聖霊が降る

ペンテコステ礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌181番
讃美歌183番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨエル書 3章1-5節 (旧約聖書1,425ページ)

◆神の霊の降臨
3:1 その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。
3:2 その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
3:3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。
3:4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。
3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

新約聖書:使徒言行録 2章1~13節 (新約聖書214ページ)

◆聖霊が降る
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

《説教》『聖霊が降る』

「五旬祭の日が来た」と本日の物語は始まっています。この祭りは、旧約時代に守られていた「七週の祭」に由来するもので、元来、小麦の収穫を祝う日でした。申命記やレビ記の定めによれば、過越祭の安息日が終わり大麦に鎌を入れ収穫し始めました。過越しの日から七週後、即ち、五十日目に小麦の収穫が始まり初物を神に献げる「七週」「50日」後に当たります。更にこの日は、「過越の閉じる日」とも呼ばれ、過越祭に始まる一連の春の行事の終わりの日とされ、すべての仕事を休み神殿に集まる大切な日でありました。この祭が、過越から数えて五十日目にあたることから、「五旬節」とも呼ばれ、そのギリシア語がペンテコーストス「50番目の日」なのです。ですから、ペンテコステは、穀物の収穫を祝う日であり、本来、それ以上の何ものでもありませんでした。
「五旬祭の日が来た」。私たちが、先ず注目するのは、この「来た」と訳されている言葉であります。この言葉は「満たす」という意味の言葉を強めたものであり、「時が満ちた」「いよいよその時が来た」という内容を持っています。
「時が満ちる」とは、重要な出来事、予告されていた事柄の実現の近いことを意味します。ですから、ただ「過越祭から五十日が経過した」ということではなく、「ペンテコステの日に満ちる時」とは何か、「満ちる時そのもの」に眼を向けなければなりません。そして、「満ちる時」を理解するためには、当然、それに先立つ「約束」を思い返さなければなりません。
主イエスが十字架に向かわれる前に弟子たちに約束していたことを思い出してください。新約聖書200ページ、ヨハネによる福音書16章12節から14節に「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」とあります。主イエスはご自身がこの世から去られた後に、聖霊を送られることを繰り返してお約束になったとヨハネ福音書は記しています。残された弟子たちの苦難を予告されると共に、その苦しみが喜びに変わる日のことを、はっきりと告げられました。「真理の霊」をこの世に送り、その聖霊なる神こそ、私たちの「助け主」であり、「すべてを父なる神の御計画に従って整える」ということを、主イエスは約束されました。
もちろん、十字架前夜の弟子たちには、その御言葉の意味が分からなかったでしょう。しかしながら、主の御言葉が謎に満ちていたにせよ、「来るべき日には、何かが起こる」ということは、弟子たちも感じ取っていたのです。
そのあとに続いた十字架と復活を巡って、明らかとなった弟子たちの惨めな姿、裏切りと挫折、混乱と絶望。それらを通して、主イエスは、新しい御業へと弟子たちの眼を向けさせて、「来るべきその日」に対する信仰の姿勢を整えさせたのです。
本日の使徒言行録2章1節から3節に、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。
これが、この世に教会が初めて誕生した時でした。いったい、何が起こったのでしょうか。
1章12節以下によれば、すでに使徒と呼ばれた弟子たちや主イエスの家族を含めた主イエスに従って来た人々120人程が皆、「心を合わせて熱心に祈っていた」のです。彼らには祈ることしかありませんでした。祈る以外、なすべきことがなかったと言ってもよいでしょう。父なる神の御許に帰って行かれた主イエスの御言葉に彼らはすべてを委ねるようになっていたからです。彼らは、「この時」を待っていたのです。神の力が与えられ、為すべきことが教えられる「時」を、ひたすらに待っていました。それ故に、この2節の「突然」という言葉が、言いようもない「喜びへの招き」として響いて来るのです。
私たちは、聖書の御言葉を読むとき、ときとして、理解できない出来事にぶつかります。神の御心は、「理解できないことがあまりにも多すぎる」ということは事実です。それは、神の知恵によるものであり、私たちとは比べものにならない深い御心から出ているからです。それ故に、理解できない、不合理であると言って御言葉を退けるならば、一番大切なものを失ってしまうことにもなります。「不合理なるが故に信ず」という古典的な告白は、キリスト者すべてに共通なものと言えるでしょう。信仰とは、理解できないことを信頼することなのです。主イエス・キリストが父なる神の御心を受けてすべてを良いようにしてくださる。私たちは、その時を待つことに最大の努力をすべきです。
「激しい風が吹いて来るような音」。「炎のような舌」。すべては「~のような」という表現であり、その時の光景を、直接的・具体的に語ってはいないことに注目すべきです。それは、「風」ではなく「炎」でもなく、「舌」でもありません。何ひとつはっきりと示されてはいないのです。
「天から聞こえた音」とは、「風の激しさ」を表現するものです。眼に見えぬ「風の激しさ」は、「音の大きさ」でしか表現することはできません。それでは、これほどの激しさで迫って来る「風」とは何であったでしょうか。「風:プノエー」とは、「息」という意味です。ここで語られている「風」とは、自然現象である「空気の流れ」ではなく、「神の息」のことなのです。
神の驚くべき力を秘めた聖霊に、突然満たされた人間の驚き、それは、あたかも全世界に響き渡るような強烈な体験でした。彼らは、頭の中で「聖霊に満たされた」と考えたのではありません。そう「思い込んだ」のでもありません。人間の思いのすべてを遥かに超える「神の力」に包み込まれてしまったのです。
それ故に、生命と力とに満ちた聖霊なる神を、「風と炎のような舌」という想像を絶するような表現で語る以外に方法を知らなかったと言うべきでしょう。
4節には、「すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」とあります。
