天には父がおられる

聖書:ホセア書2章1-3節, ローマの信徒への手紙8章14-17節

 わたしたちの誰もがよく知っている祈りに、主の祈りがあります。これは、弟子たちが主イエスにお願いして、祈りのいわばお手本を教えていただいたのでした。主は初めに「天におられるわたしたちの父よ」(マタイ6:9)と呼びかけることを教えられました。

それで、今日の日本では、伝道が振るわないと言われる教会だけでなく、キリスト教主義の学校でも、「主の祈り」は広く知られていると思います。しかし、わたしたちが主の祈りに従って、神を「天の父」とよぶことができることの意味を、わたしたちは考えたことがあるでしょうか。この祈りは、天にはわたしたち父と呼ばれる方がおられる、という信仰の告白を表しているのです。父と言えば、わたしたちは地上に父と呼ばれる人を持っていました。豊かな時代には、親は親、子は子で、干渉し合わない生活が理想であったでしょう。しかし、貧しい時代には父の借金をどうするのか。廃墟のようになってしまった親の家、土地をどうするのか。最近の新聞には、親の扶養、介護の問題ばかりではなく、兄弟の作った借金をどうすればよいのか、引きこもりの兄弟をどうすればよいのか等、子供の世代にとって悩みは後を絶たないようであります。

だからこそわたしたちは、神を父と信じることの幸い。その絶大な価値を教えられています。わたしたちは豊かになる時もあれば、貧しくなる時もあります。しかし、それに対して天の父は変ることなく、豊かであります。そしていつも信じて従う人々を豊かに恵んでくださる方なのです。今日読んでいただいてホセア書2章1節です。「イスラエルの人々は、その数を増し、海の砂のようになり、量ることも、数えることもできなくなる。彼らは、『あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)』と言われるかわりに、『生ける神の子ら』と言われるようになる。」

イスラエルの人々が生ける神の子らと呼ばれています。しかし、それでは、彼らが「生ける神の子ら」と呼ばれない時があったということでしょうか。その通りです。彼らイスラエルの民は豊かになった時に、生ける神を忘れ、自分たちの好みの偶像に仕えるようになったのです。豊かな地の実りも、豊かな才能も、すべて神から与えられた賜物に過ぎないのに、それを心に留める人は非常に少ない。そこで、神は繰り返し神の子なる民を責め続けます。「あなたがたは「ロ・アンミ」だと。もうあなたたちはわたしの民ではない。わたしはあなたたちの神ではないからだ。」(ホセア1:8)

それほど神は人々の不信仰を怒り、激しく責め続けても、いつまでも怒り続け、いつまでも責め続けることはない。これは真に不思議なことです。人間ならあり得ないことです。だからこそ、真の神を天の父と呼び奉る有難さがあるのです。神は御自分の民を決してお忘れにならないからです。ところが神の子らとされた人々はどうでしょうか。神から遠く離れ、恵みを受けるよりも、自分の努力で、実力で、何かを勝ち取ったと言いたい。自分が、できることにいつもこだわっている。「天の父よ、どうか助けてください」と祈ることが出来ないのです。

旧約聖書の時代には、神はイエスエルとユダの12部族を選んで、神の民としてくだいました。主は彼らを、「ご自分の宝の民である」と言われました。しかし、イエス・キリストをお遣わしになった時、すべての人々、つまりギリシア人もユダヤ人もなく、すべての人々を御自分の許へと呼び集められたのです。旧約の民への約束は「律法を守るならば、救われる」というものでした。逆に言えば、律法を守らないならば、その人は呪われるということなのです。「わたしはこれをしている。あれをしている」と言って自分の立派さを証明しようとする人々は多いのです。

しかし、守らなければならない律法は数限りなくあります。先ほどの親子関係の例で考えてみても、「親が子を甘やかさない方が良い」というかと思うと、「親の扶養のために子供の生活が成り立たなくなってしまっている」という現実があります。これをすれば絶対だ。あれをすれば絶対に正しいということが実際あるのでしょうか。わたしたちはあれこれ自分の考えを述べ、人を時には批判するものですが、実際には他人に当てはまることが、自分に当てはまらないということがたくさんあり、またその逆もありますから、一律に律法を守ることでは救われないということになります。

イエス・キリストは、このようなわたしたちのために、自ら律法によって裁きを受けてくださいました。それは律法を守って救われることのできないわたしたちが、ただ神の恵みによって救われるためです。キリストはご自分の捧げる犠牲によって、わたしたちがただ恵みによって神の子となるための道を開いてくださいました。わたしたちはユダヤ人ではありません。わたしたちは当時の異邦人、ギリシア人やローマ人と同じ立場にいます。キリストによって、ギリシア人にもローマ人にも、すべての人に救いを得させる神の恵みが現れたのです。だからこそ15節では、世界の共通語であるギリシア語と、アッバ(アラム語で父)というアラム語を並列させて、神への呼びかけを強調しているのです。今や、キリストによって、すべての人が「天の父よ」と親しく呼びかけることが出来るのです。

わたしたちがもし、本当にこのことを信じるならば、そのこと自体、神の聖霊がわたしたちに送られてきている証拠となります。わたしたちは主イエスの御名によってお祈りを捧げていながら、主の祈りを唱えていながら、他方で何と思い煩いの多いことでしょうか。何と不平と愚痴に陥りやすいことでしょうか。真剣に反省しなければなりません。なぜなら、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と書かれているからです。パウロは更に、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と主張しています。「あなたがたは『人を奴隷として再び恐れに陥れる霊』を受けたのではない」とは、どういうことでしょうか。わたしたちを神の子としてくださる聖霊は、神の自由なお働きによってわたしたちを導き、成長させてくださるということではないでしょうか。

しかしながら、パウロが福音を宣べ伝えた教会の中には、まだまだ律法を守ることによって教会を整えようとする力が働いていたと思われます。わたしたちの中にはイエス・キリスト以外、決して誇るものがあってはならないのです。ところが熱心な奉仕者をほめたたえるあまり、その人の教養学歴をほめたたえ、その人の社会的地位をほめたたえ、その人の力をほめたたえる傾向はどうしても否めません。褒められる側が問題なのではなく、ちやほやする人々に非常な問題があるのです。なぜ、ちやほやするのでしょうか。それはすぐれた賜物を持っている人に取り入って、自分が利益を得ようとするからではないでしょうか。特に気前よく献金する人々に対する、他の人々の態度に、非常に問題を感じることがあります。あの人はお金持ちだ、という噂を流す人々の意図は明白です。人と比べて「自分は貧しいから」と言い、捧げない口実にするのです。何とか理由をつけて自分を正当化しようとします。こういうのを偽善と言います。こういう態度を続けているうちに再び律法に縛られ、神の霊が与える自由を失ってしまうでしょう。

