2018年4月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

並木せつ子先生のお話

(イースター礼拝)

聖書:ルカ福音書24章1-12節

「イエス様はお墓にはおられなかった」

並木せつ子

 今日はイースター。イエス様が復活されたことをお祝いする日です。今では、世界中の多くの国の人々が日曜日をお休みの日にしていますが、もともとはそうではなかったのです。ユダヤの人々は土曜日がお休みの日でした。そしてイエス様が十字架について死んでしまわれたのは金曜日だったのです。土曜日のお休みの前に急いでお墓に葬られました。女の弟子たちは土曜日が終わると、まだ夜が明けるか明けないうちにお墓に行きました。遺体に香料を塗るためでした。彼女たちはイエス様のためにできるだけのことをしようと一生懸命でした。それほどにイエス様を慕っていたのに無残に苦しまれてなくなられたことを、彼女たちはどんなに悲しんだことでしょう。

イエス様は神の国は近づいた、と言って人々に福音を宣べ伝えられた方です。それまでは人々は思っていました。神の国というところは高い高い山に登るように、一生懸命努力して、立派な人になった人だけが入れるところだと思っていました。ところがイエス様によって、神の国は近いところになりました。貧しい人も、豊かになれる。悲しんでいる人も慰められる。病気の人も治していただける。悪霊に取り付かれて苦しんでいた人も、本当に自由な心を与えられる。イエス様はみんなに良いことをしてくださったのです。それで人々はこの方こそ、本当の救い主ではないかと思ったのです。

ところが、イエス様のことをよく思わない人々がいました。その人たちは神の国が近づいてほしくなかったからです。オリンピックでは一番の人だけが金メダルをもらえるように、神の国には一番の人、あるいは立派な人だけが入れるのだ、と信じていました。そして自分たちこそ入る資格があると思っていたので、だれでもみんな入れるなんていうのはいやでした。だからイエス様を憎み、こんな教えをやめさせようとしました。大勢の人々がイエス様についていくのがねたましくて、とうとう策略を使ってイエス様を十字架につけて殺したのです。その時、弟子たちはどうしたでしょうか。あんなに慕っていたイエス様なのに、いざとなったらみんなイエス様を助けようとはしませんでした。皆逃げてしまったのです。イエス様は悪霊だって追い出した力ある方なのに、どうして敵に捕まってしまったのだろうと驚きもし、悲しみもしました。女の弟子たちも見ていましたが、どうすることもできませんでした。

でも、イエス様はこの人たちのせいで殺されたのではありません。イエス様はこの人たちだけでなく、すべての人の罪を背負って死んだのです。十字架の死は、神様のご計画による出来事だったのです。そのことは、すぐには誰にも分かりませんでしたが、空っぽのお墓を見たとき、そこに現れた天使が教えてくれました。また、弟子たちにもイエス様ご自身が現れて教えてくださいました。

7節に「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と言われていますね。人の子、というのは、イエス・キリストのことです。キリストは人間の罪の身代わりになって十字架にかかりました。それは、すべての人の罪が赦されるためだったのです。イエス様をこんなにひどい目にあわせた人間の罪が赦された?どうしてそれが分かりますか。それはイエス様を神様がよみがえらせてくださったから、分かるのです。イエス様は生きておられる。それは、信じる者に罪の赦しが与えられるということです。

イエス様は生きておられ、今も昔と同じように私たちの罪を赦し、新しい命に生きることができるようにしてくださるのです。真の神の子、イエス・キリストの御復活をお祝いしましょう。イースターおめでとうございます!

4月の御言葉

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」

マタイ6章26節

4月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

4月1日(日)  ルカ24:1-12       お話の担当…  並木せつ子

8日(日) マタイ6:25-34              並木せつ子

15日(日) 使徒言行録17:22-27          並木邦夫

22日(日) ヨハネ14:6-10             興津晴枝

29 日(日)  ヨハネ5:36-40            山口智代子


成宗教会学校からお知らせ

  • イエス様のご復活をお祝いし、皆さん新しい学年がスタートしました。保育園、幼稚園の子たちも一つ上のクラスになり、元気に通い始めていますか。イエス様のお話を聞き、神様のことがますます分かるようになってください。教会の先生たちも祈っています。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。

キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ

聖書:イザヤ53章6-12節, エフェソ3章14-19節

 本日は、成宗教会の教会総会が開かれます。そこに上程します議案については、日本基督教団の教会規則によって、既に公告がされております。私は2017年1月の長老会議に退任の希望を提出し、同年3月に長老会として承認されました。私は退任の期日を、2018年3月末と希望しましたので、今年度の教会総会に議案として上程されることになったわけです。教会総会の議員資格を持っておられる方々には、是非とも総会にご出席いただきたいのですが、皆様の中には健康上の理由から、礼拝後の会に継続して参加できない方々もおられます。そこで、礼拝のメッセージを通して主の御心が成宗教会に伝えられることを私は心から願い祈ります。

私が辞任することは、この教会の歴史の一ページが閉じられ、また新しいページが開かれることです。一人の教師、この教会の牧師であった者が辞任をします。しかし、牧師が辞任することは、教会にとって決して大きなことではありません。なぜなら牧師が辞任しても、しなくても変らないことがあるからです。それは変らない一つの願いです。わたしたちに一つの共通の願いがあります。それは何でしょうか。イエス・キリストが集めてくださった群れを守り、キリストの一つの体とすることです。

このただ一つの願いのために、私もここに務めさせていただきました。この一つの願いのことをわたしたちは最初から知っていたでしょうか。理解していたでしょうか。私自身については最初から十分知っていたとは言えません。ただ、献身の決意を与えた御言葉は次のものでした。マタイ9章36-38節。(17ページ)「イエスは(中略)また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」

私は教会が「ただ飼う者のない羊のように弱り果てている」ことを知っていました。それは何もこの教会がそうだというのではありません。私は、赴任するまで成宗教会を知らなかったし、教会の方々もわたしを知らなかったのですから。そして、この教会の方々も、自分たちは「飼う者のない羊のよう」だと思っておられたかどうかわかりません。

