さばき

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌224番
讃美歌497番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 5章1-3節 (旧約聖書1,067ページ)

5:1 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。
5:2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
5:3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。

新約聖書:マルコによる福音書 12章1-12節 (新約聖書85ページ)

12:1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
12:3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
12:4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
12:5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
12:6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
12:7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
12:8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
12:10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。
12:11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
12:12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話

《説教》『さばき』

今日から、4月17日のイースターに向かって「受難節」に入ります。本日の聖書箇所は主イエスが語られた「譬え」です。「譬え」とは、普通、分かり難いことを分かり易くするための表現方法です。「例えば…」と言って、分かり易い身近な出来事に置き換えて、単純化したりします。このような「譬え」を明るい喩えと書いて「明喩」と言います。それに対し、問題が多岐にわたり、よく考えなければならないものを隠れた喩えと書いて「隠喩」と言います。聖書で主イエスは、「譬え」を大変よく用いられます。マルコによる福音書4章11節以下には主イエスが、「すべてが“たとえ”で示される。」とまで記されています。主イエスが語られた多くの「譬え」は「隠喩」と言われる難しいものもありますが、ここに理解しやすくとあるように、本日の「譬え」は、珍しく分かりやすい話です。何故なら、極めて具体的であり、また身近なものであったからです。

ここで語られるぶどう園の「譬え」は写実的です。「巡らされた垣」「掘られた絞り場」「見張りのやぐら」。それを農夫たちに貸して収穫を受け取る。また、そこで起こる地主と農夫たちとのさまざまな軋轢。その時代の至る所にあった農村風景です。ですから、この時代に生きて、この「譬え」を聞く人々にとって、まさに身近な問題であり、直ちに理解できる事柄でした。

1節の「ある人」とはぶどう園の持ち主で、この時代によくあった「不在地主」と考えられます。主人は「旅に出た」と記されていますが、これは旅行に出たのではありません。何故なら、物語を読んで行けば分かるように、「収穫を受け取るために遣わされた幾人もの僕たち」も「愛する息子」も、ぶどう園には住んでおらず、遠くにいる主人から送られて来るからです。ぶどう園の主人は、農園を農夫たちに任せ、自分の家に帰ったのです。パレスティナには不在地主が沢山いたと言われています。地主たちが、土地を農民に貸し、自分たちは気候の良いところに住むということは決して珍しいことではなく、また、このような農園をめぐってのゴタゴタはこの時代始終起こっていたようです。

主イエスがこの「譬え」を話された時、旧約聖書に親しんでいた人々は、ここで語られているぶどう園がイスラエルを意味していることを直ちに理解した筈です。先程お読み頂いたイザヤ書5章1~3節には、イスラエルが「主のぶどう畑」と表現されています。ぶどう園がイスラエルを指すとすれば、ここで語られている「ぶどう園の主人である『ある人』」とは、当然、主なる神と考えられます。

「農夫」とは、イスラエルの民衆を導き、神の民としての豊かな実りを得させる役目を与えられた指導者たち、特に神殿を中心とする宗教指導者たちのことです。「主人が旅に出た」というのは、主なる神が「その収穫の業を人間に委ねた」ということであり、「全てを委ねた」という主なる神の信頼が物語の前提です。

「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。」とある、「次々と送られて行った僕たち」とはイスラエルの歴史に登場する預言者たちのことです。旧約の預言者たちは、「主の僕」と呼ばれており、まさにイスラエルの宗教指導者たちは、主なる神から遣わされた「僕たち」だったのです。

預言者のアモスやホセアは誰にも相手にされず、語る言葉は聞き流され、警告は無視されました。エレミヤは人々に嘲られ、牢獄に入れられ、最後には石で打ち殺されました。イザヤは、エジプトに追われ、木の鋸でひき殺されたと伝えられています。主なる神がお遣わしになったいずれの預言者も軽んじられ、人間の反逆は明白でした。

当時のイスラエルでは、神殿信仰が、本来の信仰の姿を失い、宗教指導者たちが、主の御心を聴こうとせず、自分の思い、自分の要求を優先させ、神の主権を犯し続けて来たのです。

それに対して、ぶどう園の主人は、次々送り出す僕たちが袋叩きにあっても、侮辱されても、殺されても、驚くべき忍耐強さをもって僕たちを送り続けました。人間の罪、人間の悪、それが「決して本来の姿ではない」と、悔い改めることを願う主なる神の愛が、この主人の忍耐強さに表されているのです。

「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」とは、反逆に燃え上がる農夫たちに対する主人の常識を越えた判断でした。

この「たとえ話」は、何百年にもわたる信仰の裏切りを見ながら、それでも「御心を向けられるのが主なる神である」ということです。主なる神の御心は、裁きではなく、赦しであることが明らかです。悔い改めを期待する愛と信頼の極みが神の御心でありました。そして、神の御子キリストの到来が、長い裏切りの歴史の結論としての神の忍耐と信頼の最後の切り札であることが、イエス御自身によってここに語られたのです。

