改めた人々は少なくなかったでしょう。パウロに遣わされて彼らを訪れたテトスが、人々の悔い改めに出会い、パウロに対する人々の愛を見出して、喜びと感謝の報告をしたのです。パウロが手紙のすべてに込めた福音の説き明かし。人々を思えばこそ言葉を尽くし、思いを尽くして説得し続けて来た労苦、涙ながらの訴えは報われました。(Ⅱコリント7章)

そこでパウロはコリントの人々に奉仕の業に加わるように呼びかけました。それは個々の教会が心を一つにして支え合い、仕え合い、喜び合うキリストの体の形成を目指すものでした。しかし、それは具体的には、困窮にあるエルサレム教会の支援の募金でありましたから、このことが、また陰からパウロを攻撃する者たちの格好な中傷の種となったようであります。主イエスは言われました。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは神と富とに仕えることはできない。」と。(マタイ6:24)

裏切者ユダの例からも分かることですが、キリストを愛している教会の群れの中に、実は金銭を愛して、主を軽んじる者がいるのです。しかもやっかいなことには、自分がそうであるばかりでなく、他の人々も自分と同じではないかと疑うのです。そういうわけでパウロは何とこの募金活動のことでも不正をしているように中傷されたのではないかと思われます。パウロが「コリント教会の人々には負担をかけません」と、頑ななまでに主張していることの背景に、教会の一部の者たちからの中傷があったのではないでしょうか。

12章15節に、「わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう」と言いました。自分はあなたがたを生んだ親だから。コリント教会を生み出したのだから。親が子を思うように、子のためにできることを何でもし尽したいと思っているのだと。しかし、「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。」この愛を誰が理解できるでしょうか。それは、キリストの愛を知った人です。本当にキリストがわたしたちを愛して、命を捨ててくださったと分かった人、それはキリストに出会った人なのです。

そうでなければ、人は皆、自分の物差しで人を測るより他はありません。ある人は、「あなたがたを愛している」と言っているのは、何かそうすることで利益を得ようとしているのだろうと考えるでしょう。また別の人は、「あなたを愛していると言っているのは、よほどわたしにほれ込んでいるのだ。それほどわたしは素晴らしい魅力があるのだ」と勘違いするでしょう。パウロの場合は、悪意ある人々がおそらくこう言ったのではないかと思われます。「パウロは表向きは格好つけてコリント教会に負担はかけないと言っているが、テトスともう一人を派遣して献金を集め、をの一部を自分の利益としているのではないか。」

パウロはこれまでも、自分に対して言われた誹謗中傷に反論してきました。それは、自分自身を弁護するのが目的ではなく、自分が福音のために主に遣わされている使徒であることを証明するためです。このことができなければ、本当に名誉を傷つけられるのは、自分を遣わしてくださった主、その方に他ならないのではないでしょうか。神の栄光を汚さないために、本当にわたしたちは日々、パウロの弁明を思い起こす必要があります。私自身お金に執着している人間ではないことは、家族はもちろんですが、15年間この教会で共に労苦してくださった役員、長老の方々のほとんどはよく理解して下さっています。その私も、実状を知らない人からは誤解されることがありました。浴風園に教会員を問安するときも重い鞄を下げて行きましたが、ある人から、大金を持ち歩いているのですかと言われたことがあり、大変驚きました。その人は、牧師が教会員のところに集金に回っていると考えたようです。

パウロは自分が誹謗されるばかりでなく、自分から指示されてコリント教会に派遣された弟子たちのことまで悪く言われた時、きちんと反論しました。18節後半から。「テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」

「わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだ」と、「神の御前で、キリストに結ばれて語っています」と、嘘偽りない言葉を誓っております。自分の責任において仕事をさせた人々の名誉を敢然と守ること。これは主に結ばれた者の使命です。そしてこれらの弁護、弁明は、批判された者たちを守るために行われているように見えるかもしれないが、実はそうではない、とパウロは主張します。「愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなの」ですと。そもそも神の御前に心を低くして福音を宣べ伝えたパウロの教えを、コリントの人々も心を低くして聞き従うことができていたなら、多くの問題も起こらなかったのでしょう。

