神の御心をたずね求める

聖書:詩編1031012節, 1722節, ルカによる福音書223946

 先週は東日本の講壇交換礼拝が守られ、感謝します。成宗教会には東日本議長の竹前治先生がいらして、力強く福音を語ってくださったと伺っています。また、「議長だというのに、お若い先生だったので驚いた」という声も聞きました。

私も車でしか行ったことがないので、晴天の主の日、雪の心配もなく出かけることができ、感謝でした。病院の礼拝から、成人の礼拝、そして月に一度は病棟を廻ってお見舞いをすることも、清瀬信愛教会の方々とさせていただきましたが、竹前牧師はこの上に教会学校もなさるので、大変たくさんの務めをされていることが分かりました。清瀬信愛教会は大塚啓子先生が病院のチャプレンとして働かれた教会でもあります。目黒原町教会から、私の休暇中に礼拝の奉仕をしてくださいました時、代わりに留守を守ってくださった引退教師の先生にも今回お会いしましたので、本当に成宗教会も私も、いろいろなところで、いろいろな方々にお世話になっていることが思われました。

先週はまた、四月から赴任される藤野雄大先生、美樹先生方も教会にいらして、引き継ぎの話し合いを行うことができました。お伝えすることが沢山ありましたが、お互いに「普通はこんなに綿密な、丁寧な引き継ぎはできないですよね」と語り合いながらも、まだまだ出来てないことがある、ということで、次の日程を立てているところです。すべては東日本連合長老会の交わりの恵みであります。様々な違いがあっても、わたしたちは共に一つの主の体の教会を目指しています。そのために共に主の前に謙って、み言葉に聴き、共に祈り、共に学ぶことの大切さは計り知れません。

共に祈るわたしたちの、共通の祈りとして主の祈りが与えられています。これは、弟子たちに与えられた祈り、そして教会に受け継がれた祈りです。そこで今日はカテキズム問59を学びます。それは「主の祈りは何を第3に求めていますか」という問いです。第3の祈りは、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」です。「天に行われるように」と祈る、その「天」とは、神さまのおられる所だとわたしたちは知っています。そして、そこには神さまの右に、御子である主イエスさまが座しておられます。

天には交わりがあります。それは、父なる神と御子イエス・キリストの親しい交わりです。そして、それは聖霊という愛の絆で結ばれている麗しい交わりなのです。そして神さまは願いを持っておられます。神さまの願いは何でしょうか。それは、神さまのうちにあるこの美しい交わりへと、わたしたち人間を導き入れることなのです。これが神さまの御心なのです。詩編103篇の預言者はこう宣言します。10節。「主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない」と。真に神様はご自分をいつくしみふかく憐れみに富む神、と宣言しておられます。

11節。「天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」と。わたしたちは誰も彼もが神さまに逆らい、過ちを犯し、罪を免れない者なのですが、神さまは主を畏れる人に対しては、ふさわしい報復を加えることをなさらない。その寛大さを以てわたしたちの悪行と戦ってくださいます。なぜなら、神さまの憐れみがどんなに深くても、わたしたちの罪が憐れみの邪魔をするので、その罪が取り除かれなければ、憐れみがわたしたちの所まで届かないからです。12節。神さまは「東が西から遠いほど、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」と言われるほど、わたしたちの罪を遠くへと追い払ってくださいます。

神さまはそれほどまでのご決意を持っておられます。それが御心です。今日読まれたルカ福音書22章39節から46節。これはイエスさまが十字架にお掛かりになる直前の出来事を伝えています。イエスさまは受難の時が迫っているときも、いつものように同じ所に出かけられたのです。つまり、主は敵から身を隠すために退かれることはなさらず、却って、敵の前に御自分を曝されたのでした。それは、死に対して、御自分の身を与えられたということです。ここにイエスさまの従順が描かれている。死に対して従順だったのではありません。死に対して進んで命を差し出すこと以外には、天の父の心を満たすことはできないことをイエスさまはご存じだったからです。

わたしたち人間が救われるためには、それを妨げて道を塞いでいる罪を滅ぼさなければなりません。その罪を滅ぼすために、神の子イエスさまは死に渡されようとしていました。

42節。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」神さまは御子イエスさまを既に苦難を受けるための準備的な訓練を与えておられましたが、今やより差し迫った死を目の前に描き出して鋭くイエスさまを撃たれました。そして愛する御子は今までに経験したことのない恐怖に打ちのめされたのであります。

しかし、聖書が伝えるこの祈りの場面ですが、神の子イエスさまが迫り来る死に直面して恐怖に打ちのめされる、という弱さを、「あり得ないことだ」と思う人々は多かったのであります。神さまの御子が死を恐れるなんて・・・と思うので、古代教会以来、神学者もいろいろな解釈をつけて何とか、何があっても動じない敢然とした神さまの強いお姿をイエスさまに反映させようと努めたようです。しかしそのような労苦は間違いであり、必要がないと宗教改革者は断言しました。なぜならキリストがこのように恐れと悲しみを経験されたことを、もしわたしたちが恥と思うなら、わたしたちのための身代わりの犠牲は破壊され、失われてしまうでしょうから。

四世紀の古代教会教父、聖アンブロシウスはその説教の中で、ただ次のように言いました。「わたしは主イエスのために、このお姿に何の弁解の必要も感じないばかりでなく、主イエスの親切と威厳がここよりも讃えられるところは他にないと思う。なぜなら彼はわたしの思いを御自分に取り入れたのでなければ、わたしのためにこれほどのことを成し遂げてはくださらなかったであろうから。真に、主はわたしのために嘆き悲しまれたのであって、御自身のために悲しむ理由は何もなかったのだ。主は永遠の神のご性質とその喜びをしばし脇に置いて、わたしの弱さの苦しみを経験されているのである。」天から降られて人となられたイエスさまは、御自身に人間の外観を取られたのではなく、人間の生きる現実の性質を取られたのだから。故に、主は人の悲しみを経験されなければなりませんでした。さらにその悲しみを克服しなければなりませんでした。

イエスさまは祈りました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」キリストの十字架の苦しみはすべての面で自発的なものとは言えません。しかし、御父の御心の故にそれは自発的になっているのではないでしょうか。わたしたちも自分の願いがあります。自分のしたい事があります。また自分が避けたいことがあります。是非このことだけは叶えてほしいというものがあるわたしたちです。

