神の御名が聖とされますように

聖書:歴代誌上167-13節, ローマの信徒への手紙113336

 新しい年も、寒い寒いと言って過ごしているうちに、早くも2月を迎えました。わたしたちは恵まれて月の初めの聖餐礼拝に招かれましたことを感謝します。私の成宗教会の牧師としての務めも二カ月を切りました。本当のところ、私の願いとしては、17年前、減少していたこの教会の礼拝出席者の数を回復させて、もう少し多くなったら次世代に受け継いでいただこうと思っていたのでした。ですから、「私の願い」という点では、願いは叶わなかったことになります。しかし、主は私の間違いを指摘してくださいました。「本当に願うべきは、果たして自分の願いが叶うことなのか」と問われているのだと思います。

わたしたちは今、日本の人口減少が進んで行く社会に生きています。地方の市町村の過疎化が進んでいるとき、被災地ばかりでなく、一部の地域に人口が集中する一方、立ち行かなく自治体も増えて行くと予測されます。このことは日本キリスト教団の諸教会をはじめ、他教団の教会でも同じことが言えるでしょう。しかし、その時人々はどのように行動するのでしょうか。だれも、「こうすればきっとうまく行く」という方法論を持っているとは思えません。ただ、自治体と教会とは、方法論で比べることはできないのです。

わたしたちの中には、家族や、友人、また隣の人が教会に行っているから、という理由で教会に来た人もいるでしょう。昔はそういうことがよくありました。しかし、教会は地上にだけ立っているものではありません。もし、そうであるならば、人が変り、時代が変り、教会はとっくの昔に廃れてしまっていたはずです。私の学生時代には社会主義、共産主義思想が栄えていました。一方、それ以外の思想は非常に軽蔑されました。私も「キリスト教なんて古いんじゃない」と友人に言われましたが、それから十年も経たないうちに、栄えていた思想が衰退して行ったのは非常に不思議に思われます。

唯物論的な思想が廃れると、一転して、今度は若い人々が怪しげな新興宗教に取り込まれ、それらがキリスト教主義の学校、大学にまでも浸透して、人々を悩ます時代が来ました。その結果、「宗教は怖いもの」という印象がこの社会に植え付けられました。教会はこれらの思想や宗教から見えない攻撃を受け続けて今日に至っています。ですから、わたしたちの教会も、もし地上に立っているだけの教会であったならば、もし人々が集まっているだけの教会であったならば、この時代に、この社会に立って行くのは難しいでありましょう。あれだけ栄え、あれだけ社会を席巻するかに見えたものが、いつの間にか廃れてしまっているのですから。

しかし、わたしたちが今日も守っている礼拝、今日も与ろうとしている聖餐は、この世の流行はやり廃すたりをはるかに超えて、この二千年の間に世界中で行われている教会の営みであります。自己実現の大流行の時代も、人々が自己実現の果てに頼るものを見い出せなくなった時代も、変ることなく守って来た教会の信仰をわたしたちは受け継いで参ります。この信仰はイエス・キリストの体なる教会を形成する信仰に他なりません。

私は自分の願いとしては、こうだった、と先ほど申しました。「多くの人々に伝道したい、多くの人々を教会に招きたい、というわたしの願いは、断然正しいはずだ」と息巻いていたのかもしれません。しかし、主は弟子たちに、そしてわたしたちにも教えてくださいました。「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけなさい、と。そして「あなたの御名が聖とされますように」と祈りなさい、と。これが主の祈りの第一の祈りです。

御名、すなわち神さまのお名前が、崇められますように、とわたしたちは日本語で祈っています。崇めると訳されているこの言葉は、「聖別する、神聖なものとする」という意味です。つまり、単に恐れ多い、とか、尊いとか、大切にする、ということではありません。神さまのお名前は、神さまのご性質、お姿を表すお名前です。神さまは「父なる神さま」であります。また「天地の造り主」であります。また「贖い主」であり、「救い主」であるのです。神さまのお名前は、この方がすべてを造り、すべてを父の心をもって愛し、保ち、すべての罪を贖って救われる方であることを表しています。

では、この方の御名を聖とする、とはどうすることでしょうか。それは、わたしたちのかけがえのない命を創造し、また命を終わらせる神さまを信じ、讃美することに他なりません。わたしたちは、もし自分中心に考え、自分の利害損得にかかわることしか見ていないならば、神さまに心を向けることも讃美することもできないでしょう。しかし、その反対に、わたしたちがこの世界に目を向け、心を向けて、しっかりと見れば見るほど、讃美の思いが深まって行くのです。詩編8篇を読みましょう4-9節です。840頁。

「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によってつくられたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路うみじを渡るものも。」

このように、天の偉大さと大きさに比べれば、「なぜ神さまは一見して取るに足りない人間に関心を抱かれるのだろうか?」とわたしたちは思わずにはいられないのです。そして改めて人間を思うとき、すべてを造られた主なる神さまが、取るに足りない人間を心に留めることを良しとされたことは、本当に驚くべきことです。そこで遠く広く造られた世界を尋ね求めるならば、わたしたちは神さまの御名をほめたたえずにはいられないでしょう。詩8篇10節。「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう」と。

