本当に必要なもの

《賛美歌》

讃美歌11番讃美歌270番 讃美歌000番

《聖書箇所》

旧約聖書 詩篇 27篇4節 (旧約聖書857ページ)

27:4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り主を仰ぎ望んで喜びを得その宮で朝を迎えることを。

新約聖書 ルカによる福音書 10章38~42節 (新約聖書127ページ)

◆マルタとマリア
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

《説教原稿》

今日の聖書箇所は、教会での奉仕とは何かといった私たちの疑問に示唆を与えられる大切なお話しです。

マルタとマリアという姉妹は、ルカによる福音書においてはここにしか登場しないのですが、ヨハネによる福音書においては、11章と12章に出てくる、大変重要な登場人物です。ヨハネによる福音書の第11章というのは、有名な「ラザロの復活」の場面ですが、そこで主イエスによって死からよみがえされたラザロの姉妹たちとしてマルタとマリアが登場するのです。つまり、年齢の関係は分かりませんが、マルタとマリアとラザロは兄弟姉妹で、共に暮らしていました。ヨハネ福音書によれば、その場所はベタニアという所です。ベタニアはエルサレムの近くの村で、マルコ福音書によれば、エルサレムに来られた主イエスは、夜はベタニアに泊まっておられたとあります。おそらく主イエスが泊まっておられたのはこのマルタ、マリア、ラザロの家だったのだろうと想像されます。ヨハネやマルコ福音書からそのようなことが分かってくるのですが、今日のルカ福音書は、それらのことを一切語っていません。38節には「ある村」とだけあって、ベタニアという地名すら出て来ないのです。それには理由があります。つまり本日の話がベタニアでのことだとすると、主イエスはもうエルサレムのすぐ近くに来ておられることになります。ルカは9章51節で、それまでガリラヤ地方で活動しておられた主イエスがエルサレムへと向かう決意を固めて出発されたと語っているのです。ルカによれば、十字架の待つエルサレムへの旅は、主イエスと弟子たちにとっては、まだまだ長い道のりなのです。ルカ福音書では、主イエスがエルサレムに入られることは、ずっと後の19章以下から語られ、それまでは、エルサレムへの旅路としては語られていないのです。ルカにとっては、この段階でエルサレム直前のベタニアに来られたとなるともう旅が終わってしまい、全体構想が崩れてしまいます。それでルカはベタニアという地名を出さずに「ある村」とだけ言っていると思われます。では、何故ルカは、この話をこの時点で語ろうとしたのでしょうか。

ここで大事なことは、ルカがこの物語を、この位置で、つまり主イエスのエルサレムへの旅が始まった直後のところで語らなければならないと思ったということです。それはなぜなのか、ルカはどうしてこの話をここで語るのが相応しいと考えたのか、そのことを考えていくことが、本日の箇所を読んでいく上で大事な鍵となるのです。

ルカがこの話を、エルサレムへの旅路の中に置いたということは、38節の「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」というところから分かります。主イエスと弟子たちは、旅の途上である村に入ったのです。さて主イエスは旅立つに際して、弟子たちを先に使いの者として派遣なさいました。派遣された弟子たちは後から来られる主イエスのために準備をしたのです。それは単に寝泊まりする場所を準備したということではありません。10章の始めには、主イエスが七十二人の弟子たちを二人ずつ組にして、御自分が行くつもりの町や村に先にお遣わしになったことが語られていました。そこに「ほかに七十二人を」とあるように、先に使いの者として派遣された人々の他にこの人々が遣わされたのです。主イエスに派遣された弟子たちは主イエスと同じことを告げ、行なっていきました。神の国の福音を宣べ伝え、その印として病人を癒したのです。それこそが、後から来られる主イエスのための準備です。弟子たちのそういう準備によって、彼らが派遣された町や村において、神の国が近づいていることを信じ、主イエスと弟子たちを迎え入れる人が出て来ました。そのことが、この「ある村」においても起ったのです。「すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」とあります。8節以下には、先ほどの七十二人に対して、「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」とありました。主イエスの一行を迎え入れるとは、その人々をもてなし、生活の世話をし、そして自分の家を、神の国の福音がその町で宣べ伝えられるための拠点とする、ということなのです。そして10節以下には、「町に入っても、迎え入れられなければ」という場合のことが語られています。誰も彼らの一行を迎え入れようとしない、主イエスによる神の国の到来の福音を受け入れず、その福音が宣べ伝えられていくために奉仕しようとする者が一人もいない、ということもあり得るのです。そういう現実もある中で、この村においては、マルタという女が主イエスと弟子たちを自分の家に迎え入れたのです。おそらく彼女は、この村に先に遣わされて来た弟子たちの語ることを聞いて、主イエスを迎え入れようと思ったのでしょう。そこには既に、主イエスを信じ、仕えようという彼女の信仰の決意が見られます。ルカは、エルサレムへと向けて、旅路を歩んでおられる主イエスを自分の家に迎え入れ、もてなしをし、主イエスによる神の国の到来を告げる福音を自分も信じ、その福音の伝道のために奉仕する信仰者の姿を描いているのです。

ここにはマルタとマリアという姉妹が登場し、二人の姿が対照的に描かれていきます。そして、「マリアは良い方を選んだ」とあるように、マルタよりもマリアの方が良い、相応しいと主イエスによって褒められたという話に思えます。しかしそれは、マリアこそが信仰者でマルタは信仰者ではない、ということではありません。主イエスを家に迎え入れたのはマルタである、とはっきり書かれています。それは、マルタが主イエスに従い仕える信仰者となったということです。マルタは、主イエスと弟子たちの一行を自分の家に迎え入れるという大いなる信仰の決断をしたのです。その後、「彼女にはマリアという姉妹がいた」と、おそらく妹であるマリアが登場します。マリアも主イエスを信じる者となるわけですが、それは姉であるマルタの信仰の決断が先にあったからだとも言えるでしょう。つまりマリアはマルタによって導かれて信仰者となった、と考えるべきではないでしょうか。

このように同じ信仰者となったマルタとマリアの間に、ある違いが生じました。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていたのです。主イエスの足もとに座って話を聞くとは、この時代のユダヤでは男の弟子にのみ許される行為でした。マリアは、そんな大胆な行動をしたと言えますし、また、主イエスの一行が女性差別をしなかった特筆すべき行いを記しているとも言えるでしょう。そのマリアに対してマルタは先程触れたように、大人数の一行のため「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(40)のです。マルタとマリアの話のポイントは、この対照的な姿にあります。そして私たちはそこから、いろいろなことを読み取ろうとします。と言うよりも、自分たちが感じていることをこの話に読み込もうとします。教会の中で、特にご婦人方の間でよく語られるのは、「私はマリア型」とか「私はマルタ型」というような会話です。その場合の「マリア型」というのは、静かに礼拝を守り、み言葉を聞き、祈るといった信仰生活が自分には合っているし、その方が好ましいと感じているという人です。他方「マルタ型」というのは、それよりもむしろ活発に体を動かしていろいろな奉仕をする、例えば昼食作りとか、男性で言えば会堂の掃除や植木の手入れや力仕事など、また一教会に拘らない多くの教会を跨いだ社会奉仕活動に加わるとか、そういうことに喜びを感じ、充実を覚える、静かに説教を聞いているのはちょっと苦手、みたいなタイプであると言えるでしょう。それは女性だけの話ではなくて、男性も含めて、マルタとマリアのどちらに親近感を覚え、自分に近いものを感じるか、ということを私たちはここからよく考えるのではないでしょうか。そして自分がどちらのタイプかというだけではなく、礼拝中はマリアに徹し、終わったとたんにマルタに変身するのだ、という思いを持っている人もいるでしょう。つまり時と場合によってマルタとマリアを使い分けながら信仰生活を送っている、という思いを持っている人も多いのではないでしょうか。これらのことは、私たちが自分の体験や感覚をこの話に読み込んでいるということです。しかし私たちがしなければならないのは、自分の感覚を聖書に読み込むのではなくて、聖書が語っていることを読み取ることです。マルタとマリアの対照的な姿から私たちは何を読み取ることができるのでしょうか。

