生きている者の神

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌183番
讃美歌528番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 1章28節 (旧約聖書2ページ)

1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

新約聖書:マルコによる福音書 12章18-27節 (新約聖書86ページ)

12:18 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
12:19 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
12:20 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。
12:21 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。
12:22 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。
12:23 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
12:24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
12:25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

《説教》『生きている者の神』

聖書には主イエスと対立する律法に忠実なファリサイ派の姿が数多く記されていますが、本日の箇所は、ユダヤ教の別の一派、サドカイ派が正面に出て来る珍しい箇所です。

サドカイ派は、特にモーセ五書を重んじる一派で、「モーセ五書に復活という言葉がない」という理由で甦りを否定、神殿で献げる犠牲のみが人間の唯一の義務であり、大祭司を頂点とする「神殿の儀式が信仰のすべてである」と考えていました。

復活を否定するということは、おのずから、その考え方が現世的であるのです。この世の命がすべてであり、「今生きている肉体の命がすべて」であるといった世界観であるならば、今生きている現実の世界での幸福のみを追い求めることになります。そのため、彼らは時代の権力者と結びつき、この世の政治を重んじ、ユダヤの最高法院サンヘドリンの過半数を占める宗教的貴族階級に深く浸透していました。サドカイ派は「神を信じる」と言っても「この世での幸福を与える神」を求めているのであり、「肉体の死が一切の終わりである」と考えたのです。

このサドカイ派は、現代の私たちの社会に充満している現実主義、現世主義と同じです。永遠を考えず、目の前の問題の解決・生活の豊かさのみを追い求める現代の社会、そしてそれに迎合する諸宗教。サドカイ派の現代版が如何に多いかということは、誰でも気づくでしょう。サドカイ派は、宗教的装いをしていても、現実は、合理主義的唯物論者と言うべきでありました。その彼らが、主イエスに「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がないので、兄の跡継ぎをもうけなければならないので、次の弟の嫁となったが同じぐ跡継ぎが無く弟は死に、次々と7人兄弟と結婚したが誰とも跡継ぎを残せないまま女は死んだ。復活の時、彼らが復活すると、その女は誰の妻になるのでしょうか。」と詰め寄りました。

これは、申命記25章5節以下に記されている律法に基づく問題提起です。申命記では、跡継ぎを残さないで死んだ者の妻は、家族以外の他の者に嫁ぐことは許されず、死んだ夫の兄弟と再婚し、そこで産まれた長子に亡き夫の後を継がせ、死んだ者の名を残すという制度でした。このような制度をレビレート婚と言い、古代社会によくある制度と言われています。このように、未亡人の再婚に関する旧約聖書の教えは、弱い者を守り、小さな民族をメシア到来の日まで導くことに本来の目的があったのですが、サドカイ派はそれを極端に誇張し、対立するファリサイ派の復活信仰を否定するために用いたのです。

ファリサイ派は復活信仰を持ってはいました。しかし彼らの復活信仰は、この世の継続でしかありませんでした。復活の目的は、この世の報いを死後に受けるという因果応報的なもので、この世での生き方を死後の恐怖によって縛り付けるという倫理的効果を持つこと以上の効力はありませんでした。

サドカイ派が提出した問題は、一人の女性が七人の兄弟と次々と結婚したが死後、全員が復活したら、「彼女は誰の妻か」ということです。

彼らは、「こんな矛盾したことを誰が信じられるか」と言いたいのです。

そのサドカイ派に対して主イエスは「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と答えられました。同じ問答がルカによる福音書20章36節では「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」と言葉が加えられています。「もはや死ぬことはなく、神の子である。」とは、「死んだ人間が生き返る」ということではなく、この世の生活を「もう一度繰り返すこと」でもなく、「まったく新しい世界に移ること」なのです。そしてその新しい世界とは、今私たちが生きている世界とは、本質的に異なる世界で、神の子として生きる世界なのです。

