私は天からのパン

主日CS合同礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌187番
讃美歌354番
讃美歌532番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミヤ書 31章3節 (旧約聖書1,234ページ)

31:3 遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ。

新約聖書:ヨハネによる福音書 6章41-58節 (新約聖書176ページ)

◆イエスは命のパン

6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
6:42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
6:43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
6:46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
6:47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
6:48 わたしは命のパンである。
6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
6:52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。

《説教》『私は天からのパン』

皆さんご存知の様に新約聖書にはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書があります。四つの内のマタイ・マルコ・ルカの三つの福音書を纏めて共観福音書と呼びますが、本日のヨハネ福音書は共観福音書とちょっと別扱いをされています。それは、このヨハネ福音書は、三つの共観福音書と書き方がかなり違うからです。一例をあげると、皆さんがお馴染みの馬小屋で母マリアからイエス様が産まれるクリスマス物語がありません。その代わり、ヨハネ福音書1章1節から、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあり、14節で、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と、イエス様の誕生を極めて抽象的で難しい描き方をしています。今日は、その少々難しいヨハネ福音書の16章からのお話です。

今日の41節でイエス様が、追いかけて来た沢山の人々に、「わたしは天から降って来たパンである」と言われました。その言葉を聞いた群衆は「天から降って来た」という言葉に対してつぶやき始めます。ここの「つぶやく」とはイエス様の言われたことが理解できず信用できずに、疑いを言い出したということです。それは、何故かと言うと、この時イエス様の言葉を聞いていた人々は、イエス様のことをよく知りませんでした。言葉の意味もよく理解できませんでした。

イエス様のこの言葉を聞いていた人々の中に、イエス様の父親である大工のヨセフと母親であるマリアを知っている人がいたのです。その父と母から生まれたイエス様が、天から降って来るわけがない。イエス様が嘘を言っていると思ったのです。イエス様の言葉を聞いても、全く言葉の意味が分からない人々は、何とか自分が知っている知識で理解しようとしたのです。でも、自分の知っている知識では、イエス様の言っていることは分かりません。結局、人々は「何でそんなことを言うのか」とか、「何でそんなことが出来るのか」とつぶやくことしか出来ませんでした。

イエス様は、そのような人々に向かって、「つぶやき合うのはやめなさい」と注意し、「わたしは、天から降って来た生きたパンである」と言い、51節で、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」。イエス様こそ命のパンである、と言われていたのが、ここでは、そのパンとは「わたしの肉のことである」と言われました。パンが肉へと変えられましたが、いずれにしても、イエス様こそが、私たちに永遠の命を与えるまことの食べ物であることが語られているのです。そして、この話を聞いた群衆は「イエスの肉を食べるだって、人の肉を食べろというのか、そんなこととんでもない」と大騒ぎになったのでした。

53節には、イエス様は、「肉を食べるだけでなく、その血を飲め」とまで語られています。かなりグロテスクな話であり、気持ちが悪いと感じる人も多いと思われます。これは私たちが気持ち悪いと感じるだけでなく、この時イエス様の言葉を聞いていたユダヤ人たちにとっても、とんでもない話でした。旧約聖書には、動物の血を飲んではならない、という教えがあります。動物の肉を食べる場合も、その血は地面に流さなければならないとされていたのです。そもそも、動物の血を飲んではならないと旧約聖書に教えられていたのは、血にこそ命が宿っていると考えられていたからです。命は神様のもので、生き物に神様が命を預けられると言うのが考え方です。だから動物の肉を食べ物とする時にも、命は神様にお返ししなければならない、と律法で教えられていたのです。まして、人の血を飲むなどということは考えられないことでした。ですから、この後の60節にはこう語られています。「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』」。イエス様に従って来ていた弟子たちの中にも、このことによってつまずいて去って行った者がいたのです。当時のユダヤ人たちからも、とんでもない、と思われるようなことをイエス様はおっしゃったのでした。

これは、神様が、独り子であるイエス様の命を、私たちの救いのために犠牲にし、与えて下さることを言われているのです。イエス様の命である血が、私たちの救いのために流されるのです。このイエス様の十字架の死による救いにあずかることは、イエス様の命である血を飲むのと同じことなのです。神様がその独り子イエス様によって実現して下さった十字架の救いは、その肉を食べ、血を飲むことにおいてこそ私たちの現実となるのです。

これは明らかに、私たちがあずかる聖餐を意識してのことです。洗礼を受け、主イエス・キリストと結び合わされた者は、聖餐のパンと杯にあずかることによって、独り子なる神、主イエス・キリストの肉と血とをいただくのです。この聖餐こそ、天から降って来た生きたパンであるイエス様を食べて私たちが生かされるために神様が備えて下さった食卓です。洗礼を受け、聖餐にあずかっている私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しと永遠の命が自分に既に与えられており、新しい命を生き始めていることを確信することができます。

ですから主イエス・キリストを信じて救いにあずかるというのは、単にイエス様が神様から遣わされた救い主・キリストだという教えを受け入れる、ということではなく、私たちがイエス様の肉を食べ血を飲んで、心と体の全体においてイエス様と結び合わされ、一体となることなのです。私たちは抽象的で観念的に信じるのではなく、具体的で現実的に生きて聖霊として働いおられるイエス様を信じ、救いにあずかるのです。そのことを言い表しているのが、主イエスの肉を食べその血を飲むという言い方なのです。