これこそが聖霊なる神が降られた目的であり、新しく造られた教会の姿です。彼らは語り始めたのです。どこの国の言葉で語ったのか、何ヶ国語であったのかを考えることは意味のないことです。ペンテコステの日に起こったことは、語学の天才の誕生ではなく、「教会の誕生」です。それ故に、教会とはどのようなものであるかを考えることが何よりも大切なのです。
私たちの教会は、「すべての人間を救う」という神の永遠の御計画の中で、欠くことの出来ないものとして新しく造られ、今、このように存在しています。教会は、復活のキリストが、御自身世にとどまって親しく導かれること以上の大きな働きをするためのものとして、特別に与えられたものなのです。
「神の時」が新しく教会を生まれさせ、罪の中に生きて来た誰もが予想すら出来なかったにもかかわらず、恩寵の賜物として新しく建てられたのが「聖霊の宮なる教会」なのです。聖霊の宮である「教会」に生きる喜びに満たされること、それこそが、主が約束して下さった「来るべきその日」のキリスト者の姿なのです。
先ず、ここで注意しなければならないことは、ここに集まっている人々は、「すべてユダヤ人である」ということです。それが5節の指摘することでした。また、9節以下の一覧表は、「各国の人々」という意味ではなく、「それぞれの地方から帰って来た人々」ということであり、これも「ペンテコステのために海外から帰って来たユダヤ人」と理解すれば十分でしょう。この帰って来たユダヤ人とは、紀元前597年のバビロン捕囚に始まったユダヤの地から離れていったユダヤ人で、エジプト、小アジヤ、ローマ等に広く離散して、新約時代のアレキサンドリアには100万人以上も居ました。これをディアスポラ「離散」のユダヤ人と言います。現代的に言えば、それらの人々が祭りのために故郷に帰省したということです。
4節の「ほかの国々の言葉」という表現は、何を表しているのでしょうか。ある人々は「離散したユダヤ人の各国の言語による証しだ」と説明しています。それにしては、人々が7節にあるように「驚き怪しんだ」り、13節の「驚き、とまどった」のは何故でしょうか。11節の「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞いた」という驚きと、13節の「新しいぶどう酒に酔っているのだ」という嘲りは、同時には理解できません。加えて、この場にいた多くの人々の悔い改めは、14節から始まるペトロの説教を聴いた後に初めて起こって来たのです。人々の悔い改めは37節の「わたしたちはどうしたらよいのですか」という正しい反応へ導いたのはペトロの説教でした。ここでの、「とまどいと嘲り」しか引き起こさなかった「証し」とは、いったい何であったのでしょう。
これも2節以下と同じく、聖霊の御業を語る「信仰的表現」と考えることができます。即ち、5節以下は、4節の表現方法なのです。聖霊降臨を語る聖書は、その実態を明らかに語る表現方法を持ちませんでした。それと同じく、そこで始まった聖霊の御業も、このように表現するしかなかったのです。
4節の「ほかの国々の言葉」と訳されている「言葉」には、「恍惚状態」という意味もあるので、正しくは、「異なる言語」ではなく「異なる言(ことば)」、あの「言(げん)」と一字で書いて「言:ことば」と訳すべきだとも言われています(岩波訳、岩隈訳、永井訳)。神の霊によって導かれる者は、自分の知恵・自分の思いではなく、神の知恵によって語り、「自分の想いを遥かに超える事柄を語る」ということです。そもそも福音とは、そういう要素を持つものなのです。
「このとき語られたのは何ヶ国語か」ということではなく、聖霊なる神によって、「教会は、今や、全く新しいことを始めたのだ」ということを告げているのです。告げられたれた内容が大切なのです。まさに、ヨハネ福音書1章1節で語られているように、「言(げん)」一字で「ことば」と呼ばせた「ロゴス」が示されたのです。
ヨハネ福音書14章27節で主イエスは、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教える」と言われ、また今日の聖書箇所使徒言行録1章8節では、「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」とも言われました。その約束された「力」こそ「言」と漢字一字で書いた「ことば・ロゴス」なのです。神の力は、「ことば・ロゴス」となって人々の心の中に深く送り込まれるのです。それは、人間の業ではなく、人間の才能によるものでもありません。それは、神の業であり、神の力なのです。
9節から11節に記されている地名の一覧表も、単純に、表面的に見るのではなく、信仰の知恵によって、まったく別な意味で理解することが出来るでしょう。この地名は、厳密に語られているのではなく、言わば、代表として挙げられているのです。ユダヤを中心としてみると東方の4地域、北方の5地域、それに南方の2地域の11の地域であり、これにローマを加えれば十二です。十二は、民族を表す完全数であり、「全世界を表す」と考えられます。「西」がないと言われるかもしれませんが、ユダヤの西は地中海です。そこで、「この地名表をもって全世界を表す」という解釈が生じて来るのです。さらに、海の民の代表としてのクレタ、砂漠の民の代表としてアラビアを加えて完全さに念を入れたと考えられます。
「ユダヤが出発地であり、ローマが目的地である全世界を表す」と解釈することが出来ます。そのすべての人々が「今や福音を聞く時が来た」という宣言です。
13節の「新しいぶどう酒に酔っている」は、「安物の酒で悪酔いしているような、わけのわからない妄言」「理解できないことば」としか、この世の人々には受け止められなかったことが示されています。それだけに、聖霊の導きのもとに行われた教会の出発は、「全く新しいことであった」と言われるのです。
神の御業の先頭を走るべく建てられた教会が、世の人々から受ける反応も、このときの人々の反応と似ていると言えます。「福音をすべての人々へ」。「すべての人々に対する神の国への招き」。どこの国ではなく、どこの地域でもなく、すべての人々への招きを教会は語り始めました。
教会は、神の御心を実現するために誕生し、教会に集まる人は、神の御心に仕えるのです。
周囲の人々からのいかなる嘲りや無視、妨害さえも、世界は神の御心の下にあって、神の御業の働く場であり、御心は、「この世界に生きるすべての人間の救いである」という福音を、教会は語り続けるのです。
4節によれば、語り出したのは「聖霊に満たされた全員」でありました。「誰が」というのではなく、「一同」が「一斉に」語り出したのです。それが聖霊の御業です。聖霊に満たされた者は、語らずにはいられないのです。
これこそが、私たちのこの教会に与えられた聖霊の働きなのです。
お祈りを致しましょう。

<<< 祈  祷 >>>

その男はあなただ

《賛美歌》

讃美歌187番
讃美歌286番
讃美歌517番

《聖書箇所》

新約聖書:使徒言行録 2章29~30節 (新約聖書216ページ)

