決断

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌301番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:エゼキエル書 9章1-6節 (旧約聖書1,306ページ)

9:1 彼は大声でわたしの耳に語った。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」
9:2 すると、北に面する上の門に通ずる道から、六人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやって来るではないか。そのうちの一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼らはやって来ると、青銅の祭壇の傍らに立った。
9:3 すると、ケルビムの上にとどまっていたイスラエルの神の栄光はそこから昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。
9:4 主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」
9:5 また、他の者たちに言っておられるのが、わたしの耳に入った。「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。
9:6 老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ。」彼らは、神殿の前にいた長老たちから始めた。

新約聖書:マルコによる福音書 10章38-42節 (新約聖書127ページ)

11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
11:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
11:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」
11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。
11:19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。

《説教》『決断』

主イエスは、少年時代から幾度もエルサレム神殿へ来ておられ、この日、受難週2日目の月曜日、特に神殿の境内に変わったことはありませんでした。しかし、この日の主イエスの行動は、誰も予想することの出来ない程の暴力行為と言えます。通常、「宮潔め」と言われるこの有名な事件が何を表しているのか。「聖なる怒り」とも呼ばれる主イエスのこのお姿は、受難週の二日目という十字架を目前にし、緊迫した状況の中で見るべきです。

本日の物語はいささか特殊なものですので、初めに神殿の構造を簡単に述べておくことにします。

第三神殿とも呼ばれるヘロデ大王が造ったエルサレム神殿は、東西約三百米、南北約五百米、広さ約一四万平米と言われています。中心にあるのは巨大な石造りの建物で、内部は二つに仕切られ、最も奥は至聖所と呼ばれ、主なる神が居まし給うところと信じられ、年に一度、大祭司だけが入ることが許されていました。手前の部屋が聖所で、そこには選ばれた祭司が入り、供え物を献げていました。

聖所の前の広場が「祭司の庭」で、そこでは一日中、犠牲の動物が焼かれていました。更に、そこに柵があり、その手前が「イスラエルの庭」と呼ばれ、神殿を訪れたユダヤ人の男性はそこまで入ることが許され、焼き尽くす捧げ物「燔祭」として献げられた犠牲の動物が焼かれるのを見ながら祈っていました。女性は更にその手前、「婦人の庭」と呼ばれるところまでしか入ることは許されません。献金箱はその婦人の庭にあり、そこまでが聖なる場所と呼ばれ、ユダヤ人以外の者は立ち入ることは絶対に許されませんでした。そこから外へ出る門が有名な「美しの門」であり、門の外は「異邦人の庭」と言われ、周囲は大きな列柱で囲まれており、神殿を訪れたすべての人が入ることが出来る場所で、聖なるものと世俗との接点であったと言ってよいでしょう。この区別を犯す者はすべて死刑と定められており、この禁止命令を記した碑文が神殿跡から発掘されています。

この時代、一番外側の異邦人の庭は、どう見ても礼拝の場所に相応しいものとは言えないものになっていた様です。神殿を訪れる者は、感謝のしるしとして献げ物や献金をします。しかし、当時ローマ帝国の植民地のユダヤで使われていたローマコインの表面には殆ど皇帝の肖像が刻んであり、裏には異教の神々の像が刻まれていました。しかし、ユダヤの信仰の中心である十戒は、偶像を厳しく否定しています。社会生活上、ローマ帝国の支配権は承認せざるを得ませんし、日常の通貨としてはローマ帝国のコインを使用していました。しかし、律法に従って生きるユダヤ人として、ローマ皇帝の肖像を刻んだコインを神に献げることは許されません。神殿礼拝に訪れた者は、献金のために、肖像を刻んでないユダヤコインに両替しなければなりませんでした。そこで、異邦人の庭には、両替商の店が出ていたのです。

献金に加えて、ユダヤ人は贖罪のために様々な犠牲の動物を献げますが、律法は、神に献げるものに傷があってはならないとも命じています。そこで、「献げものに相応しい」という証明書付きの動物を売る店が出ているのも「異邦人の庭」でした。

両替の手数料は極めて高く、証明書付きの動物は通常価格の百倍以上とも言われています。世界中から集まって来るユダヤ人の数は極めて多く、ヨセフスという当時の歴史家が報告するところによれば、過越の祭りの時には、二百七十万人とも記されています。参詣者によって膨大な利益を生む店が、「異邦人の庭」を満たしていたのであり、それらすべては、大祭司の個人的独占事業であったと言われています。

また、16節には、主イエスが「礼拝以外の目的で境内を通ることをお許しにならなかった」と記されていますが、これも元々律法が厳しく禁じていることであり、敢えて「イエスが禁じた」ということは、その戒めを破ることが当然のように行われていたということでしょう。聖なる場所が、単なる「運搬の近道」になっていたのです。大祭司を始め、神殿が大切な信仰の意味を見失うものになっていたのです。

このような状況では、主イエスならずとも怒りたくなるでしょう。ですから、大衆を搾取する神殿特権階級への主イエスの怒りとして見ることも出来ます。

このようなことから「社会正義を貫く主イエス」または「搾取する特権階級への闘いを挑む主イエス」と見る人々もいます。しかし、もしそうだとするならば、大きな疑問も出て来ます。

先ほども述べたように、主イエスは少年時代から幾度も神殿に入りながら、一度もこのようなことはなさらなかったのに、今回に限り、乱暴とも言えるほどの激しい怒りを示されたのは何故でしょうか。

さらに、27節によれば、主イエスは翌日も神殿に来られてます。当然、両替屋も動物を売る店も、翌日、店を出していた筈です。何故なら、店が出ていなかったなら献げ物は不可能になってしまうからです。特に、全世界からユダヤ人が集まっている過越の祭りの時に店が出ていないことなど、考えられません。それなのに、27節で、主イエスは、もはや大胆なことをなさらないのは何故でしょうか。