この聖餐は洗礼を受けた者があずかるものです。洗礼は私たちの信仰の決意表明ではありません。洗礼を受けることによって私たちはイエス様の十字架の死と復活の命にあずかり、聖霊の働きによってイエス様と結び合わされ、一つとされるのです。洗礼を受けた者はイエス様との間に56節の「その人はいつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」という関係を与えられるのです。洗礼においてイエス様と結び合わされ、深い関係を与えられた者が、聖餐においてイエス様の肉と血とにあずかることができるのです。

主イエス・キリストが天から降って来た独り子なる神であると信じるとは、46節にある、「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」と別の言い方を信じることです。これは先程振り返った1章のすぐ後に続く18節の言葉、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と同じことを語っているのです。独り子なる神であるイエス様によってこそ私たちは父なる神を示され、信じることができるのです。47節には、「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」と語られています。イエス様を信じる者は永遠の命を与えられるのです。なぜなら、48節でイエス様が言っておられるように「わたしは命のパンである」からです。主イエス・キリストは、天から降って来て世に命を与えるパンです。父なる神が天から与えて下さるまことのパンです。このパンを食べる者は、永遠の命を得るのです。

私たちの中には、イエス様が天から降って来られた者、つまりまことの神が人間となった方だという教えにはとまどいを感じる方々もいるのではないでしょうか。イエス・キリストの教えはすばらしいし、弱い者、貧しい者と共に生きたその歩みは見倣うべきものである。だから、人間として立派な教えを言われたイエス様を尊敬し、その生き方を手本として歩もうというのは分かる、でも、人間として父ヨセフと母マリアから産まれた人間であるイエスが天から降って来た独り子なる神だと言われるとよく分からなくなったしまう。分からないというのは、そういうことは信じられない、受け入れ難い、ということです。

44節の「父が引き寄せて下さる人」というのは、聖書のみ言葉をしっかり聞く人です。聖書から神様の教えを受けることを通して、イエス様が独り子なる神であることを信じることができる人です。それを信じることができずにつぶやきが生じるのは、聖書から神の教えを聞こうとせず、自分の考え、感覚、あるいは人間の常識によってイエス様のことを判断しようとするからです。人間の感覚や常識からすれば、ヨセフの息子である普通の人間イエスが天から降って来た独り子なる神である筈はないのです。

信仰者とは、洗礼を受け、聖餐にあずかることで、イエス様の肉を食べ、血を飲み、イエス様と一つにされ、イエス様が内にいて下さり、自分たちもイエス様の内にいる、という一体的な関係に生きている者です。そして、教会とは、そのようにキリストと一体とされた者たちの群れ、キリストという頭のもとに集められ、洗礼において一つとされたキリストの体であり、聖餐においてキリストの肉と血をいただき、それによって養われつつ歩んでいる群れなのです。

洗礼は、主イエス・キリストの体である教会に結び合わされる、その最初の時にあずかる一度限りの決定的なしるしですが、聖餐は、その恵みが今確かにこの自分に与えられていることを繰り返し体験させてくれるものです。聖餐にあずかるたびに私たちは、イエス様の肉を食べ、血を飲み、主イエス・キリストと結び合わされ、その救いをこの体をもって味わい、イエス様を復活させて下さった父なる神様が、イエス様と一つにされた自分をも終りの日に復活させ、永遠の命にあずからせて下さるという希望をその都度新たにされるのです。

命のパンである主イエス・キリストを食べることで、私たちは永遠の命に生きる者とされます。私たちが食べ物から栄養を得て、健康で元気になるように、イエス様、神様のみ言葉を食べることで、イエス様を信じる信仰に栄養が与えられ、心が元気で健康になるのです。そして、永遠の命の恵みに生きるように導いて下さいます。今日も、私たちはみ言葉によって命のパンを頂きました。元気になって新しい一週間を歩みだしましよう。

お祈りを致しましょう。

言(ことば)は神であった

クリスマスイヴ礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌98番
讃美歌121番
讃美歌109番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 9章1-5節 (旧約聖書1,074ページ)

9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
9:2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。
9:3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

新約聖書:ヨハネによる福音書 1章1-14節 (新約聖書163ページ)

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

《説教》『言(ことば)は神であった』

このヨハネによる福音書1章1節にある「初めに言があった」とは謎のような分かり難い言葉です。まず漢字で「言」と書いて、これを「ことば」と読みます。この読み方も初めから、この福音書を分かり難くしている理由かも知れません。そんな多くの謎も、先へ読み進んでいくと少しずつ解きほぐされ、語られていることが分かってきます。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」、これは、何のことを言っているのか、14節を読むとはっきりします。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。ここで「肉となって」とあるのは「肉なる人」つまり「人となって」という意味です。神と共にあり、それ自身が神である、初めにあった言、その言が肉となって私たちの間に宿られた。それは、まさに神の独り子イエス・キリストのことです。その栄光が父なる神の独り子としての栄光だったと言われていることからもそれが分かります。初めにあった言とは、神の独り子であられる主イエス・キリストのことなのです。神の子である主イエスが、全てのものの初めに、父である神と共におられたと語っているのです。2節にはもう一度、「この言は、初めに神と共にあった」と繰り返されています。そして3節には、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とあります。父なる神と共におられた独り子主イエス、「言」であるその方によって、この世の全てのものは成ったのです。「成った」とは「創造された」ということです。父なる神と共におられ、ご自身も神であられる独り子主イエスによって、この世の全てのものは造られた、主イエスは、全てのものをお造りになった創造者なる神である、ということをこの福音書ははっきりと語っているのです。