パウロは言葉を尽くして手紙を送り続けました。すべてはあなたがたを造り上げるために。造り上げるとは、個人の徳を主に従って高めていただくことです。しかし、これは決して個人の別々のことには終わりません。必ず、それは主に在る交わりが豊かなものとされることなのです。パウロの宣教の業が軽んじられないで、彼が当然受けるべきだった尊敬を受けているということは、パウロ自身の利得のためではありません。それは、何よりも誰よりも、コリント教会の人々自身の益、利益になることにちがいないのです。20節でパウロは心配しています。「わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。」

パウロが心配するのはもっともなことです。なぜなら、彼が軽視されるようになった結果、多くの者がはめを外してしまって、ここに上げられているような放埓(ほうらつ)に耽っていたからです。もしも、彼らが彼を敬っていたならば、パウロの戒めに服従したに違いなかったと思われるからです。こう考えると、パウロの心配は愛から出たものに他なりません。もしパウロがコリント教会を去った後、自分は使徒としての務めを果たしたのだとして、彼らの救いのことなど一向に気にかけていなかったのなら、心配しても何ら自分の益にもならない心配はしなかったことでしょう。ところが、事実は非常に問題を起こす教会があったわけです。そこで使徒は後々まで非常に心配したわけです。そのために教会に起こった問題の一つ一つを事細かに伝える手紙、そしてそれを信仰に従って教会がどのように解決し、教会の徳を高めるか。すなわち、主に結ばれた教会の姿を地上の教会に表すべきかを論じる手紙が遺されたということになります。

わたしたちは、神が今朝わたしたちに与えてくださった御言葉として、今日のこの手紙を聞きました。悪い行いは、要するにその源は同じなのです。すなわち、そこにあるものは利己主義です。各人が自分のことだけに執着する、そこから論争も、口論も、ねたみも、悪口も起こります。そして、そこに無いものは愛です。福音宣教を進めるために無くてならないものはキリストの愛です。それが、パウロが耐え忍んで来たすべてを支えた力です。わたしたちは過去の教会の罪を赦して福音の言葉、教会を造り上げるための生きた言葉としてくださった主の恵みに感謝しましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。あなたの恵みにより、憐れみにより、わたしたちは今日も礼拝に招かれ、主の教会に与えられた御言葉を聴くことができました。どうか過去の教会にあった数々の罪を赦してくださって、救いの主に結んでくださったように、今あなたの御前に立つわたしたちの至らなさ、その罪のすべてを赦し、御国の世継ぎにふさわしいものと造り変えてください。

私たちは福音によって新たにされた者として、世に出て行き、この悩み多い社会に在って、あなたの愛、あなたの戒め、あなたの救いを宣べ伝える者となりますように。私たちに与えられた賜物を活かし用いてください。決して世の人々の判断によらず、あなたが尊い知恵と力とを、わたしたちに必要に応じてお与えくださる方であることを信じる者でありますように。

主のご命令はイエス・キリストを通して表された救いを世に知らせることであります。どうかわたしたちがそのことをいつも心に思い、人々の救いのために絶えず祈る者となりますように。悩みにある人、労苦している人、あらゆる困難を抱えている人々に主は近くいますことを知らせることができますように。小さな群れを祝福してください。そして特に、本日行われる教会学校の行事をあなたが祝して下さい。集められる子どもたちが、ここに主がおられることを感じ取ることができますように。奉仕する方々、支える方々を祝して下さい。

今週の歩みを御手に委ねます。来週の聖餐礼拝を皆が心に覚えますように。また来週の長老会、また9月9日に迫った「子どもと楽しむ音楽会」の行事をもお導きください。

この感謝と願いとを、われらの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

生命の御言葉に生かされて

説教:大塚啓子牧師(目黒原町教会)