マルタが主イエスと弟子たちを家に迎え入れたとは、食事を出すことをはじめいろいろなもてなしをするためです。そういう意味でマルタがしていることは、神の国の福音を宣べ伝えている主イエスと弟子たちに仕え、その歩みを支えるという信仰の行為です。マルタは決して、自分の料理の腕前を披露しようとしているわけではありません。ちゃんともてなさないと恥をかくと思っているのでもありません。彼女がせわしく立ち働いているのは信仰によってです。マルタの姿は、信仰者が主イエスに仕えている姿そのものなのです。そこには、「もてなし」という言葉が使われていますが、この言葉は原文では「diakoni,a:ディアコニア」という言葉です。「奉仕」という意味です。マルタがしているのはこのディアコニア、つまり主イエスに従う信仰者にとって大切な信仰の業としての「奉仕」なのです。ですから、このマルタとマリアの姿は、自分はどちらのタイプだとか、どちらの方が自分の好みに合うなどというように読むべきものではありません。これはどちらも、主イエスに従い仕えていく信仰者が大切にすべきあり方なのです。

しかし、このどちらも大切な信仰のあり方の間で問題が生じました。マルタがマリアのことで主イエスに文句を言ったからです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。マルタは、主イエスの足もとに座ってその話に聞き入っているマリアに対して、「何も手伝わず、私だけにもてなしを、つまりディアコニアを押し付けている」という不満を抱いたのです。このマルタに対して主イエスはお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。主イエスはこのお言葉によってマルタに何を語ろうとしておられるのでしょうか。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。主イエスはマルタが思いわずらいに陥り、心を乱していると言っておられるのです。もてなし、接待、ディアコニアの業の中で、マルタの心は乱れ、とりみだしてしまっているのです。心が乱れるとどうなるか、自分のしている働き、奉仕を喜んでできなくなるのです。そして、人のことを非難するようになるのです。「自分はこんなにしているのに、あの人は何もしない。手伝おうとしない。そんなことでいいのか」という思いに支配されていくのです。自分のしている奉仕を喜べないことと、人を非難することは表裏一体の関係です。自分に与えられた奉仕を喜んでしている人は、人のことを非難することはありません。人への批判や攻撃は、自分自身が喜んでいないから生じるのです。マルタはそのような思いわずらい、心の乱れに陥ったのです。そのように心が乱れてしまうと、彼女がせっかく主イエスと弟子たちを家に迎え入れるという信仰の決断をし、奉仕している信仰の業が歪んだものになってしまいます。マルタはこの奉仕を、誰かから強制されたのではありません。自分の意志でそれを引き受け、喜びをもってそれを担ったのです。信仰における奉仕、ディアコニアとはそのように、喜んで、自発的に行なうものです。ところが私たちは時として心を乱し、その喜びを見失って、自分だけが何か重荷を背負わされているように感じてしまうことがあります。心を乱しているマルタの姿は、私たちの信仰生活の中でも時として起るそのような事態を表しているのです。

このように心を乱してしまっているマルタに主イエスがお語りになった言葉が42節です。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。私たちはこの主イエスの言葉を聞く時、これはマルタには気の毒な、酷な言葉ではないか、と思うのではないでしょうか。マルタは今見てきたように、大人数の主イエスの一行を迎え入れ一生懸命奉仕しているのです。信仰の業、ディアコニア:diakoni,aを頑張ってしているのです。しかし同じ主イエスを信じ従っている筈の妹が手伝ってくれない、自分だけが忙しく立ち働いている、という現実の中で心を乱しているのです。そのマルタに対して、これでは「あなたのしている奉仕は本当に必要なことではない。しなくてもいいことだ。マリアのように私の足もとに座って話に聞き入ることの方が大事だ」と言っていることになる。これでは身も蓋もないではないか、と感じるのです。

しかし、主イエスのこのお言葉はそのように冷たい薄情な言葉ではありません。主イエスはここでマルタに、「あなたのしていることは意味がない」などと言っているのではないのです。マルタは主イエスを迎え入れ、奉仕するという信仰に生きている人です。彼女の奉仕ディアコニアは主イエスに従う者たちにとってとても大事なことなのです。意味がないとか必要ないなどということは絶対にないのです。主イエスがマルタに望んでおられるのは、彼女がそのディアコニアを、心乱れ、喜びを失った中で、人を非難するような思いを抱きながらするのではなくて、本当に喜んで、自発的にしていって欲しい、ということです。そして、そうなるために必要なただ一つのことを主イエスは教えて下さっているのです。それが、マリアのように、主イエスの足もとに座って、そのみ言葉に聞き入ることです。主イエスはどのようなみ言葉を語っておられるのでしょうか。それは、主イエスご自身において、神の国が実現しようとしているということです。神様が、その独り子をこの世に遣わし、その御子イエスによって神の国を実現し、そこに私たちを招いて下さるのです。その神の国の実現のために、主イエスは今エルサレムへと、十字架の苦しみと死へと、そして復活と昇天へと、歩んでおられるのです。神様の独り子である主イエスが、私たちと同じようにこの世を歩み、そして私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、それによって、神の国、神様の恵みのご支配は実現するのです。主イエスを信じ、従っていくとは、この主イエスのもとに集い、その足もとに座って主イエスの語られるみ言葉に、神様の恵みのご支配の到来を告げる福音に聞き入ることです。そしてそのみ言葉を本当に聞いた者は、この直前の10章25節からの「善いサマリア人」の物語で強盗にあった旅人を助けるサマリア人に見倣って、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの励まし、勧めを受けるのです。主イエスの愛の業に倣う奉仕、ディアコニアは、この主イエスの励ましの中でこそなされていきます。主イエスによって実現する神の国を告げるみ言葉に聞き入り、それを本当に受け止めることによってこそ、私たちは本当に喜んで、自発的に、奉仕に生きることができるのです。

