高慢な者は低くされる

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌138番
讃美歌448番

《聖書箇所》

旧約聖書  箴言 30篇11-14節 (旧約聖書1,031ページ)

30:11 父を呪い、母を祝福しない世代
30:12 自分を清いものと見なし/自分の汚物を洗い落とさぬ世代
30:13 目つきは高慢で、まなざしの驕った世代
30:14 歯は剣、牙は刃物の世代/それは貧しい人を食らい尽くして土地を奪い/乏しい人を食らい尽くして命を奪う。

新約聖書  ルカによる福音書 18章9-14節 (新約聖書144ページ)

18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

《説教》『高慢な者は低くされる』

皆さん、今日は教会学校との合同礼拝です。私は、この成宗教会に4月に赴任しましたが、新型コロナウィルス感染症の流行で、4月と5月の2ヶ月間は集会自粛で主日礼拝はお休み状態で、やっと6月から主日礼拝を再開しました。

この教会学校合同礼拝も私には初めてで、教会学校CSもずっと休んでいたので、CS生徒さんとは、ほぼ初顔合わせです。

そんな中での説教となりました。今日の聖書箇所の要点は18章9節にあります、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対してイエス様がたとえ話としてお話しになりました。

結論としてイエス様がおっしゃったのは最後の14節の「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということです。聖書記者のルカはイエス様のお語りになったこの結論の意味をよりはっきりさせようとして、「高ぶる者」とは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」のことだ、という説明を、たとえ話の前に置いたのです。

イエス様がこのたとえによって問題としておられるのは、「自分」のことをどのように見るかということ、つまり「自己評価」の問題なのです。自分を高くする、高く評価することと、低くする、低く評価することとが、ファリサイ派の人と徴税人の祈りの違いによってあざやかに描き出されているのです。

ここでファリサイ派とは、イエス様の時代のユダヤで、神様の掟、律法を特に厳格に守り、正しく生活を送っていた人々であって、その点で一般の人々とは違う、と自他共に自分は正しいと認めていた人々のことです。このファリサイ派の人々こそ、神様のみ前に出て祈るのに最も相応しいと誰もが思っていたのです。

それに対して徴税人とは、その正反対で、神の民であるユダヤ人でありながら、異邦人であるローマに納める税金をユダヤ人から徴収し、それによって私腹を肥しているとんでもない裏切り者であり、当時のユダヤ人にとっては仇とも言える罪人の代表でした。

この二人の祈りはまことに対照的と言えるものでした。

このファリサイ派の人は神様に感謝の祈りをささげています。その感謝の祈りの内容は、11節にあるように心の中で『ほかの人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないこと』ということでした。この世には様々な悪人たちがいるが、自分はそういう悪人達とは違う、特に、すぐそばにいるあの徴税人のようにユダヤ人の誰からも嫌われている罪人とは全く違う生き方ができていることを、このファリサイ派の人は神様に感謝しているのです。

そして、このファリサイ派の人はさらに、自分が神様をどのように信仰しているか、そしてどのように奉仕をしているかを12節から語ります。『わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』と心の中で祈ります。当時の一般のユダヤ人に求められていたのは、年に何度かの断食でしたから、ここで彼のいう週に二度というのは、普通のユダヤの人々よりもはるかに多く断食をしているということです。また『全収入の十分の一を献げている』というのも、やはりユダヤ人の律法により作物や生まれた家畜の十分の一を献げることが定められていましたが、『全収入の十分の一』というのは、はるかに徹底した献げ方です。

このように、このファリサイ派の人は他の一般的なユダヤの人々が真似をすることができないような素晴らしい信仰的行いをしていると、祈っているのです。

もう一方の徴税人の祈りは13節の、『神様、罪人のわたしを憐れんでください』の一言だけでした。しかもこの徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈ったのです。「遠くに立って」というのは、先のファリサイ派の人はおそらく神殿の正面のごく近い所で祈ったのだと思われるのに対して、徴税人は神殿の正面から遠く離れた隅の方で、祈ったということです。彼は神殿の隅っこの方で、しかも「目を天に上げようともせず」に祈ったのです。目を、つまり顔を天に上げて祈ることがユダヤ人の普通の祈りの姿で、祈りの姿勢なのです。ファリサイ派の人はまさにまっすぐに天を仰いで祈ったことでしょう。しかしこの徴税人は顔を上げることができない、神様に顔向けできない思いで祈ったのです。また「胸を打ちながら」というのは、嘆き悲しみや悔いを表すしぐさです。徴税人は、自分が神様にとうてい顔向けできない罪人であることを嘆き悲しみつつ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのです。

このファリサイ派の人と徴税人の二人の対照的な祈りの言葉を語った上でイエス様は、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」とおっしゃいました。「義とされる」というのは、「義なる者、正しい者と見なされる」ということです。人を義であると認めることができるのは神様のみです。あの徴税人が神様によって正しい者とみなされて家に帰ったのです。彼の祈りは聞き届けられたのです。

祈り願った罪の赦しが与えられ、神様との関係が回復されたのです。一言で言えば彼は救われたのです。

それに対して、ファリサイ派の人は義とされませんでした、神様によって義なる者と見なされなかったのです。人々の目から見たら、このファリサイ派の人こそ正しい人、義である人と思われていたでしょうし、自分自身でもそう思っていたのですが、神様は彼を正しい者と認めて下さらなかったのです。

つづいて14節でイエス様は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という御言葉でその理由を示しています。自分を高く評価する者は神様によって低くしか評価されなく、一方で自分自身を低く評価するへりくだった者は神様によって高く評価される、ということをイエス様は語っています。

ファリサイ派の人は、自分は周囲の罪人たちとは違い、神様にしっかり仕えている正しい者だ、と自分自身を高く評価したのです。しかし神様はそのファリサイ派の人を低く評価され、罪人と宣告されました。

それに対して徴税人は自分自身を低く評価しました。自分は神様のみ前に出るに値しない罪人だ、と評価したのです。そういう彼を神様は高く評価して下さり、罪を赦して義と認めて下さったのです。