これが「聖なる怒りの謎」であり、この「謎」を解かなければ「宮潔め」の意味は分からないのです。生涯にただ一度、暴力を振るわれた主イエスの御心が伝わって来ないのです。

先ず考えられるべきことは、そこが「聖なる場所」であったということです。商売人の居た「異邦人の庭」は、聖なる場所の外側と言っても神殿の境内に変わりなく、異邦人が祈るための場所でした。たとえ、ユダヤ人以外の人であったにせよ、なおそこは、異邦人に許された大切な聖なる場所でした。

その祈りの場が、今や商売の場所となり、生活道路としてしまうとは、本来の神殿の秩序を完全に無視する罪と言わざるを得ません。聖なるものを自分のために利用する人間への怒りであり、また、どんな人であれ、「祈りの場を汚すことは許されない」ということを、主イエスは怒りと共にお示しになったのです。神に対する信仰者のあり方を正し、「神の御前における姿を取り戻せ」ということを怒りと共に告げられたのです。

しかしながら、最も重要なことを見逃してはなりません。それが、この物語を挟んでいる「いちじくの木の奇跡」が明らかにするのです。

先週ご一緒に読んだように、いちじくの木を枯らした主イエスは、それによって、終末における神の裁きを弟子たちに示されました。そして、その裁く権威を持つ者こそ主イエス御自身であることを告げられたのです。

さらに、これに先立つエルサレム入城の際にも、ろばの子に乗ってゼカリヤの預言を思い起こさせ、11章3節では、初めて御自身を「主」と名乗られました。

この受難週の出来事は、すべてご自身を「主なるイエス」「終末のキリスト」として告げられているのです。そして、このことから、「宮潔め」に関する旧約の預言であるエゼキエル書 9章1節~6節を思い起こさなければならないのです。

エゼキエルが幻の中で見た「神の怒りの日の光景」は「わたしの神殿から始めよ。」と結ばれています。主イエスの「宮潔め」をここに見ることが出来ます。主イエスは、いちじくの木が枯れている姿の中に「神に背を向けたイスラエルの滅びを見よ」と教えられました。それは、イスラエルが神の怒りの前に裁かれ、その裁きは、「神殿の破壊」から始まるのです。

以上のように理解すれば、主イエスの生涯におけるただ一度の暴力的と言える「宮清め」の意味は明らかになるのです。主イエスは、「今や、その時が来た」ということを告げておられるのです。旧約の預言者たちが語った言葉が「今や、成就の時を迎えた」ということを、ここに示されたのです。

大祭司が支配する店をひっくり返すということは、神の民として生きて来たイスラエルの信仰の形のすべてを否定することであり、「もはや二度と後戻りすることが出来ない」という決意を示すものです。ご自身の身の安全を守る術を自ら投げ捨てたのが、主イエスの「宮潔め」であったと言うべきでしょう。

18世紀イギリスの哲学者バークリーはこう言っています。「『宮潔め』とは、イエスの生涯におけるルビコン川であった。彼は、川を渡った後、自分が帰るべき舟を焼き捨てた。人間的な言い方をすれば、イエスは御自分の死刑執行令状に、それと知りながら、署名されたのである。」

18節には「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。」とあります。これが、主イエスの決断に対する罪の下にある人間の反応でした。

主イエスの怒りは、ささやかなその場限りの怒りではなく、たかだかその時代の権力者への反抗として終わる革命運動でもなく、すべての人間の魂を苦しめるサタンの支配に対し、神の御子が全力を挙げて戦いを決意されたものなのです。

本日の15節~19節は、先週の11節~25節の「主イエスといちじくの木」に挟まれたサンドウィッチの中身です。先週の両側のパンを含めて大切な中身と考えなければなりません。その中身に、「主イエスの宮清め」を挟んだのは終末に向かう時の中を生きる者に「祈り」の大切さを教えるためでした。この「いちじくの木」と「宮清め」を締めくくるのは25節で主イエスの語られた「祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」に示されています。これは私たちが日々祈っている「主の祈り」の中の、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と同じです。主の祈りにおいても、 神様に自分の罪を赦していただくことと、私たちが人の罪を赦すこと が不可分に結び合っています。私たちが人の罪を赦すことが、神様に 赦していただくための交換条件なのではありません。神様は独り子イエス・キリストの十字架の死によって、罪人である私たちを赦して下さっているのです。しかし私たちがその赦しの恵みを本当に知り、その恵みにあずかっていくことは、私たち自身が、人の罪を赦すことができるようにと、主イエスの父である神様に祈りつつ、神様との交わりに生きることの中でこそ与えられていくのです。

主イエス・キリストは、私たちをそのような祈りに生きる者として下さるために、そして祈ることの中で山が動くという体験をさせて下さるために、十字架の死への道を歩んで下さいました。その主イエスを父なる神は復活させ、新しい永遠の命を与えて下さいました。今 も生きておられる主イエスは、私たちをご自分のもとに集め、ここに、全ての人々のための「祈りの家」を築かれるのです。教会こそが、全ての人々のための「祈りの家」です。私たちはこの祈りの家の家族として共に生きているのです。

お一人でも多くの方が主イエス・キリストの十字架で救われ神の家族として「祈りの家」に入れられます様、お祈りを致しましょう。

道端の人

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌196番
讃美歌420番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 42章18-19節 (旧約聖書1,129ページ)

42:18 耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。
42:19 わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。

新約聖書:マルコによる福音書 10章46-52節 (新約聖書83ページ)

10:46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
10:47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
10:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
10:49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
10:50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
10:51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
10:52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

