誰が救われるのか

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌74番
讃美歌122番
讃美歌497番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミア書 32章17-20節 (旧約聖書1,239ページ)

32:17 「ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばない事は何一つありません。
32:18 あなたは恵みを幾千代に及ぼし、父祖の罪を子孫の身に報いられます。大いなる神、力ある神、その御名は万軍の主。
32:19 その謀は偉大であり、御業は力強い。あなたの目は人の歩みをすべて御覧になり、各人の道、行いの実りに応じて報いられます。
32:20 あなたはエジプトの国で現されたように今日に至るまで、イスラエルをはじめ全人類に対してしるしと奇跡を現し、今日のように御名があがめられるようにされました。

新約聖書:マルコによる福音書 10章23-31節 (新約聖書82ページ)

10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。
10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

《説教》『誰が救われるのか』

本日の物語に先立つ10章22節には、主イエスの御前にたくさんの財産をもった人が現れ、悲しみつつ去って行ったことが記されていました。永遠の生命を求めて御前に平伏しながら、御言葉に従うことが出来なかった人を見送りつつ、主イエスが弟子たちに語られたのが今日の聖書箇所です。この会話を通して、「神の国に入ること」即ち「救われる」ということが如何に困難なことであるか、ということを私たちは自覚しなければなりません。

「らくだが針の穴を通る」。実に極端なたとえであり、「不可能である」とさえ言われています。「救い」とは、このように本来有り得ない不思議な奇跡なのです。

神に逆らい、罪を背負い、なおそれを知らずに反逆者として滅びへの道を歩いていた私たちが、神の子とされ、永遠の生命を受けるということを、あらゆる奇跡に優る奇跡だと考えたことがあったでしょうか。絶対なる神、万物の主なる神、正義の神が救い上げるとは、「らくだが針の穴を通る」以上に不可能なことだと言われているのです。

多くの人々は、ここに語られた御言葉を、「財産のある者」「金持ち」のことであると考えますが、そうでしょうか。確かに、そう考える人は沢山います。所有物の全てを放棄し、世俗の富と無縁で生きようとした人は、古来、宗教を問わず大変多く知られています。

しかし、ここで語られる「難しさ」が「財産のある者・金持ちのことである」とするならば、それでは「貧しい者・貧乏人は神の国に入り易いのか」という反論が、成り立つでしょうが、神の国に入るのに、財産が問題になると言うのは釈然としません。

21節以下に記されていた主イエスの語られる財産問題はひとつの比喩でした。ここでも「財産のある者」「金持ち」という言葉を比喩として読まなければならないのです。マタイによる福音書 5章3節の有名な「山上の説教」で主イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と教えられました。

この「天の国」とは、今日の「神の国」のことです。そこに入る条件としての「貧しさ」とは、「心の貧しさ」のことなのです。しかも、主イエスが言われた「貧しさ」とは、「乏しさ」という程度ではなく、「物乞い」のことです。神の憐れみを「ほんのひとかけらでも頂かなければ、生きて行けない」と、必死の思いで、切実に求める人のことです。それが「心の貧しい者」のことなのです。

主イエスは、17節から22節で「ひとりの男」を例としてあげ、信仰に生きる人間の心構えをお話になったのです。それに対して28節でペトロが主イエスに直ちに反応して、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い出しました。果たしてそうであったでしょうか。確かに、かつてペトロは魚をとる漁師で、ガリラヤ湖畔で主イエスによる大漁の奇跡に出会い、主イエスの導きに従い、「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」のでした。「舟も網も捨てた」ということは事実ですが、それは何時まで続いたのでしょうか。ヨハネによる福音書 21章2節以下に主イエスの復活の様子がかたられていますが、そこには、「その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに二人の弟子たちが一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。」とあり、弟子たちは、主イエスの十字架の後、再びガリラヤに帰り、元の漁師に戻ろうとしていたのであり、何も変わっていなかったのです。「捨てる」とは形式的なことではなく、復帰の余地のないものでなければならないのです。「具合が悪くなったら元に戻す」というのでは「捨てた」ことにはならず、それは、「一時、横に置いた」ということに過ぎません。

そこで主イエスは、29節以下で、「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の生命を受ける。」と言われました。