教会を建てるための戦いは、自分の言い訳を作り、自分の気に入った教会を建てることではありません。しかし、天には父がおられることを心から信じ、祈るならば、わたしたちは父から聖霊を受けることが出来ます。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と聖書は述べております。

神の聖霊がわたしたちにしてくださる証しは、「わたしたちの霊がキリストの御霊を指導者、また教師として持ち、神によって子としていただく」ということを確実にするほどのものです。しかし、わたしたちの性質は、自分では、このような信仰を心に抱くこともできません。ただ聖霊の証しによるのでなければ、ここに到達できないのであります。ですから、もし聖霊がわたしたちの心に、神の父としての愛を証ししてくださるのでなければ、わたしたちは祈りをすることができません。ですからわたしたちは、神に「父よ」と口で呼びかけ、また心の中でもそのように固く信じるのでなければ、神に正しく祈ることはできないのです。

「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」わたしたちがもし神の子であることを信じるならば、神の相続人であることも信じることになりましょう。

神の相続は、永遠の命を相続するのです。このことはこの世の相続のことよりも、実ははるかに大切なことでありますが、わたしたちは聖霊の助けがなければ、この大切さも全く理解できないでしょう。教会にこの世のことを持ち込んで来る誘惑にわたしたちは弱い者ですが、自分の行く先々のこともないがしろにして持ち物を誇っているのは、実に浅ましいことです。

私は最近、ひどい風邪を引きまして、久しぶりに近所のお医者さんにかかりました。すると病院の様子は二、三年前とは、また様変わりしていました。以前は待合室に患者があふれていましたが、今は驚くほど空いています。その分、お医者さんは各家を駆けずり回り、終末期医療に向かう人々を安全に病院やホスピスにお世話しているようでした。このお医者さんは10年以上前に、私が牧師であると知って、こう質問をしていました。「人は年取って死んでいく。それでどうしていけないんでしょうねぇ。」

お医者さんが今も同じ考えを持っているのかどうか分かりません。しかし、わたしたちが、神の子として神の相続人であると信じることと、信じないことには、大きな違いがあるでしょう。キリストによって罪赦され、神の子とされたわたしたちは、キリストと共同の相続人であると信じる。すると世界が変わるのではないでしょうか。世界の何が変わるのでしょうか。キリストはわたしたちの代わりに苦難を忍んでくださいました。ご自分の罪の報いとしての苦しみではありません。人の苦難をご自分の身をもって受けてくださった。この愛に神の栄光が表れているのです。私たちはこの愛を知りました。この愛を知るときこそ、世界が変わるのです。

このキリストに従って生きましょう!キリストの苦しみはわたしたちの救いのためです。わたしたちは、今はキリストと共に苦しみことが出来る。キリストと共に苦しんで、キリストと共に永遠の命を受けることが出来るからです。年を取るということには、多くの困難があります。しかし、希望に生きる高齢者になりましょう。それ自体わたしたちにとって善いことに違いありませんが、そればかりでは決してないと思います。わたしたちの使命は、地上に教会を建てることだからです。わたしたちの後に希望が残るということが何よりも大切です。その希望によって後の世代が慰めと励ましを受け、ここに真の救いがあることを確信して生きるようになるように、私たちは祈るのです。

キリストに従うことは自分の力や業によってできることではありません。ただ天に昇られたキリストが送られる聖霊がわたしたちを導いておられるのです。その自由なお働きによってわたしたちは、楽なことばかりでなく、むしろ困難なことも辛いことも、すべてのことを時宜にかなって与えられた恵みと感謝することができるのです。祈ります。

 

恵みと憐みに富み給う主イエス・キリストの父なる神様

御名をほめたたえます。あなたはわたしたちを励まし、天の父と呼びまつる幸いをお知らせくださいました。私たちは、自分の働きによって教会を建て、各人の家庭を支えようと一生懸命になりますが、困難は増すばかりです。しかし、あなたの聖霊によって、私たちはあなたを父と呼ぶことが許されました。私たちの力と知恵の及ばない深いご配慮によっていつも導かれていることを信じる者とならせて下さい。そしてここにただ恵みによって生きる教会を建てて下さい。そして私たちに、なくてならない命の御言葉を満たしてください。

東日本連合長老会とともに歩んでおりますことを感謝申し上げます。どうかこの小さな群れをも豊かに用いて、教会の中でも外にあっても、主のご栄光を表す者とならせて下さい。受難節を歩んでいる私たち、どうか自分の行いに頼り、あなたの助けを呼び求めない罪から私たちを救い出してください。

洗礼準備が御心のままに導かれますように。また来週は、教会の3月定例長老会議が持たれます。どうぞ、来年度の計画、諸行事を決めるにあたり、御心が行われ、御名があがめられる計画となりますように。また、特に記念誌編集のために多くの方々のご協力が得られますように、私たちの過去の歩みが未来に向かって用いられる記録となりますように。

ご病気の方々を覚えます。どうかこれまでの恵みに満ちたご配慮を感謝しますとともに、それぞれの方々が良き治療を受けることができますように道を開いて下さい。どんなときにも私たち信者のすべてが、主の証人として立たされていることを心に確信し、無力なときにこそ、ただ主の恵みによって歩むことができますように。

教会の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2018年2月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

斉藤 紀先生のお話

(これは11月19日の礼拝で話されたものです。)

