謙遜な神様

CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌19番
讃美歌183番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 45章23-25節 (旧約聖書1,137ページ)・

45:23 わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ/すべての舌は誓いを立て
45:24 恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。主に対して怒りを燃やした者はことごとく/主に服し、恥を受ける。
45:25 イスラエルの子孫はすべて/主によって、正しい者とされて誇る。

新約聖書:フィリピの信徒への手紙 2章6-11節 (新約聖書363ページ)

2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえ

《説教》『謙遜な神様』

今日は「新型コロナウィルス感染症による緊急事態宣言」が解除されましたが、東京は引き続いて「まん延防止等重点措置」となってしまい、折角大変久し振りに礼拝堂に集い、教会学校の生徒さんや父母の方々を含めて教会学校との合同礼拝を守ることが、今日は出来ませんでしたが、ライブ配信を通しても、豊かな御言葉に出会えますことを感謝します。また、早く皆様と一堂に揃って礼拝・賛美の時が与えられます様、祈り願います。

今日の聖書箇所は、使徒パウロがキリスト・イエスの本当のお姿をフィリピ教会の信徒だけでなく私たちに熱く語られた『キリスト賛歌』と呼ばれているところです。

私たちは自分自身を省みる時、へりくだることは全く苦手な者であると言えるでしょう。とりわけ自分が目上であったり、自分が優位な立場にある相手に対しては、とてもへりくだることなどできません。そのような私たちに向かって、パウロは、少し前の5節から、へりくだることの大切さを語っているのです。そこには、「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」とあります。パウロは、信仰者がへりくだることの根拠は、キリスト・イエスのへりくだりにあると言うのです。「へりくだる」とは、自分で何か努力して、自分が頑張ってするのではなく、ただキリストを見つめることだと言うのです。

キリストを見つめるとは、キリストをお手本にして、その素晴らしい生き方を見倣うのではありません。キリストを見つめるとは、キリストを自らの救い主と受け入れ、キリストに救われ、キリストご自身の思いを、周りの人々に対して生かすことです。それは、私たちが自分の力で成し遂げられることではなく、キリストに救われた者が、その救いの恵みに感謝して行く時に自然と生まれてくることなのです。

キリスト信仰者が見つめるべき主イエスのお姿は6節から8節に記されています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で表れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。ここは、パウロ以前の初代教会時代で謳われていたキリスト讃歌として知られていました。その当時の教会でどのような礼拝讃美が行われていたか、また、パウロがこのキリスト讃歌にどのように手を加えたかなどが、大変よく研究されてきた聖書箇所と言えます。

ここには、キリストがどのようなお方かが明確に示されています。教会は、ここに記されているキリストのお姿に触れて、讃美を歌わずにはいられなかったのです。ここで先ず、キリストが神の身分であったとあります。キリストは神と等しい方、神ご自身であったのです。しかし、それに固執せず、拘らずに、神の身分を捨てて、人間と同じ者になられたのです。キリスト・イエスとは、神でありながら人となられた方なのです。この世界を創られた創造主である神は、ご自身が造られた被造物である人間と同じではないと私たちは考えます。しかし、主イエスとは、創造主である神ご自身が人となられたのです。創造主なる神、父なる神が、人であるキリスト・イエスとなって世界に来て下さったのです。それも、ただ神が人となったというだけでなく、へりくだって、十字架の死に至るまで従順だったとあるのです。

主イエスが、人間となって、力強い御言葉を語り、人々を癒し、素晴らしい生き方の見本を見せたと言っているのではありません。「十字架の死」にまで従順だったというのです。ここに「十字架の死」という言葉が出てきます。聖書は主イエスが十字架刑によって死なれたことを記しますが、聖書の中でキリストの死を「十字架の死」と言う概念をもって示すのは、今日のこの箇所だけです。十字架刑は、当時のローマ帝国で、最も重い刑罰でした。しかし、ここでの「十字架の死」とは、神様の裁きとしての死のことです。

私たちは、死と聞くと、私たちがいずれ迎える肉体の滅びとしての死を考えます。しかし、聖書は死にもっともっと深い意味を込めているのです。エデンの園から追われた人間は神様から離れて、神様ではなく自分自身が、自分の主人として生きてしまいます。そのように神様から離れることを罪と呼びます。その罪に支配された人間が受けなくてはいけない神の裁きが「十字架の死」なのです。

その十字架の死をキリストが受けて下さったというのです。本来、罪人である人間が受けなくてはならなかった神の裁きとしての死を、人間の姿をとって世に来て下さった神である主イエスが受けて下さった。その刑罰を受けることを、抵抗することもなく、それが人間を救おうとする神の御心である「十字架の死」を受けて下さったのです。私たちすべての人間の行き着く「滅びとしての死」、人間が罪人である以上、避けることが出来ないものを、罪の無い主イエスが受けて下さった。そのように考えると、十字架において主イエスは、人間以上に人間の姿をとって下さったと言っても良いでしょう。罪人が行き着く悲惨な死が、主イエスの十字架の死にあるからです。この出来事こそ、キリストの「へりくだり」ということなのです。ここに、私たちが見つめるべき、へりくだることの原型と言うべきものがあるのです。それは、私たち人間の謙遜などとは全く異なるものであり、キリストの救いにあずかることなしには生まれて来ないものなのです。