2:29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。
2:30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。

旧約聖書:サムエル記 下 12章1~17節 (旧約聖書496ページ)

12:1 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。
12:2 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。
12:3 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。
12:4 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
12:5 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。
12:6 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」
12:7 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、
12:8 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。
12:9 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。
12:10 それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』
12:11 主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。
12:12 あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」
12:13 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。
12:14 しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」
12:15 ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。
12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。
12:17 王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。

《説教》『その男はあなただ』

今日は、チョッと私事から話を始めます。私が東京神学大学修士2年の卒業に修士論文作成の真っ最中の2017年に周りの心配をどこ吹く風とイスラエル旅行に行ったのですが、そのエルサレムではてっきり注目すべきはイエス様の関係する遺跡と思いきや、何とダビデ王関係の遺跡ばかりが重視されていることでした。旧約聖書に関係する遺跡ばかりで、新約聖書関係の遺跡は殆ど注目されていませんでした。まあ、考えてみれば、イスラエルはユダヤ教徒の国ですから、当然と言えば当然だったわけですけれど…。

その旧約聖書が語るとおり、ダビデ王は政治的にも軍事的にも大変優れた才能を持ち、人間的にも人を惹きつける魅力を持って、更に、篤い信仰者であり、アブラハム以来イスラエル民族に伝えられてきた神の御言葉をこの世に実現する者とも見られていました。従って、彼の王国は、後の時代の人々には神の約束の「眼に見えるしるし」として映り、来るべき救い主・メシアは、ダビデ王との「新しい約束」として働かれると信じられていました。後世のイスラエルの人々は、自分たちを「ダビデの子孫」と名乗ることよって、神の祝福の下にあることを確かめました。主イエスもまた、多くの人々から「ダビデの子」と呼ばれたことは福音書の記すとおりです。

イスラエル王国のダビデ王は、イスラエル史上最大の人物であるだけでなく、雲の上の存在であった信仰の祖アブラハムと、イスラエル民族をエジプトから救い出したモーセに次ぐ信仰者とも見なされた人物でした。

しかしながら、そのダビデもまた、私たちと同じ人間でした。「同じである」ということは、ダビデもまた、罪を背負って生きた人間であり、神の顧みの下でしか生きることができなかったと言えましょう。ダビデが犯した過ちと、下された神の裁きは、罪に捉えられて生きる人間そのものの姿であり、彼が神から受けた恵みは、憐れみがなければ立ち上がることもできない私たちの姿そのものであると言えるでしょう。ダビデの生涯における、代表的な醜いこの事件は、まさに人間の弱さを示すと共に、神の赦しの御心の大きさを示すものとして、伝えられてきたのです。いわゆる、バト・シェバ事件と呼ばれるこの物語は、11章から始まっています。ある日の夕方、ダビデが王宮の屋上を散歩している時に美しい女性が水浴びしているのを偶然見かけたのが発端でした。彼女は、ダビデ王旗下のイスラエル軍の将軍であるヘト人ウリヤの妻バト・シェバでした。

その頃、イスラエルは東の強敵アンモンと戦っており、ヨアブを総司令官とする遠征軍は、アンモンの都ラバを包囲中でした。ラバとは現在のヨルダンの首都アンマンのことです。ラバの城は要害堅固な丘の上にあり、切り立った崖に城壁を巡らしていました。イスラエル軍は、城を包囲したものの攻め倦み、苦戦を強いられていました。ヘト人ウリヤが総司令官ヨアブに従う将軍の一人として、ラバの前線にいた時に、この事件は起こったのでした。時は紀元前千年の頃、今から約三千年昔でした。遠い昔、古代世界の王がどれ程の権力を持っていたか、想像することは容易でしょう。専制君主たる王は国民の生死を自由にする権力を持ち、戦争で得た民は奴隷として売り払うことが一般的でした。現代的な人権思想や倫理的見方は全くない時代であり、権力だけがすべての時代でした。ダビデはバト・シェバを見初めたのですが、彼女の夫は自分の将軍の一人であるウリヤです。そこで彼は悪知恵を働かせ、ウリヤを激戦の続く最前線へ送り、戦死させるよう総指令官ヨアブに命じました。ダビデの意を受けたヨアブはウリヤに最も危険な前線への攻撃を命じ、ウリヤは戦死してしまいます。そして、ウリヤの死後、未亡人となったバト・シェバを、ダビデは堂々と迎え妻とした、というのです。絶大な権力を手にし、国民から圧倒的な支持を得ていたダビデにとって、自分の目に留まった女性を妻の一人とするのは当然のことと考えられたのでした。ダビデの息子で次の王ソロモンは、妻六百人、妾三百人と記されていることからも、この時代のことが想像できます。「何と卑劣な」と私たちは思いますが、当時の権力者にとって普通のことであったでしょう。エジプトにおけるアブラハム物語にも「美しい妻を持った男の危険」ということが述べられています。古代の専制君主たちは皆、このように自分の欲望を権力によって満たし、だれもそれを不思議に思いませんでした。また、将軍ウリヤの戦死も、軍人として当然な最期と思われたことでしょう。ダビデは実に上手くやったのです。

しかし、人間の生きる姿は、その時代や、その時代の人々の価値観だけで計られるものではありません。「皆、そうしているではないか」「私だけではない」「私だけが特別に責められることはない」という時代ごとの弁明が、通用しない世界があるのです。11章27節には、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記されています。口語訳では、更に厳しく「この事は主を怒らせた」と訳されています。「主なる神が御怒りになった」。これが決定的な問題なのです。たとえ、その時代の人々がどう評価しようとも、その時代の王権が如何に絶大でも、「主が御怒りになった」ということが、時代を越え人間の行動を、最終的かつ決定的に評価するのです。

このことは同時に、人間の罪、人間の悪は、神の怒りによって初めて明らかになることを示しているのです。人間、特に権力者はあらゆる知恵を用いて、その時代の人々を欺き、巧みに批判の目を逸らし、自分の心を欺いてでも、自分の行為の正当性を認めさせようとします。それは、神なき世界で、自分が神として君臨しようとすることと言えます。そして人間とは、ダビデほどの人物であっても、なおこのように神の怒りを受けるという事実は、欲望の前における人間の弱さに終わらず、すべての人間が、神の怒りの対象である罪から逃れることができないという現実を明らかにしているでしょう。