それは、天地をお造りになったのは父なる神ではなくて主イエスだ、ということではありません。天地を創造なさったのは父なる神です。後に肉となって私たちの間に宿って下さり、人間となって、この世界に来て下さった主イエスは、世の初めから、父である神と共におられ、ご自身もまことの神として天地創造のみ業に関わっておられた、それが、この福音書が宣べ伝えようとしていることなのです。

1節、2節で使われている「初めに」という言葉は、旧約聖書の創世記第1章1節の「初めに神は天地を創造された」と連動しているのです。神による天地創造こそが、聖書が語るこの世界の「初め」なのです。

「言」による天地創造とは、天地創造においても、神の独り子である主イエス・キリストが神と共にあって、私たちに語りかけてくださっておられるということです。言葉というのは必ず語りかける相手があるものです。天地創造における神の言葉は、虚しい空間に向かって語られたのではありません。神は言葉によって天地をお造りになり、私たち人間が生きることのできる場としてこの世界をお造りになったのです。そして神は言葉によって私たち人間を造り、命を与えて下さり、私たちを、神の言葉を聞き、それに応答して生きるもの、人間として、神と交わりをもって生きる存在として下さったのです。

主イエスこそ、初めにあった「言」であり、その「言」によって全てのものは造られた。この言こそ命であり、光である。その光が世に来て、全ての人を照らして下さる光、救い主となって下さる。それが主イエス・キリストであると、ヨハネ福音書は語っています。

しかしそれは、誰が読んでも「その通りである」と理解でき、納得できるものではありません。そのことを信じるのか、信じないかの決断が私たちに求められているのです。主イエス・キリストのご生涯とは、まさにそのような歩みだったということが、10節以下で語られています。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。「言」は主イエス・キリストという一人の人となって、私たちのこの世界に来て下さいました。主イエスは、ご自分が創造し、命を与えたご自分の民のところに来られたのです。しかし人々は、その主イエスを認めず、受け入れなかった、主イエスを拒み、十字架につけて殺してしまったのです。この世の人々は、主イエスがまことの神であり救い主であることが分からなかったのです。

12節に、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります。主イエスを受け入れ、そのみ名を信じる者に、主イエスは「神の子となる資格」を与えて下さるのです。ここで「資格」と訳されていますが、これは私たちが試験を受けて取るような資格とは全く違います。資格と訳されている言葉は「権威」という意味です。「権威」は、獲得するものではなくて与えられ、認められるものです。神の子となることも、私たちが自分の力でその資格を得るのではありません。神が子として認め、受け入れて下さるという恵みによって与えられるのです。生まれつきの私たちは、この世界と私たちを造り、生かして下さっている神に逆らい、神を神として認めずに拒んでいる罪人であって、神の子となることなど到底出来ない者です。神はその私たちをご自分の子としようとして、神はその独り子である主イエス・キリストを人間としてこの世に遣わし、その十字架の死によって私たちの罪を赦して下さいました。神が遣わして下さったこのただ一人のまことの神の子主イエス・キリストを救い主と信じて受け入れ、主イエスと共に生きるなら、神はその人をご自分の子として受け入れて下さるのです。それは13節に語られている、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」ということが実現することです。主イエス・キリストを自分の救い主と信じるなら、神は私たちをご自分の子として生まれ変わらせて下さるのです。

神の「言」としての主イエスのご生涯を語っているのがこのヨハネ福音書です。主イエスのご生涯全体が、神の言、神から私たちへの恵みの言葉の語りかけなのです。3章16節に、この福音書を凝縮したような言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。主イエスという「言」が私たちに語りかけているのはこの神の愛です。主イエスは、その愛のみ心を実現するために、神に背き逆らい、み言葉に応答しない私たち罪ある人間のところに来て共に生きて下さいました。そして、私たちの身代わりとなって、私たち罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。父なる神はその主イエスを復活させて下さいました。主イエスの復活によって、神の恵みのみ心が、人間の罪と死とに勝利したのです。私たちも今、神の「言」であられる主イエスとの出会いを与えられています。そして復活して今も生きて働いておられる主イエスが私たちに呼びかけておられるのです。その主イエスの呼びかけに私たちが応え、主イエスは神の子メシアであると信じて告白する時、神は私たちを神の国の愛と平安の中に入れてくださるのです。

お一人でも多くの方が、このキリストの愛、キリストの救いへと導きいれられますよう、主イエス・キリストの愛と恵みに溢れた呼びかけに感謝して、お祈りを致します。 皆様、お祈りの姿勢をお取りください。

<<< 祈  祷 >>>

主イエスの栄光

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌148番
讃美歌515番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 139編23-24節 (旧約聖書980ページ)

139:23 神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。
139:24 御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。

新約聖書:ヨハネによる福音書 1章14-18節 (新約聖書163ページ)

