潔められた者

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌67番
讃美歌239番
讃美歌365番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 2章13節 (旧約聖書857ページ)

  • 2:13 穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。

新約聖書:マルコによる福音書 9章38-50節 (新約聖書80ページ)

9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
9:44 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
9:46 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。
9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

《説教》『潔められた者』

本日朗読されたマルコによる福音書9章38節から50節は、主によって語られた短い御言葉を集めたものと思われます。マタイ福音書における山上の説教と同じように、マルコ福音書では代表的な箇所ですが、このような教えを読む時も、これまで述べて来た「聖書を読む基本」から外れてはなりません。「一日一言」というような処世訓や格言集などと混同してはならないということです。ここで語られていることは、「神の御業であり福音である」ということを信仰の目を通して認識しなければなりません。

今日の38節で、弟子のヨハネが主イエスに、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」と言ったとあります。

ペトロを初めとする十二人の弟子たちが主イエスと行動を共にしていましたが、主イエスがまだ生きて宣教をされていたこの時代、既に、主イエスや弟子たちと別行動を取る者も居たようです。バプテスマのヨハネの弟子たちは、ヨハネの死後、主イエスの弟子たちとは別に、独自に神の国を宣べ伝えていたということはよく知られていますし、さらにまた、数々の人々が福音に関わるような行動をしていたようです。

主イエスは、ガリラヤのいたるところで福音を伝え、神の御心を語りました。多くの人々が主イエスの後を追いかけ、何度も何度も説教を聞いたことでしょう。当然、その中には、ペトロを初めとする十二弟子以上に理解力に優れた者もいた筈です。主イエスから聞いたことを、他の人々に語った人もいたでしょう。そして、驚くべきことには、主イエスの御言葉を伝える時、主イエスと同じような「力ある業が為されることもあった」というのです。

ここで、ヨハネが指摘し、非難している者たちが、主イエスの真似をしていた偽メシアであったと考える必要はありません。後に使徒言行録に現れる魔術師シモンは、奇跡を行う力を金で買おうとして失敗しましたが(使徒言行録8章9節以下)、ここに現れた人はそのような者ではなく、もっと素直に福音を宣べ伝えていたと思われます。

ヨハネの言った「お名前を使って」とは「名前を騙る」という悪い意味で読まれるかもしれませんが、そうではありません。古代の魔術師たちは秘密の神の名を呼ぶことによって、その神の力を利用すると考えられていました。魔術師の呪文とは「秘密の神名」のことです。ですから、「名前を使った」とは「権威によって」という意味であり、現実に行われた「悪霊の追放」が、主イエスの権威を背後に持っていることを証明しているとも言えます。

このヨハネの言葉、ギリシャ語の「エン トー オノマティ ソー」を訳すと、正しくは「あなたの名によって」であり、「利用して」ではなく、「あなたの権威によって」の意味であり、「イエス・キリストへの信仰によって」と言い換えることも出来ます。「やめさせてはならない」という主イエスの容認の言葉は、この権威を意識されているとも言えましょう。

ここで私たちは、「キリストを信じる者は、語る言葉そのものが権威を持つ」ということを教えられるのです。それこそが「信仰の力」なのです。ヨハネはその信仰の奥義を理解していなかったのです。

主イエスは、その「信仰の力」を教えられているのです。むしろ、主イエスの御心は、福音が弟子たちだけのものではなく、この後、福音が世界の至るところに広がって行くことを望んでおられるのです。マタイ福音書最後の28章の大宣教命令が、このことを明白に裏付けています。

そしてさらにそれだけではなく、主イエスの「やめさせてはならない」と言われた積極的な承認の背景には、人々に対する信頼がありました。まず知らされることは、キリスト者は「主の信頼を受けて生きている」ということです。

それが39節の主イエスが言われた「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」との、ヨハネに対する言葉ではないでしょうか。

ナザレのイエスを救い主キリストと告白する者、その告白の言葉によって神の栄光を明らかに示した者は、決して裏切ることはないということを、主イエスご自身が語られているのです。何と素晴しい宣言でしょう。

多くの聖書注解者たちは、ここで「主イエスは寛容を教えられた」と言いますが、これは「寛容」などという生易しいものではありません。十字架を意識した主イエスが、御自分の死後を託す人々への信頼を語っているのです。私たちは、このキリストの信頼に包まれていることを強く意識すべきです。

続いて主イエスはヨハネに「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」と、ここで「ひとりの人」を大切にすることを教えておられます。それは、単なるヒューマニズムにとどまるものではありません。重要な言葉がここにあります。それは41節の「キリストの弟子」という言葉と42節の「わたしを信じる者」という言葉です。弟子たちに、キリスト者として行うこと、キリスト者として受けること、すべてがキリストの愛の中を生きることだと教えておられるのです。ひとりの信仰者を愛することは、主イエス・キリストを愛することです。ひとりの信仰者を傷つけることは、主イエス・キリストを傷つけることです。人類という同じ種類の生物として、人間愛、ヒューマニズムをもって受け容れることではなく、「キリストを愛すること」が行いの基本なのです。御子キリストがその人のために生命を捨てられたことを知るならば、その人の生命が、キリストにとって「かけがえのないものである」ことを知るのです。

私たちの社会でも、恩義を知る者は、受けた恩に報いるために「恩人の愚かな息子をも見捨てない」ということがあります。私たちは、私たちのために十字架につかれたキリストの愛を知らされているのです。その愛の大きさを知るが故に、キリストが愛された人々を、キリストへの信仰の表れとして愛するのです。言わば、主イエス・キリストが「全ての人々の後見人である」とも言えるでしょう。そして私たちは、このように、隣人を愛するだけではなく、この大きな愛に「自分も守られている」ということを教えられるのです。

42節以下には、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるならば、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるならば、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。」と極めて長く厳しい言葉が連ねられています。

「片手」「片足」「片目」、全ては自分の大切なものの象徴であり、捨てるに捨てられないものです。ここに記されていることは、古代オリエントで広く知られていた「目には目を歯には歯を」という『同害報復法』で知られていますが、「片手」「片足」「片目」を失うことは、大切なものを代償とするという原理であり、現代のイスラム社会でも身近なたとえです。

しかし、主イエスは、「自分にとって大切なものであっても切り捨てよ」と言われていますが、この御言葉の中心は、勿論、「切り捨てること」にあるのではなく、「生命に入れ」「神の国に入れ」と言うことです。むしろ、「失うべからざる大切なもの」という意味でとらえておくべきでしょう。私たちにとって、片手、片足、片眼を失うことには耐え難いことであり、如何に罪を犯したといっても、それを切り取ることはしません。