主は預言者ナタンをダビデのもとに遣わされました。ナタンは来て、次のような譬えを語りました。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い、小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて、彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに、自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて、自分の客に振る舞った。」(1-4)。預言者ナタンが語ったことは単純明快でした。正義の王と言われていたダビデがその豊かな男のやり方を怒ったのは極めて当然でした。「何と欲の深い男か。このような人間がいるとはとても考えられない」と思ったダビデは、激怒して直ちにその不正な男に対する判決を下して、ナタンに告げました。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。子羊の償いに四倍の値を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」(5-6)。これほど厳しく罰するのは当然であり、誰一人として反対する者のない判決であると、ダビデは考えた筈です。当時の国王は、最高裁判官でもありました。それゆえにダビデは、国を治める者として、不正を怒り、正義の判決を下したのでした。

今私たちは、このナタンの譬え話が、バト・シェバをウリヤから奪ったダビデ自身のことを語っていることに既に気付いています。ナタンに告げたダビデの判決は正しいのですが、その判決を受けなければならぬ罪人、不正な男が、ダビデ自身だということも明白です。ただ皮肉なことは、これほど明白な、また弁明の余地のないほどの罪が「自分のことである」ということに、ダビデがまったく気付かなかったということです。

ナタンに指摘され直ぐに、5節で「主は生きておられる」と叫んだダビデほどの人物が、なぜ、自分の過ちに気付かないのでしょうか。不思議なのはここです。そして聖書は、この物語を通して、「これが人間の罪なのだ」と告げているのです。罪の特徴とは、第三者的立場に立てば誰にでも分かることが、自分のことになると、全く分からないところにあるのです。更に、ダビデの罪とは、「ウリヤ殺害とバト・シェバとの不義」というだけのことではなく、むしろその背後にある、彼自身の生き方にあるのです。

ダビデは、ナタンから「不正な男」の話を聞いた時、「主は生きておられる」と叫びました。それは、主なる神が、常にすべてを眼差しの下に置かれている全世界の支配者であることの告白です。すべての者は主なる神の眼差しから離れては有り得ない、という信仰告白です。ダビデは、その不正な男を、王である自分が赦さないだけではなく「神がお赦しにはならない」と断言したのです。

「主は生きておられる」。この言葉は、旧約聖書全体を貫く偉大な信仰告白であり、繰り返し預言者によって用いられている表現です。ダビデの信仰が神の義に支えられていたことを、この言葉は示しています。しかし、バト・シェバを見初め、ウリヤを最前線の激戦地へ送った時、その時でも彼は、「主は生きておられる」と心の中で叫んだでしょうか。ウリヤ戦死の報告を受けた時、ダビデは神の眼差しを意識していたでしょうか。主なる神への信仰、主なる神への服従は、その時、どうなっていたのでしょうか。「主は生きておられる」と叫び続けたでしょうか。一時的にせよ神から離れたダビデの姿が、そこにあったのです。神の眼差しを忘れて生きる人間が、そこにいたのです。それゆえに、ダビデが犯した最大の罪とは、バト・シェバを巡る彼自身の行動と言うより、その行動を起こさせ、それを可能にした、「神からの離反」そのものと言わざるをえません。ナタンはダビデに向かって言い放ちます。「その男はあなただ。」(7)。この言葉は、神から離れて生きていることを自覚しない、すべての人間への警告です。都合のよい時だけ主の御名を呼ぶ人間がそこにいる、「それはあなただ」という指摘です。そしてその指摘と共に、ナタンは、主の御言葉をダビデに伝えるのです。ナタンを通して7節から12節で語られる神の怒りは、単なる不正行為の指摘ではなく、ダビデヘの恵みを思い出させることから始まっています。このことは、神の怒りがダビデの行為の根本にある「神からの離反」そのものに向けられていることを、明らかに示していると言えます。神の恵みが基盤にあるだけに、裁きも厳しいのです。人間の罪に対する神の裁きは、7節でナタンが直ちにダビデに答えたように素早く、徹底的なのです。

私たちは、これを読む時、神の御前に立たされる自分の生きざまを問わずにはいられないでしょう。私たちは、日々の生活の中のどこで、「主は生きておられる」と叫んでいるでしょうか。悪魔の誘いは、美しいバト・シェバの姿の中にあるのではなく、「主は生きておられる」ということを忘れさせるところにあるのです。

続く13節から14節での、ダビデの悔い改めの素早さと素直さに驚かされますが、それ以上に、ナタンを通して告げられる神の赦しの寛大さに驚かされます。神はこれほどまでに悔い改める者に甘いのかと思わされます。主なる神は、悔い改める者を拒まれる方ではなく、しかも、その怒りが早いのと同じように赦しも早く、その怒りが徹底しているのと同じほど、赦しもまた桁外れなのです。

なぜなら、その不正に対して、ダビデが「死刑にせよ」と叫んだのに対して、主なる神は、「死の罰は免れる」と言われているからです。神の御心は、罪を犯した者の滅びにあるのではなく、悔い改めを待つことにありました。アダムとエバの赦しを請う言葉を待つエデンの園の神の御心を思うべきです。正義の神は、ただ一言の悔い改めを喜ぶ愛の神でもあるのです。

ナタンがダビデに告げた「その男はあなただ」という言葉を、私たちは、自分自身の罪を指摘する神の怒りの御言葉として聞くと共に、怒りを越えて罪を赦す神の御言葉として響くのです。この大きな恵みを預言者ナタンは、「その男はあなただ」と私たちに告げているのです。

ダビデの罪は、バト・シェバの産んだ最初の子を失うという痛みを代償とすることで赦されました。

それでは、私たちの罪の赦しには何の代償が必要なのでしょうか。

それこそが、時を越えた主イエス・キリストの十字架の御業です。その十字架の御業はダビデの赦しのためでもあり、今ここに、私たちのためであることも明らかです。ダビデの様に素直に罪を悔い改め、主イエス・キリストの十字架の御救いを感謝し続ける者でありたいものです。