ここに語られているのは、自分自身が信仰深く神様に仕えていることを自分が高く評価するのでなく、むしろ自分の罪を認め、ヘリ下って神様の赦しを求める者を、神様はそういう謙遜な者をこそ高く評価して下さるのです。

しかし、ここまででは、余りに簡単で中途半端ではないでしょうか。もう一度、この二人の祈りの言葉を思い出してみましょう。

ファリサイ派の人は神様に感謝していますが、その感謝は「ほかの人たち」との比較です。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」たちがいる、そういう人々に対して自分の優位性を誇っています。加えて、そばにいる「徴税人のような者でもない」と、彼の感謝は、それら他の人々と自分とを見比べて自分が優れているとの感謝です。自分はどんな信仰生活をし、どのように神様に仕え、どれだけ献金をしているか。その思いは、自分自身にばかり向けられている人間としての思いではないでしょうか。神様の思いには至っていないのです。

それに対して徴税人の祈りは、神様のみに向けられていると言えます。13節にあるように、徴税人が「罪人のわたしを」と言っているのは、周囲にいる他の人々と自分とを見比べてはいません。徴税人は目の前で祈っているファリサイ派の人のように立派な信仰生活は送れません、罪を犯してばかりで、自分は駄目な人間です、などと祈っているのではないのです。徴税人は、ただひたすら神様のみに向かい合っているのです。罪の赦しを神様に願い求めて祈っているのです。まさに神様に向かい、神様に向けられた祈りです。

神様は徴税人のその祈りに応えて下さり、彼を義として下さったのです。彼が義とされて家に帰ることができたのは、自分を低くする謙遜な祈りをしたからだけではありません。

神様のみを見つめ、本当に神様に向かって祈ったことに、神様が応えて下さったのです。

一方のファリサイ派の人も、自分を人と比較して高慢に思い上がった祈りをしたからかえって低くされてしまっただけではありません。ファリサイ派の人は、神様に向かっていないと言えるんではないでしょうか。他の人々と自分を見比べて、自分の正しさや立派さを確認して喜び、その喜びを独り言のように祈っているのに過ぎないのです。そこには神様に対するへりくだった思いがありません。神様との交わりが成り立っていないと思われます。

つまりこの二人の違いは、神様の前に立っているか、それとも他の人と自分とを見比べて自分の思いの上に立っているか、ということです。

このことが、「自分を高く評価するか低く評価するか」という違いを生んでいるのです。自分を他の人と比較する中で私たちが求めるのは、自分を少しでも高く評価することです。他の人からも高く評価されたいし、自分でも自分自身を高く評価したいのです。それは様々な仕方でなされます。

このファリサイ派の人の祈りの言葉はまことに高慢な鼻持ちならないものですが、しかしある意味で無邪気な、単純なあり方だとも言えます。私たちも、徴税人だった筈の自分自身がいつのまにかファリサイ派の人のようになってしまうことがよくあるのではないでしょうか。

大切なことは、神様のみ前に本当に立つということです。神様のみ前に本当に立ったなら、私たちはもはや人と自分とを見比べていることなどできません。神様のみ前では、「あの人よりは自分の方がましだ」と自己弁護をすることも、「あの人がこうだったから」と人のせいにすることや、話を人のことにすり替えることもできません。神様は私たち一人ひとりに対して、「人はどうであれ、あなたは、私を信じ従うのか、それとも拒むのか」と問われるのです。その神様の問いの前に立つ時、私たちは誰もが、この徴税人と同じように、遠くに立ち、目を天に上げることもできず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈り願うしかないのです。

神様の前に砕かれ、ヘリ下るしかないのです。

それでは、お祈りをいたします。

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あなたはキリストの手紙

《賛美歌》

讃美歌461番
讃美歌515番
讃美歌525番

《聖書箇所》

旧約聖書  エレミア書 31章31-34節 (旧約聖書1,237ページ)

31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

新約聖書  コリントの信徒への手紙 二 3章1-6節 (新約聖書327ページ)

3:1 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。
3:2 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。
3:3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
3:4 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。
3:5 もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。
3:6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

《説教》『あなたはキリストの手紙』

コリントの町は古代ギリシアの都市でしたが、ローマ帝国に反抗したために、紀元前146年にローマ軍によって徹底的に破壊され、その場所は廃墟になっていました。しかし約100年後、ユリウス・カエサルによってローマ帝国の植民都市として再建され、主イエスの時代にはローマ帝国のアカイア州の総督府が置かれるようになりました。古代地中海世界の多くの主要都市と同じように、そこにはかなりのユダヤ人が住んでいました。パウロはいつものようにこれらの人々の間で宣教を始めたのでした。

コリントの信徒への手紙第二では、コリント教会共同体の内部生活やパウロとの関係について多く取り上げられているので、他のどの手紙よりもパウロ自身について多くを知ることができます。コリントの教会は罪を犯すことがない聖人の集まりではなく、救いにあずかり、信仰について考える過程の只中にある、罪人の集まりであったと言えましょう。パウロは紀元55年前後にコリント教会の混乱を収めるためコリントの信徒への手紙第一を執筆しました。その手紙で、コリント教会の混乱が収まったかどうかは明確には分かりませんが、パウロは再びコリント教会に問題が起きたとの情報をエフェソで得て、解決のためコリントに赴きましたが、結果は不調に終りました。エフェソに帰ったパウロは2章4節にあるように「涙ながらに」コリント教会に書簡を書き、弟子のテトスに託しました。

エフェソでの働きを終り、パウロはトロアスに移動しました。トロアスは伝道有望地でしたが、パウロはコリント教会の成行きを案じてマケドニヤへ渡り、そこで、コリントから帰ったテトスに会い、コリント教会の悔い改めを聞きました。この朗報に接してマケドニヤから書いたのが、このコリントの信徒への手紙第二でした。つまり、第一コリント執筆後1~2年後の紀元56年から57年頃に、この手紙は書かれたと思われます。

今日の3章1節から、パウロは、「新しい契約」に仕える使徒として任じられた証拠を自分は持っていると論じ始めます。パウロは「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。」と書き始めています。ここに「またもや」という言葉が使われていますが、この手紙によると、パウロはコリント教会の人々から自己推薦をしていると誤解して受け取られていたようです。