そもそも、私たちは皆、私たちには一つの願いあることを、共通の願いがあることを知らなかったのではないでしょうか。なぜなら、この願いは元々から私たち自身の願いではなかったからです。この願いは、私たちに与えられた願いであったのです。そして今は、私たちに与えられて、共通の一つの願いとなっていることを、私は確信しています。その願いとは元々、私たちが願ったものではなかった。では、それは誰の願いだったのでしょうか。それは主の願いだったのです。主が、父・御子・聖霊の神様が切に願っておられたので、主はその願いを私たちに与えて下さり、私たち自身の願いとしてくださるのです。

今日、読んでいただいたイザヤ書53章6節。「わたしたちは(われわれのすべてが)羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」ところが、道を誤り、散り散りになって行った私たちのすべてを、主は放置されたでしょうか。主は私たちが滅びに向かうことを望まれませんでした。だからそのままにされませんでした。主は、一人の僕を立てられました。御自分に全く忠実な僕を。そして道を誤った私たちの罪を負わせられ、苦しみと死を受けさせられました。一体それは何のためだったでしょうか。それは一重に、ただ一重に彼らを正しい道に呼び返すためではなかったでしょうか。

 イザヤ53章11節。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。」私たちは、主イエス・キリストの死によって贖われ、救われました。私たちは、正に主の苦しみの実りなのであります。ですから今、私たちは救われたものとして、主の道に立ち帰らなければならない。さまよい出た道から、主の導かれる道へと立ち帰るのです。主に立ち帰るならば、主に結ばれて、実を結ぶものとなるでしょう。主は御自分をぶどうの木に例えられました。私たちは主の体の肢。私たちの結ぶ実は何でしょうか。その実の名は「救い」です。私たちは主によって罪赦され、清められ、「永遠の救い」という実を結ぶのです。

 そのために、私たちは日々、主に立ち帰り、主に結ばれて生きるのです。この実りはまた自分自身のためになるばかりでは、決して終わりません。この実りは自分の救いを世に明らかに示し、そのことによって更に世の多くの人々を救いに招くために用いられるでしょう。世の多くの人々、その中に、私たちの隣人、身近な人々がいることを信じましょう。

私が成宗教会に遣わされて来たのは、そのためでありました。そして私が去って行くのも、またそのためであります。私ばかりでなく、信者となり、教会の肢として結ばれている私たちは皆、生きる時も死ぬときも、来る時も去る時も、働くときも休む時も、皆すべてが祝され用いられます。病気や困難、苦難でさえもこの目的のために用いられるに違いないのです。主からわたしたちに与えられた願い、父・子・聖霊の神様の一つの願いが私たちにあるならば。その願い、キリストの体である教会を建て、キリストと結ばれたい。その願いを私たちは主に捧げて祈りましょう。

今日の聖書エフェソの信徒への手紙3章14節。「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。」自分たちの働きが多いとか少ないとか、苦労が多いとか少ないとか、考えるよりも、またこれまでのことを振り返って、自分で評価したり、人を評価したりするよりも、何よりも前に、天の父の御前に恐れをもって立ち、心を低くして祈りを捧げましょう。なぜなら、私たちを実りあるものにしてくださるのは、私たち自身ではなく、主の憐れみと慈しみなのですから。

15節。「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」神さまの御国には、すべて天にある血縁的につながる人々から、地上の血縁的につながる一群の人々がその名が記されているというのです。こう言われているのは、キリストがそうしてくださったからに他なりません。キリストがおいでになる前は、ユダヤ人は神の民と自分たちを誇り、その一方、異邦人は救いとは関係のない人々でありました。ところがキリストは地上においでになって、すべての人間のために罪の贖いを成し遂げてくださいました。そうして、キリストによって救われる人々は、一つの家族、一つの同じ親族に帰せしめられたばかりでなく、天使とさえも同じ一つの家族にされました。ですから、私たちを結んで神の家族とする絆は、イエス・キリストなのです。

パウロは祈ります。16-17節。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」

「内なる人」とは、どういうことでしょうか。それは、私たちの魂と霊的、精神的な生活に関わる全てを表します。それに対して外なる人という表現もありますが、こちらの方は、体の健康、富、名声、若さ、信用、その他これに類するものであります。人々の関心は専ら、外なる人を強めることにあり、頑張っています。それに対し、内なる人は、神の国に関わることでありますから、神の力によって強くされるのです。

パウロのこの祈りは、キリストによって神に仕える福音伝道者に共通の祈りです。それぞれの信者が賜物を与えられ、御霊の働きによって内なる人を強くしていただけるようにと祈ります。これは、だれでも御霊によって信仰が強められる希望があるからです。つまり、私たちは幼い者から年老いた者まで、だれもが成長させていただける希望が与えられているということなのです。パウロはⅡコリ4:16でも次のように教えて人々をはげましています。「たといわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日ごとに新しくされていきます。」329下。

私たちは、何かと人を評価して、あの人は立派な信仰者であると、まるで完全な人のように言うことがあるかもしれません。しかし宗教改革者は言います。「信仰者というものは、これ以上常に成長する必要はない、と言い得る位にまで進歩することは決してないのだ」と。そうだとすれば、信仰者にとって地上の生活の完全とは何でしょうか。それは信仰者として成長を愛するようになることです。少しずつ少しずつ、主に向かって成長する。「キリストに倣う」と言います。キリスト御自身も言われました。「天の父は完全な方なのだから、あなたがたも完全な者になりなさい」と。使徒パウロも、皆が自分のようになってほしいと述べています。けれども、このようなことは聖霊の働きによらなければ、だれも決してできないのであって、人間の能力ではないのです。