今日読んでいただいた旧約聖書、歴代誌上16章はダビデ王が神さまに捧げた讃美です。8節から読みます。「主に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。主に向かって歌い、ほめ歌を歌い、驚くべき御業をことごとく歌え。聖なる御名を誇りとせよ。主を求める人々よ、心に喜びを抱き、主を、主の御力を尋ね求め、常に御顔を求めよ。主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を、主の口から出る裁きを心に留めよ。主の僕イスラエルの子孫よ、ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ。」

ダビデは少年の頃から神さまだけを頼りに戦って来ました。しかし、彼がこの時このように賛美をささげたのは、激しく長い戦いの年月が終わりに近づいた時でした。神さまはどこまでもご自分を頼って救いを叫び求めていたダビデの祈りに応えてくださったからです。わたしたちにも戦いがあります。それは具体的には、槍を持って自分の命をつけ狙う王の軍隊と、いつ果てるともない戦いをしなければならなかったダビデとは比べものにならないでしょう。しかし、わたしたちの戦いも決して安易なものではないことを、わたしたちは知っております。

なぜなら、わたしたちは人生の先輩、信仰の先輩の方がtを沢山見ているからです。先に生れ、先に労苦し、先に年取って行きますから。明治以来、日本に稀に見る戦争のない時代が続き、戦争で苦しんだ世代も高度経済成長の時代を謳歌しました。戦後の教会に集い、教会を支えた多くの人々はこの世代の人々です。わたしたちは誰もが年を取って行きます。肝心なのはその時です。それからです。わたしたちはダビデ王のようにたくさんの献げ物をして礼拝を捧げ、主なる神さまにこの歌を讃美することができるでしょうか。

大多数のわたしたちには出来そうもありません。わたしたちはますます貧しく、小さく、もろいものになって行くでしょう。しかし、教会に足を運ぶことの大切さ、礼拝を共に捧げることの大切さを証ししてくださったのは、わたしたちより先に弱り、先に小さくなり、もろいものとなったわたしたちの人生と信仰の先輩の方々なのです。

老いて行くわたしたちの最後は大きな意味を持っています。ダビデ王には及ばなくても、わたしたちも多くを見聞きし、多くを体験し、多くの試練を通って来ました。そして今、年を取ることそのものが、誰にとっても大きな試練であります。しかし、よく考えてください。誰にとっても試練である高齢化の中で、生涯の終わりに至るまで神さまの御名をほめたたえる人々がいるのです。「振り返ってみれば、何もかも感謝というより他にはないのです」という言葉。私はこの教会に仕えて、この言葉を数えきれないほど聴きました。真心から生まれる、主をほめたたえる言葉です。それは神さまの御名をほめたたえる人々の命の尊さを表すものでなくて何でしょうか。なぜなら、人間に与えられた命の目的は、神さまをほめたたえることだからです。人間に与えられた使命、神さまの目的が、成宗教会に生涯の最期まで連なっておられる方々において全うされるのを、私たちは見ることができました。そして、これからも見ることができますように。

このように「神の御名が聖とされますように」という祈りはいつでも、どこでも、心から献げられるように、とわたしたちは求められています。私が自分の願いを正しいと思うときにも、特に自分のこの願いは断然叶えられるべきだという思いに捕らわれる時にも、神さまの御心のみが広く、深く、恵みに満ちた救いを実現されることを確信して、心砕かれるのが、この祈りなのではないでしょうか。

恵みに満ちた救いと申しましたが、ダビデ王の時代にはまだ誰も見ることのできなかった救いの業を、神さまはイエス・キリストにおいて成し遂げてくださいました。人間とは、死すべき者、弱い、罪人に過ぎない者ですが、神さまは初めにこれを御自分に似せてお造りになり、神の形としてくださいました。そしてその破れにも拘わらず、罪人の救いのために、御子は謙って地上に降られたのであります。罪人のために苦難を耐え忍び、罪人のために十字架に死んで、罪の贖いを成し遂げてくださいました。こうしてイエスさまは、すべての人のために死んでくださったのです。しかし、そのことによって、すべての人が自動的に救われる訳ではありません。そうではなくて自分が罪ある者と知り、悔い改めてイエスさまの執り成しを受け、神さまに従うならば、その人を救ってくださると、約束されたのであります。

今日読んでいただいた新約聖書、ローマの信徒への手紙11章33節ですが、一つ前の32節から読みましょう。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」と書かれています。わたしたちはこんなに心を込めて伝道したのに、信仰を受け入れる人々が少ないと嘆いているでしょうか。私は何度も申しましたように、「辞める前に、少しでも教会員を増やして…」などと、俄かに大きな望みを持ったりするのですが、全体としては、何も考えずに呑気に教会に仕えていたのだ、と思います。それはなぜかと言えば、伝道は神さまのなさることという実感があったからです。どんな困難な時にも、なぜか平安であり、理由もなく楽しかった、と振り返ることができるのは、聖霊の神さまが励ましてくださったからこそ、と感謝します。

あれほど一生懸命努力したのに、全く実を結ばないという出来事もある一方、私自身が蒔いた種ではないところから神さまの救いという思いがけない収穫があったこともあり、むしろこちらの方が多かったので、やはり、恵みによる救いは本当だったと、うれしく証しします。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。』すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」

