あなたは宝の民

成宗教会副牧師 藤野美樹

聖書:ヨハネによる福音書 15:12~17、申命記7:6~11

私たち夫婦が、この成宗教会に赴任して、2ヶ月が経とうとしております。雄大牧師と、成宗教会に赴任してまだ二ヶ月か、もう二年経ったような気がするね、と言っていました。というのも、この二ヶ月は、いろいろなことがぎっしりつまった二ヶ月間でありました。並木牧師から引き継ぎ、受難節、イースター礼拝、定期総会、納骨式、墓前礼拝、そして、ひとりの姉妹の信仰告白式を行うことができました。家族のようにホットする雰囲気の教会の方々にいろいろ教えていただきながら、牧会をすることができており、とても感謝しております。

二ヶ月前、成宗教会にどんな方々がいらっしゃるのかも知りませんでした。でも、今では毎週お会いして、ともに礼拝を守り、祈り合っております。二ヶ月前には想像もつかないことでした。この成宗教会に赴任したことに、神様の不思議なお導きを感じずにはいられません。

教会というところには、さまざまな人たちが集まっています。年齢も仕事も境遇も教会へ通うきっかけも、それぞれ違う方々が週一回集まり、ともに神様のまえにひれふして、礼拝を捧げています。そう考えますと、教会とはとても不思議なところに思えます。

教会とは、一体何でしょうか。

本日読みました、申命記ではこう語られています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民のなかからあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」

教会とは、「聖なる民」の集まりだと言われているのです。ここで言われている「聖なる」というのは、道徳的に清く正しいという意味ではありません。「聖なる民」というのは、「主なる神様のために聖別された」人々、という意味です。私たちは、それぞれ、神様との関係の中で、召し出され、招かれて、いま教会にいるということです。そして、神様は私たちのことを「宝の民」と呼んで、宝のように価値のある者としてくださっています。

しかし、私たちがそのようにして神様から選ばれ、「宝の民」と呼ばれるのは、なぜでしょうか。私たち、教会に集う者たちは、この地上の誰よりも優れているから、選ばれたのでしょうか。7節ではこう語られています。

「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」。

つまり、私たちが選ばれ理由は、私たちの能力、素質によるのではなく、ひとえに「神様の愛」によるのです。神の選びは、人間の側の価値ではなく、むしろ資格のないような者に向けられているのです。それは、この世の価値観とは正反対です。「宝の民」と呼ばれる私たちは、優れたものであるどころか、神様から見たら貧弱な存在です。しかし、神様は私たちを選んで、「神様の宝の民」としてくださいました。

このように、教会というのは、ただ神様の愛によって選ばれた者の集いなのです。

本日お読みしました、もうひとつの聖書のみことば、ヨハネによる福音書にも、この「選び」ということが語られています。15章16節で主はこうおっしゃいます。

「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。」

主イエスは、はっきりと仰います。主が私たちを選んでくださいました。私たちの側には主の選びにふさわしい理由は何もないのです。主イエスが私たちを探しに来てくださったから、私たちは主イエスを知ることができたのです。主の無償の愛が私たちには注がれているのです。

13~15節では、さらに、その主の愛について語られています。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」 

 主イエスは、私たちを「友」と呼んでくださっています。「友」とは、何でも打ち明けたり、共有したりできる間柄です。長く続く友情というのは、利害関係によって成り立つものではなく、利害に関わらず、何でも打ち明けたり、指摘し合ったりできる間柄ではないでしょうか。主イエスは、無償の愛を注いで、私たちの本当の「友」になってくださいました。

主イエスは友である私たちのために、十字架の死によってご自分の命を捧げられました。主の十字架の死によって、私たちの罪は帳消しにされました。それほどまでに、私たちを愛してくださったからです。主が私たち人間のために命を捨てられ、罪を赦してくださったことを思う時、そこには人間の友人関係以上の、もはや私たちには想像できない、深い愛を感じるのではないでしょうか。

