正しさとは何か

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌187番
讃美歌354番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 49章25節 (旧約聖書 1,144ページ)

49:25 主はこう言われる。
捕らわれ人が勇士から取り返され
とりこが暴君から救い出される。
わたしが、あなたと争う者と争い
わたしが、あなたの子らを救う。

新約聖書:マルコによる福音書 3章20-30節 (新約聖書66ページ)

3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

《説教》『正しさとは何か』

主イエスの周りには大勢の群衆が集まっていました。「食事をする暇もないほど」と記されていますが、原文では「食事をすることも出来なかった」となっており、時間がないということではなく、押し寄せた群衆によって小さな家が一杯になり、「食事どころではなかった」ということでした。主イエスに興味をもった人々で満ち溢れていたのが、初期のガリラヤ伝道でした。そして、集まって来た人々の期待は、主イエスの超自然的な癒しなどを求めてのことであり、主イエスを正しく理解していなかったということも事実でした。

先週1月31日に、13節以下をご一緒に読んだ時、この弟子たちと主イエスのお姿は教会の原型であることを述べました。教会とは主イエスが中心にあって、弟子たちを含むすべては、付随するものとも言えるのです。もちろん、弟子たちが何もしなかったのではありません。彼らも一生懸命に働いたことでしょう。しかしそれでもなお、中心に立たれるのは主イエス・キリストであり、教会に働く者は、たとえそれが十二使徒であろうと、ただキリストに従っている者に過ぎないのです。

それでは、この時、人々の目に映った主イエスのお姿はどうであったでしょうか。既に繰り返して来たように、主イエスの癒しの御業などに対し、人々が大きな興味と期待を寄せていたことも確かです。自分たちの要求、自分たちの眼に写る身近な幸福への願い、そのような人間の自己中心主義・エゴイズムが彼らの心にあったことに間違いありませんが、ただそれだけとも言えません。

自分の要求を第一とするエゴイズムは、誰にでも有るものであり、現代の私たちも同じでしょう。当時の人々と現代の私たちとは、問題や要求する事柄は違っていても、心の底にある自己中心性は変わっていないでしょう。

それならば、何故、あの時の熱狂が現代にはないのでしょうか。ガリラヤにおいて主イエスに向った爆発的と思える人々の集中には、単なる「物珍しさ」を通り越した「何か」があったと見るべきです。「イエスへの要求」という人間のエゴイズムだけを見るのではなく、かくも人々の心を引き付けた「何か」を、ここに読み取らなければならないのです。

続く21節から、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」とあります。

主イエスの家族の者たちは「イエスが気が変になった」と思いました。「気が変になった」とは曖昧な表現ですが、正しくは口語訳聖書にあるように「気が狂った」と記されているのです。また、ユダヤ人の宗教的指導者である律法学者たちは、「イエスは悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれている」とも非難しました。

しかしながら、主イエスが、病人を癒し、悪霊を追い出しているだけであったならば、家族の人々は「気が狂った」とは思わなかったでしょう。自分たちの家族の一人であるイエスが「どうしてこのような癒しの力を身に付けたのか」と不思議に思ったとしても、「取り押さえに来る」ことはなかった筈です。ナザレからカファルナウムまで約25km、石がごろごろしているガリラヤの山道を丸一日歩かなければなりません。31節を見れば、母マリアまで来ているのであり、大変な思いで駆けつけて来たと思われます。

それ程までしてナザレからやって来たということは、ただごとではない「気が狂った」としか思えない「何かがあった」と考えるべきではないでしょうか。そして弟子たちも、主イエスと同じ姿をとっていたに違いないのです。

何が、「狂った」と言われるほどに異常だったのでしょうか。それは、「何をしているか」ではなく、「どのように生きているか」ということでした。

それは先ず、彼らが平凡な生活を否定したことに見ることが出来るでしょう。ペトロたちはガリラヤ湖での主イエスとの出会い以来、家も職業も捨てたと思われ、御言葉を聞く人々にも自分たちのような在り方を勧めていたため、これ迄の生活を守る堅実な生き方を否定する危険な思想のように受け取られたのかもしれません。

また、主イエスは、多くの人々からバプテスマのヨハネの再来と見られたように、この世の権力を真っ向から否定はしなかったものの、それに従うのではなく、新しい権威、新しい価値観を説いていたと思われます。

祭司や律法学者たちは民衆の指導者であり、尊敬され、大きな権限を持っていました。会堂を中心としたユダヤ人の日常生活は、伝統的な体制に依存していました。そのため主イエスたちは反社会的行動をしていると見做されていたでしょう。加えて、主イエスの周りには当時の社会で軽んじられている人たちばかりが群がっていました。ガリラヤ湖で魚を採っていた漁師たち、軽蔑されていた徴税人、危険思想を持つ熱心党員、それらに加えて、娼婦として軽蔑されていた女性たちや難病に苦しむ人々、苦しい生活を強いられた未亡人たち。主イエスの周りに集まったのはこのような人々でした。

「神の国の到来」という福音を宣べ伝える主イエスの姿勢は、その時代の一般的な人々、特に体制派の人々には受け入れられないものでした。当時の常識的な人生の価値観と共存出来るものではなく、その時代の現実の社会体制の中で生きる者にとって「異質なもの」と見做されたのです。

私たちの周りには時折、「イエスの時代に生まれ、イエスの説教を直接聴いたら、素晴しい信仰者になったであろう」と言う人がいますが、それは大変な思い違いです。主イエスの御言葉を聴く者は、それまで自分が守って来たもの、大切にして来たものを否定する言葉を聴くのです。福音は、それまでの生活の流れを徹底的に変えることを要求しました。