あらゆる良いことの初めは、神の霊のお働きによって起こったのです。そのように、私たちが、神様に向かって成長することを、心から愛し、望むならば、その望みもまた聖霊の働きであることを確信しましょう。では、内なる人の成長は何によって分かるのでしょうか。キリストは言われました。ヨハネ福音書14章23節。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(197頁)キリストが聖霊によって私たちの内に住んでくださることの結果は、愛という実となって現れます。すなわちキリストによってわたしたちに示された神の恵み、神の愛がどんなに絶大なものであるか、ということが分かるようになるのです。

神の愛が、まるで立派な基礎を持った建て物のように、あるいは深い根を降ろした植物のように、わたしたちの内に深く在って堅固で不変のものとなるのです。そして、私たち人間はだれ一人、直接神を見ることはできないのですが、キリストが私たちと共におられることによって、人間に対するキリストの愛がどれ程大きいかを理解ようになるでしょう。18-19節。

「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれ程であるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」ここに聖徒の交わり、教会の姿が示され、祈られているのではないでしょうか。「すべての聖なる者たちと共に」と祈られているからです。罪ある者でありながら、共に罪赦され、罪の奴隷から解放され、キリストによって神のもの、神の家族とされた私たちであります。このことを日々信じる。心から信じる。そして互いに愛し合い、その弱さを忍び合い、助け合うことができるようにしてくださるのは、正に神の愛が、キリストの愛が、信じる群れに注がれているからに他なりません。

主の願いはただ一つの救い、ただ一つの教会を建てることです。そしてこの願いを主は私たちにもくださいました。この願いのために私は退任しますが、この願いのために、成宗教会に教師が新たに遣わされます。そして、新しい時代にも福音が宣べ伝えられる教会とされるのです。このことを皆さんと共に確信して祈りましょう。

独り子によって

聖書:イザヤ50章4-11節, ヨハネの手紙一、4章7-16節

新年度がスタートしています。幼い子は幼稚園、保育園に入り、小学生にも中学生にも入学と進級の季節であります。それぞれが親子で新しい目標をもってスタートしていることでしょう。社会人となる若い人々にとってはどのような春が巡っているのでしょうか。厳しい競争を勝ち抜いて希望する仕事や地位を得るという目標がスタートしている人々もいるでしょう。しかし、一方、わたしたちは社会の今を支える役割を果たしている人々を見る時、非常に苦労しても報われない姿を見ることがあります。またその反対に、高い目標を掲げて刻苦勉励した結果、高い地位を得、名を揚げた結果は、目標を失い、転落の道をたどる人々もいて、そのあまりに情けない姿を見て驚くことも多いのです。

しかし、本当はわたしたちには、年齢に関わりなく、幼子から老人に至るまで目標があるのです。それは幼稚園から小学校へという目標がある子供にも、学業を終えて仕事を選ぶという目標がある青年にも、結婚や子育てという目標がある壮年にも、そして、仕事をリタイアして年金生活者となる高齢の世代にも、共通の同じ目標です。それは神を知ることであります。カテキズム、信仰問答の最初の問でありました。つまり、教会が代々にわたって信じ告白して来た神とは、どのようなお方であるかを知ることこそ、わたしたちすべての人間に共通の目的であります。目的(ギリシャ語ではテロス、英語ではエンド)という言葉そのものが、ゴール、最後を表しているのであって、わたしたちは、このゴール、すなわち最後を目指して走るのですから、今歩き始めた幼子でも、いよいよゴールが近づいている高齢者でも、わたしたちは皆、共通の終わりを目指していることには、全く変わりがないのです。

わたしたちの教会は小さな群れですが、うれしいことに、教会学校には毎週、にぎやかな生徒さんたちの声が聞こえます。そして近年は、生徒さんと一緒に親御さんも礼拝を守って、活動時間も親子一緒に参加する方々がいるようになりました。たくさんの子供がひしめいていた時代とは違って、若い世代は少数者になって来ました。このような時代に生きる若い人々に、教会は伝えたいと思います。神様はどのようなお方であるかを、しっかりと正しく伝える教会になりたいと思います。

さて、今日の聖書、ヨハネの手紙一において、神様について、次のように紹介されています。4章7節、8節。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」神とはどのようなお方でしょうか。それに対する答は、「神は愛である」というのです。だから、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と勧めています。

つまり、神のご性質は人間を愛することだというのです。そうであるならば、神を知れば知るほど、神の愛がわたしたちの内に神を愛する愛を生み出すことになるでしょう。反対に言えば、わたしたちの内にもし愛が見い出されないとすれば、わたしたちはまだまだ神とはどういうお方かを知らないということになります。「愛することのない者は神を知りません」と聖書ははっきりと述べているからです。すなわち、神様がわたしたちを愛してくださることは分かったけれども、わたしには神様を愛する気持ちが湧きませんということにはならない。そして、神様がわたしを愛してくださることは分かったけれども、わたしには隣人を愛する気持ちが湧きません、ということにもならないのです。

神を知る知識が増し加われば加わるほど、神を愛さずにはいられない。神を知る知識が増し加われば加わるほど、隣人を愛さずにはいられなくなるというのです。こう言われると、本当に自分を振り返って、わたしたちは本当に神が愛であることを知っているとは言えないと思わずにはいられません。少なくともわたしたちは隣人を愛することにおいて、いつも足りなかった。また、今も足りない者であることを思わずにはいられません。それどころか、わたしたちは自分自身でさえ、本当の意味で愛することができていないのではないでしょうか。隣人どころか、自分に対してさえ、最善のことをしているだろうか。自分を酷使したり、自分をいい加減に扱ったりしてはいないだろうか。自分を見捨ててしまうようなことがなかったか、と反省させられることも少なくないのではないでしょうか。

そのように、隣人を愛するどころか、自分さえも粗末に扱い、真心を尽くすことができないのは、最も深刻な問題を抱えているからではないでしょうか。それは、わたしたちは、神様が自分を愛してくださることを信じることが本当に出来ていないからです。また、ある時は信じられても、何か状況が変わって、思いがけない困難、苦難が起こるとすぐに不安になってしまう。神様はわたしをお忘れなのではないだろうか、とか、神様は本当に最良のことをしてくださるのだろうか、と疑ってしまうのではないでしょうか。