この「主イエスのみ言葉に聞き入る」ことを失ってしまうと、私たちの奉仕は自己実現や自己主張のための業になります。教会が奉仕を競い合う人々の集まりと化してしまいます。そこには、自分の奉仕への評価や見返りを求める思いが生じます。そうなったらもはや本当に喜んで奉仕しているとは言えません。そして自分の奉仕を本当に喜んでいないところには、自分はこれだけしているのにあの人はなんだ、と人を非難し審く思いが生じるのです。すべきことは、主イエスの足もとに座ってその恵みのみ言葉に聞き入ることなのです。「必要なことはただ一つだけである」という主イエスのお言葉は、そのことをマルタに、そして私たちに教えています。つまりマルタとマリアのこの姿は、先ほど申しましたように、信仰者のタイプの違いではないし、ある時はマリアに、ある時はマルタに徹する、などというものでもないのです。むしろ、マルタのしている奉仕、ディアコニアが本当に生かされ、喜びをもって自発的になされていくためには、マリアのあり方が必要なのです。主イエスはマルタも愛しておられるのです。それゆえに、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とおっしゃったのです。それはマリアを褒めるための言葉ではなくて、マルタが喜んで奉仕に生きるために本当に必要なことを教えようとされたみ言葉なのです。そして、主イエスの足もとに座ってみ言葉に聞き入っているマリアには、「行って、あなたも同じようにしなさい」という励ましが与えられました。そのようにしてマルタもマリアも共に、主イエスのみ言葉によって養われつつ、自分に与えられている賜物を喜んで自ら献げ、生活の中で具体的に主イエスに仕える者となっていったのです。

お祈りを致します。

<<<祈祷>>>

私について来なさい

賛美歌

讃美歌7番

讃美歌238番

讃美歌502番

聖書箇所

旧約聖書 エレミア書 16章16節

16:16 見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多く の狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。

新約聖書 マルコによる福音書 1章16~20節

◆四人の漁師を弟子にする

1:16  イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っ ているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17  イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18  二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19  また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20  すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

説教原稿

私たちは時の流れの中で生きています。昨日から今日へ、今日から明日へと向う時の流れの中です。そし て今日を生きるということによって、常に新しい時に出会っていると言えるでしょう。現在とは、未来という時を 過去に変えるものであり、毎日一つずつ卵を産む鶏のように、私たちは毎日過去を生み出しているのです。

過去とは古い時であり、既に背後に追いやられた時です。一方、未来とは「新しい時」であり、未だ誰も知らな いことが起こる時です。その「新しい時」を如何に生きるか。それが私たちの課題と言わなければなりません。

もちろん、この「新しい時」とは無自覚に迎える自然の時の流れではありません。自然のサイクルから言え ば、朝、眼が覚めた時、「新しい一日が始まった」ということです。しかし、自分の生きざまを深く省みて問うな らば、朝の目覚めにおいて出会う一日が、果たして「新しい一日」「新しい時」と無条件に言い得るでしょうか。

確かに、そこには未だ出会っていない未経験なものがあるでしょう。しかし「新しさ」とはいったい何でしょう か。もしその一日が古い一日の焼き直しに過ぎないとするならば、「新しい一日を生きた」とは言えないのかも 知れません。判で押したような日常生活の中で、何を「新しい時」と言うのでしょう。ガリラヤの湖畔で起こった 出来事は、その「新しい時」への招待でした。

16節に「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打 っているのを御覧になった。」とあります。そして19節には「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟 ヨハネが、舟の中で網の手入れしているのを御覧になった。」とあります。

ここは、ルカ福音書によれば、時は朝でした。つまり、シモンとアンデレは未だ朝の漁をしており、ヤコブとヨ ハネは一晩の漁で痛んだ網を繕っている、ガリラヤの漁師たちにとって昨日と変わらない朝でした。早朝まで 魚をとり、陽が昇ったら漁を終え、岸に上がって明日のために網を繕う。そして昼間は休み、また日暮れと共 に湖へ出て行く。これまで何年もの間続けて来たのです。昨日と少しも変わらない同じような朝であり、一日 の始まりでした。ガリラヤ湖の漁師として、父親もそのまた父親も、同じようにして過ごしたであろう生活がここ に繰り返されているのです。シモンにもアンデレにも、ヤコブにもヨハネにも、それぞれ夢や希望があったこと でしょう。しかし、生活のためには大きな冒険は諦めざるを得ず、昨日と同じような今日を過ごし、明日もまた 同じ仕事を続けて行かなければなりませんでした。そしてその日常生活の中で、ささやかな夢や希望をそれ なりに実現して行く。これは誰もが過ごしている人生です。

私は何時までこの仕事をしなければならないのか。何故、この仕事をしなければならないのか。私たちは、 よくこのようなことを考えるのではないでしょうか。そして、もしかすると、ほかにもっと生き甲斐のある良い仕 事があるのではないか、とも思います。しかしながら、そう思いながらも、やはり、昨日と同じように、同じことを 繰り返している自分を見出さざるを得ません。

朝、仕事に出かける時に、あるいは夫を送り出した後、洗濯掃除に追われる時に、このような自分の姿を見 出すことはないでしょうか。そこには「新しい朝」を迎える新しい気持ちは感じられません。

シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、そのような朝を迎えました。誰もが迎える「昨日と同じ朝」それがこの場 面です。ところが、その「少しも変わることのない昨日と同じであった筈の朝」が、突然、「全く新しい朝」になった のです。そしてこの出来事において、「新しい時」というものが自分の思いの外にあることを教えられるのです。

四人にとって、主イエスとの出会い、それが「古い生活」から「新しい生活」への転換を引き起こしました。16節 にも19節にも「イエスが御覧になった」と記されています。「御覧になった」とはどういうことでしょう。主イエスが 漁師の仕事を珍しくてつくづくご覧になったということなのでしょうか。

 

主イエスの眼差しは、彼らの仕事へではなく、その仕事をしている人間そのものに向けられているのです。 「その人が何をしているか」ではなく、「その人がどのように生きているか」ということに向けられているのです。 私たちが今、何をしているのか、何をしようとしているのかということに関りなく、常に、主イエスの眼差しは

私たちの心に向けて注がれているのです。そして、そのキリストの眼差しが自分に向けられていることを意識 した時、「新しい朝」が訪れるのです。

シモンたちは誰一人として、その日、自分の生活を変えようとは思っていませんでした。与えられた環境の 中で、ただひたすらに生きて行くことだけを考えていました。しかし今や、彼ら自身、全く考えていなかったこと が始まろうとしているのです。

17節に「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう』と言われた。」とあります。

「私について来なさい」。主イエスが新しい朝に語りかけるのは、この言葉です。「ついて行く」とは、ただわけ も分からず「後ろからついて行く」ということではありません。

ここで主イエスがお語りになった「わたしについて来なさい」は、「わたしに」と「ついて来なさい」の組み合わ せではありません。原文の構造に従って訳すならば、「来なさい(あるいは「おいで」)、わたしの後ろに(あるい は「あとに」)」となります。主イエスはここで、「来なさい」「おいで」と招いておられるのです。あのマタイ福音書 11章28節の主イエスのお言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあ げよう」と同じ言葉なのです。「わたしのところに来なさい」と主イエスは招いておられるのです。その招きに応 えて主イエスのところに行った者は、主イエスの後ろを、その後(あと)について歩んでいくのです。

よく「あの人の生き方にはついていけない」とか「あの人の考え方にはついていけない」という表現がなされま す。また以前は、結婚のときなど「夫を信じて何処までもついて行きます」などという覚悟が語られたものでした。

このような表現は、ただ単に、表面的に追従することではなく、生きる営みを共にするということであることは 言うまでもありません。「私について来なさい」と主イエスが言われる時、それは主イエスと共に生きる生涯へ の招きであり、キリストと共に人生の営みを全うすることへの呼びかけなのです。

