イエス様のお誕生

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌90番
讃美歌96番
讃美歌234A

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 7章14節 (旧約聖書1,071ページ)

7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。

新約聖書:マタイによる福音書 1章18-25節 (新約聖書1ページ)

1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

《説教》『イエス様のお誕生』

今日は、教会学校との合同礼拝ですので、教会学校のテキストからマタイによる福音書1章18節から25節のイエス様がお生まれになった時の大切なお話をしましょう。

私は去年の4月から、この成宗教会の牧師として皆さんとご一緒して来ましたが、昨年度2020年はクリスマスイヴ礼拝を含めて52回の礼拝中で皆様と集まって普通に礼拝できたのは32回でした。何と今年度2021年に至っては17回中のたった2回だけです。何としても神様の御言葉を皆様にお届けしようとライブ配信をしていますが、残念ながらキチンとはお届け出来ていないと反省しています。

ところが、この1年3ヵ月ほどの間に、何と5人の兄弟姉妹を神様の御許にお送りしています。そのお一人が野田妙子姉妹です。葬儀は明日午後、荻窪河南の葬儀社斎場で執り行われます。成宗教会で葬儀をと願いましたが、喪主様のご意向で教会ではなく、斎場に私が赴いての葬儀となりました。

葬儀は教会でないといけないとは言いませんが、天の神様に向かって旅立つに際して、葬儀とは、その方が、それまでどう生きて、どう神様を証してきたかを思う一つの大きな機会と思います。私たちにとってこの世の家でもある教会とは何なのかといった思いで今日のイエス様のお誕生物語を、「生まれる・誕生」の中からも「葬儀・死」を思って、お聞きいただければと思います。

実はイエス様の生誕物語は四つの福音書のうち、このマタイ福音書とルカ福音書の二つの福音書にしかありません。二つの福音書の生誕物語は、夫々特徴があります。主イエスの誕生を父親ヨセフの側から語り始める今日のマタイ福音書では母親マリアの言葉はなく、父親ヨセフと天使との夢の中でのやり取りが中心です。一方のルカ福音書では母親マリアを中心としたマリア賛歌も含まれた主イエスの生誕に関連する物語が母マリアの立場から長く記されているのとは大変対照的であると言えましょう。

当時のユダヤ人の結婚に関する決まりでは婚約中の2人はすでに夫婦とされていたので、20節と24節でマリヤは婚約者ではなく「妻」と呼ばれています。婚約者同士は通常1年程度の婚約期間を経て結婚生活に入りますが、その婚約期間中にマリヤの妊娠が明らかになりました。ルカ福音書では、マリヤ自身が大天使ガブリエルから妊娠は聖霊によるのであると告知を受けましたが、今日のマタイ福音書では、主の天使が父親ヨセフの夢に現れたとしています。ここに母マリヤの言葉はなく、マリアの沈黙を敢えて示そうとしているとも言えましょう。しかし、如何に聖霊によって身ごもったとしても、周囲の人々がマリアの妊娠に気付くのは時間の問題であった筈でした。

マリアが身ごもったことは、ヨセフにはまったく身に覚えがないことでした。そこで、マリアの妊娠を知ったヨセフは、密かに縁を切ろうと決心します。19節にあるように、夫ヨセフは、「正しい人」でした。しかし、その「正しさ」とは、マリアを疑い、それが表沙汰になることを恐れた、いわば世間体を気にしてのことでした。このことについて、神に御旨を尋ねようとすることなく、自分の考えだけでマリアと縁を切ろうとした、この時のヨセフの思いは、人間の「正しさ」の限界を示していると言えましょう。人間の「正しさ」とは、自分の罪について自覚できなくなる危険性をいつも孕んでいます。ヨセフはこの時、神の御旨を尋ねるべきでした。しかし、それをしないで、自分だけで判断してマリアと別れよう、縁を切ろうとしていたのです。絶対的な義の存在である神の前では、どんな人間でも一人の罪人に過ぎません。いくら私たちが正しさを主張したとしても、それは神の前に完全な「義」正しさとはなりません。私たちが「真の義」を求めるには、神の導きが必要なのです。

ヨセフが、このようにマリアのことで思い悩んでいるとき、夢を見ます。それこそが、ヨセフにとっての「神の助け」でした。夢の中に天使が現れ、恐れないで妻マリアを迎え入れること、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったこと、その子は男の子で、イエスと名付けること、イエスは自分の民を罪から救う救い主となることが天使から告げられます。夢の中で、今起こっていることの意味を、主なる神が天使を通して、ヨセフに告げ知らせたのです。それまで、ヨセフはマリアを妻とすることを恐れていました。しかし、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだから恐れることはないとの、天使の告げることを聞いて、全能の神の力によって、マリアの胎に男の子が宿ったことを知り、ヨセフは主なる神に信頼して安心することが出来たのです。また、生まれてくる男の子をイエスと名付けるように命じられました。命名は子供の認知を意味します。イエスとはギリシヤ語の呼び名です。ヘブライ語ではヨシュア、「神は救い」を意昧する名前で、よくあるユダヤ人男性の名前でした。「ヨシュア」と呼ばれた人物は主イエスの他に聖書に10人程登場しますが、最も有名なのはモーセの後継者でエリコを陥落させ、カナンの地を占領し、その地を12部族に分け与え、イスラエルの定住の地を確保したヨシュアでしょう。この「ヨシュア」という名は、自分だけの力ではどうしようもない罪の中にある人間を、確かに救ってくださる救い主の名前として、相応しいものでした。しかし、その「救い」とは「罪からの救い」であり、ローマ帝国の支配からの解放を望んでいた当時のユダヤ人の期待とは異なるものでした。従って、21節の「ご自分の民を」という表現は、「新しいイスラエルの民」、「新しい神の民の創造」という視点から理解されなければならないでしょう。ここにもイスラエルを「ご自分の民」とされた旧約の「主なる神」と主イエスの姿が重なってきます。マタイ福音書は主イエスの生涯が旧約聖書の預言の成就であることを示すため「主が預言者を通して言われた事が成就するためであった」という表現で旧約聖書を度々引用しています。