夫婦は、最も素晴しい愛の交わりを実現するものとして、先程お読み頂いた創世記1章28節に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」と記されています。

人は、この世にある限り、神から世界の管理を任された者として、夫婦が助け合って生きて行かなければなりません。これが神によって造られた人間の使命であり、創造の秩序なのです。

では、「復活」によって「永遠の神の御国」に生きるとき、このような管理者の務めが必要でしょうか。

「復活」を考えるとき、ヨハネの黙示録21章「復活の世界」である「新しい天と新しい地」を改めて思い起こさねばなりません。その3節から4節には、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」とあります。そこには、慰め合わなければならない孤独はありません。助け合わなければならない苦しみもありません。神自ら、共に居てくださり、悲しみも嘆きも労苦もないのです。

パウロもコリントの信徒への手紙 第一 15章42節から44節で、「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」と記しています。

復活を信じることが出来ない人は、この「霊の体の世界」を信じることが出来ないのです。またパウロは、コリントの信徒への手紙第二の5章6節で「わたしたちはいつも心強い」と記しています。「霊の保証を受けている」という確信がそこにあり、その信仰こそ、この世を生きる力であり、この復活を信じる信仰によって、私たちはあらゆる試練に勝利するのです。

サドカイ派に対して主イエスは26節から27節で「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」とハッキリと言われました。

「神は生きている者の神である。」とは、父なる神は、常に私たちに関わりを持ち続けられるのであるという意味です。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と現在形で記されているのであり、「神であった」と過去形で記されていないのです。アブラハムもイサクもヤコブも、みんなずっと昔に死んで過去の人です。しかし、主なる神は、彼らとの関係を「過去のもの」とは言っておられません。死を超えてなお、神は彼らとの関係を保ち続けられています。死の力をもってしても、主なる神との関係を断ち切ることは出来ないのです。

復活信仰の最大の要点は、「死んだ者が生き返る」のではなく、主なる神は「死の力を虚しくし、人との交わりをいっそう強められる」というところにあります。人は、何時も「肉体の生き返り」を問題にします。「それが可能か不可能か」と問います。しかし、「生命は何のためにあるのか」を改めて考えるならば、たとえ死から甦ったとしても、「神なき世界への生き返り」であるならば、それは「何にも値しない命」と言うべきです。

復活とは、主なる神との永遠の交わりであり、主なる神が結ばれた愛の絆を断ち切ろうとする「死の力」を無力化するものです。死を超えてなお続く永遠の世界。そこにおける交わりは、神御自身の御手の中にある安らぎであり、人にとって最高の幸福が備えられているのです。

死を、愛する者との別離ととらえるところから絶望が生じます。しかし、その絶望を希望に変えたのが、御子イエス・キリストの復活です。主イエス・キリストの復活によって、主なる神に迎えられる永遠の世界こそが、人が本来「行くべきところ」なのです。

最後に、ヨハネによる福音書 11章25節から26節の主イエスの御言葉をお読みします。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

「あなたはこれを信じるか」という主イエス・キリストの問いかけこそ、新しい希望への招きなのです。そして、私たちの前に、その道は開かれているのです。

お祈りを致しましょう。

神のものは神に

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌10番
讃美歌68番
讃美歌338番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 1章26-27節 (旧約聖書2ページ)

1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

新約聖書:マルコによる福音書 12章13-17節 (新約聖書86ページ)

12:13 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
12:14 彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
12:15 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
12:16 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
12:17 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

《説教》『神のものは神に』

先週から受難節に入りました。主イエスの十字架の受難日は今年は4月15日ですが、それまで1ヶ月ほどあります。

今私たちが礼拝において読み進めているマルコによる福音書12章に語られているのはまさに主イエスの最後の一週間、受難週における出来事です。主イエスを殺してしまおうと思っている人々が、言葉尻を捕えて陥れ、訴える口実を得ようとしていろいろなことを語りかけて来たのです。13節に「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。」とあります。人々とは11章27節以来、主イエスの陥れようとしている祭司長、律法学者、長老たちです。