これは、「自分の生活を支える身近なもののすべてを捨てよ」と主は言われるのです。「身近なもののすべてを捨てる」。財産放棄か、家出か、出家か。洋の東西を問わず、このようなことをした人は数多くいます。釈迦やアッシジのフランチェスコ、また多くの隠者、修道士、聖者など、無一物となり世界を放浪した修行者たちはいくらもいます。

しかし、家族と別れること自体に何の意味があるのでしょうか。イエスは、決して「家族と別れよ」などとはおっしゃってはいません。それどころか、30節では、それらを「百倍受ける」と言われています。しかも、その百倍の恩寵は「後の世」ではなく、原文では「迫害の中で」と記されており、岩波訳では、「今この時期に、迫害の中にあっても」と『現在』を強調しています。「捨てる」とは、「手放すこと」「別れること」のみを意味するのではなく、価値の転換を意味すると考えるべきでしょう。「私の家族」という考えを捨て、「神の家族」になるのです。「私の財産」ではなく、「神の財産」となるのです。全てをキリスト中心に考える時、家族もまた信仰の同労者、神の国への旅を共にする者となり、与えられている豊かさは、その旅路を全うするための「神よりの賜物」と見ることが出来るでしょう。かくて、この世に属するものとして執着して来たすべてがその価値を失い、神の民としての生活がそこから始まるのです。

今までのお話が、主イエスが教えられた「永遠の生命に至る道」です。しかし、「問題はここからである」とも言えます。いったい誰がこのような生き方によって、永遠の生命を獲得出来るかということです。

私たちは、自分を知れば知るほど、この道が困難であり、この方法が、自分にとって「あまりにもかけ離れたもの」であると言わざるを得ないでしょう。現実に、主イエスの前から立ち去った豊かな財産を持つ男だけではなく、私たちもまた、「それでは、だれが救われるのだろうか」という26節の言葉を、弟子たちと共に呟かざるを得ません。

31節で主イエスは、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われました。地上における先と後という順序がそのまま後の世、神の国における順序となるわけではない、ということです。マタイによる福音書21章31節では「先の者」とは祭司長や民の長老たちを指し、「後の者」とは徴税人や娼婦のような罪人を示していました。ルカによる福音書13章30節では「先の人」とはユダヤ人を、「後の人」とは異邦人を示していました。それは、神の救いが人間の功績によって得られるのではなく、ただ神の恵みによってのみ与えられることが示されています。人間の功績、どれだけ立派な善い行いをしたのかと問えば、そこには先と後という順序、序列が生まれます。しかし、その順序は神の国、神による救いにおいては何の関わりもありません。むしろ神は、恵みを際立たせるためにしばしば、後のものを先に、先のものを後になさるのです。今先頭を走っている者が真っ先に救いにあずかるわけではないし、今はまだ神の恵みを拒んでいる者が、何でもおできになる神の力によって、先に救いにあずかっていくことも起るのです。私たちの救いは、私たちの努力や功績によってではなくて、ただ神の恵みによって、主イエス・キリストの十字架の死と復活において示された神の全能の力によって与えられるのです。

自分が先に救われて洗礼を受けているといった自尊心にしがみつくことをやめて、神の恵みに身を委ねていくなら、私たちはこのような後先の逆転を受け入れることができます。そこには、お互いの地上の富を比べ合い、それによって順序、序列をつけ、どちらが先か後かと競い合い、誇って人を見下したり、劣等感にさいなまれて人を妬んだりすることから解放されて、天の富、神様の恵みに依り頼み、その恵みによってお互いに与えられている賜物を喜び合い、生かし合い、お互いに仕え合っていくような、百倍千倍も豊かな人間関係が与えられていくのです。

お祈りを致しましょう。

言(ことば)は神であった

クリスマスイヴ礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌98番
讃美歌121番
讃美歌109番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 9章1-5節 (旧約聖書1,074ページ)

9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
9:2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。
9:3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

新約聖書:ヨハネによる福音書 1章1-14節 (新約聖書163ページ)