それにも拘らず、農夫たちは主人の愛する独り子さえも殺してしまいました。その目的は、「ぶどう園を自分たちのものにする」ということであることが、明らかにされています。人間の罪、神への反逆は、根本的に「自分が神の座に着く」という人間自身の罪の意志に基づいているのです。世界の主(あるじ)になることが人間の究極的な望みであり、それが「罪そのもの」です。そしてその罪は、主なる神の否定、御子キリストの抹殺へと至るのです。従って、罪の最終的な姿は、御子キリストの到来において明確になります。心のうちに秘められていたすべての悪が、御子キリストの御前で初めてその姿を現すのです。主なる神の主権を否定し、御子キリストと最終的に訣別することとなり、自分たちが勝利すると思い込むのです。あの農夫たちのように、御子キリストを殺すことによって、「これで勝った」と叫ぶのです。9節以下には、ぶどう園の主人が「戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」と、語られました。まさに、破滅は人間自身が招いたものです。神の裁きは単なる怒りではなく、あくまでも罪の中に閉じこもり、愛と信頼を裏切り、反抗の姿勢を変えようとしない人間自身が招いた結論です。しかしながら、この裁きは、反逆した農夫たちの「永遠の滅び」ということで終わってはいないのです。

この物語を語る主イエスの御心は、「農夫たちへの裁き」だけではなく、「もうひとつのこと」に向けられているのです。それは「ぶどう園をほかの人たちに与える」という御言葉が示唆するところなのです。

農園の主人、主なる神が行う裁きは究極的な判決です。罪に対する審判は「永遠の死」を意味していると言えるでしょう。しかしそれだけではなく、ここには、もう一つの裁きが告げられているのです。「もう一つの裁き」とは、人が人生で、本来は自分が収穫すべきであった豊かな実り・その喜びが、「他の人に与えられてしまう」ということです。「神の怒り」「永遠の滅び」といった言葉では、抽象的だと言って実感の伴わない人でも、このことならば理解出来るでしょう。

10節以下で主イエスは、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」と語られました。ここにある「隅の親石」とは、建物の入口のアーチを造る時、最後にアーチの頂点にはめて形を整える「要石」(キーストーン)のことです。他の何物にも代え難い大切な務めを担う栄誉、人間は本来、そのために用意されていたのです。

これはまさに不思議なことで、この世の理屈に合わない「不合理なこと」とも言えましょう。ただ計り知ることの出来ない主なる神の愛にひれ伏すのみです。「譬え」として語られた主イエスの御心は、この神の愛を伝え、父なる神の救いの御計画が何であるのかを教えられたのです。

それを聞いたユダヤ人の指導者たちは、この主イエスの語られた「譬え」の意味をすぐ理解できました。しかし彼らは、逆に「怒った」のです。福音を聴くとは「分かればよい」というものではありません。それが「私のために為された最終的な恵みの業である」ことを受け入れ、その恵みに自分のすべてを委ねるのが信仰なのです。

私たちはさらに、この主イエスの譬えが語りかけていることを聞き取らなければなりません。私たちは祭司長でも律法学者でもユダヤ人の長老でもありませんし、民の指導者でもありませんが譬えが、この私たちとは関係がない、と言えるでしょうか。

この農夫たちが預かっていたぶどう園、それは私たちの人生であると言うこともできるのです。ぶどう園は全て主人が計画し作り整えたものであったように、私たちの命や人生は、神様が計画し、一人ひとりに授けて下さったものです。自分が生まれたくて自分の意思で生まれた人はいません。どんな身体なのか、男なのか女なのか、加えてどんな能力、賜物を持っているか、何時の時代に、どの地に、誰から生まれるか…といったことを自分で決めて生まれてきた人は一人もいません。全て神様が備え、与えて下さったものです。私たちは、神様から授かった、いや、預けられた命を、神様から与えられて生きている、それが私たちの人生であり、神様から預けられたぶどう園である自分の人生において、少しでも良い実を実らせようと努力しているのです。

神様は、主イエスを「隅の親石」として、新しい神の民である教会を築いて下さったのです。主イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは、主イエスが隅の親石である教会の一員とされて、主イエスの十字架の死による罪の赦しと、復活による新しい命に与って生きることができるのです。そのようにして私たちは、私たちに命を与え、人生というぶどう園を整え、与えて下さっている神様との、良い関係に生きる者とされるのです。

私たちがこの譬えから聞き取るべきことは、私たちに命を与え、いろいろな実りを結ぶことができるように人生を整え導いて下さる神様が、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」という驚くべき信頼と、独り子の命をも与えて下さる限りない愛と忍耐とをもって私たちに語りかけ、良い交わりを結ぼうとして下さっている、ということです。この神様の語りかけに耳を開き、応えていくことが私たちの信仰です。その信仰によって私たちは、神様が備え与えて下さったこの人生というぶどう園で、神様の栄光を表す良い実を結んでいくことができるのです。

お祈りを致します。

霊によって生かしてくださる

主日CS合同礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌90番
讃美歌332番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 12章2節 (旧約聖書1,079ページ)

12:2 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。

新約聖書:ルカによる福音書 2章1-7節 (新約聖書102ページ)

8:11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

《説教》『霊によって生かしてくださる』

今日は本来ならば教会学校CSとの合同礼拝です。合同礼拝では教会学校テキストの聖書箇所からお話するので「イエス様の復活」のお話です。

イエス様は、十字架で死なれ墓に葬られましたが、葬られて三日目の朝、ずっとイエス様に従ってきた婦人たちが葬りを完成させるためにご遺体に塗る香料をもって墓に行ってみると亡骸はありませんでした。空になった墓を見た婦人たちも、弟子たちも、最初はイエス様が復活なさったと信じることができませんでした。しかしイエス様は、その信じることのできなかった弟子たちの間に現れ、祝福の言葉を語ってくださったのです。イエス様が十字架で死なれると沢山居た弟子たちはイエス様の弟子であったことを隠して、散り散りになって去って行ってしまい、漁師に戻ったりしました。しかし、復活のイエス様の祝福の言葉を受けた弟子たちは、復活を信じるようになり、力強く宣教伝道に立ち上がりました。自分たちが見捨てたイエス様が、自分たちを祝福するために復活してくださったのです。この喜びこそ、イエス様の復活を信じるということなのです。