今ここで、聖霊なる神が導かれる教会で、聖書を読んで分からない人は、何処へ行っても分からないでしよう。何故なら、それは聖書が難しいのではなく、心が固いからです。御言葉を拒否してしまっているからです。主イエスの時代の人々と同じように、福音を自分とは異質なものとして聴いているからです。主イエスの家族は、「言うことは分かるが、それほど迄にすることはあるまい。これはもう行き過ぎている」と思ったのです。

私たちはどうでしょうか。自分のこれまでの生活のリズムがある程度保たれ、社会の人々と折り合いをつけられるのであれば、異なる意見に対しても寛容であり得ます。しかし、自分を守る最後の場が否定されれば相手に対して寛容になることは出来ないでしょう。

律法学者たちが主イエスの奇蹟の御業を目の当たりにし、そこで示された偉大な力を見てそれを認めながら、それでもなお、悪霊との結び付きしか考えられないのも、主イエスの家族と同じ状態にあることを示しています。自分の考え、自分の生き方に合わないもの全てを、「まともではない」と決め付けるのです。

主イエスを愛する家族たちも、主イエスを憎む律法学者たちも、主イエスに対する対応が同じであるならば、それは、個人の感情的な問題ではなく、まさに人間の持つ罪の姿と言う以外ありません。福音とは、神様に背を向けた人間の眼には、「狂っている」としか見えないようなことがあるのです。

更に23節から主イエスは、「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることは出来ない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」と言われました。

この28節以下は主イエスが「悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれている」という批判に対する論駁です。そして27節の「強い人」とは、その悪霊を指しています。悪霊は、その力で人を罪と死の奴隷にし、「家財道具」のように家に閉じ込めているのです。この悪霊である「強い人」の家に押し入り、その支配下にある「家財道具を略奪しよう」とは、「悪霊に縛られている人を解放しよう」としているのです。そのためには、まず「強い人」を縛り上げるほどの強い力が必要であり、「わたしが悪霊を追い出しているのは、わたしが悪霊よりもはるかに強い力を持っていることの証明である」と、主イエスは言われているのです。

主イエスは悪霊との結び付きを完全に否定しています。そして、悪霊に憑かれていることが「気が変になっている」ということと同じであるとするならば、主イエスはここで、御自分の姿こそ「正常である」と言っているのです。そして更に、もし主イエスが正常であるならば、主イエスを「まともではない」と言う人こそ「まともではない」ということになるでしょう。「正しい」とか「まともである」ということは、それが何を基準にして判断されるのか、明らかに示されなければなりません。

主イエスは御自分の正しさをはっきりと宣言されました。そしてそれは、御自分の家族を含めて、多くの人々が「正常ではない」という宣言でもありました。「正しさ」とは「存在の正しさ」です。私たちが、今、どのように生きているかという問題です。どれだけ、世のため、人のため、また教会のために尽くしているかということではなく、どれ程人を愛して来たかということでもありません。「何のためになされるのか」ということが問われているのです。それは、「神様のため、神様に喜ばれるため」に他ならないのです。

この本来のあるべき姿を失った時、人は全て正常ではなくなると言わざるを得ません。かくて、神様に背を向けて生きる全ての人々は「まともではない」のです。信仰を与えられ神の御前に立つということは、この世の信仰のない人々の生き方から見れば異常な姿に見えるでしょう。信仰を与えられ人本来のあるべき姿として、神の国を生きる時に、人は正常な者として自分を新たに発見するのです。与えられた信仰こそが正しく人を生かすのです。

そして、28節から主イエスは、「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と言われました。

この世で人間の犯す全ての罪は赦される、しかし、永遠の罰が定められるのは聖霊を汚す者だけとあります。それは何故でしょうか。

聖霊なる神とは、キリストから遣わされて私たちのところに来られた「助け主」です。聖霊を拒否する者は、聖霊が与えて下さる神様の赦しを拒否する者であり、神様の赦しを拒否する者は最終的な裁きを受けざるを得ないのです。

ですから、全ての人間に、神様の赦し、つまり正常な人間に戻る道が備えられているのです。福音を信ずるならば全ての人間は救われるのであり、滅びる者は、自分から赦しを拒否して破滅への道を進んでいるのです。

私たちが、今、キリストに属する者、キリストの弟子として教会に召されたということは、この神様の救いの御心が、全ての人々に対して向けられている、ということを証しするためなのです。

聖書が告げる主イエス・キリストの喜びは、私たちがこの世に埋没してしまうことではなく、この世の人々と平和に共存してしまうことでもなく、弟子たちのように、周囲の人々とは違う生き方、新しい生き甲斐を持つ人間の姿を示すことなのです。「いったい、どちらが正常なのか。」との問い掛けを、生涯をかけてこの世に向って証ししていくのが、私たちキリスト者なのです。私たちの日々の生活、生きる姿によって、聖霊に助けられてこの証し人となるのです。

お祈りを致します。

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弟子たる者

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌326番
讃美歌352番
讃美歌225番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 41篇2節 (旧約聖書874ページ)

41:2 いかに幸いなことでしょう
弱いものに思いやりのある人は。
災いのふりかかるとき
主はその人を逃れさせてくださいます。

新約聖書:マルコによる福音書 3章13-19節 (新約聖書65ページ)

3:13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
3:16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
3:18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

《説教》『弟子たる者』

今日の聖書箇所は、主イエスが十二人の人々を選び出し使徒に任命する物語です。彼らは、主イエスに最も近く仕え、親しく教えを受け、驚くべき御業の数々に立会い、教会の基礎を築きました。

しかし、主イエスにはもっと沢山の弟子たちがいたのです。前回読んだ7節以下には、おびただしい群衆が主イエスに従って来たことが語られていました。本日の聖書箇所に語られているのは、その多くの弟子たち、従って来た人々の中から、「使徒」と呼ばれる特別な弟子たち十二人が主イエスによって選ばれ、任命されたのです。