私たちは過去から計り知れない恵みを受けたことを証しし、神さまの御名をほめたたえます。そしてこれから大きな困難に立ち向かう時にも、この恵みの神の御業を思い起こし、主の祈りを共に捧げて、成宗教会に連なり、天地に唯一の教会を告白したいと願います。本日は主の祈りを学びました。「カテキズム問57 主の祈りは何を第一に求めていますか。」そして答は「み名が聖とされますように」です。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美します。二月を迎えました。あなたの憐れみと恵みにより、私たちは御前に集められ、み言葉をいただきました。深く感謝申し上げます。どうか私たちに悔い改めの心を新たにさせてください。ただあなたの憐れみと恵みによって罪の赦しをいただいたことを覚え、聖なる御名をたたえる者となりますように。礼拝を去り、一週間の日常の生活に出て行くわたしたちをお支えください。その中でも、いつもあなたを覚え、イエスさまの執り成しによって祈り、謙って従って行く者でありますように。

私たちは自分の生活に追われるように年月を過ごしました。考えること少なく、祈ること少なく、思い煩うことの多い日々を悔いております。どうか主よ、私たちの弱さを覚え、私たちのために信仰の戦いを戦ってください。多くの人々は年を取ることに何の喜びも見出しませんが、私たちは、主に出会い、主と共に生きることこそ喜びであることを証ししたいと願います。どうか私たちを主の御体の肢として活かし用いて、どのような時にも聖なる御名を証しし、ご栄光を現わすものとならせてください。

今、お病気の方々、忙しい日々の労苦を負っておられる方々を覚えます。主の恵みがその方々の上に注がれますように。本日は聖餐に与ります。私たちの救いのためになされた主の御業の全てを感謝して与るものとならせてください。また本日予定されている長老会議の上に御心が成りますように。藤野先生ご夫妻の陪席をいただいて行われるこの会議を、最初から最後までお導きください。すべてのことを感謝し、御手に委ねます。

この感謝と願い、尊き主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主を待ち望め

聖書:詩編13018節, ローマの信徒への手紙3920

 週報にも報告しました通り、成宗教会は私の後任の教師を招聘するべく準備を進めております。ひと昔前の時代には、倒れるまで頑張ってあとはよろしくというのが牧師の務めのように考える傾向もあったかもしれません。しかし、辞任を表明する牧師は、単に辞めて行けば良いのではない。後任を迎えるために長老会と共に最大限の努力を傾ける。これが教会の主に対する私の最後にして最大の務めである。このことを今、私は長老会と共に主から示されているところであります。

さて、そういうわけで、次年度に続く仕事の一つはキリスト教主義の学校とのつながりでありますから、来年も成宗教会の教会学校が覚えられるようにと、先週も明治学院東村山校のキリスト教教育懇談会に参加して参りました。高校三年生の方々が教会やキリスト教について、それぞれの持つイメージや考えを発表していました。大変印象的だったことは、受洗を決心したきっかけが、いろいろなキャンプへの参加であったことです。とても楽しく心を打ち明けて話が出来た。その後も楽しい交流が続いているなど、発表者のほとんどが同様の体験を語っていました。

同年代の生徒が、若者が、一緒にいるとそれだけで楽しいという経験。これは、わたしの年代だと小中学校で普通にあったことなのに、今はそうではないらしい。楽しくない集団がむしろ当たり前になっているのかもしれないと思いました。それが現実だとすれば、イエスさまを教える主催者が開くキャンプは、彼らにとって本当に珍しい喜びの体験だったのは当然だと思いました。

その反対の例ですが、勤労感謝の祝日にわたしが教会の前を掃除しようと出て見ると、何と不審な人々が5,6人も前の道路に立っていました。と言っても集団で来たのではありません。ほとんど並んでスマホを見ながら立っていますが、恐らくポケモンを探しているのだろう、と想像できなかったら、私にはただ気味の悪い人々としか感じられないでしょう。一緒に人々がいる、ということだけで、うれしい、楽しいということには決してならないのです。

わたしたちは、この夏から 十戒 についてみ言葉を学んで参りました。人々が一緒に喜んで生きるためのルール、それが十戒であるとも言えるのであります。これは、神さまから与えられました。人々が一緒に喜んで生きるためのルールなら、人が決めれば良いのではないか、と思うかもしれませんが、理屈はそうでも、それはできなかったのです。なぜなら、次のように書いてあるとおりです。ローマの信徒への手紙3章10節~11節。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」人々が一緒にいて喜んで生きられるというためには、何よりも人々を一人残らずお造りになった神さまを信頼することが前提となります。ところが、神さまを信じ、神さまを頼りにする人がいないという。皆、罪人だというのです。

12~18節。「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦みで満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」

わたしたちには律法が与えられているのですが、それでは、これらの律法、戒めをすべて守ることができるでしょうか。その問には、今日読んでいただいたローマの信徒への手紙が答えています。わたしたちはたとえ見た目には正しいことをしているように見えるとしても、心の中では十戒をすべて守ってはいないのです。密かに人を呪い、姦淫の罪を犯し、人のものが絶えず羨ましく、自分のものにしたいと思い、また嘘をついてします。そしてそういう罪が大きい人ほど、ますます自分の罪には気がつかないということが起こります。それは自分で自分をだまし、ごまかし、欺いているからで、ここに人間の罪の深刻さがあります。