このようなグラグラした信仰者であるわたしたちに御言葉は語ります。神の愛の証しはこれである、と。9節。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」わたしたちは洗礼を受け、教会に入れられ、神の子と呼ばれます。しかし、わたしたちは生まれながらの神の子ではありません。本当に初めから神の子であられたのは、イエス・キリスト。この方お一人です。神様はわたしたちを愛しておられたので、わたしたちが生きる者となるために、御自分の独り子を世にお遣わしくださいました。愛する独り子であるイエス様を、わたしたちの救いのためにくださったのです。

それは、わたしたちが神さまを愛して従順な者だったので、「よし、それなら救ってあげよう」ということだったのではありません。ヨハネの手紙ははっきりと申します。10節。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」つまり、わたしたちは神を愛していなかった。それなのに、神はわたしたちを愛してくださったということです。愛していなかったということは、わたしたちは神に敵対する者であったということです。「神様なんか・・・と思っていた」か、あるいは神様を無視していた、ということです。そうであるのに、神はわたしたちに御子を賜ったのであります。

自然神学というものがあります。自然界を見る。するとその美しさ、その秩序によって、被造物、中でも人間がどれだけ神に愛されているかということを推察することができるというものです。しかし、神の驚くべき愛は御子において現わされました。ローマの信徒への手紙でも、次のように言われています。5章6節「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」279下。

わたしたちの目から見れば、より良い人、より正しい人がいます。また上に立つ人々に良く思われようと、お追従を言い、自分をよく見せようと鋭意奮闘する人もいます。しかし、神様はそういう人にも気を許すことも騙されることもありません。神様は人間のこうした愛情にも、あるいは偽善にも心惹かれることも動かされることもありません。ただ、御自分のご好意からその人を愛しておられるのです。それに対してわたしたちの心はしばしば神様から離れ、自分の力によっては、決してわき目も振らずに神様を愛し続けることはできないのです。

このことから教えられる重要なことは、神の愛は無償で、恵みによって注がれるということです。わたしたちは何か資格がある、値打ちがあるから、救われるのではありません。わたしたちは弱い者、神に背く罪人であって、神様に罪を赦していただかなければ、救いに入れられることはできません。本当にこのことを疎かにしては、あるいは無視したり、棚上げして考えないでままでは、わたしたちは目標、目的である終わりを迎えることはできないのではないでしょうか。子供たちが、受験の目標を達成することはできるかもしれません。あるいは若い人々が人生途上の具体的な目標を達成することはできるかもしれません。しかし、最後の目標、目的地を目指して行くことこそ、わたしたちに大切なことです。

教会は救いの目標を高く掲げて、福音を宣べ伝えます。わたしたちの生きる目的は神を知ることであると。そして神は愛であると告げ知らせます。この知識を本当に知るならば、わたしたちは、新たに造り変えられるのです。これは洗礼を受けたから一度に変えられるというのではありません。神は愛であるという知識を福音の言葉によって日々聞くことによって変えられて行くのです。どのように変えられるのかを申しましょう。それはもちろん、神に倣う者と変えられる。すなわち、神がわたしたちを愛されたのだから、わたしたちも互いに愛し合うように変えられることです。

ヨハネの手紙は更に勧めます。12節。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」わたしたちは日々の生活に大変な目標を与えられていることが分かります。これは受験勉強のような目標ではありません。世は超高齢化社会です。年を取り、今まで出来ていたことができなくなって行く。若い時なら、互いに愛し合うということは、何か奉仕活動に加わることだ、と解釈して頑張った人々もいたことでしょう。それはそれで大変幸いなことだったと思います。しかし、何もできないと感じても、まだまだ生きなければならない年月があります。否、むしろ、生きなさい、と命じられているのです。わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。

しかし、ここにこそ、神がご自身を証しされる命があるのです。13節。「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」わたしたちは神の愛をどこに見るでしょうか。教会は神の愛を、独り子であるキリストを世にお遣わしになったことに見るのです。この方によってわたしたちの罪が贖われ、清められ、罪赦された者として神の御前に出ることができるようにしてくださった。ここにこそ、神の愛が現れたのです。自分の罪を悔い改め、救いを求める者は、イエス・キリストによって知られるようになった神を愛し、慕い求めるでしょう。そしてその人には聖霊が来てくださり、とどまってくださるのです。

隣人を愛することが十分でないと、わたしたちはまだまだ嘆いているかもしれません。しかし神様は聖霊によって、わたしたちを造り変えて、隣人を愛するようにしてくださいます。愛こそが、聖霊の結ぶ実であります。聖霊によらなければ、わたしたちは隣人を真の純粋な愛で愛することはできません。神は聖霊によってわたしたちの内にいまし給うのですから、わたしたちは若い者も、老いた者もこの希望、互いに愛し合う者となる、という希望の道の途上に生かされているのです。

この希望は大きな、ほとんど限りない希望です。「神がわたしたちを愛されたように、わたしたちも互いに愛し合う」という目標よりも大きな目標が一体あるのでしょうか。神の偉大さ、神の輝かしさ、神の美しさは何によって明らかにされたでしょうか。空に輝く星でしょうか、オーロラでしょうか。この頃の最先端の映像。目を奪い、息をのむような美しい壮大な自然の映像でしょうか。神の偉大さは、その輝き、その美しさは、貧しく弱い罪人のために命を捨てて、罪の縄目を断ち切ってくださった神の独り子、イエス・キリストに明らかにされた。これが教会の信仰です。15節。「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神様