イエス様の復活の出来事は、これだけでは終わりませんでした。復活されたイエス様は、弟子たちと四十日のあいだ過ごされたあと、天に上げられました。そして聖霊によって、今も絶えず私たちの間に宿っていてくださるのです。この礼拝での説教を私たちと共に、ここに居てくださって語ってくださっているのです。

復活とはイエス様が史上初めてされたことです、死から甦られて最初に復活されたのはイエス様です。「復活」とは、死から甦ることですが、それは死んでいたのが生き返るといったことではありません。まったく別の新しい霊的な身体に変えられるのです。復活についてお話すると、それだけで説教何回分も掛かってしまいます。復活とは、どんなことなのか、復活そのものについては、ここでは詳しく述べません。

 

本日のローマの信徒への手紙は使徒パウロが書いたものです。パウロがローマの信徒たちに伝えたい福音が凝縮して語られています。「もし……あなたがたの内に宿っているなら」とありますが、パウロはローマの信徒たちの内にキリストの霊が宿っておられることを疑いの余地なく信じているとして、その上で「死ぬはずの体をも生かしてくださるでしよう」というキリスト信仰の根本を語っているのです。

使徒パウロは復活のイエス様に出会う前、ユダヤ教の教えである律法を熱心に厳格に守るファリサイ派としての歩みを続けていました。ファリサイ派の人々は、復活があるということを信じていました。使徒言行録23章にパウロの語った言葉が記されていますが、「わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」とあります。ダマスコ途上で復活のイエス様に出会う前も、パウロは復活ということがあるとは教えられていました。しかしそれはどこか他人ごと、自分とは関係のないことだと思っていたのです。むしろ、復活のイエス様を信じる初代教会の人々を迫害していたのです。

そのパウロに復活のイエス様が声をかけられました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか(使9:4)」との言葉を受けたのです。

このパウロの回心の出来事を知るとき、何よりも大切なのは、パウロは、イエス様の言葉を聞いたときにはじめて自分の罪を認識したということです。それまでパウロは、キリスト教会を迫害することは正しいことだと思っていました。しかしイエス様の言葉を聞いたとき、教会を迫害することは隣人を愛するという律法の教えに反していることに気づいたのです。そして神様を愛するという律法の基本的な教えにも、違反していることに気づいたのです。それは何故かと言えば、パウロが神様の助けを求めずに自分の力で律法を守ろうとしていたからです。律法を守ろうとしても、自分の力で行うなら、神様を必要としてない上に、神様よりも自分の力を信じていることになるからです。

パウロはその時目が見えなくなりましたが、その後ダマスコに導かれ、イエス様の弟子アナニアの主の御名による祈りによって再び見えるようになりました。それは単なる視力の回復というだけでなく、復活のイエス様を信仰の目で見ることができるようになったことを意味しています。

人間はもちろん時が来れば必ず死にます。キリスト教では、人は死んだら、キリストの再臨のときを待って、キリストと共に新しい命に与る、復活すると信じています。パウロがここで語っているのは、この遠い将来に約束されている復活のことなのでしょうか。もちろん、永遠の命のことも含まれてはいると思います。でも、まずパウロがここで語ろうとしているのは、今ここで生きている私たちが、復活のイエス様によって生かされているのだと言う事実です。

この復活のイエス様と共に生きているという喜びは、何よりも礼拝をささげているときに与えられるものなのです。しかし、私たちのささげている礼拝では、イエス様の姿をこの目で見ることはできません。イエス様の話される言葉をこの耳で聞くことができるわけではありません。でも、この説教を通して復活のイエス様を、神様に与えられた「信仰の目」によって見ることができるのです。

少し後の15節には次のように記されています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、私たちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます」とあります。

「私たちは神の子としていただける霊を受けた」と記されています。そしてこの霊を受けた私たちは「アッバ、父よ」と神様を呼ぶことができると約束されています。神様を「アッバ、父よ」と呼ばれたのは、イエス様でした。神様のひとり子であるイエス様が、神様を父と呼ぶことが出来たのです。この「アッバ」という言葉は小さな子どもが父親を呼ぶ言葉で、日本語で言えば「父ちゃん」とか「おとう」といった言葉です。小さな子供が父親を信頼し全てを委ねて抱きついて行くようなときの言葉です。

復活されたイエス様が私たちと共にここに一緒におられるからこそ、私たちは礼拝の中で神様を「アッバ」「お父様」と、喜んで呼びかけることができるのです。礼拝において、喜んで父なる神の御名を呼び求め、熱心に祈るときこそ、私たちは聖霊に満たされ、復活のイエス様と共に生きているのです。復活を信じるとはイエス様を賛美することなのです。

生まれながらのままに生きて来た私たちは、神様を知ることも、自分の罪を認めることもできない人間でした。ですから悔い改めることも、神様の救いの御業を受けていることも、まったく知ることのできませんでした。

今日聖書箇所に、「あなたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」と記されています。私たちは、誰でも、自分の力で生きていると思っています。でも聖書を読んでいて分かってくるのは、私たちが自分で生きているのではなくて、神様に生かされている、ということなのです。