しかし、主イエスさまはわたしたちの弱さを持って苦しみもだえ、切に祈られたときに、その祈りはわたしたちの弱さを以て、神さまの御心を求める祈りの格闘をしてくださったのです。わたしたち人間の救いのために、主イエスさまは神さまの御心を願い求め、そしてその苦しみによってわたしたちに救いの道が開かれました。十字架の受難に先立つ格闘、この苦しみの祈りにこそ、わたしたちは学ばなければならないと思うのです。神さまは御自分を頼る人々を憐れんでくださいます。その人々がたとえどんなに罪、咎、過ちに満ちた人生を歩んで来たとしても、ご自分を畏れる人々を憐れみ、天の国の交わり、神さまの喜ばしい交わりの中に招き入れることを望まれます。これが救いであります。これが神さまの御心であります。その御心を知っておられる御子イエスさまは、御使いに力づけられ、立ち上がって十字架ヘと進まれました。

では、神さまを畏れる人々はどこにいるのでしょうか。わたしたちは言いましょう。わたしたちがそうです、と。せめてわたしたちは言いましょう。「わたしたちはそうでありたいです」と。そのためにわたしたちは教会に招かれたのです。そのためにわたしたちはイエスさまを救い主と信じ、悔い改めて洗礼を受けたのです。そのためにわたしたちはイエスさまの罪の赦しに結ばれたのです。

しかし、地上にいる限り、わたしたちは新しい試練に直面します。地上にある限り、わたしたちは自分に望ましいことがあり、自分が避けたいことがあります。わたしたちは主の祈りを祈る前に、この自分の願いをはっきりと見る必要があります。自分に望ましいことは何か。そして自分が避けたいことは何か。しかし、それだけで終わってしまうのでは、主の祈りには届きません。わたしたちは弱い者なので、自分の考えや願いが正しいと思ってしまう。すると、まるで神さまもきっとそうだ、と思うかのように、全然神さまの御心を尋ね求めようともしなくなります。それでは主の祈りには届きません。

主イエスさまは、弟子たちに主の祈りを教えてくださいました。そして、主は御自分が教えられた祈りの通りに生きて、死を迎えてくださいました。それは多くの人々のための死。多くの人々が神さまを畏れるようになるため、多くの人々が神さまを頼るようになるために、多くの人々が神さまの喜ばしい交わりに入れられるために、死んでくださった。だからこそ、神さまは御子イエスさまを復活させられ、天に昇らせてくださったのです。

ここにこそ、神さまの御心がありました。ここにこそ、わたしたちの祈りは向けられなければなりません。わたしたちは主と結ばれて教会にいる者です。わたしたちは神さまにどれほど愛されていることか。どれ程慈しみをいただいていることか。本当に知っているでしょうか。「神の愛がわたしたちの心に注がれている」とパウロは教会の人々に告げ知らせました。ローマ5章5節以下です。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。(中略)わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」279頁。

この愛が分かることこそ重要です。なぜなら自分を愛し、大切にしてくださる神さまをわたしたちはイエスさまによって知ることができるからです。この神さまを信頼して行く。イエスさまをさえ惜しまなかったほどわたしたちの救いにこだわってくださった主なる神さま、天のお父さまに祈るとき、私たちはその愛の心、慈しみに満ちたご計画が地上で成し遂げられることを祈らずにはいられません。

そして、それはキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解することですから、わたしたちに関わること、わたしたちの教会に関わることでなくて何でしょうか。これから成宗教会は新しい先生方をお迎えし、新しい時代を迎えようとしています。ここに具体的にああすれば良い、とか、こうすれば良いとか、いろいろと計画が建てられるようになることは喜ばしいことでしょう。しかし何よりも祈るべきことは主の祈りの第三の祈り。「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」です。神さまの御心が天で行われているのと同じように、地上にも完全に行われることを私たちは心から願い、待ち望むのです。自分の思いとちがう思いがけないことが起こるときにも、主の祈りをしっかりと祈るならば、神さまは私たちを愛して良い道を開いてくださると確信することができるでしょう。祈ります。

 

主なる父なる神さま

あなたの尊き御名をほめたたえます。御子イエス・キリストのご受難によってわたしたちに救いの道を開いてくださるほど、わたしたちを大切にしてくださる、計り知れない愛についてみ言葉を聴きました。どうかわたしたち成宗教会に集められた者も、あなたの愛に応える者となりますように。あなたを信頼し、すべてのことの上に御心が成りますように、と祈る者となりますように。そして、同時にあなたの御心を尋ね求め、知る者となりますように。弱いわたしたちは楽を求め、労苦を望まないものですが、イエスさまはわたしたちに代わって労苦を厭わず、あなたの御用を果たしてくださいました。

あなたはわたしたちの弱さをご存知です。どうかわたしたちがあなたの愛、イエスさまの救いに感謝し、いつもあなたに讃美を捧げる礼拝の時をお与えください。あなたの御国の喜び、その麗しさ、その平和、その支え合う心をわたしたちにお知らせ下さい。地上にイエス・キリストの教会をわたしたちは建てるために東日本連合長老会の諸教会と共に、また志を同じくする全国全世界の教会と共に心を合わせ、歩みたいと切に願います。一方、あなたの御心よりも自分の願いを先にする誘惑は常に現れ、教会の脅威となります。どうか、主よ、この教会が、また東日本の地域教会がそのような試みから守られますように。

どんな時にも御心を尋ね求め、あなたの喜びをわたしたちの喜びとさせていただけるように祈ります。

これから4月の着任に向けてご準備くださっている藤野雄大先生、美樹先生の上にあなたの豊かなお支えがございますように。また、成宗教会が長老会と心を一つにして祈り準備することができますように。また止むを得ない事情で礼拝に来られない日々を送っている方々をどうぞ顧みてください。深い慰めと励ましを祈ります。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主は羊飼い

講壇交換礼拝説教

聖書:エゼキエル3411-16節, マタイ93538

 本日は東日本連合長老会の講壇交換の行事によって、清瀬信愛教会に伺い、説教の務めを致します私は、成宗教会の主任担任教師で並木せつ子と申します。清瀬信愛教会には、東日本の長老会議や研修会、婦人会クリスマスの行事で、私も成宗教会の長老たちも何度も伺う機会に恵まれました。一方、成宗教会には、竹前先生を除いては長老信徒の方々にはほとんどいらしていただいたことはないと思います。2013年に東日本に加盟して以来、東日本の諸教会には、お世話になっておりますが、特に竹前先生が東日本の議長を務められ、また私は辞任しますのでその後任人事をお願いし、ご指導いただいたことを感謝申し上げます。

成宗教会は東日本に加盟する前は、日本キリスト教団の多くの教会と同じように、取りあえず自分の教会のことだけを考えて伝道牧会を行って来ました。それは、一つには自分の教会のことだけで手一杯と思っていたからです。また、近隣の教会がどんな様子なのか分からないということもあり、よく分からない他所の教会と交流することに不安があったからだと思います。しかし、現実には自分の教会だけで、教会が成り立っているはずはなかったのです。一方では教会に集まる信者が実に様々なルーツを持っていること。そして、他方では、成宗で育った人々がどこかへ行って、長い間には消息不明になっていること。そして、このことが一番大切なことですが、教会をお立てになった主イエス・キリストはお一人で、全世界に一つの信仰共同体をお立てになることが、主の御心なのだ、ということです。

