聖霊の賜物

主日ペンテコステ礼拝説教

《賛美歌》

讃美歌177番
讃美歌291番
讃美歌352番

《聖書箇所》

旧約聖書  イザヤ書 55章6節 (旧約聖書1,152ページ)

55:6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。

新約聖書  ルカによる福音書 11章1~13節 (新約聖書127ページ)

◆祈るときには

11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11:4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

《説教原稿》

本日は「聖霊降臨日」ペンテコステと呼ばれ、教会の生まれたことを記念する日です。

この「ペンテコステ」という言葉は、旧約時代のイスラエルの三大祭りである、出エジプトを記念する「過越祭」、その「過越祭」で大麦の初穂の束をささげる日から数えて7週間目の「七週の祭り」が起源です。出エジプト記に既に見られるこの祭り(出34:22)は、過越祭から7週即ち49日空けて50日目に行なわれる祭りです。これは10日間が5回来るというギリシャ語のペンテーコンタ・ヘーメラスと呼ばれ、日本語で「五旬節」と呼ばれるのです。イスラエルの三大祭りはこの「過越祭」と「五旬節」の2つに「仮庵祭」が加わったものです。旧約時代は、大麦の収穫の終りを意味し、次の小麦の収穫が始まるお祝いでした。そのため出エジプト記では別名の「刈り入れの祭り」(出23:16)とも、民数記では「初穂の日」(民28:26)とも呼ばれていました。これらの祭は、既にソロモン王の時代にはイスラエルの「三大祭」として守られていました(Ⅱ歴8:13)。何故、教会の生まれた日であるかは、使徒言行録2章1節以下にあるように、主イエス・キリストの十字架の死から復活と昇天の後、この「五旬節」の日に弟子たちはエルサレムの家に集まっていた時に、天から聖霊が送られたことによるのです。聖霊が天から弟子たちに下り、新しい命、力、そして恵みがもたらされ、弟子たちを中心にして教会が形作られました。このことから「五旬節」が「聖霊降臨日」、教会誕生の日となったのです。

本日のルカによる福音書第11章は私たちが礼拝でささげる「主の祈り」についてかかれているところです。冒頭に、「イエスはある所で祈っておられた」とあります。ルカはこれまでにもたびたび、主イエスが祈っておられる姿を語ってきました。

他の福音書よりルカ福音書は主イエスが祈りの人であられたことを強調しているのです。祈りは、基本的に神様との一対一の対話です。祈る自分と相手である神様とが、どちらも生きており、意志を持っており、言葉を持っている者であり、人格的な交わりであるのが祈りです。

主イエスは、祈りの中で、神様に「父よ」と呼びかけておられます。神様のことを「父」と呼ぶことは、旧約聖書にもないわけではありません。しかしそれはあくまでも、神様の威厳や力、慈愛、守り、導きといったことを表現するための譬えでした。ここで、主イエスが「父よ」と祈られた時にはそれは、ご自分と神様との間に、父と子の深い信頼関係があることの表明だったのです。主イエスと父なる神様との間には、父と子としての一体性、信頼と愛に満ちた人格的な交わりがあるのです。そのことを表しているのが、「アッバ」という言葉です。主イエスが神様に「アッバ」と呼びかけて祈っておられたことを他の福音書が伝えています。これは、小さな子供が父親を呼ぶ言葉、日本語で言えば「父ちゃん」とか「パパ」とでも呼ぶような言葉です。主イエスはそのような親しみを込めた言葉で神様に呼びかけ、祈っておられた、それはユダヤ人たちの常識からすると驚くべきことでした。主イエスの祈りがユダヤ人たちや弟子たちを驚かせたのは、主イエスの神様との交わり方が変わっていたからです。弟子たちは主イエスが神様との間に持っておられる、父と子のような信頼と愛の交わりに驚き、自分たちが知らない、体験したことのない祈りの世界にあこがれを持って、「わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったのです。この願いに答えて主イエスが、「祈るときには、こう言いなさい」と教えて下さったのが、この礼拝においても共に祈る、「主の祈り」です。この祈りを教えることによって主イエスは弟子たちを、そして私たちを、主イエスの祈りの世界へと招いて下さっているのです。主の祈りとはこのように、私たちを、主イエスを通して与えられる神様との新しい交わりへと招き入れるものです。主の祈りを祈ることによって、私たちは、神様との新しい関係に入ることが出来るのです。神様との間に、新しく父と子としての信頼と愛の関係を持つことです。しかもその関係は私たちの努力や精進によって獲得できるのではなく、主イエス・キリストの一方的な恵みによって与えられるものなのです。

2節の「主の祈り」の冒頭、「御名が崇められますように」とあります。これが第一の祈りです。「崇める」とは「聖なるものとする」という意味です。私たちも、かつては神様を父として認めず、自分が主人になって生きようとする罪によって神様の聖なる御名を汚していました。その結果、神様との良い関係を失い、まことの父を見失っていたのです。しかし神様は、独り子イエス・キリストを遣わし、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さいました。私たちが、まことの父である神様の子として、神様とのよい関係に生きることができるようにして下さったのです。

私たちは主イエス・キリストの十字架の御業によって今や、神様を父と呼び、信頼し、愛して生きることができます。しかしその御業はまだ完成してはいません。それが完成するのは、世の終わりに私たちが永遠の命を与えられる救いの完成の時です。それは同時に、神の御名が完全に聖なるものとされる時でもあります。その終わりの時まで、私たちは、「御名が崇められますように」と祈りつつ生きるのです。

「主の祈り」の第二の祈り願いは「御国が来ますように」です。御国とは神様の国ですが、その「国」とは支配という意味です。神のご支配が実現しますように、というのがこの祈りの意味です。「御名が崇められますように」の場合と同じように、これも神ご自身がして下さることです。神の御国とは、私たちが地上に建設するものではなくて、神様が招き入れてくださるところなのです。そのことは、主イエス・キリストによって決定的に実現しました。神の御国、私たちへの神のご支配は、主イエスの十字架の死と復活によって、罪を赦し、私たちを神様の子供として新しく生かし、復活と永遠の命を約束して下さるということで実現したのです。しかしこれも、まだ完成はしていません。それが完成するのは、復活して天に昇られた主イエスが栄光をもってもう一度来られ、今は隠されているそのご支配があらわになる時です。その時、今のこの世は終わり、神の御国が完成するのです。私たちはその時まで、「御国が来ますように」と祈りつつ生きるのです。

祈ることを教え、祈りの言葉を与えて下さった主イエスが、それを補足するように5節以下に一つのたとえ話を語られました。

真夜中に、友達の家を訪ねて、「パンを三つ貸してください」と願う、という譬えです。なぜかというと、別の友達が、旅行中に急に自分の家に立ち寄ったが、その人に食べさせるものが家になかったからです。連絡もなしに突然、しかも夜中になって訪ねて来るなんてなんて非常識な奴だ、というのは私たちの常識です。しかし、当時のユダヤ社会においては、旅行者はいつでも、誰の家でも訪ねて援助を求めることができました。またそれを求められた人はできる限りのことをして旅人をもてなさなければならないのが常識でした。なぜなら、当時の旅行は文字通り命がけのことであり、空腹や渇きによって行き倒れてしまう人が多かったからです。ですから客人をもてなすというのは、歓迎してごちそうすると言うよりも、その人の命を助けるという意味を持っており、逆に旅人をもてなさず、受け入れないというのは、その人を見殺しにするということでした。ですから、夜中でも訪ねてきた友人のために何か食べるものを用意しようとすることは、当然のこと、なすべきことでした。ところが家にはあいにくパンが全くない。そこで、近くにいる友人の家に助けを求めていった、というのがこのたとえの設定です。しかしもう真夜中です。友人の家の戸口をドンドンとたたき、「パンを三つ貸してください。旅行中の友達に出すものがないのです」と大声で叫んだらどうなるか。7節「すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』」。真夜中にこんなふうに訪ねて来られることは当時だってやはり迷惑です。しかし主イエスがこの譬えによって語ろうとしておられることは次の8節にあります。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。確かにこんなことは迷惑なことだから、たとえ友達でも断られるだろう、しかし、しつように頼めば、結局は起きてきて必要なものを与えてくれるのだ、と主イエスは言っておられるのです。

このような譬えを語られた上で主イエスは9節で、「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とおっしゃいました。

これは、祈りについての教えです。主イエスは、祈ることを教え、祈りの言葉を教えると共に、祈りにおける心構えを、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれると信じて祈るように、と教えられたのです。