聖書:使徒言行録4章10-12節

「私たちが救われるべき名は?」

斉藤 紀

今読んだ聖書の言葉の中に、「この人」という言葉がありましたね。この人って誰でしょう。実は、この聖書箇所の少し前に、この人が出てくるのです(3章1節~)。

この人は、エルサレムの神殿の(神殿とは、神様をあがめ礼拝するところ、まあ、教会と思ってください)門のそばに、いつも座っていた男の人のことです。この人は足が悪くて、生まれてから一度も歩いたことが無いのです。働けないのでお金もなく、食べ物などを買うために、門のそばに坐って教会に来る人たちからお金を貰って生活していました。教会に入って礼拝したいと思っていても、入れません。あるとき、この男の人は、教会に入ろうとしていたペトロとヨハネを見て、お金を恵んで下さいと言いました。ペトロとヨハネはこの足の悪い男の人を見て、「私たちを見なさい」と言いました。「私たちにはお金はないけれど、持っているものをあげましょう。ナザレの人、イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい」と言って、男の人の右手を持って立ち上がらせたのです。すると、その人はすっくと立ち上がり、歩きだしました。悪かった足が治ったのですね。その人は、躍り上がって喜び、どうしたでしょうか。この人は、ペトロとヨハネと一緒に踊る様な足取りで、神様を賛美しながら教会に入って行ったのです。私はここがすごいと思うのです。歩けるようになったら、すぐに家に帰るとか街に出るとかしないで、神様を賛美しながら真っ先に教会に入って行ったのです。

ペトロとヨハネはそばにいた人たちに話しました。「この足の悪かった男の人が立ち上がって歩けるようになったのは、イエス・キリストの名によるもの、つまり、イエス様のおかげなのです。そのイエス様を、あなた方は十字架につけて殺しましたね、でも神様は復活させた、よみがえらせました。ですから、このお方こそ、家を建てるときに「いらない」と言って捨てられた石が、家の土台を支える石になったようなものです。

この男の人が救われたのは、イエス様のおかげです。イエス様以外の人の誰によっても、皆さんは救われません。イエス・キリストという名前のほかには、救

い主という言葉は誰にも与えられていません。ですから、私たちを救えるのは、イエスさまだけなのです。」

今日は、私たちを救うことのできる方は、主イエス・キリストただお一人だけということを学びました。イエス様の教えを守り、毎日イエス様を賛美して過ごしましょう。

2月の御言葉

「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」

ヨハネ福音書20章21節。

2月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

2月 4日 (日)   エフェソ4:8-10      お話の担当…  並木せつ子

11日(日)  ペトロ(一)3:22              焦  凝

18日(日)  詩編98:1-9             並木せつ子

25日(日)  ヨハネ20:19-23           興津晴枝

 

  • 中高生の皆さんは、大人の礼拝にもご参加をおすすめいたします。礼拝時間は10時半~11時半です。親子連れの方も、どうぞいらしてください。

                                                                   

成宗教会学校からお知らせ

  • 真の神は、イエス・キリストの御生涯に表されました。イエス様を通して、私たちは、神の真実を知ることができます。
  • 教会の暦(レント)・・・2018年は2月14日(水)から受難節(レント)に入ります。イースターまでの40日の期間を、イエス様が人間の罪をあがなうために苦難を負われたことを思って、感謝と悔い改めに過ごします。今年のイースター(復活祭)は4月1日(日)です。この時にイエス様を救い主と告白し、洗礼を受けることを決心する人は、レントの間にその準備をいたします。
  • 礼拝でのお話は小学校高学年~中学生にもわかりやすく語られます。礼拝後の活動は幼少~小学生向きですが、何歳でも楽しく参加することができます。

神は何でもお出来になる

聖書:ヨブ記42章2-6節, マタイ福音書19章23-26節

 私たちの教会は、先週十貫坂教会との講壇交換礼拝を守りました。十貫坂教会から若いというか、働き盛りの男の牧師が来てくださいました。私の方は十貫坂教会に出かけるのは初めてではなかったので、向こうでは知り合いの先生だ、という感じで迎えられましたが、成宗ではどうだったでしょうか。長老以外の方々は改めて東日本連合長老会の十教会の交わりに入るということは、こういうことなのか、と実感されたのではないでしょうか。

私も、東日本で共に学び、共に教会を建てて行くことが出来ることを、十貫坂教会の礼拝の場で主に感謝しました。どこの教会も日本の少子高齢化を映し出さないところはほとんどないと思います。特に小さな教会、そして地方の教会はそうでしょう。たくさんの人が長生きが出来、高齢に達するということは、社会の平和と繁栄の結果ですから、大変感謝するべきことです。けれども、それは同時に多くの高齢者を社会全体で支えて行くということです。「ゆりかごから墓場まで」という標語は社会保障で言われることですが、それを教会についていうなら、それは地上に生を受けてから、地上の生涯を終えるまで、主イエス・キリスト教会の中に守られ、神の家族の一員として守られることだと思われます。

また、「終わり良ければ総て良し」という言葉がありますが、それは、「神の子イエス・キリストに結ばれて、天の父に守られて生涯を全うする」ということではないでしょうか。ですから、私たちは一日一日年を取りますが、最後までキリストの教会の一員として生きる、つまり主に従う者として心を引き締めて生きるのです。有り難いことに、成宗教会には主に結ばれ、教会に結ばれて地上の生活を送っている方々が過去にも、また現在も多くおられます。本当にありがたいことで、喜ばしく、また誇りに思います。その兄弟姉妹がキリストの恵みの証し人として、私たちを今も励ましておられるからです。これは一重に、教会に送られた慰めの霊、励ましの霊、聖霊のお働きによるのであって、そのこと無しには決して起こらないことです。

では、私たちはその励まし、高齢の方々の励ましを受けて何をするのでしょうか。地上の生涯の終わりに向かう私たちがなすべきことは、地上に命を与えられている人々に福音を宣べ伝えることではないでしょうか。私たちは体をもって生きています。目に見える姿で生きて生活するので、衣食住は欠かせません。ですから「何でもできる」という言葉を聞くと、すぐ目に見える「できる」ということを考えます。飲み食いする。住むところがある。着るものがある。これらは皆、お金がなくてはできません。だからこそ、お金にこだわっています。そして神様は私たちにそのすべてが必要であることをご存じです。

しかし、地上に命を与えられている人々に福音を宣べ伝えるということは、そういうとは無関係ではないのですが、目に見える姿だけに関わることではないのです。目に見える姿形と同時に、私たちには目に見えない心があります。心と体を合わせて魂と呼ぶこともあります。私たちは目に見える衣食住のことだけで生きているのではない。むしろ地上の生涯を全うしたとき、私たちに備えられている神の命に生きる者となるために、地上に教会を建てるのです。体だけの救いのためではなく、私たちの心も体も魂も救われるために、今できることをして生きたいのです。