この当然の道筋を教会の人々と分かち合って、東日本連合長老会に加盟申請し、成宗教会は東日本という地域教会の一員とさせていただきました。すると、いわば今までは他の教会のことには目を閉じ、耳を塞いでいたような小さな教会にも、いろいろな学びができるようになりました。その中で何と言っても重要なものは、日本の少子化、高齢化の中を歩む教会です。私は17年間成宗を牧会してきましたが、赴任してから15年間は高齢化と言われながらも、礼拝出席者数は23~26人で安定していました。ところが70歳になるときに辞任しようと考えた2年前あたりから、出席者数は急激に減ってきて、今は15人前後になっています。わたしたちの教会はとても小さい群れですが、この傾向はどうやら大きな教会にも言えることだということも分かりました。たとえば200人規模の教会が100人近くに減少、100人規模が50人近くに減少していると聞くとき、これは、本当に日本社会全体の傾向を映し出しているのではないか、と思わざるを得ませんでした。

しかし、今度はこの激減の内容を少し考えてみる必要があります。私は私の牧会している成宗に関することしか、確かなことは言えませんが、それでは激減した教会員はどうなったのか、ということを申しますと、例えば皆、召天したので地上に礼拝を守れなくなったということではありません。中には東京を去ってしまった。音信を断ってしまった人もいますけれど、大部分は教会と交わりを持っています。ではなぜ礼拝に出席しないのでしょうか。働き盛りの世代について(少数ですが)言えば、礼拝のある日曜日に仕事がある職業についている人がいます。介護の仕事、養護の仕事を始め、日曜日もなかなか休めない職業は少なくないと思います。もう一つの理由は、親子、夫婦で別々の教会に所属していることです。親元の教会。職場に近い教会、配偶者の教会、子供の通う教会など、いろいろあり、一つの教会に籍があるからと言っても、実際には籍がある教会を中心に考えることができないようです。その時々の都合であっちに行ったりこっちに行ったりしているうちに、自分の所属する教会、という意識が薄れることも考えられます。

以上は、若い世代の例ですが、他の大部分は高齢化のために出席できない方々です。教会の礼拝に来会する人々を見て、少なくなったなあと思う私たちですが、目に見えて足を運んで来られる人だけが教会員なのではないことを私たちは知っています。50代までは、60代でも、元気に電車やバスを乗り継いで礼拝に来ていました。しかし、70代、80代。何か病気になる。あるいは転倒して怪我をします。入院をしている間は礼拝に来られませんが、治っても、リハビリによって元の状態に戻るまでは、礼拝は無理になります。そういう訳で礼拝出席者は減少する傾向は当然のことです。

それでは、礼拝出席が出来なくなっている人々は、信者としていなくなったのでしょうか。そんなことはありません。特に高齢の教会員については、そんなことはありません。わたしたちが高齢になっても、主がお招きになり、地上の生涯を終わらせる日が来るまでは、高齢の教会員は目の前に現れなくても、わたしたちは地上の教会の会員なのです。このことを、わたしたちは重く受け止めなければならないと思います。

預言者エゼキエルは神さまの御心を次のように告げ知らせました。34章11節。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と。地上で弱り果てている人々を見ました。なぜ彼らは弱り果ててしまったのでしょうか。様々な理由、様々な事情があったでしょう。彼らの指導者、彼らを羊として世話をすべき羊飼いは、自分の務めを怠っていた。エゼキエルの時代には、それは王様であり、宗教指導者である祭司であったでしょう。

イエスさまの時代にもそうでありました。イエスさまは、人々が飼う者がいない羊の群れのように弱り果て、打ちひしがれているのをご覧になったと言われます。パレスチナはローマ帝国の支配下にあり、属国でありましたが、ヘロデ王が支配していました。人々はまた、祭司、律法学者の宗教的指導を受けていました。形のうえでは彼ら羊には羊飼いがいたはずです。しかし、いつの時代にも羊飼いはその群れを支配していてもその群れを養わないということが度々起こりました。彼ら自分たちの利益を追い求めるばかりで、羊を飼う務めには怠慢であり、貧困や、病気や様々な困難のために弱っている者たちのことに配慮しませんでした。その結果、人々は牧者のいない羊同然になっていました。

エゼキエル34章16節。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす〔見張る〕。わたしは公平をもって彼らを養う。」ここに神さまの指し示す真の羊飼いの姿が現されています。エゼキエルをはじめ多くの預言者たちが、世に告げ知らせ、祈り求めた真の神の御心、真の羊飼いは2000年前、人となって世に来てくださいました。マタイ9章35節。「イエスさまは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされ」ました。イエスさまは「また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」たのです。

真の羊飼い、人となられた神の御心は、弱り果て、打ちひしがれている羊を深く顧みられ、ご自分のことのように憐れんでくださるのです。飼う者のいない羊を自ら集め、養うために、また大きな困難の中にある人々を牧会するために、イエス・キリストは御自分を捨てて身をささげてくださいました。

良い羊飼いは羊のために命を捨てる、と言われた通り、わたしたちの救いのために十字架につかれ、その血を以てわたしたちを罪から解放してくださったのです。こうしてイエスさまは一つの羊の群れ、一つの教会を建てられ、ご自分の体としてくださいました。イエスさまが復活させられ、生きておられる。だから、主と結ばれたわたしたちも生きる者となったのです。どうか、わたしたちが片時もこのことを忘れずに、主と結ばれている自分自身を大切なものとすることができますように。

弱り果てている者、打ちひしがれている者を、主は憐れんでおられる。なぜでしょうか。わたしたちは、神さまの御国を宣べ伝えられたイエス・キリストの福音を信じて教会の中に招かれた者です。神さまの子とされた者です。だから主は信者となった人々を、ご自分の体の一部となった人々を、だれよりも憐れんでおられるのではないでしょうか。そればかりではありません。何とイエスさまは弟子たちにも言われるのです。あなたがたも行きなさいと。行ってわたしがしたように福音を宣べ伝え、神の国を証ししなさいと。

神さまは教会に様々な賜物を与えられました。新約聖書の手紙の文書でも使徒や預言者、福音宣教者、牧者、教師などという分類が語られています。教会には職制が与えられ、わたしたちは長老会を組織し、教師を立てて伝道牧会を行っています。また教師を立てるために、教師を養成する神学校を建てます。私も教会に仕えるために学び必要な資格を得て、主任担任教師として伝道牧会に当たりました。私は年取ってから献身したので、17年の働きしかできませんでしたが、この年月を経て心から思うことは、「羊飼いの務めは個人に与えられているのではない」ということでした。主は真の羊飼いです。主はこの務めを個人にではなく、教会に与えておられるので、教会は人々を教育してある者を牧師に立てているということだと実感します。