この時代には、推薦状がしきりに書かれていました。ここで、「ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか。」とあるように、コリントの教会にも推薦状が送られていたようですし、またコリントの教会の人も誰かを推薦し推薦状を書いていたということが分かります。このように、コリントの教会では、来会者を判断するために推薦状を受け取ることが当たり前になっていたようです。

パウロが言わんとしているのは、「自分には誇れることはない、むしろ弱さばかりある。しかし、神様が、そのような宣べ伝えるに相応しくない自分を、宣べ伝える者として召して下さったから、今あなた方に宣べ伝えているのです。」ということです。パウロが弱さを誇るのは、自分は自己推薦できる者ではなく、そして他者から推薦されるに相応しくないことを示したいからです。パウロは自分を自己推薦するのではなく、ただ神様が推薦してくださっているということを、コリントの人々に伝えたかったのでした。ここで、パウロはこの神様の推薦があることを明らかにしようと試みます。それが2節の、「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。」というこの不思議な言葉です。これは、読む人にとっては意外な言葉です。推薦状とは、他者か、または自分が書いた書類である筈です。しかし、パウロは書類ではなく、人が自分の推薦状であると言うのです。そして、それがコリントの人々であると言っています。「自分は、あなたがたに対して、イエス・キリストの福音を宣べ伝えた。それをあなたがたが受け入れた。そしてあなたがたは救われて、主イエスを信じるようになって、信仰生活を送っている。それがわたしの推薦状になっている」と言っているのです。パウロは、人に信仰を与え、その人を信仰者として生み出してくださるのは、神様であると確信していました。信仰者もまた「信仰は父なる神が与えてくださる」ということ、すべては神様の働きであるということを知るようになります。だから、「あなたがたは神から与えられた私の推薦状なのだ」とコリントの人々に訴えるのです。

この後半で「それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。」とあります。「パウロの推薦状は、コリントの人々自身である」ということが「パウロの心に書かれており」、その事柄は、すべての人々に知られているということなのです。そして3節には、「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」と、今度は、「あなたがたはキリストの手紙」であるということを語り始めます。パウロがまだ推薦状のことを語りたいのならば、ここを「手紙」とは書かずに「キリストがわたしたちを用いてお書きになった“推薦状”」と書いたのではないでしょうか。ここでは、「推薦状」と書かずに「手紙」と言い換えているのです。ここからは自分の推薦の話ではなくて、コリントの人々に対して、あなたたちは「キリストによって書かれた手紙である」ということを伝えたかったからなのです。

どういう意味でキリストの手紙なのでしょうか。それは、ここに「キリストがわたしたちを用いてお書きになった」と書かれていることから、この手紙は、主イエスご自身によって書かれた手紙であり、その内容は主イエスが仰りたいことであるということが分かります。

主イエスが人々にお伝えになりたいことというのは、「喜びの知らせ」すなわち「福音」です。主イエスによって罪を贖われ、罪を赦され、復活を信じることができ、永遠の命を与えられることを信じることができる。そして本当に父なる神が、どうしようもない私たちを見捨てず愛してくださって死ですべてを終わりになさらず、復活し新しい命が与えられて、神の国に入らせ、そして父なる神の家に住まわせてくださることを約束して下さっているということをお伝えになりたいのです。そのお伝えになりたいことを主イエスは、手紙として書いているのです。その救いと愛と希望の喜びの知らせを、主イエスは私たちに書き記しておられるのです。

どのようにして、私たちに書き記されているのか、それは信仰によってです。ここに「墨によってではなく、神の霊によって、書きつけられた」とあります。私たちは、その喜びの知らせを信じる信仰を与えられた時に同時に神の霊、聖霊を与えられます。信仰を与えられたその時に私たちは、聖霊なる神によって、その喜びの知らせを刻まれるのです。パウロは永遠に消えることのない神の霊によって、信仰と喜びの知らせが刻まれているということを伝えたかったのです。

どこにそれが刻まれるのか、それは後半に「石の板ではなく、心の板に、書きつけられている」とあります。石の板ということで、私たちが思い出すのは、モーセが神様から与えられた十戒が記された石の板、すなわち律法ではないでしょうか。パウロは、石の板である律法ではなくて、主イエスに与えられている喜びの知らせである福音が私たちの心に書きつけられているのだと言っているのです。私たちは律法によって、自分たちの罪を知りますが、律法によってでは、救われませせん。律法によって私たちが自覚させられる罪を、主イエスが十字架の死の犠牲によって代わりに背負って、贖ってくださって、救ってくださったのです。その救いの喜びの知らせ、「福音」が私たちの心に刻まれるということを、パウロは4節で強調しているのです。

パウロは、この救いの喜びの知らせ、福音に確信を持っていました。

そして、パウロは続く5節で神様に与えられた「資格」について語ります。「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。」

パウロがここで述べている「資格」というのは、伝道者としての資格のことです。そのような伝道者としての「資格」は、自分にはないということを、ここで述べています。「独りでなにかできると思う」と書いていますが、ここは原文に沿って訳すと、「わたしたち自身は、何か考えたり主張したりするには相応しい者ではない」ということです。

これは、パウロのコリントの教会に対しての忠告であり、願いでもあったのでしょう。または彼らに御言葉を語ることの権利や資格は「そもそも自分にない」というへりくだりとも言えましょう。

ここでは、パウロが自分だけのことを言っているのではないことに気付かされます。

「わたしたちには、その資格がない」と「わたしたち」と言っているのです。つまり、パウロにだけ伝道者としての資格がないのではなく、誰一人として、伝道者になる資格を持ち合わせていないと言っているのです。

私たちは本来、神様の救いに与る資格や神の子とされる資格も資質もありません。しかし、その資格もただ主イエスによって、ふさわしく無い自分が赦され、救いに与る資格が与えられ、神の子とされる資格が与えられたのです。それは最後の6節を読むと分かります。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」とあります。