イエス・キリストのお建てになった教会は代々同じ信仰を受け継いで、告白してきました。私たちはその信仰を使徒信条によって告白し、同時に学んでおります。本日は「我は全地の造り主、全能の神を信ず」というところの、「全能の神」についてみ言葉に聞きたいと思います。「神は全能である」ということは、「神は何でもお出来になる」ということです。今はオリンピックのシーズンですから、ひたすら誰が一番か、金メダルか、ということに世界中が注目する。多くの人々にとって、「できる」ということはそういうことなのです。また私たちは、中学生棋士の出現で、「おお!」と驚き、ボナンザという名の将棋ロボットに人間が勝ったの、負けたのと、大騒ぎします。そこで、私たちにとっては「神は何でもお出来になる」という言葉も、何かそのような能力のことのように聞こえてしまうのではないでしょうか。

今日のマタイ福音書の聖書箇所は、一人のお金持ちの青年が主イエスの御許に来た、あの有名な話に続く部分です。お金がある人がどんなにもてはやされ、羨ましがられるかということは、今も昔も変わりないことです。実は、人々がお金持ちに恭しく頭を下げるのは、その人に対してではなく、その人の持っている富に対してなのですが、本人はその区別が分からないかもしれません。そこで、自分は何か偉い尊敬される価値があると思い込んでしまい、何でも思い通りになって当然のように考えるに至ります。しかし、お金で買えないものがあることも金持ちは知っていました。そこで悩んで主イエスに教えを乞うのです。「永遠の命を得るためにはどんな善いことをすればよいのでしょうか」と。

つまり彼は、永遠の命、すなわち、救いに入れられるためには、何か善い業をする必要がある、と考えているのです。人間は善い業によって救われると信じているのです。主イエスは、それならば、と答えられました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と。

この人は善い業をすることによって救われると信じる。ところが、主の命令は彼のできることではありませんでした。つまり、自分の財産を貧しい人々に施して、自分も貧しくなることはできなかったのです。金持ちは永遠の命を得るよりも、自分が金持ちであることの方が大事でした。私たちが考えると、「いくらお金をもっていても、この世を去る時には何一つ持って行くことはできないのに」と思いますが、富を持つ人は、なかなかそうは考えられないのでした。

主イエスは、この気の毒な青年のことについて、弟子たちに警告して下さいました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」らくだが針の穴を通るとは、何とも大げさなたとえですが、要するに、全く不可能であることが強調されているのでしょう。今、コツコツ働いて報酬を得るのではなく、マネーゲームのような取引でお金を儲けようとする人々が世界の市場を動かしています。お金をもうけて何かを買う、とか、目的があるのではなく、ただただ富をかき集める欲望は、非常な禍の元でありますが、富に頼る傾向。つまり、天国に入れなくてもお金さえあれば・・・という考えも救いから遠ざかる結果を招くことになるでしょう。

もちろん、富そのものは本来悪いものでもないし、神に従う道を必ず妨害するものでもありません。第一、神に従うことから、私たちを遠ざけるために、悪魔が用意している手段は、富以外に、他にもいくらでもあるのではないでしょうか。とは言え、豊かに持っている人々はついついその豊かさにおぼれて、神に心を向けなくなっていることもしばしば起こることなのです。地上の生涯を終える時は、誰にでも必ず定められているのに、金持ちはこの世の楽しみをいつまでも満喫できると錯覚を起こしてしまうかもしれないからです。皆が頭を下げて迎えてくれるような地上の生活に慣れている金持ちであっても、神がわたしたちに受け入れてくださる救いの道は、狭くて小さな入り口から入ることになりますから、へりくだって身をかがめて入れていただかなければならないでしょう。

さて、弟子たちはこれを聞いて仰天しました。彼らは「それでは、だれが救われるのだろうか」と途方に暮れたのでした。しかし、この話は何も金持ちの青年が救いから閉ざされたことを結論づけるために記録されたのではありません。なるほど、金持ちの青年は失望して去って行きましたが、彼ら弟子たちはびっくりしたものの、がっかりして主から離れ去ったのではありませんでした。むしろ、彼らは「それでは一体、誰が救われるのでしょうか。それが知りたいのです」と言いたかったのです。だから、びっくりはしたけれど、がっかりもしたけれど、それでも主のもとから離れなかった。そこがあの青年と全く違うところです。

弟子たちの問い、そしてそれは私たちの問でもありますが、「それでは、だれが救われるのだろうか」という問い対して、主イエスは彼らを見つめて言われたのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と。そしてその御言葉によって、キリストは彼らの心をすべての憂いから完全に解放してくださったのでした。私たちは自分の力で天に上ることがいかに困難であるかを知らなければなりません。人間の力では、金持ちであろうが、貧乏であろうが、どんな人も救われることは不可能だということです。なぜなら、すべての人間の救いは完全に神にかかっているからです。天に上るということはエベレスト登山とは全く違います。神がお招きくださらないのに、天の神のお住まいに上って「わたし、自力で上って来ました」と、誰がいうことが出来るのでしょうか。

人間には不可能なことだ。しかし神にはすべてが可能であると主は言われます。私たちはこの言葉を、福音としていただかなければなりません。たとえ、自分に自信のある人々が「あれをしなさい」「これをしなさい」「そうすれば救われる」と言われる方が好きだとしても、それは自分の能力に、自分の持ち物に頼るから、そうなのです。やがて、自分ができると思っていたことが、実は出来ていなかったということに気がつくでしょう。自分が善いことをしていたと思っていたことが、実は全くそうではなかったということにも気がつくでしょう。特に信じていた自分の善意さえも、正直さえも、実はそうではなかったのではないか、と気がつきます。

しかし、それは辛いことではありますが、不幸なことではありません。いや、むしろそれどころか、幸いなことであると分かります。なぜなら、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」という主イエスのお言葉は、私たちを慰めるために、励ますために語られたからです。あの人はもう駄目だ。もう救われないと人が人を見はなすことになっても、神にはできないことはないからです。イエス・キリストが指し示してくださった天の父は、救いがたい罪人を救ってくださることがお出来になる。絶望の中に希望を生まれさせることが出来る方です。神の全能とは、救われるに値しない罪人、滅びるより他にない人間をなお、愛することがお出来になるその御力、その愛ではないでしょうか。