神さまは罪人であるわたしたちに、ある時は苦難に遭わせます。わたしたちはしばしば、苦しんでいる人々に対して同情しない。それどころか、神に見捨てられているのだと突き放すことさえあるのではないでしょうか。その反対に、自分が苦しみに遭う時には、神さまに見捨てられたように感じてしまうでしょう。どちらにしても、わたしたちの考えは、神さまのお考えとは全く違うのです。そのように、わたしたちは皆、神さまから心が離れてしまう罪人です。しかし、旧約聖書詩編130篇で詩人は叫びます。礼拝の場、エルサレムを目指して、神さまに叫び求めるのです。しかしそれは、自分が正しい者だから、神さまに祈り求める資格がある者だから叫ぶのではありません。

そうではなく、詩人は深い淵の中にいる者として、耐え難い試練に打ち沈んでいる者として、しかしながら、神さまに叫ぶのです。自分は間違っていない、自分は悪くない、と主張しているのではありません。神さまがわたしたちの間違い、罪、いろいろすべて数え上げなさるならば、主よ、誰が耐えられるでしょう。「だれもあなたからお咎めを受けないで済む者はいません」と、自分の罪を認めざるを得ないのです。一つ一つ罪を裁かれたら、その罰は死刑が100回どころか1000回も死ななければならないでしょう。

しかし、それでは詩人はなぜ叫ぶのでしょうか。なぜか、が分かる人は真に幸いです。なぜなら、それこそが神さまが罪人に求めておられることだからです。だからこそ、神さまはわたしたちに試練をお与えになるのではないでしょうか。「悩みを与えられ、懲らしめを受けて、ついに神さまに向かって叫び求める者になりなさい」と。詩人は自分が神さまの御手によって懲らしめられるのは、当然であることを認めながらも、勇気を出し、立ち上がって神さまに救いを求めます。そればかりか、すべての信仰者に向かって、神さまに確かな望みを抱くように勧めるのです。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに」と。なぜなら、神さまはとこしえにご自分の民を救う方、贖う方でありますから。神さまは人々を死から救い出す手立てを、その御手の内に常に備えておられると確信しているからです。

世の人々は、神の存在も認めず、従って神を恐れない傲慢な人々が多いのですが、それでも、神がおられると信じる人々は、神は厳しく裁く方であると考える人々も少なくないと思います。しかし、聖書の信仰は、わたしたちにご自分を顕される神さまは、罪人を憐れみ、悔い改める者を救いに招こうとなさる方である、ということなのです。わたしたちに起こるあらゆる困難、試練、災いも幸いも、すべて、わたしたちを悔い改めに導こうとなさる神さまのご配慮であります。そのことを信じて常に神さまの恵みの招きに立ち帰るなら、わたしたちは、困難の中にあっても本当に幸いな者とされるでしょう。

旧約の詩人が待ち望み、人々に力強く教え励ました救いを求める祈りは、イエス・キリストによって実現しました。旧約の民に与えられた二枚の板に記された十戒。この戒めはローマ3章20節の言葉の中に目的を達成したのです。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」つまりだれも律法を自分の力で実行することができなかったということなのです。しかし、神さまは御自分の独り子イエスさまを世に送ってくださいました。そしてイエスさまだけが、律法の心を実現なさったのでした。律法の心、それは、イエスさまが人々に教えられたみ言葉です。マタイ22章37-39節。「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」44頁。

そしてイエスさまは人々に教えられた戒めを、御自身において実行され、神を愛し、そのみ心を行われました。そして、隣人を愛し、最後まで愛し抜いて下さったのです。すなわち、わたしたちの罪の身代わりとして十字架に掛かられ、わたしたちの贖いとなってくださいました。このようにして、イエスさまは、隣人を愛することも、神さまを愛することもできず、いやそれどころか神さまの独り子イエスさまを十字架に付けた張本人であるわたしたちの罪を赦してくださったのです。

真に、人は律法の行いによって救われるのではなく、イエスさまの愛と赦しを信じる信仰によって救われることをわたしたちは教えられました。この信仰によって、わたしたちは罪赦され、新しく生きる者とされるのです。こうして律法はわたしたちをキリストへと導く養育係となったのです。イエスさまは十字架の苦難と死、そして復活によって、神と人を愛するという十戒の戒めをすべて完成させてくださいました。そして、わたしたちは、律法を行って完成することによってではなく、この律法の完成者であるイエスさまを信じることによって、救われる者となったのです。

ですから、何よりも大切なのは、キリストの御支配がわたしたちの内にあるかどうかなのです。イエスさまの霊のご支配の下に生きる者は救われます。わたしたちは、たとえ律法を完全には守ることができなくとも、キリスト・イエスさまへの信仰によって、万物を支配するキリストの御力によって、わたしたちの内に力を振るおうとする罪の支配を絶えず打ち砕いていただくことができるのです。このことは、クリスチャンの個々人に起こるだけではありません。このことは、御言葉を宣べ伝えて行く教会にまず起こらないはずはありません。わたしたちは地上に立っているこの教会の上に、まずキリストの体として御支配を受けることを祈り求めて参りましょう。