聖書:テモテへの手紙二 3:14-17, 詩編119:129-136

今日は、私たちに与えられている御言葉について改めて聞いていきたいと思います。そう思った理由は、6月に目黒原町教会の親子合同礼拝で玉川聖学院の安藤理恵子学院長が説教に来られたことがきっかけです。説教の中で安藤先生は、ご自分と御言葉の出会いを語られました。中学一年生の時、初めて聖書を手にして、マタイ福音書による福音書から読んでみた。10ページくらい進んだところで、無性に腹が立って聖書を閉じた。その頭にきた理由は、とにかく人間はみんな罪人であると断言し、イエスを通してでなければ救われないと述べているところ。上から目線で語っているような気がして、それで腹が立って聖書を本棚の奥の方にしまったそうです。しかしその三年後、高校一年生の時、また聖書を読む機会が与えられた。もう一度読んでみようと思って、本棚の奥から取り出し、やはりマタイによる福音書から読み始めた。すると今度は、まったく違う印象をもった。イエスさまが徹底して自分を無にして、人を救おうとされていることに気付いた。上から目線ではなく、本当に自分を無にしたイエスさまの姿と出会い、そこから教会に通い、洗礼へと導かれたと話されました。クリスチャンホーム育ちのわたしにとっては、聖書はとても身近な存在で、安藤先生のような劇的な出会いはなかったので、印象深く聞きました。

しかし、劇的な出会いはなくても、わたし自身、聖書と共に歩んできたと思います。自分の将来について考えた時、教会のことで悩んだ時、子育てのことで迷った時など、御言葉に支えられ、道を示され、立つべきところを教えられてきたと思います。たぶんみなさんも、それぞれに聖書との出会い、御言葉との出会いがあると思います。また、御言葉と共に歩んできた歴史があると思います。今日の手紙の宛先であるテモテも、同じように御言葉によって生かされてきました。パウロは語ります。3:14「だがあなたは、自分が学んで確信してきたことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。」テモテは、祖母ロイス、母エウニケの信仰の下育てられました。しかしただ、家庭だけではなく、教会という信仰共同体の中で育ちました。聖書の時代は、家庭も教会も信仰を教育する場という側面を持っていましたので、テモテが幼い頃から御言葉に親しんできたと言うなら、家庭と信仰共同体の両方で養われてきたと考えられます。テモテは幼い頃からずっと御言葉を聞き、御言葉から学びながら、信仰生活を送っていました。私たちと同じ信仰生活をテモテも送っていました。

そしてパウロは、ここで殊更に「御言葉から離れてはならない」と述べています。それはこの手紙、テモテへの手紙一と二、またテトスへの手紙は合わせて「牧会書簡」と呼ばれますが、はっきりとした目的を持って書かれた手紙だからです。「テモテへの手紙」と個人に宛てた手紙でありながら、教会の中で読まれるように意図して書かれました。それは、この時代の教会は、直接主イエスを知らない世代ばかりの教会、パウロの弟子ともいえるテモテが中心となっている言わば第二世代の教会です。教会が組織的に確立し始め、教会の誕生の物語も知らない世代がいるような教会に向けて、教会として立ち続けるために大切なことを改めて述べているのが、この「牧会書簡」です。その大切なものとは、「自分が学んで確信してきたことから離れてはならない。」また、「御言葉から離れてはならない」ということです。「自分が学んで確信してきたこと」、それは、神の子、主イエス・キリストによる救いです。主イエスの十字架によって私たちの罪は贖われた。十字架にかかって死に、葬られた主イエスは、確かに復活された。そして復活によって、新しい永遠の命を与えられたということです。そして、そのように信じる信仰も、神から与えられた賜物であり、今与えられている純粋な信仰を守りなさいと語ります。