ヨブとその友人たちは、ヨブの想像を絶する不幸の原因について、また神の義しさについて議論しました。しかし、神の義しさを理解し、自分の正しさを論じることの結論は何だったのでしょうか。ヨブは自分に理解できないこと、自分の知識をはるかに超えたことをあれこれと論じようとしていたことを悔いております。それでも、ヨブははるかに天を仰いで信じ、告白することが出来た。それは、天には自分のために執り成してくださる方がおられるということでした。苦しみから救い出してくださる方がおられる。それはどなたか、いつ、どういうふうにして自分を救ってくださるのかも知らないままに。しかし、神はヨブのこの呻きに、この告白に、答えを備えておられたのです。

時が満ちて、天の父は、その計り知れない御心によって御子を世にお遣わしになりました。神は私たちの思いをはるかに超えたその愛によって、罪人を救いに招くために、愛する御子をお遣わしになって、その御心を地上に明らかにされました。キリストを拒絶したことで、神の愛を拒絶する者の罪は、いよいよ明らかになりましたが、その一方、十字架の苦難が自分のためにも忍ばれたと信じる者は、悔い改め、御子を信じて神に従う者となったのです。これが信仰の告白であり、洗礼であります。私たちは何をすればよいのでしょうか。自分の持ち物に少しも頼ることなく、この神の恵みによって救われることをひたすら信じ、神に心を傾けて祈ることであります。私たちにできること、それは自分の力により頼まず、天からの力を求めて祈ることです。

私たちの教会も東日本連合長老会の教会と共に、また同じ信仰を告白する教会と共に、自分たちの力ではなく、主の恵みの力によって立つことを信じ、ひたすら祈りましょう!

 

御在天の父なる神様

尊き御名を賛美します。私たちは今2018年の受難節の最初の礼拝を捧げました。ありがとうございます。不可能を可能にしてくださるあなたは、私たちの不幸を深く憐れみ、御子をお遣わしになって恵みの福音をお伝えくださいました。

私たちはあなたから遠く離れていましたが、あなたの計り知れない慈しみを示され、罪を悔いて御前に集うことが許され、すべてにわたって御子の正しさによって救われました。どうぞ、この喜びを多くの人々が知る者でありますように。今多くの人々が年を取り、多くの人々が自分の富に自分の能力に頼ることが出来ないことを実感しております。また若い世代の人々にも昔に無かったような時代の悩み、苦しみが押し寄せていることです。

どうかすべての必要な者を備えてくださる主に依り頼み、ただ多くの人々がこの恵みの救いに入れられますように、祈る者とならせてください。多くの方々が教会に来られなくなっていますが、あなたが生きるために無くてならない神の言葉で養い、導いてください。

今日も教会学校から、守られ祝福を受けていることを感謝します。ナオミ会の例会、教会学校教師会が開かれますが、それぞれの会をあなたの恵みの業としてお導きください。また、礼拝に集うすべての方々の上に、そのご家庭に、職場に、あなたの恵みが伴われますように。何よりもお病気の方々、生活の様々な困難に直面している方々に聖霊の助けがございますように。私たち、いつもあなたを仰ぎ、あなたに寄り頼み、絶えず祈る者とならせてください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ

十貫坂教会講壇交換礼拝説教

聖書:イザヤ53章6-12節, エフェソ3章14-19節

本日は東日本連合長老会の企画による講壇交換礼拝のために、お許しをいただいて礼拝に奉仕致します。私が皆様の教会の説教壇に立たせていただきましたのは、二度目、東日本の長老執事研修会の礼拝を含めますと三回目になります。改めて東日本連合長老会の交わりに加えていただいていることを感謝申し上げます。特に十貫坂教会では関川先生ご夫妻の時代から神学生を大勢受け入れて来られましたので、2010年以降、秋の神学校日には神学生を説教者として成宗教会に派遣していただきました。

地域連合長老会を中会として共に主の体の教会を形成するという目標は、もう何十年も前に掲げられ、取り組まれて来たと伺っています。しかし、この目標をより広く、多くの教会に紹介し、賛同する教会を仲間に入れるという取り組みは、そうたやすくできることではなかったと思います。クリスチャンはほとんどの人が、自分の教会だけが教会だとは思っていないのですが、教会は大きいところも、小さいところも内側ばかり見ているような傾向が続いていたのだと思います。

私が受洗した仙台東一番町教会も、その後転出した横浜六角橋教会も、名古屋教会も大きな教会でした。200~300人もいますと、礼拝出席以外、何もしなくてよいということで、「わたしは信者として楽をしている」という感覚がありました。そして小さな教会は大変だろうと思っていました。そこで、東神大に入った時、小さな教会に奉仕したいという漠然とした希望を持ちました。念願かなって成宗教会に赴任しまして、無我夢中で教会を建てようと頑張ったと思います。「どう頑張ったのか」と言えば、自分の遣わされた教会以外のことは何も考えず「わき目も振らず頑張った」ということです。

しかし、その当時、大きな教会は内側で満足しているという批判があったとすれば、私のしていたこともまた、内側だけに集中していたことでした。つまり多くの教会は、大きさは違っていても、同様に各個教会主義でありました。そして今、日本の教会は社会全体と同じく少子化高齢化の問題を映し出しております。あんなに盛んであった婦人会が高齢化で成り立たなくなっている教会が増えているからです。

去年の春から東日本の婦人会の活動の中で、それぞれの教会の実状を話し合う機会がありました。大変困っている教会から、今までと変わりないという教会まで、様々な様子が話されました。ある時、十貫坂教会の婦人会の方がそのような話し合いの感想を語られ、「こうして集まって、ほかの教会の婦人会の様子を知ることが出来てとても良かった」と仰いました。その時、私は大変うれしい気持ちで一杯になりました。それは、誰もがだんだん余裕がなくなって行く時代に、そして教会に人手がない、お金がない、労力がないと思い、もう他の所のことは考えていられない、と言いたくなるような時に、他の教会の窮状を聞いて、「それは大変なことだ」と思うことが出来る、その心は、一体どこから来るのでしょうか。

それこそが、今日の聖書で、私たちに与えられていることなのではないでしょうか。それは私たちに祈りの言葉として与えられています。会衆に向かって語られますが、しかしそれは何よりも御父の前に謙って捧げられた祈りです。「御父から、天にある家族、地上にあるすべての家族がその名を与えられています。」家族という言葉は、共通の先祖によって血縁的につながる一群の人々を意味します。しかし、御父の家族はどうでしょうか。それは、すべての人間がキリストによって一つの家族、一つの同じ親族に帰せしめられたばかりでなく、天上の霊的な存在である天使とさえも同じ親族にされたということなのです。かつては神の家族は、特別に選ばれたイスラエルの民族だけと思われていましたが、今や、イエス・キリストの執り成しによって罪赦され、御子イエス・キリストの死に結ばれ、その復活に結ばれて、すべてのものが一つとされた主の教会、それが御父の家族なのです。