ここではマリヤの聖霊による妊娠がイザヤ書7章14節の「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」との旧約聖書の預言の成就とされています。

23節にあるように主イエスは「インマヌエル」という名で呼ばれるとありますが、ご生涯は「イエス」と名乗り、「イエス」と呼ばれ、「インマヌエル」というお名前では呼ばれませんでした。主イエスの人格とご生涯そのものが「インマヌエル:神は私たちとともにおられる」であったと、マタイ福音書全体を通して、現実の主イエスのお姿を現しているのです。

ヨセフは夢で告げられたことを主なる神の啓示と信じて、妊娠したマリヤを迎え入れました。場合によっては人の好奇の目を浴びるリスクも引き受けたと言えましょう。こうして主イエスはヨセフとマリヤという人間の両親のもとで、人として生れることになったのです。

ヨセフは、主の天使が夢で語った神の御言葉を聞いてから、劇的な変化を遂げています。ヨセフは、信じることができなかったものから、信じるものへと変えられ、受け入れることのできなかったものから、受け入れるものへと変えられたのです。

妻マリアのお腹の中に主イエスが宿ってから、夫ヨセフは愛する人も、主なる神も信じることのできない自分の弱さと罪を知りました。神様は、そのヨセフを見捨てることなく、言葉を投げかけて下さり、彼にその言葉を信じる信仰を与えてくださいました。ヨセフは、その神様を信じる信仰によって、自分からは受け入れられることのできなかったマリアを受け入れ、お腹の子に、名前を付け、自分の子として、受け入れることができるようになったのです。

この子、主イエス・キリストがマリアのお腹の中に来て下さった時から、救いが始まりました。この方が来られてから、闇は光に照らされ、闇の中にいた私たち人間が光に照らされ、罪が明らかになると同時に、その光がどんどん近づいてこられて、私たちの心の内側に入ってきてくださったのです。その光によって、私たちは、新たにされるのです。その希望の光が、私たちの内側に来てくださって、いつも共にいてくださる。「インマヌエル:神はわれわれと共におられる」というのは、このことです。

今日のこの聖書箇所に書かれている主イエスの誕生、キリストの受肉の神秘については、様々な批判や意見のあることは事実でしょう。私たち現代人の高度な科学的知識では、処女降誕など、考えられないといった意見や、妥協して生物界には雌雄両性生殖ではなく、単性生殖も見られるので人間の単性生殖もあり得るのではないかといった議論など、この出来事を無理矢理説明しようとする努力する人もいます。歴史上、数えきれない程の多くの憶測が述べられて来ました。聖書をよく読んでいるキリスト者でも、これは神話なので、実際に起こった事ではないと、この出来事を彼方に遠ざけてしまい、正面から取り上げようとしない人が少なくありません。

しかし、主イエスの生誕において起こったことは、今日のマタイ福音書によれば、神御自身が主イエスとして人となって、人々の間にとどまり「インマヌエル」、その民にとっての「救い主イエス」となるのであり、救い主・キリストが人々を救うためにここに生まれる、ということを述べているのです。

その中心をなしているものは、主イエスにおいて実現する神の人間に向けての救いの実現であり、人間はそれに応答することしかないのです。

信じて従う、それが信仰です。神の御業を信じることから信仰が始まるのです。主イエス・キリストを真の神であり救い主と信じる私たちはこの生誕物語を信仰として受け止め、神の救いの実現に際して、欠くことの出来ない大切な出来事として捉え、信じて伝え続けなければなりません。神の右に座して、神と等しいお方が、肉を取って、私たちと同じ人間となって下さったからこそ、私たちの救いがあるのです。

イエス様が救い主としてお生まれになることは、昔から旧約聖書の預言者によって伝えられて来たことでした。神様ご自身が創造され、何よりも愛された人間が、神様から離れて罪の中で悲しみ・苦しむのを見て、何とか人間を罪の中から救おうとされました。その神様の救いのご計画の中心がイエス様の誕生でした。

昔から、神様を信じる沢山の人々が、神様が一緒にいてくださることで励まされ、辛く苦しいことを乗り越えることが出来ました。乗り越えられれば乗り越えられる程、神様を信じる気持ちを強く持てるようになっていきました。このように神様が共にいて下さり、守ってくださることは、神様の働きとして、今も私たちにも向けられています。

私たちは、聖書を通して神様の御言葉を聞き「天のお父様」と、親しく神様にお祈りすると、神様は、「インマヌエル:神様が私たちと一緒にいてくださる」ために聖霊を私たちのもとに遣わして下さり、私たちが健やかに成長する力を下さいます。

このイエス様の生誕によって、人々が罪から救われて神の国に入るという、確かな救いへの希望が与えられるようになりました。

このようにして始まったイエス様のこの世でのご生涯は、私たちと同じ肉を取られ、私たちと同じ人としてお生まれになり、私たちの救いのために歩まれたものでした。仮の姿ではなく、真の人として、痛みを感じて、苦しみ、十字架にかかり、自分たちでは決して拭い去ることの出来ない私たちの罪を負って下さいました。それは、まさに私たちを愛してくださっている神の御計画そのものなのです。