正しい福音を継承することが、教会が教会として立つために必要です。自分が聞き、教えられた信仰、教会で伝え聞いた信仰をそのまま継承していくことが、教会を存続させることになります。伝道不振の世の中、次を担う世代の減少、自分たちの教会を見ていると果たして10年後も存続出来ているか分からない、そのような現状があります。しかしそのような現実だからこそ、教会が立ち続けるために、自分が受け取った福音を次に手渡していくこと。代々の教会が信じ、告白してきた信仰の言葉を継承することが特に求められています。そしてそのために、土台である聖書の言葉を御言葉として聞き、その御言葉に立つ。親しんできた聖書から絶対に離れることなく、聖書と共に生き続ける。このことが、求められています。

それは、御言葉こそが救いに導く知恵を与えるからです。テモテへの手紙二3:15後半「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く書物です。これと同じことを詩編の詩人はこう語ります。詩編119:129-130「あなたの定めは驚くべきものです。わたしの魂はそれを守ります。御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」御言葉から光が射し、無知な者に知恵と理解を与える。御言葉は理解するのに難しい書物ではなく、御言葉の方から理解するための知恵と力を与えてくれます。私たちは、ただ待ち望むだけでいいのです。詩編119:131「わたしは口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。」このように、御言葉を慕い求める。また119:135「御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。あなたの掟を教えてください」と祈ればいい。御言葉を慕い、教えてくださいと祈る時、神はそれに応え、御言葉を開き、心の中に届かせてくださいます。

御言葉は、私たちのすぐそばにあるものです。申命記30:11以下では「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」と語り、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と告げています。まさに御言葉は、私たちのごく近くにあります。今年はちょうど、宗教改革500年の記念の年ですが、宗教改革によって、ルターによって、聖書が母国語に翻訳されたことはとても大きな意味を持っていると思います。もちろん、印刷技術の発達も重要だった訳ですが、今は各家庭に一冊以上の聖書があり、気軽に母国語で読むことができる。聖書の時代は御言葉を聞いて覚えたわけですが、私たちは何度でも読み返すことができる。聖書を読もうと思えばいつでも読める恵みの中におかれています。そして聖書に親しむことによって、信仰が養われていきます。日本基督教団信仰告白では、こう唱えます。「我らは、信じかつ告白す。旧新約聖書は神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与うる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」ですから、この御言葉から離れてはなりません。教会にとっても、信仰者一人一人にとっても、御言葉から離れては立つことができません。まさに聖書は「生命の御言葉」であって、教会も信仰者も御言葉によって生かされます。神について、キリストについて、完全な知識を与える御言葉、また信仰と生活を正しく導く御言葉は、この聖書です。パウロが第二世代のテモテに御言葉から離れてならないと改めて語ったように、この生命の御言葉から絶対に離れてはいけない。その思いを強くしたいと思います。教会の拠るべき唯一の正典は御言葉。私たちの信仰を養い、導くのも御言葉。近いからこそ当たり前のように受け取っている聖書のメッセージを、今日新たに神からの賜物として、感謝して受け取りたいと思います。

親が子を思うように

聖書:エゼキエル書34章1-3節, コリントの信徒への手紙二12章11-15節

 新約聖書に収められている27の文書のうち、使徒パウロの手になるとされる文書は13あります。分量的には新約聖書の実に4分の一以上が、パウロによって送られた手紙であります。世界中のクリスチャンにとってパウロは偉大な伝道者。ペトロに劣らずその名を知らない者はいないとおもいます。しかし、わたしたちは今、コリントの信徒への手紙の二を読んで唖然としたのではないでしょうか。なぜなら、わたしたちがこれまで持っていた偉大なパウロという人物像が、ここではひっくり返されているからです。パウロが同時代の人々から、何と「取るに足りない。つまらない人物」という評価を受けていたからです。新約聖書に登場する人々の中でも、最も偉大な者の一人であるパウロがいくら何でもnothing ,つまらないと評価されるとは。