主イエスは彼らに、「人間をとる漁師にしよう」と言われました。この言葉は誤解されやすい面があります。 「あなたがたは今、魚をとる漁師をしているが、魚よりも人間をとる方が尊い仕事だから、あなたがたを今より もっと大事な働きをする人へと格上げしてあげる」という意味に理解してしまったら全くの間違いです。人間を とる漁師にするということによって語られているのは、主イエスの後について行く者となることによって与えら れる新しい歩み、それまでとは違う新しい人生が与えられるということです。人間をとるとは、主イエスが神様 の独り子、救い主としてこれから成し遂げようとしている救いのみ業、それによって実現する神の国に人々を 招き、人々が主イエスの救いにあずかって新しく生きることができるように導くこと、伝道の働きを担う者となる ということです。

18節に「二人はすぐに網を捨てて従った。」、そして20節には「この二人は父ゼベダイを雇い人たちと一緒に 舟に残して、イエスの後について行った。」と驚くべきことが起こりました。仕事を捨て家を捨てた人間がここに 描かれているのです。

この物語を読む時、「いったい誰がこのようなことを行えるのか」と思わずにはいられないでしょう。しかも聖 書によれば、「すぐに従った」と記されています。「すぐに」という言葉を、時間的速さだけで理解するのは間違 いです。もちろん、主の呼びかけに対して応答を先に延ばす決断の弱さは責められなければなりません。

ここまで、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主イエスの言葉の意味を見てきました。 主イエスは四人の人々をじっと見つめ、このように語りかけて彼らをお招きになったのです。シモンとアンデレ は「すぐに網を捨てて従った」とあります。またヤコブとヨハネは「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に 舟に残して、イエスの後について行った」とあります。ここには二つのポイントがあります。一つは、彼ら四人 が皆、主イエスの招きを受けてすぐに従って行ったことです。もう一つは、「網を捨て、父と雇い人を舟に残し て」とあるように、自分の大事なものを捨てて、また家族から離れて従ったということです。

私たちはこれを読むと不思議に思うんではないでしょうか。どうしてそんなにすぐに従って行くことができたの だろうか、何故大事なものを捨てたり家族と別れたりできたのだろうか、と思うのです。

「すぐに」ということは、あれこれ条件を確認したりせずに、ということです。主イエスについて行くとどうなる のか、こんな場合にはどうか、あんな時にはどうすればよいのか、などと一切質問をしていないのです。また、 ついて行くことによってどういう酬いがあるのか、主イエスは自分に何を約束してくれるのか、という確認もして いません。また、ついて行くことができるように自分の側の状況を整えたいのでそれまでもう少し待って、とい うことも言っていません。それらの条件を一切顧みることなく、つまりそれらのことを全て捨てて従ったのです。 「網を捨て、父と雇い人を舟に残して」という言葉がそれを現しています。ですから先程二つのポイントと言い ましたが実は一つと言えます。それは「献身」という一言で言い表すことができます。主イエスの弟子となると は、主イエスに、そして神様に自分自身をお献げし、委ねることなのです。彼ら四人は献身したのです。そこ に、彼らの人生の転換、それまでとは全く違う新しい歩みが始まったのです。

この主イエスの呼びかけは、私たち、一人ひとりの個人に対する神の個別の御業なのです。この主イエスの 呼びかけは、「そこにいる皆」とか「あなたがたの誰でも」というようなものではありません。はっきりと一人ひと りの個人を名指しされた個別の呼びかけなのです。

20節で「彼らをお呼びになった」とは「名を呼ぶ」ということです。大勢の人々に向って語られた言葉に感動し て「その中から誰かが従った」ということではなく、大勢の人々の中にいた「この私に向けて呼びかけられた」 ので、キリストの招きに従ったのです。主イエスは私たちを、常に、一人の人格として扱って下さるのです。決 して十羽ひとからげに扱うようなことはなさいません。

シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの決断を見ると共に、名指しで召されるイエスの御心と私たち自身の決断 を、各自の個別の問題として考えることが大切です。ですから「よくも仕事を捨てられたものだ」「親を捨てるこ となど誰が出来るか」などと考える人たちは、既に聖書を読み違えていると言わなければなりません。仕事を 捨て親を捨てたというのは、伝道者として召されたシモンたちの「この時」の応答の仕方なのです。

彼らは彼ら自身の召しにそのように応えたのですが、私たちの召しはシモンたちとは違う筈です。私たちに はそれぞれ違う召しがあり、それぞれ独自な応答がなされなければなりません。それが個別性というもので す。「仕事を捨て、親を捨てた」という外面的なことに拘るのではなく、そのようなシモンたちの個別の問題の 底に流れる普遍的なもの、私たちとの共通な特徴に眼を向けることが大切です。

それを一言で言えば、「日常の断ち切り」とか「惰性を絶つこと」と表現出来るでしょう。昨日行ったことを今日 もまた同じように繰り返して行なうことを断ち切ることです。仕事を辞めたり、肉親の絆を切ることが必要なの ではなく、それらの生活を続ける中で、無自覚的・惰性的に生きることを止め、主の呼びかけに応え、キリスト と共に生きる生活の中に飛び込んで行くことが「惰性の断ち切り」「切り換え」です。新しい生活への切り換え が大切なのです。

自分の喜びのため、自分の欲望のために生きることから、神の喜びのために生きる人間へとなるのです。 キリストに仕える人間に変わり、神の喜びが私のどのような生き方の中に求められているかを正しく聞き取る のです。

キリストの招きを聞き取り、受け入れなければ、決して「新しい一日」に踏み出せないことを知るべきなのです。

主イエスはガリラヤの漁師を使徒としてお立てになりました。そして彼らは、主イエスの御言葉の前に服従し たのです。その直前まで予想もしなかったこと、考えることさえなかった新しい生き方の中に飛び込んで行き ました。

ここに神の召しの特徴があると言えるでしょう。自分の能力、資格、性格、興味など、自分自身に対する人 間的価値や判断はそこでは一切意味を持ちません。「召しへの相応しさ」とは、自分自身の姿を省みて自分 が信仰者に相応しいのだとして信仰に入るのではなく、キリストへの信頼によって、自分自身の人間的価値を 捨て去ることなのです。シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、各自の個性の数々の欠点にも拘らず、使徒と しての名を聖書に残しました。

召された者は、その召しに応える生涯をもって、神の選びの正しさを証すると言えるでしょう。私たちにとって の「新しい一日」とは、その神の御業の証人としての目覚めでなければならないのです。

私たちはどうしても、いろいろな人間的条件を考えようとします。条件が整っているかどうかを見極めたいと 思います。そういうことによって、先の見通しをはっきりさせた上で進みたいと思います。それはそれで大事な ことでしょう。けれども、人生において、私たちの側で整えることのできる条件というのは、実はそんなに多くは ありません。

明日何が起るか、私たちは知ることができません。今日どんなに条件を整えても、それによって明日の歩み が保証されることはないのです。本当に確かな歩みは、私たちが条件を整えたり確認することによってではな くて、この世界を造り、私たちに命を与え、全てを導いておられる主なる神様のご支配を信じて、自分の身を 献げることによってこそ与えられます。神様はご支配される神の国を、独り子主イエス・キリストによって、その 十字架の死と復活によって実現して下さり、その裁きと救いとを私たちに告げ知らせて下さいます。悔い改め て神様の方に向き直ることによってこそ与えられる救いへと私たちを招いて下さり、その救いのみ業の前進の ために私たちを用いようとしておられるのです。そのみ業の前進のために必要な全ての条件は、神様ご自身 が整え、与えて下さるのです。ですから、今私たち一人一人をこの礼拝へと招き、私たちのことをしっかり見つ めつつ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りかけて下さっている主イエスに自分の身 を、人生を、委ね、お献げしましょう。それによって私たちも、大きな転換を与えられ、それまでとは全く違う新 しい、神様の恵みのみ手の中で生きる人生を歩み出すことができるのです。