お祈りをいたしましょう。

<<< 祈  祷 >>>

2019年10月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


勝田令子先生のお話

(6月19日の礼拝で話されたものです。)

聖書:使徒言行録2:1-13

 今日は何の日か、皆さんはご存知ですか?そう、花の日ですね。神様は、この世に沢山の植物をお与え下さいました。四季折々、いろいろな花が咲きますね。私も花が好きで、花を見ていると、疲れた時も心が休まり、こんな花をお与え下さった神様に、心から感謝いたします。

もう一つ、今日はペンテコステです。ペンテコステって、何のことなのでしょう?先程お読みいただいた聖書、使徒言行録二章一節には、「五旬祭の日が来て」とあります。五旬祭というのは、ユダヤの三大祝祭日の一つです。普段はエルサレムに来ることの出来ないユダヤ地方以外に住むユダヤ人も、この日にはエルサレムにやって来ます。ユダヤ人だけでなく、いろいろな国の人が沢山集まる日がこの五旬祭でした。五旬祭は、過越祭から数えて50日目に当たります。そこで、ギリシャ語で50番目を意味するペンテコステと呼ばれるようになりました。この五旬祭の日に、イエス様を信じる人達は一つ所に集まっていました。イースターの日に復活されたイエス様は、地上での40日間の生活を終えられ天に上られました。残された弟子達はどんな感じだったのでしょう?よみがえって下さったイエス様が、天に上られてしまってこれから自分達はどうしたら良いのだろうと不安になり、みんなで一ヶ所に集まり、祈り続けていたのでしょう。

すると、使徒言行録二章二節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。ちょっと想像してみてください。凄い風が吹いてきて、その風が響き、炎のような舌がお弟子さん一人一人の上にとどまったのです。すごい光景ですね。四節「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国の言葉で話し出した。」とあります。聖霊である神様が、集まっていた一人一人の上に降ります。舌というのは聖霊です。この出来事は、イエス様によって予告されていました。炎のような聖霊が一人一人の上に降りると、不思議なことに、そこにいた人々は、それぞれ違う言葉で話し出したのです。それまで聞いたことのない言葉でイエス様の弟子達が話し出したので、周りの人々は驚きました。七節には、「話しをしているこの人達は、皆ガリラヤ人ではないか」と言っています。勉強もしていないガリラヤの人々が、突然外国の言葉をすらすらと話し出したので、周りにいた人達は驚いてしまいました。神様はこのことによって、世界中の人々に、イエス様が救い主であることが広まるようになされたのです。その後、弟子達によって、多くの国々にイエス様の教えが伝えられ、世界中に教会が建てられ、現在23億人もの人々が、イエス様を救い主として信じています。ペンテコステというのは、イースター、クリスマスと共にこの世に初めて教会が建てられた大切な日です。神様は、今も、私達に聖霊を送って下さり、私達を守り、導いてくださっています。神様の守りを感謝し、イエス様の救いを信じて、これからも、教会に来ましょうね。

10月の御言葉

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

マタイによる福音書6:33

10月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
10月 6日(日) 出エジプト記3:14~15 藤野美樹 先生
   13日(日) マタイによる福音書6:33 藤野雄大 先生
   20日(日) イザ書55:8~13 斉藤紀 先生
   27日(日) 列王記(上)17:8~16 興津晴枝 先生

成宗教会学校からのお知らせ

  • 11月24日(日)より、毎月原則第4週の日曜日に、「大人と子どもの合同礼拝」を守ることになりました。
  • 時間は大人の礼拝の時間、10時半からです。第四週日曜日には、いつものような教会学校の礼拝はありませんので、ご注意ください。
  • 子どもだけでなく、ご家族もご一緒に、ぜひ合同礼拝にご参加ください。お待ちしています!

唯一無二

6月の説教

聖書箇所 使徒言行録4章5-12節

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

 

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)

主にある兄弟姉妹の皆様、本日もまた主の御言葉を聴きましょう。

本日は、使徒言行録4章の御言葉が示されました。ここでは、12使徒のペトロとヨハネがユダヤ教の議員、長老、律法学者たちによって、取り調べを受けた時のことが記されています。6節には、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。」と記されております。

「ああいうこと」というのは、病人を主イエスの名によって癒したことを指します。これは3章のところで記されている、足の不自由な男を癒したことでした。3章16節にありますように、イエスの名によって、ペトロたちは、この人を強め、癒しました。

ユダヤ教の議員や律法学者たちは、これを問題視しました。なぜなら、イエスの御名によって人が癒されることを認めるならば、自分たちが死刑の判決を下し、十字架につけて殺してしまったイエスこそが、特別な力を持った存在、さらに言えば神の御子であったということを認めることになるからです。

そこで、彼らは、ペトロ達を尋問することで、ペトロ達を押さえつけようとします。ペトロたちを脅すことで、イエス・キリストの復活を宣べ伝え、主イエスの御名によって、人々を癒そうとすることを妨害しようとしたのです。

これに対して、ペトロは、彼らの圧力に恐れることなく実に堂々と弁明しています。8節にも「聖霊に満たされて言った」と記されておりますように、ペトロを強めたのは聖霊なる神でありました。聖霊が、ペトロに勇気を与え、証しすべきこと、語るべきことをお示しになったのです。

それでは、ペトロは聖霊に満たされてどのようなことを語ったのでしょうか。10節には次のように記されています。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」

この10節の言葉にも表れているように、ペトロは、恐れることなく堂々と語ります。律法学者や長老たちのみならず、イスラエルの民全体に向けて、あなたがたが十字架につけて殺してしまい、神が死者の中から復活させられたキリストこそが、救い主であると宣言します。ペトロのこの変化は、驚くべきことです。なぜなら私たちは、聖書を読むとき、ペトロの信仰が、これまでとても弱々しいものであったことを知るからです。

例えば、イエス・キリストが十字架にかけられる夜、ペトロは、主イエスの弟子であることを指摘されました。その時、ペトロは、巻き込まれるのを恐れて、「私はイエスという人を知らない」と、三度も主イエスのことを否定したのです。そして、恐れてガリラヤに逃げ帰ってしまったのでした。