主イエスがこの十二人を選び出した目的として語られていること、「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」というのは、まさに使徒たちの働きの内容です。「使徒」とは「派遣された者」という意味です。主イエスによって派遣され、主イエスの使者としての役目を果すのが使徒です。十二人の弟子たちがそういう務めへと任命されたのです。

しかしながら、そのように重要な人々であるということを意識して聖書を読んで行くと、奇妙なことに気づきます。何故なら、この十二人の弟子たちが大変有名であるにも拘らず、聖書は彼らについて極めて簡単にしか記していません。実際に、どのような生涯を送ったのかといったことについても、聖書は殆ど何も書き残してはいません。更に、この十二人が、教会の歴史の先頭に立つに相応しい人物であるとも語ってはいません。

十二使徒の中でも、最も有名なのはケファとも呼ばれたシモン・ペトロです。使徒に選ばれる前はガリラヤ湖の漁師でした。妻子もあり、弟子の筆頭として、福音書には多くのエピソードも記されていますが、彼の生涯の後半で聖書に登場するのは、使徒言行録12章17節に「そこを出てほかの所へ行った」と曖昧に書かれているだけで、それから先は、辛うじて使徒言行録15章のエルサレム会議に姿を見せるだけで、あとは分かりません。これ以前の彼の様々な行動については、聖書に多く記され、皆さんもよくご存知でしょう。

ゼベダイの子ヨハネも漁師でした。若者であり、十字架にまで付き添った唯一の弟子であり、常に主イエスの傍らにいたのですが、「そこにいた」というだけで、殆どの場合、彼自身は何も発言していません。

ゼベダイの子ヤコブは彼の兄と思われますが、漁師であるということ以外、「雷の子」という気短なあだ名が紹介されているだけで、発言は僅か二回、まともなことは語っていません。

アンデレはペトロの弟とされていますが、ヨハネ福音書でペトロを主イエスに紹介したとだけ記されています。

フィリポも漁師ですが、彼もヨハネ福音書以外姿を見せません。

バルトロマイについては何も分からず、マタイは徴税人であると言う以外何も分かりません。マタイ福音書の著者という説も確認されていません。

トマスは主イエスの甦りが信じられなかったという消極的エピソード以外不明です。

アルフアイの子ヤコブとタダイは名前のみです。

熱心党のシモンも政治結社である熱心党員であるか不明です。

裏切りで有名なイスカリオテのユダでさえ、ナルドの香油物語での発言のほかは、祭司長への密告事件以外、何も記されていません。

ヨハネ福音書を除くと、ペトロ、ヨハネ以外、殆どの人物については、些細なエピソードを除いて何も語られていないのです。これらのことから聖書は、十二人を決して特別扱いしてはいないと言えます。彼らは平凡な人間の集まりであり、人々から尊敬され重んじられていたわけでもなく、もちろん、学問的に優れている者でもありません。むしろ、粗野なガリラヤ湖の漁師たち、人々から嫌われていた徴税人、ローマ帝国に対する憎しみを暴力によって抵抗しようとしている熱心党員、そして最後には主イエスを裏切る「心・弱い人々」であり、要するに、何処にでもいる庶民の集まりに過ぎませんでした。

このような人々を見る時、とても「神の使徒」として選ばれるような必然性は何一つ見出せません。もし、主イエスが彼らを呼び出し、「使徒」という名をお与えにならなかったなら、誰一人として指導者になり得なかったでしょう。この選びが、何故、神の御業の新しい段階と言えるのでしょうか。

この使徒たちの選びの場面を見て、「これが教会の原型・ひな型であった」と言う人もいます。「教会」とは「召された人間の集まり」を指すからです。「教会」(エクレシア)とは、「呼び出す」という動詞から出来たものであり、「呼び出された者の集まり」という意味です。決して、同じ考えの人々が集まった団体というものではなく、目的を同じくする者の集団でもありません。キリストに選ばれ、キリストに召し出され、特別に集められた者のことを聖書はエクレシアと呼んだのであり、それを「教会」と訳しているのです。

「私たちの教会・エクレシア」は、私たちを呼び出された主イエス・キリストの意志・御心が全てなのです。

このように、キリストの召しを受けた全ての人間の原点が、本日の御言葉に示されていると言えるでしょう。そしてこの意味を十分に理解するとき、聖書が語る重要な点が、十二人の名前にではなく、個性にでもなく、「彼らがどのように選ばれ、何をなすべく立てられたのか」という点にあることが分かるのです。

先ず13節から、「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。」とあります。

十二使徒の任命は、山の上でなされたのです。その選びが「山の上」でなされたということは、何を意味するのでしょうか。ルカによる福音書の並行箇所、6章12節以下を読みますと、主イエスは山に登って、一晩祈り明かされたことが語られています。山は、主イエスの祈りの場所なのです。主イエスが徹夜の祈りをなさった上で、十二使徒を選び出されたことを強調しています。マルコ福音書は、ただ「山に登って」とだけ語っていますが、やはり主イエスの祈りを暗示していると言ってよいでしょう。使徒たちの任命の根本には主イエスの祈りがあると言えるのです。

同じく13節に、「これと思う人々を呼び寄せた」と記されていますが、これは文語訳や口語訳のように「御心に適った者」と訳すべきでしょう。つまり、神に召された者とは、神の御心に適った者であるのです。これは驚くべきことです。何故なら、私たちは誰でも正直に自分の姿を見詰めるならば、到底神の御心に適うような者ではないということを告白せざるを得ません。