私は教会に赴任してからも日々多くのことを教えられました。神学校を出てからも大学の先生方にも指導を受けたということもありますが、決してそればかりではありません。教会の人々の背後に働く聖霊がおられたので、私は人々を通して教えられたのです。沢山の困難、沢山の失敗もございました。思いがけない慰め、思ってもみなかったところからの助けもございました。一つ一つの出来事、一人一人の言葉の背後に聖霊の厳しい、そして慰めに満ちた教育を感じたのです。

特に祈りのことを教えられる日常の出来事があります。教会で今まで共に礼拝を守っていた人々が病気になる、入院する、施設に入る。徐々に礼拝を守る人々の中から姿が消えて行きます。しかしその後も、私たちはそうした信者の一人一人と、どんなに多くの対話をしたことでしょう。手紙や電話や、メール。それは喋りたいだけ喋っていて、下らない話も交えていた時とは全く違う対話になります。信者の一人一人は親戚、家族ではないし、詳しい事情は分からないことが沢山あります。分からないままに地上を去ることも多いのです。しかし、不思議にもどんな親戚より、知人より親しく、懐かしく思われます。それは私たちが主に結ばれて一つだからに違いありません。「礼拝に行きたいのに・・・」という声。「礼拝の時間を覚えて祈ります」という信者の方々の言葉が、閑散とした礼拝堂にいても心に聞こえます。

この信者の人々が、たとえどんなにさ迷った人生であっても、地上の生涯を教会に結ばれて終えることができるように。あの人は魂に勝利の確信を得て天に召されて行った、とわたしたちが思うとき、地上の教会には大きな慰めがあります。その時、わたしたちはたとえどんなに弱り果てた者でも、主は御自分を頼る者を深く憐れみ、その人を主の教会の生きた部分として、神の栄光を証しさせてくださったことを知るでしょう。そのようにしてわたしたちが地上にある限り、主の羊の群れとして留まり、飼う者のない羊となってしまわないために、教会はどんなことができるのだろうか、と思います。主は言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

イエスさまは弟子たちに言われます。「収穫は多いのだ」と。真の羊飼いの群れに入りたい、養われたい人々は沢山いるはずではないでしょうか。主は言われます。「働き人は少ない」と。そうです。本当の働き人の資格は、地位ではありません。名誉ではありません。能力でも、健康でもないのです。本当の働き人は、心から主を信頼し、謙って主に従う人です。主はそのような働き人に聖霊を送ってくださるのです。ですから、主はわたしたちを祈りへと導いてくださる、何よりもまず教会のために、その群れの人々のために祈りなさいと導いてくださるのではないでしょうか。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

本日の礼拝を感謝します。東日本連合長老会に与えられたあなたの恵みによってわたしたちは礼拝を守りました。どうぞあなたの恵みが、清瀬信愛教会の竹前牧師、長老会、信徒の方々の上に注がれますように。あなたの愛するこの地に在って伝道し、また病院の働きと共に、ここにおられる方々と共に歩む教会に、特別に与えられた尊き使命を果たすことができますように。「弱い時にこそ、わたしは強い」と証しした聖書のみ言葉を思います。弱い人々のために労苦を惜しまなかった主イエスさまの愛に、絶えず励まされる教会となりますように。この教会の喜びと悩みを聖霊の主が、いつも共にして慰めと励ましで満たしてくださいますように祈ります。

心から感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

イエス・キリストの啓示

東日本連合長老会講壇交換礼拝

成宗教会での説教者  清瀬信愛教会 竹前治牧師

聖書:サムエル記上3:10, ガラテヤ1:11-12

 愛する皆さん。今朝は東日本連合長老会の交換講壇として成宗教会に招かれこと心から主なる神に感謝いたします。今朝は使徒パウロがガラテヤの人々に書いた手紙、ガラテヤの信徒への手紙より共に主イエス・キリストの良い知らせを共に聞きましょう。

パウロは「兄弟たち」と呼びかけます。呼びかけをするということは相手に責任をもっているからです。つまり、ガラテヤにおいてパウロは福音を宣べ伝え、ガラテヤの人々は、パウロの口を通して語られる真実の福音を受け入れ、教会が建てられたのです。しかし、パウロが去った後、ガラテヤの人々の所ユダヤ人キリスト者が現れ、律法主義、割礼主義を教え始め、パウロの教えた主イエスを信じることによって救われる義から行いをもって救われるという、行為義認を教え、パウロの教えから引き離し、パウロを非難することを教えたのです。自分の伝えた教えから離れていくガラテヤの人々に対してパウロは「兄弟」と呼ばれるのです。

皆さんはどうでしょうか。信頼していた人から裏切られた時、私たちはその人の名前を呼ぶことができるでしょうか。むしろもう関わりを持ちたくないとさえ思ってしまいます。

ではなぜ、パウロは「兄弟たちよ」と呼ぶのでしょうか。それは、神は人間が裏切り続けても私たちの名を呼ばれ、応答することを求められていることを知っていたからであります。神が人間を創造されたお方として、人間に対しての責任を持っているからでありす。パウロもはじめはキリストを迫害する者であって、神の恵みに応答する者ではありませんでした。しかしそのパウロが、あのダマスコに迫害に行く途中、神に名を呼ばれ、使徒として選ばれた。神は迫害する者でさえも責任をもって関わり続け、真実へと招き入れようとされるお方であることを知ったからです。パウロは自分のその体験からガラテヤの人々にも福音を宣べ伝えた者として責任もって「兄弟たち」と呼ぶのです。もし責任などなければ「兄弟」などと呼べはしないし、また手紙など書けないはずです

 

パウロは「兄弟たち」と呼びかけた後、ガラテヤで宣べ伝えた福音が人によるものではないと言っています。福音は人間に従って、人間に基づいてのものではない、またパウロが自分の考えや思いで福音を作り出したものでもありません。さらに、パウロは福音を人から受けたものでも教えられたものでもないと言います。福音がパウロ以外の人間のだれかが作り出して、パウロに教えたのでもないのです。福音は人間から人間の関係の中ではないということです。では、パウロは伝える福音はいったい誰から知らされたのでしょうか。聖書には答えがはっきりと記されています。「イエス・キリストの啓示によって」知らされたのです。

 