今日のこの、イエス様の生誕物語「キリストの受肉の神秘」こそ、その内容と意味を、大切な信仰の事柄として、家族や子どもたち・孫たちに伝え続ける責務を、私たちは託されているのです。

そのおひとりお一人の家族への伝道の働きが、一生を通しての天国への旅立ちの準備を形作っていくのです。

お祈りを致します。

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キリストの復活

イースターCS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌147番
讃美歌151番
讃美歌148番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 12章1-6節 (旧約聖書1,079ページ)

◆救いの感謝
12:1 その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。
12:2 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」
12:3 あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。
12:4 その日には、あなたたちは言うであろう。「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し/気高い御名を告げ知らせよ。
12:5 主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。
12:6 シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」

新約聖書:マタイによる福音書 28章1-10節 (新約聖書59ページ)

◆復活する
28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

《説教》『キリストの復活』

今日はイースターです。主イエスが私たちの罪のために十字架に架かって死なれて3日目によみがえられた、復活されたことをお祝いする『復活祭』です。それを英語でイースターと言います。皆様と共におめでとうとお祝い致しましょう。

さて、今日は先ほどお読みした聖書箇所から主イエスの「復活」について考えてみたいと思います。そのためにマタイ福音書を少し前まで遡って、主イエスのご受難、十字架の経過を少し振り返って見たいと思います。

26章で主イエスは最後の晩餐を終られて、弟子たちを連れてゲッセマネへ行き、父なる神様に血の滲む祈りを捧げられました。すると、裏切りのユダに先導されたユダヤ宗教指導者の差し向けた兵士や大勢の群衆に主イエスは捕まえられました。そして、ユダヤ教の大祭司カイアファのもとで尋問を受け、続いて、ローマ帝国の総督ピラトから裁判を受けられたことが書かれています。そして、総督ピラトによる裁判が行われ、主イエスに何の罪をも見いだせなかったものの、ユダヤ群衆から異常な圧力を受け主イエスに死刑の判決を下します。そして主イエスは十字架につけられ、直前の鞭打ちの苦しみや痛みも相まって6時間ほどの短い時間で息を引き取られました。その主イエスの亡骸をアリマタヤのヨセフが引き取り、自分のために準備した新しい墓にご遺体を葬り大きな石で墓の入口を塞ぎました。そして、過越祭の終わった三日目の朝に、マグダラのマリアが、その主イエスの墓に行ったところが、今日の主イエスのご復活の聖書箇所です。

因みに、新約聖書の中には主イエスが様々な奇蹟を行われる記事があります。特に主イエスが死んだ人を生き返らせる奇蹟物語は有名で、皆さんもよくご存知ではないでしょうか。なかでも、ルカ福音書7章の「ナインのやもめの息子のよみがえり」、マルコ福音書5章の「会堂長ヤイロの娘のよみがえり」、そして、ヨハネ福音書11章の「ラザロのよみがえり」の3つの死からのよみがえり、奇蹟物語がよく知られています。これらは、主イエスが死人を生き返らせた奇蹟物語ですが、これら蘇り・生き返る物語は今日の主イエスご自身の「復活」とは全く意味が違います。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書は、それぞれ特徴があります。例えば、主イエスがお生まれになった降誕記事であるクリスマス物語を省略するマルコ福音書や“ロゴスは肉となってわたしたちの間に宿られた”と抽象的な表し方をするヨハネ福音書がありますが、この主イエスの「復活記事」を省略する福音書はありません。四福音書すべてが必ず主イエスの復活記事を書いていることからも、聖書にとって主イエスの「復活」が極めて重要な物語であると理解できます。主イエスの復活こそが、キリスト教の中心テーマであり、最も大切な主イエスによる救いへと繋がっているのです。

四福音書すべてに記されている主イエスの復活記事は通常2つの形に分類されます。主イエスのご遺体が墓の中にはないことを記し、間接的に主イエスの復活を物語る「空の墓物語」がまず一つの形です。そして、もう一つは復活の主イエスが弟子たちに御姿を現されたことを記す、顕微鏡の「顕」に現われると書く「顕現物語」が二つ目です。

1節の「週の初めの日」とは、金曜日に十字架で死なれ葬られた主イエス復活の日のことで日曜日です。この日曜日の朝に主イエスの墓を訪れた者として、マタイ・マルコ・ルカ3つの共観福音書が複数の女性たちの名前を挙げています。ここで「もう一人のマリア」とは、間違いなく主イエスの母マリアと考えられていますが、何故「イエスの母マリア」とせずに「もう一人のマリア」とマルコが書いているのか意図は不明です。このマタイ福音書では婦人たちが墓へ行った理由は記されていませんが、他の共観福音書によると、それは過越祭の前の十字架刑のために急いで葬られた主イエスの未完成に終った葬りを完成させるためであったと思われます(マコ16:1)。

マグダラのマリアは、2節にあるように、天から下ってきた天使に「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」と主イエスの復活とガリラヤでの再会の約束まで告げられ、そのことを弟子たちに告げ知らせる様に命じられました。

主イエスの復活の様子は、四福音書それぞれの記事によれば、先ず空の墓が発見され、主イエスの亡骸がなくなっていたこと、その次には天使による御告げ、これは天の上から行われたことであるとの知らせであり、最後に復活の主イエスの顕現、つまり人々の目に見えるお姿でマグダラのマリアだけでなく弟子たちを始め多くの人々に姿を現されたということでした。

天使の言うことを畏れながらも喜んで聞いたマリアが、このことを弟子たちに知らせようと墓から走り出すと、何と死なれた筈の主イエスが、行く手に立って「おはよう」と声をかけて来られました。