しかし、ここで私たちが神様にしつこく祈り続けることによって、神様もついに根負けして、これ以上面倒をかけられたくないから仕方なく聞いて下さるということなのか、私たちと神様との関係はこのようなものなのか、という疑問が湧いて来ます。またもう一つ、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは本当だろうか、という疑問です。祈って求めればそれは必ず与えられるのだろうか、祈り求めても叶えられない、与えられないものがある、ということを私たちは体験しているのではないか。だから「求める者は受ける」と単純に信じて祈ることなどできない、と感じることも多いのではないでしょうか。

これらの疑問への答えは、11節と12節に「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」とあります。親たる者、魚を欲しがる子供に蛇を与えたり、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしない。蛇もさそりも恐ろしいもの、害を与えるものです。子供にそんなものを与える親はいない。それを受けて13節に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」ともあります。「あなたがたは悪い者でありながらも」というのは、罪があり、欠け多く、弱さをかかえているあなたがた人間も、ということです。私たちは、神様をないがしろにし、隣人を本当に愛することできずにいる罪人です。しかしそんな罪人である私たちも、自分の子供を愛しており、良い物を与えようとします。

私たちは罪人であっても子供には良い物を与えようとする。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。これこそが主イエスが言おうとしておられることです。主イエスは、私たち罪人である人間の親でさえ持っている子供に対する愛を通して、それよりもはるかに大きく深く広い、天の父である神様の愛を見させようとしておられるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というみ言葉は、天の父である神様が喜んで、進んで、あなたがたに良い物を与えようとしておられる、ということを語っているのです。この言葉は、しつこく求めれば得られる、ということを語っているのではなくて、天の父である神様がどれほど私たちを愛して下さっているのか、ということを語っているのです。

そしてこの13節において注目すべき大事なことは、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われていることです。その聖霊が与えられると私たちはどうなるのでしょうか。それは、ローマの信徒への手紙の8章14節と15節に、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。ここに、神の霊即ち聖霊が私たちの内でどのような働きをするのか、聖霊が与えられるとどうなるのか、が示されています。聖霊を与えられることによって私たちは、神様に向って「アッバ、父よ」と呼びかけられる「神の子」とされるのです。天の父が、求める者に聖霊を与えられ、私たちとの間に、父と子の関係を築いて下さるのです。

求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというこの御言葉は、神様が私たちの天の父となって下さり、私たちを子として愛し、父が子に必要なものを与えて養い育てるように、私たちを育んで下さるという約束を語っているのです。私たちも、親は子に、その求めるものをできるだけ与えようとします。しかしそれは、何でも子供の言いなりになる、ということではありません。子供を本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとします。子供が求めても、今はあたえるべきでない、今はその時でないと考えれば、「だめ」と言います。我慢させます。子供は、自分の願いを聞いてくれないことで親を恨んだりすることもありますが、そういう親こそが本当に子供を愛しているのです。私たち罪ある人間の親子関係においてさえそういうことであるならば、天の父、まことの父となって下さる神様は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるのです。「求めなさい。」で始まる御言葉は、そのような父と子の愛の関係の中でこそ意味を持つのです。

主なる神との出会いと交わりが与えられることこそ、祈りが聞かれることなのです。私たちの祈りに応えて神様が聖霊を与えて下さり、聖霊が私たちを御子イエス・キリストと結び合わせて下さり、神様との間に、父と子という関係を、交わりを与えて下さるのです。それが、祈りにおいて与えられる恵みです。この恵みを信じて祈りなさい、と主イエスは教えておられるのです。

本日の11章1節から13節はひとつながりの箇所です。主イエスは祈りを教え、具体的な祈りの言葉「主の祈り」を与えて下さいました。その祈りにおいて私たちは、神様に向かって「父よ」と呼びかけ、つまり神の子とされて生きる恵みを味わいます。その恵みの中で私たちは、神の御名こそが崇められることを求める者となります。神のご支配の完成、御国の到来を求めつつこの世を生きる者となります。私たちが生きるために必要な糧を全て神様が与えて下さることを信じ、神様の養いを日々求めて生きる者となります。また自分が神様に対して罪を犯しており、自分の力でそれを償うことはできないことを知り、神様による罪の赦しを祈り求める者となります。そしてそのことは、自分に対して罪を犯す者を自分も赦すということなしにはあり得ないことを思い、赦しに生きることを真剣に求めていく者となります。常に誘惑にさらされ、神様の恵みから引き離されそうになる自分を守ってくださいと祈り願いつつ歩むものとなります。神様はこの私たちの祈りを天の父として聞き、私たちに本当に必要なものを与えて下さいます。私たちに本当に必要なものは、神様との父と子としての関係、交わりです。その関係を築いて下さる聖霊、神様の子とする霊を、神様は与えて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、主イエスと共に神様を父と呼ぶ者とされ、主の祈りを心から祈る者とされるのです。「主の祈り」とは、祈りの言葉の一つではなくて、神様が聖霊の働きによって私たちとの間に築いて下さる新しい関係、交わりの基本です。「主の祈り」を祈る中で私たちは、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれることを体験していくことができるのです。

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主イエスの新しい掟

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌151番
讃美歌532番

《聖書箇所》

旧約聖書  レビ記 19章17~18節 (旧約聖書192ページ)

19:17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。
19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

新約聖書  ヨハネによる福音書 13章31~35節 (新約聖書195ページ)

13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

《説教原稿》

本日与えられた聖書箇所は、弟子のユダが主イエスを裏切り最後の晩餐の場を出て行ったところで、残った弟子たちに対して主イエスが最後の教えを語られる所です。主イエスはまず人の子が栄光を受けることについて語られます。そして最後の御言葉として34節で、「あなたがたに新しい掟を与える」とおっしゃっているのです。この掟とは、主イエスご自身が「新しい掟」と言われているように、今まで語られていた掟とは違ったものです。ここで主イエスがお語りになることは、今まで、誰も語ったことの無い、主イエスによって初めて語られるものです。主イエスが語る「新しい掟」とはどのようなものなのでしょうか。主イエスは、それを、一言で「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいます。誰でも、隣人愛に生きることが出来れば素晴らしいと思うでしょう。私たちが生きていく上で心がけるべきことの神髄がこの言葉に集約されているとさえ思われます。しかし、私たちは、そんなことは今更言われなくても充分分かっているとの思いがするのではないでしょうか。私たちは、人を愛し、親切にすると言うことを、倫理道徳として既に子供の頃から耳にタコが出来るほど聞かされています。では、主イエスがお語りになる「互いに愛し合いなさい」と言う掟の、どこが新しいのでしょうか。

主イエスが、どのような状況の下で、この掟について、お語りになったかを考えてみたいと思います。31節と32節で、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」と一寸読んだだけでは、何の意味か良く分からない不思議なことを言われています。

ここの最初に「ユダが出て行くと」とあるのは、丁度、このヨハネ福音書13章の直前の聖書箇所で、主イエスがイスカリオテのシモンの子ユダの裏切りを予告し、ユダが、主イエスを祭司長や律法学者に引き渡すために、主イエスと弟子たちのもとを離れて行ったことを言っているのです。主イエスを十字架につけるための計画が弟子であるユダの手によって開始されたのです。今まさに、弟子ユダの裏切りで、主イエスは十字架と言う悲劇的な死を迎えようととしているのです。しかし、この出来事は、主イエスにとって、決して、悲しむべきことではありませんでした。何故なら、「今や、人の子は栄光を受けた」とおっしゃっています。ここで「人の子」とは、主イエスご自身のことです。弟子に裏切られ、十字架という重い刑罰で殺されると言う、人間的な判断では死刑囚として屈辱の極みと言った死刑執行の出来事が始まろうとしていることを、ご自身が栄光を受けたのだと言われているのです。しかも、ここで「今や」と言われていることから、主イエスが、この特別な時を待っておられたことが伺われます。そして、ご自身が栄光を受けたと言うだけではありません。父なる神もまた、主イエスによって栄光をお受けになったと加えて語られています。これが意味していることは、主イエスの十字架の出来事が、神の御業であると言うことです。神の独り子である、主イエスが、人間の罪の身代わりとなって十字架に架かられて死に、それによって人間の罪からの救いが実現しようとしているのです。これこそが、神様の大きな救いの御計画の実現であるのです。この32節では、神が「栄光をお与えになる」と未来形で書かれて、これから父なる神によって栄光が与えられることが語られています。これは、この主イエスが十字架の死後、復活と昇天によって神から与えられる栄光のことが語られているのです。十字架から復活、昇天へと至る、一連の救いの出来事によって栄光が現され、神の救いの御業が成し遂げられるのです。だからこそ、ユダが裏切ったこの時、主イエスは、ご自身と父なる神の栄光をお語りになったのです。これこそが、神の救いが世界にはっきりと現わされる「新しい時」の到来なのです。「新しい時」が到来し「新しい掟」が実現するのです。