御名をほめたたえます。春の嵐が吹き荒れる日も、わたしたちに主の日を覚えさせ、御許に

を守るために集めてくださいましたことを感謝します。

本日は独り子を世に遣わしてくださったあなたの愛について学びました。わたしたちは御子によってわたしたちの罪が皆赦され、地上の生活を恐れなく歩むことができます。あなたが必ず助けてくださると信じ、ひたすらより頼みます。また地上を去る時もあなたの恵みによって安らかに感謝して守られますように祈ります。地上にある間、地上の教会の一員として、あなたを信頼し、あなたに従って参ります。どうか、わたしたちの拙い生活の中で、目だって良い業をすることもままならない生活の中で、しかし聖霊の神様の愛に溢れるお働きによって、わたしたちを満たしてください。

わたしたち自身の健康が守られ、今日、このように礼拝を守ることができました。しかし、わたしたちの群れの中に、また東日本の諸教会の中に、ご高齢のため、ご病気のため、礼拝に来られない困難な日々を送っている多くの方々を思います。どうぞ、あなたがみ言葉に与るために道を開いてください。また、わたしたちの家族に多くの困難があります。主よ、聖霊のお働きによってわたしたちが乏しい時にも助け合って主のご栄光を表す者とならせてください。主は罪の赦しのために苦しんでくださいました。わたしたちも何より、主に倣って互いにその罪を赦し合う者となりますように。聖霊の助けを常に祈り求めます。

来週は2018年度の教会総会が行われます。主よ、どうかこの総会に多くの教会員が覚えて出席できますように。そして、御心に従ってすべてのことが行われますように。上程されている議案を顧みてください。そして長老選挙が正しく行われ、この教会の長老会が真に主の御支配の下に整えられますように。

この感謝と願いとを我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

イエス・キリストの名によって

聖書:詩編1182225節, 使徒言行録3110節,41012

 今年も恵まれてイースターの礼拝を守ることができました。主イエスのお墓はからっぽだった。このことによって弟子たちは、自分たちの罪が赦されたことを信じたのでした。それだけではありません。主イエスの復活という奇跡は、神が、差し出しておられる救いへの招きであります。主イエスの復活を信じるなら、その人の罪を赦されると、信じたのでした。私たちは礼拝の中で、世界中の教会が代々信じて来た信仰とは何かを学んでいます。それは古代教会から今に至るまで教会が受け継いで来た信仰告白で、それに基づいて明治時代に制定された日本基督教会信仰告白があり、また日本基督教団信仰告白も制定されております。

わたしたちの教会は洗礼式の際には日本基督教団信仰告白を告白しますが、1954年に制定された教団信仰告白の元になっているものが日本基督教会信仰告白なので、元々連合長老会に所属している教会では、この信仰告白を合わせて告白しているところもあります。

わたしたちが今取り上げて学んでいるのは、使徒信条です。本日は、「我らの主イエス・キリストを信ず」と告白している、このところであります。この言葉は、教会の中ではイエスが名前でキリストが名字だと思っている方はいないと思いますが、世の中ではそういう誤解もあるそうです。

これは、イエス様は救い主キリストであると、私たちは信じ、主と崇めます、という意味であります。世の中にはたくさんの宗教があり、たくさんの神々と称するものがありますが、そのことを受け入れているのではありません。他の人々はどうであろうとも、私たちはイエス様こそ、救い主。私たちを救う御力のあるただお一人の方、神であると告白しているのです。今日の聖書はよく知られた神殿の前で起こった奇跡物語です。

この神殿を立てたのはヘロデ大王。マタイ福音書の2章に登場する異邦人の支配者であります。彼は壮大な神殿を建てましたが、その入り口の一つに「美しい門」という名の場所がありました。大層豪華で美しい装飾で飾られた門は当時の人々の目を奪ったことでしょう。ところがその入り口には一人の乞食が座っていました。境内に入る人々に施しを求めて生活をしていたのでしょう。美しい門とみすぼらしい乞食。それは全く不釣合と思うかもしれませんが、実はそうではないのです。神殿が豪華であろうと質素であろうと、ユダヤの人々には神殿に来る目的は別にありました。

それは言うまでもなく、神を礼拝することです。では、復活の主にお会いし、主イエスはキリストであると信じた人々はどうしたでしょう。彼らもユダヤ人でした。主イエスを十字架に付けたのもユダヤ人。主イエスの復活を信じ、罪の赦しを信じた最初の弟子たちもユダヤ人でありました。では弟子たちは、主イエスを十字架に付けた憎き人々の指導する、仕える神殿には行かなくなったのか、と言えば、決してそうではありませんでした。彼らは家に集まって主を賛美し、パンを裂き、主の制定された聖餐を守ったことでしょう。しかし、彼らがこれまでしていたことを止めませんでした。それは毎日2回か3回、神殿に出かけて行ってこれまで通り、礼拝を守ることでした。

そういうわけで、ペトロとヨハネは神殿の美しの門を入ろうとしました。すると物乞いをしている人が目に留まりました。この人の方は、毎日大勢の人々が出入りするので、一人一人を見上げたりしなかったでしょう。ただ下を向いてお願いして居れば、中にはお金を落とす人がいる。それで良かったのです。彼はそれ以上、だれにも何も期待してはいなかったでしょう。

ところが、ペトロとヨハネは彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言いました。その人はびっくりしたでしょう。でも彼は自分が人に期待していること以外のことは考えませんでした。期待していること。それは、何かもらえることです。ところが彼の期待は裏切られました。しかし、彼の期待を全く打ち破ることが起こったのです。ペトロは言います。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」と。弟子たちの持っているもの。それは主イエスのお名前でした。イエス・キリストへの信仰でした。

金銀を持っている人々は、そうだれにでも分けて上げたいとは思わないものです。分けたらなくなってしまうと心配します。どこかに隠してでも取って置こうとします。食べ物でも沢山あったら、みんなに分けてしまわないで、何とか保存食にして取って置こうとするでしょう。ところが本当に良いものを持っている人は分け与えずにはいられない。本当に良いもの。それは、人に分けても無くならないのです。むしろますます豊かになります。それは何でしょうか。それがイエス・キリストの福音です。ペトロが持っているものは、しまいこんでおくことができないもの・・・それは福音です。福音は人から人へと伝えられてこそ福音である。福音は人々に伝えてこそ、その本当の意味、本当の力が現れるのです。