マグダラのマリアは、ルカ福音書8章から登場して主イエスのガリラヤからの宣教の早い時期から付き従って旅をするようになりました。主イエスのことを最も慕う女性の一人でした。主イエスが十字架で処刑され、弟子たちも逃げ去っていった中で、主イエスが息を引き取られる最後まで見届けました。そして、日曜日の朝早く、押え切れない気持で、墓へ行ったのです。

神様を信じる信仰には、“サル型”と“ネコ型”があると言われています。サルは自分の子供を運ぶ時、子ザルを母ザルのお腹にしっかりとしがみつかせます。母ザルが自分の手で子ザルを抱えることはありません。子ザルは掴んでいる手を離したら終わりです。従って、サルの子供は必死で母ザルにすがりつくことになります。一方、ネコの子供は移動する時、母ネコが子ネコをくわえて運びます。子ネコはすがりつこうにも四つ足ともブランブランです。力を抜いて、お母さんにお任せなのです。信仰は、サルの子のように自分の力でしがみつく信仰と、ネコの子のように、お任せしてしまう、お委ねする信仰とがあると言えます。私たちの信仰は、自分の力で必死にすがりつくような信仰ではなく、神様を信頼し切って、安心して自分のすべてを神様にお委ねできるような信仰へ変えられなければならないのです。

自分からすがりつく信仰は頑張らなければならない信仰です。一生懸命努力しなければならない信仰です。それは疲れます。いつも自分の方からすがりついていなければならない。自分が手を離したら終わりです。信仰のために自分が、頑張らなければならない。善い行いや努力をしていないと、神様に愛してもらえない、見捨てられてしまうのではないだろうか。そんな不安が心の中に大きな場所を占めます。その結果、自分は神様に愛されていないのではないだろうか、見捨てられてしまうのではないだろうか、と不安になっていないでしょうか。教会での奉仕や良い行いが充分にできれば安心します。しかし、教会奉仕や自助努力が足りないと思うと落ち込んだりしてしまうのではないでしょうか。

頑張らないと神様に愛されない人生になっていないでしょうか。もちろん、何事に対しても努力するのは極めて大切です。しかし、努力の結果で、神様が私たちを愛されるのか、愛されないのかが決まるのではありません。神様の愛とは、そんなものではないのです。

あなたは愛されている存在だ。聖書は、私たちに、そのように語りかけます。たとえ善い行いができなくても、何もできなくても、結果が出せなくても、神様はあなたを一方的に愛してくださっている。その手で、しっかりと掴んでいてくださる。だから、私たちは、“良い子でいなければ”と力む力を抜いて、“神様、感謝します。こんな私ですが、よろしくお願いします”と、神様を信頼し、お任せする。お委ねする。そこに安心が生まれます。喜びが生まれます。

そんな人生の安心と喜びに気づかせるために、復活した主イエスは、マリアに「おはよう」と声をかけられたに違いありません。「イエス様はどこ?」「幸せはどこ?」「救いはどこ?」と、必死に願い求めているマリアに声をかけられました。

マタイ福音書での主イエスの本当の栄光とは十字架で私たちの罪のために死なれたことだけではなく、十字架で死なれても復活されて、天に上げられ、天に存在されていることです。

「復活」とは一度死んだ者が再び息を吹き返すという現象、「生き返り」や「蘇生」とは全く違います。「復活」とは主イエスが初めてなさった特別な御業なのです。この世には復活を認めない人たちも沢山います。クリスチャンを名乗る人の中にさえ復活を認めない人たちもいるのです。

復活を認めない人たちが主イエスの墓が空であった理由を大きく分けて二つ挙げています。まずその第一は、主イエスの親しい者たちが運び去ったというもの。第二は、主イエスの敵が盗んだというもの。いずれも問題があります。第一の説は、弟子たちはこの時復活をはっきりと信じていなかったし、ユダヤ人を恐れて隠れていたうえ、墓は数人の番兵が番をしており、たとえ亡骸を墓から運び出そうとしても難しかったでしょう。第二の「敵が盗んだ」はそうしなければならない動機が見当たりません。何より、弟子たちが主の復活の宣教を開始した時、主のからだを敵が提示して反論することができなかったことでも分かります。これだけでも主イエスの復活が確認されるんではないでしょうか。逆に復活の裏付けとなるのは、四福音書とⅠコリ15章に記されている主イエスの合計10回に上る顕現物語ではないでしょうか。それら一つ一つの記事は、それぞれが独立して多様性を持っています。後になって調和させたとは考えられません。主イエスが復活されたという主要な点においてはすべての記事が一致しています。

また多くの人々に復活の主イエスが現れた状況や、主イエスの十字架を見て逃げ去ってしまった弟子たちが復活の主イエスに出会って大きな変化が起きたことは否定できません。何が弟子たちを逃げ隠れする者から殉教を恐れず大胆に福音を語る者に変えたのでしょう。弟子たちに勇気と確信を与え、伝道者とさせたのは復活の主イエスに出会ったからに他ならないのです。また、それまでは、ユダヤ人として土曜日の安息日を守っていた弟子たちが、なぜ土曜日に代えて日曜日の主の日を守り、また聖餐を祝うようになったのか、そして1節にあるようにこの日が「週の初めの日」になったのか。これらはみな、キリストの復活によってなされたものと考えるべきです。洗礼“バプテスマ”は、キリストと共に葬られ、よみがえったことのしるしです。この主イエスの復活は神様の御業であり、キリスト信仰の基礎なのです。

そして、主イエスがなされたこの復活は私たちにも将来起きる、終末の時にすべての人々に起きる。その終末の時には、生きている人々だけでなく、死んだ人々も復活すると新約聖書は語っているのです。