今日の聖書箇所の直前の3節で、パウロは、教会の人々にへりくだることを勧める際に、「何事も利己心や虚栄心から」しないようにと語っています。これは、キリストが自分に固執せずにむしろ自分を無にしたというその姿勢が私たちの中に生じる時にはじめて、「利己心」とか「虚栄心」によって振る舞わないという姿勢が取れるというのです。「利己心」というのは、自分の利益のみを求めて行動することです。「虚栄心」とは、自分に栄光が帰されること、人から評価されることを求める思いです。これらのことは、私たち人間の感情においては、ごく自然なものと言って良いかもしれません。「利己心」や「虚栄心」は全ての人間の本質と言っても良いでしょう。私たちは、いつも自分が高められることを求めています。周囲の人々に正当に評価されたいと思いますし、自分が見下されることは耐えられないものです。

そのような私たちにとって、自らの振る舞い全てが、いつしか、自分が高められるということを求めて行われるようになってしまうのです。そこで、個人の業績だったり、学歴だったり、財産だったり自分に栄光を帰してくれるものを求め、それに依り頼んで歩むようになるのです。6節の「固執しようとは思わず」とある「固執する」とは「略奪する」という意味の言葉です、従ってここは「奪い取ろうとは思わず」という意味です。私たちは、本来、自分の身分を高めるために必要なものを獲得しようとします。時には奪い取るようにして獲得し、そして、そのようにして得たものにしがみつき、それを離したくないと思います。固執すると言うのは、しがみつき、離れないことです。自分が人々から誉められ、あがめられることを求めるようになるのです。しかし、私たちがキリストに救われた時に、生きる歩みの中に、自分に固執せず、自分を無にする歩み、言い替えれば、利己心や虚栄心から解放された歩みが生まれていくのです。

大切なことは、キリストのへりくだり、従順の極みである「十字架の死」とは、模範を示すためのものではないのです。「十字架の死」はへりくだりの模範の極みとも言えますが、それ以上に、人間の救いの出来事そのものなのです。このことが忘れられると、キリストの十字架を模範とすることのみが、ただ、私たちの行動を規定するものとなります。例えば、主イエスのお姿から、道徳の規範のみを倣おうとすることが起こります。偉大な教えを説き、人々に良い行いの模範となって下さった主イエスに倣うと言うことのみが強調されてしまいます。主イエスに倣って、少しでも清く正しい歩みをして行こうとするのです。そこからは、周囲の人々の振る舞いを見て、裁くということが起こります。それどころか、主イエスを偉大な革命家のように捉え、主イエスの姿に倣って、その意志を実現するための活動に奔走すると言うこともあるでしょう。そこでは、自分の身近にある社会問題に取り組むことが、キリストに従うことになってしまいます。主イエスを、道徳の教師や、政治的な指導者として考えてしまうとするならば、それは誤りです。そのような時には、キリストを語ることを通して、キリストにかたどった人間の主義主張や倫理観が説かれていくのです。それは、いつしか、それを行い、あるいは、その価値に従うことがキリスト者の務めであるかのように捉えられ、周囲の人々を自分が行っている特定の活動や、特定の価値観に巻き込んでいくことになるでしょう。そこには、本当に、へりくだり、他人を敬い、その賜物を尊重する歩みは生まれて来ません。それは、キリストのへりくだりの中にある、罪の赦しに生かされることが見失われているからです。しかし、ここでは、「キリストのへりくだり」だけを言っているのではありません。今日の後半部の9節には、「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。キリストが十字架に至るまでの従順を貫いたが故に天におられる神様のもとに高く挙げられたと言うのです。このことは、何を意味しているでしょうか。

信仰者の原型となるキリストのへりくだりが語られ、それに続いて、キリストが天に高く挙げられる「キリストの高挙」が語られているのです。ここもそのように考えると、キリストのようにへりくだる歩みをした者は、キリストのように高く挙げられるのだと思ってしまうのではないでしょうか。しかし、ここは、従順を貫くことができた者は、そのご褒美としてキリストのように天に挙げてもらえると言うことではありません。このことは10節と11節では、「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストが主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」とあり、またまた、ちょっと理解しにくい話とも思われます。「天上」、「地上」、「地下」、と言われている通り、全ての被造物を含めた、この世界のあらゆるものが、イエスを主として、真に神を讃えるようになるために高く挙げられたと言われているのです。主なる神がキリストに全世界を支配する主権者としての地位を与えた、キリストは神の身分でありながらへりくだったのです。これは、私たちが「イエス・キリストは主である」と告白して、神をたたえつつ歩むことだけでしか、本当にへりくだった者となれないと言っているのです。

私たちは、この世にあって生きている限り、自分が評価されることに拘り続ける者です。何事も利己心や虚栄心から行ってしまう者です。他人のために尽くそうとする時でさえ、又、様々な奉仕に携わる時でさえ、利己心や虚栄心が潜んでいると言えましょう。困難な中にある人々のための活動も、社会の中で虐げられている人々のための奉仕も、自分の業績を評価されることのために行うのであれば、それは方向違いと言えるでしょう。