もともと、この時代、ファリサイ派とヘロデ派は犬猿の仲でした。

ヘロデ派はローマ帝国の支配を受容しています。ローマ帝国の植民地でありながらガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスによる直接支配がユダヤ全土に及ぶことを認めていました。言わば現実派であり、支配するローマ帝国への納税も当然受け入れていました。

他方、ファリサイ派は伝統的な律法第一主義です。「神にのみ従え」という神の直接的支配を夢見るユダヤ民族主義が基本的主張であり、神殿税と呼ばれる神にささげる献金には大賛成ですが、ローマ帝国への納税には反対でした。

ファリサイ派は、ヘロデ派を信仰を虚しくする世俗主義として憎み、ヘロデ派はファリサイ派を現実を無視する原理主義として批判していたのです。それなのに両者が、主イエスを陥れるために相談し、協力しているのです。

彼らは、何のためにお互いの争いを超えてまで協力しているのでしょうか。

ファリサイ派にとっても、ヘロデ派にとっても、主イエスを陥れることによって得るものは何もありません。彼らはただ、「これまでの自分の生き方を否定される」ことを嫌がり自分の立場をそのまま保っていたいと思っているのです。彼らは、古いものを打ち砕き、新しい御国をイスラエルにもたらそうとしている神の御子を拒否します。すべての者を福音のうちに包み込もうとする神の御手から必死に逃れようとする人間、それがここに現れた人々なのです。彼らは主イエスに、「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」と問いかけました。彼らは、神の御子を陥れることが出来ると思ったのです。「言葉じりをとらえる」とは「狩人が獲物を捕らえる」という意味で、単純なあげ足取りではなく、イエスを罠に掛けようとしたのです。

これが、ファリサイ派が考えに考えた末の質問でした。その初めに心ならずも語られている、イエスに対する儀礼上の褒め言葉は、皮肉にもまことに正しいものでありでありました。主イエスこそ真実な方であり、人の言葉に惑わされる方ではなく、人の顔を見て差別される方でもなく、聖書に基づいて神が示された正しい道を教える唯一の方です。

彼らが主イエスに話しかけた14節前半は、「言葉としては」まことに立派なものでした。しかし同時に、人の語る言葉は、心を規定するものであることを知らねばなれません。言葉は、語る人自身の人格を表すのです。そして言葉の醜さは、同時に、人格の醜さをさらけ出してしまいます。

彼らは、主イエスに対してまさに最高の賛辞をもって語り掛けましたが、神の御子が自分たちの本心を見抜いておられないと、思い込んでいたのではないでしょうか。

私たちは、主イエス・キリストに対する信仰告白を公にしています。主なる神への絶対的な服従を、聖霊の導きとキリストの執り成しによって告白しています。しかし、自分が言葉に出した信仰告白と、私たち自身の心と行動とが、何処まで一致しているでしょうか。私たちは、人の心を覗き見ることは出来ません。偽りの言葉を区別することは困難です。しかし、主なる神はそれを見抜くことが出来るのです。

神を偽ることは出来ません。それ故に、「最も美しい言葉が、最も醜い心を表してしまう」ことになってしまうのです。

ファリサイ派は、自分たちの言葉が、自分自身の醜さを既に暴露していることにも気づかず、彼らなりに練りに練った難問を、神の御子を陥れる罠として用意したのです。

古代世界では、支配者が課す税は、圧制による搾取とも考えられ、問題があったことも確かです。しかし、ここでの問題はそういうことではなく、ローマ帝国の税金は、ユダヤ人にとって、生活上の負担や苦しみであるという以上に、信仰上の問題でした。

14節にある「税金:ケーンソス」とは、所得税や物品税のようなものではなく「人頭税」のことです。人頭税とは、市民・国民の義務、国家に所属する証しであり、一人年額1デナリ、労働者一日分の給料に当たる金額でした。金額的には大して大きなものではありませんが、ユダヤ人の国家意識は、あくまでも神が支配する神制国家であり、彼らは、主なる神への信仰の証しとして、年額半シェケル、デナリオンに換算すればローマ帝国の人頭税の二倍に相当する金額を、イスラエル神殿へ納めていました。それがユダヤ人としてのアイデンティティであり、信仰確認でした。