ここの「新しい契約」とは、主イエスが十字架上で流された血によって結ばれた契約のことです。神様と人との契約です。創世記のアダムとエバ以来失われた神様との関係を主イエスがその犠牲によって修復して下さったことにより神様の前に立つことができ、神様と共に生きることができ、神様とつながって永遠の命に与ることができるようになるという、神様の一方的な約束です。そして、この「新しい契約」というのは、主イエスがお生まれになる600年も昔の時代に預言者エレミヤを通して神様から与えられた約束でした。それは、先程お読み頂いた旧約聖書エレミア書に書かれていた言葉です。

ここの「霊に仕える」というのは、聖霊なる神にすべてを委ねるということです。パウロは、ここで「文字に仕えるのではなく、聖霊なる神に仕える」と言っています。

ところが、ユダヤ人たちは、「神の民」とされているということや「新しい契約」をいつの間にか忘れ、律法に書かれている掟を守れる者が「神の民」であり、「神の民にふさわしい者である」と考えるようになっていました。そして、律法を、絶対視するようになり、文字に書かれた律法の「行い」に違反する者を裁く者になっていました。

パウロは、そのような「文字」に仕えるのではなく、「聖霊」に仕えると言っています。また聖霊に仕える資格を神様から与えられたと言っているのです。「文字に仕える」というのは、文字で書かれた律法の「行い」に従い、自分自身を評価し、また他者をも評価し裁くことです。そして、その律法と自らの「行い」で自分を変えたり、その律法の力と自分の力とで他者をも変えようとすることです。「霊に仕える」とは、ただ一方的な愛ゆえに赦し選び救いだしてくださった神様の霊によって、自分自身を判断し、他者を見ること、そして、自分の力で自分を変えようとせず聖霊なる神によって変えられること、また隣人も同様に聖霊なる神によって変えられていくことです。

今、私たちは礼拝に集い、神様の前に立つ資格を与えられています。本当は、私たちは誰一人として神様の前に立つことのできる資格を有していません。私たちの中で、生まれながらに穢れ無く、聖なる者、義なる者は居るでしょうか。一人も居ません。誰一人として神の御前に本来は立ち得ないのです。

そんな私たちが、神様の前に立ち、御言葉を聞くことができるのは、神様の一方的な赦しがあり、義なる者として、認めてくださっているからなのです。

罪ある者、穢れある者が、ここに居ることができるのは、4節でパウロが「キリストによってこのような確信を神の前で抱いています」と言っているように、それは一方的な神様の愛である「キリストによって」なのです。主イエスによってということです。私たちは、神様の前に立つことが赦されています。神の子であることが赦されています。それはただ主イエス・キリストの十字架の犠牲によってのみで与えられているのです。その結果、私たちには、聖霊なる神に仕える資格が与えられています。この素晴らしい神様の愛を一人でも多くの人たちに伝え、共に豊かな愛の中を生きようではありませんか。

特に自分が大切であると思う人にこそ、この素晴らしい豊かな神様の愛を伝え、その愛の中に居て欲しいと思うのが私たちの素直な気持ちではないでしょうか。ですから私たち自身が「キリストの手紙」となり、すべてを神様に委ね、自分の生きる姿こそが福音を伝えるものとなりますよう祈りつつ歩んでまいりましょう。

お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

 

幸いなる人になりなさい

《賛美歌》

讃美歌224番
讃美歌67番
讃美歌502番

《聖書箇所》

新約聖書 : テモテへの手紙二 2章19節

2:19 しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。

旧約聖書 : 詩篇 1編1-6節

1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

《説教》『幸いなる人になりなさい』

詩編はイスラエルの長い歴史を背景にしています。その多くは神殿の礼拝で歌われたものと考えられ、また或るものは、エルサレムへ巡礼する人々の愛唱歌でもありました。そのため、一つ一つの詩の作者ははっきりとは分かりませんし、また、その詩の背景を確定出来ないものが殆どです。時代の流れの中で、人々が苦しみ、嘆き、神様を叫び求め、また神様の栄光を讃美する数々の詩は、信仰者の魂の結晶として貴ばれて来ました。

教会は、初代教会以来、イスラエルの伝統を受け入れ、詩編を礼拝の中で用いて来ました。私たちもまた、礼拝において朗読し、交読している詩編の意味をよく考え、神様を正しく礼拝・讃美する信仰を養うことが大切でしょう。

長い時の流れの中で作り上げられた詩篇は、初め幾つかの独立した詩集として存在していたようです。後に、現在のように5巻に分けてまとめられたことは、各巻の終わりが「頌栄」となっていることからも明らかです。

第1巻は、第1編から第41編、

第2巻は、第42編から第72編まで、

第3巻は、第73編から第89編です。

第4巻は、第90編から第106編まで、

第5巻は、第107編から第150編までです。

そして最後の第150編は、詩篇全体の頌栄ともなっています。

因みに、神の呼称、神の名は、第1巻ではヤーウェですが、第2巻と第3巻ではエロヒームが用いられ、第4巻と第5巻では再びヤーウェが神の名として用いられています。

このように、詩編の成り立ちや構造を見てみると、今日の第1編が特別な意味を持っていることが分かります。第1編は第2編と共に表題がありません。更に、最後の第150編が全体の頌栄となっているとするならば、第1編はそれに対応するものと考えるのが自然でしょう。即ち、この詩篇の初めの部分は、詩篇が現在の形に編集された時、全体の序曲として特に選ばれ、加えられたものと思われるのです。

詩篇1編1節は、「いかに幸いなことか」で始まっています。詩編全体の初めが「幸いなことか」という呼びかけで始まっているということは、神様の御前に立つ者が先ず告げられる御言葉が何であり、自ら口にすべき言葉が何であるかを教えるものと言えます。これは、神様よりの祝福を受け、希望を与えられた自分自身の姿の確認であり、信仰に生きる者としての自分を神様の眼差しの下にある者として見ることなのです。

そしてこの祝福は、マタイによる福音書に記されている有名な「山上の説教」の冒頭に記された主イエスの「祝福の言葉」に対応していることも明らかです。主イエスも、集まった人々に対し、「幸いなる人よ」と呼びかけられました。この意味で詩篇は、主イエスの更に遠い昔に、既に、主イエスの福音を先取りしているとも言えます。