続いて33節で主イエスは、「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」と、主イエスが弟子たちのもとを去る時が来たことが告げられます。ここまで、弟子たちは、主イエスと一緒に過ごし、共に歩んできました。しかし、この十字架から先は、主イエスと共に歩むことは出来ないと主イエスははっきりと言われたのです。主イエスは十字架の御業による救いを成し遂げられた後、天に昇られて、もう地上におられないのです。人間の姿を取られた、人となってこの世に来られた主イエスは、栄光をお受けになって、弟子たちと共におられなくなるのです。この「新しい掟」とは、主イエスが側におられなくなり、目の前から主イエスがおられなくなった後で、主イエスに従って行く者たちに示される新しい掟なのです。

十字架上の御業において栄光を受けるということは、弟子たちとの別離を意味します。32節にある「子たちよ」という弟子たちへの呼ひ掛けは、ヨハネ福音書ではここにしか出て来ません。

「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように」とあるのは、少し前になりますが、新約聖書179ページ、ヨハネ福音書7章33節と34節にファリサイ派の人々や祭司長たちが主イエスを捕えようと遣わした下役たちに主イエスが言われた「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」と言われたことを指しています。ここでは、不信仰なユダヤ人たちには、主イエスが言われたことの意味を理解出来なかったことが分かります。それだけではなく、この主イエスの発言を巡って、この直後、筆頭弟子であるペテロの否認の予告へと話が展開するのです。

それでは、ヨハネ福音書特有の弟子たちへの惜別説教の意味は何でしょうか。それは、世の人々を救うために、この地上に遣わされた主イエスが、もともと存在されていた天に栄光の帰還をされるということなのです。弟子たちに別れを告げ、彼らを世に残して行くことを悲しまれますが、弟子たちだけにしてしまうのではありません。主イエスは弁護者(パラクレートス)である「聖霊」を遣わしてくださり、弟子たちと共に居らせ、弟子たちにすべてを教えて、主イエスが地上で言われたことを思い出させるのです。それだけでなく、この聖霊の派遣こそが共同体である教会の中に主イエスご自身が再び共に居られるということなのです。

そのような主イエスによって暗示される十字架の出来事を踏まえつつ語られるのが「互いに愛し合いなさい」と言う掟なのです。続いて34節と35節で、主イエスは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と語られました。

主イエスが、「互いに愛し合いなさい」と言われる時、抽象的に愛を教えようとしているのではありません。「わたしがあなたがたを愛したように」とあるように、ご自身が愛に生きて下さり、その具体的な愛と同じ愛をもって弟子たちが互いに愛し合うようにとおっしゃっているのです。

では、この主イエスの愛を弟子たちが生きるとはどういうことなのでしょうか。それは本日お読みした箇所の直前の聖書箇所に記されています。主イエスが、最後の晩餐の席で、弟子たちの足をお洗いになりました。人の足を洗うと言うのは、ローマ時代では奴隷の仕事でした。主イエスは、自ら弟子たちの僕のお姿となって仕えることを通して愛をお示しになったのです。この弟子たちの足を洗う出来事は、明確に主イエスが向かわれようとしている十字架の出来事を指し示しています。主イエスが僕となって弟子たちの足を洗って下さったとは、神の独り子でありながら、十字架で人々の罪を担って死んでくださることを示しているのです。この時、まだまったく、主イエスの十字架のことを聞かされても分からなかった弟子たちに向かって、足を洗うことを通して、人々に仕える神の愛を教えておられたのです。主イエスは弟子たちの足をすべて洗い終わった後、「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」とはっきりと弟子たちに告げられています。

これは、互いに愛し合いなさいと言われる主イエスの「新しい掟」と重なります。主イエスが、十字架で命を犠牲とすることによって僕となり愛を示してくださった。その愛を受けた者は、互いに足を洗い合うように、隣人の罪を担い、赦し合いながら歩む者とされるのです。それは決して簡単なことではありません。自分の罪に気付かず、自分のことを棚に上げて、他人の罪を裁こうとするのが私たちの常ではないでしょうか。まして、自分に対する隣人の罪を赦すことなどなかなか出来るものではありません。罪を赦し、愛に生きると言うことは、私たち自身の力では出来ないのです。ただ、主イエスが自ら愛を示し、私たちを愛し、語られる掟に見習い、従うときに実現出来るのです。

「わたしがあなたがたを愛したように」主イエスが示して下さった互いに僕となって、互いに愛し合う。

ここにこそ、主イエスの「新しい掟」があるのです。

例えば、主イエスが、ただ「互いに愛し合いなさい」とだけ語られたとしたならば、それは、私たちが自分の内にある愛によって、隣人を愛すると言うことになるのではないでしょうか。しかし、そのように自分の行いによって愛すると言った行為は、どこかで、自分に対する誇りを生みます。自分の栄光を求めようとするようになるのです。そこでは、自分を誇り、隣人を蔑み裁くような歩みが生まれます。主イエスが「互いに愛し合いなさい」という掟に、「わたしがあなたがたを愛したように」と言う言葉が加わっていることによって、この掟は、主イエスによって愛された者が、その愛に応えつつ、その愛に生かされていくための指針になるのです。それは、自分の努力や業によって救いを得ようとするための掟ではなく、主イエスによって愛され、主イエスによって赦された者として、その愛に生かされていく道を示す掟です。その掟によって歩みを導かれていく時、私たちは主イエスによって罪赦された者として、人々の罪を赦し、その罪を担って行く者とされて行くのです。私たちは、主イエスの愛が示されている十字架への道を見る時、自らが、主イエスを裏切る者でしかない現実を知らされます。しかし、そのような、愛に生き得ない人間の現実の只中で、主イエスが愛に生きてくださったことを知らされる時に、その愛に促されて、そこで示される愛に生きる者とされていくのです。

弟子たちのもとを去る主イエスは、地上に残る弟子たちに「新しい掟」を与えられました。弟子たちがこの「新しい掟」を守り、弟子たちが互いに愛し合うならば、主イエスが地上を去った後にもなお、弟子たちが主イエスの弟子であることがすべての人々に認められるのだと教えられているのです。主イエスのこの愛の掟が“新しい”と言われる理由は、「わたしがあなたがたを愛したように」という点にあるのです。御子イエス・キリストを通して示された神の愛に基づいている点なのです。ここまで聞くと、主イエスの掟の新しさとは、今までまったく聞いたことがないような斬新な教えと言う意味での新しさではないかも知れません。

しかし、この主イエスの「新しい掟」というお考えは、私たちの掟に対する概念を根本から覆し、私たちの生き方に根本的な変化をもたらすような、新しさを持っているのです。私たちは、「戒めとしての掟」を求めます。自分自身の業に生き、自分の努力や、その結果の中に、自分自身に栄光を帰そうとします。そんな自分自身に栄光を得ようとして歩む私たちに、真の神の救いの御業を示しつつ、その神の愛に応答して行く道を示す全く新しい掟なのです。

そして、そのような新しい掟に生きる時にのみ、私たちは、互いに足を洗い合うような、お互いの罪を担いつつ歩む歩みが出来るようになるのです。

この「新しい掟」が私たち人間にもたらす変化を弟子のペトロの姿の中に見出すことが出来ます。36節でペトロは、主イエスの言われたことの意味が分からず、「主よ、どこへ行かれるのですか」と問いかけます。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることができないが、後でついて来ることになる」とおっしゃった主イエスに向かって、ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」とまで言い切ります。しかし、そのペトロに対して、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と主イエスは予告なさったのです。そして、実際、この主イエスの予告通りに、ペトロは、主イエスが裁判を受けている最中、主イエスのことを否むのです。「あなたのためなら命を捨てます」と豪語するペトロは、まさに、自分の力で主イエスを愛し、主イエスについて行こうと努力しているのです。しかし、そのようなペトロの努力が続いたのは、主イエスの十字架まででした。ペトロは、十字架で死んでしまわれた主イエスを見捨てて逃げてしまいました。主イエスの行く所について行くことが出来なかったのです。しかし、主イエスはここでペトロに「後でついて来ることになる」とおっしゃっています。これは、ペトロが後に復活の主と出会い伝道者として立てられ、その働きの中でローマから迫害され殉教することを示しているとされています。実に、ペトロは、そのような歩みを辿るのです。しかし、それは、自分の業によって、主イエスに仕えた結果ではありません。主イエスの愛を知らされ、その愛に応答する新しい歩みを始めたことによる結果です。十字架と復活によって救いを成し遂げられた主イエスと出会い、自らの愛の破れと共に、自らを包む大きな神の愛を知らされた時、自分が主イエスのために死ねないどころか、主イエスが自分のために命を投げ出して下さっていることを知らされた時、ペトロはその愛に応える者とされたのです。そこでは、自らの力によって歩み、自分の栄光を求めるのではなく、主イエスの愛に支えられて、自らを捧げる歩みが生まれていったのです。