もはや人はだれも、他の人々を軽視軽蔑したり、また神の家族であるという誇らしい名前を自分たちだけのものにするために、血筋や、能力や、いろいろなものを誇ることはできません。ただキリストによって神の家族とされたこと以外には、教会の人々に誇るべきものが一切あるはずがないのです。キリストのみが私たちをを結ぶ絆であって、キリストを他にしては、ただ無秩序があるのみです。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」

この祈りは、教会の過去でのことでしょうか。現在のことでしょうか。それとも未来のことでしょうか。もちろん、未来のことだと私たちは知っています。それなら、教会の未来があるということです。教会に未来がある。すなわち、私たちに未来がある。それは神の憐れみがその豊かさの中から私たちに聖霊を送ってくださるからです。使徒はそのように信じ、そのように祈ります。信仰者は上を目指して成長していく。それを願うべきであります。私たちは超高齢化社会におりますが、地上の命を永くされるのも、短くされるのも御父の御心なしには起こらないことです。どんなに長生きして肉体が年とっても、年だからもう神の家族として成長しなくてもよいということは決してありません。地上にある限り、天上のことは分かりませんが、地上に生きている限り、御父から聖霊の賜物をいただいてもっともっと成長することを愛することが出来ますように。

宗教改革者は言うのであります。信仰者がこれ以上進歩する必要がないほど完全になるということはないと。しかし信仰者の完全な状態があるといいます。信仰者の完全とは、神の家族として成長を愛するようになることであると。それは、人間の力によっては決してできないことです。人間の力が目指すのは、もっと健康を、とか。もっと○○ができるようになりたいとか、もっとお金があればなあ、とかいうことでしょう。こういう願いは信仰のない人々も切に願っていること。そしてそのような願いは教会の中でも、ついつい出て来ない訳には行かないからです。

たとえば成宗教会の会堂は建築から25年ほど経っています。そのころはバブルの時代で、会堂建築には内からも外からも沢山の献金が捧げられた。いわゆる景気が良かったので、人々も気前よく捧げることができたのでした。そして建物も、省エネなどあまり考慮しなかった時代でした。しかし今は年月が経ってだんだん修理修繕に費用が掛かるようになる。そして経済的に厳しい時代で、多くの教会員も高齢になっていますから、昔のようにはいきません。経済や、人手が乏しいことを嘆きたくなってしまう現状は、多くの教会でも同じようではないかと思っております。

こうして私たちは目の前のあれやこれやの問題で頭がいっぱいになるかもしれませんが、正にこのような私たちのために、代々の教会のために、エフェソ教会へとあて名が付けられた手紙は差し出され、パウロ(本当はパウロの後の時代の伝道者かもしれませんが)は祈りを捧げているのではないでしょうか。聖霊によって内なる人が強められますように、と。そうです。パウロはⅡコリ4:16においても、次のように力を込めて励ましているのです。「たといわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日ごとに新しくされていきます。」329下。

私たちは、ついつい年取って大変だと思ってしまうのですが、大変なのは後の世代のことです。世に在る教会を去る時に、世に在る教会が残されるように。私たちに与えられた伝道の使命は、世に在る人々に対して果たすべきなのですから。地上に教会を建てることは主の尊い御旨であります。そのためにこそ、御父が豊かな栄光の中から聖霊を送り給い、心にキリストを住まわせてくださるように、と祈られているのです。キリストが私たちの内にお住まいくださる。そこに私たちの力では到底できないことがなされるのです。すなわち、教会は愛に根差し、愛にしっかりと立つ者とされる。そのために必要なこと、それは何か、キリストが私たちの内なる人に住んでくださることです。

私が前回十貫坂教会の礼拝に奉仕しましたのは、中村恵太先生がまだ伝道師でいらした時でした。聖餐式を執行するために伺い、礼拝後にも教会員のお宅を訪れて聖餐に与っていただきました。その兄弟はお嬢様の見守る中、聖餐を受けられましたが、90代になっておられ、私は嚥下障害を心配しました。聖餐のパンを呑み込むことも大変ですが、ぶどう酒の方は更に呑み込みが難しいので、私はその時、誤嚥性肺炎が起こるといけないから、ほんの一滴でも良い、形だけ、しるしだけにしようとしました。ところが車椅子に腰かけて聖餐を受けられた兄弟は、私が口元にほんの少し差し出した盃にかみつくようにグイッと口に引き寄せられたのです。聖餐の秘跡。聖なる恵みに与りたいと兄弟はどんなに望んでおられたことか、それを知らされた瞬間でした。自分はキリストの体に結ばれている。結ばれたい!その強い思いが、意志が伝わって来て、圧倒されたことを思い出します。その三日後に兄弟は主の御許に召されたと、中村先生より伺いました。

このような証しをさせられるのは、主イエスが教会と共に、信仰者と共におられるからに他なりません。キリストが私たちの内に住んでくださることの結果は何でしょうか。それは愛です。キリストがいかに私たち罪人を愛しておられるかを知る。そしてキリストを通して神を知ることにおいて前進することです。今週水曜日から教会歴は受難節を迎えます。イザヤ書53章は語ります。世界の支配者たちは皆、主なる神のご支配から離れ迷い出た羊の群れのようであったが、主はその罪の重荷を忠実な一人の僕の上に置かれました。ここにキリストの受難が告げられています。苦役を課せられて、かがみこみ・・・捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。しかし、彼が苦しんだのは私たちのため、彼が負ったのは私たちの罪であった。

しかも彼が身代わりの苦難と死を受けることは神の御旨であったというのであります。

「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」この僕こそ、神の御子イエス・キリストであります。神はこのために御子を世にお遣わしになりました。御子の執り成しによって罪が贖われ、神の御前に立つ者。キリストに結ばれて神の子とされ、神の家族とされるために。私たちはこのキリストを心に信じます。