《説教》『道端の人』

エリコの町の外れで、盲目の物乞いバルティマイが主イエスに出会いました。エリコはエルサレムへ向かう街道の基点であり、サマリヤを避け、ヨルダン渓谷へ迂回したガリラヤ地方の人々が通る、最後の大きな町でした。この日も、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムへ向かう巡礼たちで混み合っていたことでしょう。盲目の物乞いバルティマイがその町外れにいたのです。

盲目のバルティマイにとって、「エリコからエルサレムへ向かう巡礼者たちの喜び」は無縁なものでした。何故なら、この時代のユダヤ人社会では、身体の障害は神の怒りを受けた罪の結果として考えられていたからです。

ユダヤ人にとって大前提である「幸福は神からの祝福の賜物」とする信仰、それは間違いではありません。しかし、その反面、不幸は神の怒り、罰と考えられてしまい、不運や重い病気、肉体の障害などは、何らかの罪により神の怒りを買った結果とされたのです。

それ故に、道端にうずくまる物乞いは、神の怒りを受けた者と見なされ、「神の御前に出ることが許されない」と諦めざるを得なかったのです。

大勢の人々が神の御前に出る喜びに満たされてエルサレムへの巡礼の道を行くとき、「神に退けられた」と自覚せざるを得なかったバルティマイは、何時も、その道端で、希望に満たされて去って行く人々の足音を羨ましく聞くだけでした。

バルティマイは、眼が見えないという障害によって、いわれなき差別を受け、「祝福の外に置かれた」と思い込んでいたのです。私たちもまた、信仰を得て救われる以前は、肉体の眼の不自由さに囚われたバルティマイ同様、思い込みの中に置かれ、見るべきものを正しく見極めることが出来なかったのではないでしょうか。

神を正しく見ることをしない人間。キリストの愛に気づかない人間は、自分の前に開かれている道が「神の国への道」であり、それが、「自分の行くべき道である」と見ることができないのです。

バルティマイは物乞いでありました。分かり易く言えば乞食です。彼は、まともな人間として生きていく希望すら失われ、働くことも出来ず、一日中、人々の憐れみを求めてうずくまる「道端の人」として過ごすだけでした。

エリコの町の外れ、路傍に座るバルティマイ。「道端の人」として過ごすものと諦めているバルティマイ。そこに、救いを願いつつ無為の時を過ごす人間の悲しさを見ることができます。

バルティマイの耳には、大勢の人々が喜びつつ神の都へ向かう巡礼の足音に混じって、その先頭に立つのがナザレのイエスであることを聞いたのです。その瞬間、彼は主イエスを「ダビデの子」と大声で呼び、憐れみを求めて叫びを上げました。

「ダビデの子」とは、伝統的に「救い主」という意味です。しかし、このマルコ福音書においては、主イエスに従う者の誰もが口にしなかった思い切った呼び名でした。弟子たちの誰もがこれまで口にしなかった「ダビデの子・救い主」という言葉を、この時、バルティマイは叫んだのです。

勿論、彼は深い意味で「救い主」と告白したわけではありません。罪とか贖いなどという信仰の深みを理解していたとは到底思えません。「救い」という言葉も、その場の苦しみからの脱出という程度だったと言えましょう。

それは、彼が自分の姿をよく知っていたからです。自分を物乞いであると自覚していたからです。物乞いをし、憐れみを求めて生きる惨めさを身にしみて感じていたからでしょう。逆に、自分の惨めさ、恥ずかしさに気付かない人は、決してこのように主イエスを求めることはない、とも言えるかもしれません。現在の生活に何とか満足している人は、必死に主イエスを求めることはありません。

バルティマイが主イエスを呼び求めて叫んだとき周囲の人々は、彼を叱って黙らせようとしました。それは彼らにとって、バルティマイのような者は仲間に数えられるべき者ではなく、相手にすべきではないと思っていたからにほかなりません。彼は、当時の人々からは、まともな人間扱いされない者でした。ですから、ナザレの主イエスから声をかけて貰うことなど、有り得ないと思われていた筈です。

誰も自分の声を聞いてくれない。誰も自分を慰めてはくれない。誰もこの惨めな状態から救い出してくれない。「ナザレのイエス以外に望みを託す方はいない」と考えたのでしょう。それがこのときのバルティマイの叫びでした。

 

主イエス・キリストを求める者には、「この切実さがなければならない」と言うべきでしょう。主イエス・キリストこそが望みを託せる唯一の方であり、「この方を見過ごしてしまっては取り返しのつかないことになる」というバルティマイの追い詰められた必死の思いでした。

また、この「ダビデの子」という称号は、「ユダヤ人の王としてのメシア」を表す言葉でもあり、この時代のローマ帝国の支配下にあっては、ユダヤ民族主義を表す危険な表現でもありました。後に、ゴルゴタの丘で十字架に架けられた主イエスの罪状に「ユダヤ人の王」と書かれたことは良く知られています。その危険な言葉を大声で叫ぶバルティマイを人々は慌てて黙らせようとした、と見ることも出来るでしょう。

主イエス・キリストは、彼の必死に叫び求める声に足を止められたのです。その叫びは、御自身がローマ帝国への叛旗と思われ立場を悪くするようなものであったにも拘らず、彼の「告白」を「よし」とされました。52節で「あなたの信仰があなたを救った」と言われているのは、この意味が含まれていると考えるべきでしょう。

49節で主イエスは、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。これを「キリストからの呼び出し」と言います。「救い」とは、この「呼び出し」の御言葉から始まるのです。そして、人々はバルティマイを呼んで、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、ありますが、ここは直訳すれば「喜べ、立て、彼が、お前を呼んでいる」という言葉です。