そして続いて、十二人を「任命し」と訳されていますが、この「任命する」とは原文では「造る」という言葉です。直訳すれば「十二人を造った」となるのです。このことは私たちが心に刻みつけておくべきことです。「任命する」には、「君➁はこの任務を果す能力と資格があると認められるから、この務めに任命する」というニュアンスがあります。そしてそのように任命された者は、上司が自分を評価してくれたことに感謝して、その期待に応えるように頑張るのです。しかしこの「造った」という言葉は違います。主イエスが十二人の使徒たちを「造った」のです。主イエスご自身が彼らを「使徒」として造り出したのです。彼らが与えられた使命、神の国の福音を宣べ伝える力も、悪霊を追い出す権能も、全て主イエスによって与えられたもの、主イエスが彼らの中に造り上げたものなのです。使徒たち十二人は、ここで主イエスによって新しい者として造られたのです。十二人の使徒の任命とはそういう出来事だったのです。

キリスト者としての私たちの存在は、「キリストが私たちを愛し、選び出して下さった」ということ、ただそれのみに起源を持ち、私たちがキリスト者であり続けるということは、このキリストの愛への生涯をかけた応答なのです。

人間の価値は愛に対する応答で決まります。愛を無視したり、忘れたりする者は、自らの価値を低めるもの以外の何ものでもないと言えるでしょう。神様からのただ恵みによって愛の中に招かれた者は、その無償の愛に応えることに生き甲斐を見出すものです。

続く、14節から、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせためであった。」とあります。彼らの使命は、主イエスの使者として派遣され、神の国の福音を宣教することとその神の国、神様のご支配の印として、悪霊を追い出す業を行うことです。けれどもここには、それに先立ってもう一つのことが、使徒が立てられた目的として語られています。それは「彼らを自分のそばに置くため」ということです。使徒たちは、遣わされてあちこちへと出かけて行く前に、先ず、主イエスのそばに置かれたのです。主イエスの傍らに常におり、主イエスのみ言葉を間近で聞き、主イエスのなさる癒しのみ業、悪霊追放のみ業を目の前で見たのです。彼らの使徒としての働きはそこから始まったのです。主イエスが弟子たちを引き連れてガリラヤ中を宣教し、悪霊を追い出されたと語られていたのも、彼らをご自分のそばに置いて、主イエスご自身の宣教の言葉を聞かせ、悪霊追放のみ業を見せるためだったのです。そのような準備期間を経て、実際に彼らが宣教へと派遣されて行ったのです。

神の愛は、愛する者に新しい生き方を用意しているのです。

よく「生き甲斐とは何か」「人間らしく生きるとはどういうことか」と問われます。聖書が示す答えはただ一つです。それは「キリストの愛の中を生きる」ということです。何故なら、キリストは私たちに働く場を特別に用意して下さっており、その働く場において、私たちは御心に応える自分の姿を発見することが出来るからです。

キリストの召しとは、全ての召した者にそれぞれ固有の使命を与えられるのです。全ての者が、どのような時にも同じことを行うのではなく、それぞれが置かれた場で個性を活かし、その時と場に相応しい働く場を与えられるのです。

ここで弟子たちに与えられた使命とは何でしょうか。「宣教」とは神の国の到来を伝えることです。「悪霊を追い出す」とは神のご支配の確かさの告知であり、神の国は現実にここにあるということの証明です。

これらは、もともとキリストの御業でありました。主イエスが初めて明らかにされたことでした。とするならば、選ばれた者に与えられた「権能」とは、「キリストの御業を、キリストに代わって、この世で行うことが許された」ということです、k。つまり、「~せよ」と言われ、「その命令に服従することが求められている」ということではなく、この素晴しい務めを「私の代わりに行うことを許す」という、新しい人生の可能性の宣言として受け取ることが出来るのです。

この時、主イエスは彼らを「使徒」と名付けられました。「使徒」(アポストロス)とは、本来、「遣わされた者」という意味であり、遣わした方の権威を代行する者のことです。古代では国家の権威を代表して海外へ赴く艦隊の司令官などを表し、現代的な意味では「大使」「外交官」を意味すると言えるでしょう。

つまり、「選ばれた」「愛された」ということは、感情的な問題ではなく、キリストの代理として立てられたのであり、神の権威を表す者として生きることを、公式に認められたということなのです。

そしてこれが、現在、私たちが受けている使命です。たとえ私たちが、各地を巡ったペトロたちのような伝道者ではないとしても、キリストの権威を現す者、神の国の外交官として、「特別な務めを負っている」ということに変わりはありません。

私たちは、この使命を日々の生活の中で如何に果たしているでしょうか。「何を行っているか」ということではなく、日々の生きる姿によって「何を表しているか」ということが大切なのです。

私たちにはそれぞれ生活があります。しかし、その生活は「私の生活」ではなく、「神の国を表す生活」なのです。

私たちが、日々の生活の中で、キリストと共に生きるならば、共に生きる喜びを表すならば、それこそ、神の国に生きる人間の姿として、世の人々への証しとなるでしょう。

主に召され、神の聖なる選びの中に置かれた時、私たちは、もはや、つまらない人間ではなく、キリストによって立てられた「神の国の大使」として、この世を生きているのです。

神の国に生きる私たちの姿が、私たちのごく近くで共に生きている家族などの親しい人々に自然に伝わっていくのが私たちの伝道です。この素晴らしいキリストの救いを自分自身の生きる姿で伝えて行けますようお祈りを致します。

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イエスの拒否

《賛美歌》

讃美歌187番
讃美歌217番
讃美歌332番

《聖書箇所》

旧約聖書:エゼキエル書 35章15節 (旧約聖書1,354ページ)

35:15 お前がイスラエルの家の嗣業の荒れ果てたのを喜んだように、わたしもお前に同じようにする。セイル山よ、エドムの全地よ、お前は荒れ地となる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。

新約聖書:マルコによる福音書 3章7-12節 (新約聖書65ページ)

3:7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、
3:8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。
3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
3:10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
3:12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