そのペトロが、今ここで、かつて関わりを否定した主イエスの御名によって癒しを行っています。さらに、取り調べの最中にも、その主イエスを、あなたがたは十字架につけて殺してしまったではないかと、有力者たちに、物おじすることなく、はっきりと批判しているのです。それはイスラエルの宗教的指導者たちを、怒らせ、命の危険を生じさせる危険性のある行為でした。しかし、それにも関わらず、ペトロは、主イエスの御名によって、癒しを行い。またその名による救いを大胆に語ったのでした。それは、まぎれもなく聖霊の神の御導きに他なりません。なぜなら、誰も、聖霊による以外に、イエスをキリスト、救い主であると告白することはできないからです。

こうして、聖霊によって促されたペトロは、12節において、はっきりと主イエスの名による救いを証言します。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」この言葉は、ペトロの偉大な信仰告白であると言えるでしょう。聖霊によって、導かれたものが語る真実の言葉であると言えます。

思えば、キリスト教とは、このキリストの名に対する信頼に基づくものであると言えましょう。たとえば、わたしたちは、お祈りする時、最後に決まって、「主イエス・キリストの御名によって祈ります」と締めくくります。これは、お決まりの定型句のように考えてはいけないものです。そこには、信仰的な意味が込められているのです。それは、ただキリストに依り頼むという徹底した救いの確信です。今日の箇所で、ペトロが証したように、私たちには、この名前以外に救いは与えられていないからです。

父なる神に祈る時、私たちは、自分自身の名によって祈るのではありません。また、天使や偉大な聖人の名によるのでもありません。ただイエス・キリストの名、イエス・キリストの権威によって、わたしたちは父なる神に祈ることができます。主イエス・キリストによって、私たちの祈りを聞き届けてください。私たちの祈りには、そのようなキリストへの徹底した信頼が込められているのです。

当たり前のことと思われるかもしれません。しかし、信仰者であっても、しばしばキリストを忘れ、キリスト以外に救いを求めてしまうことがあります。『ハイデルベルグ信仰問答』の問い29、30でも、その危険性に対して警告しています。

問29 なぜ神の御子は、「イエス」すなわち「救済者」と呼ばれるのですか。

答 それは、この方がわたしたちをわたしたちの罪から救ってくださるからであり、

唯一の救いをほかの誰かに求めたり、ましては見出すことなどできないからです。

問30 それでは、自分の幸福や救いを聖人や自分自身やほかのどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じていると言えますか。

答え:いいえ。たとえ彼らがこの方を誇っていたとしても、その行いにおいて、彼らは唯一の救済者また救い主であられるイエスを否定しているのです。なぜなら、イエスが完全な救い主ではないとするか、そうでなければ、この救い主を真実な信仰をもって受け入れ、自分の救いに必要なことすべてをこの方のうちに持たねばならないか、どちらかだからです。(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』、信教出版社、2002年、pp.31-32)

ここには、はっきりとキリストが唯一無二の救いであることが示されています。ここで大切なことは、キリスト「のみ」が救いであるということです。キリストによってのみ救われるのであって、キリスト「も」、また別の神も救いであるということではないのです。

このハイデルベルグ信仰問答の言葉は、ペトロの信仰の告白と同じように、日本で生きるキリスト教徒へ重要な課題をなげかけることになります。

なぜなら、この日本の宗教的観念では、このようなキリスト「のみ」の信仰は、しばしば受け入れがたいものとされるからです。たとえば、こういうことを言う人がいます。「たしかにキリスト教もいいものです。でも、結局は、どの神様を信じていても同じでしょう。キリストだって、お釈迦様だって、神社の神さまだって、どれもみな結局は同じでしょう。」

このような考え方をする方も、日本では少なくないように思います。そして、ハイデルベルグ信仰問答が警告しているように、私たち信仰者もまた、気を付けていないと、キリスト「のみ」の信仰から、キリスト「も」、他のもの「も」という信仰に陥ってしまう危険性を持っています。しかし、このキリスト「も」という信仰は、結局のところ、キリストを信じているとは言えない。そのことを、『ハイデルベルグ信仰問答』ははっきりと教えています。

このことは、「キリスト者」、「クリスチャン」という言葉にもよく表れています。この言葉は、わたしたちが何者であるかを良く言い表しています。キリスト者とは、そしてキリスト教とは、ただキリストにのみ、自らの救いの確信を置き、また望みを置くことです。救いの一部ではなく、救いに必要なことがすべてキリストにあると確信することです。

それは、キリストだけが、罪の赦しのために十字架にかかり、また死者の中から復活されたということによっています。キリストだけが、わたしたちの罪を許すことのできるお方であり、また永遠の命を与えてくださるということです。

主イエスの御名により頼むというのは、その犠牲に感謝し、その恵みの内を生きるということを意味します。ただ主が示してくださった救いを信じ、そこに唯一無二の慰めを見出しつつ、信仰の歩みを進めたいと思います。

祈りましょう。

唇に良きおとずれを

成宗教会・聖霊降臨日聖餐礼拝

聖書:ヨエル2章23-3章2節, 使徒言行録2章1-11節

 今年も聖霊降臨日を記念する礼拝を捧げることができますことを、真に感謝します。成宗教会がこの地に礼拝を始めて、今年で78年。日本の地にプロテスタント教会が建てられて150年になります。(現在も残る横浜海岸教会です。) 今では全世界の津々浦々に教会があり、イエス・キリストの福音が宣べ伝えられていることを私たちは知っております。しかし、多くの人々は不思議に思うことでしょう。一体どのようにして教会が存在するようになったのか。かつては臆病だった弟子たちが、自分たちの言葉でキリストの真理を宣べ伝えることができるようになったのか、と。

毎年、教会が復活祭イースターを祝う時には、その前にわたしたちは、主が十字架にお掛かりになったご受難の道を振り返ります。そして、その中で、主の弟子たちがどんなに臆病であったかを思い出すのです。主は弟子たちを深く愛しておられ、弟子たちもまた主の愛を知っていました。それでも、主の十字架に従うことはできませんでした。ペトロをはじめ皆それぞれが逃げ出してしまったのです。