ここで、二つの言葉「福音」「啓示」に目を向けたいと思います。「福音」とは何か、福音は英語では皆さんもご存じの様に「グッドニュース」と言われ、「良い知らせ」であります。「良い知らせ」とは人間の側に起こる「良い知らせ」でしょうか。私たちの生活の中の中において良い知らせと言えるものはいくつもあると思います。しかし、私たちの中に起こる良い知らせというのはある意味一瞬であります。時間がたてば薄れ消え去っていきます。でも聖書が伝える「良い知らせ」は人間の側におけるものではなく、神の側から私たちに向けられたものであります。人間の罪を赦し、新しい生命を与えるという、一瞬の良い知らせではなく、永遠の良い知らせ、生も死も貫く良い知らせであると言うことです。この神の良い知らせを伝えたのが主イエス・キリストであります。主イエスはご自身の命を献げてまでして神の良い知らせを、罪深い人間をなおも愛し、赦し責任をもって救おうされる神の恵みを示されたのであります。このことがわかると「イエス・キリストの啓示」もおのずと理解できてきます。「啓示」とは広辞苑では「あらわし示すこと。」「人知では知ることのできない神秘を。神自ら人間に対す愛の故に示すこと」と記されています。ですからイエス・キリストによって神の神秘が明らかにされた、それは主イエスが神の御子であり、神と同質のお方であるからこそあらわし示すことができたのです。

パウロはキリストが出会ってくださり、キリストが神の恵みの愛を私に示し、その恵みを聖霊の助けを受けてガラテヤにて。主イエスの福音を宣べ伝えたと言うのです。

私たちもキリストを出会う時、誰かの導きがあったかもしれません。しかしその人があなたの信仰の父や母ではありません。その人を崇拝するものおかしなことです。あくまでもその人は神に遣わされた者にすぎず、神ご自身が責任をもってあなたと出会い、あなたの罪を赦すために独り子主イエスをあなたのためにお遣わしくださり、あなたを救ってくださるのです。ですから私たちもパウロ同様にイエス・キリストの啓示によって福音が知らされた一人ひとりなのです。主の日の礼拝のたびごとに神は私たちの名を、サムエルを呼ばれた時のように、今も呼び続け人間の手によらない永遠の良い知らせを私たちに主イエスを通して示し信じることを望んでおられるのです。

御国が来ますように

聖書:詩編675-8節, ヨハネによる福音書183637

旧約の詩編67篇の詩人は知っていました。神さまが公平な方であることを。公平を行ってくださることを。神さまこそは誠実であられ、真実であられることを。だから彼は祈るのです、神さまのご支配を諸国の人々もこぞって喜ぶようにと。

今日はヨハネの福音書18章。イエスさまは十字架に付けられようとしています。イエスさまを訴え、殺そうとする人々は、神さまの義しさを信じていたでしょうか。喜んでいたでしょうか。公平な神が、彼らにとって有利なことをしてくださるのか、彼らはそうは思わなかったでしょう。彼らは民の指導者。この世の権力者でした。民のような悩みはない。民のような苦しみはない。健康にも、経済にも地位にも恵まれ、却って神の恵みを思わなくなった。まして感謝などしない。そのような人々はイエスさまを理解しないのです。イエスさまが民のために働いている様子が疎ましい。ただの人気取り、としか見えないのです。彼は何をねらっているのか。王になろうとしているのか。人気を博し、民衆を味方につけ、権力に逆らって立とうというのか。それならば、そうならないうちに捕えよう。処罰しよう。それは彼らに好都合な筋書きであったに違いありません。

そう企てる彼らは、自分たちの考えが神さまに逆らっているとは夢にも思いません。むしろ、イエスさまの方が神を冒涜していると決めつけることができました。何の後ろめたさも無く。ついに彼らは時の権力者、彼らの国を支配しているローマ総督ピラトを動かして、イエスさまを尋問させました。「お前が王なのか?」と。イエスさまはお答えになります。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そうです。イエスさまを亡き者にしようとする人々からは、イエスさまは他の人間と同じように見えるのです。他の人間と同じように、この世の力を持って人間の上に君臨する王になろうとしている、と。

しかし、イエスさまはこの世に属してはいないと仰います。確かにこの時、イエスさまは肉体を持って世に生まれ、私たちと同じように疲れもする、倒れもする、肉体の限界の中を生きておられました。しかし、イエスさまは、たとえ私たちと同じ人間であっても、この世に属していないのです。だからイエスさまはこの世と同じ土俵に上がって、同じ力と力をもって戦ったりしないのです。この世から見ればイエスさまは、何の力もなく、人々の悪意にさらされ、やりたい放題のことをされて、完全な敗北を喫したとしか見えない。それほどまでに、この世の力に対して無力に見えたのでしょう。

しかし、本当にそうでしょうか。「わたしの国は、この世には属していない」と言われました。キリストの王国はこの世に属していないのだから、だからこそ、イエスさまは仰います。「あなたがたも来なさい」と。「わたしの国に来なさい」と。「信じることによって来なさい」と、イエスさまは招いておられるのです。キリストの王国はこの世の力を持っている人々の支配を妨げたりはしません。イエスさまは仰いました。「神の国は近づいた」と(マコ1:3)。イエスさまは、この世の王たちの支配を転覆させるために来られたのではないのです。だから、どこの国の国民であってもどんな民族であっても、「わたしの国に来なさい」と言われているのです。だから、力のある人もない人もキリストの王国を恐れることはない。不安になることはないのです。ただ、「イエスさまの王国は自分たちの支配を脅かすものではないか、自分たちに都合の悪いものではないか」と考える人にとっては、それは恐ろしいもの、不安にさせられるものなのではないでしょうか。

それでは、イエスさまは何のために王国を建てようとしておられるのでしょうか。イエスさまの王国は、神さまのご支配です。イエスさまは仰いました。マコ1:3「悔い改めて福音を信じなさい。」神さまのご支配こそは、人を救うからです。それは旧約の預言者たちが祈り求めていたことです。今日の詩編67篇5節です。「諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように。あなたがすべての民を公平に裁き、この地において諸国の民を導かれることを。」6節。「神よ、すべての民があなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞってあなたに感謝をささげますように。」この祈りは、神さまへの讃美の歌です。神さまがどんなに感謝されるべき方であることかを、私たちに教えているのです。なぜなら、神さまの御支配こそが、人を救うからです。

わたしたちの教会のことを考えましょう。わたしたちの信仰生活のことを振り返りましょう。わたしたちの多くは、信仰は個人的なものと考えていたのではないでしょうか。確かにこの世の法律ではそれが正しいのです。わたしたちの国には信教の自由を保障する憲法があります。もしそれがなかったら、この世の王、この世の支配者によって宗教が決められたり、禁止されたりするでしょう。実際、日本の国でも徳川時代にはキリスト教は禁止されていましたし、明治時代以降も太平洋戦争が終わるまでは、政府の監視、統制を受けた時代がありました。そして、そういう国々は現代でもあることをわたしたちは知っています。