主は、私たちとの関係性を僕と主人にたとえておられます。僕つまり奴隷は、主人のことをよく知らず、愛されているかいないかもわからず、ただ主人から命令されたことだけをするのです。でも、私たちと神様の関係は異なります。友となってくださる神様は、私たちにはっきりと、その愛を知らせ、すべてを打ち明けてくださっています。

カルヴァンは15節の注解で、このように言います。「わたしたちは福音のうちに、いわば開かれたキリストの心を所有しており、かれの愛を疑わず、容易に把握できるようにされているのである。わたしたちは、わたしたちの救いの確実性を求めて、雲の上はるかに高く登ったり、深淵の奥底に深く沈み入ろうとする必要はない。福音のうちに含まれているこの愛のあかしだけで満足しよう。」と言っています。

私たちは、福音のみことば、聖書、つまり主イエス・キリストを通して、神様の愛を知らされています。ですから、すこしも神様の愛を疑わず、救いに預かることができるのです。

主が、私たち人間のために、罪を贖うために、この世に降りてきてくさって、十字架の死と復活によって、大きな愛を示してくださいました。ですから、私たちのほうが、がんばって登って行く必要もないし、神様の愛がわからない、難しい、と深淵でもがき苦しむ必要もないというのです。

教会というのは、そのとてつもなく大きな、神様の無償の愛を受けるために選ばれた者が集まるところです。

成宗教会は、今から約80年前、この成田の地で開拓伝道された有馬牧師の家庭集会から始まりました。現在に至るまで、成宗教会は滞ることなく礼拝をずっと守り続け、永遠に変わることのない福音をのべ伝えて来ました。そしてこれからも、福音をのべ伝えて行きます。

教会員の数が減り、伝道が困難なこの時代です。日本の教会はずっと、多くの信仰者が与えられるように祈り続けてきました。それでも、クリスチャンの人口は減っており、もともと1パーセントと言われていましたが、もう1パーセントを切ってしまいました。

アメリカ留学中には、いろいろな国の生徒がいました。アメリカや韓国、中国、エチオピア、ナイジェリア、どの学生も口を揃えて、日本のクリスチャンは少ないと聞いているけれど、伝道が進むように祈っているよ、と言ってくれました。

でも、考えてみると、伝道が困難なこの日本のなかで、私たちはクリスチャンとして生きております。その少ない1パーセントのなかに入れられているのです。神様が私たちを選んでくださったのです。この成宗教会が成田の地で開拓伝道を始めて、約80年間の伝道の業によって、いまここに私たちは呼び集められました。これは、「実り」であると言えるのではないでしょうか。主はおっしゃいます。

「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。

ここでは、主イエス・キリストにつながって、祈り求めるのなら、父なる神様は必ず実りを与えてくださると言われています。15章のはじめには、ぶどうの木のたとえが語られています。ぶどうの木は、枝が幹にしっかりとつながって養分がたっぷり行き渡り、しっかりと剪定されれば、おいしい実が実ります。

教会は、このぶどうの木のようなものです。父なる神様によって剪定された、つまり選ばれた枝である私たちは、主イエス・キリストという養分たっぷりの幹につながっていれば、必ず豊かな実を結ぶことができるのです。

私たちは、教会に集い、礼拝で福音のめぐみに生かされています。それは、教会が今までなしてきた、大きな実りということができるのではないでしょうか。そして、そのぶどうの実は、だれかに食べられて無くなってしまうものではなくて、これからも残るものです。私たち、ひとりひとりのうちに永遠の命の御言葉として残ると同時に、教会がこれからも実りを生み出していくという意味においても、永遠に残っていくものです。

そのとき、教会に、神様の無償の愛により任命され、選ばれた私たちには、求められていることがあります。しかも、主はそのことを繰り返し、何度も何度もおっしゃっておられます。それは、この神様の愛にとどまりつつ、「互いに愛し合う」ということです。神様から受けている大きな愛を、互いに持ちながら、互いに愛し合いつつ、全員で協力して、教会を立てていく必要があるのです。

2019年5月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


興津春枝先生のお話

(これは4月28日の礼拝で話されたものです。)