もし神様に生かされているということが分からなければ、私たちは神様の前に死んだことになってしまいます。これは将来のことではありません。今、この時、神様の前に死んでいるか、それとも生かされているか。もし生かされているのであれば、私たちの命は神様の御手の中にあるのです。命が神様の御手にあれば、たとえ死を迎えたとしても神様の前では生き続けるのです。

このように考えてみると、私たちが礼拝をささげているということ自体が、本来なら信じることのできないほどの奇跡なのです。日曜日ごとに礼拝に出席していると、当たり前のようになって礼拝が奇跡であることを忘れているかもしれません。教会はキリストの体です。礼拝こそキリストの体が地上に現わされているときなのです。

礼拝賛美しているとき、私たちは神様に生かされているのです。父なる神様を信じることができるようにしてくださったのは、イエス様です。そしてイエス様が私たちと共にいてくださるとき、私たちは神様を賛美できるのです。

今、こうして礼拝しているとき、復活なさったイエス様は私たちと一緒にいてくださっているのです。

お祈りを致します。

道端の人

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌196番
讃美歌420番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 42章18-19節 (旧約聖書1,129ページ)

42:18 耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。
42:19 わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。

新約聖書:マルコによる福音書 10章46-52節 (新約聖書83ページ)

10:46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
10:47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
10:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
10:49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
10:50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
10:51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
10:52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

《説教》『道端の人』

エリコの町の外れで、盲目の物乞いバルティマイが主イエスに出会いました。エリコはエルサレムへ向かう街道の基点であり、サマリヤを避け、ヨルダン渓谷へ迂回したガリラヤ地方の人々が通る、最後の大きな町でした。この日も、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムへ向かう巡礼たちで混み合っていたことでしょう。盲目の物乞いバルティマイがその町外れにいたのです。

盲目のバルティマイにとって、「エリコからエルサレムへ向かう巡礼者たちの喜び」は無縁なものでした。何故なら、この時代のユダヤ人社会では、身体の障害は神の怒りを受けた罪の結果として考えられていたからです。

ユダヤ人にとって大前提である「幸福は神からの祝福の賜物」とする信仰、それは間違いではありません。しかし、その反面、不幸は神の怒り、罰と考えられてしまい、不運や重い病気、肉体の障害などは、何らかの罪により神の怒りを買った結果とされたのです。

それ故に、道端にうずくまる物乞いは、神の怒りを受けた者と見なされ、「神の御前に出ることが許されない」と諦めざるを得なかったのです。

大勢の人々が神の御前に出る喜びに満たされてエルサレムへの巡礼の道を行くとき、「神に退けられた」と自覚せざるを得なかったバルティマイは、何時も、その道端で、希望に満たされて去って行く人々の足音を羨ましく聞くだけでした。

バルティマイは、眼が見えないという障害によって、いわれなき差別を受け、「祝福の外に置かれた」と思い込んでいたのです。私たちもまた、信仰を得て救われる以前は、肉体の眼の不自由さに囚われたバルティマイ同様、思い込みの中に置かれ、見るべきものを正しく見極めることが出来なかったのではないでしょうか。

神を正しく見ることをしない人間。キリストの愛に気づかない人間は、自分の前に開かれている道が「神の国への道」であり、それが、「自分の行くべき道である」と見ることができないのです。

バルティマイは物乞いでありました。分かり易く言えば乞食です。彼は、まともな人間として生きていく希望すら失われ、働くことも出来ず、一日中、人々の憐れみを求めてうずくまる「道端の人」として過ごすだけでした。

エリコの町の外れ、路傍に座るバルティマイ。「道端の人」として過ごすものと諦めているバルティマイ。そこに、救いを願いつつ無為の時を過ごす人間の悲しさを見ることができます。

バルティマイの耳には、大勢の人々が喜びつつ神の都へ向かう巡礼の足音に混じって、その先頭に立つのがナザレのイエスであることを聞いたのです。その瞬間、彼は主イエスを「ダビデの子」と大声で呼び、憐れみを求めて叫びを上げました。

「ダビデの子」とは、伝統的に「救い主」という意味です。しかし、このマルコ福音書においては、主イエスに従う者の誰もが口にしなかった思い切った呼び名でした。弟子たちの誰もがこれまで口にしなかった「ダビデの子・救い主」という言葉を、この時、バルティマイは叫んだのです。

勿論、彼は深い意味で「救い主」と告白したわけではありません。罪とか贖いなどという信仰の深みを理解していたとは到底思えません。「救い」という言葉も、その場の苦しみからの脱出という程度だったと言えましょう。

それは、彼が自分の姿をよく知っていたからです。自分を物乞いであると自覚していたからです。物乞いをし、憐れみを求めて生きる惨めさを身にしみて感じていたからでしょう。逆に、自分の惨めさ、恥ずかしさに気付かない人は、決してこのように主イエスを求めることはない、とも言えるかもしれません。現在の生活に何とか満足している人は、必死に主イエスを求めることはありません。

バルティマイが主イエスを呼び求めて叫んだとき周囲の人々は、彼を叱って黙らせようとしました。それは彼らにとって、バルティマイのような者は仲間に数えられるべき者ではなく、相手にすべきではないと思っていたからにほかなりません。彼は、当時の人々からは、まともな人間扱いされない者でした。ですから、ナザレの主イエスから声をかけて貰うことなど、有り得ないと思われていた筈です。

誰も自分の声を聞いてくれない。誰も自分を慰めてはくれない。誰もこの惨めな状態から救い出してくれない。「ナザレのイエス以外に望みを託す方はいない」と考えたのでしょう。それがこのときのバルティマイの叫びでした。