この手紙では、それに対して、パウロは反論を続けている訳です。わたしはダメだと言われているけれども、あの大使徒たちに比べても少しも引けは取らないのだと、パウロは本気で反論して参りました。Ⅰコリ9章22-23節では彼はこう言っています。311頁「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」

そうです。だからパウロは愚か者にもなったのです。愚か者は、自分を自慢します。あれができる、これができる。あれをもっている、これをもっている。自分はこんなに素晴らしいのだ、と。パウロが愚か者のようになって愚かな自慢をする。本当はそんなことをしたくない。自慢話は使徒の務めに全く合わない。むしろ務めに反するものだと、誰よりも知っています。それにも拘わらず、自分はこんなに素晴らしいと言わざるを得ないのは、なぜか。それは、あなたがたのせいですよ、とパウロはコリントの人々を責めているのです。

あなたがたのせいです。なぜならあなたがたは、自慢する人が偉い人、立派な人だと思っているから。自分はこんなに素晴らしいと自己宣伝に勤しむ偽者の伝道者をほめたたえるから。そういうあなたがたを、そのまま放置するならば、どうなるでしょうか。あなたがたは彼らの弟子にはなるかもしれません。しかし、イエス・キリストは自己宣伝のために世に現れたのでしょうか。主は御自分を無にして、父なる神の栄光を表すために命を捨てられたではありませんか。だとすれば、自己宣伝をするような人々に福音があるでしょうか。だから、あなたがたの救いがそこにあるはずも無いのです。

パウロは福音のためには何でもすると言いました。だからこそ、愚かなコリントの人々に対しては愚かな者のようになったのです。何のために?彼らを救うためにです。今、わたしたちは、「コリントの人々は何と愚かなのだろうか」と笑うことができるでしょうか。これは、コリント教会への手紙として聖書に収められています。しかし、聞く耳のある人々には、これは正に他人事ではない。聖書は神の言葉として、悔い改めを迫る言葉として、すべての人に、例外なく差し出されているからです。

本当に善意の人を、本当に誠実な人を蔑ろにしている一方、悪意をうまく隠している者の口車に乗せられている罪の世に、わたしたちは生きています。平和を求める穏やな人々の声が十分に届かない一方、非難の応酬がエスカレートして戦争への道を転がり落ちそうな危険な世界に生きています。教会の中でさえ、使徒パウロが他の大使徒と比べて少しも劣らない、ということが理解されない一方、自己宣伝する者たちはいかにも自分たちが十二使徒たちと同等であるかのように吹聴するので、彼らに圧倒されて惑わされ、取り込まれてしまうとしたら、まして教会の外ではどんな理不尽なことが起こっても不思議はないでありましょう。

12節の言葉は口語訳では、「わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と力ある業とにより、忍耐を尽くして、あなたがたの間であらわしてきた」となります。こちらの方が原文に忠実なようです。パウロが「しるしと奇跡と力ある業」という三つの言葉によって表そうとしていることは一つです。しるしとは単に役にも立たない見世物ではなく、人々を教えに導くためのものです。奇跡とは(文字通りは「不思議」ですが)、その新奇さの故に人々の目を見張らせ、人々を驚かせるはずのものです。そして、力ある業とは、わたしたちが日常の中で観察している自然の力よりも、はるかに優れた神の力を明らかにするものであります。そして、この三つのものが目標とするものは一つ、神の教えを更に一段と権威あるものにすることに他なりません。

使徒であることの証明は、この三つを、忍耐をもって行うことです。この忍耐こそ、使徒であることを実証する土台であります。彼はサタンやその敵どものどんな攻撃をも、勇敢に耐え忍び、常に退くことなく、不屈の態度を示してきました。そして、パウロは自分の優れたところは、自分自身の思いにも上らせないのです。口には出さなくても、もし心の思いの底に「実は自分はすぐれているのだ」という考えがあれば、どうでしょうか。人から度重なる侮辱を受けると、「もう我慢ならない!」ということになってしまいます。しかし、そんなことではどうして福音伝道者の務めを全うすることができるでしょうか。結局は、この務めを主からいただいたということを蔑ろにする結果になるのです。