人々は、バルティマイに、先ず、「喜べ」と告げました。「キリストの呼び出し」は「喜びの時」なのです。そしてその喜びは、「立ち上がる時の告知」なのです。

何時までも自分の場所に固執して、これまでの生き方を頑固に守り続けて行こうとするのではなく、新しい生き方を始める時なのです。神の国へ向かう人々をただ見送るだけのバルティマイの人生が、自分もその道を行く仲間に加わった時に変わったのです。50節に彼は「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」とあります。

これこそが救われる人間の姿ではないでしょうか。「上着を捨てた」とは何を表しているでしようか。

バルティマイは乞食でした。路傍で憐れみを求める乞食にとって、「上着」とは全財産のことです。家も持たない乞食は、常にありったけのものを身に着けています。特に長い上着は、寒さを防ぐための必需品であり、寝るときには貴重な布団でもあります。どんなに汚れようとも、決して捨てることのないものです。

それをバルティマイは「捨てた」というのです。最も大事なものを「捨てた」のです。これは彼にとって決定的な変化であり、大きな決断でした。主イエスに呼び出された時、「主に呼び出された」というそのことだけで、バルティマイは「生きる不安を捨てた」とも言えるでしょう。これこそがまさに、過去の生き方の全てと訣別し、「道端の人」から「共に道を行く人」への転換を鮮烈に現しているのです。

51節で主イエスは、彼に「何をしてほしいのか」と言われました。彼は、「目が見えるようになりたいのです」と言いました。バルティマイの求めを知りながら、主イエスは尋ねたのです。必死に呼びかけ求める者の苦しみを御存知ない筈はありません。知っていながら、あえて尋ねているのです。呼び出された者は、御前で告白することが必要なのです。

パウロはローマの信徒への手紙10章10節で、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と記しています。救いを求める願いは、常に繰り返し、主の御前に差し出されなければなりません。バルティマイは正直に、自分の最も切実な問題、直面している苦しみを差し出し訴えました。

バルティマイの願いは、ただ一つ盲目からの解放でした。それ以上のことを考えてはいなかったでしょう。しかし、盲目のバルティマイを見詰められた主イエスの眼差しは、それ以上のものを見ていたのです。

52節で主イエスは、彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。何が彼の「信仰」であったのでしようか。

ここで言われた「信仰」とは、キリストの御前で相応しい姿を示すことと言えましょう。更に「なお道を進まれるイエスに従った」と記されていますが、これは「直ちにイエスに従った」と読めます。主イエス・キリストの御言葉によって、真実に価値あるものに眼が開かれた人間は、まさに、その時から、共にその道を行くのです。

これは、バルティマイが肉体的に視力を回復したに留まらず、魂の救済に至ったことを現わしています。この変化は、「主イエスの呼び出し」から始まっているのです。大切にしていた上着を脱ぎ捨て、主イエス・キリストに従ったバルティマイ、これこそが、私たちの目指す救われた者の姿です。私たちは、望みを失った「道端の人」ではないのです。

御子イエス・キリストは、共に歩むようにと、私たちを呼び出されたのです。真実の喜びが待つ永遠の世界、天のエルサレム、神の国への道は、「呼びかけられ、呼び出された私たち」のために用意されているのです。

愛するご家族共々、この豊かな「救い」の中を歩んで参りましょう。

お祈りを致します。

主に導かれて

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌2番
讃美歌243番
讃美歌520番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 51章22節 (旧約聖書1,148ページ)

51:22 あなたの主なる神/御自分の民の訴えを取り上げられる主は/こう言われる。見よ、よろめかす杯をあなたの手から取り去ろう。わたしの憤りの大杯を/あなたは再び飲むことはない。

新約聖書:マルコによる福音書 10章35-45節 (新約聖書82ページ)

◆ヤコブとヨハネの願い

10:35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
10:36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
10:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
10:39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
10:40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
10:41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

《説教》『主に導かれて』

今日の聖書箇所も主イエスが弟子たちの先頭に決然と立って、エルサレムへの旅、十字架の待つ旅の途上での出来事です。場所は明らかではありませんが、次回お話する46節ではエリコに着いていますので、ヨルダン渓谷の東側、ペレアの地方を南へ下っている頃と思われます。その道すがら、弟子たちの中心をなしているゼベダイの子ヤコブとヨハネが、主イエスに自分たちの心の中にあることを伝えたのです。

人が「共に生きる」とは、相手のことを考え、相手の心を想うということが大切です。自分と共に生きる人が、何を目指しているのか、また自分が何を求められているのか、それを考え、相手に対する配慮をもって接するのが「共に生きる」ということです。自分の要求のみ、自分の期待のみを優先させ、相手が自分に合わせてくれることだけを要求するならば、それはもはや、「共に生きる姿」ではありません。

キリスト者の人生は「キリストと共に生きる」ことです。共に歩むキリストが「何を見詰めておられるのか」を考えず、自分の一方的な思い込み、勝手な期待だけを押し付けて行くならば、人生の大切な時に、主と訣別しなければならないということも起こるのです。かつては主と共に生きる道を選びながら、何時の間にか主から離れ一人で生きるようになってしまった多くの人々を思い起こすとき、「主と共に歩む」ことの難しさを知らされます。

私たちが常に志すべきことは、「キリストと共に生きる」ということです。神の国を目指して世の旅路を歩むとき、それは、私たちが一人の人間として、自分の責任で「自分の人生を引き受ける」ということではなく、「共に歩まれるキリスト」にすべてをお委ねし、キリスト・イエスの御心に適う「生き方」をしなければなりません。