しかし、御子キリストは、私たちのために生命を捨てられたのです。十字架の上で殺されました。私たちの魂を救うために、「何を犠牲にしても悔いはない」というキリストの御心を、この厳しい言葉から読み取ることが出来るでしょうか。私たちは、この御心に包まれているのです。

本日の結論とも言える言葉が49節から「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」とあります。

さっと読むと、何となく良く分かったと思える言葉ですが、「火で塩味を付けられる」とは何でしょうか。

かつて、旧約の時代、神殿で献げられる生贄の動物は、塩をかけて潔めてから献げられました。それを「契約の塩」と言います。本日の旧約聖書レビ記2章13節がそれにあたります。祭壇に供えられる動物は、塩の潔めによって、「聖なるもの」として神に献げるに相応しいものになると考えられていました。塩は、「潔めの塩」の意味を持ちます。また、「火」も、穢れを消滅させる「潔めの火」として尊ばれていました。

ですから、「人は皆、火で塩味を付けられる」とは、「神の潔めを受けている」ということなのです。私たちは皆、「イエス・キリストの贖いによって潔められた者」として、自分を神の御前に差し出しているということです。

本来、私たちの誰が、自分を「神の御前に差し出すのに相応しい」と思っていたでしょう。むしろ、恥ずかしくて、アダムやエバのように、木の陰に隠れたいところです。しかし主イエスは、もはやそんな心配が不要なことを宣言しておられるのです。

何故なら、私たちは、「契約の塩、潔めの火としてのキリストの血」によって潔められたからであり、キリストの贖いの御業によって、私たちの弱さ・愚かさに拘わらず、「聖なるもの」に造り変えられたからなのです。

私たち相互の交わりにおける平安は、この神に受け容れられたことから生じます。私たちは、もはや「神の国から弾き出される」ような者ではありません。人生の一番大切なときに、「お前には用がない」と言って締め出される者でもありません。父なる神が受け容れてくださる保証を、御子キリストが与えてくださったのです。この「神の受け容れ」を主は「平和」と表現しています。聖書は、ここをヘブル語で「シャーローム」と記しています。

「シャーローム」とは、政治的概念としての「戦いのない状態・平和」ではなく、「和合」「充満」を意味し、「欠けるところのない満たされた平安」を表す言葉です。このような状態は、神によって与えられるものでしかなく、神と共に生きる世界にのみ存在するものと言えるでしょう。神によって受け容れられた姿、それを真実の平安と言うのです。

キリストを信じる小さな者をつまづかせる者になるのではなく、自分自身の内に潔めの塩をもって、自分の家族を始め、一人でも多くの方々と共にキリストの十字架に救われ、互いに平和に過ごしたいものです。

お祈りを致します。

おそれ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌9番
讃美歌338番
讃美歌520番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 18章1-5節 (旧約聖書190ページ)

18:1 主はモーセにこう仰せになった。
18:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。わたしはあなたたちの神、主である。
18:3 あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない。
18:4 わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従って歩みなさい。わたしはあなたたちの神、主である。
18:5 わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。

新約聖書:マルコによる福音書 6章14-29節 (新約聖書71ページ)

6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
6:15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
6:16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
6:17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
6:18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
6:23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
6:24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
6:25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
6:26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
6:27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
6:28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
6:29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

《説教》『おそれ』

本日のマルコによる福音書には、洗礼者ヨハネが殺された時のことが語られています。洗礼者ヨハネは、この福音書の1章の始めに登場した人物です。1章1節から8節をお読みします。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。“主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。”』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。『わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる』」。

このように洗礼者ヨハネは、「後から来られる方」、救い主イエス・キリストのために道を準備する働きをしました。1章14節に、主イエスがガリラヤにおいて神の御国の福音を宣べ伝え始めたとありますが、それはヨハネの逮捕の後でした。主イエスは、ご自分のために道を準備したヨハネが捕えられて舞台から退場した後に登場して来られたのです。そして本日の箇所には、捕えられたヨハネがその後どうなったかが語られているのです。ヨハネを捕えたのはヘロデ王でした。このヘロデ王は、クリスマスの話に出てくる、ベツレヘム近郊の二歳以下の男の子を皆殺しにした、あのヘロデ大王の息子で、ヘロデ・アンティパスと呼ばれた人です。父親のヘロデは「大王」と呼ばれるに相応しい権力を誇っていましたが、この息子のアンティパスは、正式には「王」とは呼べないような、ローマ帝国の権力の下で、ガリラヤとペレアの領主として認められていただけの人です。このヘロデがヨハネを捕えて監禁していましたが、ある年のヘロデの誕生日にヨハネの首を切って殺した、そのいきさつがここに語られているのです。

14節に、「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。」とあります。

主イエスの活動は、ガリラヤ各地で多くの人々に強い印象を与えました。そしてその評判は、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの耳にも当然入っていました。

ガリラヤの人々は、主イエスを「バプテスマのヨハネの再来だ」と言い、「エリヤだ」と言い、「預言者だ」と言いました。その全てが的外れであったとは言え、少なくとも、彼らの期待がそこに表されていたとも言えるでしょう。

16節には、「ところが、ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ』と言った。」とあります。ここに、ヘロデ・アンティパスの罪の自覚そのものがあるのです。彼が何を根拠にして「バプテスマのヨハネだ」と思い込んだのかは明らかではありませんが、人々の噂を聞いただけで、忘れようとしている自分の罪が甦ってくるのです。罪への恐れとはこのようなものだと言えるでしょう。

また、多くの場合、「おそれ」は「罪が発覚することに対するおそれ」と言えます。私たちは、「罪そのもの」を恐れることより、罪が発覚することを恐れるのではないでしょうか。何故なら、私たちは無数の過ちを隠しながら生活しているからであり、互いにその過ちを追求することをしないようにしています。それぞれが罪を隠しあっていることを互いに知っており、「それを追求しない」という一種の「暗黙の了解」によって、赦し合っているのではないでしょうか。

しかし、心の中まで見通す神の御前にあって、何を隠せるのでしょう。ヘロデ・アンティパスの姿は、神の御前に立つ人間の厳しさを示しているのです。

ヘロデ・アンティパスがこのように悩むいきさつは、17節以下に記されています。彼は父ヘロデ大王の死後、ガリラヤとペレアを受け継ぎましたが、ローマ帝国の支配の下、王という称号は許されず、植民地の領主という不安定な立場にありました。自分の地位を守るために生涯心を痛め続けたヘロデ・アンティパスは、強力な隣国ナバテヤの王女と政略結婚をし、安全を図りました。