私たちは、先ず、「イエスの御名にひざまずき」、「『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえ」なければならないのです。主イエスこそが、私たちのためにへりくだって十字架の死を死んで下さったのです。ただ、主イエスのへりくだりに示された救いにあずかることを通してのみ、私たちは、自分に固執せずに、利己心や虚栄心からではなく、キリストを証しするための、愛の業に励むことが出来るのです。

今週も、神を讃美しつつ、新しい歩みを始めたいと思います。お祈りを致します。

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主は近くにおられる

8月の説教

説教箇所 フィリピの信徒への手紙4章1-7

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。」(5節)

主にある兄弟姉妹の皆様、今日もまた、共に主の御言葉を聞きましょう。

本日の礼拝では、「フィリピの信徒への手紙」第4章の箇所が与えられています。これは、使徒パウロがフィリピという今日のギリシャにあった町の信徒に対して送った手紙です。

また「フィリピの信徒への手紙」は、別名「喜びの手紙」と呼ばれることがあります。それは、この手紙の中で、パウロが、繰り返し「喜び」という言葉を用いているからです。今日の聖書箇所である4章は、そのフィリピの信徒への手紙の1番最後の章になりますが、その3節には、次のように記されております。「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」さらに4節にも、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と記されております。

このように喜びということが強調されている手紙ではありますが、それはなぜでしょうか。それほどフィリピの信徒たちが、喜んでいたからでしょうか。喜びに満ちた信仰生活を送っていたからでしょうか。残念ながら、多くの人は、そうではないと考えられています。喜びなさいとパウロが命じるのは、実際には、フィリピの教会が、喜びとは、ほど遠い状態であったからでした。

フィリピの教会から喜びを奪っていたものとは、教会内にあった不和や対立であったと考えられています。それは、今日の聖書箇所にも表れています。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」(2節)

ここでは、エボディアとシンティケという二人の人の名前が登場します。パウロの手紙には、しばしば実在の人物の名前が登場します。それは、パウロが、ただ深遠な神学書を書くことを目的にしていたのではなく、現実の教会のために、つまり実在する教会とそこに集う人々を想いながら、手紙を書き送ったからです。そのため、このエボディアとシンティケというのも実在の人物であったと考えられています。おそらくフィリピの教会に属する人で、フィリピの教会に対して、とくに重要な働きを担っていた人だったと考えられます。

興味深いことに、この二人の名前は、ともに女性の名前だとされています。今日でも、教会は、男性よりも女性の数が多いところです。それは、日本の教会ばかりではなく、世界的傾向といってもよいと思います。そのため、教会の実際の働きには、女性の力が必要不可欠です。それは、この成宗教会もそうでありますし、聖書の時代の教会も同様であったわけです。

おそらく、エボディアもシンティケもフィリピの教会を献身的に支えていた女性であったと考えられます。そして理由は、はっきりとは記されていませんが、この時、二人の間には、何らかの行き違いや対立が生じていました。些細な事が原因であったかもしれませんし、あるいは重要な信仰上、教会運営の意見の対立であったかもしれません。一つ確かなことは、二人の対立の結果、フィリピの教会から喜びが失われ、悲しみが生じており、またそれが遠方にいたパウロの耳にも達していたということでした。

これは教会の現実の姿を伝えていると言えます。悲しむべきことに、教会にもしばしば対立が生じることがあります。伝道や教会の方針を巡る意見の対立を巡って、あるいは、もっと個人的な問題、たとえば気の合う、合わないと言ったことでも対立が生じることがあります。このような対立が生じるのは、究極的には、私たちが、主イエスを信じ、主イエスによって罪許されても、なお罪を犯しうる存在であるからです。人間の弱さであり、また愚かさであると言えましょう。残念ながら、それはどのような教会でも起きうることです。そして、この時のフィリピの教会でも、まさにそのような対立が生じていたのでした。

それでは、そのような教会に使徒パウロはなんと語ったのでしょうか。一体、どうすれば、対立がある教会に、喜びが再び回復されると教えているのでしょうか。それは、先に引用しました2節の「主において同じ思いを抱きなさい」というパウロの言葉に表れています。

そして、続く3節以下で、当事者のエボディアとシンティケだけでなく、他の人々にも、この二人のことを支えてあげるように言います。

つまり、パウロは、二人の問題を他人事として無関心でいるのではなく、二人のために祈り、理解してくださいと願っています。それはなぜかと言うと、二人とも、他の協力者とともに、福音のためにパウロとともに戦っていたからだとパウロは言います。エボディアもシンティケも、今は対立していますが、ともに主イエスを熱心に信じる人でした。そして、福音伝道のために力を惜しまず働いていた人だったのです。このことを思い出させた後、パウロは次のように語りました。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(4節)

キリスト者の喜びというのは、主イエス・キリストにおいて、もたらされるものであるとパウロは語ります。ここにキリスト者の喜びの根本があります。教会は、主イエスを離れて、存在することはありません。また教会で語られる喜びというのは、世間的、この世的な喜びではありません。教会の喜びとは、常に主イエスから生じるものです。この世的、人間的な喜びというのは、やがては消え去るものですが、主における喜びというのは、変わることがないものです。