1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

《説教》『主イエスの栄光』

本日はCS合同礼拝の日ですので、マルコによる福音書連続講解から離れ教会学校カテキズム教本の示す聖書箇所からの説教です。

先ほどお読みしたヨハネによる福音書1章14節に、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。この言語の「言(げん)」と漢字で書いて「ことば」と読ませるのは、1節に「初めに言(ことば)があった」と言われていたその「言(ことば)」のことです。1節ではさらに、その「言(ことば)」は神と共にあり、自らが神であったと語られています。また3節には、万物はこの「言(ことば)」によって成ったとありました。天地万物を創造したまことの神である言(ことば)、その言(ことば)が、肉となって私たちの間に宿られた、と14節は語っているのです。この「言(ことば)」とは、ギリシャ語で“ロゴス”と言います。新約聖書では、何と330回も使われていて、大変広い意味に用いられて日本語に翻訳するのが難しい言葉です。この聖書に書かれている“ロゴス”を扱うだけでも、神学論文が沢山書けるとさえ言えるでしょう。ただ、ここではっきり言えることは、このヨハネ福音書1章においての“ロゴス”は、創造の前から存在した、創造主でもあられ、永遠の命をもたらす主イエスが歴史的に出現されたことを指し示しているのです。この「言(ことば)“ロゴス”」とは主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストは、天地の造り主であり、まことの神である「言(ことば)」なのです。その「言(ことば)」が肉、一人の人間となって、この世を生きて下さったのです。

14節の後半には「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。「言(ことば)」が肉となって、まことの神であるキリストが主イエスという一人の人となって、私たちの間に宿って下さったので、私たちは神の栄光の姿を見ることができたのです。旧約聖書によれば、人間は神の栄光を見ることはできない、なぜなら神の姿を見たら罪ある人間は死んでしまう、とされているからです。その神の栄光の姿を私たちは見ることができた。それは、神が肉となって、つまり主イエスという人となってこの世に来て下さったからです。本日の最後の18節もそれと同じことを語っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とあります。いまだかつて神を見た者はいない、それは神は本来見ることができない方だからです。神ご自身も、その栄光も、人間が直接見ることはできないのです。しかし、父のふところにいる独り子である神、主イエス・キリストが、肉となって、人間としてこの世を生きて下さったことで、人間が神を知り、神のお姿を見ることができるようになったのです。これは、ヨハネ福音書の大切な主題の一つです。14章9節にも主イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」とおっしゃいました。父なる神は人間の目で見ることのできない方ですが、主イエス・キリストが人となってこの世に来て下さったことで、私たちも神様を見ることができるようになり、神様と共に生きることができるようになったのです。

しかしそれは、主イエスが人としてこの地上を生きておられた2000年前の話だろう、と思うかもしれません。主イエスと共に生きていた弟子たちは、確かに主イエスを見たことによって神を見ることができたかもしれない、しかし私たちは今、父なる神と同じように主イエスも、この目で見ることができません。従って、私たちは神様を見ることも、神の栄光を見ることもできない、そのように思うかもしれません。しかしそれは違うのです。私たちは今、この地上で、主イエス・キリストを見ることができます。主イエスとお会いすることができます。主イエスによる救いの恵みを受けることができます。主イエスとの交わりに生きる場が、私たちには与えられているのです。それは、主イエス・キリストの体である教会です。教会で私たちは、人となって私たちの間に宿られた「言(ことば)」である主イエスとお会いすることができ、父なる神の独り子としての、恵みと真理とに満ちている主イエスの栄光を見ることができるのです。その教会とは建物のことではありません。洗礼を受け、キリストと結び合わされた者たちの群れが教会であり、その群れが共に集って礼拝をするところに、キリストの体である教会が目に見えるものとなっているのです。礼拝において私たちは、主イエス・キリストと出会い、父なる神の独り子としての、恵みと真理に満ちている栄光を見ることができるのです。まことの神である「言(ことば)」が肉となって私たちの間に宿って下さったという恵みの出来事は、主イエス・キリストが人間としてこの地上を生きておられた間だけのことではなくて、主イエスの十字架の死と復活、そして昇天の後、聖霊が弟子たちに降って地上にキリストの体である教会が誕生した、あのペンテコステの出来事において受け継がれ、その後の教会の歴史において継続されていったのです。肉となってこの世を生きて下さった「言(ことば)」である主イエス・キリストは、教会において、その礼拝において、今も私たちの間に宿って下さり、私たちにご自身の栄光を示し、私たちと共に生きて下さっているのです。

一つの教会が誕生するごとに、神の救いのみ業が、地上においても前進し続け、まさにこの成宗教会も誕生したのです。私たちの成宗教会は、この杉並の地で、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という神の救いの出来事を人々に示して来ました。この成宗教会を通して、多くの人々が、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」ということを体験してきました。また16節にあるように、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けた」ということを味わってきました。その恵みは、17節にあるように、モーセを通して与えられた律法とは違うものです。自分が頑張って律法を守り、正しい良い行いをすることで救いを得る、のではなく、神の独り子である主イエスが人間となってこの世を生きて下さり、私たちの全ての罪をご自分の身に負って十字架にかかって死んで下さり、神様が私たちの罪を赦して下さり、また主イエスの復活によって私たちにも、復活と永遠の命を約束して下さった、それが「イエス・キリストを通して現れた恵みと真理」です。神様が、独り子の命をすら与えて下さるほどに、罪人である私たちを愛して下さっているという恵みと真理が、主イエス・キリストを通して現されたのです。