ところが、このような弟子たちが福音を宣べ伝えたのです。全世界に神の良い知らせを告げ知らせたのです。この世に奇跡が起こるとしたら、この不思議な出来事こそ、奇跡です。奇跡は人によって起こされるのではなく、神の力によって起こされるからです。これは宣教の奇跡です。それまでは、弟子たちは「神の偉大な業」を語るための「舌」(言葉)をもっていませんでした。しかし、その人々が、今や説教を語る者となりました。

創世記2章7節で語られている人間の創造の話を思い出しましょう。神は御自分の霊を、塵を吹き入れて、人間を創造しました。神の霊とは命の息であります。そして、使徒言行録2章4節では、神の霊はかつて臆病であった弟子に命を吹き入れられました。その結果、主は今や新しい人間を創造されました。新しい人間。それは伝道する弟子たちです。彼らは、大胆に語ることのできる賜物をもった新しい人間として造られたのでした。

最初に、主なる神は弟子たちに聖霊を、一度、耳に聞こえ、目に見える形でお示しになりました。2節。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」わたしたちは神の賜物について考えるには、あまり熱心ではなく、面倒くさがる傾向があります。だから、神の力がはっきりと分かるために、神が前もってわたしたちの感覚を目覚めさせてくださらなければならなかったのです。さもないと、神の力はわたしたちに見落とされてしまうことになるでしょう。

また。突然状況が変えられることについても、大きな意味があります。それは弟子たちが勇気を出して伝道する者になった理由を考えて、「偶然こうなった、」とか、「自分の努力のせいだ」と思わないために、必要だったのです。また、風の激しさも重要です。それは人々に恐れを与えるためなのです。人は自分の知恵や力、常識など自分の判断に頼っている間は、決して神の恵みを恵みとして受け入れるようにはならないのです。神の恵みによって立つのでなければ、決して福音を宣べ伝える教会は建てられないでしょう。ただ個々人の常識を信じ、力を信じるだけの教会は、決して主イエスの教会ではありません。わたしたちは自分の限界を知り、打ち砕かれる体験をして初めて直に神の恵みのすばらしさを受け入れるようになるのです。

神の霊は、聖霊、御霊とも言いますが、それは風を意味する言葉です。それは神の本質を表します。しかし、神の本質は私たち人間には測り知られないものです。聖霊降臨日とはペンテコステと呼ばれます。それは過越しの祭から50日目を表すギリシャ語です。主イエスが十字架にお掛かりになったその時も過越しの祭でありました。そして、もう一つのユダヤ教の祭が五旬祭というもう一つのユダヤの祭りでした。それは春の収穫の恵みを感謝する祭でありました。

主イエスに従う者たちは集まって祈り、待っていました。上からの力が与えられるのを待っていたのです。その時、新しい日は、風のような天からの音の噴出によって始まりました。最初は音だけを聞いたのでしたが、次に目に見えるものが現れました。それは、炎のような舌であります。舌とは何でしょう。英語でもそうですが、ギリシャ語でも、舌は同時に言語、言葉を表します。「炎のような舌」とは、5節以下に表現されているように、天下のあらゆる国の人々が使っているさまざまな言語を表しているのでしょう。一か国語ではなく、万国に神の恵み伝えるための万国の言語であります。

創世記8章には有名なバベルの塔の物語があります。かつて人間同士の言葉が通じなくなったのは、人間の傲慢に対する神の懲罰であったと言われています。しかし、この時、神はその懲罰を祝福に変えられました。人は互いに言葉が通じない、心が通じないために、ちりぢりバラバラにされてしまったのでありました。しかし、この人々を一つの祝福に入らせるために、神は主の福音を宣べ伝える使徒たちに各種の国語を語らせました。ここに集まっているのは、天下のあらゆる国々に散らされていたユダヤ人たち。彼らは他国で生まれ育った人々でした。

実にユダヤ人の国は何百年にもわたって、戦争に次ぐ戦争によって荒れ果て、その度に人々は他国に寄留する者とされたのでした。その苦難の歴史の中で彼らがどうして生きて行ったのか、それは奇跡としか言いようがないことです。中には、弱小国の民であることを捨てて、エジプトや、ペルシャや、マケドニア、ギリシャ、ローマに住み着き、地元の神々を拝み、自分たちのルーツを失ってしまった人々もいたかもしれません。しかし、しかし、他方では自分たちがアブラハムによって神の民とされた子孫であることを忘れない人々も全世界に散らばって存在していました。そして一方では、異なる国の言語を話し、異なる国の住民、市民でありながら、他方では、イスラエルの神を真の唯一の神として礼拝するために、ユダヤ教の祭にはエルサレムに集まって来るのを常としていたのです。そして、出エジプトの時も、それ以前も、このイスラエル人が神の許に帰って来る時には、その群れの中に異邦人たちもいたのでした。

今、大勢のユダヤ人と異教徒も含む全世界の人々がエルサレムに集まるこの祭りの時に、主はその霊を弟子たちに注いでくださいました。聖霊は、教会が福音を持って「民衆の場へ出て行く」力であり、教会に民衆をひきつける力であります。聖霊は教会に聞く価値のあることを語らしめる力を与えているのです。この霊の力こそが福音を宣べ伝えることを可能にします。その一方では、福音を宣べ伝えることは、人々に疑問を抱かせたり、戸惑いや嘲りとを呼び起こします。聖霊の力を受けて人々が力強く福音を宣べ伝え始めました。すると、そこには信じる者が起こされます。と同時に、意地悪くあざけっている人々が現れます。また真剣に尋ねている人々も現れます。このことの繰り返しが、最初の教会から始まっているのが分かります。決して一喜一憂すべきではありません。教会の働きは、すべて聖霊の力にかかっているのですから。

五旬祭、収穫の恵みの初穂をささげるこの日に、聖霊の恵みが人々にもたらされたことは大変大きな意味を表しています。旧約聖書では、聖霊が降ってくださるということは、神の預言が成就することを意味していました。それに対して新約聖書では、聖霊が来てくださるということは、復活の主・イエス・キリストの約束なさった救いの御業が、ここに完成したことを意味するのです。