エボディアもシンティケも、パウロの他の協力者たちも、またフィリピの信徒たちも、主イエスを知り、主イエスを信じることで救われました。ここに、すべてのキリスト者の一致の基礎がありますし、また喜びがあります。

パウロは、この喜びと教会の一致の基礎を今一度強調いたします。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことにも思い煩うのはやめなさい。」(5節)

パウロは言います。「主はすぐ近くにおられます」と。そして、そうだからこそ広い心で、互いを受け入れ合い、あれこれと思い煩うことはやめさない。パウロは、そのように勧めます。

ここでパウロが言う「主がすぐ近くにおられる」というのが、空間的に近いということか、時間的に近いということかは、はっきりとは分かりません。主は、わたしたちの側近くにおられるのか、あるいは主は、まもなく私たちの所にやってこられるという意味なのかは判然とはしません。

結論的に言えば、おそらく両方の意味が込められているのでしょう。主が近くにおられるということは、パウロの差し迫った終末的希望への信仰と密接に結びついているからです。

古代教会の有名な説教者であったクリュソストムスは、今日の聖書箇所について、「『主がすぐ近くにおられる』ここに慰めがある。」と語りました。

私たちには、思い煩いがあります。思い通りにはいかない現実があります。心配事があり、悩みがあります。それは、一人一人の信仰生活にもありますし、また教会の中にもあります。しかし、パウロが語ったように、主は近くにおられます。これこそが、信仰者にとって唯一にして、究極の慰めです。

「主は近くにおられる」ということを礼拝の中で、もっとも端的に表しているものが、聖餐式であると言えます。聖餐式を通して、主の御体と御血に与る時、私たちは、「主が近くにおられる」という恵みをはっきりと味わい知ることになるからです。そして、主が親しく臨在される聖餐式は、同時に教会が主に在って一つであることを示します。教会の一致の基礎でもあるのです。

この聖餐式の直前に「平和の挨拶」というものを行う教会があります。これは、聖餐式の前に、互いに「主の平和がありますように」と挨拶を交わすことです。自らの罪を悔い改め、お互いに対立があれば、まず仲直りしてから主の聖餐に与るというものです。主において一つである教会において、互いの罪を赦しあい、主において喜び合うことの大切さを象徴したものと言えます。

先ほども申しましたが、教会では、さまざまな対立が起こり得ます。フィリピの教会がそうであったように、日本の教会でも起こり得ます。小さな群れの中であっても、さまざまないさかいや対立、意見の相違は見られることです。しかし、使徒パウロは、そのような私たちに向けてこう語ります。人間的な目で見るのをやめなさい。この世的なものを求めるのはやめなさい。そうではなく、ただ主において喜びなさい。いつも喜んでいなさい。そして、主に在って一つとなりなさい。なぜなら、主はすぐ近くにおられるからですと。

この御言葉を心に留めて、今日もまた、主の聖餐に与りましょう。そして、そこからもたらされる喜びに生きるものとなりましょう。

お祈りをいたします。

主において常に喜べ

聖書:ネヘミヤ記15-11節, フィリピの信徒への手紙447

 主の年2019年、新しい年の歩みが始まっております。この年はどのような年になるのか、人々の関心は経済の動向、また政治や社会の動向に向けられていることでしょう。そうすると、明るい見通しが立つという話、楽観的な見方は出て来ないようです。むしろ、不思議なほど長く続いた世界的な好景気が一転するとか、貿易戦争が激化するとか、難民、移民政策が内向きになり、世界中で自国の利益第一主義が支配的になる結果、利害の対立は経済戦争にとどまらなくなるのではないか、等々、心配の種が尽きない年のようです。

しかし、私たち成宗教会は、1940年の創立以来、どのような時代にも主の日に集まり、礼拝を守って参りました。この国がどの外国を敵に回して戦っていた日々も、昨日の敵が今日の友となった日々にも、変ることなく頼る者を救ってくださる主イエス・キリストによって、全地の主なる父なる神様を礼拝して来ました。ある時は互いに敵となった民族もあり、またある時は味方となった民族もいます。私たちの信頼する神さまは全世界どこに行っても一人の神さまとして崇められます。ですからこの神さまを信頼する人々は全世界に在って、同じ主キリストを頭と仰ぐ唯一の主の体の教会に結ばれているのであり、このことは真に大きな恵みであります。

この恵みのために、私たちは年の初めの主の日に、まず礼拝から一年を始めることができたのです。そして先週から成宗教会は祈りについて学びを始めました。私たちが信仰問答カテキズムによって学びました2018年12月30日の問は、「なぜわたしたちは祈るのですか」でした。そしてその答は、極めて単純明快なものです。なぜなら、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから」だから私たちは祈るのです。そして、続いて今日はカテキズム問の53です。その問は、「わたしたちが祈るとき、どのような恵みが与えられますか」というものです。つまり、祈ったら神さまから恵みが与えられるということです。だから「祈りなさい」と勧められているのですね。