聖書 出エジプト記20章1~21節

「神様からの恵みの言葉 十戒」

「十戒」とはなんですか。について学びましょう。

教会で私たちが大切にしている三つのことがあります。

1. 主の祈り こう祈りなさいとイエスさまが教えて下さいました。

2. 使徒信条 ~を信じます。という信仰告白です。

3. 十戒   神様がモーセを通してシナイ山でイスラエルの民」にお与えになった十のご命令のこと。

イエスさまがお生まれになるずっと昔のことで旧約聖書の時代のことなので、今の私たちにはもう関係ない、あんまり重要なことではないのでは。それに「~してはならない」という言葉が十もあってとても厳しくて守ることなど出来ないと思うかも知れませんね。神様を信じることは窮屈で自由がなくなるということなのですか?疑問がわいてきます。

ではなぜ、神様はイスラエルの民に「十戒」をお与えになったのでしょうか。

400年もの間にエジプトで増え続けたイスラエル人の力を恐れ嫌っていたファラオ(王)は民を奴隷として重労働で酷使し苦しめました。民は神様に助けを求めます。その苦しみ嘆く声を聴かれた神様に選びだされたのがモーセです。ファラオの元へ行って民をエジプトから脱出させることを承知させるようにとのご命令。自分のいうことなど信じてもらえないしなど思いつく限りの言い訳でハイと言わないモーセ。神様は言われました。「おまえには私がついている」。ついにモーセは行って神様のお力で数々の奇跡をおこします(ナイル川ノ水を血に変えるなどなど)が、ファラオの頑固な心は変わりません。ついに神様はあらゆる災害をエジプトの上に起こします。ファラオは自分の長子(一番上の男の子)が死んで

しまい、とうとう叫んだのです「今すぐ、出て行け!」モーセと民は昼は雲の柱、夜は火の柱となっての神様の導きで砂漠の道を進み「葦の海」までやってきて野宿をしていました。そこへまた心変わりをしたファラオの軍勢がすぐ後ろまで追ってきたのです。追いつかれた民を神は「葦の海の軌跡」によって救われました。海の水が真二つに左右に分かれてできた道を民は逃げ進みました。そのあとを追ったエジプト軍は元に戻った波によって溺れ死んでしまったのです。その後3か月、神様のお守りによって水も食べ物もあたえられた民はシナイ山の麓に。その山の上で神様はモーセを待っておられ、「十戒」があたえられたのです。

ご自分が救い出しご自分の民になさろうとしている民は決して良い民だったからではありません。せっかくエジプトでの奴隷の生活から自由になったのにまたその自由を失わないようにとのただ神様の恵みによるのでした。民は神様の御心にしたがって生きてゆくための「道しるべ」として「十戒」をあたえられました。神様の恵みに応える生活ができるように。本当の自由とは神様から離れない生活です。神様から離れて好き勝手に自己中心的な生活をしてしまう私たちにも、

「十戒」は大切です。完全に守ろうとしても不可能だけれど、守りたいと願い神様により頼んで祈る時、私たちの信仰は深められると信じます。いつも神様から離れないで毎日を過ごしていきましょう。

5月の御言葉

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じよう重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」

マタイ22章37節-39

5月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。

🌸 お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

5月5日(日)マタイ22:37-39  お話:藤野美樹先生

12日(日)マタイ4:8-10   お話:藤野雄大先生

19日(日)申命記4:15-19  お話:斉藤紀先生

26日(日)マタイ5:33-37   お話:興津晴枝先生


成宗教会学校からお知らせ

🌸 ゴールデンウイークはあっという間でしたね。楽しい思い出はできましたか?教会にきていろいろお話を聞くのを楽しみにしています!新しいクラスにも慣れて、元気に学校に通えるようお祈りいたします。

🌸 6月9日㈰はペンテコステ・花の日礼拝です。

🌸 礼拝でのお話は小学校~中高生にもわかりやすく語られます。教会学校礼拝後には、絵本や工作、ゲームなど、お茶を飲みながら15分ほど楽しい時間を持っています。中高生の皆さんは、大人の礼拝にもご参加をおすすめいたします。大人の礼拝は10時半~11時半です。親子連れの方も、どうぞいらしてください。