 

主イエス・キリストを求める者には、「この切実さがなければならない」と言うべきでしょう。主イエス・キリストこそが望みを託せる唯一の方であり、「この方を見過ごしてしまっては取り返しのつかないことになる」というバルティマイの追い詰められた必死の思いでした。

また、この「ダビデの子」という称号は、「ユダヤ人の王としてのメシア」を表す言葉でもあり、この時代のローマ帝国の支配下にあっては、ユダヤ民族主義を表す危険な表現でもありました。後に、ゴルゴタの丘で十字架に架けられた主イエスの罪状に「ユダヤ人の王」と書かれたことは良く知られています。その危険な言葉を大声で叫ぶバルティマイを人々は慌てて黙らせようとした、と見ることも出来るでしょう。

主イエス・キリストは、彼の必死に叫び求める声に足を止められたのです。その叫びは、御自身がローマ帝国への叛旗と思われ立場を悪くするようなものであったにも拘らず、彼の「告白」を「よし」とされました。52節で「あなたの信仰があなたを救った」と言われているのは、この意味が含まれていると考えるべきでしょう。

49節で主イエスは、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。これを「キリストからの呼び出し」と言います。「救い」とは、この「呼び出し」の御言葉から始まるのです。そして、人々はバルティマイを呼んで、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、ありますが、ここは直訳すれば「喜べ、立て、彼が、お前を呼んでいる」という言葉です。

人々は、バルティマイに、先ず、「喜べ」と告げました。「キリストの呼び出し」は「喜びの時」なのです。そしてその喜びは、「立ち上がる時の告知」なのです。

何時までも自分の場所に固執して、これまでの生き方を頑固に守り続けて行こうとするのではなく、新しい生き方を始める時なのです。神の国へ向かう人々をただ見送るだけのバルティマイの人生が、自分もその道を行く仲間に加わった時に変わったのです。50節に彼は「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」とあります。

これこそが救われる人間の姿ではないでしょうか。「上着を捨てた」とは何を表しているでしようか。

バルティマイは乞食でした。路傍で憐れみを求める乞食にとって、「上着」とは全財産のことです。家も持たない乞食は、常にありったけのものを身に着けています。特に長い上着は、寒さを防ぐための必需品であり、寝るときには貴重な布団でもあります。どんなに汚れようとも、決して捨てることのないものです。

それをバルティマイは「捨てた」というのです。最も大事なものを「捨てた」のです。これは彼にとって決定的な変化であり、大きな決断でした。主イエスに呼び出された時、「主に呼び出された」というそのことだけで、バルティマイは「生きる不安を捨てた」とも言えるでしょう。これこそがまさに、過去の生き方の全てと訣別し、「道端の人」から「共に道を行く人」への転換を鮮烈に現しているのです。

51節で主イエスは、彼に「何をしてほしいのか」と言われました。彼は、「目が見えるようになりたいのです」と言いました。バルティマイの求めを知りながら、主イエスは尋ねたのです。必死に呼びかけ求める者の苦しみを御存知ない筈はありません。知っていながら、あえて尋ねているのです。呼び出された者は、御前で告白することが必要なのです。

パウロはローマの信徒への手紙10章10節で、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と記しています。救いを求める願いは、常に繰り返し、主の御前に差し出されなければなりません。バルティマイは正直に、自分の最も切実な問題、直面している苦しみを差し出し訴えました。

バルティマイの願いは、ただ一つ盲目からの解放でした。それ以上のことを考えてはいなかったでしょう。しかし、盲目のバルティマイを見詰められた主イエスの眼差しは、それ以上のものを見ていたのです。

52節で主イエスは、彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。何が彼の「信仰」であったのでしようか。

ここで言われた「信仰」とは、キリストの御前で相応しい姿を示すことと言えましょう。更に「なお道を進まれるイエスに従った」と記されていますが、これは「直ちにイエスに従った」と読めます。主イエス・キリストの御言葉によって、真実に価値あるものに眼が開かれた人間は、まさに、その時から、共にその道を行くのです。

これは、バルティマイが肉体的に視力を回復したに留まらず、魂の救済に至ったことを現わしています。この変化は、「主イエスの呼び出し」から始まっているのです。大切にしていた上着を脱ぎ捨て、主イエス・キリストに従ったバルティマイ、これこそが、私たちの目指す救われた者の姿です。私たちは、望みを失った「道端の人」ではないのです。

御子イエス・キリストは、共に歩むようにと、私たちを呼び出されたのです。真実の喜びが待つ永遠の世界、天のエルサレム、神の国への道は、「呼びかけられ、呼び出された私たち」のために用意されているのです。

愛するご家族共々、この豊かな「救い」の中を歩んで参りましょう。

お祈りを致します。

主に導かれて

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌2番
讃美歌243番
讃美歌520番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 51章22節 (旧約聖書1,148ページ)

51:22 あなたの主なる神/御自分の民の訴えを取り上げられる主は/こう言われる。見よ、よろめかす杯をあなたの手から取り去ろう。わたしの憤りの大杯を/あなたは再び飲むことはない。

新約聖書:マルコによる福音書 10章35-45節 (新約聖書82ページ)

◆ヤコブとヨハネの願い

10:35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
10:36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
10:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
10:39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
10:40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
10:41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