しかしながら、こともあろうに、母違いの兄弟フィリポの妻ヘロディアを見染め、兄弟であるフィリポを毒殺してヘロディアと結婚、ナバテヤの王女とは離婚して国へ帰してしまいました。このことに怒ったナバテヤの王と戦争になり、ユダヤ人民衆からは不道徳の謗りを受け、さらに洗礼者ヨハネは、主の御名によってヘロデ・アンティパスの罪を非難し、神の裁きを警告しました。

「領地の民は殺すも生かすも自由」という古代世界で、ヨハネは死を恐れず、ヘロデの罪を公然と責めたため、民衆はヨハネの姿に自分たちの不満の代弁者を見たとも言えるでしょう。そのため、領主としての自分の権威を守るためにヨハネを放置することは出来ず、彼を捕らえ、死海東岸マケラスの城の地下牢に幽閉してしまいました。

しかし、ヘロデはヨハネを殺せませんでした。先ず、ヘロデはユダヤ民衆を恐れていました。不満が大きくなれば暴動になるかもしれませんし、もしそれがローマ帝国に知られたら失脚の危険もあります。さらに、ヘロデ自身に大きな負い目もありました。ヘロデ家は、純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ人であり、そのためユダヤの支配者としてことさらに「ユダヤ的」であろうと務めていたのです。そのユダヤの伝統的な保護者・主なる神への畏れを捨て去ることは出来ません。

さらにまた、20節でヘロデが、「ヨハネの教えに喜んで耳を傾けていた」とは意外です。律法に背き、兄弟の妻を奪ったことを責めるヨハネの言葉を恐れ、それ故に、彼を捕らえ地下牢に閉じ込めたのです。そのヘロデがヨハネを正しい聖なる人として、その言葉を喜んで聞いていると記されていますが、ヨハネはヘロデの耳に快い言葉を語った筈はありません。

「非常に当惑しながら」と記されています。ヘロデは自分の罪に苦しみながら、なお一筋の光をそこに感じていたのではないでしょうか。自分にとって、遥かに隔たりのあることではあっても、「神に従う人生」という希望を、微かでも夢見ることが出来たのではないでしょうか。取り巻きに囲まれた宮殿では味わえない一人の人間としての自分を、そこでは見出すことが出来たのではないでしょうか。

ヘロデ・アンティパスは、マケラスの城の地下牢でヨハネの前に立つ時のみ、虚飾から解放され、「本当の自分を取り戻しかけていた」と言うことが出来るかもしれません。

それでは何故、牢の外ではそれが出来なかったのでしょうか。ヨハネが「聖なる正しい人であることを知っていた」と述べられているのに、何故、その「正しく聖なる人」を地下牢の外へ出すことが出来なかったのでしょうか。ここに、「密室の中でのみ神の御言葉に従う人間」の姿が明らかに示されていると言えるのです。

実際の生活から離れたところ、他の人々との関わりを断ったところ、誰にも見えないところ、「そのようなところでのみ神様に従う人」がいるのです。反面、神の御言葉への服従は、決して自分の親しい人々の中では表しません。何故なら、神の御言葉は必ず私たちの罪や醜さを明らかにするからです。自分の罪や醜さを公然と明らかにされることを人は嫌がります。ヘロデも、自分の弱さを、マケラスの地下牢ではさらけ出せたのではないでしようか。神様を求める自分の魂を素直に表せたのでしょう。しかしヘロデは、自分の妻や義理の娘、まして部下の前では表せなかったのです。

権力者は自分の弱さを決して民衆の前では示しません。権力の座にある者は、真実の自分の姿を隠し、偽りの姿をとらなければりません。より大きな力に脅かされ、不安定な地位にあるヘロデはなおさらです。たとえ見せかけのものであっても、あらゆる手段を用いて、自分の力と権勢を誇示して来たのがヘロデ・アンティパスでした。

それ故に、彼は民衆の前で自分の真実をさらけ出すことが出来なかったのです。そしてヘロデにとっては、支配する民衆だけではなく、律法を犯してまで結婚した妻を始めとする家族の中にさえ、彼の悲劇があったと言えるでしょう。自分の誕生日のパーティーにおいて、義理の娘サロメに約束した軽率な言葉が彼の生涯を決定してしまったのです。

「欲しいものがあれば何でも言いなさい」「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」。その言葉は深い意味もない思い付きであったかもしれません。もともとローマの植民地の一領主に過ぎなかったアンティパスに、本国の許可もなく国の半分を与えることなど出来るはずはありません。

しかし、その、深い意味もなく虚勢を張っただけの軽率な一言が、主なる神の御前に残された最後の望みをも打ち砕く結果になったのです。見せかけの強がりをした者は、後戻りすることが出来ずに苦しむのです。その一言のために、自分で自分を苦しいところに追い詰めてしまうのです。

ヨハネを恨んでいたヘロディアは、娘のサロメに知恵を与え、サロメはヨハネの首を要求しました。そしてヨハネの死によって、ヘロデは密室におけるささやかな希望をも捨て去ることになりました。僅かに残された救いの望みを、自分の虚勢のために自ら打ち砕いたヘロデの姿は、神様の恩寵を、強がりを言いつつ台無しにする全ての人間の代表と言えるでしょう。ヘロデの罪は、真実を裏切り、見せかけの強さを誇ろうとするところに現されていたと言えるでしょう。まさに、滅び行く者の悲劇の典型です。

ヘロデは、伝え聞いた主イエスに、洗礼者ヨハネの姿を見たのです。ヨハネを通して彼に語りかけられていたあの神の御言葉が、今イエスを通して再び語られ、宣べ伝えられていることを感じたのです。彼はヨハネを殺しました。それによって、語りかけられていた神様のみ言葉を拒み、まさに抹殺したのです。み言葉によって開かれ、示されていた新しい世界への扉をぴしゃりと閉じて、元の自分の部屋の中に閉じ籠ったのです。それで事は終った、と彼は思っていたでしょう。ところがそこに、主イエスが、あのヨハネ以上の権威と力とをもって現れました。その主イエスによって、抹殺してしまった筈の神様のみ言葉が再び姿を現し、自分の心の扉を再びたたき始めたのです。「あなたは罪を犯している。悔い改めなさい」という愛のこもった語りかけが、再び自分に向けて語られ始めていることをヘロデは感じたのです。あのなつかしい当惑が彼の内に再びよみがえって来たのです。

このヨハネはあくまでも主イエス・キリストの道備えをする者でした。神様からの愛を込めた語りかけがその頂点に達したのは、主イエス・キリストにおいてこそなのです。主イエスによって与えられたのは、もはや単なる悔い改めの勧めではなくて、神様の独り子である主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、その犠牲によって私たちの罪が赦された、その救いの恵みへの招きです。ヨハネにおいては、バプテスマは悔い改めの印でしたが、主イエスにおいては、つまりキリスト教会においては、罪人である私たちが主イエスの十字架の死と復活にあずかって生まれ変わり、神の子として新しく生き始めることの印です。