自分の人生を、「キリストと共に生きる」という絶対条件で考える時、人生の目的はもとより、私たちのあらゆる判断・努力も、また、決して自分ひとりの心から出るものではないことを、自覚するということです。

ヤコブとヨハネが主イエスに願ったのは「神の国における栄光」でした。この願いを持ったのは、この二人だけではなく、他の弟子たちも同じでした。他の十人の弟子たちは、41節にあるように自分たちが出し抜かれたと思って怒ったのでしょう。

この旅の目的について、45節で主イエスは「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と言っておられます。

主イエスは、「私の命を献げるためだ」と言われ、「そのためにこの旅を行くのだ」とはっきりと言明されました。主なる神に対する反逆の罪を、身代わりとなって負うことを決心されてのことでした。罪の代償としての刑罰、十字架に架けられる決意を明らかにされました。この御言葉は「キリストと共に生きる者のすべてを決定している」と言わなければなりません。

キリスト者の生命は、贖われた生命です。神の御子の犠牲によって罪の下から救い出された新しい価値を持つものとして、私たちは生きています。キリストの愛は、私たちのすべての思いに先立ち、キリストの御業は、私たちのあらゆる行為に先立っているのです。

弟子たちは、主イエスがもたらすものが「栄光の国」であると信じていました。現在の苦しい旅も、やがて実現する喜びの日のためであると考えていたのです。彼らは、その日に栄光ある地位に就くことを期待していたのです。

神の国における栄光を求めるということ自体は、間違いではないどころか、求めなければならないことです。キリストに従う者は、この世における栄光ではなく、「神の国」での栄光と誉れを求める者でなければなりません。「天に宝を積む」とはこのことなのです。

弟子たちが主イエスにお願いしたこと自体が間違っていたのではありません。お願いをした彼らの心の中に、「大切な何かが欠けていた」ことが問題なのです。それは、自分自身の罪の認識の欠如であり、罪の自覚がないゆえの「恐れ」の欠如でした。

この旅の目的地エルサレムで主イエスと共に二人の犯罪者が十字架に架けられ、一人は主イエスを罵りましたが、もう一人の男は「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったとルカ福音書23章にあります。この恐れおののきつつ憐れみを求める犯罪人の姿に対して、栄光を求める弟子たちの姿には、なんと隔たりがあることでしょう。自分が罪の中にあることを自覚するならば、神の国における栄光を当然の権利として要求することは、誰にも出来ない筈です。主イエスは、その弟子たちに「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と言われたのです。

38節にある「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか。」とは、弟子たちへの問い掛けであると共に、主イエス御自身の強い決意を示すものです。

「わたしの杯」とは、父なる神より与えられた使命のことであり、「わたしのバプテスマ」とは、ここでは文字通りの洗礼という意味ではなく、ご自分の使命達成のために受けなければならない「苦難」のことです。主イエスは、「わたしはその使命を受けた」と言われ、「わたしはその苦しみを受ける」と言われているのです。

そしてそのみ言葉に続いて、「あなたがたもそれを受けることが出来るか」と、責任ある人間としての生き方を、ここに改めて問われているのです。私たちの生涯の道も、今、主イエスのこの問い掛けに「如何に応えるか」ということにかかっていると言うべきでしょう。

弟子たちは「できます」と明確に答えました。この言葉は、本質を悟らぬ軽はずみなものであったと言うことも出来るでしょう。深く考えず、勢いで答えてしまったと思われます。

しかしそれでもなお、主イエスはその無知な答えを受け入れて下さっており、彼らを退けることなく、「あなたがたはわたしの道を辿るであろう」とおっしゃって下さったのです。

主イエスの十字架の後、ゼベダイの子ヤコブは、使徒の中の最初の殉教者としてヘロデ・アグリッパに剣で殺され、ペトロはローマで逆さ十字架に付けられました。アンデレはギリシアでX字型の十字架で処刑され、マタイは火刑にされ、フィリポは逆さ吊りで殺されたと伝えられています。

弟子たちの運命は、確かに、主イエスが言われた通りでした。しかしそれは、彼らが「出来ます」と答えた結果ではなく、彼らの無知にも拘らず、主イエスが彼らをその道へ導いて下さったからなのです。

主イエスが、39節で「あなたがたは飲み、受けることになる」と言われたのは、単なる将来の漠然とした可能性を意味するものではなく、「必ずそうなる」という主イエス御自身の強い意志をそこに見るべきです。それは、「お前たちを苦難へ導く」という破滅への預言ではなく、神の国への道を「決して踏み外させない」という深い顧みによる「保護と導き」と言うべきものです。

私たちは、自分の意志で歩むとき、行くべき道を誤りますが、キリストの意志が私たちを正しい道に導き、私たちの願いを永遠の御計画の中で実現して下さることを、弟子たちのこの後の生涯から学ぶことが出来るでしょう。

41節からヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた他の十人の弟子たちに、主イエスは「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と言われました。恐らく、弟子たちは、口々に自分たちの決心を明らかにしたのだと思われます。その言葉を聞いた主イエスが、「偉くなりたい」「一番上に立ちたい」という弟子たちの願いそのものを「決して否定してはおられない」ということは、まさに注目すべき点でしょう。

「キリストの右に座りたい」という願いは、決して間違いではないのです。文語訳聖書では、「いちばん上」というところを、「かしら」と訳しています。ですから、むしろ私たちは、この主の御言葉を、「偉くなれ、かしらとなれ」という「勧め」として聞くべきです。キリストに従う者は、一生懸命に無我夢中で働くのです。休むことなく、倦むことなく、神の喜ばれることを目指し走り続けるのです。その結果は、神の国で用意されているまったく新しい永遠に価値ある冠を手にすることになるでしょう。