ローマ帝国の人頭税は、ローマ帝国の支配権・王権を認めることになり、神の神聖性を犯すとユダヤ人は考えていたのです。それ故に、ここに提出された問題は、「税金を納めるべきか反対すべきか」という搾取に対する抵抗というような政治・社会的問題ではなく、純粋に信仰上の問題であったのです。

この時、主イエスが「納めよ」と言えば、民衆は世俗主義であるとして主イエスを見棄てるでしょう。ファリサイ派はそれをローマ帝国支配への迎合として宣伝します。反対に、「納めるな」と言えば、ヘロデ派は反政府主義者として主イエスを捕らえる口実とするでしょう。

どちらにしても主イエスを陥れる名案だと、ファリサイ派と反目し合うヘロデ派が、共に自分たちの主義主張を捨ててまで団結し、神に逆らう人間としての結論でした。主イエスは、彼らの下心を見抜いて、「デナリオン銀貨には、誰の肖像と銘があるか」と問われました。デナリオン銀貨は当時のローマ帝国内の基本的貨幣です。そして、デナリオン銀貨を初めとするローマの貨幣には、すべて表面に皇帝の肖像が浮き彫りにされていました。

古代社会において、貨幣に刻まれた肖像は、それを用いる者への主権・支配権を表すものでした。国際的な条約などはなく、また現在のような銀行制度もない時代です。貨幣の発行は、皇帝または国王の支配権を明らかにするものであり、肖像が刻まれた貨幣を使用する者は、そこに刻まれた皇帝の支配権を認めるものでした。古代世界では貨幣の通用する範囲が支配地域でした。「これは誰の肖像か」と主イエスが尋ね、「皇帝のものです」と彼らが答えた時、ローマ帝国の支配を彼らが認めていたことを意味しているのです。

彼らは、ユダヤ人の自主独立や信仰の純粋さを語って来ました。しかし実際は、後にローマ総督ピラトに訴え、主イエスの十字架刑を要求したように、ローマ帝国の支配を容認しており、必要に応じてそれを利用し、国家の権力を信仰の上においていたのです。国家の恩恵を受けているのなら、その義務も負っている筈です。権利を主張する以上、義務もまた果たすべきです。これが主イエスの考えでした。主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。この「返しなさい」とは、「支払うべきものを支払う」という意味です。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という御言葉は、よく政教分離ということで誤解されることがあります。「信仰と政治は別のものだ」という意味で、この言葉が格言のように利用されます。

しかし、主イエスは「政治や経済はこの世に属し、霊的な部分は神に属する」と言っておられるのではありません。「この世の支配者もまた、神の支配の下にある」ということを明確にしておられるのです。

17節の最後に「彼らはイエスの答えに驚き入った」と記されています。私たちは、ここで「なるほど流石見事に答えられた」と感心して終わってはなりません。

「神のものは神に」とは、どのようなことでしようか。ここに信仰の大切なことを表されているのです。では、何故、「税金を納めよ」と言われたのでしょうか。

デナリオン銀貨には皇帝の肖像が刻んであります。それを使用するということは、ローマ皇帝の支配権を認めていることになります。国家への税金支払いは主権国家への義務だからです。

それでは、「神に返すべきもの」とは何でしょうか。16節で「肖像」と訳されている「エイコーン」という言葉は、通常は「姿」「かたち」と訳されます。

余計は話ですが、この「エイコーン」という言葉はギリシャ正教の聖なる絵画「イコン」となり、英語で「icon:アイコン」となって私たちが普段スマホやパソコンでお馴染みの世界語となっています。