詩編の作者は何を「幸い」と言っているのでしょうか。「幸い」と訳されている言葉は、原語では「真っ直ぐに歩く」「導かれる」という意味であり、それから「幸い」という意味が出て来ました。「幸い」とは、人生の道を真っ直ぐに歩くことであるというのがユダヤ人の考え方なのです。

このように真っ直ぐな人生の道を歩く者と対称的なのが、1節に挙げられている三種類の人間です。それは、「神に逆らう者の計らいに従ってあゆむ者」であり、「罪ある者の道にとどまる者」であり、そして「傲慢な者と共に座る者」とあります。

この三種類の人間は「遠ざかるべき道」と呼べる道を行くのです。これらの人間の先ず第一の者とは、「神に逆らう者」の計らいに従う人間です。「神に逆らう者」とは、ことさらに反逆とは言えなくても、神様を認めない、神様に従わない、神様の御心の外に生きる者をも含めています。従って、彼らは神様の平安に包まれません。その結果、この者は不安の中にあり、不安に基づく自己中心的な想いに囚われて生きることになるのです。神様に背を向ける人生に平安はありません。これが共に歩いてはいけないと言われている第一の人間です。

「遠ざかるべき道」を行く第二の者とは、罪ある者の道にとどまる人間です。「罪」とは元来「的を外す」という意味でした。間違ったものを求める者のことです。的外れの人生。それは神様を知らない、知ろうとしない人間の生きる道です。

「遠ざかるべき道」を行く第三の者とは、傲慢な者と共に座る人間です。傲慢な者とは、自分をあらゆることの中心にし、自分の生き方や考え方に何処までも拘(こだわ)る者、自己中心的に生きる者です。これが的外れの人生を生きる者の典型であるとも言えるでしょう。そして私たちの周囲に最も多いのがこの第三の人間かもしれません。

これらの三種類の人間は、人間の悪の代表的な三つの側面を現わしていると言えるでしょう。そして更に問題なのは、これら三種類の人間が、特に悪しき姿とは思えないことであり、いくらでも私たちの周囲に幾らでも居るということなのです。

神様から離れて生きる者は誰も不安から逃れられません。それどころか、誰もが不安を道連れにして生きていると言えるでしょう。そしてこの不安から逃れるために、様々な策を繰り出すのです。

或る者は豊かさに溺れ享楽的に生き、或る者は仕事へ熱中して、その忙しさの中で不安を忘れようとします。また或る者は趣味で気を紛らわし、また或る者はアルコールの力を借り、なかには法律を犯してまで麻薬などの薬物を求めます。人間が行うすべての行為は、所詮、不安からの逃避でしかないと言えましょう。

当然それらの行為は、不安から解放される道ではなく、その場限りの気紛れでしかないことは、誰でも知っていることです。それは、間違った行為なのです。安らぎのないところへ安らぎを求めているのです。神様に背を向け、自分の思いで不安から免れようとする行いは、神様の御心を考えず、神様の愛を虚しくすることであり、神様なしでも生きて行けると錯覚しているに過ぎないのです。

そこに「真っ直ぐな道はない」と詩篇の作者は語ります。神様の導きを考えず、それを求めず、また、御心を想わず、神様なしで人生を全う出来ると考えるところに「幸い」はないのです。信仰とは、これらの誤りから脱け出ることであり、神様の導きを、「必要欠くべからざるもの」と信じることなのです。

この様に、1節では、「幸いなる人」がしないことが纏められています。続いて、2節では「幸いなる人」のすることが、「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。」と語られています。これが「幸いな人」の姿であり、主の道を真っ直ぐに歩む人のことです。ここにある「主の教え」とは、ユダヤの人々にとって「律法」のことです。元々「教え:トーラー」というヘブライ語が、後にユダヤの「律法」を現わす言葉として使われるようになったのでした。しかし「律法」は、規則・戒律として守るだけのものではなく、「それを愛し、昼も夜も口ずさむ」のですから、詩篇の作者の心は、「律法」それ自身にではなく、「律法」を与え給うた神様の御心である「教え」へ向けられていることは明らかです。

主なる神は、何を目指し、何を実現するために「律法」を与えられたのでしょうか。それは私たちが「真っ直ぐな道」を行くための「道標」であり、的はずれの迷子にならないための「案内地図」であったと言えましょう。

知らない道を歩くためには「案内地図」は不可欠です。登山には計画の時だけでなく登山中にも常に地図が必要です。登山中は、いつも自分が地図上の何処を歩いているのか把握してないといけません。登山が好きな私も、山の中で歩いている道に不安を感じた時、地図に記された「道筋の特徴」で自分の立ち位置を地図上に発見してホッとした経験は何度もあります。この道は正しい道なのかという疑問は、地図を見ることによってしか解消されません。登山者の平安が「正確な地図」にかかっているということは、自明のことであり、人生の道に対しても「人生の地図」といったものが必要なのです。

主なる神は、私たちの救いを願っておられます。私たちが永遠の生命へ到達することを最大の目標にされています。示された「正しい道筋」とは「神の国への道」です。そして、その「神の国への道」のために、それだけではなく、道を誤った者を引き戻して「神の国への道」へ導くために、御子イエスさえ惜しまず十字架につけられたのです。その御心に包まれて「真っ直ぐな道を行くこと」が人間の幸いな姿なのです。

3節には、「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」とあります。

イエス様のお生まれになったパレスティナにはわが国のような小さな川はまったくと言ってよいほどありません。自然の川は、雨期の時だけ水が流れるワジと呼ばれるもので、雨期が終われば水は干上がり、ただの窪地の溝になってしまいます。そこで、人々は、畑で作物を作るために、数少ないオアシスの泉から水を引く水路を作らねばなりませんでした。そして、水の蒸発を防ぐためと、砂地に水が染み込んでしまわないためにその水路の両側に木を植えました。それでも、夏になりムシーンと呼ばれる厳しい砂漠の熱風が吹くと、木や草はたちまちに枯れてしまいます。パレスティナの夏は一面茶色の岩と砂漠の世界となります。現代ではスプリンクラーや点滴灌漑されている所だけ植物を見ることが出来ますが、古代ではそれが泉からの水路だけでした。一面茶色の熱砂の世界に、水路の両側に植えられたわずかな木だけが緑を保ち続け、実を結ぶことが出来たのです。