洗礼者ヨハネは道備えであり、主イエスは来るべき救い主であるというのはそういうことです。

墓に納められるヨハネの姿で終わるこの物語は、人間の愚かさの時代が「ここに終わりを告げる」ことを暗示していると言えるでしょう。

私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して今も生きておられる主イエス・キリストが、今この礼拝において、み言葉において私たちに出会い、愛を込めて語りかけて下さっている「救いの時代」「救いの時」を私たちは生きて、新しい命へと、喜びをもって歩み出していくことができるのです。

お祈りを致します。

キリストの御心に包まれた者

《賛美歌》

讃美歌Ⅱ-188番
讃美歌162番
讃美歌217番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 13章45-46節 (旧約聖書181ページ)

13:45 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。
13:46 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。

新約聖書:マルコによる福音書 1章40-45節 (新約聖書63ページ)

1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
1:42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
1:43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
1:45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

《説教》『キリストの御心に包まれた者』

本日は重い皮膚病を患っている人が主イエスの御許にやって来ました。この物語も主イエスによる病気の癒しです。奇跡物語、特に病気の癒しを読むときに注意することは、前回にもお話ししましたが、聖書が語ることの真意を信仰的に正しく読み取らなければなりません。

この物語を読むときも、先ず誰でも感じることは、主イエスがこの男の病気を癒したということへの驚きではないでしょうか。そして、多くの人々は、「このようなことはありえない、信じられない」と言って、この聖書を信じるのに値しない書物、と考えてしまいます。

実は、この出来事を受け容れられないということは、神の御業を信じていた当時のユダヤ人も同じでした。不思議な力を持つ人によって病気が治るということ自体は驚くべきことではなく、神秘的な神の力が「特別な者」に与えられていると思うことは、この時代珍しいことではありませんでした。医師と祈祷師の厳密な区別がない時代です。それにも拘らず、ユダヤ人たちは、この物語を「有り得ないこと」として、はっきりと否定したのでした。

それは、聖書がここに語ることが、治療困難な病気を「主イエスがまたも不思議な力によって治した」という単純な奇跡物語ではないということなのです。この出来事そのものが、神を信じ、神の戒めに従って生きる人々にとって、「有り得ないこと」であったのであり、当時のユダヤ人にとってこの物語は最初から信じられないことでした。

最初に「重い皮膚病を患っている人が来た」と記されていますが、当時のユダヤ人なら、先ずそれを疑うでしょう。事実、当時の生活を知る者にとって、これは異常な出来事であり、ユダヤ人社会を知らない者の作り話としか思えなかったのです。

聖書で「重い皮膚病」と表現されている病気は、当時最も恐れられている病気でした。これは、必ずしも現代のハンセン氏病と同じとは言えませんが、極めて悪性の皮膚病全体を指す言葉でした。この病気に関しては、聖書が詳しく語っていますので、当時の生活に如何に密着した問題であったかが分かります。詳しいことは省略しますが、レビ記13章と14章の全てがこの病気に関する規定であることには驚かされます。

乾燥した砂漠地帯のため、水が乏しく、狭い居住空間に大家族が住む非衛生的な社会では、悪性皮膚病の伝染力は極めて強く、一度かかったら殆ど治ることなく、隔離も厳しく守られていました。病気に罹った者は誰が見ても明らかに異常な姿をしなければなりませんでした。自分から「わたしは汚れた者です」と叫ばなければなりません。町に入ることも許されませんでした。また、道で誰かに会っても挨拶を交わすことも出来ず、人に2メートル以上近づいてもなりませんでした。ですから、重い皮膚病の病人が前を通った店では「食物を買う人もいなくなった」とさえ言われているのもうなずけるでしょう。

さらに悲惨なことは、重い皮膚病は「普通の病気とは違う」と考えられたことです。普通の病気は神の怒りによって負わされた肉体の苦しみとみなされたり、或いは悪霊によるものとされていました。しかし、社会から追放されることはありませんでした。聖書にも、集会を行っている主イエスのもとへ友人たちが天井を破って吊り降ろされた「中風の男」、偉大な治癒力を受けたいと背後から主の衣に触った「長血の女」が記されていますが、彼らはいずれも社会から弾き出されてはいませんでした。

それに対して「重い皮膚病」は、神の御前に出ることが許されない「汚れ」としてとらえられており、レビ記第14章は、この汚れから清められたことが確認される時の儀式を語っています。主イエスが44節で、この人に「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」と言っておられるのは、この儀式を行いなさいということです。この人が清められたことを確認するのは祭司です。汚れているか清いかを判断するのは祭司の役目だからです。ですから逆にある人を汚れていると宣言するのも祭司の務めで、レビ記の13章は、祭司はどういう場合にその人を汚れていると宣言しなければならないかが定められています。そして、汚れていると判断された人はどうしなければならないかが、レビ記13章45節と46節に語られているのです。そこを読んでみます。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」とあります。汚れていると判定されたら、その人は自分の汚れが人にうつらないように、人に会うごとに「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらなければならないのです。そしてさらに、「その人は独りで宿営の外に住まなければならない」とあるように、一般の人々の共同体の中にいることができません。「病」ではなく、「汚れ」であるがゆえに共同体から出て、別に暮らさなければならないのです。これが病であれば、家族や仲間たちが看護し、治療がなされていきます。しかし汚れている者は、その汚れを人に移さないために、家族や仲間たちから切り離され、隔離されてしまうのです。そこに、汚れていると判定された人々の、病気とはまた別の、深い苦しみ悲しみがあったのです。

その惨めさは、かつては一族の長でありながら、発病と同時に町の外のゴミ捨て場の灰の中に放置されたヨブの姿を思い浮かべれば十分でしょう。このような状態になった者は、極言すればもはや人間とは見做されないのです。

日本においてハンセン氏病の患者たちは、まさにこれと同じように家族や社会から切り離され、療養所に隔離されて深い苦しみ悲しみを体験してきました。しかもこの病気の原因が分かり、特効薬が開発されて治る病となってからも長く国の隔離政策が続き、不当な苦しみを受けてきたことを私たちは忘れてはなりません。主イエスに清めていただくことを求めてやって来たこの人が抱えていたのと同じ苦しみ悲しみを、ハンセン氏病の患者の人々は味わってきたのです。しかしこの苦しみをハンセン氏病の人々のみの苦しみとしてしまうのは間違いです。病ではなく汚れであるがゆえに生じる苦しみ悲しみは、様々なかたちで私たちの身近な所にあるのです。