話を戻して、ここで、主イエスは「皇帝の“姿・かたち”が刻まれているものは皇帝のものであり、皇帝に返せ」と言われました。ですから「神のもの…」とは、「神のかたちが刻まれているものは神のものであり、神に返せ」ということになるでしょう。「神のかたち」とは何でしょうか。それは、司式者に先程お読み頂いた旧約聖書創世記1章26節~27節にある「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって人を創造された。男と女に創造された。」を思い出すとすぐに分かります。

地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むもの、神がお創りになったこの世界のすべては神のものなのです。私たちが神に返すべきものとは、私たちの生活の中の限られた部分や物ではなくて、その全てなのです。地上にあるもので、神のものでないものなどありません。「神のものは神に返しなさい」というみ言葉は、この世において、あるいは私たちの人生において、「神のもの」である領域を限定して、そこにおいてのみ神に従いなさいと言っているのではないのです。この世の全ては神のものなのです。全てを神にお返しすることによってこそ、神のものを神に返して生きることができるのです。

 

「神のもの」とは、神の似姿を刻まれて創造された私たち人間です。神は私たち人間にご自身の肖像を、似姿を刻みつけて、「あなたは私のものだ」と言っておられるのです。私たちは神の似姿を刻まれた神のものとして生きているのです。「神のもの」とはこの世界の全てですが、私たち人間に限って言えば、私たち自身こそ、神に返されるべき「神のもの」なのです。

私たち自身が、神の主権をこの世において顕すものなのです。私たちは、「神のかたち」に造られ、罪によって、一時、本来の姿を失っていましたが、キリストの福音によって、「神のかたち」に倣う新しいものに改めて造りかえられたのです。神の御前に、造られた者としての正しい姿を示すことが求められているのです。そしてその神様が、何処までも私たちから離れることなく、愛され導かれていることを、私たちは常に覚えるべきです。御子キリストは、御前にひれ伏す私たちに対し、「あなたは神のもの・私のもの」と、おっしゃっているのです。

お祈りを致しましょう。

さばき

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌224番
讃美歌497番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 5章1-3節 (旧約聖書1,067ページ)

5:1 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。
5:2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
5:3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。

新約聖書:マルコによる福音書 12章1-12節 (新約聖書85ページ)

12:1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
12:3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
12:4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
12:5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
12:6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
12:7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
12:8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
12:10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。
12:11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
12:12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話

《説教》『さばき』

今日から、4月17日のイースターに向かって「受難節」に入ります。本日の聖書箇所は主イエスが語られた「譬え」です。「譬え」とは、普通、分かり難いことを分かり易くするための表現方法です。「例えば…」と言って、分かり易い身近な出来事に置き換えて、単純化したりします。このような「譬え」を明るい喩えと書いて「明喩」と言います。それに対し、問題が多岐にわたり、よく考えなければならないものを隠れた喩えと書いて「隠喩」と言います。聖書で主イエスは、「譬え」を大変よく用いられます。マルコによる福音書4章11節以下には主イエスが、「すべてが“たとえ”で示される。」とまで記されています。主イエスが語られた多くの「譬え」は「隠喩」と言われる難しいものもありますが、ここに理解しやすくとあるように、本日の「譬え」は、珍しく分かりやすい話です。何故なら、極めて具体的であり、また身近なものであったからです。

ここで語られるぶどう園の「譬え」は写実的です。「巡らされた垣」「掘られた絞り場」「見張りのやぐら」。それを農夫たちに貸して収穫を受け取る。また、そこで起こる地主と農夫たちとのさまざまな軋轢。その時代の至る所にあった農村風景です。ですから、この時代に生きて、この「譬え」を聞く人々にとって、まさに身近な問題であり、直ちに理解できる事柄でした。