詩篇の作者は、それを「たとえ」として用い、神様に養われて生きる幸いを読者に告げました。つまり、人間が示す活力とその結果としての豊かな実りはすべて、天地の主なる神様によって備えられ、造り上げられたものであって、決して自然の中で、おのずからもたらされるものではないのです。

緑の葉はみずみずしく活力に溢れた信仰者の姿を表し、その結果としての与えられた幸福を「誰がそれを与えてくれたのか、それを考えよ」と詩篇の作者は語っているのです。

「流れのほとりの木」が、人工の水路や植樹という仕事に支えられていたように、人間の幸福は、すべて神様が用意して下さり、神様の御計画と御業によるものであることを、人生に正しく位置付けなければなりません。そしてその実りも、「時が巡り来る」と表現されているように、神様の定め、神様の秩序の下での出来事なのです。

4節と5節には、「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殼。神に逆らう者は裁きに堪えず罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。」とあります。

脱穀した麦をもみ殼と麦粒に分けるのは風の吹く所で行い、風によってもみ殼を吹き飛ばすことは、今日でも行われています。旧約の預言者たちは、それを「神の審きのたとえ」として常に用いて来ました。詩篇の作者も、その「たとえ」によって、神の審きが必ず訪れることを語るのです。

神の審きは、それもまた「神の秩序」の一つです。「時」が来れば実を結ぶ木もあれば、「時」と共に滅ぼされるものもあります。その捨て去られるもみ殼の運命を、みずから選び取る者がいるのです。間違った目標を見ている罪人を、吹き飛ばされるもみ殼にたとえているのです。不安から始まったその道は、価値なきものとして捨てられるもみ殼のように、滅びへ向かうのを必然としているのです。

最後の6節には、「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」とあります。

ここの「知る」とは、知識や認識という意味ではなく、人の人格的な愛と真実の交わりを表す言葉です。最も深い人格的な関わりを表す言葉と言っても良いでしょう。主なる神は、そのような真実と愛をもって私たちを常に顧み、交わりを保ち続けて下さる、ということなのです。

かつて、エジプトを脱出してシナイの砂漠に逃れた人々が、昼は雲の柱、夜は火の柱で守られたように、主は、御言葉に従う者の人生を守り導かれるのです。エジプトの軍隊に追われた人々を敢えて海の中に道を造ってまで救われたように、私たちをあらゆる危機から救うために、主は、新しい道を創造して下さるのです。

それを歩むのがキリスト者の人生であると言えるでしょう。なぜなら、主イエスは、山上の説教をこの詩編と同じ「幸いなる人よ」という祝福で始めているからです。「幸いなる人よ」という語りかけは、遠い旧約の時代から主イエス・キリストに至るまで、そして私たちの今の時代まで変わることなく続く神様の御心であり、主イエス・キリストにおいて、この詩編の祈りが成就したと言えるのです。

それは、新約聖書277ページ、ローマの信徒への手紙3章21節から24節に、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」とあります。

ここに、「ところが今や」と強調されていますが、今や私たちには、その主イエスの十字架の救いの力が、信じる信仰によって与えられているのです。

主イエスは、シカルの町近くのヤコブの井戸で出会ったサマリアの女に、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の生命に至る水がわき出る」(ヨハ4:14)と言われました。まさしく、今日の詩篇の水の流れは主イエスによって造られ、私たちは、その枯れることのない「流れのほとりに植えられた木」なのです。もはや砂漠の熱風に生命を奪われることなく、枯れた荒野の中でも緑の葉を茂らせ、豊かな実りを結ぶもの、それこそ、生命の水に守られたキリスト者の姿なのです。私たちを守り、養われる主なる神の恵みの「水の流れ」が、如何に力強くまた確かなものかということを、私たちははっきりと証しすることが出来ます。

主に守られ、導かれる者の幸いを感謝し、希望を持って歩んで行きましょう。

お祈りをいたします。

 

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神の美しい世界

W.ジャンセン先生

《賛美歌》

讃美歌19番
讃美歌499番
讃美歌90番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記1章20-31節

1:20 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
1:21 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。
1:22 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
1:23 夕べがあり、朝があった。第五の日である。
1:24 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。
1:25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

新約聖書:ヨハネ黙示録21章1-7節

21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
21:5 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。
21:6 また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。

《説教題》

「神の美しい世界」

神様はご自分の栄光を表し、又、私達が祝福を受けられる為に素晴らしい天地を創造されました。創世記第1章31には、その様子が「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と記されています。創世記第1章は、神様を全能の芸術者として表しています。初めに地は混沌としており、深淵の面は闇で覆われていました。これはとても希望のない様子です。古代中近東の様々な神話の中に、深淵というものが登場します。深淵とは暗い、命のない、絶望的な海のようなものです。又、深淵には邪悪があり、その深淵が怖い海であると信じていた人々もいました。又、レビヤタンのような怪物が深淵に存在すると信じられていたので、深淵は人間が殺されるような、地獄のような所としてとらえられてきました。

古代の人達にとっては、天地が創造される以前に深い、暗い混沌たる深淵がありました。一方で、海の事を考えてみますと、様々なイメージが眼に浮かぶでしょう。海に囲まれている日本には、素晴らしい景色や場面を描く芸術家が沢山います。海上の日の出や夕焼けの様子を見ると、心を打たれ、感動させられる事もあるでしょう。又、ある人にとっては、海の音、つまり、波が海岸の岩に打ち付けられる音に癒される事もあるでしょう。私達は生まれる前に、母親の胎内で水に囲まれ、その水の音が私達に安心を与えてくれていたのと同様に、海の穏やかな音が私達に平安を与える働きを持つ事もあると考えられます。しかし、海には、別の顔もあります。