ペトロは彼が持っている福音を言葉によって、この人に伝えました。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命令したのです。この命令は、決してペトロ自身の力や権威によって命じたのではありません。彼は、ナザレの人であり、私たちの救い主である主イエスの名を呼んで、その名を信じて、その名によって命じたのでした。言葉は力となり、結果を生み出します。それだからこそ、主イエスの力と権威は、命じられた人の上に現れることとなったのです。そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出しました。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行ったのです。

こうして、乞食の期待は全く裏切られました。彼はただいくらかの施しを求めただけだったのですが、思いがけないもの、立ち上がって、歩く力を与えられるという、全く信じられないほどの主の恵みに与ることになりました。「立ち上がる」というギリシャ語は、座っている状態から立ち上がるという意味ばかりではありません。人が眠っている状態から「起き上がる」、あるいは死んでいる状態から」「甦る」という意味をも表します。また「歩く」というギリシャ語は、「生活する」、「生きて行く」という意味でもあります。

エフェソの信徒への手紙5章14節(358ページ)に次のように言われます。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」キリストの御名によって、私たちは死者の中からキリストと共に復活したのです。これからもキリストに照らされて恵みの道を歩みましょう。

何年も前から「美しい門」にいるこの足の不自由な乞食は人々に知られていました。人々が驚き怪しむ中で、彼は今やすべての参拝者の中で、一番喜びにあふれた人となったことでしょう。こうして、この出来事は証言したのです。救い主イエスの御名が真に権威あるものであることを、だれの目にも明らかなように証言するものとなりました。

福音を聞いた人々の一方は、他方に向かって呼びかけます。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。すると呼びかけられた人は立ち上がり、歩き回ったり、躍ったりして神を賛美するのです。素晴らしいことではないでしょうか。主イエスの名によって立ち上がる。そして神を賛美する。そのために私たちは教会に集まるのです。さて、私たちは今喜んで神様を賛美しているでしょうか。イエス・キリストの救いを自分だけのものにしておくことができずに、他の人に呼びかけずにはいられない人でしょうか。神の不思議な業としるしとは、このような人々の間に現れるでしょう。どちらも主イエスの御名の権威を証ししているからです。そしてこのような私たちが教会の門の内側に入って主イエスの名によって教会を建てることができるのです。

しかし、私たちはしばしば福音を忘れてしまう者ではないでしょうか。門の前に座りながら、入って行くことを忘れてしまっている。神様に溢れる恵みをいただきながら、感謝と賛美と祈りのために教会に集まることを忘れてしまう。神様の恵みを忘れてしまう恩知らずの罪深い者である私たち。しかし、だからこそ、福音はいつも繰り返し聞かなければならないのです。主イエスの名によって語られる罪の赦しの言葉を新たに聞いて立ち上がって行かなければならないのです。

小さなたとえ話をしましょう。これは古代教会の神学者が語ったものではないかと思いますが、今は覚えていません。世界という名の一人の乞食がいました。その名は「世界」というのです。彼が天の国の門の前に横たわっている。それを神さまは見ました。ところで、神様にはご自分の中に隠してしまっておくことのできないものがありました。それは御自分の命と愛でありました。世界という名の乞食はただ施しと冷たい飲みものを求めました。しかし、神さまは御自分の愛する御子を彼にお与えになりました。御子は人が従うべき真の人、人が求めるべき命でありました。御子は世界の萎えた身体の内に住んでくださいました。そして、世界が再び歩き、飛び跳ね、賛美できるようにして下さいました。それは、イエス・キリストの物語であります

ところで、イエス・キリストの名によって癒された人のことでペトロたちは非難中傷されました。しかしこのような迫害も、神様はキリストの名を高めるためにお用いになってくださることが分かります。ペトロは公の場で宣言する機会を与えられたからです。4章10節。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」ペトロはさらに詩編118編を根拠として、人間の罪、特に人の上に立って人々を導いている指導者の罪を告発しました。

「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。」ペトロは人間の罪と神の恵みを恐ろしいまでに対比させています。「あなたがたはイエス様を殺したのだ。しかし、神さまはその方を復活させられたのだ」と。すなわち、人間が価値のないものとして軽蔑して捨てた方を、神さまが用いられるということが起こりました。隅の親石とは、建物が建てられる時の、最も端にある土台の石のことであります。隅というのは、大変不思議な二つの特徴があります。まず、建物の隅といえば、目立たない場所ですが、逆に建物の外から隅を見ると、いろいろな方向からよく目立ち、建物の根幹を支える要の石がそこに置かれているのです。

では主が隅の親石となって下さる目的は何でしょうか。それは、わたしたちがキリストを信じて、キリストの体の教会に組み込まれ、教会の生ける石となるためである。「私たちを救うことができるのは、イエス・キリストの御名によるしかない」という宣言を私たちは聞きました。代々の教会はこのお名前を信じ、告白しているのです。私たちはこのような確信をもって、信頼を以って、日々、主を見上げているでしょうか。この告白において、ペトロや使徒たちと同じ立場に立っているでしょうか。そうでないか、ここが私たちの決定的な違いとなる。この告白によってのみ、私たちはイエス・キリストの教会を建てることができる。

 