《説教》『主に導かれて』

今日の聖書箇所も主イエスが弟子たちの先頭に決然と立って、エルサレムへの旅、十字架の待つ旅の途上での出来事です。場所は明らかではありませんが、次回お話する46節ではエリコに着いていますので、ヨルダン渓谷の東側、ペレアの地方を南へ下っている頃と思われます。その道すがら、弟子たちの中心をなしているゼベダイの子ヤコブとヨハネが、主イエスに自分たちの心の中にあることを伝えたのです。

人が「共に生きる」とは、相手のことを考え、相手の心を想うということが大切です。自分と共に生きる人が、何を目指しているのか、また自分が何を求められているのか、それを考え、相手に対する配慮をもって接するのが「共に生きる」ということです。自分の要求のみ、自分の期待のみを優先させ、相手が自分に合わせてくれることだけを要求するならば、それはもはや、「共に生きる姿」ではありません。

キリスト者の人生は「キリストと共に生きる」ことです。共に歩むキリストが「何を見詰めておられるのか」を考えず、自分の一方的な思い込み、勝手な期待だけを押し付けて行くならば、人生の大切な時に、主と訣別しなければならないということも起こるのです。かつては主と共に生きる道を選びながら、何時の間にか主から離れ一人で生きるようになってしまった多くの人々を思い起こすとき、「主と共に歩む」ことの難しさを知らされます。

私たちが常に志すべきことは、「キリストと共に生きる」ということです。神の国を目指して世の旅路を歩むとき、それは、私たちが一人の人間として、自分の責任で「自分の人生を引き受ける」ということではなく、「共に歩まれるキリスト」にすべてをお委ねし、キリスト・イエスの御心に適う「生き方」をしなければなりません。

自分の人生を、「キリストと共に生きる」という絶対条件で考える時、人生の目的はもとより、私たちのあらゆる判断・努力も、また、決して自分ひとりの心から出るものではないことを、自覚するということです。

ヤコブとヨハネが主イエスに願ったのは「神の国における栄光」でした。この願いを持ったのは、この二人だけではなく、他の弟子たちも同じでした。他の十人の弟子たちは、41節にあるように自分たちが出し抜かれたと思って怒ったのでしょう。

この旅の目的について、45節で主イエスは「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と言っておられます。

主イエスは、「私の命を献げるためだ」と言われ、「そのためにこの旅を行くのだ」とはっきりと言明されました。主なる神に対する反逆の罪を、身代わりとなって負うことを決心されてのことでした。罪の代償としての刑罰、十字架に架けられる決意を明らかにされました。この御言葉は「キリストと共に生きる者のすべてを決定している」と言わなければなりません。

キリスト者の生命は、贖われた生命です。神の御子の犠牲によって罪の下から救い出された新しい価値を持つものとして、私たちは生きています。キリストの愛は、私たちのすべての思いに先立ち、キリストの御業は、私たちのあらゆる行為に先立っているのです。

弟子たちは、主イエスがもたらすものが「栄光の国」であると信じていました。現在の苦しい旅も、やがて実現する喜びの日のためであると考えていたのです。彼らは、その日に栄光ある地位に就くことを期待していたのです。

神の国における栄光を求めるということ自体は、間違いではないどころか、求めなければならないことです。キリストに従う者は、この世における栄光ではなく、「神の国」での栄光と誉れを求める者でなければなりません。「天に宝を積む」とはこのことなのです。

弟子たちが主イエスにお願いしたこと自体が間違っていたのではありません。お願いをした彼らの心の中に、「大切な何かが欠けていた」ことが問題なのです。それは、自分自身の罪の認識の欠如であり、罪の自覚がないゆえの「恐れ」の欠如でした。

この旅の目的地エルサレムで主イエスと共に二人の犯罪者が十字架に架けられ、一人は主イエスを罵りましたが、もう一人の男は「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったとルカ福音書23章にあります。この恐れおののきつつ憐れみを求める犯罪人の姿に対して、栄光を求める弟子たちの姿には、なんと隔たりがあることでしょう。自分が罪の中にあることを自覚するならば、神の国における栄光を当然の権利として要求することは、誰にも出来ない筈です。主イエスは、その弟子たちに「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と言われたのです。

38節にある「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか。」とは、弟子たちへの問い掛けであると共に、主イエス御自身の強い決意を示すものです。

「わたしの杯」とは、父なる神より与えられた使命のことであり、「わたしのバプテスマ」とは、ここでは文字通りの洗礼という意味ではなく、ご自分の使命達成のために受けなければならない「苦難」のことです。主イエスは、「わたしはその使命を受けた」と言われ、「わたしはその苦しみを受ける」と言われているのです。

そしてそのみ言葉に続いて、「あなたがたもそれを受けることが出来るか」と、責任ある人間としての生き方を、ここに改めて問われているのです。私たちの生涯の道も、今、主イエスのこの問い掛けに「如何に応えるか」ということにかかっていると言うべきでしょう。

弟子たちは「できます」と明確に答えました。この言葉は、本質を悟らぬ軽はずみなものであったと言うことも出来るでしょう。深く考えず、勢いで答えてしまったと思われます。

しかしそれでもなお、主イエスはその無知な答えを受け入れて下さっており、彼らを退けることなく、「あなたがたはわたしの道を辿るであろう」とおっしゃって下さったのです。

主イエスの十字架の後、ゼベダイの子ヤコブは、使徒の中の最初の殉教者としてヘロデ・アグリッパに剣で殺され、ペトロはローマで逆さ十字架に付けられました。アンデレはギリシアでX字型の十字架で処刑され、マタイは火刑にされ、フィリポは逆さ吊りで殺されたと伝えられています。