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

《説教》『言(ことば)は神であった』

このヨハネによる福音書1章1節にある「初めに言があった」とは謎のような分かり難い言葉です。まず漢字で「言」と書いて、これを「ことば」と読みます。この読み方も初めから、この福音書を分かり難くしている理由かも知れません。そんな多くの謎も、先へ読み進んでいくと少しずつ解きほぐされ、語られていることが分かってきます。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」、これは、何のことを言っているのか、14節を読むとはっきりします。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。ここで「肉となって」とあるのは「肉なる人」つまり「人となって」という意味です。神と共にあり、それ自身が神である、初めにあった言、その言が肉となって私たちの間に宿られた。それは、まさに神の独り子イエス・キリストのことです。その栄光が父なる神の独り子としての栄光だったと言われていることからもそれが分かります。初めにあった言とは、神の独り子であられる主イエス・キリストのことなのです。神の子である主イエスが、全てのものの初めに、父である神と共におられたと語っているのです。2節にはもう一度、「この言は、初めに神と共にあった」と繰り返されています。そして3節には、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とあります。父なる神と共におられた独り子主イエス、「言」であるその方によって、この世の全てのものは成ったのです。「成った」とは「創造された」ということです。父なる神と共におられ、ご自身も神であられる独り子主イエスによって、この世の全てのものは造られた、主イエスは、全てのものをお造りになった創造者なる神である、ということをこの福音書ははっきりと語っているのです。

それは、天地をお造りになったのは父なる神ではなくて主イエスだ、ということではありません。天地を創造なさったのは父なる神です。後に肉となって私たちの間に宿って下さり、人間となって、この世界に来て下さった主イエスは、世の初めから、父である神と共におられ、ご自身もまことの神として天地創造のみ業に関わっておられた、それが、この福音書が宣べ伝えようとしていることなのです。

1節、2節で使われている「初めに」という言葉は、旧約聖書の創世記第1章1節の「初めに神は天地を創造された」と連動しているのです。神による天地創造こそが、聖書が語るこの世界の「初め」なのです。

「言」による天地創造とは、天地創造においても、神の独り子である主イエス・キリストが神と共にあって、私たちに語りかけてくださっておられるということです。言葉というのは必ず語りかける相手があるものです。天地創造における神の言葉は、虚しい空間に向かって語られたのではありません。神は言葉によって天地をお造りになり、私たち人間が生きることのできる場としてこの世界をお造りになったのです。そして神は言葉によって私たち人間を造り、命を与えて下さり、私たちを、神の言葉を聞き、それに応答して生きるもの、人間として、神と交わりをもって生きる存在として下さったのです。

主イエスこそ、初めにあった「言」であり、その「言」によって全てのものは造られた。この言こそ命であり、光である。その光が世に来て、全ての人を照らして下さる光、救い主となって下さる。それが主イエス・キリストであると、ヨハネ福音書は語っています。

しかしそれは、誰が読んでも「その通りである」と理解でき、納得できるものではありません。そのことを信じるのか、信じないかの決断が私たちに求められているのです。主イエス・キリストのご生涯とは、まさにそのような歩みだったということが、10節以下で語られています。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。「言」は主イエス・キリストという一人の人となって、私たちのこの世界に来て下さいました。主イエスは、ご自分が創造し、命を与えたご自分の民のところに来られたのです。しかし人々は、その主イエスを認めず、受け入れなかった、主イエスを拒み、十字架につけて殺してしまったのです。この世の人々は、主イエスがまことの神であり救い主であることが分からなかったのです。

12節に、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります。主イエスを受け入れ、そのみ名を信じる者に、主イエスは「神の子となる資格」を与えて下さるのです。ここで「資格」と訳されていますが、これは私たちが試験を受けて取るような資格とは全く違います。資格と訳されている言葉は「権威」という意味です。「権威」は、獲得するものではなくて与えられ、認められるものです。神の子となることも、私たちが自分の力でその資格を得るのではありません。神が子として認め、受け入れて下さるという恵みによって与えられるのです。生まれつきの私たちは、この世界と私たちを造り、生かして下さっている神に逆らい、神を神として認めずに拒んでいる罪人であって、神の子となることなど到底出来ない者です。神はその私たちをご自分の子としようとして、神はその独り子である主イエス・キリストを人間としてこの世に遣わし、その十字架の死によって私たちの罪を赦して下さいました。神が遣わして下さったこのただ一人のまことの神の子主イエス・キリストを救い主と信じて受け入れ、主イエスと共に生きるなら、神はその人をご自分の子として受け入れて下さるのです。それは13節に語られている、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」ということが実現することです。主イエス・キリストを自分の救い主と信じるなら、神は私たちをご自分の子として生まれ変わらせて下さるのです。