しかし、わたしたちの教会のことを考えるときに、この教会がこの社会の中で、決して社会とは切り離されたもの、関係ないものとしてあったのではないことを思い起こします。教会には多くの人々が出入りし、業者の方や近隣の方との交わりもございます。藤野先生は引き継ぎに当たって私に、「ご近所とのトラブルはありませんか」と尋ねられましたが、私はすぐに「とても良い関係ですよ」と答えることができました。このことは、大変幸いなことであり、またそれは大切なことであります。わたしたちは、自分が救われて幸いだということは、自分だけが救われれば良いということには決してならないからです。

この頃の痛ましい事件は小学生の児童が父親から虐待を受けて死んでしまったということがあり、毎日毎日、報道されるたびに、心が暗くならない人はいないと思います。まして身近に、親しい者の中にこのような不幸があるならば、「ああ、自分でなくて良かった。」「自分は関係ない」と思って平気でいられるでしょうか。昨日の藤原姉の葬儀式でわたしたちは「かみともにいまして」という讃美歌を歌いました。「神のお守り、なが身をはなれざれ」と歌う時、それは「天に召された姉妹がいつも神さまのお守りのうちにありますように」という祈りだけではないと思います。「この讃美歌を歌う私にも神さまのお守りがありますように」そして、「一緒に歌うすべての人にもありますように」という祈りでなくて何でしょうか。葬儀式で人々が集まり、久しぶりに本当に何十年ぶりに会う人もいます。一緒に歌い、一緒に祈り、祝福を分かち合って、また去って行くのです。

いつまた会えるだろうか。もう会うことはないかもしれない、というのがわたしたちの現実でありましょう。しかし、もしわたしたちが互いに祈る祝福が、神さまによって与えられるように祈るのであれば、わたしたちは同じ神さまの恵みの下にあるからこそ、祈るのではないでしょうか。神さまはどのようなお方でしょうか。旧約聖書の宣べ伝えます。詩67篇5節のように、神さまは「すべての民を公平に裁き、この地において諸国の民を導かれる」方だと。神のご支配は愛の支配だと信じていたのです。すなわち、神さまは暴力や人間の力を用いて人々を抑圧するのではない。人を慈しみ、公平に裁くことによって御支配くださる方だと信じていたのです。

そして旧約聖書の人々から見れば、わたしたちは諸国の民、異邦人なのですが、わたしたちはイエス・キリストの福音によって知らされました。神さまはどのような方であるかを。神さまはイエスさまの執り成しによってわたしたちを悔い改めさせ、天の父と呼ぶことをお許しになりました。わたしたちは悔い改め、罪の赦しをいただいて、キリストの体と呼ばれる教会の肢となりました。一部となりました。イエスさまの一部なのですから、イエスさまと同じように、わたしたちもまた「天の父よ」と呼びかけて、神さまから喜んでいただける者となっているのです。ここに一人の信者がいます。昨日葬儀が行われた藤原姉もそうです。今は一族の中でただ一人の信者でしたが、彼女に与えられた祝福は彼女だけにはとどまりません。神さまはイエス・キリストの父と呼ばれる神さまは全世界をお造りになった方。全世界の救いを望んでおられる方に他なりません。

イエスさまはわたしたちの罪のために十字架に掛かり、罪の贖いをしてくださいました。それはすべての人のための罪の贖いだったのですが、現実には自分を罪人のうちに数え、「どうぞこの罪を赦し、汚れを清めてください」とイエスさまのお名前によって祈る者だけが罪赦され、清められたのです。

イエスさまは復活され、天に昇られました。ですからその時からイエスさまをわたしたちが目で見ることができなくなりました。しかし、そのことによって、イエスさまは、挙げられた天から、わたしたちに聖霊を注ぎ、教会と世界に働きかけ、御国の到来を語り伝える務めを教会に与えておられるのです。教会とは、恵みによって救われた人々の群れです。礼拝にみんなで集まることができれば、大勢のクリスチャンがいると、目に見えて実感することができるでしょう。しかし、集まろうとして集まることができない人も、できない時も、教会の主イエス・キリストを思い、心を天に向けて祈ることができる。むしろ祈らずにはいられないならば、その人は何と幸いな人ではないでしょうか。

ここに一人のクリスチャンがいます。ここに一つの祈りがあります。「天におられるわたしたちの父よ」と祈ります。「あなたのお名前があがめられますように」と祈ります。そして「御国が来ますように」と祈ります。一人のクリスチャンが神さまのご支配を祈るとき、それは、決して自分にだけ祈っているのではないのです。一人のクリスチャンの祈る御国は来てくださり、その御支配をその人の周りにいる人々にも及ぼしてくださるでしょう。「あなたがたは地の塩である」と主は言われました。御国のご支配によってわたしたちが塩として用いられる時、わたしたちは御国の平和を持って人々に和らぎを与えないではいられないでしょう。それは私たちの働きではなく、イエスさまが送られる聖霊による御国のご支配の結果なのです。

また、主は言われました。「あなたがたは世の光である」と。イエスさまの霊、父なる神さまの霊がわたしたちに来てくださって、この土の器の中で光となってくださるとき、私たちの内に住まわれた神さまの光、イエスさまの光が周囲を明るくしないでしょうか。それもわたしたちの働きではなく、イエスさまが送られる聖霊による御国のご支配の結果なのです。

わたしたちの生きている限り、地上に悩みは絶えず、残酷な事件がなくなることはないでしょう。神さまの御心に逆らう力が地上を支配しようとしているからです。しかし神さまの愛は、イエスさまのみ言葉に、御業において明らかにされました。神さまの愛のご支配が完全になる世の終わりの日が来るまで、わたしたちは忍耐して祈り続けるのです。「御国が来ますように」と。イエスさまは仰いました。ルカ17章20-21節です「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」今日のカテキズムは問58「主の祈りは何を第二に求めていますか。」その答は、「御国が来ますように」です。悪の力が完全に滅ぼされ、すべてが神さまのご支配のもとに置かれることを心から願い、待ち望みます。祈りましょう。

 

御在天の主なる父なる神さま

尊き御名を讃美します。本日の礼拝、わたしたちは雪になる寒さの中、困難を排して礼拝を守るために集められました。大勢の信者、この教会に連なるすべての者を代表して、あなたが招いてくださいましたので、わたしたちはみ言葉に耳を傾け、罪の赦しを改めて感謝して心に刻み、いただいた恵みを携えて世に出て行こうとしております。どうぞ、御国を求める主イエスの尊い祈りが、わたしたちの祈りとなりますように。主よ、天から聖霊をお送りくださって、今週もわたしたちを照らし、行く道を導いてください。

昨日は厳しい天候が予想される中、あなたは藤原京子姉妹の葬儀式を成宗教会で行うわたしたちを祝福してくださいました。心を込めてお母様を天に旅立たせようと願い続けて来たご子息方を祝福してください。そのご子孫の上に、あなたの愛と慈しみが明らかになりますように祈ります。