本日まで学んで参りました十戒の最後の問は、「これらの律法をすべて守ることができますか」でした。それに対する答は、「いいえ、できません。それがわたしたちの罪です。けれども律法の完成者であるイエスさまによって、罪赦されたわたしたちは、この教えに従って新しく生きることができるのです。」この十戒の教えに従って新しく生きることができるということが、十戒に与えられた新しい目標なのです。すなわち十戒に表された律法は、罪赦された者の感謝の生活を導く道しるべとなっているのです。ここに、新しく生きるクリスチャンの喜びと幸いがあります。

今日は説教の最初に、キリスト教についての高校生が持っている主観的、あるいは客観的な考えを聞いたとお話ししました。私は彼らと50年以上年を隔てて、自分が受洗した20歳前後の頃を思い出しました。時代は激しく変りましたので、今の時代に即した伝道を次世代に担っていただくことは喫緊の課題です。しかし、全く変わらないのは、クリスチャンを律法主義的に捉える世の人々の考えだと分かりました。「『クリスチャンなら悪いことしないよね』『正しいことをするよね』と言われ、プレッシャーをかけられる」と言った高校生がいたからです。

しかし、私たちが世に知らせたいのはそういうことではありません。神さまが人の命をどんなに慈しみ、大切に思っておられるか、万物の救いのためにも、人が神さまに立ち帰ることがどんなに求められているか、このことこそがイエス・キリストの到来に結晶しているのだと、世に知らせたい。それが主の喜ばれることではないでしょうか。わたしたちの社会への救いの祈りはまだ始まったばかりです。主を待ち望みましょう。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美します。 終末主日の礼拝を守るためにわたしたちを呼び集めて下さり、感謝いたします。先週の礼拝には藤野雄大先生、藤野美樹先生を次年度からの主任担任教師候補としてお遣わしくださいましたことを深く感謝申し上げます。東日本連合長老会に加盟し、全国連合長老会の人事によって新しい教職を迎える希望が与えられていることを、感謝し、このことの上に主の御導き、お支えを切に祈ります。

成宗教会は牧師の交代をまじかにしたこの時期をあなたの御心に従って、教会を整えて参りたいと存じます。どうか長老会を励まし、また信徒の皆様を励ましてください。それぞれが与えられた務めを思い、また果たすことができるために聖霊の尊き助けをいただくことができますように。招聘に向けて臨時総会を開催します。あなたの御心がすべてのことに行われますように。

十戒の学びを本日まで導いて下さったことを感謝いたします。来週から待降節に入ります。どうか心からの感謝と悔い改めの祈りをもって準備をし、待降節を迎えることができますように。今、病床にあるオルガニストの小高氏をお支えください。ご家族も慰め、励まして下さり、癒しの御手を伸ばしてくださいますようお祈りいたします。他にもお病気の方々がおられます。どうか、日々の困難の中から、主の救いを祈り求めることができますように。

今、様々な試練、困難の中にある方々を顧みてください。助けを求める信仰が豊かに与えられますよう、祈ります。

この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

命は神さまのもの

聖書:創世記4章1-16節, ローマの信徒への手紙12章15-21節

 教会の主イエス・キリストの父である神さまは、私たちを教会に招き、恵みの福音をお知らせくださいました。私たちは、教会がこの救いをどのように信じているかを使徒信条によって学びました。そして、この教会の信仰を受け入れた者は洗礼を受け、信者の群れの一員とされたのです。救われることに優る喜びはありません。なぜなら、私たちはこの世の生活がすべてではなく、神の永遠の命と結ばれて生きているからです。そこで、私たちは救われて、神の子とされた者としてどのように生きるべきでしょうか。それは感謝の生活であります。

神さまに感謝して生活するための道しるべとして、私たちは改めて 十戒 の戒めをいただいているのです。さて、本日は十戒のうちの第六番目の戒めを学びます。第六戒は何でしょうか。それは、「あなたは、殺してはならない」です。「殺してはならない」の直訳は、「殺すことはないであろう」とか、「殺すはずがない」という意味です。つまり、わたしたちはそんなことは当たり前ではないか。この戒めに関してだけは、自分は殺す心配もないし、殺される心配もしなくて大丈夫と、何となく簡単に守っているかのような気持ちでいるのではないでしょうか。

今日は創世記4章のカインとアベルの話を読んでいただきました。カインとアベルは最初の人間、アダムとエバの子供です。神さまは人間を神の形に造られたのです。それは、すべての造られたものの中で、人間だけが、神さまの呼びかけに応えるものとして神さまの交わりに招かれたということです。神さまに出会い、神さまと対話をするということは、神さまを礼拝することに他なりません。人間が神さまに出会い、礼拝するのは、神さまへの信頼なしにはできないことです。神さまはわたしたちを憐れんでくださる。その足りないところ、失敗を赦してくださることを信じることが出来るので、全知全能の神さまの前に出ることができるのでしょう。