弟子たちの運命は、確かに、主イエスが言われた通りでした。しかしそれは、彼らが「出来ます」と答えた結果ではなく、彼らの無知にも拘らず、主イエスが彼らをその道へ導いて下さったからなのです。

主イエスが、39節で「あなたがたは飲み、受けることになる」と言われたのは、単なる将来の漠然とした可能性を意味するものではなく、「必ずそうなる」という主イエス御自身の強い意志をそこに見るべきです。それは、「お前たちを苦難へ導く」という破滅への預言ではなく、神の国への道を「決して踏み外させない」という深い顧みによる「保護と導き」と言うべきものです。

私たちは、自分の意志で歩むとき、行くべき道を誤りますが、キリストの意志が私たちを正しい道に導き、私たちの願いを永遠の御計画の中で実現して下さることを、弟子たちのこの後の生涯から学ぶことが出来るでしょう。

41節からヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた他の十人の弟子たちに、主イエスは「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と言われました。恐らく、弟子たちは、口々に自分たちの決心を明らかにしたのだと思われます。その言葉を聞いた主イエスが、「偉くなりたい」「一番上に立ちたい」という弟子たちの願いそのものを「決して否定してはおられない」ということは、まさに注目すべき点でしょう。

「キリストの右に座りたい」という願いは、決して間違いではないのです。文語訳聖書では、「いちばん上」というところを、「かしら」と訳しています。ですから、むしろ私たちは、この主の御言葉を、「偉くなれ、かしらとなれ」という「勧め」として聞くべきです。キリストに従う者は、一生懸命に無我夢中で働くのです。休むことなく、倦むことなく、神の喜ばれることを目指し走り続けるのです。その結果は、神の国で用意されているまったく新しい永遠に価値ある冠を手にすることになるでしょう。

確かに主イエスは「仕える者になれ」と言われ、「僕(しもべ)になれ」と言われました。この「僕」(ドゥーロス)とは「奴隷」という意味です。奴隷は主人の心のままに生きるのであり、主人の言葉が、その人の生涯を形作ります。

神に仕え、キリスト・イエスの僕となることこそ、偉くなり、かしらとなる道なのです。

キリスト・イエスは、私たちを神の国の末席に繋ぎ止めるために十字架に架けられたのではなく、御自身と共に、栄光を受けさせるために、私たちの罪の身代わりになられたのです。

この主の御心を想い、人生の旅路を共に歩んで下さるキリスト・イエスに感謝しつつ、信仰者としての生涯を共々に全うしようではありませんか。お祈りを致します。

信仰の勇者

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌124番
讃美歌352番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 50章6節 (旧約聖書1,145ページ)

50:6 打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。

新約聖書:マルコによる福音書 10章32-34節 (新約聖書82ページ)

10:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
10:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
10:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

《説教》『信仰の勇者』

2022年、明けましておめでとうございます。新型コロナ感染症の世界的流行の煽りで主日礼拝を自粛し、共に集まることが出来なくなり、Youtubeライブ配信など普段とは違った形で礼拝に参加して頂くことの多かった2020年と2021年でしたが、新型コロナ感染症も新しくオミクロン株の世界的再流行が懸念されているも、日本では現在感染流行は下火となって、皆様と共にやっと迎えることが出来た初めてのお正月となりました。

2020年10月第1週から、連続してご一緒に読んできたマルコによる福音書連続講解も本日で49回目で、余すところ30回ほどで、いよいよ主イエスの十字架への道を迎え、終盤の核心部へ入って来ました。

主イエスと弟子たちは十字架の待つエルサレムへの途上にありました。ユダヤ人にとって最も重要な過ぎ越しの祭が間近に迫っており、国中の人々だけではなく、世界中に散らばっていたユダヤの人々も、「自分がイスラエルの一員である」という自覚を新たにするために、続々とエルサレムへ向かっている時でした。

主イエスの弟子たちのなかにも、「過ぎ越しの祭のための巡礼」と思っていた者がいたことでしょう。その一行の先頭に主イエスが立っておられました。しかし、聖書は、弟子たちがこの時「驚き、恐れた」と記しています。何が「驚くべきこと」であり、何を「恐れた」のでしょうか。今歩んでいるこの旅が、普通の巡礼と違っていることを、彼らは何故、感じたのでしょうか。今朝、先ず私たちが注目しなければならないのはこのことです。

エルサレムへの道を辿るイエスの御姿を仰ぐ時、その旅を共にし、同じ道を行く人々の中に自分を置いて、そこで何が起こるのかをしっかりと見極めなければなりません。聖書は「イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」(32節)と記しているからです。

私たちもまた、主イエスに従ってこの世の旅路を歩いている者であり、先立たれる主イエスに、何処までも付き従うことを告白している者です。地上のエルサレムへ向かった弟子たちのように、今、私たちは天のエルサレムへの旅を、主と共に歩んでいます。その旅の途上で、私たちは、どのように主イエスを見つめているのでしょうか。あの時、弟子たちが感じた「驚きと恐れ」、それが、今、私たちの心にあるでしょうか。

私たちは聖書を読み続けていると、何時の間にか、主イエスの御姿が頭の中にイメージされます。キリスト者は誰でも、「私のイエス像」と呼ぶべきものを自分の心の中に持っている者なのです。

その「私のイエス像」に、ひとつの修正を加える必要があることを、今日、教えられるのです。

聖書時代の人々のエルサレム巡礼は、楽しい旅であったようです。家族全員の旅であり、親しい家族とグループを作り、先頭に立つ者が詩編の一節を唱えると、後に続く者がその詩を続けて唱えて行きます。人々は詩編を歌い、神の祝福を全身に受け止めながら、旅を続けて行きました。

