聖霊が降る

ペンテコステ礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌181番
讃美歌183番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨエル書 3章1-5節 (旧約聖書1,425ページ)

◆神の霊の降臨
3:1 その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。
3:2 その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
3:3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。
3:4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。
3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

新約聖書:使徒言行録 2章1~13節 (新約聖書214ページ)

◆聖霊が降る
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

《説教》『聖霊が降る』

「五旬祭の日が来た」と本日の物語は始まっています。この祭りは、旧約時代に守られていた「七週の祭」に由来するもので、元来、小麦の収穫を祝う日でした。申命記やレビ記の定めによれば、過越祭の安息日が終わり大麦に鎌を入れ収穫し始めました。過越しの日から七週後、即ち、五十日目に小麦の収穫が始まり初物を神に献げる「七週」「50日」後に当たります。更にこの日は、「過越の閉じる日」とも呼ばれ、過越祭に始まる一連の春の行事の終わりの日とされ、すべての仕事を休み神殿に集まる大切な日でありました。この祭が、過越から数えて五十日目にあたることから、「五旬節」とも呼ばれ、そのギリシア語がペンテコーストス「50番目の日」なのです。ですから、ペンテコステは、穀物の収穫を祝う日であり、本来、それ以上の何ものでもありませんでした。
「五旬祭の日が来た」。私たちが、先ず注目するのは、この「来た」と訳されている言葉であります。この言葉は「満たす」という意味の言葉を強めたものであり、「時が満ちた」「いよいよその時が来た」という内容を持っています。
「時が満ちる」とは、重要な出来事、予告されていた事柄の実現の近いことを意味します。ですから、ただ「過越祭から五十日が経過した」ということではなく、「ペンテコステの日に満ちる時」とは何か、「満ちる時そのもの」に眼を向けなければなりません。そして、「満ちる時」を理解するためには、当然、それに先立つ「約束」を思い返さなければなりません。
主イエスが十字架に向かわれる前に弟子たちに約束していたことを思い出してください。新約聖書200ページ、ヨハネによる福音書16章12節から14節に「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」とあります。主イエスはご自身がこの世から去られた後に、聖霊を送られることを繰り返してお約束になったとヨハネ福音書は記しています。残された弟子たちの苦難を予告されると共に、その苦しみが喜びに変わる日のことを、はっきりと告げられました。「真理の霊」をこの世に送り、その聖霊なる神こそ、私たちの「助け主」であり、「すべてを父なる神の御計画に従って整える」ということを、主イエスは約束されました。
もちろん、十字架前夜の弟子たちには、その御言葉の意味が分からなかったでしょう。しかしながら、主の御言葉が謎に満ちていたにせよ、「来るべき日には、何かが起こる」ということは、弟子たちも感じ取っていたのです。
そのあとに続いた十字架と復活を巡って、明らかとなった弟子たちの惨めな姿、裏切りと挫折、混乱と絶望。それらを通して、主イエスは、新しい御業へと弟子たちの眼を向けさせて、「来るべきその日」に対する信仰の姿勢を整えさせたのです。
本日の使徒言行録2章1節から3節に、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。
これが、この世に教会が初めて誕生した時でした。いったい、何が起こったのでしょうか。