主なる父なる神様

皆をほめたたえます。先週はイースター聖餐礼拝を豊かに守ることができ、感謝でございます。私たちは新しい姉妹を教会に迎えることができました。どうかあなたの祝福に満ちた教会を建てるために、互いに主の御旨を行い、ご栄光を表す教会となりますように。教会総会をまじかに控え、様々な問題を解決していくことができますように。多くの兄弟姉妹が高齢のため、奉仕を続けることが困難です。若い方々も非常に忙しく困難を極めていますが、どうか助け合って礼拝を守り、奉仕を捧げ、あなたのご栄光と御心とを表す教会となりますように。総会の準備を祝し、また導いてください。長老選挙の上にあなたの恵みの導きを祈ります。長老、信徒の皆様のご健康をお支えください。教会学校はじめ、若い方々の信仰の教育が発展し、良い実を結ぶ教会となりますように。教会学校に与えられている生徒さんとご家族がイエス・キリストの福音を豊かに聞くことができますように。

東日本連合長老会に加盟して5年になります。この間のお導きを心から感謝します。長老会もますます忙しくなりますですが、どうか長老ばかりでなくすべての教会の奉仕者が恵まれ、支えられますように。御言葉によって良い学びが出来、共に教会を建てて行くことができますようにお助け下さい。

今、お病気が重く、お見舞いもできない方がおられます。どうぞ、また共に集い、主の御顔を仰ぎ賛美を捧げることができますように、ご回復を切に祈ります。また特にご高齢の方々の日を平安で満たしてください。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

死から命へ!

イースター聖餐礼拝

聖書:イザヤ42章10-16節,  マルコ16章1-8節

 主の年2018年のイースターを迎え、主はわたしたちを成宗教会に集めてくださいました。日頃、主を覚え、礼拝を思いながらも、集まることのできない多くの人々のために、主は今日、特別な時を与え、必要なものをお与えくださって、わたしたちが取るものも取りあえず、集まって主を礼拝する心を備えてくださいました。復活の主が二千年前に人々にお知らせくださったように、今は全世界でご自分の復活をお知らせくださり、その命にわたしたちをも招いておられるのです。

しかし、わたしたちは日常の生活で、主のご復活を思うよりも先に、日日の出来事に深くかかわり、時間に追われるより他ないのが実情です。あれやこれやの急な出来事があり、心配事や、周囲の人々の言動に影響され、悩まないではいられないのです。そんなわたしたちが主の御言葉を思い出すと、弟子たちがうろたえた気持ちがよく分かるのではないでしょうか。彼らは主に従って来たのですが、主の御言葉の意味が分かりませんでした。マルコ10章33-34節です。82頁。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして人の子は三日の後に復活する。」

そしてお言葉通りになりました。エルサレム入城された時、喜び出迎えた群衆は、十字架を見て、イエス様を軽蔑し、呪う群衆と変ってしまいました。そして弟子たちも、「たとえイエス様と一緒に死ななければならなくなっても、イエス様を知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロは、「あの人は知らない」と激しく三度も言ってしまいましたし、他の弟子たちは逃げ去ってしまいました。みんなうろたえ、変ってしまった。それも本当に主の御言葉通りになったのです。

それならば、主の最後の一言もやっぱり、お言葉通りになるはずではなかったでしょうか。主の御言葉は次の通りです。「そして人の子は三日の後に復活する。」けれども、それについて思い出し、思いめぐらす者はだれもいなかったのでした。ご復活の朝、婦人たちは、主が葬られたお墓にやって来ました。彼女たちがやって来た訳は、ご復活を信じていたからではありません。しかし、絶望の時にも、彼女たちはてきぱきと行動しました。なぜなら、その当時の社会の習慣があったからです。それは死んだ人の遺体に香料を塗ることでした。彼女たちもイエス様の十字架の死に衝撃を受け、これからどうやって生きて行くのか、と途方に暮れていたでしょう。

しかし、そんな時にも彼女たちはできる限りのことをしました。出来る限り日常の生活を続けるのです。お腹がすいた者に食卓を整え、子を産み育てる者を助け、病気の者を気遣い、そして死者を大切に葬って、真心を尽くすのです。「一番偉くなりたい者は仕える者となりなさい」言われた主の言葉を思います。彼女たちは偉くなりたいと思わなかったかもしれません。そして実際男の弟子たちからも偉いとも思われてはおらず、むしろ、話をしても、「なんだ、女の言うことじゃないか」ということでしょうか、信じてももらえなかったようです。しかし彼女たちは、実はこのように主の言葉に従っているのです。たとえどんなに希望の見えない時にも。これからどうすれば良いのか、と途方に暮れる時も。取りあえずしたことは、イエス様に対する礼儀、感謝を具体的に表すことだったのです。

しかも、お墓に出かけたのは、冷静で計画的とも言えない行動であったようです。なぜなら、彼女たちはお墓の入り口に大きな石があるので、中には入れないことを知っていたのですから。ところがこのような女性たちを主は祝福しておられます。彼女たちは他の弟子たちと同様、主のご復活のことが分からなかった。覚えてもいませんでした。それでも主に対する愛を表して、お墓にやって来た。泣きに来たのかもしれません。その女性たちを祝福して、主は空っぽの墓を見せてくださいました。なぜご遺体は消えてしまったのだろうか。もしや泥棒が盗んだのだろうか。仰天した彼女たちが、あれこれ思い悩む前に、主は白い衣の若者を遣わされました。白い長い衣が天使を思わせます。

彼は次の言葉を告げます。「驚くことはない。あなたがたは十字架に付けられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」「驚くことはない。あなたがたは十字架に付けられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」復活!彼女たちも知っていました。イスラエルの人々は皆、死者の復活を信じていたからです。わたしたちは皆終わりの日に復活させられ、神の裁きを受けなければならないことを。

イエス様は人間の罪を借金に例えられました。神様に借金しているその負債額は天文学的数字にも上ると言われたのです。人は神様に、きっと自分で払いますから待って下さいと願っていますが、到底自分で返すことはできないのです。そこで、神様は人をかわいそうに思い、負債を免除して上げました。天文学的数字の負債をゼロにしてくださる神。その方はどんなにありがたい方でしょうか。終わりの日にどんなに感謝してもしきれるものではないでしょう。ところが罪の赦しを約束された人は、何と、自分に対する人の罪が赦せません。大きな深刻な罪から小さな些細な罪に至るまで、どれもこれも赦せないのです。