ところがアダムとエバは神さまとの約束を破った時、神さまが呼んでも応えないで、逃げ隠れしたのです。神さまが自分たちを赦してくれないだろうと思うので、神さまに出会うことは恐ろしいことだったからです。それでも、神さまはこの二人から祝福を残してくださいましたので、二人は労苦して働き、子供が生まれました。エバは「わたしは主によって一人の人を得た」と言いました。生れた子どもを、自分が産んだとか、自分の赤ちゃんだとか言わずに、神さまが一人の人を(口語訳、KJ版ではa man)与えてくださったと感謝しました。この二人は神さまを知らないのではなく、エデンの園から追放された後も、神さまを礼拝する家族であり続けていたことが分かります。

ところが、そのような家族の中で生まれた二人の息子に悲劇が起こりました。カインとアベルは神さまに感謝の献げ物をささげたのですが、神さまはアベルの献げ物は目を留められた一方、カインの方には目を留められませんでした。どうしてこのようなことになったのか、と私たちは原因をあれこれと詮索しますが、目に見えてこうだと言えるようなことは分かりません。しかし、はっきりと言えることは、神さまに感謝を捧げるために無くてならないものは、真心であるということです。形は立派に整っていて、人々の目には何も問題は無く、むしろ素晴らしく見えても、神さまは捧げる人の真心を見ておられます。

で預言者サムエルは次のように言いました。(サム上15:22、452頁、上)「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえに優り、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」正しい礼拝とは、私たち自身の真心を霊的な供え物として神さまに捧げることであります。ですから、カインの献げ物が神さまに喜ばれなかった原因は、何よりもそこにあったのです。そうだとしたら、カインは自分自身を責め、悔い改めるべきではなかったでしょうか。カインが目に見える形だけの供え物によって神さまをなだめようと考え、自分を全く神に捧げ切ろうとは少しも思わなかったに違いありません。ところが彼は自分の間違いに気がつくどころか、自分の願いがかなわないのは自分の罪のせいだとは考えないで、こうなったのは皆アベルのせいだとしました。そこで、たちまちアベルに対する妬みが火のように燃え上がったのです。

主はカインに呼びかけられました。これは神さまの叱責です。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

妬みに燃え上がっている者は、もし自分が罪を犯したら、直ちに罰を受けるということに思い当るならば、罪を支配することもできるのですが、恐ろしいことにはそうではないのです。良心に責めさいなまれることもなく、自分の気にいることを何もかもできると思い込み、自らを欺くことになります。

私たちは神さまを礼拝する家族の中でさえ、このような妬みに駆られた恐ろしい罪が身近に起こることを教えられました。しかし、私たちはカインのようになってはならないことを、しっかりと心に刻まなければなりません。そのためには、十戒の第六の戒め「あなたは、殺してはならない」が命じていることは、単なる殺人の禁止ではないことを理解する必要があります。神さまは人を御自分の似姿として創造されました。そして罪に陥った人間の救いのために、自らの独り子を世に遣わしてくださり、人の罪を贖ってくださったほど、人の命を大切にされました。

そうすると、何があっても、殺人には至らないから良いだろうなどとどうして言えるでしょうか。たとえば人を蔑ろにする言動。いじめや人を疎んじる行動。その人格を否定するような行為のすべてを、神さまは咎めておいでになるのです。罪のない者の命が脅かされることを神さまは決して見過ごしにはなさいません。たとえ犯罪行為を告発する者がなくても、神さまは人が犯した罪について御自身が知っておられることを、聖書は示しています。神さまにとって、人間の命は罪なき者の血が流されて罰せられずには済まないほど愛すべきもの、その救いのために罪なき御子を贖い主としてお遣わしになるほど、貴いものであるということを、私たちは畏れを以て悟らなければなりません。

新約聖書はローマの信徒への手紙12章15節から読みました。十戒の『殺してはならない』という命令は、この世界で味わう苦難や試練ゆえに生じる憎しみや憤りを克服して、互いに愛し合う積極的な生き方へと転換することをわたしたちに求めています。14節から読みますと、「あなたがたを迫害する者のために、祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と。ここに非常に高い目標が与えられています。イエスさま御自身、この勧めを私たちにくださいました。要求されていることが難しくあればあるだけ、私たちはこれを切実に追い求める努力を傾けなければならない。なぜなら、主は私たちが主に従わなくても簡単にできるようなことは、お命じにならないでしょうから。私たちは自分を守ることに必死ですから、自分を苦しめる相手に同情することはとてもできないのが常です。しかし、相手は神さまに従っている者を不当に苦しめることで、ますます自分に滅びを招いているのですから、神様はそのような者に心を配ることを、わたしたちに欲しておられます。それが救いの主に従う教会の民にふさわしい高い目標なのです。

15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」兄弟姉妹の繁栄を見て喜ばないのは、羨(うらや)み、ねたみであります。また兄弟に不幸があるのを見て悲しまないのは不人情でです。私たちは、できる限り互いに他と一致し、一人の人に何が起ころうとも、他の人たちはそれを同じ思いで受け取り、艱難に遭っては彼とその深い悲しみを共にし、あるいは、繁栄に遭っては喜びを共にする。これが教会に与えられている目標です。