1章12節以下によれば、すでに使徒と呼ばれた弟子たちや主イエスの家族を含めた主イエスに従って来た人々120人程が皆、「心を合わせて熱心に祈っていた」のです。彼らには祈ることしかありませんでした。祈る以外、なすべきことがなかったと言ってもよいでしょう。父なる神の御許に帰って行かれた主イエスの御言葉に彼らはすべてを委ねるようになっていたからです。彼らは、「この時」を待っていたのです。神の力が与えられ、為すべきことが教えられる「時」を、ひたすらに待っていました。それ故に、この2節の「突然」という言葉が、言いようもない「喜びへの招き」として響いて来るのです。
私たちは、聖書の御言葉を読むとき、ときとして、理解できない出来事にぶつかります。神の御心は、「理解できないことがあまりにも多すぎる」ということは事実です。それは、神の知恵によるものであり、私たちとは比べものにならない深い御心から出ているからです。それ故に、理解できない、不合理であると言って御言葉を退けるならば、一番大切なものを失ってしまうことにもなります。「不合理なるが故に信ず」という古典的な告白は、キリスト者すべてに共通なものと言えるでしょう。信仰とは、理解できないことを信頼することなのです。主イエス・キリストが父なる神の御心を受けてすべてを良いようにしてくださる。私たちは、その時を待つことに最大の努力をすべきです。
「激しい風が吹いて来るような音」。「炎のような舌」。すべては「~のような」という表現であり、その時の光景を、直接的・具体的に語ってはいないことに注目すべきです。それは、「風」ではなく「炎」でもなく、「舌」でもありません。何ひとつはっきりと示されてはいないのです。
「天から聞こえた音」とは、「風の激しさ」を表現するものです。眼に見えぬ「風の激しさ」は、「音の大きさ」でしか表現することはできません。それでは、これほどの激しさで迫って来る「風」とは何であったでしょうか。「風:プノエー」とは、「息」という意味です。ここで語られている「風」とは、自然現象である「空気の流れ」ではなく、「神の息」のことなのです。
神の驚くべき力を秘めた聖霊に、突然満たされた人間の驚き、それは、あたかも全世界に響き渡るような強烈な体験でした。彼らは、頭の中で「聖霊に満たされた」と考えたのではありません。そう「思い込んだ」のでもありません。人間の思いのすべてを遥かに超える「神の力」に包み込まれてしまったのです。
それ故に、生命と力とに満ちた聖霊なる神を、「風と炎のような舌」という想像を絶するような表現で語る以外に方法を知らなかったと言うべきでしょう。
4節には、「すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」とあります。
これこそが聖霊なる神が降られた目的であり、新しく造られた教会の姿です。彼らは語り始めたのです。どこの国の言葉で語ったのか、何ヶ国語であったのかを考えることは意味のないことです。ペンテコステの日に起こったことは、語学の天才の誕生ではなく、「教会の誕生」です。それ故に、教会とはどのようなものであるかを考えることが何よりも大切なのです。
私たちの教会は、「すべての人間を救う」という神の永遠の御計画の中で、欠くことの出来ないものとして新しく造られ、今、このように存在しています。教会は、復活のキリストが、御自身世にとどまって親しく導かれること以上の大きな働きをするためのものとして、特別に与えられたものなのです。
「神の時」が新しく教会を生まれさせ、罪の中に生きて来た誰もが予想すら出来なかったにもかかわらず、恩寵の賜物として新しく建てられたのが「聖霊の宮なる教会」なのです。聖霊の宮である「教会」に生きる喜びに満たされること、それこそが、主が約束して下さった「来るべきその日」のキリスト者の姿なのです。
先ず、ここで注意しなければならないことは、ここに集まっている人々は、「すべてユダヤ人である」ということです。それが5節の指摘することでした。また、9節以下の一覧表は、「各国の人々」という意味ではなく、「それぞれの地方から帰って来た人々」ということであり、これも「ペンテコステのために海外から帰って来たユダヤ人」と理解すれば十分でしょう。この帰って来たユダヤ人とは、紀元前597年のバビロン捕囚に始まったユダヤの地から離れていったユダヤ人で、エジプト、小アジヤ、ローマ等に広く離散して、新約時代のアレキサンドリアには100万人以上も居ました。これをディアスポラ「離散」のユダヤ人と言います。現代的に言えば、それらの人々が祭りのために故郷に帰省したということです。