神の驚くべき慈愛はここに輝き渡りました。では、この奇跡は何のために、だれのためになされたのでしょうか。これは皆、神の、わたしたちへの愛のためになされたことなのです。ところで、燃える炎のような舌、という表現の炎とは何を指し示すのでしょうか。使徒たちは元々、ただの人間、弱さと欠点を持った人間に過ぎません。しかし、彼らの上に聖霊の助けが降ったのは、彼らが全く新しい者として用いられるためです。ですから、彼ら、使徒、宣教者たちの声の中に、神の尊い力が示されることを、決して疑ってはならないのです。彼らの声、彼らが語った福音は、聖霊の臨在を証明するしるしでありました。このしるしは、わたしたちを真理に与らせるために、真理を示すのです。わたしたちの感覚によって理解できるように示しているのです。

主は彼らの語る神の偉大な業をほめたたえる言葉を、その声によって、人々の心を燃え立たせようとしておられます。ですから、彼らの言葉は、この世の虚栄を焼き尽くし、すべてのものを清め、一新するために燃える火に他なりません。使徒たちの教えは空気中で雷鳴のように鳴り響いたのではありません。そうではなくて、それらは人々の心に奥にまで入り込みました。心を天の熱い思いによって満たしたのです。そして、この力は、2000年前の使徒たちだけに与えられたのではありません。そうではなくて、今も日ごとに全世界の教会で証明されているのであります。

後に活躍することになる使徒パウロも5つの言葉で話すことができたと言われていますが、これを彼は勉学によって行ったのではなく、聖霊によって与えられたと言われています。これらの異なる言葉が用いられる目的は、もちろん、多くの異邦人に理解できるようにという配慮です。パウロは、ギリシャ人にはギリシャ語を、イタリア人にはラテン語を話したほど、言葉の多様さと理解力とを授かっていたからこそ、聴衆との真のふれあいが出来ていたのだと分かるのです。

ここに、離散していたユダヤ人たちの出身となる国々、地方の名前が並べられています。東はペルシャからカスピ海、南はアラビア、エジプトといった当時のほとんど全世界とも言える地方が書かれています。ユダヤ人は離散し、ほとんど全く滅ぼされたかのように見えるが、異国に在っても彼らの間に信仰の一致を保持したのは、神の奇跡であります。「ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」ここには二つの驚きが語られています。その一つは、最初の教会を形成した使徒たちが、実はガリラヤの無学な田舎出身者ばかりであったことでした。そしてもう一つは、それなのに彼らは、大勢の人々の前で一斉に異なった言葉の人々に理解できるように神の偉大な御業を語り出したことでした。ある者はラテン語を、ある者はギリシャ語を、他の者はアラビア語を話したと思われます。これこそ神の素晴らしい奇跡の御業ではなかったでしょうか。

わたしたちは、昨年、カンボジア伝道に召命を受けておられる今村宣教師ご夫妻をお招きして礼拝を守り、宣教活動を伺いましたが、やはり伝道をするために第一に取り組むことはその地方の人々の言語を学ぶことなのだと教えられ、感銘を新たにしました。明治の初めに日本に宣教した人々の傾けた努力もどんなであったことかと思います。しかし、改めて思いますことは、それは人々の努力によらず、聖霊の力強い助けによって遂げられたことです。聖霊は、主イエスの上には鳩のように降ってくださったと言われます。その姿はキリストの執り成しの職務を表すものであったでしょう。キリストはわたしたちの平和であります。キリストによって一つとされるところにこそ、平和が打ち建てられるのです。

わたしたちの努力では到底成し遂げられない、気の遠くなるような働きを、主は成し遂げてくださったのですから、わたしたちの努力すべきことはただ一つだけです。それは、キリストの執り成しに頼り、キリストに結ばれて平和を求めることです。家庭で。またそれぞれのいるところで。それぞれが与えられているこの地上の持ち場で。しっかりと主に結ばれて生きましょう。わたしたちの上に聖霊の助けを待ち望みましょう。炎のような舌に表される聖霊は、主の愛の炎です。わたしたちの汚れを清め、救いの福音を、神の賛美をこの唇に与えてくださる主の霊を待ち望みましょう。

ヨエル書は、打ちのめされた人々に神の救いを語ります。この救いは食い尽くすいなごからの解放。命を支える食糧をたちまち食い尽くすイナゴの大襲来からの解放に匹敵する救いなのです。この救いをあなたがたの子孫に語り伝えよとヨエルは叫びます。そのように、わたしたちにも主は命じておられるのではありませんか。神が主イエスの生涯と死と復活を通してなしとげてくださった神の力強い御業を彼らに語りなさい、と。

 

主なる父なる神様

聖霊降臨日の礼拝、あなたの尊き御業が成し遂げられたことを感謝します。わたしたちは、2000年前、主に従う民にあなたは主の霊をお遣わしくださいました。弱い者も力ない者も共に主の体の教会の肢とされ、あなたの霊で燃え立たせていただいたことを感謝します。多くの者にどのようにして救いの恵みを宣べ伝えることができるのか、それぞれの時代、それぞれの地方で、困難がございました。今、わたしたちに与えられている課題は少子高齢化の社会の課題です。しかし、あなたはいつでもどこでもあなたに信頼し、従う教会を助けてくださいました。わたしたちは自分の力を頼らず、あなたの恵みにより頼みます。どうぞ、わたしたちを用いて力強い御業を行ってください。この教会に新しい教師を遣わしてくださることを信じます。わたしたちに善き備えをする知恵をお与えください。

また、本日行われます東日本連合長老会教会会議の上に御心を行ってください。

この教会を今日まで守り導きくださったあなたの慈しみに感謝します。本当に小さな信仰しかない者をも憐れみ助けてくださいました。わたしたちは将来を見通すことはできませんが、これまでの歩みを振り返る時、たくさんの慎ましく美しい証しを残してくださった兄弟姉妹がいることを誇りに思います。あなたの恵みの足跡です。先週も江村姉の最愛のご家族が地上の生涯を終え、安らかな眠りについたことを伺いました。どうかご遺族の上に豊かな慰めと平安をお与えください。また今週26日に行われます焦 凝兄の結婚式に主の豊かな祝福を注いでください。あなたの恵みによってご家庭が導かれますように。