成宗教会に最期まで連なろうと努めて来た兄弟姉妹をあなたは豊かに祝し、その方々を用いてあなたの恵み深さ、ご栄光を現わしてくださいました。79年にわたる教会の歴史を振り返り、心からの感謝をささげます。どうか、これからもこの群れに、成宗教会にあなたの慈しみを注いでください。この所を、み言葉が力強く宣べ伝えられ、讃美と祈りが絶えないところとしてください。東日本連合長老会の諸教会と共に助け合い、日本キリスト教団の中で主の体の教会を建てて行くことができますように、新たに赴任される藤野雄大先生、美樹先生と共に主に仕える、長老、信徒の志を励まし、導いてください。

来週は東日本の講壇交換による礼拝が守られます。どうかご奉仕にいらっしゃる清瀬信愛教会の竹前治先生をお迎えして、喜びと感謝の礼拝を捧げることができますようにお導きください。また同じく清瀬信愛教会で奉仕する私の務めをも祝してください。病院で行われる礼拝と問安の奉仕をも御心に適って行われますように。

厳しい寒さの中、健康に不安を抱えている多くの方々を御言葉と御霊によって励ましてください。必要な助けが与えられますように。また、どうか多忙を極めている働く世代の方々をも支えてください。そして、どのような時も主に頼り従う者とならせてください。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの尊きお名前によって祈ります。アーメン。

神の御名が聖とされますように

聖書:歴代誌上167-13節, ローマの信徒への手紙113336

 新しい年も、寒い寒いと言って過ごしているうちに、早くも2月を迎えました。わたしたちは恵まれて月の初めの聖餐礼拝に招かれましたことを感謝します。私の成宗教会の牧師としての務めも二カ月を切りました。本当のところ、私の願いとしては、17年前、減少していたこの教会の礼拝出席者の数を回復させて、もう少し多くなったら次世代に受け継いでいただこうと思っていたのでした。ですから、「私の願い」という点では、願いは叶わなかったことになります。しかし、主は私の間違いを指摘してくださいました。「本当に願うべきは、果たして自分の願いが叶うことなのか」と問われているのだと思います。

わたしたちは今、日本の人口減少が進んで行く社会に生きています。地方の市町村の過疎化が進んでいるとき、被災地ばかりでなく、一部の地域に人口が集中する一方、立ち行かなく自治体も増えて行くと予測されます。このことは日本キリスト教団の諸教会をはじめ、他教団の教会でも同じことが言えるでしょう。しかし、その時人々はどのように行動するのでしょうか。だれも、「こうすればきっとうまく行く」という方法論を持っているとは思えません。ただ、自治体と教会とは、方法論で比べることはできないのです。

わたしたちの中には、家族や、友人、また隣の人が教会に行っているから、という理由で教会に来た人もいるでしょう。昔はそういうことがよくありました。しかし、教会は地上にだけ立っているものではありません。もし、そうであるならば、人が変り、時代が変り、教会はとっくの昔に廃れてしまっていたはずです。私の学生時代には社会主義、共産主義思想が栄えていました。一方、それ以外の思想は非常に軽蔑されました。私も「キリスト教なんて古いんじゃない」と友人に言われましたが、それから十年も経たないうちに、栄えていた思想が衰退して行ったのは非常に不思議に思われます。

唯物論的な思想が廃れると、一転して、今度は若い人々が怪しげな新興宗教に取り込まれ、それらがキリスト教主義の学校、大学にまでも浸透して、人々を悩ます時代が来ました。その結果、「宗教は怖いもの」という印象がこの社会に植え付けられました。教会はこれらの思想や宗教から見えない攻撃を受け続けて今日に至っています。ですから、わたしたちの教会も、もし地上に立っているだけの教会であったならば、もし人々が集まっているだけの教会であったならば、この時代に、この社会に立って行くのは難しいでありましょう。あれだけ栄え、あれだけ社会を席巻するかに見えたものが、いつの間にか廃れてしまっているのですから。

しかし、わたしたちが今日も守っている礼拝、今日も与ろうとしている聖餐は、この世の流行はやり廃すたりをはるかに超えて、この二千年の間に世界中で行われている教会の営みであります。自己実現の大流行の時代も、人々が自己実現の果てに頼るものを見い出せなくなった時代も、変ることなく守って来た教会の信仰をわたしたちは受け継いで参ります。この信仰はイエス・キリストの体なる教会を形成する信仰に他なりません。

私は自分の願いとしては、こうだった、と先ほど申しました。「多くの人々に伝道したい、多くの人々を教会に招きたい、というわたしの願いは、断然正しいはずだ」と息巻いていたのかもしれません。しかし、主は弟子たちに、そしてわたしたちにも教えてくださいました。「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけなさい、と。そして「あなたの御名が聖とされますように」と祈りなさい、と。これが主の祈りの第一の祈りです。

御名、すなわち神さまのお名前が、崇められますように、とわたしたちは日本語で祈っています。崇めると訳されているこの言葉は、「聖別する、神聖なものとする」という意味です。つまり、単に恐れ多い、とか、尊いとか、大切にする、ということではありません。神さまのお名前は、神さまのご性質、お姿を表すお名前です。神さまは「父なる神さま」であります。また「天地の造り主」であります。また「贖い主」であり、「救い主」であるのです。神さまのお名前は、この方がすべてを造り、すべてを父の心をもって愛し、保ち、すべての罪を贖って救われる方であることを表しています。

では、この方の御名を聖とする、とはどうすることでしょうか。それは、わたしたちのかけがえのない命を創造し、また命を終わらせる神さまを信じ、讃美することに他なりません。わたしたちは、もし自分中心に考え、自分の利害損得にかかわることしか見ていないならば、神さまに心を向けることも讃美することもできないでしょう。しかし、その反対に、わたしたちがこの世界に目を向け、心を向けて、しっかりと見れば見るほど、讃美の思いが深まって行くのです。詩編8篇を読みましょう4-9節です。840頁。

「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によってつくられたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路うみじを渡るものも。」

このように、天の偉大さと大きさに比べれば、「なぜ神さまは一見して取るに足りない人間に関心を抱かれるのだろうか?」とわたしたちは思わずにはいられないのです。そして改めて人間を思うとき、すべてを造られた主なる神さまが、取るに足りない人間を心に留めることを良しとされたことは、本当に驚くべきことです。そこで遠く広く造られた世界を尋ね求めるならば、わたしたちは神さまの御名をほめたたえずにはいられないでしょう。詩8篇10節。「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう」と。

今日読んでいただいた旧約聖書、歴代誌上16章はダビデ王が神さまに捧げた讃美です。8節から読みます。「主に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。主に向かって歌い、ほめ歌を歌い、驚くべき御業をことごとく歌え。聖なる御名を誇りとせよ。主を求める人々よ、心に喜びを抱き、主を、主の御力を尋ね求め、常に御顔を求めよ。主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を、主の口から出る裁きを心に留めよ。主の僕イスラエルの子孫よ、ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ。」