お祈りを致します。 <<<祈 祷>>>

キリストの復活

【聖書箇所】

詩篇 30篇2~13節 (旧約聖書860ページ)

30:2 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました。
30:3 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。
30:4 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。
30:5 主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
30:6 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
30:7 平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。
30:8 主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。
30:9 主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。
30:10 わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
30:11 主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。
30:12 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
30:13 わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。

ヨハネによる福音書 20章1~18節 (新約聖書209ページ)

◆復活する
20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。

◆イエス、マグダラのマリアに現れる
20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

《説 教》

今日はイースターです。主イエスが私たちの罪のために十字架に架かって死なれて3日目によみがえった、復活されたことをお祝いする『復活祭』です。それを英語でイースターと言います。

イースター(復活祭)は、キリスト教の三大祭りのイースター(復活祭)、ペンテコステ(聖霊降臨祭)、そしてクリスマス(降誕祭)の中でも最も大切なお祭りです。一番大切なイースターお祝いの日が、新型コロナウィルス感染症の世界的流行から、このように人が集まってはいけない状態で礼拝をお捧げすることとなったのは、ここに人間の思いを越える神の御意志を思わざるをえません。皆様と共におめでとうとお祝いの言葉を交わせないのは残念ですが、共に感謝と願いの祈りを致しましょう。

さて、今日は先ほどお読みした少々長い聖書箇所から主イエスの「復活」について考えてみたいと思います。

 

そのためにヨハネ福音書を少し前まで遡って、主イエスのご受難、十字架の経過を少し振り返って見たいと思います。

ヨハネ福音書17章で主イエスが弟子たちを連れられてゲッセマネで父なる神様に血の滲む祈りを捧げられました。すると、ユダに先導されたユダヤ教の宗教指導者の差し向けた兵士たちや大勢の群衆に主イエスは捕まえられました。そして、ユダヤ教の大祭司カイアファのもとで尋問を受け、続いて、ローマ帝国の総督ピラトから裁判を受けられたことが書かれています。そして、総督ピラトによる裁判によって、主イエスに何の罪をも見いだせなかったものの、ユダヤ群衆から異常な圧力を受けた総督ピラトは自分の意志に反して、主イエスに死刑の判決を下します。

そして主イエスは十字架につけられ、直前の鞭打ちの苦しみや痛みも相まって6時間ほどの短い時間で息を引き取られました。その主イエスの亡骸をアリマタヤのヨセフが引き取り、自分のために準備した新しい墓に主イエスのご遺体を葬り大きな石で墓の入口を塞ぎました。そして、過越祭の終わった三日目の朝に、マグダラのマリアが、その主イエスの墓に行ったところからが、本日の主イエスの復活の聖書箇所です。

 

因みに、新約聖書の中には主イエスが様々な奇蹟を行われる記事があります。中でも主イエスが死んだ人を生き返らせる奇蹟物語は有名で、皆さんもよくご存知ではないでしょうか。なかでも、ルカ福音書7章の「ナインのやもめの息子のよみがえり」、マルコ福音書5章の「会堂長ヤイロの娘のよみがえり」、そして、このヨハネ福音書11章の「ラザロのよみがえり」の3つの死からのよみがえり、奇蹟物語がよく知られています。これらは、主イエスが死人を生き返らせた奇蹟物語ですが、これらは今日の主イエスご自身の「復活」とは、まったく違うのです。

 

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書には、それぞれ特徴があります。

例えば、マルコ福音書では、主イエスがお生まれになった降誕物語、クリスマスの記事を省略しています。ヨハネ福音書では、その主イエスのご降誕を抽象的な表し方をしています。しかし、この主イエスの「復活物語」を省略する福音書はありません。四福音書すべてが必ず主イエスの復活記事を書いていることからも、聖書にとって主イエスの「復活」が極めて重要な物語であると理解できます。主イエスの復活こそが、キリスト教の中心テーマであり、最も大切な主イエスによる救いへと繋がっているのです。

四福音書すべてに記されている主イエスの復活物語ですが、それらの記事は通常二つの形に分けられます。一つ目は、主イエスのご遺体が墓の中にはないことを記し、間接的に主イエスの復活を物語る「空の墓物語」です。そして、二つ目は、復活の主イエスが弟子たちに御姿を現されたことを記す「顕現物語」です。

今日のヨハネ福音書は、「空の墓物語」の延長線上にマグダラのマリアへの復活の主イエスの「顕現物語」を加えた丁寧で詳細なものとなっています。

 

本日のヨハネ福音書20章をご覧になると、1節に「週の初めの日」とあります。これは、金曜日に十字架に死なれ、葬られた主イエスの復活の日の朝のことで、日曜日です。この日曜日の朝に主イエスの墓を訪れた者として、マタイ・マルコ・ルカ3つの共観福音書が複数の女性たちの名前を挙げているのに対し、このヨハネ福音書はただひとりマグダラのマリアにだけ焦点を当てています。ただ、2節のマリアの言葉が「わたしたち」と複数形となっていることを文字通りに受け取れば、墓を訪れたのは複数の者たちであったと暗示されているとも思われます。

このヨハネ福音書ではマリアが墓へ行った理由は記されていませんが、共観福音書によると、それは過越祭の前の十字架刑のために急いで葬られた主イエスの未完成に終った葬りを完成させるためであったと思われます(マコ16:1)。空の墓を発見したマリアは、2節にあるように、ペトロと主イエスが愛されたもう一人の弟子のところへ、急いで墓が空であることを告げ知らせに行きました。

まだこの段階ではマリアの中で空の墓の事実と復活信仰とは結び付いていないことが文面から分かります。マリアは主イエスが復活されたとはまったく考えてもいませんでした。3節以下に続くペトロともう一人の弟子に関する記事では、主イエスの愛しておられた弟子が大変目立ちます。墓へ先に着いたのもこの主イエスが愛しておられたもう一人の弟子であり、「見て、信じた」と明言されているのも、この主イエスの愛された弟子でした。

7節の「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」と書かれている部分は大変分かり難いと言えましょう。他の聖書箇所にも出て来ますが、復活の栄光の主イエスの体が壁や扉をすり抜けられたりしていることから、復活の主イエスの体は人間としての姿とは大きく異なることが分かります。また、誰かが遺体を包んだ布をわざわざはがして遺体を持ち去ると言うには大変不自然な状況と思われます。先程も触れましたが、8節の「見て、信じた」とは、不思議なことに何を信じたのかよく分かりません。次の9節の「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」という文脈から読み取ると、主イエスの復活を信じたのではなく、マリアの言ったこと、墓が空であることを信じたということになってしまいます。

しかしヨハネ福音書では、この「見て、信じる」という言葉を繰り返し信仰的に使っています(2:23、4:48、6:30、36、40、20:8、25、27、29)。そのことから、その主イエスの愛された弟子をペトロや他の者たちよりも先駆的な者とし、空虚な墓を見るや否や恐らく復活の主イエスを信じたと解釈する方が自然と思われます。この「見て、信じた」とは、主イエスの復活を信じる信仰告白を意味していると思われます。