イエス様が嵐を静められるという新約聖書の記事はよく言及される記事ですが、この出来事は共観福音書、つまりマタイ、マルコ、ルカの3福音書に記録されているので、キリスト者にはとても馴染みのあるものであり、又、深い意味を持つ話でもあると思われます。イエス様と弟子達は船に乗り、湖に出ました。そして、突然、「湖に激しい嵐が起こり、船は波にのまれそうになった」とマタイによる福音書に記されています。これは、穏やかな海の様子とは全く異なる様子であると言えるでしょう。それは、とても怖い状況であり、弟子達は湖で死んでしまう事を非常に恐れたのでした。しかし、そのような状況の中で「イエスは眠っておられた」と書かれています。この様子を見て、これはあり得ない様子であると、弟子達は思った事でしょう。そして、弟子達はイエス様に「主よ、助けてください。溺れそうです」と言った、とマタイの福音書に書かれています。マルコの福音書には、弟子達は「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」とあります。何故イエス様は眠られたのかという事に対して、弟子達は不思議に思っていたようです。イエス様は本当に弟子達の困難な状況を知っておられたのでしょうか?それとも、イエス様は全体的な状況を把握しておられた為に嵐の中でも眠る事ができたのでしょうか?

先ほど悪を象徴するレビヤタンという怪物について触れましたが、レビヤタンについて、イザヤ書第27章1節から、ある種のイメージが得られると思われます。「その日、主は/厳しく、大きく、強い剣をもって/逃げる蛇レビヤタン/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また海にいる竜を殺される」とあります。この短い一節に、古代中近東のおける人々が天地に対してどのような理解を抱いていたのかが分かります。レビヤタンとは海にいる「逃げる蛇」「曲がりくねる蛇」であり、レビヤタンが邪悪の象徴である事が仄めかされています。平和の状況から逃げるものはありません。レビヤタンが逃げようとしている事が示しているのは、レビヤタン自らに敵があるという事です。又、「曲がりくねる」ものの意味は、真っ直ぐではなく、他の生き物をずるく騙そうとするものを意味していると考えられます。誰かがある状況から逃げようとする時、又、真っ直ぐに話をしようとしない時、私達はその人を信用できないものとして捉えるでしょう。そのような人の話には様々な矛盾が生じる事もあり、そのような状況の中で私たちはその人と一緒に仕事をしたり、会話をしたりする事を難しいと感じる事もあるでしょう。

又、天地創造の時にあった混沌の深淵には、様々な怪物的生き物があったと信じられていました。ベヘモットという物もあり、先ほどのイザヤ書の箇所に出てきた竜もいました。海にはこのような力強い、恐ろしい怪物のような生き物が存在していると思われていたので、海は十分注意をすべきものと考えられていました。

海や大きな湖はこのようなところであると信じられていたので、嵐が現れた時、弟子達は非常に恐れていたのでしょう。というのは、もし自分たちが乗っている船の下に、そのような怪物が存在し、船が転覆し溺れてしまったならば、そのようなものに滅ぼされてしまうと考えたかも知れません。しかし、まるで何も起こっていないかのように、イエス様は眠っていたのでした。イエス様は何故眠る事ができたのでしょうか?イザヤ書第27章1節に、その理由があります。「主は/厳しく、大きく、強い剣をもって」海を支配している全ての怪物を滅ぼす事ができるからなのです。ですから、船に乗っていたイエス様の弟子達は、邪悪な怪物に勝つ事が出来ないと思い込み、恐れていたのですが、それとは対照的に神の子主イエスには、その怪物より力と権威が備わっていた故に、怪物はイエス様の支配下にあった訳でした。神様は天地創造をされた時、深淵の上にご自分の霊が動き、その時から神様はレビヤタンや海にいる他の怪物を追い払おうとなさったのでした。人間には邪悪を追い払う事ができませんが、邪悪なものは神様のみ前においては、無力となるのです。

ヨブ記第40章25節から29節までの箇所において、ヨブに対して神様はレビヤタンの力強い存在に関して問いかけられます。「お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ/その舌を縄で捕えて/屈服させることができるか。お前はその鼻に綱をつけ/顎を貫いてくつわをかけることができるか。彼がお前に繰り返し憐れみを乞い/丁重に話したりするだろうか。彼がお前と契約を結び/永久にお前の僕となったりするだろうか。お前は彼を小鳥のようにもてあそび/娘たちのためにつないでおくことができるか。」と。現代の私達には、このような問いかけにあるイメージは馴染みの薄いものですが、古代のイスラエルの民族にとっては、具体的なイメージを与えてくれる問いでありました。要するに、人間にとって怖いもの、人間を簡単に滅ぼせるものは恐ろしいものでありましたが、神様には、そのような怪物は小さいものに過ぎず、弱いものでありました。レビヤタンが登場する聖書の別の箇所に、詩篇第104編があります。104編の26節において、次のような韻文があります。「舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる」と。一般的には「戯れる」という言葉を怪物に言及がある同じ文章内で使う事はないでしょう。しかし、神様の立場から見ると、レビヤタンは一種の「かわいい」ものでもあると考える事ができるのでしょうか。「恐ろしいもの」が同時に「かわいいもの」として捉えられるという事はあり得ないと思われるかも知れませんが、猫を飼っている方であれば、想像できるかも知れません。例えば、小鳥にとっては猫はとても恐ろしい存在ですが、飼い主には、猫はかわいい物であると言えるでしょう。そして、飼い猫が何かに激しく噛み付いている様子ですら、「猫が遊んでいる」と言う感覚で捉えられるのではないでしょうか。勿論、飼い主は愛猫に小鳥を殺して欲しいとは思っていないでしょうが、このような時、飼い主の立場からは、猫は恐ろしい存在であるとは言えないでしょう。

又、神様がレビヤタンをお造りになったという事も、詩編第104編26節に書かれています。神様が創造してくださった天地には、レビヤタンのようなものも存在しています。そして、アダムを創造された時には、神様はアダムを愛されていたので、彼を最初にエデンの園という安全な恵まれた所に置かれたのでした。エデンの園には、レビヤタンのような恐ろしい怪物は存在しなかったのでした。しかし、アダムとエバが罪を犯し、エデンから追放された時から、邪悪なものが近くにやって来たのです。神様にはこのような邪悪なものに打ち勝つ力はありますが、人間には悪に勝つ力はないのです。