パウロが教会の人々のために祈っている通りに、キリストが天に在って執り成しの祈りを捧げてくださっています。ですから、キリストを通して神の愛を知り、神を愛し、キリストを愛する愛が、私たちの内なる人に深く根を下ろすようになるでしょう。その愛は、ちょっと風が吹いた、ちょっと何かが起こったことで、揺れ動き、吹き飛ばされるようなものではない。愛が堅固な建物のように、岩の上の教会のように建てられるように、と私たちは祈られているのです。

キリストの愛をパウロはその広さ、長さ、高さ、深さと表現しております。どれが広さなのか、長さなのか、高さなのか、深さなのか、それは言葉で言い尽くすことはとてもできないことでしょう。私は、十貫坂教会の婦人会の方が他の教会のご様子が分かって良かったと言われた時に、とてもうれしく印象に残ったことをお話ししました。他の教会を思い遣る心そのものが、主の愛を証ししているからです。教会を建てることは、キリストの愛を知るようになることです。東日本連合長老会が発足して9年が経ちました。

私は個人加盟としてはその時からおりますが、成宗教会が加盟を認められたのは2013年です。加盟に至るまでも、その後も東日本に所属して学ぶことが沢山ありました。たとえば、教会学校の教案については連合長老会の日曜学校委員会のカテキズム教案を用いるようになって、教会学校が改善されました。また、私は前歴が学校の教員でありましたので、教会員はいわば担任の教室の生徒のようなイメージでありました。優等生もいれば、憎まれっ子もいます。先生に嫌がらせをする生徒がいても一向に気にしない教師でありました。ただただ生徒が可愛いだけで、生徒のために頑張りました。受洗した教会は長老派の教会でしたが、神学校に入ってからも、教会にとって長老会の形成がどんなに重要であるかが、どうも私にはピンと来なかったのだと思います。

そこで成宗教会に赴任して16年。教会は牧師が一人で頑張るという習慣が、いつの間にか当たり前になってしまっていたことも、大きな問題でした。増田先生に成宗教会のある問題を指摘されるまで、私は全く気がつかなかったという大失敗もありました。そのことも東日本の長老会議や教師会で指導を受けて初めて改革することが出来たのでした。個々の教会の内側にいて長い間、気づかれない問題というものが、連合長老会の交わりによって明らかになるということは、大変大きな恵みです。

いくら個人的には愛情があるつもりでも、キリストの教会を建てるためには、ほとんど役には立ちません。人の知恵、知識をはるかに超えた主の愛を知ることは私たちの力ではできません。だからこそ祈ります。そしてそれを宣べ伝えることも、人の力ではできません。ですから、もし礼拝において私たちの口を通して語られ、耳を通して聞かれる言葉が、御言葉として伝えられるならば、キリストの愛を伝える言葉となるように、私たちは祈り、祈られるであります。東日本の教会の交わりがキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを日毎に理解する交わりとして前進していることを思い、真に感謝しております。そしてまた、大きな目に見えないキリストの一つなる体の教会を望み見ることが、同時に小さな教会の片隅に起こるキリストの溢れる愛の証を見い出すことと、深くつながっていることに感謝します。祈ります。

天地の造り主を信じる

聖書:詩編95篇1-7節, 使徒言行録17章22-27節

 わたしたちは今日も礼拝を捧げる中で、使徒信条を告白しました。使徒信条はわたしたち一人一人の口によって唱えられますが、決してバラバラにではなく、思い思いの言葉によってでもなく、異口同音に唱えられるのであります。そして今、全国全世界の多くの教会が使徒信条を告白して礼拝を捧げている訳ですが、それも決して今に始まったことではなく、代々の教会が行って来たことなのです。そう考えるだけでも、同じ信仰告白を同時代に世界中で告白し、また時代を越えて、千年、千五百年と告白することの重大さを思わずはいられません。それは時を越え、所を越えて神に捧げられ続けている告白であります。「神さま、あなたはこういう方であると信じます」と告白することは、そのまま神への賛美となるのです。

そこで、今日は、使徒信条の最初の言葉、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」のうち、「天地の造り主を信じる」とは、どういうことなのかを学ぶために、使徒言行録17章を読んでいただきました。聖書のこの場面は使徒パウロがアテネで行った伝道について伝えています。アテネはギリシャ文明の栄えた中心都市で、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなど、古代から哲学、数学、化学などの学者が多数輩出し、学問が非常に栄えた所です。

パウロが当時のアテネに行ってみると、そこに夥しい数の神々の像があることを発見しました。つまり人々はいろいろなものを神として礼拝していたわけです。その一方で、どれが本当の神なのだろうか、と考えてはいないのでした。神々というギリシャ語は聖書では悪魔と同じ、ダイモニオンと言葉なのです。日本ではディーモン小暮という芸名のタレントさんがいますが、要するにディーモンの元の言葉です。そしてアテネの人々はディーモンをそれほど悪いものと思っていませんでした。アテネ人の神々は、いと高きところにいます神のような存在と、人間との間に立っているもの、時には守護神のように考えられる存在だったようです。

人々はそのような神々を幾つも考え出し、空想の限りを尽くして、それらを像として形造り、安置して犠牲をささげました。神々には人間のあこがれ、また願望、また時には恐れが表現されていました。たとえば、美の女神、音楽、知恵から、お酒の神、戦争のなどをつかさどる神々です。そんなに沢山作っても彼らは不安であったのでしょう。「知られざる神」へという祭壇も作っていました。パウロはこの祭壇を見て、これを伝道のきっかけにしようと考えました。

なぜなら、パウロには分かったことがあったからです。アテネの人々はこんなにたくさんの偶像があるのに、まだ知らない神があると思っているのはなぜだろう。彼らは偶像を造って満足するのだが、それでも足りない不安感があるからだ。不安。それは神々を怖いと思う不安です。拝まないと祟られるのではないか。それは大きな恐れ、恐怖心となって彼らを支配しているのではないか。なぜだろうか。それは彼らが、本当の神がどのようなお方か知らないからだ、とパウロは思いました。このように、新約聖書のアテネの人々の様子を見ますと、その姿は意外なほど現代日本の人々と共通するものが見えるのではないでしょうか。

それは、たくさんの偶像に囲まれて生きていることです。お金が沢山ほしいと人々は思います。しかし実際はあればあったで、安心より心配も増えるかもしれませんが。同じように神々も沢山あれば、安心という訳には全く参りません。その神々、ディーモンの性質が分からない。だから、ディーモンが自分をどう思っているのかも分からない。従っていつ祟られるかも分からない、ということになります。あちらも拝んで、こちらも拝んで祟られないようにお付き合いしている。しかし、それで満足、安心という訳には全く行かないのであります。