このように主イエスの復活の様子は、四福音書それぞれの記事によれば、先ず空の墓が発見され、主イエスの亡骸がなくなっていたこと、その次には天使による御告げがあります。これは主イエスの復活は天の上から行われたことを意味します。そして、最後に復活の主イエスの顕現、人々の目に見えるお姿でマグダラのマリアだけでなく弟子たちを始め多くの人々に姿を現されたということが記されています。

マグダラのマリアが再び墓に来て見たものは、「二人の天使」でした。このヨハネ福音書の天使は、マリアに対して主イエスが復活されたとの事実を話してはいません。そして、マリアはこの時点では主イエスの復活を信じられず、誰かが主イエスのご遺体を持ち去ったと考えていました。11節にあるようにマリアは墓の中に主イエスが未だおられるのではないかとのぞき込みました。その時復活の主イエスはマリアの後ろに立っておられました。何と驚いたことにマリアはそのお姿を見たけれど、それが主イエスであるとは気付かなかったとあります。

この不思議な話はルカ福音書24章のエマオ途上の二人の弟子にも起きたと記されています(参照ルカ24:16、31)。マリアが主イエスに気付かなかった理由は記されていません。泣いていたので涙に曇ってよく見えなかったのかもしれません。あるいはまた主イエスが死なれたという事実が余りにも強烈で、主イエスがよみがえって自分の前に姿を現すなどとはまったく思いが及ばなかったのかもしれません。あるいは復活の主イエスの体は栄光の体だったので、まったく別人と思い認識することが出来なかったのかもしれませんが、それにしては園丁だと思ったとあるので、光り輝く栄光の体とも思えません。いずれにせよ、羊がまことの羊飼いの声を知っているように(ヨハ10:3‐4)、主イエスの「マリア」と言われたの呼び掛けにマリアは目を開かれます。これは、主イエスの呼び掛けによって、ただそこに誰か人がいるという認識から、復活の主を信じる信仰へと目覚めていったことを表しています。

マリアは主イエスを見ていたのですが、主イエスがご自身がマリアに呼び掛けられるまでは主イエスを「見て信じて」いなかったのです。信仰の眼をもって主イエスを見てはいなかったのです。

17節に「わたしにすがりつくのはよしなさい」との不思議な言葉があります。なぜ、マリアは主イエスにすがりついてはいけないのでしょうか。

ルカ福音書には、「マグダラのマリア」はよく登場します。7章では主イエスに高価な香油を注いでその御足を涙をもって髪の毛で拭った「罪深い女」として、また8章では、主イエスによって7つの悪霊を追い出していただいた女性だと記されています。多くの苦しみや悩み悲しみ、病を、主イエスによって慰められ、解決され、癒されたのでした。

それ以来、マリアは、主イエスに付き従って旅をするようになりました。主イエスのことを最も慕う女性の一人でした。主イエスが十字架で処刑され、弟子たちも逃げ去っていった中で、主イエスが息を引き取られる最後まで見届けました。そして、日曜日の朝早く、押え切れない気持で、墓へ行ったのです。ペトロともう一人の弟子が、空っぽの墓を見届けて、帰って行った後も、マリアは、その場に留まっていたのです。泣きながら主イエスを探し回ったのです。そして、ついに、自分の後ろに立っておられる主イエスに気づいたのです。マリアが主イエスにすがりつくのは無理もないでしょう。そのマリアに、復活した主イエスは、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われるのです。どうしてでしょうか。もちろん、主イエスが意地悪を言われる訳ではありません。何か訳がある筈です。

それは、すがりつくほどの思いは分かる。けれども、そのすがりつくような信仰から離れなさいといった主イエスの親心ではないでしょうか。2年前まで学んでいた東京神学大学の講義でも聞いたことがありましたが、神様を信じる信仰には、“サル型”と“ネコ型”があると言われています。サルは自分の子供を運ぶ時、子ザルを母ザルのお腹にしっかりとしがみつかせます。母ザルが自分の手で子ザルを抱えることはありません。子ザルは掴んでいる手を離したら終わりです。従って、サルの子供は必死で母ザルにすがりつくことになります。

一方、ネコの子供は移動する時、母ネコが子ネコをくわえて運びます。子ネコはすがりつこうにも四本足共にブランブランです。力を抜いて、お母さんにお任せなのです。神様を信じる信仰も、サルの子のように自分の力でしがみつく信仰と、ネコの子のように神様にお任せしてしまうお委(ゆだ)ねする信仰とがあると言えます。私たちの信仰は、自分の力で必死にすがりつくような信仰ではなく、神様を信頼し切って、安心して自分のすべてを神様にお委(ゆだ)ねできるような信仰へ変えられなければならないのです。

自分からすがりつく信仰は頑張らなければならない信仰です。一生懸命努力しなければならない信仰です。それでは、疲れます。いつも自分の方からすがりついていなければならない。自分が手を離したら終わりです。信仰のために自分が、頑張らなければならない。善い行いや努力をしていないと、神様に愛してもらえない、見捨てられてしまうのではないだろうか。そんな不安が心の中に大きな場所を占めます。その結果、自分は神様に愛されていないのではないだろうか、見捨てられてしまうのではないだろうか、と不安になっていないでしょうか。教会での奉仕や良い行いが充分にできれば安心できます。しかし、教会での奉仕や自助努力が足りないと思うと落ち込んだり、不安になってしまうのではないでしょうか。頑張らないと神様に愛されないと思う人生になっていないでしょうか。もちろん、何事に対しても努力するのは極めて大切です。しかし、努力の結果で、神様が私たちを愛されるのか、愛されないのかが決まるのではありません。神様の愛とは、そんなものではないのです。

あなたは愛されている存在だ。聖書は、私たちに、そのように語りかけます。たとえ善い行いができなくても、何もできなくても、結果が出せなくても、神様はあなたを一方的に愛してくださっている。その手で、しっかりと掴んでいてくださる。だから、私たちは、“良い子でいなければ”と、りきむ力を抜いて、“神様、感謝します。こんな私ですが、よろしくお願いします。”と、神様を信頼し、お任せする。お委ねする。そこに安心が生まれます。喜びが生まれます。

そんな人生の安心と喜びに気づかせるために、復活した主イエスは、マリアの背後から声をかけられたに違いありません。「イエス様はどこ?」「幸せはどこ?」「救いはどこ?」と、必死に追い求めているマリアに、見えない後ろから声をかけられました。私たちの人生には、見えるところだけでなく、見えないところも大切であることを主イエスは語りかけているのです。

ヨハネ福音書での主イエスの本当の栄光とは十字架で私たちの罪のために死なれたことだけではなく、十字架で死なれても復活されて、天に上げられ、天に存在されていることです。14章3節から4節で、主イエスが弟子たちとの夕食、最後の晩餐の時、弟子たちのところへ再び帰って来ると約束されました。これは、十字架から復活された主イエスが父なる神様の御許ヘ上ってゆかれ、そして再びこの地上に来られることなのです。「復活」とは一度死んだ者が再び息を吹き返すという現象、いわゆる「生き返り」や「蘇生」とは全く違います。「復活」とは主イエスが初めてなさった特別な御業です。

 