神の「言」としての主イエスのご生涯を語っているのがこのヨハネ福音書です。主イエスのご生涯全体が、神の言、神から私たちへの恵みの言葉の語りかけなのです。3章16節に、この福音書を凝縮したような言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。主イエスという「言」が私たちに語りかけているのはこの神の愛です。主イエスは、その愛のみ心を実現するために、神に背き逆らい、み言葉に応答しない私たち罪ある人間のところに来て共に生きて下さいました。そして、私たちの身代わりとなって、私たち罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。父なる神はその主イエスを復活させて下さいました。主イエスの復活によって、神の恵みのみ心が、人間の罪と死とに勝利したのです。私たちも今、神の「言」であられる主イエスとの出会いを与えられています。そして復活して今も生きて働いておられる主イエスが私たちに呼びかけておられるのです。その主イエスの呼びかけに私たちが応え、主イエスは神の子メシアであると信じて告白する時、神は私たちを神の国の愛と平安の中に入れてくださるのです。

お一人でも多くの方が、このキリストの愛、キリストの救いへと導きいれられますよう、主イエス・キリストの愛と恵みに溢れた呼びかけに感謝して、お祈りを致します。 皆様、お祈りの姿勢をお取りください。

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イエス様の誕生

主日CS合同クリスマス礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌94番
讃美歌108番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 9章5節 (旧約聖書1,074ページ)

9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

新約聖書:ルカによる福音書 2章1-7節 (新約聖書102ページ)

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

《説教》『イエス様の誕生』

主イエスの誕生を語るこの箇所は、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」という書き出しで始まっています。皇帝アウグストゥスとは、ローマ帝国の最初の皇帝です。彼の時代から、ローマは共和国から皇帝の治める帝国になったのです。彼はオクタヴィアヌスという名前でしたが、紀元前44年に暗殺されたユリウス・カエサルの養子、後継者となり、カエサル亡き後の長い内戦に終止符を打ち、勝利者となりました。ローマの元老院は紀元前27年に彼に「アウグストゥス」という尊称を贈りました。権限を得た彼は次第に帝政を敷き、ローマは共和国から皇帝の治める帝国となったのです。このおよそ百年後にルカはこの福音書を書いたのです。

さてこの皇帝アウグストゥスが、「全領土の住民に、登録をせよとの勅令」を出したとあります。これは、人口調査のための住民登録です。人口調査はそれぞれの地域に住む人々の数や経済状態、生活の様子を調べることによって政策決定の基礎データを収集するために行われました。アウグストゥスはその治世の間に三度この調査を行いました。ルカが福音書を書いたこの時、ユダヤはヘロデが王である王国でした。形は独立国家の王国でしたが、ユダヤは既に事実上ローマの支配下にあり、ローマ帝国の住民登録の対象になっていたのです。1節には、この住民登録が「キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の」ものだったとあります。このキリニウスとは、長くローマ帝国シリア州の総督を務めた人です。ただし、主イエスがお生まれになった時の住民登録が、キリニウスがシリア州の総督であったということについては、歴史的に疑問がある様です。さらに、3節の「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」ということも疑問です。果して当時の住民登録がここに語られているように、おのおのが先祖の町、いわば本籍地に行って登録するという仕方で行われたのかどうかはかなり疑問です。父のヨセフもそうであったように、本籍地を離れて暮らしていた人も多かった筈です。それらの人々がいっせいに本籍地に戻って登録をするなどというのは現実離れしているように思われます。むしろ、私たちの現在の国勢調査がそうであるように、今住んでいる所で登録をした方が現状が把握できてよい筈です。ですから、このような方法での住民登録が本当に行われたのかどうかは、かなり疑問があるのです。

ローマ皇帝アウグストゥスについて、そして主イエスがお生まれになった時のユダヤの状況について見てきましたが、それでは、本日のこの主イエス誕生の物語でルカは何を語ろうとしているのでしょうか。