4節の「ほかの国々の言葉」という表現は、何を表しているのでしょうか。ある人々は「離散したユダヤ人の各国の言語による証しだ」と説明しています。それにしては、人々が7節にあるように「驚き怪しんだ」り、13節の「驚き、とまどった」のは何故でしょうか。11節の「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞いた」という驚きと、13節の「新しいぶどう酒に酔っているのだ」という嘲りは、同時には理解できません。加えて、この場にいた多くの人々の悔い改めは、14節から始まるペトロの説教を聴いた後に初めて起こって来たのです。人々の悔い改めは37節の「わたしたちはどうしたらよいのですか」という正しい反応へ導いたのはペトロの説教でした。ここでの、「とまどいと嘲り」しか引き起こさなかった「証し」とは、いったい何であったのでしょう。
これも2節以下と同じく、聖霊の御業を語る「信仰的表現」と考えることができます。即ち、5節以下は、4節の表現方法なのです。聖霊降臨を語る聖書は、その実態を明らかに語る表現方法を持ちませんでした。それと同じく、そこで始まった聖霊の御業も、このように表現するしかなかったのです。
4節の「ほかの国々の言葉」と訳されている「言葉」には、「恍惚状態」という意味もあるので、正しくは、「異なる言語」ではなく「異なる言(ことば)」、あの「言(げん)」と一字で書いて「言:ことば」と訳すべきだとも言われています(岩波訳、岩隈訳、永井訳)。神の霊によって導かれる者は、自分の知恵・自分の思いではなく、神の知恵によって語り、「自分の想いを遥かに超える事柄を語る」ということです。そもそも福音とは、そういう要素を持つものなのです。
「このとき語られたのは何ヶ国語か」ということではなく、聖霊なる神によって、「教会は、今や、全く新しいことを始めたのだ」ということを告げているのです。告げられたれた内容が大切なのです。まさに、ヨハネ福音書1章1節で語られているように、「言(げん)」一字で「ことば」と呼ばせた「ロゴス」が示されたのです。
ヨハネ福音書14章27節で主イエスは、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教える」と言われ、また今日の聖書箇所使徒言行録1章8節では、「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」とも言われました。その約束された「力」こそ「言」と漢字一字で書いた「ことば・ロゴス」なのです。神の力は、「ことば・ロゴス」となって人々の心の中に深く送り込まれるのです。それは、人間の業ではなく、人間の才能によるものでもありません。それは、神の業であり、神の力なのです。
9節から11節に記されている地名の一覧表も、単純に、表面的に見るのではなく、信仰の知恵によって、まったく別な意味で理解することが出来るでしょう。この地名は、厳密に語られているのではなく、言わば、代表として挙げられているのです。ユダヤを中心としてみると東方の4地域、北方の5地域、それに南方の2地域の11の地域であり、これにローマを加えれば十二です。十二は、民族を表す完全数であり、「全世界を表す」と考えられます。「西」がないと言われるかもしれませんが、ユダヤの西は地中海です。そこで、「この地名表をもって全世界を表す」という解釈が生じて来るのです。さらに、海の民の代表としてのクレタ、砂漠の民の代表としてアラビアを加えて完全さに念を入れたと考えられます。
「ユダヤが出発地であり、ローマが目的地である全世界を表す」と解釈することが出来ます。そのすべての人々が「今や福音を聞く時が来た」という宣言です。
13節の「新しいぶどう酒に酔っている」は、「安物の酒で悪酔いしているような、わけのわからない妄言」「理解できないことば」としか、この世の人々には受け止められなかったことが示されています。それだけに、聖霊の導きのもとに行われた教会の出発は、「全く新しいことであった」と言われるのです。
神の御業の先頭を走るべく建てられた教会が、世の人々から受ける反応も、このときの人々の反応と似ていると言えます。「福音をすべての人々へ」。「すべての人々に対する神の国への招き」。どこの国ではなく、どこの地域でもなく、すべての人々への招きを教会は語り始めました。
教会は、神の御心を実現するために誕生し、教会に集まる人は、神の御心に仕えるのです。
周囲の人々からのいかなる嘲りや無視、妨害さえも、世界は神の御心の下にあって、神の御業の働く場であり、御心は、「この世界に生きるすべての人間の救いである」という福音を、教会は語り続けるのです。
4節によれば、語り出したのは「聖霊に満たされた全員」でありました。「誰が」というのではなく、「一同」が「一斉に」語り出したのです。それが聖霊の御業です。聖霊に満たされた者は、語らずにはいられないのです。
これこそが、私たちのこの教会に与えられた聖霊の働きなのです。
お祈りを致しましょう。