現代の私たちから見れば「ひとつの病気」に過ぎないものを、何故、これ程までに「神の御前における汚れ」として規定するのか理解に苦しむところもありますが、重要なことは、当時の人々が「そう見做した」ということです。それほど恐ろしかったということでしょう。このようなことを確認した上で、40節を改めて見てみると、この出来事が如何に驚くべきことであったかが分かります。

この男は来てはならないところへやって来たのです。近づいてはならない人々のところへ近づきました。守らなければならない「私は汚れている」という言葉を叫びませんでした。彼は全ての律法を破っているのです。公然と律法を破る者は石打ちの刑に処すると定められていました。死刑です。

ですから、この日の出来事は、まさに当時では「有り得ないこと」であり、「考えられないこと」でした。その「有り得ないこと」「考えられないこと」が現実に起こったということが、ここに告げられているのです。

41節に、「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われ」たとあります。

ここの「深く憐れむ」という言葉は、本来、「はらわたが揺り動かされる」という意味の言葉です。そこから発展して、身体全体を揺り動かされるほどの感動を表す言葉となりました。主イエスは、彼の苦しみ悲しみをはらわたがよじれるような深い憐れみをもって感じ取って下さり、そして彼を清くしようと思し召しになったのです。

「手を差し伸べてその人に触れた。」これこそ革命的なことでした。この主イエスの意志、断固たる御業、聖書はそれを語りたいのです。接触を禁じ、隔離を命じた古い律法を、主御自身、明確に否定されました。

律法は何故、隔離を命じたのでしょうか。触れれば「汚れる」からです。しかし、主が触れた時、重い皮膚病は清められました。それは、この時「汚れが去った」と考えるより、「主イエスの清さが移った」と考えるべきです。主イエス、キリストとの触れ合いは、主が持っているものを戴くことであり、主から頂いた「清さ」がおのずから罪の汚れを取り除いてしまうのです。

主イエスのご意志は44節にも示されています。主イエスは彼にこうおっしゃいました。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」。主イエスのご意志は、彼が祭司に体を見せ、清められたことを確認してもらい、レビ記14章に定められている儀式を経て人々に自分が清められたことを証明することでした。レビ記14章8節に、「清めの儀式を受けた者は、衣服を水洗いし、体の毛を全部そって身を洗うと、清くなる。この後、彼は宿営に戻ることができる」とあります。それまでは宿営の外で暮らさなければならなかったのが、宿営に戻り、家族や仲間たちと再び共に生きることができるようになるのです。もはや「わたしは汚れた者です」と呼ばわり、人々を避けて生きなくてもよくなり、通常の社会生活に復帰できるのです。主イエスは彼がそのように社会復帰することを望んでおられるのです。

彼の「清めの儀式」を通して社会復帰を主イエスが望まれたのは単なる日常生活への復帰ではありません。汚れた者は神の御前に出て礼拝をすることができなかっただけではなく、汚れた者が民の中にいると、その汚れが民全体に移って、神の民イスラエル全体が汚れて神を礼拝することができなくなると考えられていました。その汚れが清められたというのは、神の民の一員として神の御前に出て礼拝をすることができるようになった、ということです。ですから彼の社会復帰とは、礼拝への復帰です。神と共に生きる信仰生活への復帰です。主イエスはそのことをこそ望まれ実現して下さったのです。

更に、44節で主イエスが彼におっしゃったことがもう一つあります。それは「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」ということです。主イエスが彼を清くしたことを誰にも言うな、ただ祭司にだけ体を見せ、清くなったことを確認してもらいなさい、と主イエスはおっしゃったのです。しかも43節には「厳しく注意して」とあります。ですからこれは、「このことはあまり人に言ってはいけないよ」という程度の穏やかな話ではありません。また43節の前半には「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし」ともあります。あなたと一緒にいる所を人に見られたくないからすぐに立ち去れ、とおっしゃったのです。何だかずいぶん冷たい態度です。清めていただいたこの人は、主イエスについて行きたい、自分も弟子になりたい、と思ったかもしれません。しかし主イエスはそれをお許しにならなかったのです。それは何故でしょうか。45節以下に、彼は主イエスのもとを立ち去ると、「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」のです。主イエスが厳しく誰にも言うなとおっしゃったのに、「イエス様が私を清めて下さった」ということを彼は語らずにはいられなかったのです。その結果何が起ったか。「イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た」とあります。大勢の人々が主イエスのもとに押し寄せて来たのです。あまりに多くの人が群がって来るので、もう町に入ることができず、町の外の人のいない所に留まらざるを得なくなったのです。これらの人々が主イエスのもとに来たのは、病気の癒しや、悪霊からの解放や、汚れからの清めを求めてです。その人々の思いは、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」というのとは全く違うものです。病の癒しや清めの業が独り歩きして伝わっていくとこうなることを主イエスは見通しておられたのです。人々が癒しや清めのみを求めて殺到してくることは、主イエスの願っていたところではありませんでした。主イエスはあくまでも、神の国の福音を宣べ伝え、人々が悔い改めて福音を信じるために宣教を行い、その一環として病の癒しや清めの業をしようとしておられたのです。それゆえにあんなに厳しく、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」とおっしゃったのです。

このことは、主イエスの十字架の死において、私たち全ての者にも与えられている恵みです。主イエス・キリストは、私たちと神様との間を隔て、私たちが神様の民として生きることを妨げている罪と汚れを全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。私たちの罪も、汚れも、それによる苦しみや悲しみも、十字架にかかって下さった主イエスが全て引き受けて下さったのです。この主イエスの恵みによって私たちは、神様の民とされ、こうして毎週神の御前に出て礼拝をささげ、神様と共に生きることができるのです。私たちの地上の歩みはなお罪と汚れの中にあります。自らの罪や汚れによって様々な苦しみや悲しみを味わうことがあります。また私たち自身が汚れた者を作り出したり、人をいじめ苦しめてしまうようなことも起ります。しかしそのような中で私たちは、私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスを信じて、主のみ前にひざまずき、「主よ、御心ならば、あなたは私を、私の罪と汚れから、そして苦しみや悲しみから、救って下さいます」と告白することができます。主イエス・キリストは私たちを深く憐れみ、み手を差し伸べて私たちに触れ、「清くなれ」と宣言して下さり、罪と汚れの苦しみ悲しみを取り除いて下さり、罪から解放して下さるのです。お祈りをいたします。

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あなたは地の塩、世の光

教会学校との合同礼拝

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌512番
讃美歌77番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 23章13節 (旧約聖書164ページ)

2:13 穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。

新約聖書:マタイによる福音書 5章13~16節 (新約聖書6ページ)