今日は祈りの恵みについて教えられたいと思います。教会の幼稚園や保育園では、小さい子どもたちにお祈りを教えます。すると子どもたちは喜んでお祈りしている。そんな様子を目の当たりにしたものです。しかし、大人になるとなかなか祈りができない、という話は前回もしました。どうしてでしょうか。今日読みました旧約聖書はネヘミヤ記1章です。ネヘミヤは紀元前5世紀にペルシャのアルタクセルクセス王に仕えていたユダヤ人の指導者です。彼は戦争によって滅ぼされたユダヤ人の国から奴隷として遠くバビロンへ捕え移された人々の子孫でありました。よく言われる日系何世とか、在日何世と言う表現を使えば、ネヘミヤは在ペルシャ3世あるいは4世ぐらいのユダヤ人だったでしょう。

その彼が祖父か曽祖父の故郷エルサレムについて最近の様子を聞いた時、彼は大変なショックを受けました。あの忌まわしい敗戦と破壊から百何十年も経っているのに、今だに都エルサレムは荒れ果てて悲惨な状態にあるというのです。ネヘミヤは『座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげました。今日の聖書箇所は彼の祈りの内容です。とは言え、私たちは少し不思議に思うのではないでしょうか。ネヘミヤの先祖はバビロンに連れて来られてから、既に長い年月が経ち、もうネヘミヤはエルサレムを全く知らなかったでしょう。そして彼の家はペルシャの王侯に用いられ、高い身分にまで取り立てられて繁栄していました。なぜ彼はエルサレムの惨状にこれほどまで心を痛めたのでしょうか。断食をしてまで祈りをささげたのでしょうか。

それは彼に呼びかけがあったからなのです。秘かな呼びかけがネヘミヤの魂を揺さぶりました。普通なら、自分の先祖にかかわる遠い昔のこと、今は知っている人もいないような遠い世界と思うはずなのに、彼はそう思わなかった。大変心を痛め、悲しんだ。その痛み、その悲しみは、実に神さまからの呼びかけであったのです。神さまの秘かなご計画によってネヘミヤは呼ばれました。エルサレムのために何かの働きをするように召し出されていたのです。だから、彼は嘆き悲しんだ末に祈り始めたのでした。このように、祈りは私たちの目から見れば、自発的なものですが、神さまからの見えない秘かな呼びかけがあるのです。そして、わたしたちの祈りは、神さまからの呼びかけに応えるものなのです。

わたしたちはそれぞれ自分の計画があるでしょう。今年はあれをしたい、これをしたいと。ああなるように、こうなるようにという願いであります。しかし、神さまには神さま御自身のご計画があります。そしてそれは私たちの思いを遠くはるかに超えたご計画なのであります。イザヤ55章8節、9節。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを高く超えている。」(1153頁)

ネヘミヤは神さまの霊に導かれて、願い求めます。神さまから秘かに与えられた務めを果たすために、今まで思いもよらなかった志を願い求めたのです。このようにしてネヘミヤは廃墟の復興の先頭に立ちました。しかし、彼はそれを実際行動から始めたのではありません。彼の行動に先だったのは祈りでした。しかもその祈りは、願いではなく、懺悔から始まりました。彼は祈りました。「わたしたちはあなたに罪を犯しました。私も、わたしの父の家も罪を犯しました」と。人が祈るためには、神さまに近づかなければなりません。しかし神さまから遠く離れているわたしたちは、どのようにして神さまに近づくことができるでしょうか。先立つ祈りは懺悔の祈りです。神さまに背を向け、好き勝手な生き方をして来たことを神さまはご存じなのですから。すべてをご存じの方に悔い改めの告白を捧げることなしに、わたしたちはどうして親しく語りかけることなどできるでしょうか。

申命記30章をご覧ください。(328頁)神さまはモーセによって、次のように語られました。1-4節。「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに望み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。」

このように真剣な懺悔の祈りはみ言葉から与えられます。祈りから生まれる最初の恵みは、すなわち神への信頼であります。心から悔い改め、神さまに立ち帰るならば、神さまは豊かに赦してくださる、という信仰、これが神さまへの信頼です。

新約聖書フィリピの信徒への手紙は、獄中にいる使徒パウロによって与えられた言葉です。パウロは教会の人々に勧めます。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と。福音を伝え、教会を建設したパウロが迫害され、獄に繋がれている最中、信者たちは非常に不安でありました。悲観的になっている、これからどうなるのか、明るい見通しは何もない。心配なことばかりでくじけそうになっている。彼らの心と思いはそういう危険な状態でした。しかし、だからこそ、パウロは目の前に押し寄せて来る不安にも拘わらず、主にあって喜ぶように勧めているのです。

なぜなら、神さまが与え給う慰め、わたしたちを喜ばせ、元気づけるような霊的な慰めは、この時にこそ、特に全世界がわたしたちを絶望に陥れようとする時にこそ、力を発揮しなければならないからなのです。この時、たとえ彼らが迫害、投獄、追放、死にさえも脅かされているとしても(パウロは正にその中にいました)、その真っ只中にも、自ら喜ぶばかりでなく、他の人々をも喜ばすようふるまっているパウロ、彼がここにいます。「主において」と訳されている言葉は、「主が自分たちの側に立っておられるのだから」、すなわち「主が自分たちの味方なのだから」という意味です。主が味方なのだから、それだけで喜ぶ理由は十分なのです。