「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」ここは身分の低い人々と訳されていますが、人々と言うより、低いもの、慎ましさを意味します。高ぶった思いと対照的に心の謙りが強調されているのです。たとえば、誉れを人から奪って自分のものにするのではなく、誉れを人に譲ることこそ、イエスさまに従う者にふさわしいのではないでしょうか。17節。

「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」すべての人の前で善を行う目的は、人々が私たちの行いに感心し、私たちが称賛されることではありません。イエスさまは言われました。マタイ6章4節。「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」18節。

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と勧められています。できるならばと言われていますのは、この世がサタンを頭としている以上、この世と永久的な平和を維持することはできないからです。私たちは平和のために、できる限り多くを忍びますが、しかし必要に迫られる時には、厳しい戦いをする備えをしなければなりません。そして、19節。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。サタンに支配されている者と同じ土俵に立って仕返しをすること自体、サタンの支配下にさらされる非常に危険なことなのです。それを避けなさいと主は言われます。

更に、復讐どころか、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」と勧められています。「そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」と。悪に報いるに悪をもってしようとすることは、この悪に負けたことになります。それに対して、悪に善をもって報いるならば、これによってわたしたちは神に従う者の一貫性を証明することになります。これこそが悪に対する勝利ではないでしょうか。真に、悪によって悪に勝とうとする人は、その行いそのものによって悪魔に仕えているになってしまうからです。

イエスさまはおっしゃいました。マタイ7:12「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」11下。

今日の学びはカテキズム問46「第六戒は何ですか」でした。その答は「あなたは、殺してはならない」です。わたしたち人間の命は神さまのものです。その命はイエスさまが十字架にかかって贖ってくださったほどに値高いものです。だから、自分の命も含めて、誰の命も粗末にしたり、殺してはならないばかりか、それを愛することを神さまは求めておられるということです。

教会の主と共に生きるわたしたちは高い目標を与えられています。私たちは自分の好きな人と共にいたい。そして敵対する人はもちろん、自分の気に入らない人はなるべく遠ざけたい。自分にひどいことをする人には仕返しをしたい。この世の考えに従って生きて来ました。しかし、救われた者には高い目標が与えられています。それは教会の主イエスさまの与えられた目標です。

「私の羊を飼いなさい」と主は言われました。私も伝道者としてこの教会に招聘された時、この人々がわたしに任された羊と思って、万難を排して教会にとどまり、牧会を続けて参りました。当時の教会の人々の中には私を受け入れがたい様子が感じられました。しかし、私を知って私を憎んでいるからではないことを私は知っておりました。昔の牧師、前の牧師が懐かしいあまり、後任者を受け入れがたいのだと理解しました。しかし、その当時対立したことが嘘のように、今は教会に残っている方々と新しく加わった方々と助け合って主に仕えています。それは私たちの人間的な懐かしさとか、好き嫌いを超えて、私たちを一つにしてくださる主の聖霊の働きによるのです。

私たちは今、新しい教師を迎えるために準備を始めております。私たちはどんな備えを為すべきでしょうか。それは、祈りです。ふさわしい教師をお与えくださいと、祈りに祈ることです。真心から祈るなら、主は私たちの祈りに応えてくださるでしょう。そして準備して、迎えることができたならば、その先生が主の教会の働きのために遣わされたことを確信することが大切です。決して、後ろ向きになってはならない。必ず、前を向いて小さな群れを愛して命を捨ててくださった主に従って参りましょう。祈ります。

 

主なる父なる神さま

本日の聖餐礼拝を感謝します。主イエス・キリストの恵みによって立てられた救いが私たちにも与えられていることを確信し、ただ感謝を以て本日の聖餐に与らせてください。礼拝に参加できない方にも、主の日を覚えさせ、聖霊の助けによって私たち、心を一つにさせてください。また年々年を取って行くわたしたちが最期の日まで、安らかに健やかに主を仰ぎ見る生活を送るために、私たちの決意を新たにさせてください。

成宗教会は後任教師の招聘を求めております。どうかこのために備える祈りを篤くしてください。ふさわしい道が開かれますように。招聘委員会である長老会の働きを強め、また教会員一人一人が、自分の教会の大切な働きを覚え、主の御業がこれからもこの教会を通して行われるように祈る者となりますように。主よ、祈りをもって支え、主の与え給う教師を感謝を以て迎え、喜んで支えていく決意に至るまで、どうぞ私たちの日々をお導きください。どうかあなたに仕える教会の群れを今週も守り導き、あらゆる困難、労苦の中にあっても、災いから救い出して命を得させてください。本日行われる長老会の上にあなたの恵みのご支配を祈ります。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

十戒について

聖書:出エジプト20117節, ローマの信徒への手紙1014

 教会は福音を宣べ伝えるために、神さまが建ててくださっています。イエス・キリストは、神の言葉と言われます。教会は礼拝の説教において、神さまとはどなたであるか。そしてイエスさまがどなたであるかをお知らせします。それは、聞くわたしたちが神の言葉を信じて生きる者とされるためです。

教会は聖書によって神の言葉を宣べ伝えるのですが、聖書は御覧のとおり、大きな書物で、66巻の文書から成っています。クリスチャンになる前にこれを隅々まで読んで、頭に入ったという人は、多くはないと思います。それどころか、本当に少数と思います。もし、そうしなければ洗礼を受けることはできない、という掟になっていたとしたら、この2千年経った今、20数億ものクリスチャンは生まれなかったでしょう。宗教改革がヨーロッパで起こったのは16世紀ですが、その時代、字を読める人の数は少なくて、その上、聖書も個々人で持つなどということは考えられませんでした。