そのような巡礼者の群れの中で、主イエスに従う者だけが、このとき「恐れ」を感じていたということは、主イエスと共に行く旅が他の人々と違って、決して楽しいとは言い難い旅であったことを告げているのです。

勿論、この時の弟子たちは、まだ主イエスが目指されていることを全く理解していませんでした。しかし、弟子たちが何も分からなかったにも拘わらず、人間がいつか忘れてしまったものを、主イエスはひとりで引き受け、ひとりで担おうとされているのです。「それを見て」と聖書が記している内容は明らかではありませんが、その毅然とした決断の御姿が弟子たちを驚かせ、恐れさせたのでしょう。

私たちはこの時の弟子たちと違って、既に、知識として主イエス・キリストの十字架と復活を教えられています。十字架と復活がもたらす永遠の生命を、キリストからの賜物として約束されています。

しかし、このような福音を知らされてはいても、なお、自分の信仰の確かさを求めるためには、エルサレムへ向かう主イエスの傍らに、私たちは何時も立ち戻らなければならないのです。

御子イエスが示された恐ろしいまでの決断の強さは、それ故に、私たちを捕らえる罪の力の強さを示して余りあるものと言えます。

十字架が待っているエルサレムへ先立って進まれる主イエスの姿を、神の御子のこの世におけるすべての行動の原因に私たち自身がなっていることを、「恐れ」をもって自覚しなければならないのです。

33節で初めて主イエスご自身が「エルサレムへ行く」という言葉を語られました。具体的な地名が明確に示されました。主イエスが目指すエルサレムは、人々が巡礼に行く楽しいエルサレムではなく、十字架が待つ受難のエルサレムです。エルサレムを目指す人々と、意味も目的もまったく違うエルサレムが見えて来ました。旅の目的地、そこにおける結末、それを主イエスは明らかに告げられたのです。この時、イエスが「弟子たちを恐れさせた」のは、受難のエルサレムを見つめる決断の厳しさであったでしょう。

それ故に、この御言葉は、御自分が果たすべく定められている使命の確認であり、同時に、すべての者へ向けてのメシアとしての宣言なのでした。

今、主イエスは、驚き恐れる弟子たちに対し、御自分の受ける苦しみをはっきりと告げられました。この予告は、8章31節、9章31節に続いて三回目です。私たちは、この三回にわたって繰り返された予告を、何と聴くべきなのでしょうか。

形式的には、御自身の身にこれから起ころうとしていることであり、弟子たちがそれを悟らなかったので三度も繰り返されたと見ることは可能でしょう。物分りの悪い弟子たちへの配慮ということになるでしよう。しかし、それだけなら、私たちは既に「そのいきさつ」をよく知っています。

それでは、私たちに「驚き」は無関係なのでしょうか。三度が一度でも十分だったと言えるのでしょうか。

現在の私たちに対し、この「三度の予告」は、単なる「無知な者への告知」という以上の「何かを意味している」のではないでしょうか。

福音書には主イエスが三度繰り返す場面が何度も出てきます。ヨハネ福音書は21章15節以下に十字架に死んで復活された主イエスによる、ペトロに対する三度の問い掛けを記しています。

十字架の死と復活という想像を絶する出来事に直面して、混乱の只中にあるペトロに対し、甦りのキリストは、「三度」にわたって「わたしを愛しているか」と問い質しました。人間の愛は常にキリストの愛によって触発されるものであり、キリストへの応答であるのです。主イエスが「三度」にわたって愛の応答を求めたということは、ペトロに対する不信感の現れではなく、主イエスの方から「三度にわたって愛の宣言がなされた」のです。「三度」とは、単なる繰り返しではなく、人間の救済への御心の深さとして受け止めるべきなのです。

さらに大切なことは、エルサレムへの旅の途上で主イエスが語られたことは、「受難の予告」と言われていますが、苦しみの予告を繰り返しておらるのではなく、甦りの予告をされているのです。主イエスは十字架の苦しみで終わらず、甦りを明らかに語られています。主イエスが繰り返し語っていることは、復活に至る父なる神の御心でした。「受難の予告」と呼ばれていても、「苦しみの予告」というだけのことではなく、甦りによって完成される「神の愛」が示されているのです。

私たちの魂への神の配慮・愛の顧みが、十字架と復活への道を実現させたのであり、それ故に、十字架と復活の予告は、未来に起こる出来事を「あらかじめ知らせた」というものではなく、父なる神が「如何に私たちを愛されているか」ということを、繰り返し告げる愛の宣言なのです。

それ故に、本日朗読された33節以下の御言葉は、私たちの救いのために、「これほどの痛みがあってもなお厭わぬ」という神の御子の覚悟です。

主は、かくも私たちを愛されました。私たちは、神の独り子が、御自身の生命と引き換えにすべての愛を注ぎ込んで誕生させた「新しい人間」なのです。そして愛された私たちは、その愛に応えることによって、初めて一人前の人間になり得ると言えます。

主イエス・キリストは、三度にわたって「わたしはこれほどまでにあなたがたを愛しているのだ」と語られました。その徹底した愛の顧みの中に私たちは置かれているのであり、私たちを掴んで離さないキリストの愛が、永遠の御国へ導いて下さるのです。

この御心に包まれた生涯の道を、共に救われた喜びをもってご一緒に歩み続けようではありませんか!

お祈りを致します。