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神の国

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌195番
讃美歌502番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨエル書 4章13-15節 (旧約聖書1,426ページ)

4:13 鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した。来て踏みつぶせ/酒ぶねは満ち、搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい。
4:14 裁きの谷には、おびただしい群衆がいる。主の日が裁きの谷に近づく。
4:15 太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。

新約聖書:マルコによる福音書 4章26-34節 (新約聖書68ページ)

◆「成長する種」のたとえ

4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

◆「からし種」のたとえ

4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

◆たとえを用いて語る

4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

《説教》『神の国』

マルコによる福音書を連続して、ご一緒に読んで来ました。本日は4章26節以下をご一緒に読むのですが、ここには、主イエスがお語りになった二つの譬え話が記されています。小見出しの表現で言えば、「成長する種」の譬えと、「からし種」の譬えです。そしてこれらが、4章の始めから語られてきた一連の譬え話の締めくくりとなっています。主イエスはこのような譬え話を用いて人々に教えを語られたのでした。主イエスの語られた教えは、守るべき戒律や宗教的な教訓話ではありませんでした。主イエスは「神の国」を告げ広めておられたのでした。「神の国」とは、神様のご支配ということです。神様の独り子である主イエスがこの世に来られたことによって、神様のご支配が実現しようとしている、その神の国について主イエスは譬え話によってお語りになったのです。本日の箇所の二つの譬え話にはそのことがはっきりと示されています。「成長する種」の譬えは「神の国は次のようなものである」と語り始められています。「からし種」の譬えも、「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」と始まっています。私たちがこれらの譬え話から読み取るべきことは、主イエスによって実現する神の国のことなのです。

しかし、ここに示されているのは、「神の国とはこのような素晴らしい所だ」といった話ではありません。神の国ってどんな所だろうか、という興味でこれらの譬え話を読んでも、肩すかしです。私たちは「神の国」を、死んだら行くであろう「天国」と重ね合わせて理解してしまうことがあるかもしれません。死んだ後行く天国とはどんなところだろうか、それを知ろうとしてこの話を読んでも、まったく満足な答えは得られません。主イエスはそういうことを語ってはおられないからです。主イエスは「神の国」を、そういう素晴らしい所があるから、あなたがたもそこへ行けるように頑張りなさいとか、まして、死んだらそこへ行くことができる、などと語っておられるのではありません。主イエスが語っておられるのは、神の国はもうあなたがたのところに来ている、あなたがたの間で今まさに実現しようとしている、ということなのです。1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスの言葉がそれを示しています。どこかにある神の国を求めなさいとか、今いる所が神の国になるように努力しなさいと言うのではないのです。あなたがたが生きているその現実、あなたがたの人生そのものにおいて、神の国、神のご支配が今や実現しようとしているのだ、神様があなたがたの日々の生活を、恵みをもって支配して下さる、その神のご支配が既に始まっているのだ、と語っておられるのです。

その神の国、神のご支配は、誰の目にもはっきりと見えるものとはなっていません。私たちの生きているこの現実、この人生において神の恵みのご支配が実現しようとしていることは、私たちの目にははっきりとは見えないのです。それは隠された事実、秘密にされている事柄なのです。2月21日に「みことばの実り」と題してお話しした4章11節には「神の国の秘密」という表現がなされていました。神の国は「秘密」と表現されるような、隠された事柄なのです。その隠された神の国を、それが全く見えない現実の中で、なお神様のご支配を「信じて生きる信仰」へと私たちを招くための話なのです。