しかしパウロは、自分になされた一切の侮辱を辛抱強く耐え忍び、数々の労苦も何ごともなかったかのように過ぎ行かせ、忍耐をもって多くの卑劣な策略に勝利したのであります。世に気高いこと高貴なことというならば、これ以上のことがあるでしょうか。これこそ、天から与えられた使徒職がここにあることを証明するしるしなのであります。

13節でも、コリント教会の人々に厳しい言葉は続きます。「あなたがたが他の教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。」パウロはコリント教会を開拓して、人々をキリストの救いに与る者とするために命を賭けて働きました。彼は人々のためにこんなにも大きな恩恵を施したうえに、それを無報酬で行いました。しかし、その後で彼らのしたことは、恥ずかしくもなく自分たちの最初の伝道者を軽んじて、慎ましく忍耐しているパウロをいっそう侮ったのであります。

こういうことはわたしたちにも思い当たることがあるでしょう。物を、大金を出して手に入れると、お金がかかっているので大切に扱う一方、安く手に入れると扱いが粗末になるものです。学校の教師をしていると更によく分かります。「ただで教えてあげるから、聞きに来なさい」と言っても来ようとはしない生徒が、高い月謝を払って家庭教師を雇うものです。またバブル崩壊の時代以降、いくら試験を受けてもなかなか正採用にならない教員がいる一方、どう見ても実力が疑われる正規の教員がいかにも優れた者のように見せるために威張り散らすので、生徒が非常に気の毒な学校もありました。

「この不義をどうか許してほしい」と述べているのは、パウロが善意を持ってしていることが、却ってよくない結果を招いたからと、反省の弁を述べているのでしょうか。しかし、聞きようによっては、やはり、彼らは受けた恩を忘れたばかりでなく、悪い者たちに唆されて、恩人を侮るような不義を働いたということが指摘されているのだと受け取れるのです。パウロはコリント教会を訪れようとしています。これが三度目です。そして今度もやはり、パウロはコリントの人々に費用の面でやっかいをかけないと宣言しています。コリント教会の人々は、この言葉をどのように受け止めたでしょうか。自分たちがどんなに反省しても、先生の怒りはまだまだ収まらないのだろうか、と感じたでしょうか。

しかし、パウロが単に怒りに駆られてこの手紙を書いたなどとは、だれ一人思わなかったでしょう。こんなにたくさんの手紙を受け取って、しかも一字、一字、手書きで、代筆する人がいたのかもしれませんが、消しゴムもない、便せんもない時代に、貴重な羊皮紙に書いて送られた手紙を受け取って、食い入るように彼らは読んだことでしょう。わたしたちの時代とは違う。便利で、軽薄な時代、何でもすぐ打ち込んで、すぐ送信出来て、すぐ読んで、すぐ消されて、すぐ忘れ去られる時代とは違う、2千年前の時と所を想像してみたいものです。

皆で額を寄せて、一字、一字読まれたことでしょう。あるいはきっと家の教会で大勢の人々を前に司会者が朗読したことでしょう。字の読める人も、中には字の読めない人もいて、熱心に聞いていたでしょう。パウロ先生の言葉を。「わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたには負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。」わたしが欲しいのはあなたがたのお金や物ではない。確かに、牧師が近寄って来るのは、金品が欲しいからだと疑っている人々がいます。