確かに主イエスは「仕える者になれ」と言われ、「僕(しもべ)になれ」と言われました。この「僕」(ドゥーロス)とは「奴隷」という意味です。奴隷は主人の心のままに生きるのであり、主人の言葉が、その人の生涯を形作ります。

神に仕え、キリスト・イエスの僕となることこそ、偉くなり、かしらとなる道なのです。

キリスト・イエスは、私たちを神の国の末席に繋ぎ止めるために十字架に架けられたのではなく、御自身と共に、栄光を受けさせるために、私たちの罪の身代わりになられたのです。

この主の御心を想い、人生の旅路を共に歩んで下さるキリスト・イエスに感謝しつつ、信仰者としての生涯を共々に全うしようではありませんか。お祈りを致します。

信仰の勇者

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌124番
讃美歌352番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 50章6節 (旧約聖書1,145ページ)

50:6 打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。

新約聖書:マルコによる福音書 10章32-34節 (新約聖書82ページ)

10:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
10:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
10:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

《説教》『信仰の勇者』

2022年、明けましておめでとうございます。新型コロナ感染症の世界的流行の煽りで主日礼拝を自粛し、共に集まることが出来なくなり、Youtubeライブ配信など普段とは違った形で礼拝に参加して頂くことの多かった2020年と2021年でしたが、新型コロナ感染症も新しくオミクロン株の世界的再流行が懸念されているも、日本では現在感染流行は下火となって、皆様と共にやっと迎えることが出来た初めてのお正月となりました。

2020年10月第1週から、連続してご一緒に読んできたマルコによる福音書連続講解も本日で49回目で、余すところ30回ほどで、いよいよ主イエスの十字架への道を迎え、終盤の核心部へ入って来ました。

主イエスと弟子たちは十字架の待つエルサレムへの途上にありました。ユダヤ人にとって最も重要な過ぎ越しの祭が間近に迫っており、国中の人々だけではなく、世界中に散らばっていたユダヤの人々も、「自分がイスラエルの一員である」という自覚を新たにするために、続々とエルサレムへ向かっている時でした。

主イエスの弟子たちのなかにも、「過ぎ越しの祭のための巡礼」と思っていた者がいたことでしょう。その一行の先頭に主イエスが立っておられました。しかし、聖書は、弟子たちがこの時「驚き、恐れた」と記しています。何が「驚くべきこと」であり、何を「恐れた」のでしょうか。今歩んでいるこの旅が、普通の巡礼と違っていることを、彼らは何故、感じたのでしょうか。今朝、先ず私たちが注目しなければならないのはこのことです。

エルサレムへの道を辿るイエスの御姿を仰ぐ時、その旅を共にし、同じ道を行く人々の中に自分を置いて、そこで何が起こるのかをしっかりと見極めなければなりません。聖書は「イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」(32節)と記しているからです。

私たちもまた、主イエスに従ってこの世の旅路を歩いている者であり、先立たれる主イエスに、何処までも付き従うことを告白している者です。地上のエルサレムへ向かった弟子たちのように、今、私たちは天のエルサレムへの旅を、主と共に歩んでいます。その旅の途上で、私たちは、どのように主イエスを見つめているのでしょうか。あの時、弟子たちが感じた「驚きと恐れ」、それが、今、私たちの心にあるでしょうか。

私たちは聖書を読み続けていると、何時の間にか、主イエスの御姿が頭の中にイメージされます。キリスト者は誰でも、「私のイエス像」と呼ぶべきものを自分の心の中に持っている者なのです。

その「私のイエス像」に、ひとつの修正を加える必要があることを、今日、教えられるのです。

聖書時代の人々のエルサレム巡礼は、楽しい旅であったようです。家族全員の旅であり、親しい家族とグループを作り、先頭に立つ者が詩編の一節を唱えると、後に続く者がその詩を続けて唱えて行きます。人々は詩編を歌い、神の祝福を全身に受け止めながら、旅を続けて行きました。

そのような巡礼者の群れの中で、主イエスに従う者だけが、このとき「恐れ」を感じていたということは、主イエスと共に行く旅が他の人々と違って、決して楽しいとは言い難い旅であったことを告げているのです。

勿論、この時の弟子たちは、まだ主イエスが目指されていることを全く理解していませんでした。しかし、弟子たちが何も分からなかったにも拘わらず、人間がいつか忘れてしまったものを、主イエスはひとりで引き受け、ひとりで担おうとされているのです。「それを見て」と聖書が記している内容は明らかではありませんが、その毅然とした決断の御姿が弟子たちを驚かせ、恐れさせたのでしょう。

私たちはこの時の弟子たちと違って、既に、知識として主イエス・キリストの十字架と復活を教えられています。十字架と復活がもたらす永遠の生命を、キリストからの賜物として約束されています。

しかし、このような福音を知らされてはいても、なお、自分の信仰の確かさを求めるためには、エルサレムへ向かう主イエスの傍らに、私たちは何時も立ち戻らなければならないのです。

御子イエスが示された恐ろしいまでの決断の強さは、それ故に、私たちを捕らえる罪の力の強さを示して余りあるものと言えます。

十字架が待っているエルサレムへ先立って進まれる主イエスの姿を、神の御子のこの世におけるすべての行動の原因に私たち自身がなっていることを、「恐れ」をもって自覚しなければならないのです。

33節で初めて主イエスご自身が「エルサレムへ行く」という言葉を語られました。具体的な地名が明確に示されました。主イエスが目指すエルサレムは、人々が巡礼に行く楽しいエルサレムではなく、十字架が待つ受難のエルサレムです。エルサレムを目指す人々と、意味も目的もまったく違うエルサレムが見えて来ました。旅の目的地、そこにおける結末、それを主イエスは明らかに告げられたのです。この時、イエスが「弟子たちを恐れさせた」のは、受難のエルサレムを見つめる決断の厳しさであったでしょう。