主イエスが世を去ってしまい、主イエスのところに行けない、そこについて行くことが出来ない弟子たちの状況は、そのまま現代を生きる私たちが置かれている状況です。2000年前のユダヤで、人間となってこの世に来て下さった主イエスは、現代の私たちと共にはおられないのです。

従って、この主イエスの「新しい掟」は、現代を生きる私たちキリスト者に向かって語られているとも言えます。私たちは、主イエスの行かれた場所に行くことは出来ません。しかし、この世にあって、主イエスが語りかけて下さる「新しい掟」によって、主イエスの愛をこの身に受けて生きるのです。自ら十字架に歩まれた、主イエスの愛に倣うのです。そして、そのような歩みが生まれていく時に、私たちは、キリストを証しする者とされます。35節には、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と主イエスが言われています。ここで「皆が知るようになる」の「皆が」と言われているのは、まだキリスト者とされていない人々を指しています。そのような未だキリストに出会ってない人々がキリストを知ることができるのは、キリスト者共同体である教会で、キリストの愛が生きて続けていることによって知るしかないのです。もし、このキリストの愛が生きていないのであれば、ただ戒めとしての掟によって、共同体である教会が、お互いに、自分の栄光を求めながら歩んでいたとしたらキリストの愛である救いは伝わらないでしょう。まして、互いの罪を担うのではなく裁きあいながら歩んでいたとしたら、その群れがたとえ教会の看板を掲げて、そこに人々が集まっていても、伝道が進むことはないでしょう。私たちは、絶えず、主イエスのお語りになる「新しい掟」を聞かなくてはなりません。その掟によって互いに愛し合う時、今、地上におられない、主イエスの愛が、私たちを通して示されていくのです。戒めとしての掟を求め、自分の栄光を求めて歩んでいる私たちに、御言葉を通して掟が新しく語られています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。今日も、この御言葉から、互いに仕え合う新しい歩みを始めたいと思います。

お祈りを致します。

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主イエスはまことのぶどうの木

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌354番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書  創世記 49章 11~12節 (旧約聖書90ページ)

49:11 彼はろばをぶどうの木に/雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。彼は自分の衣をぶどう酒で/着物をぶどうの汁で洗う。
49:12 彼の目はぶどう酒によって輝き/歯は乳によって白くなる。

新約聖書  ヨハネによる福音書 15章 1~11節 (新約聖書198ページ)

◆イエスはまことのぶどうの木
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

《説教原稿》

本日の説教題は「主イエスはまことのぶどうの木」です。先週の説教題での主イエスは「羊飼い」で、本日は「ぶどうの木」です。両方ともに主イエスを「羊飼い」や「ぶどうの木」に譬えた話です。そして先週の「羊飼い」には「良い羊飼い」と「良い」という形容詞がついていました。そして今日の「主イエスはぶどうの木」には「まことのぶどうの木」と「まことの」といった形容詞が付けられています。

1節には「わたしはぶどうの木」と主イエスがご自身をぶどうの木に譬えられています。なぜ譬えられたのかは、5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とあるように信じる者を「あなたがたはその枝である」と言われるためでした。ところが1節にもどると「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とあります。主イエスは、ご自身をぶどうの木に、そして父なる神をぶどうの木を剪定される農夫に、主イエスを信じる者たちをぶどうの枝に譬えられました。ぶどうの木と枝と農夫の関係によって、主イエスと父なる神と主イエスの救いにあずかる者の関係が描かれているのです。枝は、木が地中から吸い上げる養分を得て、果実を実らせます。枝だけでは果実は実りません。ぶどうの枝が、木につながっていなければ自分では実を結ぶことができないように、信仰者も、キリストにつながっていなければ実を結ぶことができない上に農夫の剪定を受けないと充分な実を結ぶことが出来ないというのです。しかし、もし、枝が木にしっかりとつながっていれば、その枝は養分を与えられて豊かに実を結びます。5節の後半に、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とあるように、信じる者は、キリストとしっかりと結びついていれば、豊かに実を結ぶ者とされるのです。このぶどうの木の譬えは、人々に非常に知られ愛されている聖書箇所であると言って良いでしょう。皆様の中にも、この箇所が好きだという方も多いんではないでしょうか。既に、キリスト者とされている方は、誰しも、キリストとの出会いを与えられ、救いにあずかり、それによって生かされているという思いをもっています。キリストの救いの恵みを知らされて、以前と比べて、はるかに生き生きと積極的に喜んで歩むことができるようになったと思う方もあるでしょう。そのような者たちにとって、このぶどうの木の譬えは、主イエス・キリストと密接に結びついて生きる自らの姿が、非常に良く言い表されている聖書箇所です。

このぶどうの木の譬えは、主イエスと信仰者との関係をイメージ豊かに語っています。しかし、これによって私たちは、主イエスとの関係にだけに注目してしまうんではないでしょうか。1節には、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。主イエスがぶどうの木であり、信じる者が枝であるということよりも先に、主イエスがぶどうの木であり、父なる神が農夫であるということが語られているのです。主イエスと父なる神との関係が先に語られているのです。私たちは、ぶどうの木全体を植え、養い、育てておられる神様を忘れてはならないのです。ここに直接書かれてはいませんが、当然ながら、主イエスは、ぶどう園を管理する農夫である父なる神に植えられた木なのです。だからこそ、その木である主イエスに結びついている枝は、真の命の源である神様からの救いをいただき、養われて行くのです。

そして、主イエスは、ここで、ご自身を、ただの「ぶどうの木」ではなく「まことのぶどうの木」と「まこと」を付けられています。自分こそ、真実なぶどうの木だとおっしゃっているのです。それは、主イエスが、父なる神に植えられた木であり、信仰者を真の命につながらせる木だからに他なりません。私たちの周りには、ぶどうの木、即ち、私たちが実を実らせるために養分を与えてくれそうに見えるもの、自分の人生を豊かにしてくれそうなものがたくさんあります。主イエスは、そのような中で、何が真実なのかを見失ってしまう人間に、父なる神と密接に結びついており、それ故に信仰者が結びつくべき木は誰なのかをはっきりと示しておられるのです。

では、私たちがこの譬えにおいて先ず注目するべき、父なる神の働きとはどのようなものなのでしょうか。そのことが2節以下で記されています。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなされる」。父なる神の働きは、枝を手入れするもの、枝、即ち、信じる者は、神様から手入れされるものなのです。ここで先ず注意したいことは、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」と言われていることです。主イエスとつながっているかどうかということと共に、実を結んでいるかどうかということが重要なことなのです。主イエスが、私こそまことのぶどうの木だとおっしゃる時、単純に、キリスト教こそ、救いに至る道だということを言っているのではないのです。この世には、私たちに人生の実りをもたらしてくれそうな様々な宗教があります。キリスト教を信じる者は救われるが、他の宗教を選択した人は救われないということを示すために、この譬えを語られているのではありません。主イエスにつながり、キリスト者とされていながら、実を結ばないという事態が問題にされているのです。キリスト者とされていながら形式的な信仰に陥ってしまう危険が語られているのです。

農夫である主なる神は、その実りのない枝を取り除かれ、実を結ぶ枝が更に豊かに実るように手入れをするのです。つまり、農夫である父なる神は、ぶどうの枝を良い枝と悪い枝に分け、実りのない枝を取り除きつつ、実を結ぶ枝がより一層豊かに実を結ぶように剪定されるのです。

しかし、この言葉には注意を要します。私たちの中のある人が、実りをもたらさない枝で、ある人は実りをもたらす枝であると言うように、取り除かれる人と、そうでない人の二つのグループに分けられるのだと考えてはいけません。

そうではなく、どのような人でも、一人の人間の内側に、実りをもたらさない枝と、良い実りをもたらす枝を持っているのです。その実りをもたらさない枝は、私たちの罪とも言えるでしょう。父なる神様は、そのような部分を取り除き、私たちが、良い実を結ぶことが出来るように養って下さっているのです。