復活した身体がどんなものなのかについては、聖書では詳しくは語られていません。しかし、主イエスの復活が私たちの救いと密接に結びついていることは、ローマの信徒への手紙4章25節にある様に「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」という言葉からも明確に分かります。

私たちの罪を贖うために十字架で死なれた主イエスは復活されて、今も私たちが義とされるため、私たちを罪から救うために生きて働いておられるのです。

復活を信じることは、主イエスを信じる信仰、キリスト教信仰の中心なのです。神様の恵みである主イエスの復活なくしてキリスト教信仰はないのです。この主イエスの復活を信じるか、信じないかでキリスト教信仰が大きく変わると言えます。この復活信仰は、私たちが努力して身に着け、己の知識とするものではないのです。マグダラのマリアが復活の主イエスに出会ったように、主イエスから一方的に与えられる愛によるのです。私たちが主イエスの呼び掛けに応える時に与えられる一方的な信仰の恵みなのです。

最後にヨハネによる福音書20章27節、新約聖書210ページをお読みします。「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」

復活の主イエスは疑い深い弟子のトマスだけでなく、私たちみんなに『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛けているのです。疑うトマスにも優しく呼び掛けられる復活の主イエスは、今も生きて私たちを愛して『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛け続けられているのです。

深く信じる信仰を与えられ、「祈りの家」としての教会に仕え続けることができますよう。

お祈りを致します。

イースター(復活日) CS合同礼拝 (2021年4月4日 № 3747)

受付:興津晴枝
司会:齋藤 正
奏楽:吾妻愛子
前奏
招詞
讃美 147
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 13078節(交読詩編p.149 [赤司会・黒一同]
祈祷
讃美 500
聖書 イザヤ書 1216 (旧約 p.1,079)
マタイによる福音書 28章1-10節 (新約 p.59)
説教
「キリストの復活」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 148
聖餐式
献金 547 齊藤 紀
頌栄 543番
祝祷
後奏

 

あなたは地の塩、世の光

教会学校との合同礼拝

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌512番
讃美歌77番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 23章13節 (旧約聖書164ページ)

2:13 穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。

新約聖書:マタイによる福音書 5章13~16節 (新約聖書6ページ)

5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

《説教》『あなたは地の塩、世の光』

今日は、教会学校の生徒さんとご一緒に新約聖書マタイによる福音書の「山上の説教」を読みます。このマタイによる福音書の5章から7章までの間にあるイエス様の語られた「山上の説教」とは、5章1節の「山に登られた」という書出しから名付けられました。この「山上の説教」に比べて短いのですが良く似た説教がルカ6章17節以下に記されています。こちらは、「イエスは……山から下りて、平らな所にお立ちになった」と書き始められているところから「山上の説教」と、はっきりと分けるために「平地の説教」とも呼ばれています。

今日の「山上の説教」は、イエス様を信じてついて来た12人の弟子たちに山の上で語られたもので、この福音書に書かれているイエス様による5つの説教の最初のものです。イエス様が神の御子であり、救い主としてのご自身を深く自覚して、宣教・伝道の先頭に立って語られたものです。

既にこの時、イエス様のお名前はユダヤの国中に広まっていて、多くの人々がイエス様の説教を聞きに集まっていました。イエス様がガリラヤ伝道を始められた時の説教は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)でした。そして、この「山上の説教」では、既に天の御国に招き入れられた者たちに対して、その御国とは何であるかを説明されたのでした。

この「山上の説教」はまぎれもなく弟子たちと同じく私たちすべてのキリスト者に語られたものであり、第一にキリスト者の真の幸いとは何か、それは何処にあるのかが語られています。次いで、天の父なる神様を喜ばせるにはどうしなければならないかが語られているのです。

また私たちは、「山上の説教」のすべてが、イエス様ご自身を現わしていることをハッキリと知ることができます。また、それだけではなく、イエス様がモーセの権威をはるかに越える主権を持って、私たちを含めた新しい契約の民の心に、愛による本当の律法を刻み込んでくださっているのです。

この「山上の説教」で最も大切なことは、私たちがイエス様と本当に出会って、イエス様を知ることなのです。

聖書には、神様とは「光そのもの」であると書かれています(Ⅰヨハ1:5)。イエス様は、その「光そのもの」である神様を人々に示するために「世の光」として来られたのです。始めの5章13節と14節には、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」とイエス様は言われました。ここで、イエス様は「あなたがたは地の塩である」と「あなたがたは世の光である」と断言しています。「どうして地の塩なのか」という説明も、「どんな世の光なのか」という解釈もまったくないままです。

この「地の塩」とは何でしょうか。私たちは人間社会で生きています。学校や会社など周りの沢山の人たちと共に暮らしているのです。そんな中で学校や会社などに対する不平・不満があります。余り好きでない人と一緒に仕事をしなければならない会社、古いしきたりを守っているとしか思えない教会などがあるでしょう。そんな私たちに話しかけるように、イエス様は、弟子たちはこの世において「地の塩」の役割を果しなさいと命じられているのです。塩は味付けはもとより、食べ物が腐ることを防ぎます。その腐敗防止の働きがなければ、塩の存在する意味がなくなり、世の人々からも顧みられなくなります。弟子たちはこの腐敗して腐ってしまう世の中でしっかりと防腐剤の働きをしなければならないとイエス様は教えられているのです。

私たちが不平・不満を周りにぶつけると、周りを腐らせてしまうでしょう。腐らせるのではなく、むしろ周りの人々に対して腐らない様に働く防腐剤としての塩となりなさいとイエス様は言われているのです。