しかし、これは教会の礼拝において自動的に起ることではありません。弟子たちが集まっただけで教会が生まれたのではなく、聖霊が降ったことによって教会が誕生したように、“ロゴス”なる神が私たちの内に宿り、働いて下さってこそ、キリストの体である教会が築かれるのです。そのことが起るために、私たちは、主イエス・キリストを常に指し示し、証ししていかなければなりません。それを最初にしたのが、15節に出て来る洗礼者ヨハネでした。15節にこうあります。「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」。洗礼者ヨハネは、自分の後から来られる主イエス・キリストこそが救い主であることを証ししたのです。私たちの教会はこの世にあって、肉となって人となられた主イエス・キリストこそがまことの神であり救い主であることを証しし、宣べ伝えていく群れです。教会がその証しをしっかりとしていくならば、そこに、まことの神である主イエスと出会い、神の栄光を見上げて、その救いにあずかる人々が興されていきます。

今日の14節「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とあるのには、はっきりと目的がありました。それはヨハネ福音書3章21節(新約聖書210ページ)「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と、私たちが新しく信仰によって生きるべきことを語っているのです。

主イエス・キリストの救いの恵みによって人々が新しく生かされていくのです。しかし教会が、イエス・キリストを指し示すことをしなくなり、キリストを証しすることができなくなるなら、教会はこの世に飲み込まれ、この社会の中で何のインパクトもない、教会で神を見ることも、神の恵みと真理に生かされることも起らない、形骸化したただの人々の交わりの集まりに成り下がってしまうでしょう。

私たちに与えられている救いの伝道という使命をしっかりと果していけるように、聖霊の力づけと導きを祈り求めていきたいものです。

お祈りを致します。

クリスマス イヴ礼拝説教「言(ことば)が人となった」

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌106番
讃美歌103番
讃美歌119番
讃美歌109番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 1章1―2節 (旧約聖書1ページ)

1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

新約聖書:・・・ヨハネによる福音書 1章1―14節 (新約聖書163ページ)

1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

《説教》『言(ことば)が人となった』

新約聖書には四つの福音書があります。福音書とは、2000年前にこの地上で人として生きて働かれた主イエスの活動記録です。ヨハネによる福音書は四番目の福音書ですので、第四福音書とも呼ばれます。この第四の福音書は、他の三つの福音書とはかなり違ったものになっています。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、主イエスのご生涯を、ほぼ同じ調子で語り、共通する記事も多くあります。そのためにこの三つは並べて比較しながら読むことができます。そういう意味でこの三つを共に同じ観点から見る「共観福音書」と言います。しかしヨハネ福音書が語っている主イエスのご生涯は、共観福音書とはかなり違いますし、他の三つの福音書には語られていない話も沢山あり、かなり毛色の違う、独特な福音書です。そして、新約聖書にこのヨハネ福音書が入っていることによって、主イエス・キリストについての、また救いについての私たちの理解と認識は、大きな広がりと深まりを与えられているのです。

ヨハネ福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と語り始めています。この謎のような言葉によってこの福音書は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。「初めに」という冒頭の言葉によって、この世界の、そして私たち人間の「初め」を尋ね求めているのです。この「初め」、それは起源、根源と言う言葉です。この世界の、人間の、初め、起源、根源とは何か。それは「言」だ、と語っているのです。その「言」とは、私たち人間が語る不確かな、あやふやな、また不誠実な言葉ではありません。神の言です。神の私たちに対する語りかけです。この世界の、そして私たちの人生の、初めには、神の語りかけがある、とヨハネ福音書は宣言しているのです。そしてその神の語りかけ、言は、神と共にあり、言そのものが神であった、と続いています。それはこの福音書が、神の語りかけ、「言」を、一人の人格的な存在として見ているということです。そのお方とは主イエス・キリストです。14節まで読み進めるとそれが分かります。この福音書が「言」と書いて「ことば」と読む「言」とは、肉つまり人となって私たちの間に宿られた主イエス・キリストのことなのです。ですから、「初めに言があった」という謎めいた言葉で語り始められているこの福音書も、やはり冒頭から主イエス・キリストのことを語っているのです。主イエスとは、この世界の根源であり、私たちの人生を根底において支えている土台であるところの神の「言」、神からの語りかけなのだ、ご自身が神であられるその「言」が肉なる人となってこの世を生きて下さったのが主イエス・キリストなのだ、ということをこの福音書は語っているのです。

2節の「この言は、初めに神と共にあった」は一見、1節を言い直しているだけのように思えますが、「この言」と訳されているのは「このもの」あるいは「この方」という意味であって、それは1節の「言」を受けていると同時に、14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」を既に意識しています。肉となってこの世を生きて下さった主イエス・キリストは世の初めに既に父である神と共におられたのです。この「初めに」は創世記冒頭の「初めに神は天地を創造された」を意識しているのです。神がこの世界を創造なさった時、そこに、言である主イエス・キリストも共におられ、天地創造のみ業に共に関わっておられたのです。そのことが3節に「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と語られているのです。「言」であられる主イエス・キリストによって、この世の全てのものは造られたのです。主イエス・キリストは神によって造られた被造物ではなくて「創造主」であられるのです。主イエスは父なる神から生まれた子なる神であられ、まことの神として創造の初めから父と共におられるのです。しかしそれは父なる神と子なる神という二人の神がおられるということのではありません。神はお一人である、ということも聖書の根本的な信仰です。そこにさらに聖霊なる神が加わって、父と子と聖霊という三者でありつつお一人なる神であるという、いわゆる「三位一体の神」という神の本質的なお姿が見えてくるのです。ヨハネ福音書のこの冒頭の部分は、聖書においてご自身を啓示しておられる神が父と子と聖霊なる三位一体の神であられることを私たちが認識するための大切な役割を果しているのです。