《説教》『イエスの拒否』

先週の礼拝では、安息日に主イエスがユダヤ人の会堂で片手の萎えた人を癒されたことが語られました。この癒しのみ業がなされた結果、ファリサイ派の人々は出て行って、ヘロデ派の人々と、どのようにして主イエスを殺そうかという相談を始めたのです。

本日はその続きです。初めに、「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた」とあります。湖とはガリラヤ湖です。主イエスと弟子たちは会堂を出てガリラヤ湖の方へと立ち去られたのです。ここは口語訳聖書では「退かれた」となっていました。その方が原文のニュアンスを伝えています。ただ立ち去ったと言うよりも、退いた、退却したのです。それはファリサイ派やヘロデ派の人々の敵意、殺意が高まっていたからでしょう。ユダヤ人の会堂はファリサイ派のホームグラウンドです。そこから逃れてガリラヤ湖の方に退却したのです。

しかし、その退いた主イエスの周りには沢山の人々が集まって来ました。すぐ後に、「ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」とあります。

ここに出てくる地名で、「ガリラヤ」とは主イエスの活動の中心地であり、ガリラヤ湖の西側、当時カナンと呼ばれていた地方の北部にあたります。それに対して続いて挙げられているる「ユダヤ」とはエルサレムより南の地方、カナンの南半分をさしています。

また、「エルサレム」とはその真ん中、古くからの都というよりユダヤ人にとっては世界の中心である都を意味していました。これらの地域は、サマリヤを除くカナンの全域であり、ユダヤ人の全居住地を意味します。

続く「イドマヤ」とはユダヤの南、ネゲブ砂漠に隣接するエドム人の地、ヘロデ大王の出身地です。

また、「ヨルダン川の向こう側」とは現在のヨルダン王国であり、当時のペレア・ギレアドなどパレスティナ東部を指します。最後の「ティルスやシドン」とは、遠く現在のレバノンの海岸地方であり、これらはユダヤ人の居住地に隣接する全ての地域を含んだ広大な地域です。

この頃の主イエスが「これほど広く人々に知られていたとは考えられない」と言われますが、多分その通りでしょう。事実、これよりかなり後の主イエスが十字架に架かられた時でさえ、ユダヤの地方総督ポンテオ・ピラトはナザレのイエスのことを何も知らなかったのですから、主イエスの活動の初期の時代、ここに記されているような広範囲に及ぶ地域の評判を得ていたとは考えられません。

ここに挙げられている地名は、初めに見たとおり、ユダヤ人が住む地域と隣接するあらゆる地域です。ガリラヤの農民や漁師たちにとって、境を接する地域が、言わば庶民たちの「全世界」でありました。ですから、マルコによる福音書が語ることは、あらゆる所から人々が集まって来たということであり、主イエスの御前に立つ者は「一定の地域の人々、限られた人々」ではなく、「全ての人間がイエス・キリストに関っている」ということなのです。ファリサイ派たちの敵意とは別に、群衆は指導者たちの意に反してナザレのイエスを追い求めて集まり、今や、誰も止めることが出来ない勢いになっていたのです。それを聖書は「あらゆるところから人々がやって来た」と述べているのです。

しかしながら、大勢の人々が集まり、主イエスを取り囲んでいますが、群衆に囲まれた主イエスに、少しの喜びもないのは何故でしょうか。むしろ、主イエスはそこから「逃れたい」と思っておられると見ざるを得ません。

私たちは、神の栄光を表すことを人生の目標としています。キリストの喜びを願って日々の生活を送っている者です。その私たちは、このような「キリストの拒否」を考えたことがあるでしょうか。もし、キリストの喜び、キリストが受け容れて下さることを願うならば、何故ここで主イエスがこのような「拒否」を示されるのかを十分に理解しなければなりません。

今、「イエスは逃れようとしている」と言いました。この部分の主題は、まさに「逃れるイエス」なのです。7節に「イエスは立ち去られた」と記されています。「立ち去る」と訳されている言葉は「危険を避けて逃げ去る」という意味でもあり、マルコ福音書で、この言葉が使われているのはここ一箇所だけです。

7節に記されている「湖の方へ立ち去られた」とは、単なる移動ではなく、カファルナウムの街なかにある会堂から「湖岸へ逃げ去って行った」ということなのです。主イエスは何故彼らに背を向けたのでしょうか。

あえて言えば、「論争からの回避」と言うべきでしょう。2章1節からここ迄、ファリサイ派との論争を主イエスは続けられましたが、その論争から何がもたらされたでしょうか。議論をして相手を改心に導くことは極めて困難なことです。議論の危険性は、自分を見失ってしまう傾向が強いということです。たとえ自分の全てをかけた真面目なものであっても、いつの間にか、その言葉が自分を離れたところで空転して、議論のための議論となってしまうことがあるのです。

私たちの議論とは、自分の持っている知識や経験をひけらかすことから始まり、果ては屁理屈と感情的な反発でどうにもならなくなることがあります。議論で敗れたからと言って、直ちに態度や主張を変える人は極く稀れであり、後には憎しみと怒りが残るだけです。こんな経験は誰にもあることでしょう。主イエスの御言葉と御業の前に敗北した結果、「殺してやる」とまで考えるようになった6節のファリサイ派の人たちの姿は、憎しみしか残らなかった自己主張で凝り固まった多弁な私たち人間の典型でありました。

主イエスが背を向けた「危険」とは、ファリサイ派の人たちの心の中に増大するそのような「新たな罪」でした。神の御子と共に居りながら自分の頑なさに囚われ、自分の立場の砕かれることに怒りを感じる人間、ただ憎しみを募らせるだけの人間、罪に囚われた人間の惨めさ。その現実を前にして、これ以上、敵意と憎しみを増大させないために、主イエスは自ら立ち去られたのです。