さて、私たちの世界は今ある意味で混乱状態にあります。COVID-19というコロナウィルスが私たちの世界を支配しようとしています。レビヤタンと同様に、人間にはCOVID-19を倒す事ができません。私達は、今、如何にして、このコロナウィルスに打ち勝つ事が出来るのかという事で頭を悩まされています。ウィルスは目には見えない怖いものでありながらも、同様に自然界には必要なものでもあります。それは、ウィルスが自然界に存在している事によって、生物学的に地球上のバランスが取れているからです。聖書の観点からは、このような事をどのように捉えているのでしょうか。

言うまでもなく、聖書の文化は現代の私達の文化と違うところが多々あります。先ず、私達の世界に対する理解が違います。聖書の時代に、世界には天井のような物が空であり、又、地面の下にあるのは見えない物で、生きものが存在する事を想像できたのでした。彼らは球体である地球を知らず、地面の下には何かの土台があると考えていたのでした。現代の私達には、地球は宇宙に浮いていて、自然界はその地球の表層、地殻にあり、地殻の下に存在するものは生物学的には生命体ではないというように考えるのが普通でしょう。又、宇宙に対しても、どこかに生命が存在するという事は想像できたとしても、その明確な証拠が表されるまで、付き詰めて考える事はしないでしょう。しかし、ウィルスが存在するという事には、証拠があるからこそ、私達はウィルスの存在を否定しないのでしょう。又、私達はウィルスの力をも警戒しつつ、自らの生活パターンを変えるしかないのかも知れません。

聖書の時代の人達にとっては、化学的証拠よりも、「信じる事」が世界を説明する方法でした。それが、彼らの文化でした。それに対し、私達の現代の文化は、科学的な証拠によって結論を導き出す文化であると言えるでしょう。ウィルスに感染した事によって、ある症状が現れ、具体的な症状が現れる事によって人がウィルスに感染していると結論付けます。人に病気の症状が出れば、何らかの原因があると当然推測されます。そして、ウィルスや何らかの菌によって体が不調になったと考えるのです。菌やウィルスを目で確認できなくとも、科学的にそれらが存在している事が明確になっている故に、その事実を受け入れるのです。このような事実は、私達の霊的な世界に対する考え方にどのような影響を与えているのでしょうか。

科学的にこの世界を見る事によって、霊的に世界を考える事が難しくなってしまいます。昨年、私は家族と一緒に、北米で最も好奇心と議論の的になっている場所の一つに行きました。その場所を訪れる予定だと誰かに話すと、「私も行きたかった!」と言う人達がいる一方で、「あんなところに一体何の用があるの?」と言う人達もおり、私達の訪問に対する判断によって、その場所を知っている人達の考え方が分かりました。その目的地とは、ケンタッキー州ピーターズバーグにある創造博物館でした。何故、この博物館は人によって極端に異なる感情を引き起こすのでしょうか?

この質問に答える為に、先ず、創造博物館の掲げているミッション・ステートメントを考えます。

「家族連れに適した安全で健全な、学びと発見のための施設となり、創り主・贖い主・支える方であるイエス・キリストをあがめる。」_とあります。

この博物館について何も聞いた事のないクリスチャンが聞けば、このステートメントはそれなりに良く聞こえます。私はクリスチャンとしてイエス・キリストを自分の創り主・贖い主・支える方として崇めたいと願いますし、イエスは絶えず私も他の全ての人をも創り、贖い、支えておられると信じています。では、何が問題なのでしょうか?それは、この声明が文字通りに受け取られれば良いのですが、その裏に隠されている創造博物館の真の意図にあります。その意図とは、進化論は聖書に示されている真実を害する危険で誤った教えだと糾弾し、進化論を信じる事は文化を崩壊させ、子供達を破滅に導くキリスト教信仰にとって究極的な脅威であると宣言する点にあるのです。 ですから、この博物館を訪れるつもりだと誰かに言うと、大抵二つの両極端の反応が起こるのです。 その人が聖書の逐語主義者であるならば、そこに行く事によって私達が救われるかも知れないという期待を持って私達を鼓舞するでしょうし、一方で、その人が聖書を文学として読む人々、つまり聖書を正確な歴史年表としてとらえない人々であるならば、私達は頭がおかしくなってしまって、自分をダメにしてしまう原理主義的な渦の中に巻き込まれてしまったのだと心配するかも知れません。

個人的に、私たち、皆、自らの信仰のあり方を完全に表そうとしても難しいところがあるのではないかと思われます。根本的に私達の共同体の信仰においては、互いの信仰のあり方に関して一致している点が多いですが、自分自身の信仰に関しては、特別な個人的な部分もあるでしょう。私達は海を眺めている時に、その海の中に大きな怪獣のようなレビヤタンが存在しているとは考えないでしょう。しかし、古代の人達にとっては、それは一般的な常識でした。船が海に出て、戻らなかった時、レビヤタンに飲み込まれてしまったと古代の人達は考えたかも知れません。又、津波が現れた時に、古代人はそれはレビヤタンが大きな尻尾を激しく振った為に巨大な波が出現したと思った事でしょう。又、大きな火災のような場合には、その原因はレビヤタンの息から出た火であるかも知れないと、彼らは捉えたようでした。

私達の暮らしている世界には恐ろしいものが沢山あります。たとえレビヤタンのようなものを想像しなくても、私達は現代の知識に基づいた、私達を滅ぼし得るものによる脅威を経験しています。しかし、創世記第1章31節に記されているように、神様はお造りになったすべてのものをご覧になり、それは極めて良しと思われました。現代の私達はレビヤタンと言うものを恐れなくとも、身近にある病原体に脅威を感じています。私達にはこのような恐ろしいものを消滅させる事は出来ませんが、神様がお造りになった私達の美しい世界を感謝し、生きる事ができます。ヨハネの黙示録第21章4節に記されているように、神様は私達の為に新しい天と新しい地とをお造りになりました。ですから私達が神様に絶対的な信頼を置くならば、神様は「[私達]の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」と約束されています。

私達の主イエスは明確におっしゃっておられます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(John 16:33)このみ言葉を信じ、神の想像された美しい世界に感謝しながら、希望を持って歩もうではありませんか。

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