当時の人々にとって、ローマ帝国こそが様々な民族を包み込むすべての世界でした。ローマ帝国が全世界であり、その外のことは人々に知られていなかったのです。ですから、ローマ皇帝は全世界の支配者だったのです。そのローマ皇帝の支配下でヨセフとマリアが旅をして、その旅先で主イエスがお生まれになったと語ることによって、主イエスの誕生が、この世界全体の政治的、経済的、軍事的な動き、支配と深く結びついた出来事であることを語ろうとしているのです。

しかしそれは主イエスもこれらの政治的支配に従属している、ということではありません。ルカは第1章で、生まれてくる主イエスが、いと高き方である神の子であり、神の民の王ダビデの王座を受け継ぎ、神様の救いにあずかる民を永遠に支配する方であることを語ってきました。神の子主イエスこそまことの王、支配者であられるのです。ですからルカはここで世界の支配者皇帝アウグストゥスの名を挙げることによって、主イエスとアウグストゥスとを並べて、いったいどちらが本当の王、支配者なのか、という問いを読む者に提起しているとも言えます。実際当時のローマ帝国では、アウグストゥスのことを「救い主」と呼び、その誕生日を「福音」救いをもたらす良い知らせとして祝うということがなされていたようです。ルカはそのような中で、本当の救い主は誰なのか、本当の良い知らせとは何なのか、誰の誕生をこそ本当に福音として喜ぶべきなのか、ということを問いかけているのです。

加えてルカが、歴史的事実とは必ずしも一致しなくても、この住民登録の物語によって主イエスの誕生を語っているのは、主イエスがベツレヘムでお生まれになることが実現したことを語るためです。ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフとマリアがベツレヘムで出産をする必然性など少しもないのです。しかし皇帝アウグストゥスのあの勅令のために、彼らは身重の体でベツレヘムまで旅をすることになり、そしてベツレヘムで主イエスが生まれたのです。では、ベツレヘムで生まれるということにどういう意味があるのでしょうか。そのことが4節に語られています。ヨセフはダビデの家に属し、その血筋だった。ユダヤの繁栄の頂点だったダビデ王の子孫だったのです。ベツレヘムはダビデ王の出身地です。そこにヨセフの本籍もあり、彼は身ごもっていたいいなずけのマリアを連れて、そこへ登録に行ったのです。それによって、旧約聖書ミカ書5章1節の預言が成就したのです。そこにこうあります。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」。神様の民イスラエルを治める者、本当の支配者であり救い主である方が、ベツレヘムで、ダビデの子孫から生まれるという預言です。また本日読まれましたイザヤ書9章5節には「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる」とあります。主イエスがベツレヘムでお生まれになったことによって、ダビデ王に優る統治者、いや、ローマ皇帝をも凌ぐ「救い主」が生まれるという、これらの預言が実現したのです。主イエスがベツレヘムでお生まれになったのは、主なる神様が前もって計画し、旧約聖書で告げておられたご計画の成就、み心の実現だったのです。皇帝アウグストゥスの勅令は、主なる神様の救いのご計画、み業の中にあり、ベツレへムでの救い主の誕生という預言の成就のために用いられたのです。主なる神様こそ、皇帝をも用いて私たちの救いのためのみ心を実現して下さる本当の支配者なのです。ルカが主イエスの誕生をこのように描いたのは、そのことを語るためであり、私たちがこの箇所から聞き取るべき最も大事なこともこのことなのです。

世界の歴史を本当に支配し、導き、用いておられたのは主なる神様です。神様はこの不安や悲しみに満ちた現実のこの世界の中に御子を誕生させ、飼い葉桶の中に寝かせて下さいました。この飼い葉桶は、御子イエスが歩まれるご生涯を、とりわけ私たちを救うための十字架の贖いの死を暗示しています。神様は主イエスの苦しみと十字架の死とによって私たちのための救いのみ業を成し遂げて下さり、復活によって私たちにも、死に勝利する新しい命の約束を与えて下さったのです。

今日のクリスマスに生まれて来られた御子、主イエス・キリストこそが私たちの「救い主」「メシア」「キリスト」です。お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

御心の中を生きよ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌120番
讃美歌205番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 5篇12節 (旧約聖書838ページ)

5:12 あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い
とこしえに喜び歌います。
御名を愛する者はあなたに守られ
あなたによって喜び誇ります。