ダビデは少年の頃から神さまだけを頼りに戦って来ました。しかし、彼がこの時このように賛美をささげたのは、激しく長い戦いの年月が終わりに近づいた時でした。神さまはどこまでもご自分を頼って救いを叫び求めていたダビデの祈りに応えてくださったからです。わたしたちにも戦いがあります。それは具体的には、槍を持って自分の命をつけ狙う王の軍隊と、いつ果てるともない戦いをしなければならなかったダビデとは比べものにならないでしょう。しかし、わたしたちの戦いも決して安易なものではないことを、わたしたちは知っております。

なぜなら、わたしたちは人生の先輩、信仰の先輩の方がtを沢山見ているからです。先に生れ、先に労苦し、先に年取って行きますから。明治以来、日本に稀に見る戦争のない時代が続き、戦争で苦しんだ世代も高度経済成長の時代を謳歌しました。戦後の教会に集い、教会を支えた多くの人々はこの世代の人々です。わたしたちは誰もが年を取って行きます。肝心なのはその時です。それからです。わたしたちはダビデ王のようにたくさんの献げ物をして礼拝を捧げ、主なる神さまにこの歌を讃美することができるでしょうか。

大多数のわたしたちには出来そうもありません。わたしたちはますます貧しく、小さく、もろいものになって行くでしょう。しかし、教会に足を運ぶことの大切さ、礼拝を共に捧げることの大切さを証ししてくださったのは、わたしたちより先に弱り、先に小さくなり、もろいものとなったわたしたちの人生と信仰の先輩の方々なのです。

老いて行くわたしたちの最後は大きな意味を持っています。ダビデ王には及ばなくても、わたしたちも多くを見聞きし、多くを体験し、多くの試練を通って来ました。そして今、年を取ることそのものが、誰にとっても大きな試練であります。しかし、よく考えてください。誰にとっても試練である高齢化の中で、生涯の終わりに至るまで神さまの御名をほめたたえる人々がいるのです。「振り返ってみれば、何もかも感謝というより他にはないのです」という言葉。私はこの教会に仕えて、この言葉を数えきれないほど聴きました。真心から生まれる、主をほめたたえる言葉です。それは神さまの御名をほめたたえる人々の命の尊さを表すものでなくて何でしょうか。なぜなら、人間に与えられた命の目的は、神さまをほめたたえることだからです。人間に与えられた使命、神さまの目的が、成宗教会に生涯の最期まで連なっておられる方々において全うされるのを、私たちは見ることができました。そして、これからも見ることができますように。

このように「神の御名が聖とされますように」という祈りはいつでも、どこでも、心から献げられるように、とわたしたちは求められています。私が自分の願いを正しいと思うときにも、特に自分のこの願いは断然叶えられるべきだという思いに捕らわれる時にも、神さまの御心のみが広く、深く、恵みに満ちた救いを実現されることを確信して、心砕かれるのが、この祈りなのではないでしょうか。

恵みに満ちた救いと申しましたが、ダビデ王の時代にはまだ誰も見ることのできなかった救いの業を、神さまはイエス・キリストにおいて成し遂げてくださいました。人間とは、死すべき者、弱い、罪人に過ぎない者ですが、神さまは初めにこれを御自分に似せてお造りになり、神の形としてくださいました。そしてその破れにも拘わらず、罪人の救いのために、御子は謙って地上に降られたのであります。罪人のために苦難を耐え忍び、罪人のために十字架に死んで、罪の贖いを成し遂げてくださいました。こうしてイエスさまは、すべての人のために死んでくださったのです。しかし、そのことによって、すべての人が自動的に救われる訳ではありません。そうではなくて自分が罪ある者と知り、悔い改めてイエスさまの執り成しを受け、神さまに従うならば、その人を救ってくださると、約束されたのであります。

今日読んでいただいた新約聖書、ローマの信徒への手紙11章33節ですが、一つ前の32節から読みましょう。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」と書かれています。わたしたちはこんなに心を込めて伝道したのに、信仰を受け入れる人々が少ないと嘆いているでしょうか。私は何度も申しましたように、「辞める前に、少しでも教会員を増やして…」などと、俄かに大きな望みを持ったりするのですが、全体としては、何も考えずに呑気に教会に仕えていたのだ、と思います。それはなぜかと言えば、伝道は神さまのなさることという実感があったからです。どんな困難な時にも、なぜか平安であり、理由もなく楽しかった、と振り返ることができるのは、聖霊の神さまが励ましてくださったからこそ、と感謝します。

あれほど一生懸命努力したのに、全く実を結ばないという出来事もある一方、私自身が蒔いた種ではないところから神さまの救いという思いがけない収穫があったこともあり、むしろこちらの方が多かったので、やはり、恵みによる救いは本当だったと、うれしく証しします。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。』すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」

私たちは過去から計り知れない恵みを受けたことを証しし、神さまの御名をほめたたえます。そしてこれから大きな困難に立ち向かう時にも、この恵みの神の御業を思い起こし、主の祈りを共に捧げて、成宗教会に連なり、天地に唯一の教会を告白したいと願います。本日は主の祈りを学びました。「カテキズム問57 主の祈りは何を第一に求めていますか。」そして答は「み名が聖とされますように」です。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美します。二月を迎えました。あなたの憐れみと恵みにより、私たちは御前に集められ、み言葉をいただきました。深く感謝申し上げます。どうか私たちに悔い改めの心を新たにさせてください。ただあなたの憐れみと恵みによって罪の赦しをいただいたことを覚え、聖なる御名をたたえる者となりますように。礼拝を去り、一週間の日常の生活に出て行くわたしたちをお支えください。その中でも、いつもあなたを覚え、イエスさまの執り成しによって祈り、謙って従って行く者でありますように。

私たちは自分の生活に追われるように年月を過ごしました。考えること少なく、祈ること少なく、思い煩うことの多い日々を悔いております。どうか主よ、私たちの弱さを覚え、私たちのために信仰の戦いを戦ってください。多くの人々は年を取ることに何の喜びも見出しませんが、私たちは、主に出会い、主と共に生きることこそ喜びであることを証ししたいと願います。どうか私たちを主の御体の肢として活かし用いて、どのような時にも聖なる御名を証しし、ご栄光を現わすものとならせてください。

今、お病気の方々、忙しい日々の労苦を負っておられる方々を覚えます。主の恵みがその方々の上に注がれますように。本日は聖餐に与ります。私たちの救いのためになされた主の御業の全てを感謝して与るものとならせてください。また本日予定されている長老会議の上に御心が成りますように。藤野先生ご夫妻の陪席をいただいて行われるこの会議を、最初から最後までお導きください。すべてのことを感謝し、御手に委ねます。

この感謝と願い、尊き主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。