主イエスの復活とは、四福音書と第一コリント15章に記されている合計10回に上る顕現物語です。それら一つ一つの記事は、それぞれが独立して多様性を持っています。後代に調和させたとは考えられません。主イエスが復活されたという主要な点においてはすべての記事が一致しています。また、それらの記事の中で多くの人々に現れた状況や、主イエスの十字架を見て逃げ去ってしまった弟子たちが復活の主イエスに出会って大きな変化が起きたことは否定できません。一番弟子のペトロでさえ、主イエスから「鶏がなくまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言われ、その場から逃げ去り、十字架の場面にも登場せず、何と本日のヨハネ福音書21章にあるように、ガリラヤ湖の漁師に戻ろうとしている時に、復活の主イエスの出会い偉大な伝道者に変えられました。何が弟子たちを逃げ隠れする者から殉教を恐れず大胆に福音を語る者に変えたのか、弟子たちに勇気と確信を与え、力強い伝道者に変えたのは復活の主イエスご自身が伝道の力を弟子たちに与えられたからに他ならないのです。

また、それまでは、ユダヤ人として土曜日の安息日を守っていた弟子たちが、なぜ日曜日の主の日を守り、また聖餐を祝うようになったのか、1節にあるように、この日が「週の初めの日」になったのか。

これらはみな、主イエス・キリストの復活によってなされたものと考えるべきです。バプテスマ(洗礼)は、キリストと共に葬られ、よみがえったことのしるしです。この主イエスの復活は神様の御業なのです。

 

そして、主イエスがなされたこの復活は私たちにも将来起きる、終末の時にすべての人々に起きる。その終末の時には、生きている人々だけでなく、死んだ人々も復活すると新約聖書は語っているのです。

復活した身体がどんなものなのかについては、聖書では詳しくは語られていません。しかし、主イエスの復活が私たちの救いと密接に結びついていることは、ローマの信徒への手紙4章25節にある様に「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」ということばからも明確に分かります。

私たちの罪を贖うために十字架で死なれた主イエスは復活されて、今も私たちが義とされるため、私たちを罪から救うために生きて働いておられるのです。

 

復活を信じることは、主イエスを信じる信仰、キリスト教信仰の中心なのです(使2:24‐36、3:13‐15、4:2、10、11、33、5:30、10:39、40、13:27‐38、17:3、18、31、26:23)。神様の恵みである主イエス・キリストの復活なくしてキリスト教信仰はないのです。

この復活信仰は、私たちが努力して身に着け、己の知識とするものではありません。マグダラのマリアに主イエスが呼び掛けられたように、主イエスから一方的に与えられるのです。私たちが主イエスの呼び掛けに応える時に与えられる一方的な信仰の恵みなのです。

新約聖書210ページ、ヨハネによる福音書20章27節に復活を疑う弟子のトマスに主イエスは語られました。

20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

復活の主イエスは疑い深い弟子のトマスだけでなく、私たち皆に『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛けられているのです。

疑うトマスに優しく呼び掛けられる復活の主イエスは、今も生きて私たちを愛して『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛け続けられているのです。

お祈りを致しましょう。

 

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・・・ 以  上 ・・・

 

十字架への道

齋藤 正 牧師

聖書箇所

詩篇 22篇2a,b~41節 (旧約聖書852ページ)

22:2 わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。

マルコによる福音書 15章33~41節 (新約聖書96ページ)

◆イエスの死
15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
15:40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
15:41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

説教

今から約2000年前の西暦33年、ユダヤの暦でニサンの月の14日、金曜日の午後、全地は「暗黒」に閉ざされました。マルコによる福音書15章33節には、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と記されています。

この日、朝の9時に十字架につけられた主イエスは、午後3時までの6時間、苦しみ抜かれ、遂に息を引き取られました。ローマ帝国の極刑であった十字架刑は処刑者を苦しませるためもあって、死ぬまでに数日かかる残酷な処刑でしたが、主イエスはその直前の苛酷な鞭打ち刑もあって短い時間で息を引き取られました。この聖書が記す「全地の暗黒」は、この主イエスの苦しみの頂点で起きました。

この「暗黒」とは何であったのでしょうか。ある人は日食があったのであろうと言います。またある人は、東の砂漠から吹いて来た砂嵐によって太陽が隠されたと説明したりします。聖書は、「全地は暗くなって、三時まで続いた」と記していますが、聖書が告げることを裏付ける記録はどこにもなく、このときの「暗黒」を聖書以外には誰も記してはいません。

1951年度のノーベル文学賞に輝いたスウェーデンの作家ラーゲル・クヴィストは、受賞作品「バラバ」の中で、このように書いています。

イエスの十字架刑がローマ総督ピラトから言い渡され、その時、イエスの代わりに赦されたバラバは、自分の身代わりになった男はどんな男かを見るために、ゴルゴタへやって来ました。十字架上のイエスを見上げていると、突然、暗くなり、その闇の中で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という声を聴きました。三本の十字架がボンヤリ見えるだけの真昼の暗黒の中で、バラバは怖ろしくなりました。やがて、明るさが戻って来た時、すべては終わっていたのです。バラバは自由でした。「身代わりの男は死んだ。もう自分の罪を咎める者はいない」。ところが、エルサレムの街の中に帰って来て、今、自分が見てきたイエスの死の様子を話すと、誰も「暗くなった」ことを認めません。何も変わらなかったと言います。太陽は何時もの通りでした。ここからバラバの悩みが始まります。「あの時の暗黒は何であったのか」。そしてバラバは、彼の生涯を賭けて、その「暗黒の意味」を尋ね続けるのです。

聖書は、この時の「暗黒」を明確に語っています。しかし、この世の記録は、それについて何も記しておらず、あたかも何事もなかったかのようです。この食い違いに直面するとき、私たちもまた、あのバラバと同じ場に立たされていることに気付かなければなりません。

あの「暗黒」が日食であったのか、砂嵐によるものなのか、そんなことが問題なのではありません。

大切なことは、バラバのように、ナザレのイエスを、自分の罪の身代わりになって死んだ方として仰ぐ者だけが認める「暗黒」なのではないでしょうか。そして、十字架の下であの声を聴いた者が、「あれはいったい何であったのか」と、生涯をかけて尋ね求めるべき「暗黒」なのです。古代の記録の何処にも記されていない「暗黒」。それにもかかわらず「全地が」と告げている聖書。私たちは、ここに、聖書の明確な主張を読み取ることが出来ます。

太陽が出ていようが隠れていようが、暗くなったと認めても、認めなくとも、それに関わりなく、全地の、即ち、神によって造られたものすべての「暗黒」が、ここに宣言されているのです。光を失った世界。それが主イエスが叫んだ言葉によって表されているのです。34節には、「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」とあります。この言葉は、先程お読みした詩編22編の冒頭の言葉です。この詩編22編は、確かにこの嘆きの言葉をもって始まっていますが、全編を貫くものは神への信頼であり、神の栄光を讃美する喜びの歌です。そのことから、十字架の主イエスの言葉は、「信仰者の勝利を叫んだのである」と解釈する人もいますが、そうでしょうか。

むしろ、主イエスご自身が日頃から親しまれていた詩編の中の一つの聖句を、十字架上で死を目前にした絶望的な苦しみの中で、主イエスの口をついて出たとみるべきではないでしょうか。主イエスの十字架は、この言葉の通りでした。御子イエスは、ゴルゴタにおいて、まさしく「神に捨てられた」のです。