新約聖書:マルコによる福音書 10章13-16節 (新約聖書81ページ)

10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

《説教》『御心の中を生きよ』

今日の、マルコによる福音書が語るところは、主イエスの十字架の待つエルサレムへの旅の途上です。

ガリラヤにおける活動も終わり、神が定められた十字架の時が近づいたことを悟られた主イエスは、弟子たちを連れ、エルサレムへ向けて足を速められていました。マルコは、その旅の途中で起きたこのエピソードを語るのです。

主イエスに敵対する人々の憎しみを含んだ行動は一層強まり、十字架の苦難が必然となったこの段階で、主イエスのもとに子供を連れて来るということは、周囲の人々の眼を意識するならば、この親たちにとって大胆な行為であったと言えるでしょう。ところが、そんな思いでやって来た人々を、弟子たちは「叱った」というのです。

これは、いったい何を意味しているのでしょうか。子供を連れて来た親たちに向かって「うるさい」と言って叱りつけたのでしょうか。聖書から具体的なことはよく分かりません。

これまで、主イエスが御言葉を語るときには、大人に混じって常に子供たちも集っていたと思われます。例えば、使徒言行録9章36節以下では、主イエスは傍にいた子供を抱き上げて説教の材料にしていますし、マタイ福音書14章21節で「五つのパンの奇跡」を行った時、そこに「子供がいた」ことが記されています。そして、初代の教会では、「家族全員、即ち子供連れで礼拝に出席する」ことが原則になっていました。「子供はうるさいから」と言って排除する考え方は、初めから聖書にはありません。むしろ「子供が共に居る方が正常な姿である」と言うべきでしょう。

それでは、何故、弟子たちは人々を叱ったのでしょうか。彼らは、「主イエスのために」集まって来た人々を押し止めたとも考えられています。

ある人は、この頃の「イエスの疲れ」を指摘します。また、次から次に主イエスに「あまりにも多くのことが求められている」とも言われ、追い迫る律法学者たちの憎しみの中で「大きな緊張を余儀なくされていた」ことも示唆されています。

これまでの長い旅と、その途中で繰り返されて来た反対者たちとの論争。そして今、十字架のエルサレムへ向かう主イエスの決然とした姿勢。このような状況の中で、弟子たちが主イエスを「しばらく、そっとしておいてあげたい」と考えたとしても少しも不思議はないでしょう。お傍に仕える弟子としての責任からこのように判断したとしても、それは当然の心遣いであったと見ることも出来ます。弟子たちは、恐らく、そう考えて子供連れて来た親たちを叱ったと思われます。

しかしながら、ここで主イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」

イエスの憤りは大変珍しいことです。聖書の中で「イエスの憤り」が記されているところはほんの僅かであり、エルサレム神殿における「宮潔め」以外、直ちに思い起こすのも困難なほどです。しかも、「憤る」と訳されている言葉「avganakte,w (アガナクテオー)」が主イエスに用いられているのはここだけです。

さらにまた、弟子たちに語られた「来させなさい」「妨げてはならない」とは、いずれも、はっきりとした命令文であり、彼らのとった態度を「たしなめる」という程度のものもではなく、彼らの判断をはっきりと否定されています。子供たちを追い出そうとする弟子たちに対し、「追い出さなくても良い」とおっしゃっておられるのではなく、むしろ、追い出そうとしている弟子たちに対して、イエスは「激しく怒っておられる」のです。何故、主は、これ程までに怒られるのでしょうか。弟子たちの姿の何処に、これほどの主イエスの憤りを買うものがあったのでしょうか。

それは、「主イエスのもとに近づこうとする人を妨げた」からなのです。主の御前に出る人を妨害することは、主の最も嫌われることでした。たとえそれが、如何に主イエスのためであったとしても、なお、主の御許に近づく人々を止めてはならないのです。十字架へ向かう主イエスからすれば、神の御前に出る機会を奪うサタンの業以外の何ものでもありませんでした。主イエスの憤りの背後には、弟子たちに追い出された人々への強い愛があることを見なければなりません。