1節の「ある人」とはぶどう園の持ち主で、この時代によくあった「不在地主」と考えられます。主人は「旅に出た」と記されていますが、これは旅行に出たのではありません。何故なら、物語を読んで行けば分かるように、「収穫を受け取るために遣わされた幾人もの僕たち」も「愛する息子」も、ぶどう園には住んでおらず、遠くにいる主人から送られて来るからです。ぶどう園の主人は、農園を農夫たちに任せ、自分の家に帰ったのです。パレスティナには不在地主が沢山いたと言われています。地主たちが、土地を農民に貸し、自分たちは気候の良いところに住むということは決して珍しいことではなく、また、このような農園をめぐってのゴタゴタはこの時代始終起こっていたようです。

主イエスがこの「譬え」を話された時、旧約聖書に親しんでいた人々は、ここで語られているぶどう園がイスラエルを意味していることを直ちに理解した筈です。先程お読み頂いたイザヤ書5章1~3節には、イスラエルが「主のぶどう畑」と表現されています。ぶどう園がイスラエルを指すとすれば、ここで語られている「ぶどう園の主人である『ある人』」とは、当然、主なる神と考えられます。

「農夫」とは、イスラエルの民衆を導き、神の民としての豊かな実りを得させる役目を与えられた指導者たち、特に神殿を中心とする宗教指導者たちのことです。「主人が旅に出た」というのは、主なる神が「その収穫の業を人間に委ねた」ということであり、「全てを委ねた」という主なる神の信頼が物語の前提です。

「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。」とある、「次々と送られて行った僕たち」とはイスラエルの歴史に登場する預言者たちのことです。旧約の預言者たちは、「主の僕」と呼ばれており、まさにイスラエルの宗教指導者たちは、主なる神から遣わされた「僕たち」だったのです。

預言者のアモスやホセアは誰にも相手にされず、語る言葉は聞き流され、警告は無視されました。エレミヤは人々に嘲られ、牢獄に入れられ、最後には石で打ち殺されました。イザヤは、エジプトに追われ、木の鋸でひき殺されたと伝えられています。主なる神がお遣わしになったいずれの預言者も軽んじられ、人間の反逆は明白でした。

当時のイスラエルでは、神殿信仰が、本来の信仰の姿を失い、宗教指導者たちが、主の御心を聴こうとせず、自分の思い、自分の要求を優先させ、神の主権を犯し続けて来たのです。

それに対して、ぶどう園の主人は、次々送り出す僕たちが袋叩きにあっても、侮辱されても、殺されても、驚くべき忍耐強さをもって僕たちを送り続けました。人間の罪、人間の悪、それが「決して本来の姿ではない」と、悔い改めることを願う主なる神の愛が、この主人の忍耐強さに表されているのです。

「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」とは、反逆に燃え上がる農夫たちに対する主人の常識を越えた判断でした。

この「たとえ話」は、何百年にもわたる信仰の裏切りを見ながら、それでも「御心を向けられるのが主なる神である」ということです。主なる神の御心は、裁きではなく、赦しであることが明らかです。悔い改めを期待する愛と信頼の極みが神の御心でありました。そして、神の御子キリストの到来が、長い裏切りの歴史の結論としての神の忍耐と信頼の最後の切り札であることが、イエス御自身によってここに語られたのです。

それにも拘らず、農夫たちは主人の愛する独り子さえも殺してしまいました。その目的は、「ぶどう園を自分たちのものにする」ということであることが、明らかにされています。人間の罪、神への反逆は、根本的に「自分が神の座に着く」という人間自身の罪の意志に基づいているのです。世界の主(あるじ)になることが人間の究極的な望みであり、それが「罪そのもの」です。そしてその罪は、主なる神の否定、御子キリストの抹殺へと至るのです。従って、罪の最終的な姿は、御子キリストの到来において明確になります。心のうちに秘められていたすべての悪が、御子キリストの御前で初めてその姿を現すのです。主なる神の主権を否定し、御子キリストと最終的に訣別することとなり、自分たちが勝利すると思い込むのです。あの農夫たちのように、御子キリストを殺すことによって、「これで勝った」と叫ぶのです。9節以下には、ぶどう園の主人が「戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」と、語られました。まさに、破滅は人間自身が招いたものです。神の裁きは単なる怒りではなく、あくまでも罪の中に閉じこもり、愛と信頼を裏切り、反抗の姿勢を変えようとしない人間自身が招いた結論です。しかしながら、この裁きは、反逆した農夫たちの「永遠の滅び」ということで終わってはいないのです。