主イエス・キリストを信じて告白して、洗礼を受けて主と結ばれた者。神の子の喜びがここにあります。その喜びは、この世の喜びと比べてみれば分かります。この世の喜びはあてにならず、長持ちがせず、空しいもの。イエスさまが呪われたものとさえ仰ったものです。ルカ6章24-25節です。113上。「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」それに対して神の子の喜びは、だれも奪い去ることのできない喜びです。神が共にいてくださるから、それはいつも変らない。この喜びを、わたしたちはイエス・キリストに在って持つことになるでしょう。

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」パウロはすべてのことを「広い心」、すなわち優しさと忍耐(寛大、思いやりのあること)をもって耐えるように勧めています。この世の格言に、「狼の中では吼えなければならない」というものがあります。すなわち悪人の傲慢と鉄面皮に対しては同様な態度によって抑え込まなければならない、と。しかしパウロはこれに対して、神さまの摂理(神さまの秘かなご計画)に対する確信を主張するのです。主の御力は悪人の横柄、横暴に優り、主の慈愛は彼らの悪意に打ち勝つものではないか、と。だから、わたしたちが主の掟に従うならば、主はわたしたちを助けてくださるに違いありません。

ですから何よりも大切なことは、信仰者が神さまの深いご配慮と隠されたご計画によって守られていることを悟り、神さまの摂理に全く信頼することなのです。「主は近い」と信じる者は、神がご自分の子らに正に救いの手を差し伸べようとしておられることを知っているのです。だから、一切の思い煩いを捨てて、何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に撃ち明けることが勧められています。

しかしながら、同時に、神さまへの信頼は何よりも日々わたしたちが祈りを捧げることによって訓練されること無しには生まれるものではありません。まして、わたしたちが何かの誘惑や、不安に襲われる時にはいつでも、直ちに時を移さず祈りに訴えることを実行しましょう。祈りの時と所こそが、わたしたちにとって逃げ込むべき避難所となりますように。そして、神さまへの信頼は感謝を込めた祈りに現れます。過去を振り返り、必ず助けてくださった恵みの主を思い起こし、感謝するとき、未だ行き先の見えない明日を委ねる祈りが、そこに生れます。

そして、7節の「あらゆる人知を超える神の平和」とは何でしょうか。大きな失望の中にあっても、なお望みを抱く。また、非常な貧困の中にあっても、なお豊かさを思い描く。極端な無力の状態でも、なお圧倒されることなく、すべてのものを欠いていても、なお自分たちには何も欠けているものはないと確信する。このような思いほど、この世にあり得ない思いがあるでしょうか。しかし、ただみ言葉によって、ただ聖霊の助けによって、このようなすべての思いがわたしたちに与えられるとしたら、これこそが祈りによって与えられる恵みなのです。わたしたちが祈る時、わたしたちは神さまに近づき、親しく語り合う恵みが与えられます。主が近くにおられることの喜びは計りしれません。祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

新年最初の聖餐礼拝を感謝し、御名をほめたたえます。本日は祈りの恵みについて、み言葉を学びました。新しい年、身も心も新たにして祈りを献げます。御子の贖いによって罪を赦されたわたしたち、日毎夜毎に罪を告白して、あなたの御前に祈る時と所を与えてください。そして、み言葉に聴くことができますように。すべてのことをあなたと語り合い、この世界が与える喜びをはるかに超えた平安を、祈るわたしたちにお与えください。沢山の悩みある時代、世界のただ中に在っても、あなたの喜びがわたしの喜びとなり、あなたの力がわたしたちの力となりますように。そして罪人のために命を捨ててくださるために世に遣わされた御子イエス・キリストの愛がわたしたちの愛となりますように。

新しい年、教会の歩みが始まりました。主よ、あなたは小さな歩みを喜ばれ、小さな働きを祝して、わたしたちの群れをこれまでお導きくださいました。真に感謝です。新しい年度に、新しい教師の先生方をお迎えするために導いてくださっている連合長老会の働き、あなたの尊きご配慮を感謝します。どうか招聘されようとしておられる先生方を聖霊によって守り導いてください。ご健康とご準備が祝されますように。また、成宗教会がどうか御心に適う準備をしてお迎えすることができますように。長老会を励まし、導いてください。今日から始まりました教会学校の働き、集う方々をも祝してください。

また、教会の信徒一人一人が教会の全てを整えるために、何か奉仕に加わることを考えることができますように。それぞれが限りある体力、時間の中で、喜んで捧げる知恵と力とをあなたからいただくことができますように。本日行われます長老会議をどうか御手の内にお導きください。特に先生方をお迎えするための物理的な準備をも進めて行くことができますように。また、教会記念誌の編集の道筋が守られていることを感謝します。御心であれば3月中に印刷発行を果たすことができますように。今、試練の中にある者、病床にある者を助け、また家族、社会を支える人々の働きを祝してください。

すべてのことを感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストは謙(へりくだ)って人となられた

聖書:イザヤ45章22-24節, フィリピの信徒への手紙2章6-11節

 今年もクリスマスを待ち望む待降節が始まりました。「神はその独り子を世にお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」これはヨハネ福音書3章16節の御言葉です。神の愛は、イエス・キリストにおいて世に表されました。神はキリストを世にお遣わしになり、神の御心を私たちにお知らせくださいました。そこでようやく私たちは自分の罪について考えることができるようになりました。すなわち、私たちは神に祝福されて神の形に造られたのに、神を求めることなく、神を離れ、神に背いて生きていたことに気付かされるのです。イエス・キリストはこのような人間、すべての罪人のために神の御前に身代わりとなって犠牲を捧げ、私たちの罪の執り成しをするために、地上に来てくださいました。