さらに、ここに連れて来られた子供と親の姿の中に、「人間本来のあるべき姿」も見なければなりません。家庭は、主の御心を表すべく造られて行くのです。

家庭が御心によるものであるならば、その家庭に生み出されてきたものは、「全て神の意志の下にある」と考えるのが当然です。よく、子供は夫婦の愛の結晶であると言われますが、それに間違いはありません。しかし、結婚に対する神の導きを信じる者は、その結婚の実りのひとつである子供の誕生も、当然、神よりの賜物と受けとめるべきなのです。

子供についての親のエゴイズムは、常にこの信仰から離れた所から生じるのです。旧約以来、結婚への招きは「子供を与える」という約束と結び付けられており、信仰者の家庭に産まれた子供たちは、産まれた瞬間から「神の国に所属している」と考えるべきです。それ故に、子供を主の御前に連れて行くことは親の義務であり、責任であると言えるでしょう。御心に応える正しい家庭生活はそこから始まります。神の国とは、このような生活を送る者の国であり、主イエスの祝福を受けなくては「家庭の祝福はありえない」ということこそ、信仰に生きる者の家庭なのです。

主イエスは、私たち小さな者の幸福のために、何時・如何なる時も御心を傾けて下さり、妨げる者を叱りつけてまで顧みて下さるのです。

主イエスは15節で、「子供のように神の国を受け入れる人」と言われました。「子供のように」とはどういうことでしょうか。子供のように純真な、汚れを知らない、ということでしょうか。そうではありません。子供は純真であり、汚れを知らないという考え方は聖書にはありません。今日、子供たちの間で起っている陰湿ないじめの問題一つを取っても、子供には罪や汚れがないというのは大人の勝手な願望に過ぎないことが分かります。子供は子供なりに罪を持っているのです。

主イエスが「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃったのも、決して子供を理想化して言っておられるのではありません。ここには「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とあります。「子供のように神の国を受け入れる」というのは、積極的な行為として語られているのではなくて、与えられたものをただ受ける、という受動的なことなのです。ここに出て来る子供たちは、親たちに連れて来られた者です。子供たちは、自分の意志で主イエスのもとに来たのではありません。子供たち自身が自分で主イエスの祝福を求めているのではないし、主イエスが宣べ伝えておられる神の国を自ら受け入れ、それを信じて来ているのではないのです。子供たちは、親に連れて来られるままに主イエスのもとに来たのです。そして主イエスが受け入れ、祝福して下さるなら彼らは祝福を受けるし、そうでないなら祝福を受けずに帰ることになるのです。子供たちは主イエスの祝福を全く受動的に、ただ受けるのみです。自分は良い行いをしています、これだけの正しさ、立派さを持っています、これだけのものを神様にお捧げし、奉仕しています、だから祝福して下さいなどと要求してもいません。主イエスはそのような子供たちを喜んで迎え入れて下さり、彼らを抱き上げ、手を置いて祝福して下さるのです。親たちは、主イエスに触れてもらって祝福をいただこうとして子供たちを連れて来たのです。それは神社で七五三のお祝いをするのと変わらない思いだったでしょう。主イエスは、子供たち一人一人をご自分の腕に抱き上げて下さった、それぞれの全身を、それぞれの人生の全体を、み手の内に置いて、祝福して下さったのです。

ここで子供とは、与えられたものを素直に受け入れる見本とも言える存在なのです。主イエスは、子供が親にすがりつくように、人は神に「すがりついて」生きるべきだとおっしゃっているのです。一切の自己主張、自己満足を排し、ただ神の庇護の下に生きる道を求める者、それこそが神の国に生きる人間の姿なのです。そして、そのような生き方を実現したのが御子イエスの生涯でした。

家族そろって主イエスの祝福を求めて来た人々を、何故、叱り退けるのか。神の喜びは何処にあると考えているのか。全ての人々を招く御心を妨げることが、いったい誰に許されるのか。誰に出来るのか。主イエスの憤りは、ここにあったのです。それは、御前に出る私たちを、他の何者にも代えがたく思って下さるキリストの愛そのものでした。その愛が、今も私たちに注がれているのです。私たちも、ただひたすらに主の御心の中を生きて行きましょう。

主イエス・キリストの眼差しが、私たちを神の国の民とされようと今も見詰め続けて下さっていることを感謝すべきでしょう。ここにこそ、神の子としての平安があるのです。

お祈りを致します。