それ故に、この御言葉は、御自分が果たすべく定められている使命の確認であり、同時に、すべての者へ向けてのメシアとしての宣言なのでした。

今、主イエスは、驚き恐れる弟子たちに対し、御自分の受ける苦しみをはっきりと告げられました。この予告は、8章31節、9章31節に続いて三回目です。私たちは、この三回にわたって繰り返された予告を、何と聴くべきなのでしょうか。

形式的には、御自身の身にこれから起ころうとしていることであり、弟子たちがそれを悟らなかったので三度も繰り返されたと見ることは可能でしょう。物分りの悪い弟子たちへの配慮ということになるでしよう。しかし、それだけなら、私たちは既に「そのいきさつ」をよく知っています。

それでは、私たちに「驚き」は無関係なのでしょうか。三度が一度でも十分だったと言えるのでしょうか。

現在の私たちに対し、この「三度の予告」は、単なる「無知な者への告知」という以上の「何かを意味している」のではないでしょうか。

福音書には主イエスが三度繰り返す場面が何度も出てきます。ヨハネ福音書は21章15節以下に十字架に死んで復活された主イエスによる、ペトロに対する三度の問い掛けを記しています。

十字架の死と復活という想像を絶する出来事に直面して、混乱の只中にあるペトロに対し、甦りのキリストは、「三度」にわたって「わたしを愛しているか」と問い質しました。人間の愛は常にキリストの愛によって触発されるものであり、キリストへの応答であるのです。主イエスが「三度」にわたって愛の応答を求めたということは、ペトロに対する不信感の現れではなく、主イエスの方から「三度にわたって愛の宣言がなされた」のです。「三度」とは、単なる繰り返しではなく、人間の救済への御心の深さとして受け止めるべきなのです。

さらに大切なことは、エルサレムへの旅の途上で主イエスが語られたことは、「受難の予告」と言われていますが、苦しみの予告を繰り返しておらるのではなく、甦りの予告をされているのです。主イエスは十字架の苦しみで終わらず、甦りを明らかに語られています。主イエスが繰り返し語っていることは、復活に至る父なる神の御心でした。「受難の予告」と呼ばれていても、「苦しみの予告」というだけのことではなく、甦りによって完成される「神の愛」が示されているのです。

私たちの魂への神の配慮・愛の顧みが、十字架と復活への道を実現させたのであり、それ故に、十字架と復活の予告は、未来に起こる出来事を「あらかじめ知らせた」というものではなく、父なる神が「如何に私たちを愛されているか」ということを、繰り返し告げる愛の宣言なのです。

それ故に、本日朗読された33節以下の御言葉は、私たちの救いのために、「これほどの痛みがあってもなお厭わぬ」という神の御子の覚悟です。

主は、かくも私たちを愛されました。私たちは、神の独り子が、御自身の生命と引き換えにすべての愛を注ぎ込んで誕生させた「新しい人間」なのです。そして愛された私たちは、その愛に応えることによって、初めて一人前の人間になり得ると言えます。

主イエス・キリストは、三度にわたって「わたしはこれほどまでにあなたがたを愛しているのだ」と語られました。その徹底した愛の顧みの中に私たちは置かれているのであり、私たちを掴んで離さないキリストの愛が、永遠の御国へ導いて下さるのです。

この御心に包まれた生涯の道を、共に救われた喜びをもってご一緒に歩み続けようではありませんか!

お祈りを致します。

誰が救われるのか

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌74番
讃美歌122番
讃美歌497番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミア書 32章17-20節 (旧約聖書1,239ページ)

32:17 「ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばない事は何一つありません。
32:18 あなたは恵みを幾千代に及ぼし、父祖の罪を子孫の身に報いられます。大いなる神、力ある神、その御名は万軍の主。
32:19 その謀は偉大であり、御業は力強い。あなたの目は人の歩みをすべて御覧になり、各人の道、行いの実りに応じて報いられます。
32:20 あなたはエジプトの国で現されたように今日に至るまで、イスラエルをはじめ全人類に対してしるしと奇跡を現し、今日のように御名があがめられるようにされました。

新約聖書:マルコによる福音書 10章23-31節 (新約聖書82ページ)

10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。
10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

《説教》『誰が救われるのか』

本日の物語に先立つ10章22節には、主イエスの御前にたくさんの財産をもった人が現れ、悲しみつつ去って行ったことが記されていました。永遠の生命を求めて御前に平伏しながら、御言葉に従うことが出来なかった人を見送りつつ、主イエスが弟子たちに語られたのが今日の聖書箇所です。この会話を通して、「神の国に入ること」即ち「救われる」ということが如何に困難なことであるか、ということを私たちは自覚しなければなりません。

「らくだが針の穴を通る」。実に極端なたとえであり、「不可能である」とさえ言われています。「救い」とは、このように本来有り得ない不思議な奇跡なのです。

神に逆らい、罪を背負い、なおそれを知らずに反逆者として滅びへの道を歩いていた私たちが、神の子とされ、永遠の生命を受けるということを、あらゆる奇跡に優る奇跡だと考えたことがあったでしょうか。絶対なる神、万物の主なる神、正義の神が救い上げるとは、「らくだが針の穴を通る」以上に不可能なことだと言われているのです。

多くの人々は、ここに語られた御言葉を、「財産のある者」「金持ち」のことであると考えますが、そうでしょうか。確かに、そう考える人は沢山います。所有物の全てを放棄し、世俗の富と無縁で生きようとした人は、古来、宗教を問わず大変多く知られています。