実り少ない議論に終始する人間に対し、主イエス御自身、遠ざかることによって、新たな罪を増し加えることをさせぬ憐れみを示されたと理解すべきでしょう。私たちも、自分の雄弁がキリストを遠ざける結果になるということを自覚すべきではないでしょうか。

9節から10節には、「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからである。」と、主イエスは群衆から逃れようとしています。「押し寄せた」ことが危険なのではありません。「触れようとした」ことが問題なのです。

人間は古くから、「神聖なものに触れると力を受ける」と信じて来ました。5章25節以下に記されている「十二年間も出血の止まらない女」が、主イエスに近づき、「密かに後ろから触った」と記されています。「服にでも触れれば癒していただける」と信じたからです。

「触れれば治るのか」などと笑ってはいけません。東京名所の浅草寺の本堂正面の大きな鉢で、香が焚かれています。その煙を身体に付ければ無病息災、手のひらで煙を掴んで悪いところへ付けています。毎日、数え切れない数の人々が煙を自分の身体に付けようと一生懸命です。

このような行為の問題点は、「煙に力があるか否か」ということではなく、触るのが「人間自らの自発的な行為である」というところにあります。立ち上る煙に奇跡を生む力があると思う人間の意志と、その力を利用しようとする人間の行為が奇跡を生むと考えられています。それ故に、人は先を争って煙に手を差し伸べるのです。不思議な力を持つ神を自分の欲求のためにのみ利用しようとする人間の姿。これが「罪」の現実であり、現在の世界の実情を雄弁に物語っていると言えましょう。

既に見たとおり、マルコは「あらゆる所から人々が集まって来た」と語っていました。そして、その人々がただ主イエスを利用するだけであるとするならば、実は、「あらゆる人々が全て罪の中にある」という決定的な告発になっているのです。ここに記されているのが全ての人間の問題であるとするならば、全ての人間はキリスト・イエスの御前で罪の姿を示していることをマルコは語っているのです。

主イエスはその人々を拒否されたのです。罪の中にある者をキリストが拒否されるということには、理解し難いものがあるかもしれません。もちろん、キリスト・イエスは、罪の中にある者を救うためにこの世に来られた方です。しかし決して、罪の行為に迎合する人間を赦されないのです。私たちは、その罪を知り、御心から離れた自己本位な姿勢が、御子キリストから徹底的に拒否されていることに目覚めなければなりません。私たちが、その自分の罪を知り、御心から離れた自己本位な姿勢から離れること、それこそが、「悔い改め」なのです。

そして、11節には、「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ。」とあります。何とそれに続く12節では「イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」とあります。

汚れた霊たちの「あなたは神の子だ」という言葉は、確かにファリサイ派の人々や群衆より正しいと言えるでしょう。

ファリサイ派は主イエスが神の子であることを認めませんでした。群衆は主イエスが神のような力を持つことしか認めませんでした。それに反し、汚れた霊ども、つまり汚れた霊に憑かれた人たちは「イエスは神の子である」と人々の前で叫んだのです。その言葉は私たちの「信仰告白」と同じです。しかしその告白を主イエスは拒否されたのです。

「厳しく戒められた」と記されていますが、「戒める」と訳されている言葉は「叱る」という意味の言葉です。「イエスは悪霊を厳しく叱りつけ、そのようなことを絶対に口にしてはならないと命じられた」という意味です。

正しい告白が、何故、拒否されるのでしょうか。主イエスは、何故、その告白を禁じたのでしょうか。

「汚れた霊」「悪霊」とは徹底的に神に敵対するものです。主イエスが神の子であるとの正しい認識を持ったとしても、その本質は変わりません。「汚れた霊に憑かれた者」とは、昔の人々の迷信ではなく、正しい知識を十分に持ちながら、また正しくその事柄を認識しながら、なお自分自身を変えようとしない人間を意味するのです。自分自身が「小さな神」となり、永遠なる神の絶対性を信じない者、神を自分の都合のためにのみ利用しようとする者、それらを「汚れた霊に憑かれた者」「悪霊に憑かれた者」と呼ぶことが出来るでしょう。

主イエス・キリストは、そのような人々との共存を拒否されるのです。「信仰告白」とは、単なる言葉ではなく、その言葉を「生きる姿で如何に表しているか」ということを問われているのです。

ここまで、主イエス・キリストが、人間の罪に対して徹底的に背を向けられることを見て来ました。私たちはこの主イエスのお姿から、罪の世界に埋没した人間の悪に対する、毅然とした姿勢を読み取らなければなりません。主イエスは人々の罪に対して、いささかの妥協もなさらないのです。如何に多くの人々が集まろうとも、ただそれだけで喜ばれることはないのです。

この日の会堂に集まった人々は、期待外れで落胆したでしょう。自分の苦しみを解決して貰えなかった人々は、かえって絶望したかもしれません。故郷ガリラヤの人々を愛する主イエスにとって、むしろ実に辛いことであったでしょう。

しかし主イエスは、この辛さに耐えて行かれたのです。いやそれどころか、むしろそれ以上に、罪に埋没している人々の姿を見ることによって、更に、十字架への道を歩むことの意味とその必然性を確信されたと言えます。

主イエス・キリストの十字架は、自己中心に生きる私たちに対する、神の正義による拒否です。そしてその拒否こそ、愛の頂点なのです。神様が喜ばれる生き方とは、キリストの断固とした拒否の中に「愛の道標(みちしるべ)」を見出し、御前に悔い改めてヘリ下ることから始まると言えましょう。

お祈りを致します。

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怒る主イエス

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌Ⅱ-57番
讃美歌9番
讃美歌23番

《聖書箇所》

旧約聖書:コヘレトの言葉 3章19-20節 (旧約聖書1,037ページ)

3:19 人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、
3:20 すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。