では、父なる神の手入れは、どのようになされるのでしょうか。続く3節では、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」という主イエスご自身の言葉が記されています。信じる者が御言葉によって清くされていることが語られているのです。この「清くする」という言葉は、2節で農夫が実を結ぶ実の手入れをなさると言う時の「手入れする」という言葉と同じ言葉なのです。即ち、農夫である父なる神の手入れは、信仰者が御言葉に聞き、それに生かされる、信仰者が御言葉によって生きる時に実現するのです。神様の手入れは、主イエスの御言葉を通して実現するのです。主イエスの御言葉は、農夫が果実を実らせるために剪定するように、真の実りをもたらすように、私たちを剪定するということです。キリスト者は、剪定されることなく、豊かな実りをもたらすことは出来ないのです。御言葉に聞くと言うことは、私たちの中にある真の実りを実らせない罪の部分が取り除かれ、実りある枝が伸ばされて行くことです。このことが語られた上で、4節以下で、まことのぶどうの木である主イエスとその枝である信じる者の姿が語られていくのです。主イエスにつながっていることによって、キリスト者は、御言葉によって剪定されるという形で、父なる神の手入れを受け清くされ、豊かな実を結んで行くのです。

この、ぶどうの木の譬えは、旧約聖書にも出てきます。イザヤ書や詩篇に、ぶどう畑が登場します。これは、 イスラエルの民の姿を歌ったものです。旧約聖書918ページの詩篇80編9節から16節をお読みします。

80:9 あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。
80:10 そのために場所を整え、根付かせ/この木は地に広がりました。
80:11 その陰は山々を覆い/枝は神々しい杉をも覆いました。
80:12 あなたは大枝を海にまで/若枝を大河にまで届かせられました。
80:13 なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。
80:14 森の猪がこれを荒らし/野の獣が食い荒らしています。
80:15 万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください
80:16 あなたが右の御手で植えられた株を/御自分のために強くされた子を。

ここでは、イスラエルの民をぶどうに譬え、植えられ世話をされ、一旦は大きく成長したにもかかわらず、その地は侵略され続けていることが歌われています。この譬えにおいて、ぶどうは、旧約における神の民イスラエルです。旧約聖書においてぶどうの譬えが語られる時、共通していることは、神の民イスラエルが、主なる神の守りの内にありながらも、そこで実らせるべきぶどうを実らせても神様に実りを返していない、または実を実らせていないということを示しています。イスラエルの民は、神の民として、主なる神の救いの約束の中を歩んでいた人々でした。しかし、彼らは、救いの約束にあぐらをかいてしまったのです。そして、自分たちの力で神様の救いを獲得できると考えたのです。そのような中で、人間の業によって神様の救いを得ようとする態度が生まれたのです。そして、自分自身を誇り、他人を裁きながら歩んでいったのです。この旧約聖書が語るイスラエルの民の姿勢は、この世で信仰者が陥ってしまう可能性があるものと言わなければならないでしょう。御言葉によって清くされキリスト者とされていながら、絶えずその御言葉に聞き、その前で自らが変えられて行くことがなされなくなってしまったとしたら、それは、真に神様の救いにあずかっていると言うことにはなりません。

主イエスの御言葉は、罪の中にある人間に対して、いつも悔い改めの思いをくださり、罪の部分をとってくださいます。ここで、御言葉と言うのは、ただ、主イエスがお語りになった教えと言うだけでなく、主イエスの言葉、行い、人格、全てを指します。それは、主イエスが、人となってこの世に来て下さり、十字架にかかって人間の罪を贖い、復活によって、罪のために死の支配の中にあった私たちを命に生きるものにして下さったということです。言葉だけでなく、主イエスのすべてを通した語りかけを聞く時に、私たちは、自分自身の罪を知らされるのです。そして、その罪が赦されているという恵みの中で、自分の思いにのみ従って生きていこうとする罪を取り除かれて、神様の下に立ち返り、神様の御心に生かされて行くのです。真の赦し、救いを知らされる時、私たちは自らを悔い改め、新しい命に歩み出さずにはいられないのです。私たちは、常に、御言葉に聞き、そこから生じる、悔い改めによって、自分自身が変えられていかなくてはならないのです。そのことによって、主なる神が与えて下さる真の命に生きることこそ、私たちの豊かな実りなのです。これ以外に、私たちが真の実りを得ることはありません。御言葉によって、変えられて行くことによってのみ罪からの解放があるのです。6節には、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と語られています。主イエスとの交わりから離され、キリストの救いの恵みが及ばない所には、主なる神の裁きが臨むことになるのです。

このヨハネ福音書に用いられている象徴的な、15章「まことのぶどうの木」の「まことの」や10章「良い羊飼い」の「良い」という表現は、ヨハネ福音書の特徴的な言葉です。「羊飼い」や「ぶどうの木」といった表現によって主イエスを他の多くの宗教者や救済者と区別し、救いが主イエスによってのみしかないことを強調し、救いの独自性を強く語っているのです。

私たちが神様の恵みを感謝する時、それは、この世における成功であったり、社会的な高い地位であったり、充実した豊かな暮らしというような、人間の清く正しい立派な行いではないでしょうか。そのような人間の価値観によって考えられる豊かな実りのみが求められる時、キリスト者とされていながら、キリストを自分の思いに従わせ、自分の願う範囲で人生を豊かにしてくれる、自己実現の手段としてしまうことも起こって来るのです。その時私たちは、自分の力で養分を吸い上げることが出来るぶどうの木であるかのように錯覚してしまうのです。そこでは、キリストの御言葉が、自分の都合に合わせて剪定出来る枝のようなものになってしまいます。

私たちは、ぶどうの枝であることを忘れて、自分自身がぶどうの木であるかのように思い違いをしてしまうことがあります。自分で養分を吸い上げ、豊かな実を実らせようと自立しているぶどうの木であるかのように考えてしまうのです。私たちは、ただ、自分がぶどうの枝であることを知り、ぶどうの木である主イエスにしっかりと結びつかなければなりません。御言葉によって剪定され、自分本位の実りへの思いが打ち砕かれて行くことによってのみ、真の実を結ぶ者とされるのです。主なる神は、今日も、主イエスの御言葉を通して、私たちを清くしようとしておられます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。この御言葉に聞きつつ、御言葉に剪定され、清められて行くときこそ、自分の力で神の御前に立とうとするのではなく、とうてい神様の前に立てない者が、キリストによって生かされていることを知らされるのです。

主イエス・キリストによって与えられる命を受けつつ歩んで行く所に、真の実りが生まれて行くのです。それは、私たちの滅び行く命を超えて、真の命に通じて行く、確かな実りなのです。主の御言葉に生かされて、今日も新たな歩みを始めたいと思います。

お祈りを致します。

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主イエスは良い羊飼い

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌243番
讃美歌298番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 23篇1~3節

23:1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。

新約聖書  ヨハネによる福音書 10章7~18節

◆イエスは良い羊飼い
10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

《説教原稿》

今日のヨハネ福音書10章は、この前の9章で生まれつき目の見えない人を主イエスが見えるように癒された奇蹟物語の後半でファリサイ派の人々が主イエスを責め、彼らの罪が明らかにされた直後に、一見唐突とも思える書き方で、いきなり、主イエスの「はっきり言っておく。」という御言葉で始まります。しかも、今日の8節には「盗人であり強盗である」という強い表現で、ファリサイ派の人々を非難することから始まります。6節にあるように「彼ら〔ファリサイ派の人々〕はその話が何のことか分からなかった。」ことから、彼らの霊的無知を思い起させます。それによって、今日の譬え話が霊的に理解されなければならないと主イエスは、ここで告げられているのです。

主イエスは、ご自分を羊飼いに譬えられ、羊との羊飼いの関係を用いてご自身について語られます。羊というのは弱い動物で、狼などに襲われたら、自分で自分を守ることが出来ません。又、他の動物に比べて力が弱いというだけでなく、自ら生きていく術を知らないために、羊飼いの保護なしには生きていけません。主イエスは、主により頼んで歩む信仰者を羊に、そして、救い主であるご自身を羊飼いに譬えられたのです。