キリストは人間となられたので、私たちの目には人間としてしか見えなかったと思います。クリスマスの物語によれば、イエスさまの両親となるヨセフもマリアも平凡な貧しい人々で、生まれた赤ちゃんのイエスさまも、本当に貧しく無力な幼子にしか見えなかったことでしょう。それでは、人の目には人間としてしか見えないイエスさまは、本当にただ人間に過ぎなかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。今日読まれたフィリピの信徒への手紙は、キリストが天から降って人となられたことを証ししています。この手紙を書いた使徒パウロは、フィリピ教会の信徒たちに、謙遜を身をもって実践するように勧めました。今日の少し前、2章3節、4節を読みます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」

そしてこのような謙遜の例の最も優れたものとして、パウロはキリストの証しを指し示すのです。「キリストは、神の身分(形=フォーム)でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」神の身分というのは、神の形という意味です。神の尊厳をもっておられるということです。キリストは本来、神の身分、神の形であられました。イザヤ書45章で、主なる神は次のように断言しておられます。今日読んでいただいた45章22節。「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」ですから、神以外のだれも神の身分であるはずがないので、キリストは本来神と等しい方であります。そうでなければ、神から身分を奪い取ったことになってしまうからです。

本来神の身分であられたキリストは、その輝きをもって、地上に来てくださっても当然なのであります。私たちは神の形を表すもの、というのは何かが分らなくても、例えば、王の身分を表すものは何か、ということはよく分かるでしょう。王を表す形は、王冠とか、笏とか、また王の座る玉座であり、それによって、その人が王であることが分かるのであります。しかし、キリストはその身分、形や尊厳を捨てて、世に来てくださいました。「捨てて」というのは違うかもしれません。とにかく肉の姿を取られたとき、神の形の尊厳はその人間の姿のうちに隠されたのです。ですから人の目には普通の人と変るところは見えませんでした。

では、イエス・キリストはなぜそのようになさったのでしょうか。そこに神の愛が表さています。キリストが自分を無にされたのは、一重に人間の救いのためであったのです。キリストは外見では神と等しいものとしての形を現さず、また、人々の前では目に見えて現れるべき神の形があからさまには見えなかったのですが、それでも、神はわたしたちにご自分をお示しになりました。なぜなら、神のご性質は何よりもその恵み深さにおいて知られるからです。キリストは貧しい世にあって、貧しい人々に福音をお語りになり、恵みの言葉と共に、人の知恵と力では助けることのできない病気を癒し、悪霊の力から人々を自由にして下さいました。このようにご自分の本来持っておられる輝かしいお姿を捨て、御自分を無に等しい者にして世に来てくださったからこそ、私たちの空しい人生に光が輝いたのです。神に従う者、神の僕としていらしてくださった、その目的は、人間の救いのために仕える僕となることでした。

神と人に仕える僕となられたキリストは、世に降って来られたこと自体、すでに大きな謙遜を示されました。しかしそればかりではありません。キリストは本来、神と等しいもの、不滅のご存在であったのです。そればかりでなく、神と等しいからには命をも、死をも御支配なさる主でもあられるのです。それなのに、キリストは十字架の死を耐え忍ぶまで、従順でした。そこまで、父なる神に従順の限りを尽くされました。キリストはいわば極限の無となられたのです。このようにキリストは死んで、人間の目から見て屈辱であったばかりでなく、神の呪いとなられました。これは確かに私たちの想像を絶する謙遜の手本であります。

私の記憶では半世紀も前の時代までは、謙遜とか、謙譲とかいうことが高い徳目の一つとされていたと思います。その証拠には、男の人の名前にも謙さんとか譲さんという名前の人がよくいました。しかし、人間社会全体で考えるならば、へりくだる、自分を低くする、ということが勧められているにも拘わらず、人々は人より低くされることを嫌うのが常であります。絶えず人と見比べ、自分の方が本当は上だと思う。そして、人前で自分を人よりも大きく優れたもののように見せることに心血を注ぐようなことが起こっているのであります。

しかし、聖書はここに証ししています。人間の心が非常に嫌う無や謙遜は、キリストに在っては、極めて望ましいことであることを。なぜなら、キリストは非常に卑しむべき状態から、最高の高さに引き上げられたからであります。2章9節。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」だれでもキリストの福音を聞き、キリストに従って自分を低くする者は、キリストと共に高められるのです。聖書はこのようにしてキリストの死の中に、神の純粋な恵みを見るようにと、私たちを招いておられます。キリストの死によって私たちがどのような利益を恵みとして受けたことかを知らせるのです。私たちの救いがたい現実に、キリストは御自分を忘れて私たちの救いのために御自分とその命を捧げてくださいました。その計り知れない愛を見上げましょう。その愛を味わい、愛について考え、知る者となりますように。