新約聖書:マルコによる福音書 3章1-6節 (新約聖書65ページ)

◆手の萎えた人をいやす

3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

《説教》『怒る主イエス』

本日からは、マルコによる福音書の3章に入ります。最初の1節に「イエスはまた会堂にお入りになった」とあります。1章の21節以下に、主イエスがカファルナウムの町の会堂に入って教えたことが語られていました。そして1章39節には、主イエスがガリラヤ中の会堂に行って教えを宣べ伝えたとあります。主イエスはガリラヤ地方で伝道の活動を始められたのですが、最初の頃にはあちこちの会堂で教えられました。会堂とはシナゴーグと呼ばれ、ユダヤ人が安息日ごとに集まって神様を礼拝し、律法の教えを聞く所です。主イエスはその安息日の礼拝に出席して、そこでお語りになったのです。

この日の会堂には、「片手の萎えた人」がいました。主イエスが話をしておられる、その礼拝、集会の場に、障碍を負って苦しんでいる人がいたのです。そこに集まっていた人々は、主イエスがこの人を見てどうなさるかに注目していました。2節には、「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」とあります。主イエスと弟子たちは安息日の掟をきちんと守っていない、という批判が高まってきていたのです。そういう中で、人々は主イエスが安息日に、この「片手の萎えた人」を癒すのかどうかを注目していました。それは「イエスを訴えようと思って」のことです。主イエスが癒しをされたら、安息日にはしてはならないことをしていると訴えよう、という悪意をもって注目していたのです。

ところで、安息日に人の病気を癒すことはしてはならないことなのでしょうか。当時の律法学者たちの見解においては、命の危険がある病気や怪我の治療は安息日にも行ってよい、とされていました。しかし今すぐ治療しなければ命に関わるのでない、明日まで待つことができる治療行為は、安息日には休まなければならない「仕事」に当たると考えられていたのです。普通の医院は休みだが救急病院はやっている、というのと同じです。この人が、「片手の萎えた人」だったと語られていることにはその点で意味があります。これは、今すぐどうにかしなければ死んでしまうという状況ではないということです。安息日はその日の日没には終わるのですから、数時間待って、日が暮れてから癒しを行えば、安息日の掟にひっかかることはないのです。今この会堂での安息日の礼拝の中でこの人を癒すというのは、当時のユダヤ人たちの感覚では、律法を意図的に破ることを意味していたのです。

 

まさに、主イエスご自身もまさに意図的にそれをなさったのです。3節に「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた」とあることから分かります。この人をわざわざ会堂の真ん中に連れ出したのです。それはある意味では残酷なことです。片手が萎えているという障碍を負って生きているこの人は、ただでさえ人々から好奇の目で見られ、つらい思いをしてきたのだと思います。なるべく人前に出たくない、人々に自分の姿を見られたくない、というのが、この片手の萎えた人の思いだったのではないでしょうか。それを、多くの人々が集まる安息日の会堂の真ん中に立たせるなんて、主イエスはなんと思いやりのないことをするのだ、とも感じられるかもしれません。

加えて、当時の人々が病気や身体の障害について持っていた特別な意識を理解しておく必要があります。これまでもお話ししましたが、当時の人々は、幸福が神からの賜物であると信じた反面、不幸、この場合身体に障害があること、そこに神の怒り・裁きを指摘し、苦しみは神の怒りの現れであり、「その惨めさの中で罪の悔い改めをしなければならない」と教えられていました。幸いを与えて下さる神が苦しみを与えたとするならば、それ相応の理由がある筈であるとしたのです。これはまことに残酷な考え方であり、病気・障害の苦しみという肉体的苦しみに、更に精神的な苦しみを加えるものと言えるでしょう。

神の罰を受けていると見做されている人が、この時、会堂に居たのです。もちろん、不自由な手を癒してもらうために来たのではありません。定められた日に御言葉を聞くために、肩身の狭い思いをして、会堂の隅にいました。

会堂の席は、長老を筆頭に、律法学者・ファリサイ派の人たち、そして地域の人々が席を占め、「罪人」と呼ばれ差別されていた人々は一番後ろとされていました。長年の病気や肢体の障害で苦しむ人々は、礼拝においても人々の眼を意識しなければならないのであり、会堂に入ること自体、既に苦痛であったでしょう。会堂に来ることに喜びが見出されなかったと思われます。

会堂とは神の御言葉を聴く場所であり、神の御心を求めて祈る場所です。語られる御言葉を通して神の愛が満ち溢れる場です。その安息日の会堂で、彼らは主イエスを「訴えよう」と伺っていたというのです。2節にある「イエスを訴える」とは「告発する」ということです。同じく2節の「注目していた」という言葉は「悪意をもって様子を伺う」という意味です。「訴える」根拠は「安息日に肉体の苦しみを癒す」ということでした。彼らの主張は、「安息日の癒しは神に背く行為である」ことだからです。

しかしながら、聖書には「安息日を聖別せよ」とは記されていますが、「安息日に病気を癒してはならない」とは書かれていません。「安息日には神との交わりを重んじよ」これが律法であり、御心です。その安息日の会堂を、形式だけを厳守して、神を讃美する場を裁きと憎しみの場に変えてしまった人々こそ、安息日を汚したと非難されるべきでしょう。

 

主イエスの御言葉は人々にとって意外なものでした。人々は「イエスが密かに何かをするかもしれない」と見守っていたのであり、どんな小さな過ちでも許さないという気構えで注目していたのです。しかし主イエスは、会堂に満ちた人々に本質を示される道をお選びになました。

主イエスは、その男に「真ん中に立ちなさい」と言われました。父なる神の御心が「ここに立っている不幸な男を見放したままで有り得るのか」。それを主イエスは人々に問い掛けられたのです。