また、「世の光」とは何でしょうか。続く15節と16節には、「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と、キリスト者が世に輝く光として振る舞いなさいと教えられているように聞こえますがそうでしょうか。例えば、牧師個人が教会で光り輝くのでは教会は教会でなくなるでしょう。そうではなく光である神様に照らされ、その光を反射して輝けとイエス様は仰っているのです。

弟子たち、私たちはキリストという光を反射して世界を照らす光となる(エフェ5:8、フィリ2:15‐16)のです。自分が光として輝くのではありません。光であるイエス様が周りを明るく照らす時に、弟子たち私たちは、そのイエス様の光を反射して世界を照らす光となるのです。弟子たちや私たちキリスト者に、イエス様は闇を照らすご自身の光を反射して光り輝けと言われているのです。そしてまた、どんな小さな光でも「家の中のものすべてを照らす」のです。小さな光、小さな私たちが明るくなれば、この世界で周りの人々を照らすことが出来るのです。光として表現されるイエス様の弟子たちの使命は、人々の注意を自分に引きつけることではありません。光である天の神様の光を反射して神様の存在を人々に明らかにして、人々が神様をあがめるようになるお手伝いをするのです。

そして、16節では「あなたがた」と複数を用い、世の光を単数で表してありますが、この「あなたがた」の複数は共同体である教会を現わしているのです。一人一人のキリスト者は、このように光にも譬えられていますが、今日の聖書箇所では共同体である教会全体が、「地の塩」であり「世の光」として神様に仕え、共同の伝道を果たすようにイエス様から命じられているのです。神様の召しである伝道を忘れてしまう教会は、自分自身の塩気をなくし何の役にも立たないものになってしまうと言われているのです。

これらのイエス様の言葉は、このマタイ福音書の最後の28章で、力強く宣言されたあの大宣教命令、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:18-20)を導く言葉と言えます。

教会が本当に世の光であるのは、キリストを宣教する時のみです。知識や学問ではありません。生きて生活する中にあって、キリストを告げ知らせることが大切なのです。

最後に新約聖書329ページ、コリントの信徒への手紙第二 4章5節をお読みします。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」

私たち一人一人にとって、大切な人たち、身近な人たちに、この素晴らしい光であるイエス様を、この私たち自身の姿で伝えていく者とならせてください。

お祈りを致します。

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偽善と本当のこと

《賛美歌》

賛美歌7番
賛美歌24番
賛美歌280番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨナ書 4章1-11節

4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。
4:2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。
4:3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
4:4 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」
4:5 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
4:6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
4:7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。
4:8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
4:9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
4:10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
4:11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

新約聖書:マタイによる福音書 6章1-15節

◆施しをするときには
6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
◆祈るときには
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

《説教》『偽善と本当のこと』

わたしたちは幸せに生きたいと思います。幸せに生きたいと願っています。
ですが、今、私たち、幸せでしょうか。幸せですか?
誰もが幸せを願っています。でも、幸せって何でしょうか?
私たちが幸せを感じる時は、どんな時でしょう。
聖書は、どう考えているのでしょうか。聖書は、信仰、希望、愛が大切で、最後まで愛は残ると言っています。
幸せの根本は愛です。
愛が大切なのです。
とは言っても、愛ってなんなのでしょうか。
愛って、たとえば、自己愛という言葉があります。
それって、愛でしょうか。聖書が言う愛でしょうか。
それは違うでしょう。聖書が言う愛とは、対極なものです。
私たちが本当に求める愛も自己愛とは違うのではないでしょうか。
愛は自己愛を満たすことではありません。
けれども、私たちは愛されなければ、委縮し、いくら美辞麗句で、塗り固めても心は焼け焦げていくのではないでしょうか。ただ、その美辞麗句をいつのまにか求めてしまうということがあるかもしれません。
とは言っても、もし、いつもけなされたり、頭ごなしに言われたり、下僕に言うように言われたら、魂は焼け焦げて、涙すら枯れてしまうかもしれません。
そんな不幸なことってあるでしょうか。
愛って、何なのでしょうか。それを今日の聖書に聞きたいと思います。
そして、偽りではなく、愛を求めたいと思うのです。

今日の聖書は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」というイエス様のお言葉からはじまります。
これは、なるほどと思います。
ただ、善行、善い行いは大抵はだれかのためにすることです。ですから、人の前で行うことになるでしょう。
イエス様は、善い行いを人前でするなとおっしゃっているのでしょうか。
それは、違います。
イエス様は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」とおっしゃっています。
「見てもらおうとして」というのが問題なのです。
でも、それはこれ見よがしにするなという意味でしょうか。確かにそうも言えます。ただ、それは人に「見てもらおうとして」善い行いをすれば、あざといので人にその意図がばれてしまうから、「見てもらおうとして」善い行いをするなということなのでしょうか。
それも違います。
そもそも、善い行いとはなんでしょうか。
イエス様は続けてこうおっしゃっています。
「さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」と。
すると、善い行いとは「天の父」、神様から「報い」を受けるためにするのでしょうか。それは、「善いこと」をすれば、何か神様から善いことが来るからするのでしょうか。
日本には、「情けは人のために非ず」という言葉があります。
これは、人に情けをかけるのは、巡り巡って自分のためになるから、人のためでなはいという意味です。そう、自分のために善い行いをするのです。
でも、それって本当に善い行いでしょうか。情けでしょうか。自分のために情けをかけるのですから、それは、結局は単に自分の利益のためで、なんの善い行いでもなんでもないのではないでしょうか。
見てもらおうとして善い行いを行うこと、それは、自己愛を満たすだけのことにすぎないのです。
そうではなくて、見てもらおうとしないで、人前で善行を行うことは、それは愛の問題なのです。
人のため、相手のためを思ってすることです。善い行いには愛が伴うのです。
でも、それは一方的なものではありません。疲弊していきます。愛し合うことが大切なのです。
イエス様は、こうもおっしゃいました。
「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」
これもなるほど、イエス様のおっしゃる通りだなと思いませんか。
これは、施しの話です。
善い行いの中で、具体的な話です。それをたとえで、こうしてはならないとおっしゃっています。
それは、「偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」というお話です。
人にほめられようと会堂や街角で、ラッパを鳴らしてしていた人がいたんでしょう。でも、今だって、街角で歌を歌っている人はいます。そういう人たちがいけないといっているのでしょうか。
そんなことをイエス様はおっしゃっておられません。
そのラッパを鳴らすということは、宗教的な意味合いがあったのでしょう。ラッパを鳴らすことでいかにも神様に敬虔な人物であるかのように自分を見せていたのです。
そういう施しはしてはならないとイエス様はおっしゃっているのです。結局、自分のための自己愛のための施しだからです。