キリストは謙って人となられました。私たちはこれによって贖われ、神と和解し、神の形を回復していただき、不信仰の罪が清められ、神の永遠の命に至る門が開かれたのですから。神はキリストに「あらゆる名にまさる名を与えられた」と述べられています。名はその持ち主の尊厳を表します。キリストは地上のすべての人々の救いのために執り成す務めを果たされます。すなわち、私たちはイエス・キリストのお名前によって祈ることが許されるばかりでなく、求められているのです。神はこの名によって福音が宣べ伝えられ、真の礼拝が全世界にわたって捧げられることを求めておられます。

「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」また、今日読まれたイザヤ書45章にもこう告げられています。23-24節。「わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ、すべての舌は誓いを立て、恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。」これは公の礼拝での信仰の告白を表しています。真の神は御自身の名を決して他のものには与えられません。従って、この方から遣わされ、真の人となられたイエス・キリストも、真の神であられるのです。教会が受け継いで来た信仰は父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神の三つの名で呼ばれる一人なる神、三位一体の神に対する信仰です。

2017年は、1517年に開始されたルターの宗教改革に象徴される宗教改革運動から500周年ということを謳って多くの記念行事が超教派で行われて来ました。宗教と名を付けられたものについて一般的に寛容な社会が進んできたのですが、一方では、世界に非常に過激な宗教弾圧があります。その中で真の神を尋ね求める私たちは、真の救いが全世界の人々に告げ知らせられることを願うものです。神の御心を尋ね求め、その計り知れない愛を見い出す者は、数多くないというのは、イエス・キリストのお言葉であります(マタイ7:13-14)。そして、宗教改革者自身の言葉でもあります。私たちはクリスチャン人口が少ないことを嘆くことよりも、しなければならないことがあります。それは、まず自分が真心を込めてイエス・キリストによっていただいた福音を信じ、公に信仰を告白して、神の栄光を表す者とさせていただけるよう、自分のために、また教会に連なるすべての者のために祈ることではないでしょうか。

地上で教会につながっていることは、本当にありがたいことです。現実に主の助け、聖霊の導きを悟ること、感謝することができるのは、この現実に地上に建っている教会を通してであるからです。先日も他教会員の方と電話で話し合いました。最近、ガンの末期でホスピスで過ごされていた御夫君が地上の生涯を終えられたとのこと。介護の日々を主が守ってくださり、最期まで安らかであったことを伺い、主に感謝しました。いつも真の神を信頼し、この神のみに祈り、わき目もふらず一心に助けを求め、感謝と賛美を捧げることを忘れない。このことこそは、神の喜ばれることであり、神は御自分だけを見上げ、偶像のようなものを一切求めない人を、決してお見捨てにならないことを、互いに確認して私はその方と喜び合いました。

教会はこのような証しを受け、また他に与えて生きています。目に見えて礼拝を守る人々が多く集まることは、どの教会の願いでもありますが、一方、目に見えて教会に足を運ぶことのできない人々は日毎に多くなっております。その結果、私たちの目には隠されてしまうことが多くなるのですが、それは主の恵みから遠ざかることでは決してないのです。神はわたしたちの思いをはるかに超える方。思いをはるかに超えて、その愛をお示しになられる方であることをわたしたちは知らされています。

礼拝を守れる時には礼拝から離れてしまうことがある私たち。そして礼拝を守りたくても守れないことがある私たちです。主はこの両方をご存じです。そして今、一番弱さを感じている人々の叫びを聞いてくださっている。その時に真の神を、イエス・キリストの謙りに表された真の神を信じて、この方のみを真心から呼び求める人々に、神は応えてくださいます。しかし、だれがこの神を呼び求めるでしょう。若い時に、元気な時に、福音を聞いたからこそできるのです。この神の愛を知ることができたからこそ、神に心を向けることができるのです。使徒パウロが次のように述べるとおりです。ローマの信徒への手紙10章14節。(288)「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」だからこそ、この福音を誰もが聞くことができるために、教会を建てて参りましょう。祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

待降節の礼拝を感謝し、尊き御名を賛美します。あなたは私たちの祈りを聞き給い、あなたに背いている生活を打ち破り、悔い改めの道を日々開いてくださいました。今日の御言葉を聴き、改めてあなたの御子イエス・キリストの御業を思い感謝をささげます。私たちは主の犠牲によって救われ、御前に立つ者とされました。どうか謙って主の心を心とし、主の愛と栄光を表す者になるように、私たちを作り変えてください。私たちの狭い心、低い望みを変えられて、あなたの愛を証しする者となりますように。

クリスマスに向かう今週の歩みを整え、備えさせてください。心からの感謝をささげることができるように。どうか主の愛がこの教会において証しされ、東日本の地域教会と共に主の体を形成するために心を一つにすることが出来ますように。また地方で孤立と困難のうちにある教会を特に覚えます。主の聖霊の助けが豊かにございますように。

私たちの教会のうちにある困難はもちろん、教会の家族、職場、学校の中にある様々な労苦を覚えます。この社会の隅々にまで、恵みの主の御支配を祈り願います。

今日の教会学校から今に至るまで、このように豊かな恵みを感謝いたします。成宗教会長老会、ナオミ会の働に祝福をお与えください。クリスマスの行事をはじめ、すべての教会の計画が、新しい時代の福音伝道に向けて整えられますように。

この感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。