パウロは、ガラテヤの信徒への手紙 3章13節で、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」と記しています。

私たちクリスチャンは、主イエスの十字架の死を、どんな意味においても英雄の死のように美化してはなりません。主イエスの十字架の死には、恥ずかしさと惨めさと醜さと神に見捨てられた絶望を見なければなりません。神の怒りが主イエスに対して徹底的に向けられたものに他ならないのです。主イエスの十字架において、私たちの罪のすべてが、神の眼の前に曝け出され、徹底的に罪が糾弾されたのです。もはや、どこへ逃げることも出来ず、隠れることも誤魔化すことも出来ず、自分の身に負う罪を、神の裁きの前に曝すのが主イエスの十字架なのです。そしてこれこそが、神から見捨てられた人間の本来の死の姿です。

私たちは、この世を生きる間、この恐ろしさをしばらくは忘れて過ごすことはできるでしょう。生活の慌ただしさによって、職場の厳しさによって、また、さまざまな趣味や娯楽によって、本来の死の姿を忘れ、罪の重荷を考えないようにして、ひとときを過ごすことはできるでしょう。しかし、本当に死に直面した時、それまでのすべての誤魔化しは無駄です。もはや、恐ろしさを紛らわすものは何一つなく、裸の自分がただ一人、神の裁きの前に立たされるのです。これこそが死の恐怖です。死に際して出会う神は正義の神であり、御心に逆らって生きて来た者の罪を、どこまでも追及する裁き主である神です。神の怒り、神の呪い、神からの完全な絶縁。「もうお前のことは知らぬ」と告げられるのが、罪の下における死です。十字架における主イエスの『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』との叫びは、この絶望を表すものと見るべきです。私たちすべてが受けなければならない苦しみを、主イエスが受けられたことを現しているのです。肉体の苦しみは死と共に終わります。しかし、魂の苦しみは、そこから始まるのです。主イエスの叫びに「真実の暗黒」を見るとは、こういうことを現しているのです。

そしてこの主イエスの十字架から、まさに「この時」から、新しい時代が始まりました。それは、人間の苦しみ、その「暗黒」を、「神の独り子・主イエス・キリストが引き受けられた」ということです。

「全地は暗くなった」と聖書は告げています。すべての人間が、例外なくすべての人間が、この怖ろしい神の裁きの下で絶望を味わわなければならない、と告げる聖書が、同時に、この「暗黒」を主イエス・キリストもお受けになったと記しているのです。私たちは、その「暗黒」を自分一人で負うのではなく、その「暗黒の絶望」の中でも、キリスト・イエスが共にいて下さるということです。さらに、その「暗黒の絶望」が、私たち自身では負えない怖ろしい「暗黒」であることを知っておられる神の御子が、私たちに代わって引き受けてくださったのです。御子イエス・キリストは、私たちと共に歩まれ、寄り添われるだけではなく、私たちに先立って、その「暗黒の重荷」を担われる方なのです。

まさに、主イエスが十字架に架かられたあの日は「暗黒の日」でした。すべての人間が絶望を見るべき日でした。しかし、その後の歴史が語っていることは、この世界はその「暗黒」に気付かなかった、ということです。

聖書が、「全地は暗くなった」と告げているのに、それに気付いた人はいなかったのです。神の御子が、私たちの絶望を代わりに引き受けて下さっている時にも、自分たちは明るさの中で生きていると思っていたのです。

旧約聖書1,150ページ、イザヤ書 53章6節から8節をお読みします。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わされた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼は神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。

これこそが、聖書が告げる「暗黒」です。そして、この「暗黒」に気付くとき、聖書が伝えようとしているメッセージが明らかになるのです。それは、この「暗黒」が、主イエスの死と共に終わったということであり、むしろ、主イエスの死が「暗黒」を追い払ったと言うべきです。37節には、「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた」とあります。

並行箇所にあたるヨハネ福音書では、この主イエスの最後の言葉を、「成し遂げられた」と記しています。神の怒り、神の裁きは、主イエスの死によって、まつとうされたということです。また、口語訳では、ここを「すべてが終った」と訳しています。この訳の方が聖書の告知を正しく伝えていると言えるでしょう。「すべてが終った」。これは驚くべき言葉です。「すべてが終った」即ち「神の裁きが終った」と御子イエスは最後に言われたのです。

私たちの罪は、「もう追及されることはなくなった」と主イエスは、この世の生命の最後の言葉でおっしゃったのです。小説のバラバが、主イエスの死を見て「これで自分は本当に自由になった」と感じたように、主イエスの死によって、私たちに対する神の怒りは終わり、私たちの罪は赦されたのです。

旧約聖書(1,237ページ)エレミヤ書31章31節から34節で、預言者エレミヤは次のように語っています。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」

「わたしは新しい契約を結ぶ」という主の御言葉をエレミヤは記しています。「わたしは彼らの罪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」。これが、エレミヤを通して語られた「新しい契約」であり、「新約」の新しい約束とはこのことなのです。何も知らず、何も気づかず、無知の中に日々を過ごして来た者の犯した罪のために、神の御子は、贖いの小羊となられたと聖書は語るのです。そして、主イエスの十字架の死で、象徴的なことが起こりました。38節に、「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」とあります。「神殿の垂れ幕」とは、至聖所と聖所との間にある幕のことです。普段は祭司と言えども、人はその幕の内側に入ることは許されず、年に一度、大祭司だけが「全イスラエルの罪の赦しを祈るために、入ることが出来る」と定められていました。「幕」は、神の神聖さの象徴であると共に、聖なる神の御前に出られない「罪の下にある人間」の惨めさの象徴でもあり、神と人を隔てる「隔ての象徴」でした。「その幕が無くなった」というのです。私たちが神の御前に出ることを妨げていたものが主イエスの死によって取り払われ、私たちと父なる神を隔てるものを、主イエス・キリストは、御自身の生命と引き換えに取り去って下さったのです。そして「その幕が無くなった」ということによって、はじめて神と人の交わりが回復したのです。エデンの園から追放以来の長い間の苦しみが今や終わり、神を「父」と呼び、「子よ」と呼ばれる神と人間の関係が、ここにようやく回復したのです。

そして、このキリストの十字架の御業は、私たちと神との関係を回復しただけではなく、同時に、人と人との交わりをも正しくされたのです。それを、新約聖書354ページ、エフェソの信徒への手紙 2章14節から20節でパウロは、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」と告げているのです。

私たちの幸福のすべてが、十字架に基づいていることが明らかです。39節には、「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」と記されています。

神に選ばれたユダヤ人が主イエスを憎んで十字架に追いやり、異邦人であるローマの百人隊長が主イエスを「神の子」と告白したとは、実に皮肉なことです。私たちは、ここに神が、すべての人を救いに招き、キリストを信じる信仰のみによって、新しい民を誕生させられたという、新しい時代の始まりを見ることができます。

この告白をする者のみが神の国の民であり、神の家族なのです。主イエス・キリストの十字架の下、たとえ「絶望の暗黒」を味わったとしても、私たちは、「すべてが終った」というキリストの宣言に守られ、無知と無力にも拘わらず、今、御国へ招かれていることを感謝しようではありませんか。

新しい神の家族。それが、主イエスが流された「十字架の血」によって誕生したのです。

お祈りを致しましょう。

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