ところで、イエス様は、お生まれになったあと、どこに行ったでしょうか。その時の王、ヘロデ王は、ユダヤ人の王が生まれると聞いて、その子を探し出して殺そうとしました。イエス様の父ヨセフに天使のお告げがあって、ヨセフはイエス様と母マリアを連れて、エジプトに逃げました。
そこには、父ヨセフのイエス様に対する愛がありました。
ただ、ヨセフとマリアとイエス様の親子は、難民となったのです。当然、施しを受ける立場になったことでしょう。困窮を極めたはずです。人から舐められ、人からの上から目線での施しや、笑われて、さげすみ、善意と称する偽善にもあってきたはずです。身をもってイエス様はそれを体験していたはずです。
そこで、イエス様を支えたのは、神様からの愛と、お互いを愛する愛です。
イエス様は、ヘロデが死んで父ヨセフの故郷イスラエルのナザレに帰ってきました。
ところが、父ヨセフは、早くに亡くなってしまったようです。
イエス様には、母マリアと多くの兄弟姉妹がいました。
イエス様は長男でしたから、母マリアと兄弟姉妹たちを食べさせ、彼らが独り立ちし、母マリアも生活していける段取りをつけてから、伝道にでたのです。もちろん、十戒の「父と母を敬え」という律法があります。それを守ったということもあるでしょう。
でも、大切なのは、イエス様が家族を愛したことです。兄弟姉妹は少なくとも6人以上いたと考えられます。その兄弟姉妹を独り立ちさせるには、相当のご苦労があったはずです。さらに、母マリアがイエス様が伝道にいかれても、食べて行けるようにもなさったのです。どれほどのご苦労がおありだったのか。神の子イエス様が、本当にこの世界で人間として生活され、ご苦労され、律法を守られた、その背景には、イエス様がきちんと家族を愛した愛があったのです。そして、伝道にいかれたのです。神様から愛され、人を愛され、神様と、人とお互いに愛し合う愛がそこにあったのです。
ところで、施しについて、イエス様は、こうおっしゃっています。
「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
イエス様のおっしゃる通り、施しは人の目につかなくても出来ます。イエス様は、エジプトにいたとき、善意と称するさげすみの、あるいは自己満足な施しをうけたかもしれません。イエス様は、現実を知っておられるのです。
ただ、ここでも「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」とおっしゃっています。
神様から、報いを受けるために施しをするのでしょうか。
イエス様は、今日の聖書の中で、「主の祈り」を私たちに教えてくださいます。そのお祈りのはじまりは「天におられるわたしたちの父よ、」です。
「父よ」と祈れとおっしゃいます。
たとえば、子供が何か出来たときに、「お父さん、見て見て」とくると思います。そしたら、お父さんは「すごいね。よくできたね。」と言うのではないでしょうか。
それはいけないことでしょうか。
そうではありません。
子供は純粋にお父さんにほめられたいと思っていると思います。それをほめるのは愛です。
「偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」とイエス様はおっしゃっていますが、「偽善者たちが人からほめられよう」とおっしゃっています。
偽善者たちは人からほめられるためにいかに自分が神様に敬虔であるかを見せようとします。それは善い行いでも施しでもなんでもありません。イエス様はこうもおっしゃいました。「はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」
これは、何を指しているのか、少し、難解ですが、実は、とても単純で、イエス様のおっしゃるとおり、彼らは報いを受けているのです。
それは、自己愛を満足させることです。
善い行いも施しもすべて、自分の自己愛を満足させることです。そこには愛する対象はありません。すべて自分の利益のみです。なんとむなしくさみしい、魂が焼け焦がれる状態ではないでしょうか。
しかし、私たちにはそうなる誘惑がいつも転がっています。
人から美辞麗句を言われたい、善い人だと思われたい、あるいは敬虔な人だと思われたい、そうやって、偽善の罠が待ち構えているのです。
ただ、偽善には、もう一つあるのではないでしょうか。
自分を綺麗に、良く見せようとするほかに、綺麗なものは、すべて建前で、綺麗事だと考えることです。
一見、真実のようにも聞こえますが、果たしてそれが真実でしょうか。これも偽善なのではないでしょうか。
本当に、善い思いからしていることや敬虔さはかけらもないでしょうか。
イエス様は、施しについて、「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」とおっしゃいました。
神様からの報いとは、子供がお父さんからほめられたいというの似ているのではないでしょうか。父なる神様が喜んでくださる、父なる神様にほめられたいと。
そして、神様を、あの人を愛するから助けるんだという思いもあるのではないでしょうか。それは善意です。

しかし、この当時の人々は、とくに律法を厳格に守り、敬虔さを売りにしていたファリサイ派や律法学者には、その愛を忘れて、自己愛を満たすことだけにすべてを費やしていったのではないでしょうか。