神の民を羊に、民の指導者を羊飼いに譬えることは、すでに旧約聖書の中に幾つかの例が見られます。その場合、しばしば横暴な偽羊飼いとまことの羊飼いとが対比されます(Ⅰ列22:17、エゼ34章、37:24‐28、ゼカ10:2‐3、11章)。ここで主イエスは偽りに満ちたユダヤ人の宗教指導者たちに対して、自らをまことの良き羊飼いとして啓示されているのです。盗人や強盗にすぎない者と、本当の羊の牧者の姿が印象的に描かれているのです。羊飼いは「自分の羊の名で呼んで連れ出す」と「羊はその声を聞き分ける」のです。何故なら「羊はその声を知っているので」ついて行くのです。盗人や強盗が羊の命を奪うためにやって来るのに対して、羊は主イエスという「門」を通って牧草地に安全に導かれるという意味で、主イエスは「羊の門」なのです。また、羊のことを心にかけない無責任な「雇い人」に対し、羊のために命を捨てる「良い羊飼い」であると宣言されるのです。当時の羊飼いという職業は、実際、狼などの野獣から羊の群れを守るために身を危険にさらしました。

今日の、「良き羊飼いのたとえ」は、主イエスと父なる神との関係、主イエスと信仰者との関係、主イエスの十字架の死の意味にまで及ぶ物語です。主イエスの羊は主イエスが羊飼いであることを知っており、主イエスも羊を知っておられるのです。そして、主イエスの羊はユダヤ民族に限られず、「この囲いに入っていないほかの羊も」含むのです。しかも、この囲いに属さない者たちが主イエスの群れとなるためには、主イエスの死と復活が必要です。そのことを暗示するかのように、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と、主イエスの死に言葉が及ぶのです。ユダヤ人たちはすでに主イエスを殺そうという思いを抱いていました(5:18)。しかし、主イエスが命を捨てるのも、それを再び得て復活されるのも、主イエスご自身の権威によるのであり、そして、そのことは父から受けた「掟」であると述べられるのです(18)。

今日のこのヨハネ10章7節から18節では、旧約聖書にしばしば書かれている羊飼いのイメージを用いて、主イエスこそが神の民「羊」が必要とするお方であることを強く指し示しているのです。

ファリサイ派の人々とは、当時のユダヤ教の指導者たちのことで、自分たちにこそ神様の救いが与えられると思っていました。律法を守ることによって救いが得られると信じ、律法の教師として人々を教え、指導していたのです。まさに、羊であるユダヤの民の羊飼いとして振る舞っていたのです。しかし、この人々は、自分たちが律法を厳格に守っていることを誇り、律法を守ることが出来ない隣人を裁くことに熱心でした。

主イエスがこの世に来られたのは、人々に永遠の命を与えるためであり、それについてはヨハネ福音書の随所に書かれていますが、ここ10章の特徴は、永遠の命は、主イエスが己の命を与えることによってなされることを、良き羊飼いに譬えて描いていることです。

ここで命を与えるとは、自分の命を犠牲とするただ一回限りの御業です。この事を中心的なテーマの一つとするヨハネ福音書にあって、この10章は極めて重要な位置を占めているのです。

主イエスは先ず7節で、「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」と語ります。主イエスは、ご自身こそ門であると言われるのです。ここで語られているのは、9節に「わたしは門である、わたしを通って入る者は救われる」とあるように、救いにいたる門のことです。羊は、この門を通って出入りすることによって牧草を得ることが出来るのです。主イエスを通してしか救われないことを強調しています。「わたしを通って入る者」とは原語では“わたしによる者”となりますが、これは、主イエスによる絶対的な救いを強調しています。主イエスが唯一の救いに至る者であることが示されているのです。8節では、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」と言われます。ここで、「盗人」、「強盗」とされている、「主イエスより前に来た者」というのは、主イエスより時間的に前にいた人々、旧約聖書の預言者たちのことではありません。「前に来た者」とは、前の1節において「門を通らないで他のところを乗り越えて来る者」と言われていた人たちのことです。主イエス・キリストという門を通らない者のことです。まさに主イエスと対立して律法による救いを主張していた、ファリサイ派の人々に目が向けられているのです。9節の「救われる」とは、神の裁きを受けない永遠の命を得ることを意味し、文法的には未来形で書かれ、救いの約束がずっと続くことを指し示しているのです。

10節に記されているように、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」からです。たとえ、彼らが表面的には、羊たちを養っているように見えても、実際は自分自身を養うことにしか関心がないのです。律法による救いを説いていましたが、それは本当に人々の救いを願って教えていたのではありません。むしろ、自分たちが人々から一目置かれ、尊敬されることに気を配っていたのです。そのために、自分たちが守っている律法によって人々は救われるのだと主張していたのです。

このイエスを「門」とする表現にも、旧約聖書のイメージが強く組み込まれています。門から入って救いを見い出すという約束は、詩篇118編(19-20節)の「主に感謝するために正義の城門を開く」と書かれていますし、また、牧草を見つけるという約束は詩篇23編(1-2節)の「私を青草の原に休ませる主なる羊飼い」やエゼキエル書34章(14-15節)の「肥沃な牧草地でイスラエルの民を養う」と書かれています。また、今日の9節の「牧草を見つける」約束は、主イエスご自身による約束、渇きと飢えを終らせる4章(14節)の「サマリアの女への水の賜物」や7章(37-38節)の「主イエスを信じる者は生きた水が川となって流れ出る」といった水となって恵みが与えられる話を連想させます。このように新約聖書は旧約聖書を土台として書かれているのです。

10節では盗人に対置して、主イエスの来臨が語られ、それは羊が「命」を受けるためであると、「命」が強調され、主イエスがこの世に来られた目的が明らかにされるのです。11節から、これまでの「わたしは門である」に代わって、「わたしは良い羊飼い」と言われます。

羊のために命を棄てることが、ここで良い羊飼いの「良い」ということを規定しています。この羊飼いは、羊のために命を捧げるという自己犠牲を行なうと言われるのです。自己犠牲がなく単に牧草を与えて羊に自然の命を与えるのではありません。ここではエゼキエル書34章(1-16節)にある「良き羊飼いとしての父なる神」について語られます。良い羊飼いである神は散らされたところから羊たちを救い出し、彼らを養い、弱いもの、傷ついたもの、失われたものをいたわり、羊のために心を砕くのです。この羊飼いと同一化することによって、主イエスはご自分が神の約束を成就し神の業を行なう者であると語られるのです。羊のために自分の命をも投げ捨てる羊飼いとして、ご自身を語られるのです。良い羊飼いは野獣から自分の羊の群れを守るためには、その命をも投げ出さなければならなかったのです。この「私は命を捨てる」との御言葉はヨハネ福音書独特の雰囲気の中に何回となく(10:15-18、13:37-38、15:13等)使われて、主イエスご自身の十字架の死を暗示しているのです。

ここまでに出てくる「羊飼い」という名詞は、新約聖書では18回も用いられています。今日のヨハネ福音書のこの箇所では、良い羊飼いとして主イエスは、群れのために自分の命を進んで投げ出す用意がある(11、15、17、18節)ばかりでなく、羊の所有者として(12節)、殊更の責任を羊に対して持とうとされているのです。更に、良い羊飼いといして(14節)主イエスは羊を知っており(15、27節)、羊は主イエスを知って(15節)、主イエスに従うのです(27節)。それだけでなく、羊飼いとしての主イエスの働きは信じる教会の人々ばかりでなく、牧場の囲いに属さない異邦人にまで及んでいます。唯一の羊飼いとして、主イエスは彼らを一つの群れにされようとしているのです(16節)。

12節では、羊飼いと雇い人が対置されます。雇い人も羊を養うのですが「良い羊飼い」ではないのです。4節にある「自分の羊」とは、羊飼いがその羊の名を知っていて、その羊を呼ぶと、羊はその声を聞き分けて羊飼いのもとに集まって来るのです。単に所有しているといった関係ではなく、呼べば答え、羊は羊飼いの献身振りを知っているのです。こういった意味から雇い人とは単に羊を所有していないだけではなく、自分の命が羊の命より大切だから、危険が迫ると羊を置き去りにして逃げるのです。この12節では、盗人や強盗といった危険に代わって「狼」の危険について書かれています。ここでは、通常群れで狩りをする動物である狼に単数形が使われていることから14章20節の「世の支配者」といった者が比喩されているとも考えられます。良き羊飼いに飼われている羊は見捨てられることがありません。すべての羊が救われるのです。「雇い人」とは、悪い意味の「羊飼い」として用いられて、羊のそばにいない「日雇い労働者」としての羊飼いのことです。この雇い人はエゼキエル書34章(5-6節、8-10節)の「群れを養わず自分自身を養う悪い牧者」や、またエレミア書23章(1-3節)の「羊の群れを顧みない牧者」などの「悪い羊飼い」の描写とも重なります。旧約聖書の愚かな牧者や雇い人についての描写は羊の安寧を犠牲にしても自分たちの安泰を重視するユダヤ教指導者やファリサイ派の人々の姿を思い起こさせているのです。「狼は羊を奪い、また追い散らす」ことが起こるのは、羊が雇い人に任されているからです。雇い人は羊のことを「心にかけない」からです。彼らは決して「羊飼い」とは呼ばれない「雇い人」なのです。14節からは、二つの譬えの説明がされます。