しかし、ここで語られる「難しさ」が「財産のある者・金持ちのことである」とするならば、それでは「貧しい者・貧乏人は神の国に入り易いのか」という反論が、成り立つでしょうが、神の国に入るのに、財産が問題になると言うのは釈然としません。

21節以下に記されていた主イエスの語られる財産問題はひとつの比喩でした。ここでも「財産のある者」「金持ち」という言葉を比喩として読まなければならないのです。マタイによる福音書 5章3節の有名な「山上の説教」で主イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と教えられました。

この「天の国」とは、今日の「神の国」のことです。そこに入る条件としての「貧しさ」とは、「心の貧しさ」のことなのです。しかも、主イエスが言われた「貧しさ」とは、「乏しさ」という程度ではなく、「物乞い」のことです。神の憐れみを「ほんのひとかけらでも頂かなければ、生きて行けない」と、必死の思いで、切実に求める人のことです。それが「心の貧しい者」のことなのです。

主イエスは、17節から22節で「ひとりの男」を例としてあげ、信仰に生きる人間の心構えをお話になったのです。それに対して28節でペトロが主イエスに直ちに反応して、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い出しました。果たしてそうであったでしょうか。確かに、かつてペトロは魚をとる漁師で、ガリラヤ湖畔で主イエスによる大漁の奇跡に出会い、主イエスの導きに従い、「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」のでした。「舟も網も捨てた」ということは事実ですが、それは何時まで続いたのでしょうか。ヨハネによる福音書 21章2節以下に主イエスの復活の様子がかたられていますが、そこには、「その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに二人の弟子たちが一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。」とあり、弟子たちは、主イエスの十字架の後、再びガリラヤに帰り、元の漁師に戻ろうとしていたのであり、何も変わっていなかったのです。「捨てる」とは形式的なことではなく、復帰の余地のないものでなければならないのです。「具合が悪くなったら元に戻す」というのでは「捨てた」ことにはならず、それは、「一時、横に置いた」ということに過ぎません。

そこで主イエスは、29節以下で、「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の生命を受ける。」と言われました。

これは、「自分の生活を支える身近なもののすべてを捨てよ」と主は言われるのです。「身近なもののすべてを捨てる」。財産放棄か、家出か、出家か。洋の東西を問わず、このようなことをした人は数多くいます。釈迦やアッシジのフランチェスコ、また多くの隠者、修道士、聖者など、無一物となり世界を放浪した修行者たちはいくらもいます。

しかし、家族と別れること自体に何の意味があるのでしょうか。イエスは、決して「家族と別れよ」などとはおっしゃってはいません。それどころか、30節では、それらを「百倍受ける」と言われています。しかも、その百倍の恩寵は「後の世」ではなく、原文では「迫害の中で」と記されており、岩波訳では、「今この時期に、迫害の中にあっても」と『現在』を強調しています。「捨てる」とは、「手放すこと」「別れること」のみを意味するのではなく、価値の転換を意味すると考えるべきでしょう。「私の家族」という考えを捨て、「神の家族」になるのです。「私の財産」ではなく、「神の財産」となるのです。全てをキリスト中心に考える時、家族もまた信仰の同労者、神の国への旅を共にする者となり、与えられている豊かさは、その旅路を全うするための「神よりの賜物」と見ることが出来るでしょう。かくて、この世に属するものとして執着して来たすべてがその価値を失い、神の民としての生活がそこから始まるのです。

今までのお話が、主イエスが教えられた「永遠の生命に至る道」です。しかし、「問題はここからである」とも言えます。いったい誰がこのような生き方によって、永遠の生命を獲得出来るかということです。

私たちは、自分を知れば知るほど、この道が困難であり、この方法が、自分にとって「あまりにもかけ離れたもの」であると言わざるを得ないでしょう。現実に、主イエスの前から立ち去った豊かな財産を持つ男だけではなく、私たちもまた、「それでは、だれが救われるのだろうか」という26節の言葉を、弟子たちと共に呟かざるを得ません。

31節で主イエスは、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われました。地上における先と後という順序がそのまま後の世、神の国における順序となるわけではない、ということです。マタイによる福音書21章31節では「先の者」とは祭司長や民の長老たちを指し、「後の者」とは徴税人や娼婦のような罪人を示していました。ルカによる福音書13章30節では「先の人」とはユダヤ人を、「後の人」とは異邦人を示していました。それは、神の救いが人間の功績によって得られるのではなく、ただ神の恵みによってのみ与えられることが示されています。人間の功績、どれだけ立派な善い行いをしたのかと問えば、そこには先と後という順序、序列が生まれます。しかし、その順序は神の国、神による救いにおいては何の関わりもありません。むしろ神は、恵みを際立たせるためにしばしば、後のものを先に、先のものを後になさるのです。今先頭を走っている者が真っ先に救いにあずかるわけではないし、今はまだ神の恵みを拒んでいる者が、何でもおできになる神の力によって、先に救いにあずかっていくことも起るのです。私たちの救いは、私たちの努力や功績によってではなくて、ただ神の恵みによって、主イエス・キリストの十字架の死と復活において示された神の全能の力によって与えられるのです。

自分が先に救われて洗礼を受けているといった自尊心にしがみつくことをやめて、神の恵みに身を委ねていくなら、私たちはこのような後先の逆転を受け入れることができます。そこには、お互いの地上の富を比べ合い、それによって順序、序列をつけ、どちらが先か後かと競い合い、誇って人を見下したり、劣等感にさいなまれて人を妬んだりすることから解放されて、天の富、神様の恵みに依り頼み、その恵みによってお互いに与えられている賜物を喜び合い、生かし合い、お互いに仕え合っていくような、百倍千倍も豊かな人間関係が与えられていくのです。

お祈りを致しましょう。