神様がお怒りになるのはこのことです。神様は御子を世に遣わして、大きな罪も小さな罪も決して免れない世の人々を憐れんでくださいました。そして人の罪がどれだけ大きいかをまざまざと目の前に見せてくださいました。それが御子の十字架の死です。何の罪もない真心溢れる方を、残虐な死に追いやったのは、力ある者、世の指導者たちではありませんか。それを止めることもできない民衆は、ただ力ある者に追随するばかりなのです。この方の誠実を知り、その隠れた愛の力を知っている弟子たちさえ、逃げ出してしまった。一体だれが、神の恵みに与るにふさわしいでしょうか。全くだれ一人いないのです。

罪が赦されるにふさわしい人はいない。救われる値打ちのある人はいない。しかし、イエス・キリストはそのような罪人を愛して、救いに招くために世に来られ、十字架に死んでくださいました。そして三日目に復活してくださった。それが神の御心であったからです。終わりの日に死者が復活して裁かれる前に、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じて、罪の赦しと永遠の命に結ばれるために、神は救いの道を開いてくださったのです。

では、この救いに与るために、わたしたちに必要なことは何でしょうか。この世の借金を返済するために一生懸命働くように、神様からお借りしている積りに積もった負債を返済しようと、良い業に励むことでしょうか。実際、そうしようとする人々は少なくないのです。そして大威張りで、「神様、わたしはあなたにお借りしているものは何一つありません」と言いたい人は多いのです。神様はこのような傲慢な人々にも忍耐しておられます。また、全くだらしがなく、人々にも神様にも重荷を負わせ、平気な顔をしている人々にもじっと我慢をしておられます。しかし、そこに、その人々に救いはあるでしょうか。

空っぽの墓を指し示して、天使は婦人たちに命じます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かけて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」これが婦人たちに与えられた使命でした。福音を宣べ伝える者たち、弟子たちとペトロ。ここで特にペトロの名が挙げられているのは、ペトロが誰よりも強くキリストを否定して裏切ったからです。主は、ペトロに復活を知らせて、罪に苦しんでいるペトロを特別に慰めようとしておられるのです。こうして彼らに福音を運んだのが、女性たちでありました。それは、彼女たちに対する主の特別な祝福であり、励ましです。もっとも、彼女たちはただただ恐ろしくて、すぐにはその役割を果たすことができなかったようですが。このように、復活の知らせは、聞いても俄かには信じられなかったのです。主のご復活の喜ばしい知らせが、初めは恐ろしいこととしか思えなかったのです。

わたしたちは思います。人間は一方ではどんなに高慢であり、他方ではどんなに弱い者であるかを。そしてどんなに自分にこだわっているかを。自分はどのように生きて、どのようにして死を迎えるか、にばかりこだわり、自分を中心にすべてを考えるのです。しかし、本当にこだわらなくてはならないことは、キリストの死と復活であります。一体、キリストは、あなたと関わりなく十字架に死なれ、あなたと関わりなく復活されたのでしょうか。この答を考えてください。神はキリストによってわたしたちにその答を与えておられます。「そうではない」と。キリストはあなたのためにも十字架に死なれ、あなたのためにも復活されたと。

これを信じるならば、あなたの人生は変えられます。自分にこだわる者から、イエス・キリストによって、神様との関係にこだわるものに変えられる。キリストに結ばれたあなたは生きる時も、死ぬときも、神に属する者と変えられます。その時、あなたの命は神のもの。神の中に隠されていると知るでしょう。その時、あなたはキリストと共に死んで、キリストと共に神の永遠の命に移って行くでしょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神様

主のご復活を祝い、感謝を捧げる礼拝に、わたしたちをお招き下さり、真に感謝申し上げます。わたしたちは小さな群れですが、あなたを仰ぎ見、天にも地にも一つである

キリストの体なる教会を見上げ、主の御心に適った教会を建てようとわたしたちはみ言葉を聞き、聖餐に与って、主の聖霊がわたしたちの心を照らしてくださることを切に願っております。

本日あなたは、わたしたちの群れに1人の信仰者を興してくださいました。真に感謝申し上げます。どうか、今日洗礼の恵みに与った齋藤倫子姉妹を豊かに祝し、ご主人齋藤眞兄と共に助け合って、主に仕えることができますように。遠くから通って来られますので、あなたがその道々を顧みてくださいますよう、お願いいたします。また、教会のすべてのものがこの洗礼式を通して改めて自分に与えられた計り知れない救いの恵みを再認識し、主と結ばれた者としての自覚、信仰を増し加えていただけますよう、お願い申し上げます。

変わりゆく時代の中で、変ることのない主の御言葉による主の御支配が、この教会の上に、そして共に学び、歩んでいる東日本連合長老会の諸教会の上に、また志を同じくする全国連合長老会、また改革長老教会の諸教会の上に豊かにございますように祈ります。

人口減少が進むこの国で、次世代にもとこしえに残る神の言葉を伝えるために、どうかわたしたちをお用いくださり、知恵と力と、何よりもイエス・キリストに現れた計り知れないあなたの愛をお与えください。新年度が始まりました。どうか、今月行われる成宗教会総会にあなたのご計画を表すことができますように。議案の準備、また長老選挙を導いてください。私たちはそれぞれが多くの課題、多くの困難を抱えています。その中で日々の信仰の戦いを立派に戦うために、自分中心を捨て去り、主に従って、主の御支配を仰ぐものとならせてください。そして、わたしたちの死を打ち破り、あなたの永遠の命をいただくために、それぞれの戦いを主の戦いとしてください。教会の戦いをキリストの命が現れるための戦いとしてください。

ご病気のために、また様々な弱さのために苦しんでいる方々を覚えます。今日いただく聖餐、あなたの計り知れない恵みを感謝し、共にこの救いの恵みに与る人々を覚え、祈ります。この感謝と願いをわたしたちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。