26節から、「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」とあります。種は蒔かれると土に埋もれてその姿は見えなくなります。隠されてしまうのです。しかし隠されていても、土の中で人知れず根を張り、成長していくのです。そしてやがて芽を出し、伸びていきます。その成長は私たちが夜昼、寝起きしているうちに進んでいきます。勿論農夫はその作物の成長のために水をやり、雑草を刈り、肥料をやりと手を尽くします。しかしそれらは作物の成長のための環境を整えるということです。水を吸収し、養分を取り入れて成長していくこと自体は、作物そのものの持っている力であって、それは人間の理解を超えた、また人間の力の及ばないことです。そのように作物は、28節にあるように「ひとりでに」実を結ぶのです。作物が「ひとりでに」実を結ぶのも、作物をそのようにお造りになり、力を与えた方がおられるからです。つまりこの「ひとりでに」という言葉は、人間の理解を超えた、人間の力の及ばない所で、神様が作物を成長させ、実を実らせて下さっているのだ、ということを語っているのです。神の国もそれと同じです。主イエスがこの世に来られたことによって、神の国の種が、あなたがたのところに既に蒔かれている。その神の国の種は、今は隠されているけれども、着実に成長を始めている。人間の理解を超えた、人の力の及ばないところで、神様がそれを育て、実を結ばせようとしておられる。その収穫の時が今や近づいているのだ。「成長する種のたとえ」はそういうことを語っているのです。

このことは、先週ご一緒にお読みしました4章21節からの「ともし火」の譬えにおいて語られていたことと通じるものです。ともし火は升の下や寝台の下に置くためのものではない、燭台の上に置くものだ、というあの譬えは、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」という言葉と結び合わされて、今は隠されているともし火が、将来必ずあらわになり、全ての人を照らすようになる、という約束を語っていました。そのともし火が、神の国、神のご支配です。今は隠されている神の国が、神様ご自身の働きによって、いつか必ずあらわになるのです。そのことが、本日の「成長する種」の譬えにおいては、種はひとりでに育って行って、ついに収穫の時が来る、という譬えによって言い表されているのです。神様はそのように神の国を育て、完成して下さる、だからそこに希望を置いて、収穫の時を待ち望みつつ生きるようにとこれらの譬え話は教えているのです。

続く30節以下の、「からし種」の譬えも同じことを語っています。この譬え話のポイントは、蒔かれる時には地上のどんな種よりも小さなからし種が、成長するとどんな野菜よりも大きくなる、ということです。砂粒のようなからし種が、五メートルぐらいの大きな木のように成長し、その葉陰に鳥が巣を作れるほど大きな枝を張るようになるのです。これも「神の国」の譬えです。神の国、神のご支配は、今は隠されており、目に見えないので、多くの人々はそれに見向きもしません。今は目にも止まらないような小さな小さな種である神の国が、最終的には素晴らしい木へと成長するのだ、ということを主イエスはこの譬えによって語っておられるのです。

先程もお話ししましたが、マルコは主イエス・キリストの宣教の第一声を「神の国は近づいた」という御言葉の中に見ていました。この「近づいた」という言葉は、確かに「近づく」という意味ですが、さらに具体的には、「来た」という意味もあります。「神の国」の実現は、神の御計画の必然であり、御子キリストの到来と共に「始まった」と述べられているのです。新約聖書128ページ、ルカによる福音書11章20節には、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と記されています。ここは、口語訳聖書では、「来ているのだ」という言葉の前に、「既に」という言葉を加えており、また岩波訳では「まさに」という表現で実現性を特に強調しています。

「神の国は、まさに、今、来ているのだ」。これが最も正確な翻訳と言うべきでしょう。「神の国」は、歴史の遥か彼方に実現を期待する希望ではありません。現実に、この世界に成就した神の御業であるのです。「神の国」とは、私たちがこの世界に建設する何らかの特定な社会ではなく、主イエス・キリストの御業が行われる場のことです。御子キリストの到来、即ちクリスマスこそ、「神の国の始まり」であったということなのです。

このように、私たちは、「神の国」の始まりを見ながら、なお、その完成を望んで生きているのです。ここに、キリスト者の緊張感があると言えるでしょう。私たちの生きる姿は、「既に」と「未だ」という「二つの一見矛盾した時間の中」を過ごしていかなければならないのです。

「既に、神の国の中を生きている」と言う時、「今のこの時」を軽んじることは出来ません。「未だに完成していない」と言う時、「今の生きていること」がすべての終わりになる終末であるとは言えません。