例えば、赤信号があります。
赤信号ではわたってはならない
それは法律です。
もしかしたら、無機質なものかもしれません。
秩序のためであることは確かです。
でも、赤信号は、人を殺さないためにある、人を傷つけないためにあると考えたら、全く違って読めるのではないでしょうか。人の命を守るためなんだって。それにだれも人を殺したくはないからです。
そういう意味で、愛の法律だって考えることも出来ます。
でも、ファリサイ派や律法学者たちは、律法を厳格に守り為にどんどん無機質になっていったのです。
律法は神様が制定されたものです。
無機質なわけがありません。
例えば、十戒の第1戒「あなたはわたしの他に、何者をも神としてはならない」第6戒
「あなたは、人を殺してはならない」
この二つも神様の「あなたはわたしの他に、何者をも神としないでほしい」「あなたは人を殺さないでほしい」という神様の思いが込められているのです。
それなら、大切なのは、無機質に厳格に守ることではなくて、神様の思いに応えること、受け取ること、それが神様の求めておられることなのです。神様は一方的なことをのぞんでおられるのではないのです。神様の思いが先にあって、それに私たち人間が応える、神様が私たち人間を愛してくださって、私たちも神様を愛する、それを神様は望んでおられるのです。
しかし、私たちは、神様を愛することも、人も愛することも出来ないでしょうか。
そう、イエス様が十字架につけられるまではできなかったのです。だから、イエス様は十字架につけられなければならなかったんです。
善い行いをしているつもりで、実は、人に見られるためにやっていたり、神様に対して敬虔であるように見せかけて、自己愛を満足させるためであったり、愛し合うということは一つもなかったのです。
そこに愛がなかったのです。だから、なんの罪もない神の子イエス様が私たちの代わりに罰を受け、十字架につけられ死なれたのです。そして、神様によってイエス様はその死から復活されました。
愛のない私たちの罪のために、イエス様は十字架につけられて、その死から復活されました。それは愛のない私たちの罪が赦されるためでした。そこに本当の愛があるのです。
ただ、それは、赦されたんだから、何をしても許されるということではありません。たとえば人を何人も殺したり、貶めたりしても、それを悔い改めなくても何をやってもいいなんてことにはならないんです。
むしろ、愛せない自分の罪が赦されたことを知った時、イエス様の十字架と、その死から復活が自分のためであったことを知ったとき、私たちは変えられていくのです。赦しには変化が伴うのです。
少しづつ神様を、人を愛することが出来るようになってくるのです。
神様に愛されて、神様を愛し、私たちは人間同士少しずつ愛し合うことが出来るようになるのです。
今日の聖書ある主の祈りのはじめは、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけから始まりますが、「わたしたちの」と祈るのです。そこに私たち同士が愛し合うことも秘められているのです。
主の祈りは、愛の祈りです。
イエス様は、現実を知っておられます。
だから、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」というお祈りがあるのです。私たちの信仰や愛は、精神論ではないのです。
次に「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」というお祈りがあります。
これは難解です。
何をやられても赦すということを意味するでしょうか。
それは違います。
もし、家族が殺されようとしている、強姦されようとしている、それをすることを許すのでしょうか。それは違います。
殺しに来る相手とは、全力で命をかけて戦わないと勝てません。その時、自分が殺されるかもしれません、そうしなければその相手は止まらないかもしれません。強姦をしてくるあいてもそうです。
ですが、戦わなければ家族の愛は壊れます。
もとに戻ることはないでしょう。
赦しには変化が伴うのです。
悪いことをしても、反省もしない人がいます。でも、それは、既に報いを受けているんじゃないでしょうか。
私たち人間は、赦すことはできないかもしれません。でも、神様は、反省して悔い改めた人をお赦しになるでしょう。
ということは、反省も悔い改めもしないということ自体が裁き、報いになっているのです。
それに、私たちが思う負い目や過ちは、私たちの見る目でしかありません。例えば、私のお祖父さんでは、よく怒鳴る人でした。僕は怒鳴られたことはありませんでしたが、父はとても苦しみました。
一度、理不尽におばあさんに怒鳴っているのを見た私は、お祖父さんにやめろと怒鳴りました。すると聞こえないふりをしたのです。
私はその時、思いました。自分は怒鳴って他の人に嫌な思いをさせているのに、しかも弱いおばあちゃんに、なのに、自分が怒鳴られたら逃げるのかと。自分が嫌な思いを人にさせているのに、自分がやられるのは拒否するのかと。
今日の聖書の最後に書かれている「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」というイエス様のお言葉は、まさにそのことを指しているのではないかと。
確かに、私たちの目に移る負い目や過ちは自分の感覚でしかないかもしれない、でも、その自分の感覚で裁かれるのではないでしょうか。だから、偽善者たちはもう報いを受けているのです。自己愛を満足させるという報いを。
でも、その負い目、過ちを認めるなら、そのことで人を裁くのはやめにしよう、赦そうとなるんじゃないでしょうか。
人に怒鳴るなら、人から怒鳴られても赦そうと。
僕たちがしなければならないことは、神様を愛して、人を愛して、そして愛し合うことです。そして、本当の負い目をイエス様があの十字架で磔にしてくださった私たちの神様を人を愛せなかった自分です。
だから、今は、そのイエス様の十字架とその死からの復活を信じる時、少しづつでも神様を愛し、人を愛し、お互いを少しづつでも愛せるようになるのです。そのために全力で戦うのです。愛の戦いです。神様を愛し、人を愛し、お互いを愛し合うそれが本当の幸せです。だから、この一週間もそうしてすごしてまいりましょう。