6節になると、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」と、一人の人間のことが語られ始めます。ここで私たちの目は、この世のこと、地上を生きた具体的現実的な人間のことへと向けられるのです。このヨハネとは、「洗礼者ヨハネ」と呼ばれ、ヨハネ福音書を書き記したヨハネとはまったくの別人です。主イエス・キリストが宣教活動を始められる前に、洗礼者ヨハネが現れ、主イエスの伝道のための備えをしました。しかし、その洗礼者ヨハネがどのように主イエスのための備えをしたかは、ヨハネ福音書と他の三つの福音書ではかなり違っています。他の三つの福音書では、洗礼者ヨハネは人々の罪を指摘し、悔い改めを求め、悔い改めの印としての洗礼を授けました。自分たちが罪人であることを人々に意識させ、悔い改めて神に立ち帰り、向き合うことによって、救い主イエス・キリストを迎える準備をしたのです。それに対して、ヨハネ福音書において洗礼者ヨハネがしたことは何か。7節に「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」とあります。ヨハネ福音書における洗礼者ヨハネは、証しをするために神から遣わされた人なのです。証しとは、証言です。見たり聞いたり体験して知っていることを、「こうでした」と人に伝え、それを聞いた人々が「ああそうなんだ」と知るようになる、それが証しです。洗礼者ヨハネは、「光について証しをするため」に神によって遣わされました。その光とは、初めにあった「言」に命と光があった、と言われているその光です。5節に「光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と言われているその光です。そして9節では「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と言われています。初めにあった「言」、自らが神であり、命であり、光であるその方がこの世に来られて、まことの光として全ての人を照らす、それは主イエス・キリストのことです。「言」も「命」も「光」も、主イエス・キリストのことなのです。その「光」である主イエスについて証しをするために洗礼者ヨハネが現れたのです。洗礼者ヨハネは、「証し人」です。彼は主イエスこそがまことの光であることを全ての人が知り、信じるようになるために証しして、救い主イエス・キリストの働きのための備えをしたのです。

これは、主イエス・キリストの現れとは、罪が支配するこの世の暗闇の中に、神の救いの恵みの光が輝き、罪の闇に打ち勝つ、というような象徴的なことではありません。そうではなく、人間を照らす光が、暗闇の中に輝いているのです。それは、まことの神である主イエス・キリストが人間となってこの世に来て下さり、この地上を生きて下さり、十字架の死と復活による救いを実現して下さったことを言っているのです。「人間を照らす光」とは、主イエス・キリストです。「光は暗闇の中に輝いている」というのも、私たちの罪によって深まっているこの世の暗闇の中に、主イエス・キリストが来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、それで私たちの罪を赦して下さり、その死からの復活によって、私たちにも復活と永遠の命の約束を与えて下さった、ということです。その主イエスが今、この礼拝において私たちと出会い、語りかけ、交わりを持って下さっているのです。この世の現実におけるどのような暗闇も、この主イエスの恵みの光に打ち勝つことはできません。暗闇は光を支配下に置くことはできないのです。

主イエスについての証しを聞いて、主イエスを神の言、救い主、まことの光として信じ、受け入れると、私たちには「神の子」として新しく生かされる、という救いを与えられます。

しかしそこには同時に、主イエスを受け入れず、信じない、ということも可能です。この世を生きている私たちは、自分がそのどちらの道を選び、歩むのかを問われているのです。「証しの書」であるヨハネ福音書は、そのことを私たちに問い掛けているのです。その最初の「証し」が洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネから始まった主イエスについての証しを信じて受け入れ、世に来てすべての者を照らして下さるまことの光である主イエスによって照らされるなら、私たちも神の子とされて生きることができます。その信仰の歩みにおいて私たちも、まことの光である救い主イエス・キリストの証し人として、それぞれの生活の場へと、神によって遣わされていくのです。

お祈りを致します。

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起き上がりなさい

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌365番
讃美歌225番

《聖書箇所》

旧約聖書  ネヘミヤ記 13章17-18節 (旧約聖書761ページ)

13:17 わたしはユダの貴族を責め、こう言った。「なんという悪事を働いているのか。安息日を汚しているではないか。
13:18 あなたたちの先祖がそのようにしたからこそ、神はわたしたちとこの都の上に、あれほどの不幸をもたらされたのではなかったか。あなたたちは安息日を汚すことによって、またしてもイスラエルに対する神の怒りを招こうとしている。」

新約聖書  ヨハネによる福音書 5章1-18節 (新約聖書171ページ)

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
5:3 (†底本に節が欠落 異本訳<5:3b-4>)彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。
5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

《説教》『起き上がりなさい』

今日、この礼拝のために与えられた御言葉は、2000年前のエルサレムの町のベトザタ池の畔での主イエスの癒しです。

2000年前の主イエスが歩かれたユダヤの都エルサレムの町は、周囲をぐるりと城壁で囲まれていました。

そのエルサレムの北東の城壁に「羊の門」と名付けられた門があり、その近くにベトザタと言う名の池があったと伝えて語られていました。ヨハネ福音書だけにその名が残されている、このベトザタの池が本当にあったのか、長い間、その存在が疑われていましたが、近代になってエルサレムの町の発掘調査が行われ、ついにこの池の跡が発見されたのです。