私たちは全て、今、自分が置かれている時をはっきりと見詰め、「来るべき時のために、今日を生きる」という姿勢を明らかにしなければなりません。このような生き方を、難しい言葉ですが、「信仰的実存」と呼ぶのです。このように、私たちは、「既に」と「未だ」という「二つの時」の緊張状態の中にあるのです。従って、この「既に」と「未だ」の緊張感を正しく捉えられない時に、キリスト者としての考えや生活に乱れが生じると言えましょう。

主イエス・キリストは、このような「二つの時の間」を生きる私たちを顧み、恵みに恵みを増し加え、約束の確かさを明確にして下さるのです。

「神の国」の実現は、私たちの力ではなく、努力によってでもなく、神の御心によって進むのです。私たちの心の中に蒔かれた福音の種は主イエス・キリストが正しく成長させて下さるのです。

御子イエスは、この世において極めて軽んじられた生涯を送られました。誕生はベツレヘムの宿屋の家畜小屋であり、御使いの知らせがなければ、誰も訪れることもなく、誰からも祝福されない誕生でした。ナザレの村で育ち、村の人々から特別な注目を受けることもない平凡な大工でした。そして、福音を語り始めると、変人として村から追い出されたのです。その後、ガリラヤ各地を巡り、福音の宣教に携わった時も、周囲に居たのは漁師や徴税人、病人など、恵まれない人々でした。そして、生涯の最後に待っていたのは、最も恥ずべき十字架でした。

この世の誰もが、目もくれないような、主イエス・キリスト。

地上において全く軽んじられる扱いを受けた、主イエス・キリスト。

全ての人々から嘲られ、見捨てられた、主イエス・キリスト。

人間の眼から見れば、この十字架のキリストに「神の国」を見ることは、とても出来ないでしょう。その誕生から十字架までの惨めさが、神としての栄光を隠してしまっているからです。

しかしそれにも拘らず、神の御業は、そのどん底の惨めさから始まったのです。私たちの眼には、この世での力やこの世での姿が強く逞しい方が魅力的に映るかもしれません。しかし、「神の国」は、この十字架の主イエス・キリスト以外からは始まらないのです。ナザレの主イエスに、全ての希望がかかっているのです。

神の国、神のご支配は、このようにして、主イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、人間の力や思いをはるかに超えた神様の力によって、まさに主の熱意によって前進し、実現し続けているのです。弟子たちは、この神の国の前進に巻き込まれ、その中で、自らの罪と弱さとそれによる挫折を思い知らされると同時に、主イエスの十字架の死と復活による罪の赦しと、新しい命の恵みをも豊かに味わい、体験させられていったのです。そのようにして弟子たちは、神の国、神のご支配を本当に知り、信じる者となりました。主イエスによって到来した神の国、神のご支配は、からし種一粒のような小さな小さなものでしたが、大きく成長したことは歴史が示しています。私たちも、からし種の様な小さな信仰が、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのだということを心から信じる者となり、主イエス・キリストに遣わされて、この神の国の福音を宣べ伝える者とされていくのです。

神の国は今、この成宗教会と私たちをも巻き込んで前進し続けています。私たち一人一人の日々の生活が、人生が、神の国の成長の中に置かれているのです。神の国の列車が、私たちを乗せて既に走り出していることを信仰の目を通して見つめ、終着駅での豊かな収穫を待ち望みながら、「時の旅人」として信仰の歩みを続けていきたいものです。

お祈りを致します。

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受難節第4主日礼拝 (2021/3/14 № 3744)

司会:齋藤 正
奏楽:ヒムプレーヤ
前奏  新型コロナウィルス感染症流行拡大防止のため自粛します
招詞
讃美 7
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 12948節(交読詩編p.149 [赤司会・黒一同]
祈祷
讃美 195
聖書 ヨエル書 4章13-15節 (旧約 p.1,426)
マルコによる福音書 4章26-34節 (新約 p.68)
説教
「神の国」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 502
献金 547 齋藤千鶴子
頌栄 543番
祝祷
後奏
受付:齋藤千鶴子