5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

《説教》『あなたは地の塩、世の光』

今日は、教会学校の生徒さんとご一緒に新約聖書マタイによる福音書の「山上の説教」を読みます。このマタイによる福音書の5章から7章までの間にあるイエス様の語られた「山上の説教」とは、5章1節の「山に登られた」という書出しから名付けられました。この「山上の説教」に比べて短いのですが良く似た説教がルカ6章17節以下に記されています。こちらは、「イエスは……山から下りて、平らな所にお立ちになった」と書き始められているところから「山上の説教」と、はっきりと分けるために「平地の説教」とも呼ばれています。

今日の「山上の説教」は、イエス様を信じてついて来た12人の弟子たちに山の上で語られたもので、この福音書に書かれているイエス様による5つの説教の最初のものです。イエス様が神の御子であり、救い主としてのご自身を深く自覚して、宣教・伝道の先頭に立って語られたものです。

既にこの時、イエス様のお名前はユダヤの国中に広まっていて、多くの人々がイエス様の説教を聞きに集まっていました。イエス様がガリラヤ伝道を始められた時の説教は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)でした。そして、この「山上の説教」では、既に天の御国に招き入れられた者たちに対して、その御国とは何であるかを説明されたのでした。

この「山上の説教」はまぎれもなく弟子たちと同じく私たちすべてのキリスト者に語られたものであり、第一にキリスト者の真の幸いとは何か、それは何処にあるのかが語られています。次いで、天の父なる神様を喜ばせるにはどうしなければならないかが語られているのです。

また私たちは、「山上の説教」のすべてが、イエス様ご自身を現わしていることをハッキリと知ることができます。また、それだけではなく、イエス様がモーセの権威をはるかに越える主権を持って、私たちを含めた新しい契約の民の心に、愛による本当の律法を刻み込んでくださっているのです。

この「山上の説教」で最も大切なことは、私たちがイエス様と本当に出会って、イエス様を知ることなのです。

聖書には、神様とは「光そのもの」であると書かれています(Ⅰヨハ1:5)。イエス様は、その「光そのもの」である神様を人々に示するために「世の光」として来られたのです。始めの5章13節と14節には、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」とイエス様は言われました。ここで、イエス様は「あなたがたは地の塩である」と「あなたがたは世の光である」と断言しています。「どうして地の塩なのか」という説明も、「どんな世の光なのか」という解釈もまったくないままです。

この「地の塩」とは何でしょうか。私たちは人間社会で生きています。学校や会社など周りの沢山の人たちと共に暮らしているのです。そんな中で学校や会社などに対する不平・不満があります。余り好きでない人と一緒に仕事をしなければならない会社、古いしきたりを守っているとしか思えない教会などがあるでしょう。そんな私たちに話しかけるように、イエス様は、弟子たちはこの世において「地の塩」の役割を果しなさいと命じられているのです。塩は味付けはもとより、食べ物が腐ることを防ぎます。その腐敗防止の働きがなければ、塩の存在する意味がなくなり、世の人々からも顧みられなくなります。弟子たちはこの腐敗して腐ってしまう世の中でしっかりと防腐剤の働きをしなければならないとイエス様は教えられているのです。

私たちが不平・不満を周りにぶつけると、周りを腐らせてしまうでしょう。腐らせるのではなく、むしろ周りの人々に対して腐らない様に働く防腐剤としての塩となりなさいとイエス様は言われているのです。

また、「世の光」とは何でしょうか。続く15節と16節には、「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と、キリスト者が世に輝く光として振る舞いなさいと教えられているように聞こえますがそうでしょうか。例えば、牧師個人が教会で光り輝くのでは教会は教会でなくなるでしょう。そうではなく光である神様に照らされ、その光を反射して輝けとイエス様は仰っているのです。

弟子たち、私たちはキリストという光を反射して世界を照らす光となる(エフェ5:8、フィリ2:15‐16)のです。自分が光として輝くのではありません。光であるイエス様が周りを明るく照らす時に、弟子たち私たちは、そのイエス様の光を反射して世界を照らす光となるのです。弟子たちや私たちキリスト者に、イエス様は闇を照らすご自身の光を反射して光り輝けと言われているのです。そしてまた、どんな小さな光でも「家の中のものすべてを照らす」のです。小さな光、小さな私たちが明るくなれば、この世界で周りの人々を照らすことが出来るのです。光として表現されるイエス様の弟子たちの使命は、人々の注意を自分に引きつけることではありません。光である天の神様の光を反射して神様の存在を人々に明らかにして、人々が神様をあがめるようになるお手伝いをするのです。

そして、16節では「あなたがた」と複数を用い、世の光を単数で表してありますが、この「あなたがた」の複数は共同体である教会を現わしているのです。一人一人のキリスト者は、このように光にも譬えられていますが、今日の聖書箇所では共同体である教会全体が、「地の塩」であり「世の光」として神様に仕え、共同の伝道を果たすようにイエス様から命じられているのです。神様の召しである伝道を忘れてしまう教会は、自分自身の塩気をなくし何の役にも立たないものになってしまうと言われているのです。

これらのイエス様の言葉は、このマタイ福音書の最後の28章で、力強く宣言されたあの大宣教命令、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:18-20)を導く言葉と言えます。

教会が本当に世の光であるのは、キリストを宣教する時のみです。知識や学問ではありません。生きて生活する中にあって、キリストを告げ知らせることが大切なのです。

最後に新約聖書329ページ、コリントの信徒への手紙第二 4章5節をお読みします。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」

私たち一人一人にとって、大切な人たち、身近な人たちに、この素晴らしい光であるイエス様を、この私たち自身の姿で伝えていく者とならせてください。

お祈りを致します。

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主イエスの新しい掟

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌151番
讃美歌532番

《聖書箇所》

旧約聖書  レビ記 19章17~18節 (旧約聖書192ページ)

19:17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。
19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

新約聖書  ヨハネによる福音書 13章31~35節 (新約聖書195ページ)

13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

《説教原稿》

本日与えられた聖書箇所は、弟子のユダが主イエスを裏切り最後の晩餐の場を出て行ったところで、残った弟子たちに対して主イエスが最後の教えを語られる所です。主イエスはまず人の子が栄光を受けることについて語られます。そして最後の御言葉として34節で、「あなたがたに新しい掟を与える」とおっしゃっているのです。この掟とは、主イエスご自身が「新しい掟」と言われているように、今まで語られていた掟とは違ったものです。ここで主イエスがお語りになることは、今まで、誰も語ったことの無い、主イエスによって初めて語られるものです。主イエスが語る「新しい掟」とはどのようなものなのでしょうか。主イエスは、それを、一言で「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいます。誰でも、隣人愛に生きることが出来れば素晴らしいと思うでしょう。私たちが生きていく上で心がけるべきことの神髄がこの言葉に集約されているとさえ思われます。しかし、私たちは、そんなことは今更言われなくても充分分かっているとの思いがするのではないでしょうか。私たちは、人を愛し、親切にすると言うことを、倫理道徳として既に子供の頃から耳にタコが出来るほど聞かされています。では、主イエスがお語りになる「互いに愛し合いなさい」と言う掟の、どこが新しいのでしょうか。