2000年前の主イエスの時代、このベトサダの池は隣り合う二つの池、北の池と南の池からなっていた様です。その二つの池をぐるりと囲む様に、屋根のついた四棟の回廊が建っており、その回廊には、沢山の病人たちが横たわっていたとヨハネ福音書は語っています。病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが横たわる、病人だけが集まる所で、当時のユダヤ人にとっては近づき難い穢れた場所でした。この時は、ユダヤ人の祭りがあったので主イエスがエルサレムに上られたと1節に記されています。そして、主イエスはこのユダヤ人の近付かない穢れた場所をお訪ねになりました。

病人達がこの池に集まっていた理由を記す文章が、ここにはありませんが、よく見ると3節の終わりのところに十字架の様なマーク(♰)が印刷されています。そのマーク(♰)の後には4節がなく、すぐに5節となっています。これは、従来本文とされてきたこの箇所の文章が、元々はなかったものであり、後から誰かが加えた文章であるとされて削除されたことを表す印なのです。

そして、後に加筆されたと判断された3節後半から4節は、このヨハネによる福音書の一番最後212ページに付け足されています。そこにはこう書いてあります。

「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」(3b-4)

何かの拍子に水面が動いたとき、人々はそれを天使が池に降りて来た証拠だと考えました。そのときに真っ先に池の水に入ったものはどんな病気でも癒されると信じられていたのです。この殆ど迷信の様な言い伝えだけが、当時の、この世から見捨てられた人々の望みをかすかに繋ぐものだったのです。

つまり、ベトザタの池に集まっていた多くの病人は水が動くときを待って、真っ先に池に入って、自分の病気を治してもらおうと集まっていたのです。

ここに集まる人々は「めったに起こらないその瞬間を逃してはならない、その瞬間が来たら、真っ先に飛び込もう」と考えて集まっていた人々でした。

「水が動いたとき、真っ先に水に入る者」だけ、つまり一番最初の一人しか癒されないのです。水が動いたらそこには何が起きるでしょうか。激しい競争が起きます。夜もおちおち眠れない、神経をピリピリとがらせた、不安な毎日が続きます。先に池に降りて行く者を憎み、呪い、妬む生活が続きます。池の水面が少し動くだけで、池の周りは修羅場と化したのです。

この様に、人と人の激しい競争から、憎しみや妬みに捉えられ、自分だけが先にならなければ幸福を得られないとベトザタ池の周りの人々は思っていました。この姿は私達の現実の姿とも似ています。

我先に池に入ろうと待ち構えている病人の中に38年間もの長い間、病気に苦しめられ、殆ど寝たきり状態だった一人の男が居ました。この男は、病気のために素早く動くことも出来ず、池の畔で横たわっているだけで、当然人より先に池に降りることも出来ずに38年間居たのでした。

つまり、この男は、仮に20歳位で病気を患っていたとしたら、この時は既に58歳にもなって、当時の人間の寿命から考えると、老人と言ってよい年齢です。

彼は、治る見込みもなく、家族からも見捨てられ、財産なども持っていなかったでしょう。ここには、同じ様な境遇の人々が沢山いた筈です。そして、この男を含め池の周囲の人々は皆孤独でした。なぜかと言えば、あの、いつ起こるとも知れない水の動きを巡って、お互いにライバル関係にあったからです。

ライバル関係ですから、勿論お互い慰め合いや励ましあい、会話や笑い、楽しみ喜びなど一切ない、それこそ魂の荒れ野とも言うべきところであったのです。

この病人ばかりの回廊に人々は決して近づこうともしません。周辺はユダヤの祭りで多くの人々が祝い騒いでいました。このような病人たちで穢れていると人々が思う場所、魂の荒れ野に主イエスだけがわざわざ訪ねられたのでした。

主イエスはその病人を憐れに思い「良くなりたいか」と声をかけられたのでした。私達は、この人が「はい、そうです。良くなりたいのです」と当然答えるだろうと考えます。ところが、この男の答えは「主よ。水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」でした。彼は、一緒に池の畔に横たわっているライバルを責めることしかしていません。他人への非難と自分の現実への不満の中でしか生きることが出来なくなって、心が歪み、魂がすさんでしまっていたのです。自己本位のこの男に、主イエスは、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。これは主イエスにしか言えない言葉です。それは、主イエスこそがこの人の病と、その苦しみを代わって背負って下さる方だからです。主イエスはこの人を憐れに思われました。憐れまれて、肉体の病、憎しみと呪いにまみれた人生全体、それらすべてをご自分のものとして引き受け、担って下さったのです。「私が十字架の上であなたの惨めさ、あなたの病、あなたの苦しい思いをすべて代わりに担うから、あなたは起き上がりなさい」と仰って下さったのです。

この「起き上がりなさい(evgei,rw)」という言葉は主イエスが2章19節で「三日で神殿を立て直してみせる」とおっしゃった時の「建て直す」と同じ言葉です。その主イエスの「建て直す」は、2章22節の「復活される」という言葉とも同じです。主イエスが後に十字架の死から復活される、そのことを語るのと同じ言葉で、「起き上がりなさい」と言われているのです。そこに込められているのは、「私があなたのすべての悩みと苦しみ、いや死の力に打ち勝って復活するから、あなたは私の復活の光の中で立ち上がりなさい。その光の中に留まり続けなさい」、という主イエスの思いです。「起き上がりなさい」というみ言葉は、主イエスの十字架と復活による救いの恵みに彼をあずからせるためのみ言葉だったのです。