そこで、パウロはアテネの人々を前にして、あなたがたは信仰のあつい人々だと思う、と話を切り出しました。この「信仰のあつい」という言葉もまた、ダイモニオンという語から成り立っています。その意味は、「神々を恐れる」ということですが、悪い意味では「迷信などを信じやすい」ということなのです。アテネに集まる知識人は自分たちの教養を大変誇りに思っていながら、その一方では、迷信にも惑わされビクビクしていたのでしょう。

パウロはその人々にはっきりと申します。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしは知らせましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」すなわち、目に見えるものも見えないものもすべては、真の神さまによって造られました。ですから私たちは、そのすべてのものが神さまのものだということを信じるようにと、招かれたのです。

神を自分の考えで形作って拝んでも、空しく、心満たされないのです。神とはどなたかを知らなければなりません。わたしたちは天地を造られたただお一人の神を信じましょう、とパウロは呼びかけました。この方は人の造った神殿に閉じ込めることは決してできません。また、人の造った服を着せてもらったり、食べ物を食べさせてもらうために、人々にお世話される必要もありません。すべてのものが神さまのものですから。それどころか、すべての人は神さまによって命を与えられ、生きるために必要なすべてを与えられているのです。

この方を礼拝するためにはどうしたらよいのでしょうか。祟られないように、何かを捧げるというのは、神さまを恐れてはいても、信頼してはいないことになるのではないでしょうか。すべてを造りすべてを与え、すべてを守り導いておられる神を、信頼することこそ、正しい礼拝の第一歩です。神はなぜ人を造られたのか。その答は詩編102篇に歌われています。102篇19節。「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」939

このように恵み深い神さまを知らない、そして知ろうとも思わないために、この上なく恵み深い方が、全く正反対に思われる。この上なくケチで、気まぐれで、冷酷だ、と思ってしまう人々が何と多いことでしょうか。自分を頼って生きて行くしかない。あるいは人を信じて助けを求めるしかない。しかし、神さまの代わりになる自分はいるでしょうか。神さまの代わりになるような他人はいるでしょうか。一晩に同じ人に数百回メールを送ったとか、送られたとかいう話があります。あれをして、これをして、とひっきりなしに電話をくれる人がいます。神ならぬ人間を神のように頼れば、人間関係を破壊することになります。神を信頼しない人々の関係は、闇の中で手探りするようなものです。手の届くものは何であろうとしがみつく。その結果は、神でないものに支配されることになるのです。真の神さまを信頼できないほど不幸なことは在りません。

パウロは恵み深い一人の神を信頼しなさい、と呼びかけています。26節。「神は、一人の人からすべての民族を作り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」唯一の神さまによってすべてのものが造られた、という信仰は、更に唯一の神がお造りになった一人の人からすべての民族が分かれたことを信じることでもあります。どんなに多くの民族があり、国家があり、思想信条が異なっていても、私たちが唯一の神さまによって造られたと信じる限り、人は人をないがしろにすることはできません。天地の造り主を信じるということは、他民族や他宗教に対する憎しみや無関心から、解放されることを意味します。

天地創造の初めに、すべてのものがひとつの血から造り出されたと信じることは、私たちがどこに生まれようともどこに住もうとも、常に唯一の創造者、すべての人の父である神さましかおいでにならないと信じることです。だから、この方、真の神こそ、すべての人が満場一致で求められなければならないのです。神がアブラハムを呼び出して、わたしに従って来なさいと命じられた時のことを、私たちは繰り返し思い出します。創世記12章2-3節。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と神はアブラハムに言われました。(旧約15頁)

このことは、神がアブラハムの子孫の中から、救い主をお立てになられたことで実現したのであります。しかし、パウロは神を知らないアテネの人々、そしておそらく聖書も読んだことのなかったアテネの人々に対しては、何よりもまず、神が人を創造された目的を強調して教えます。今日の27節。「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが捜し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」すべての民族、すべての造られたものが等しく神を捜し求め、追い求めることにこそ、造り主の目的があります。この方がどんなに恵み深い方、憐れみ深い方であることか。それは、罪のために全く神さまから離れ去って暗やみを手探りするように歩いているすべての人々を、救い出し、再び救いの光に招こうとする恵み深さなのです。神はそのために愛する御子を救い主としてお遣わしになりました。

この恵み深い神をほめたたえる歌を、今日は詩編の95篇に教えられました。この心、この褒め称えの歌こそ、真の神を礼拝する第一歩なのです。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

本日の聖餐礼拝に招かれましたことを感謝します。御言葉によってあなたの恵み深さを知り、心を込めて御名をほめたたえます。私たちは、ただあなたの恵みによって救われました。イエス・キリストの執り成しによってあなたを信じ、あなたに罪赦され、あなたに従って平和の道を歩むことが許され、真に感謝申し上げます。どうか、この信仰の弱い者を励まし、聖霊によって強めて、今週の歩みをお導きください。たくさんの日々の困難が私たち自身にも、家族にも、友人、社会にも起こっておりますが、どうかわたしたちが主の御体に結ばれ、主から良いものすべてをいただき、また私たちから悪いものをすべて取り去っていただきますように。教会の主と結ばれて、時が良くても悪くても、福音の使者にふさわしい教会を建ててください。

成宗教会の礼拝に出席することが出来ないでいる方々にも、豊かな顧みを日々注いでください。あなたの助けによって、常に主の体の肢としてご栄光を表す者となりますように、私たちのすべてを顧みてください。連合長老会の交わりを感謝します。東日本の諸教会も少子化高齢化の中にあって、取り組むべき課題を多く与えられています。共に学び共に助け合って教会を建てて行くことが出来ますように。

来週は講壇交換の礼拝が行われます。どうか御言葉を心新たに伺い、互いに多くの励ましをいただきますよう、聖霊の神様、二つの教会を祝し、仕える長老会、教会員の方々を励ましてください。恵みの聖餐に与ります。わたしたちの救いのために差し出された犠牲を覚え、真心から感謝して受けることが出来ますように。また、福音の招きに答え、主イエス・キリストを告白する人々が教会に与えられますように。主よ、どうか日本の救いのために、世界の救いのために、それぞれの地域の教会を顧みてください。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。