主イエスが、どのような状況の下で、この掟について、お語りになったかを考えてみたいと思います。31節と32節で、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」と一寸読んだだけでは、何の意味か良く分からない不思議なことを言われています。

ここの最初に「ユダが出て行くと」とあるのは、丁度、このヨハネ福音書13章の直前の聖書箇所で、主イエスがイスカリオテのシモンの子ユダの裏切りを予告し、ユダが、主イエスを祭司長や律法学者に引き渡すために、主イエスと弟子たちのもとを離れて行ったことを言っているのです。主イエスを十字架につけるための計画が弟子であるユダの手によって開始されたのです。今まさに、弟子ユダの裏切りで、主イエスは十字架と言う悲劇的な死を迎えようととしているのです。しかし、この出来事は、主イエスにとって、決して、悲しむべきことではありませんでした。何故なら、「今や、人の子は栄光を受けた」とおっしゃっています。ここで「人の子」とは、主イエスご自身のことです。弟子に裏切られ、十字架という重い刑罰で殺されると言う、人間的な判断では死刑囚として屈辱の極みと言った死刑執行の出来事が始まろうとしていることを、ご自身が栄光を受けたのだと言われているのです。しかも、ここで「今や」と言われていることから、主イエスが、この特別な時を待っておられたことが伺われます。そして、ご自身が栄光を受けたと言うだけではありません。父なる神もまた、主イエスによって栄光をお受けになったと加えて語られています。これが意味していることは、主イエスの十字架の出来事が、神の御業であると言うことです。神の独り子である、主イエスが、人間の罪の身代わりとなって十字架に架かられて死に、それによって人間の罪からの救いが実現しようとしているのです。これこそが、神様の大きな救いの御計画の実現であるのです。この32節では、神が「栄光をお与えになる」と未来形で書かれて、これから父なる神によって栄光が与えられることが語られています。これは、この主イエスが十字架の死後、復活と昇天によって神から与えられる栄光のことが語られているのです。十字架から復活、昇天へと至る、一連の救いの出来事によって栄光が現され、神の救いの御業が成し遂げられるのです。だからこそ、ユダが裏切ったこの時、主イエスは、ご自身と父なる神の栄光をお語りになったのです。これこそが、神の救いが世界にはっきりと現わされる「新しい時」の到来なのです。「新しい時」が到来し「新しい掟」が実現するのです。

続いて33節で主イエスは、「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」と、主イエスが弟子たちのもとを去る時が来たことが告げられます。ここまで、弟子たちは、主イエスと一緒に過ごし、共に歩んできました。しかし、この十字架から先は、主イエスと共に歩むことは出来ないと主イエスははっきりと言われたのです。主イエスは十字架の御業による救いを成し遂げられた後、天に昇られて、もう地上におられないのです。人間の姿を取られた、人となってこの世に来られた主イエスは、栄光をお受けになって、弟子たちと共におられなくなるのです。この「新しい掟」とは、主イエスが側におられなくなり、目の前から主イエスがおられなくなった後で、主イエスに従って行く者たちに示される新しい掟なのです。

十字架上の御業において栄光を受けるということは、弟子たちとの別離を意味します。32節にある「子たちよ」という弟子たちへの呼ひ掛けは、ヨハネ福音書ではここにしか出て来ません。

「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように」とあるのは、少し前になりますが、新約聖書179ページ、ヨハネ福音書7章33節と34節にファリサイ派の人々や祭司長たちが主イエスを捕えようと遣わした下役たちに主イエスが言われた「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」と言われたことを指しています。ここでは、不信仰なユダヤ人たちには、主イエスが言われたことの意味を理解出来なかったことが分かります。それだけではなく、この主イエスの発言を巡って、この直後、筆頭弟子であるペテロの否認の予告へと話が展開するのです。

それでは、ヨハネ福音書特有の弟子たちへの惜別説教の意味は何でしょうか。それは、世の人々を救うために、この地上に遣わされた主イエスが、もともと存在されていた天に栄光の帰還をされるということなのです。弟子たちに別れを告げ、彼らを世に残して行くことを悲しまれますが、弟子たちだけにしてしまうのではありません。主イエスは弁護者(パラクレートス)である「聖霊」を遣わしてくださり、弟子たちと共に居らせ、弟子たちにすべてを教えて、主イエスが地上で言われたことを思い出させるのです。それだけでなく、この聖霊の派遣こそが共同体である教会の中に主イエスご自身が再び共に居られるということなのです。

そのような主イエスによって暗示される十字架の出来事を踏まえつつ語られるのが「互いに愛し合いなさい」と言う掟なのです。続いて34節と35節で、主イエスは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と語られました。

主イエスが、「互いに愛し合いなさい」と言われる時、抽象的に愛を教えようとしているのではありません。「わたしがあなたがたを愛したように」とあるように、ご自身が愛に生きて下さり、その具体的な愛と同じ愛をもって弟子たちが互いに愛し合うようにとおっしゃっているのです。

では、この主イエスの愛を弟子たちが生きるとはどういうことなのでしょうか。それは本日お読みした箇所の直前の聖書箇所に記されています。主イエスが、最後の晩餐の席で、弟子たちの足をお洗いになりました。人の足を洗うと言うのは、ローマ時代では奴隷の仕事でした。主イエスは、自ら弟子たちの僕のお姿となって仕えることを通して愛をお示しになったのです。この弟子たちの足を洗う出来事は、明確に主イエスが向かわれようとしている十字架の出来事を指し示しています。主イエスが僕となって弟子たちの足を洗って下さったとは、神の独り子でありながら、十字架で人々の罪を担って死んでくださることを示しているのです。この時、まだまったく、主イエスの十字架のことを聞かされても分からなかった弟子たちに向かって、足を洗うことを通して、人々に仕える神の愛を教えておられたのです。主イエスは弟子たちの足をすべて洗い終わった後、「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」とはっきりと弟子たちに告げられています。

これは、互いに愛し合いなさいと言われる主イエスの「新しい掟」と重なります。主イエスが、十字架で命を犠牲とすることによって僕となり愛を示してくださった。その愛を受けた者は、互いに足を洗い合うように、隣人の罪を担い、赦し合いながら歩む者とされるのです。それは決して簡単なことではありません。自分の罪に気付かず、自分のことを棚に上げて、他人の罪を裁こうとするのが私たちの常ではないでしょうか。まして、自分に対する隣人の罪を赦すことなどなかなか出来るものではありません。罪を赦し、愛に生きると言うことは、私たち自身の力では出来ないのです。ただ、主イエスが自ら愛を示し、私たちを愛し、語られる掟に見習い、従うときに実現出来るのです。