私たちもまた、この復活の光の中に置かれるとき、たとえこの男の様に完全な肉体の癒しが与えられなくとも、神様に向かって立ち続けることができるのです。主イエスの「起き上がりなさい」という御言葉のもとで、神を信じる信仰によって、希望を持って生きて行くことができるのです。

床を担いで歩き出したこの男に備えられた道は、主イエスの御言葉に立ち続け、歩み続ける道、主の救いに感謝し、その恵みを証しする道でした。自分を立ち上がらせた力が、何というお方のどの様な力であるかを正しくわきまえ、その恵みの中に留まって歩み続けることであった筈です。しかし、この男は、その道に踏みとどまることが出来なかったのでした。ヨハネ福音書が語るこのベトザタ池の癒しの奇蹟の出来事は更に複雑になって行きます。

この男は主イエスの癒しに与りながら、神の恵みの中に留まり続けることが出来ませんでした。

キッカケとなったのは、安息日に床を担いで歩いているところをユダヤ人たちに見咎められたことでした。それは律法と呼ばれるユダヤ人が守る神の掟を破っていることを意味していました。ユダヤ人たちは、38年間の長い苦しみから解放されたこの男の恵みを共に喜んだのではありませんでした。それどころか、「今日は安息日だから床を担ぐことは律法では許されない」と、「ユダヤの神の前に相応しくない」と、この人を責め立てたのです。

当時のユダヤ教では、神がモーセを通してイスラエルの民に与えた十の戒め、十戒をもとに600以上もの細かな規定が定められ、その中には安息日には何をしていいか、何をしてはいけないかが、細かく定められていました。安息日には何歩以上歩いてはいけない、一度使った炭ならば再び火を起こしても良いが、新しい炭で火は起こしてはならない、など、守らねばならない細かい規定が沢山ありました。病気を癒されたこの男が床を担いで喜んで歩き回っていたのは、この細かな規定に違反していたのです。それを責められたこの男は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えました。この男は、ユダヤ人たちに責められて、自分では主イエスの恵みの大きさが分かっていながら、周囲の人々の批判に会い主イエスの救いを見失ってしまったのです。

責めるユダヤ人たちは「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねました。しかし、その答えは驚くべきもので、そこには、「病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった」とあります。考えられないことです。人生で最高の恵みを受けた筈なのに、その癒しを行って下さった方に名前さえ聞こうとしなかったのです。自分が癒されればそれで良い、誰が救って下さり、その方と自分は今どういう関係に招かれているのか、そういった事はこの人にとっては問題ではなかったのです。

ユダヤ人たちは、この男から聞き出した話によって、主イエスを迫害し始めます。そして何と、彼らは益々はっきりと主イエスを殺そうと狙うようになった、というのです。

その理由は、主イエスが安息日の律法を破り、この男に床を担がせただけではなく、全能の神を「私の父」と呼び、「御自身を神と等しい者とされたからである」といった理由からでした。

この男は、主イエスから受けた忘れてはならない筈の癒しを、「安息日には床を担ぐことは律法で許されていない」と咎めるユダヤ人たちの言葉に、その恵みを忘れてしまいます。

主イエスのお陰で今の私たちがあるのに、池で救われたこの男の様に、主イエスの光の中に立つことを忘れてしまう事や、今自分に与えられている恵みを恵みと思わずに当然の事として過ごしている事が、私たちの歩みにおいても多いのではないでしょうか。

ユダヤ人たちは神の御子を迫害するという罪を犯しながら、自分達は神に奉仕している敬虔な信仰者だと信じていました。また、病を癒されたこの男も、自分が癒され、楽になる事だけに留まり、自分を癒して下さった方との出会いと、この方との新しい関係に入って歩む事が出来ずに罪の中に留まってしまいました。

あろうことか、さらに、この男はユダヤ人たちの主イエスに対する殺意をあおり、結果として主イエスを十字架刑に送ることに加担してしまいました。

ベトザタの池の畔で、主イエスはこの男に出会って下さり、愛を持って救い上げて下さいました。

その後、神殿の境内で主イエスはこの男に再び出会って、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言われました。それはその男の病気が罪の結果であると言っているのではありません。ここで問題となっている罪とは、主イエスに癒されたにも拘わらず、主イエスを自らの救い主として受け入れられなかったことです。

その男に再び出会ってくださった主イエスの御言葉は、「あなたは良くなったのだ。癒されたのだ。罪を赦されているのだ。礼拝に生きる者、ただ神の恵みのみによって赦され生かされている者なのだ。救われる前の苦しみを忘れることなく私の光の中にいなさい」と繰り返し語りかけてくださり、新しく目覚めさせようとして下さっているのです。

時間的には後になった、主イエスの十字架の贖いの死は、ベトザタの池で病を癒された、この男のためでもあったのです。この男を病から癒されただけではなく、罪からの救いを与えるために繰り返し会ってくださり、招いてくださっているのです。この男が主イエスを信じて救われたとは、ここの聖書箇所には書かれていませんが、この男も、この後でキリストの十字架の御業で救われたと信じたいものです。

主イエスは今日のこの礼拝においても私達に出会い「良くなりたいか」と声をかけてくださり、従う私たちに、「あなたは良くなったのだ。私の光の中を歩きなさい」と導いて下さっているのです。

主イエスは、私達に「起き上がりなさい」と声をかけられた時の事を、私達に思い起こさせ、主イエスの復活の光の中に留まる様にと、今日も出会って御言葉を与えて下さり、信仰に生きる希望を与えて下さいます。

お祈りを致しましょう。

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