私も施設にいる人に教会に献金してくださいと求めたことがありました。教会がキリストの体として建てられるために、わたしたちは主の日に礼拝に集まり、感謝と賛美と祈りを捧げます。わたしたちの捧げる献金を用いて、神様が伝道をしてくださると信じています。捧げられた献金によって、教会の伝道に必要な一切を賄うのです。牧師を招聘するのもその一つです。教会に来られない信者の方々を問安できるのも、捧げられた献金によるのですから、金額の大小に関係なく、すべての教会員が月々の献金を捧げることが大切です。そこで、私の場合、献金を捧げて教会を支えてください、とお願いすることが必要と思われました。それは自分自身が、献金を捧げるのは、人に対してではなく、教会の主に献げているのだと信じて喜んでいるからです。ところが、その人は猛烈に怒りました。怒りのあまり、私が以前差し上げた十字架のペンダントを捻じ曲げて返してきました。献金とは牧師のポケットに入るものと考えているのでしょうか。人々がいかに誤解していることか。献金を求めることの難しさを知らされた出来事でした。

パウロは書いています。「わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。」あなたがた自身を求めている。パウロは心を求めているのです。では、パウロはコリントの人々の心を自分のものにしたいからでしょうか。自分だけに心を向けてほしいのでしょうか。決してそうではないのです。パウロはただただ、自分の行っていることは親のような愛情によってなされたものであると伝えたいのです。主イエスは、天には父がおられることを、わたしたちに教えられました。それでわたしたちは、「天にまします我らの父よ」と祈ることのできる神が親としておられることを信じることができるようになったのです。

パウロが彼らに負担をかけたくない理由は、第一に、彼は彼らの富を求めていないことを知らせるためです。そして第二にパウロは彼らに対し、父親の役目を果たすことを願っているからです。わたしの羊を飼いなさい、と命じられた主に従う良い牧者とはだれでしょう。それは、羊たちに対して自分自身の益を求めず、羊たちの救いを求める牧者です。ですから、たとえ主に仕える者が人々を求める時にも、人々を自分のものとして独占しておこうという意図をもってしてはならないのです。

こうして、パウロは自分の働き、自分の持つすべての力を、コリントの人々のために使おうとする備えが出来ていたのでした。そればかりか、自分の命をも危険にさらし、彼らにどんなに粗末な扱い、冷たい扱いを受けようとも、変わることの愛情を持ち続けたことが知らされるのです。まさしく親以上の献身と愛情のしるしであります。しかし、今日の御言葉が示された目的は、ただわたしたちがパウロに感動するためではありません。彼の心に倣うようになるためであります。それゆえ、特に牧会する務めを持つ者はこの聖書箇所によって、自分たちが教会に対して果たすべき義務は何かを学び知るべきであります。祈ります。

 

御在天の父なる神様、

あなたはすべてのものをお造りになり、中でも人間を神のかたちとして尊いものとしてお造りになりました。人はあなたに背を向けて不幸になりましたが、あなたはイエス・キリストをお遣わしになって、今なお変らないあなたの愛をお知らせくださいました。主よ、わたしたちは本日、福音を宣べ伝えるパウロが真にあなたの父としての愛を伝える者として、親が子を思うように、人々を思う姿を学びました。キリストによってあなたを父と呼び、あなたの子となりましたわたしたちも、パウロの思いに倣うものとなりますように。教会を愛し、主に結ばれた人々を愛し、何とかして良いものを後の人々に残すことができますように。良いものとは、何よりもあなたに対する信頼であります。あなたがお遣わしになった救い主によって罪赦されたことを信じる信仰を、わたしたちの後に残すことができますように。 全世界が造り主であるあなたのものですから、どうか罪人を悔い改めさせ、世界を悪意による滅びから救ってください。教会が平和の砦として、平和を実現するものとして世に立ち続けることができますように。恥知らず、恩知らずの罪を犯している人々を忍耐して愛し続け、救いに招き続けたパウロの愛を通して、あなたの御心を悟る者とならせてください。わたしたちの身近な家族、親しい者たちを御手に委ねます。どうか特に病気に苦しむ者の苦しみをやわらげてください。試練の時にこそ、あなたの慰めをもって支え合うことができますように。来週の礼拝は大塚啓子牧師が成宗に奉仕して下さいます。真に感謝です。どうか喜びと感謝に満ちた礼拝となりますように。大塚先生のご準備を祝して下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。