「わたしがあなたがたを愛したように」主イエスが示して下さった互いに僕となって、互いに愛し合う。

ここにこそ、主イエスの「新しい掟」があるのです。

例えば、主イエスが、ただ「互いに愛し合いなさい」とだけ語られたとしたならば、それは、私たちが自分の内にある愛によって、隣人を愛すると言うことになるのではないでしょうか。しかし、そのように自分の行いによって愛すると言った行為は、どこかで、自分に対する誇りを生みます。自分の栄光を求めようとするようになるのです。そこでは、自分を誇り、隣人を蔑み裁くような歩みが生まれます。主イエスが「互いに愛し合いなさい」という掟に、「わたしがあなたがたを愛したように」と言う言葉が加わっていることによって、この掟は、主イエスによって愛された者が、その愛に応えつつ、その愛に生かされていくための指針になるのです。それは、自分の努力や業によって救いを得ようとするための掟ではなく、主イエスによって愛され、主イエスによって赦された者として、その愛に生かされていく道を示す掟です。その掟によって歩みを導かれていく時、私たちは主イエスによって罪赦された者として、人々の罪を赦し、その罪を担って行く者とされて行くのです。私たちは、主イエスの愛が示されている十字架への道を見る時、自らが、主イエスを裏切る者でしかない現実を知らされます。しかし、そのような、愛に生き得ない人間の現実の只中で、主イエスが愛に生きてくださったことを知らされる時に、その愛に促されて、そこで示される愛に生きる者とされていくのです。

弟子たちのもとを去る主イエスは、地上に残る弟子たちに「新しい掟」を与えられました。弟子たちがこの「新しい掟」を守り、弟子たちが互いに愛し合うならば、主イエスが地上を去った後にもなお、弟子たちが主イエスの弟子であることがすべての人々に認められるのだと教えられているのです。主イエスのこの愛の掟が“新しい”と言われる理由は、「わたしがあなたがたを愛したように」という点にあるのです。御子イエス・キリストを通して示された神の愛に基づいている点なのです。ここまで聞くと、主イエスの掟の新しさとは、今までまったく聞いたことがないような斬新な教えと言う意味での新しさではないかも知れません。

しかし、この主イエスの「新しい掟」というお考えは、私たちの掟に対する概念を根本から覆し、私たちの生き方に根本的な変化をもたらすような、新しさを持っているのです。私たちは、「戒めとしての掟」を求めます。自分自身の業に生き、自分の努力や、その結果の中に、自分自身に栄光を帰そうとします。そんな自分自身に栄光を得ようとして歩む私たちに、真の神の救いの御業を示しつつ、その神の愛に応答して行く道を示す全く新しい掟なのです。

そして、そのような新しい掟に生きる時にのみ、私たちは、互いに足を洗い合うような、お互いの罪を担いつつ歩む歩みが出来るようになるのです。

この「新しい掟」が私たち人間にもたらす変化を弟子のペトロの姿の中に見出すことが出来ます。36節でペトロは、主イエスの言われたことの意味が分からず、「主よ、どこへ行かれるのですか」と問いかけます。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることができないが、後でついて来ることになる」とおっしゃった主イエスに向かって、ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」とまで言い切ります。しかし、そのペトロに対して、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と主イエスは予告なさったのです。そして、実際、この主イエスの予告通りに、ペトロは、主イエスが裁判を受けている最中、主イエスのことを否むのです。「あなたのためなら命を捨てます」と豪語するペトロは、まさに、自分の力で主イエスを愛し、主イエスについて行こうと努力しているのです。しかし、そのようなペトロの努力が続いたのは、主イエスの十字架まででした。ペトロは、十字架で死んでしまわれた主イエスを見捨てて逃げてしまいました。主イエスの行く所について行くことが出来なかったのです。しかし、主イエスはここでペトロに「後でついて来ることになる」とおっしゃっています。これは、ペトロが後に復活の主と出会い伝道者として立てられ、その働きの中でローマから迫害され殉教することを示しているとされています。実に、ペトロは、そのような歩みを辿るのです。しかし、それは、自分の業によって、主イエスに仕えた結果ではありません。主イエスの愛を知らされ、その愛に応答する新しい歩みを始めたことによる結果です。十字架と復活によって救いを成し遂げられた主イエスと出会い、自らの愛の破れと共に、自らを包む大きな神の愛を知らされた時、自分が主イエスのために死ねないどころか、主イエスが自分のために命を投げ出して下さっていることを知らされた時、ペトロはその愛に応える者とされたのです。そこでは、自らの力によって歩み、自分の栄光を求めるのではなく、主イエスの愛に支えられて、自らを捧げる歩みが生まれていったのです。

主イエスが世を去ってしまい、主イエスのところに行けない、そこについて行くことが出来ない弟子たちの状況は、そのまま現代を生きる私たちが置かれている状況です。2000年前のユダヤで、人間となってこの世に来て下さった主イエスは、現代の私たちと共にはおられないのです。

従って、この主イエスの「新しい掟」は、現代を生きる私たちキリスト者に向かって語られているとも言えます。私たちは、主イエスの行かれた場所に行くことは出来ません。しかし、この世にあって、主イエスが語りかけて下さる「新しい掟」によって、主イエスの愛をこの身に受けて生きるのです。自ら十字架に歩まれた、主イエスの愛に倣うのです。そして、そのような歩みが生まれていく時に、私たちは、キリストを証しする者とされます。35節には、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と主イエスが言われています。ここで「皆が知るようになる」の「皆が」と言われているのは、まだキリスト者とされていない人々を指しています。そのような未だキリストに出会ってない人々がキリストを知ることができるのは、キリスト者共同体である教会で、キリストの愛が生きて続けていることによって知るしかないのです。もし、このキリストの愛が生きていないのであれば、ただ戒めとしての掟によって、共同体である教会が、お互いに、自分の栄光を求めながら歩んでいたとしたらキリストの愛である救いは伝わらないでしょう。まして、互いの罪を担うのではなく裁きあいながら歩んでいたとしたら、その群れがたとえ教会の看板を掲げて、そこに人々が集まっていても、伝道が進むことはないでしょう。私たちは、絶えず、主イエスのお語りになる「新しい掟」を聞かなくてはなりません。その掟によって互いに愛し合う時、今、地上におられない、主イエスの愛が、私たちを通して示されていくのです。戒めとしての掟を求め、自分の栄光を求めて歩んでいる私たちに、御言葉を通して掟が新しく語られています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。今日も、この御言葉から、互いに仕え合う新しい歩みを始めたいと思います。

お祈りを致します。

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