そして、続く主イエスの御言葉の「善を行うこと」と「悪を行うこと」。「命を救うこと」と「殺すこと」、このどちらが良いかと問われ答えられない人はいないでしょう。誰にでも分かることです。極めて簡単明瞭であり、ファリサイ派の人々も律法学者たちもこのことを教えて来た筈です。しかし、「彼らは黙っていた」と記されています。この沈黙は何でしょう。「善を行うこと」「命を救うこと」。「それらが良いことである」と知っていながら、はっきり言えない人々、それがここに集まっている人々の姿なのです。

もし、単なる理屈であるならば、彼らは雄弁に答えることが出来たでしょう。ファリサイ主義は議論を重んじ、律法学者たちは聖書の引用によって神学を展開する専門家です。

しかし、主イエスは神学議論をしようと言っているのではありません。片手の萎えた男を真ん中に立たせ、「この男の姿を見ながら答えよ」と迫っているのです。善について語れ、愛について語れ、救いについて語れ。そういうことではなく、「今、ここで、行うべき正しい業は何か」と問い掛けておられるのです。

主イエスが「見よ」とおっしゃっているのは、「神の赦しを必死に求めている一人の人間」のことです。この人の苦しみに対し、この人の祈りに対し、今、何をなすべきであるのかということです。「手が不自由なら手を治してやればよいではないか」ということではありません。「障害を癒してやればよい」ということでもありません。それは、医師の務めです。

安息日の朝、この場に来た人々は神の御心を聴くために集まり、神の栄光を祈ろうとしている筈です。それならば、栄光の主の御前において、苦しむ者と共に祈り、神の慰めが与えられることを願うのが「安息日に相応しい信仰者ではないのか」ということです。

真実に神の御前に平伏し、御心に従い、神の愛を信じ、苦しむ人と心を共にする時、一刻も早く平安が回復されることを望むのが、安息日に生きる人間ではないでしようか。身体の障害の問題ではなく、罪の重荷を背負わされている人の苦しみを、自分の苦しみと思えなくなっている心が問われているのです。会堂に集まっている人々の心に、この人の苦しみがどのような形で伝わっているのでしようか。主イエスは、ファリサイ派の人々の姿が「形式に囚われている」ということだけを非難しておられるのではなく、「今、心が、本当に、神に向けられているか」ということを厳しく問い掛けておられるのです。

 

4節で主イエスは、「安息日に律法で許されているのは、どちらか?」とは、「私たちはどう思うか」「あなたはどう思うか」という判断を求めているのではありません。「神は何を望んでおられるのか」という信仰の根源の問題を問われているのです。ファリサイ派の人々の沈黙はこの問いへの沈黙であり、神の御前にあって、「神を見ようとしない姿」と言わなければなりません。それ故にこの沈黙は、神と人間との恐ろしい断絶を表すと言うことも出来るでしょう。そしてこの断絶は、今日に至るまで私たちと神の間に続いているとも言えましょう。

 

5節で、「イエスが怒った」と記されていますが、主イエスが怒られたのは聖書ではこの場面だけで、他に10章14節に「憤る」という言葉があるだけで、主イエスは極めて温厚な方でした。ここで明らかにされた主イエスの怒りは、人々の答えが間違っていたとか、答えようとしなかったからではありません。神を仰ごうとしない人間の頑なさに対する怒りです。御心を考えるべき時、神の判断を仰ぐべき時に神の判断を仰ごうとしない人間への怒りです。それは、人間に対する愛を貫き通そうとする、神の御心に背を向け続けている者への神の悲しみの怒りです。

主イエスは、集まった全ての人々を慈しみの眼差しで見詰めておられるのです。律法を読みつつもそこに込められた神の御心を見ることが出来なくなってしまった人々に、神の愛、神の御心が、人間の苦しみをこれ以上放置し得ないということを、この癒しの奇跡を通して示されたのです。病気を癒す力があることを誇示するのではなく、父なる神は、何時如何なる時でも人間の苦しみに対して敏感であり、救いに篤く、「明日まで待つ」などとはお考えにならないということを示しているのです。

 

最後の6節に出て来るヘロデ派の人々とは、福音書の中に3回出てきます(マタ22:16、マコ3:6、12:13)が、ヘロデ王朝を支持する利権を握ったユダヤ人の団体で、ローマ帝国の支配を背景に、ヘロデ王家のユダヤ支配を望んだ人々で、極めて政治的色彩の強い団体でした。信仰を軽視し、礼拝生活を重んじない政治グループです。この安息日の会堂にも居なかった筈です。安息日厳守のファリサイ派から見れば、とんでもない人間の集まりであり、ファリサイ派の人々が敵視する集団です。ファリサイ派が会堂から出て、そのヘロデ派と相談したとは何たることでしよう。敵の敵は味方同士というべき、神に心を向けず、キリストの御言葉に従わない人間は「会堂の外において一致する」という現代に通じる姿を示しており、彼らの一致は、「キリストを抹殺しよう」ということでしかないのです。

 

安息日に関する一連の論争は、このようにして、人間の罪の深さと惨めさとを隠すことなく暴露して終わりました。主イエス・キリストの愛を踏みつける人間の姿が、神様が定められた一番大切な日に、一番大切な場所で顕わにされたのです。

この物語、論争の終わりが、「会堂に留まる主イエス」であり、「会堂から出て行くのが反対者である」という6節は、実に暗示に富んでいると言えるでしょう。父なる神より遣わされた主イエスが居られるところに、そして主の御言葉のあるところに、この教会にこそ、私たちの留まる場はあるのです。

神の御心を求める者の傍らに、主は必ず共に居て下さるのです。

キリストと共に会堂に留まる時、永遠に変わらず注がれている神様の愛が、私たちを支え続けるのです。

お祈りを致しましょう。

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