14節は「わたしが良い羊飼である」という主イエスを象徴する語句が繰り返されます。羊の羊飼いに対する関係は、啓示者である父なる神に対する関係に相当します。それは、「彼は羊たちの名を呼び」、「羊たちはその声を聞く」という関係です。羊飼いの羊に対する関係は、ここでは、羊飼いが羊のために命を捨てるという、主イエスの十字架の死を、人々のための犠牲としての死を指すものとして説明されます。ヨハネ福音書によれば、神に遣わされた主イエスの死は、ご自身の自由意志に基づく犠牲としての命の放棄なのです。

12節にある「この囲い」とは、譬えとしてユダヤ民族を指しています。主イエスに属する「羊」は、イスラエルだけでなく、広く世界に生きているのです。羊の群れと一人の羊飼いとは、主イエスの言葉に聞き従う教会を示しているのです。17節は主イエスの十字架の犠牲死が、ご自身の自由意志であることが強調されています。主イエスは命を受け、そしてまたそれを取られる。主イエスは、神の力を以てご自分の命を自由に扱われるのです。ここでは一貫して「復活する」と言われ、「復活させられる」と受動態ではないのは、主イエスの死は栄光を受けることであり、父なる神への帰還だからなのです。人の姿をとった主イエスの死は、ご自身の意志によるのであり、死に対して絶対に自由な支配力を持っているのです。主イエスの死は、死の力による破滅(カタストロフ)ではなく、むしろ、命を捨て、命を得る、その高い権威は、父なる神の意思に基づいて、再び命を得る全権を、父なる神から与えられているのです。主イエスは死をも支配される御方なのです。

キリストという門を通らないで牧草を得ようとしてしまう所に人間の罪があります。その罪の力から誰も自由になれないのです。信仰に生きている者、教会に属する者こそ、一人一人の名を呼んで下さる羊飼いの声にいつも耳を傾けていなくてはならないのです。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。主イエスはご自身が門であると共に、「良い羊飼い」であると語られました。

「雇い人」と「良い羊飼い」の違いは、「羊のために命を捨てる」かどうかということです。

罪のために、私たちは滅び死ぬことになるのです。ですから、罪と死の力に襲われる時にも、私たちを見捨てない羊飼いこそが、本当に良い羊飼いであり、私たちの救い主なのです。普段どれだけ、喜びや、楽しみを提供し人生を豊かにしてくれるかということではありません。私たちが罪と死に直面する時に、主イエスは体を張ってその危機と立ち向かい、私たち羊の身代わりとなってくださるのです。主イエスは、羊の身代わりとなって命を捨てられる羊飼いなのです。

主イエスが、ご自身のことを、このような良い羊飼いであると言われるのは、主イエスが十字架において自らの命を投げ出されることで、羊たちを襲う狼と戦われた方だからです。しかし、ただ、身代わりとなって死なれただけではありません。17節に、「わたしは命を再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」と言われるように、主が十字架で命を捨てられたのは、それを再び受けるためであったからです。ただ十字架で死なれたのではなく、そこから再び命を受けられて復活されたことによって、死の力に勝利しておられるのです。

主イエスが再び命を得られたように、私たちにもその命が与えられるのです。父なる神との愛の交わりの中にある羊飼いに導かれる時に、私たちは命の恵みを豊かに受けることになるのです。

主イエスは、16節に「この囲いに入っていないほかの羊」とキリストに養われていない群れ、すなわち教会に属していない人々も気にかけておられます。門であるご自身を示して、ここから入るようにと、救いに至る道を示し続けておられるのです。

主イエスの十字架による救いの御業は、キリストの群れの交わりの中にいない者のためにもなされたものであり、主イエスは、そのような人々も救いあげようとしておられるのです。

教会の交わりの中にいない、まだ救われていない方々の中から一人でも多くの方々が、この幸いなるキリストの救いに与れますよう、お祈りを致しましょう。

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私の軛(くびき)を負いなさい

《賛美歌》

讃美歌9番
讃美歌352番
讃美歌312番

《聖書箇所》

旧約聖書 申命記 1章29b~31節 (旧約聖書280ページ)

1:29b 「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。
1:30 あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。

新約聖書 マタイによる福音書 11章28~30節 (新約聖書21ページ)

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

《説 教》

今日、示された新約聖書の御言葉は、教会では度々「招きの言葉」・「招詞」としても大変良く用いられる御言葉で、キリスト者にとっては、諳んじて覚えられているほど馴染み深い聖書箇所と言えるでしょう。

本日のこの聖書箇所の少し前の11章20節から振り返って見ましょう。主イエスは、ガリラヤで伝道を始められてから沢山の奇蹟をされましたが、ここには、悔い改めなかったガリラヤの町を主イエスが叱り始められたとあります。それらの町の人々は、主イエスに癒しや悪霊からの解放を求めました。しかしながら、ティルスとシドンの人々は主イエスの御言葉に耳を傾けても悔い改めることをしませんでした。主イエスは、これらのガリラヤの町は旧約聖書に引用されている「ソドム」や「ゴモラ」などより重い罰に値すると言われたのでした。これらのガリラヤの町は、神の御子主イエスの御言葉を直接聞くことができ、すぐにも、悔い改めて主に聞き従えるという有利な立場にありながら、旧約聖書に出て来る町「ソドム」や「ゴモラ」と同じように、主イエスの御言葉に応答しなかったからなのです。ガリラヤの地で伝道を開始された主イエスの御言葉には力がありました、その最初の御言葉は4章17節にある、「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。この御言葉を聞き信じた人々は、最も大切なこととして、主イエス様ご自身が言われた「わたしの軛を負いなさい」という御言葉に聞き従ったのです。今日の御言葉の直前の25節以下で主イエスは、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」と言われています。自らを「知恵のある者や賢い者」として高ぶる者には神の国の真理は隠され、幼子のように素直に心を開き信頼する者に、神の国の真理は明らかにされると主イエスは語られたのです。

人間にとって神様を信じる信仰という霊的な行為は、人間の常識とは別のものであることを主イエスは語られたのです。主イエスが「父」と呼ぶ神様が、御子である主イエスを通してご自身を現したのであり、主イエスは神様のひとり子として父なる神様と特別で密接な関係にあることを話されたのが、主イエスの伝道の御言葉でした(2:15、3:17、4:3、6、8:29)。御子イエスが父なる神様を人々に知らせなければ、人は父なる神様を知ることは出来ない、人は主イエスを通してしか神様を知ることが出来ないことを語られたのです。

28節で、主イエスは、「疲れた者」と呼びかけておられます。この「疲れた者」とは、当時の律法学者やファリサイ派の人々によって、律法の重荷を負わされていた民衆です。毎日毎日さまざまな掟によって縛り付けられていたユダヤの人々のことでした。

律法とは、ユダヤの人々が生きて行くこと、日々の生活を神様の恵みと喜び、感謝しながら過ごす中にあるもので、本来人々に知恵を与えるものでした。しかし、当時のユダヤ教の祭司や律法学者、ファリサイ派の人々は多くの律法の規定を作り出してしまい、かえって律法を重荷にしてしまったのでした。そして、この「疲れた者」に対する聖書の御言葉と主イエスの約束は、今ここに生きている私達に向けられた御言葉でもあるのです。

私たちの人生にはさまざまな労苦があります。重い重い、重荷があります。私達を疲れさせるものが沢山あります。疲れ果ててしまっている私達に対して、主イエスは、「疲れた者」と呼びかけておられるのです。

これは私達疲れ果てた者に対する主イエスの呼び掛け・招きです。ここで主イエスが私達に与えようとされている「安息」とは一体どんなものでしょうか。また、それは本当に必要なものであるということを、私達が充分に理解しているでしょうか。世の中には、重荷を負っている人は沢山居ますが、その重荷は、主イエスによってのみ軽くして頂けるものなのでしょうか。本当にそうなのか、どうしたらそうなるのか、ということだけでなく、その内容を私達がどれだけ知っているのでしょうか。例えば、世の中の多くの人々は酒を飲むことによって、重荷をおろそうとしています。もしかすると、キリスト者でありながら、キリストのところへ行って重荷をおろすより、一杯やったほうが気が晴れると、心の奥底の何処かで思っている人も居るのではないでしょうか。私なども、長いサラリーマン生活の中で、ついつい深酒をしてしまったこともありました。こんな一例に限らず、私達は「重荷を負っている者こそ、この私達なのだ。」と思っています。それほど重荷は何処にでもあるのです。そして、何と自分が重荷を負っていることは当然分かり切っているのですが、その「重荷の正体」を実は何も分かっていないのではないでしょうか。「重荷の正体」とは、いったい何なのでしょうか。今日、私達に示された28節の御言葉を読んで気付かされるのは、実は私達が重荷だ、重荷だと思っていたものを、主イエス様が「そうだ、それがお前の重荷だ。」と簡単に受け入れて下さっているのではないということです。