この物語を語る主イエスの御心は、「農夫たちへの裁き」だけではなく、「もうひとつのこと」に向けられているのです。それは「ぶどう園をほかの人たちに与える」という御言葉が示唆するところなのです。

農園の主人、主なる神が行う裁きは究極的な判決です。罪に対する審判は「永遠の死」を意味していると言えるでしょう。しかしそれだけではなく、ここには、もう一つの裁きが告げられているのです。「もう一つの裁き」とは、人が人生で、本来は自分が収穫すべきであった豊かな実り・その喜びが、「他の人に与えられてしまう」ということです。「神の怒り」「永遠の滅び」といった言葉では、抽象的だと言って実感の伴わない人でも、このことならば理解出来るでしょう。

10節以下で主イエスは、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」と語られました。ここにある「隅の親石」とは、建物の入口のアーチを造る時、最後にアーチの頂点にはめて形を整える「要石」(キーストーン)のことです。他の何物にも代え難い大切な務めを担う栄誉、人間は本来、そのために用意されていたのです。

これはまさに不思議なことで、この世の理屈に合わない「不合理なこと」とも言えましょう。ただ計り知ることの出来ない主なる神の愛にひれ伏すのみです。「譬え」として語られた主イエスの御心は、この神の愛を伝え、父なる神の救いの御計画が何であるのかを教えられたのです。

それを聞いたユダヤ人の指導者たちは、この主イエスの語られた「譬え」の意味をすぐ理解できました。しかし彼らは、逆に「怒った」のです。福音を聴くとは「分かればよい」というものではありません。それが「私のために為された最終的な恵みの業である」ことを受け入れ、その恵みに自分のすべてを委ねるのが信仰なのです。

私たちはさらに、この主イエスの譬えが語りかけていることを聞き取らなければなりません。私たちは祭司長でも律法学者でもユダヤ人の長老でもありませんし、民の指導者でもありませんが譬えが、この私たちとは関係がない、と言えるでしょうか。

この農夫たちが預かっていたぶどう園、それは私たちの人生であると言うこともできるのです。ぶどう園は全て主人が計画し作り整えたものであったように、私たちの命や人生は、神様が計画し、一人ひとりに授けて下さったものです。自分が生まれたくて自分の意思で生まれた人はいません。どんな身体なのか、男なのか女なのか、加えてどんな能力、賜物を持っているか、何時の時代に、どの地に、誰から生まれるか…といったことを自分で決めて生まれてきた人は一人もいません。全て神様が備え、与えて下さったものです。私たちは、神様から授かった、いや、預けられた命を、神様から与えられて生きている、それが私たちの人生であり、神様から預けられたぶどう園である自分の人生において、少しでも良い実を実らせようと努力しているのです。

神様は、主イエスを「隅の親石」として、新しい神の民である教会を築いて下さったのです。主イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは、主イエスが隅の親石である教会の一員とされて、主イエスの十字架の死による罪の赦しと、復活による新しい命に与って生きることができるのです。そのようにして私たちは、私たちに命を与え、人生というぶどう園を整え、与えて下さっている神様との、良い関係に生きる者とされるのです。

私たちがこの譬えから聞き取るべきことは、私たちに命を与え、いろいろな実りを結ぶことができるように人生を整え導いて下さる神様が、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」という驚くべき信頼と、独り子の命をも与えて下さる限りない愛と忍耐とをもって私たちに語りかけ、良い交わりを結ぼうとして下さっている、ということです。この神様の語りかけに耳を開き、応えていくことが私たちの信仰です。その信仰によって私たちは、神様が備え与えて下さったこの人生というぶどう園で、神様の栄光を表す良い実を結んでいくことができるのです。

お祈りを致します。