そうではなく、私達が「これは苦しく悲しい、大変な重荷だ」と考えるよりも、ずっと深い思いで、本当の重荷とは何か、私達を苦しめている本当の重荷とは何であるかを主イエスは見抜いておられるのです。

私達を、疲れ果てさせて、絶望の淵にまで追い込んでいるものは、いったい何であり、どんな重荷なのでしょうか。それを本当に取り除いてしまう道はどこにあるのでしょうか。その重荷を取り除くことに関連する御言葉として29節には「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と主イエス様は仰っています。口語訳聖書では、主イエス様は「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」と若干違った訳になっていますが、29節のこの日本語に訳されている「得られる」と「与えられる」との言葉は元来「見出す」という言葉です。

苦しく重い「重荷」を放り出したり、下ろしたりするのではないのです。そうではなく「安らぎを見出す」と主イエスは言われたのです。私達は人生において、苦しい時や悲しい時に、得てして「ああ、休みたい、ここで荷を下ろして休みたい。」と思います。しかし、主イエスは言われました。重荷とは放り出したり、下ろしたり出来るものではない、また、主イエスによって与えられる「安らぎ」とは、その重荷を負った者に、重荷を負ったままで与えられるものなのだと、言われているのです。この主イエスの与えられる「安らぎの約束」は、その前にある2つの御言葉を前提としています。その二つの御言葉は「わたしの軛を負いなさい」と「わたしから学びなさい」の2つです。そうすれば主イエスは重荷を負ったまま「休ませてあげよう」と言われているのです。「安らぎ」を与えられるのは、主イエスの軛を負って、主イエスに学ぶときであると、はっきりと言っておられるのです。主イエスは「その重荷を下しなさい」とか「わたしが重荷を下ろしてあげよう」と言われているのでは決してないのです。実に、この人生の重荷は下ろすことも、外すことも出来ないのです。言ってしまえば「重荷は死ななければ下ろせない」のです。この下ろせない重荷を軽く担えるようにして下さるのが、主イエスが言われた「わたしの軛」なのです。

現代社会、それも都会に生きる私達にとってまったく馴染みのない、「軛」とは何でしょうか。「軛」とは、通常2頭の牛などの家畜の首の間に渡され、運搬や農耕の作業時に家畜の力を使うために装着された道具です。2頭の家畜の間に渡して鋤を引かせて畑の畝起こしをしていたと言われれば想像することができるでしょう。日本の田畑は土が柔らかく通常1頭の家畜で鋤起こししていましたが、荒れ地で固い土が多かったパレスティナでは左右2頭の家畜に渡した「軛」が使われていたのです。この軛は、家畜を傷めないために1頭づつのオーダーメードで作られていました。この軛は家畜にかかる負担を下げて、皮膚が剥けたりしないよう上手く作られないといけませんが、公生涯前の若きイエス様はこの軛制作の匠でもありました。そのイエス様の経験が、「軛」という御言葉に現れているのです。また、そればかりではなく、当時のユダヤ人は、元来家畜が重荷を負う時に用いられた道具である「軛」という言葉を比喩的に『掟』を意味するものとして用いました。当時のユダヤ人の世界では、重荷を背負いながら、生きていく時の最も優れた生き方として、掟である律法、例えて「軛」によって生きることが求められていたのです。その「掟」である「軛」を主イエスは「軛なんかいらん」「軛は外してしまえ」と仰ったのではないのです。「わたしの軛を与えよう」すなわち「わたしの新しい掟を与える」と仰っているのです。この主イエスの新しい掟である「軛」は、明らかに主イエスによる、新しい教えであり、新しい律法であり、新しい約束なのです。主イエスの「新しい掟」とは、『山上の説教』に代表される福音です。主イエスの「新しい掟」である福音とは律法を廃止するためではなく、“律法を完成させるため”に主イエス様が与えられた「軛」なのであると、『山上の説教』で高らかに宣言されています。

私達は、この世に生きるとき、人生の重荷が、軽重の差は別としても、間違いなく厳然と存在するのです。

その人生の重荷のために、「安らぎ」を得られるのは、死ぬ時しかないとさえ考える人もいます。ここに自殺の誘惑が生じているとも言えましょう。もちろん、この「安らぎ」を自ら命を絶つこと、自殺することによって得られると考えることは、大変悲しいことです。そんな、不幸な現実から主イエスは私達を救い出して下さるのです。それは、私達の担いきれない重荷を主イエスが担って下さるから私達は生きることが出来るのです。自分に与えられた重い命、重い人生を軽々と担って生きられる、そんな生きる道があるのだと、主イエスは言われているのです。「わたしの軛を負いながら、生きなさい」と言われているのです。

それでは、「主イエスの軛」はなぜ軽いのでしょうか。それには2つの理由があります。その一つは、「軛」とは、2頭の家畜をつないで2頭の首に掛けられ重荷を引くものです。2頭の家畜が軛で一つとなって重荷を引くのです。その軛が軽くなるためには、あなたが自分の首に掛けた一方の軛、そのもう一方は主イエスご自身が担ってくださるのだ。だから主イエスの軛は軽いのだ。大変分かり易い話です。もう一つは、私達が生きる際の重荷をすべて主イエス様に委ねることが、この聖書箇所で許され約束されているから、重荷はすべて神様にお委ねする。私達の重荷を主イエス様が背負って下さるというのです。

昔は作者不詳と言われていましたが、現在は作者の分かった有名な詩があります。私の大好きな詩です。お読みします。

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主はささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
まして、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」

30節にある「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と約束されている理由は、まさに主イエスご自身が、私たちの苦しみや試みの時に、主イエスが私たちを背負って歩いて下さるからです。

あの『山上の説教』の中で主イエスが力強く言われておられる「思い悩むな」と約束は、私たちの生きるための労苦のすべてを、主イエスが共に担って下さり、背負って歩まれるからなのです。

また、「私に学びなさい」とは、父なる神様の御心をすべて従順に受け入れられたことを主イエスに学ぶということです。人生のすべてにおいて、神様に聞き従うすべを主イエスに倣って学ぶのです。それは、自分のすべてを神様に委ねてしまうことでもあります。そして、その結果、主イエスが、あなたに代わって人生の重荷を背負って下さるのです。従って、あなたは軽くなった人生の重荷を喜びをもって担うことが出来るのです。

今日の、この28節から30節のたった3節の間には、「わたしは」「わたしに」「わたしの」と、合計6回も主イエスの「わたし」が出て来ます。ここには、「わたしを通らなければ誰も・・・できない」を強調して、父なる神様へのとりなしをされる主イエスの重要な役割が述べられているのです。しかも、29節の「わたしは柔和で謙遜な者だから」とあるように、主イエスは神の柔和と謙遜そのものです。私達にとっては、倣うべき見本なのです。

主イエスは神と等しい者であることを好まず、ご自分を無にして、僕の身分になり、私達に仕える者となって下さり、2頭立ての軛の一方を、共に担って下さるだけでなく、時として疲れ切った私たちを背負って歩かれるのです。しかも、「疲れた者」である私達のふらつく歩みに合わせてゆっくりと、また背の高いイエス様は私達の背丈に合わせてかがむように軛の一方を担って下さるのです。

神様と等しい者でありながら、私達に仕える者となられた主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と、この苦しみ悲しむ私達を優しく招いておられるのです。

主イエスのご生涯は、ただ私達のために“安らぎ”を与えるためのものでした。そして、主イエスが私達の人生を、ただ重く、苦しく喘ぎながら生きるのではなく、軽やかに神の恵みの中に生きる人生に変えて下さったのです。私達もまた、主イエスに倣って、柔和と謙遜に生きることが出来るのです。主イエスの掟が軽いことを知っているからこそ、主イエスと共に「軛」を負いつつ柔和で、謙遜に生きることが出来るのです。主イエスから、人に仕えることの軽やかさを教えられるのです。

それでは、お祈りを致します。

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