そこで信仰の教育はどのようになされたのでしょう。人々は使徒信条と、主の祈り、そして 十戒 によって信仰教育を受けました。この三つが三要文と呼ばれています。今、成宗教会では、全国連合長老会の発行している「新・明解カテキズム(信仰問答)」によって、教会の信仰を学んでいますが、それは、三要文を学ぶということです。

さて、わたしたちはちょうど去年の9月から礼拝で使徒信条について学んで参りました。先週、永遠の命を信ずということの意味を知ることができました。「永遠の命を信じます」とはどういうことか。その答をわたしたちは学びました。それは、「わたしたちの命は死で終わるのではなく、永遠にイエスさまと結ばれ、神様と共に生きるものだ」と信じることです。この信仰が、使徒信条の最後の告白になっています。最後にして、最も重要な生きる目標が示されている訳です。

わたしたちは今、少子高齢化社会を生きています。そしてこの社会の傾向、潮流は急に変るということは考えられず、あと何十年も続くと思われます。それはたくさんの高齢者が死を迎える一方、若い人々の数は少ないので、日本人だけを考えれば、人口の減少が続く社会です。人の一生を考えれば、高齢になって地上を去るということはごく当たり前なのですが、大勢の人が少数の人を見送るのではなく、大勢の人が世を去って、少数の人が残されるという社会現象は、決して当たり前ではなく、深刻だと受け止めています。しかし、深刻なのは、地上を去る人々ではなく、あとに残される人々ではないでしょうか。

教会は主イエスさまのご命令に従って、福音を宣べ伝えて来ました。神さまから与えられたこの務めを十分に誠実に果たしたならば、世を去ることは平安そのものです。教会は永遠の命を信じると告白しているのですから。わたしたちの人生は、真に至らない罪にまみれたものであっても、最後の最後まで主の憐れみを信じ、主の救いを信じて歩み通すことが大切です。こんな者でも愛してくださる神さまがおられることを信じて、イエスさまに結ばれて年を取ったなら、これほど恵まれた生涯はありません。地上を生きている今も、既にイエスさまと結ばれ、神さまの永遠の命を生き始めているのですから。

しかし、教会にいるわたしたちには、深刻に思うべきことがありましょう。そうでなければなりません。なぜなら、大勢の中高年が地上を去った後に、残される人々の数がたとえ少なくなっていくとしても(そうでなくなる時が来ることを、わたしたちはもちろん希望しなければなりませんが)、その残される人々にも福音が宣べ伝えられなければならないからです。教会が地上に立っているのは、人々が神さまを信頼して地上の生活を神に従って生きるためなのですから。

初めに結論を述べたようになったかもしれませんが、今日からわたしたちは十戒について学ぼうとしております。御言葉に聴きましょう。出エジプト記20章2節。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」神さまがモーセを通して人々に与えた十戒、10の戒めは、聖書の今日読んでいただいて出エジプト記20章と、申命記5章の二か所に記されています。来週から3節から17節までを順に学んで行きたいと思いますが、2節は十戒の前文に当たる部分で、大変重要な意味を持っています。

「わたしは主」であると宣言される神さまは、万物の主であります。すなわち天地万物を創造された主なる神である、と名乗りを上げておられます。そして、その神さまはあなたに向かって言われます。わたしはあなたの神であると。では、あなたと呼ばれた人々はどういう人々でしたでしょうか。それは出エジプトの民です。神さまはあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である、と宣言なさいました。

十戒という昔の映画を覚えている方もいらっしゃると思います。その頃教会もイエスさまも知らなかった私でも覚えている映画です。チャールトン・ヘストンのモーセに率いられた民は、葦の海の手前でエジプトの軍勢に追いつかれ、もう絶体絶命というその時、奇跡が起こりました。神さまは、紅海の水を真っ二つに分け、海の道を開いてくださいました。CGも何もない時代のあれだけの奇跡の場面をどうやって撮ったのか、ということが大変衝撃的で、長く人々の印象に残った映画だったと思います。

しかし、これは映画ではなく、聖書が語る言葉であります。わたしたちの命の危機、滅びの瞬間に、御手を伸ばして捕え、救ってくださる神さま。無から有を呼び出し、死を命に変えてくださる神さまが、同時にわたしたちの生きるこの歴史に働きかけて、イスラエルを救い出してくださる方であることが明らかになった瞬間です。この方こそ、真の神なのではないでしょうか。神さまに与えられた十戒は、神さまの救いに応えるために人々に与えられたものです。

救いとは、奴隷の家から解放されることであります。奴隷の状態とは、だれかに支配されている。何かに支配されているということです。人は誰にも支配されたくないと思っています。しかし実際には誰かに、また何かに支配されている。そして支配されていることにさえ気づいていないかもしれません。イスラエルの人々はその支配の苛酷さに苦しんで、叫び声を上げた。その声を神さまが聞いてくださったのでした。

奴隷の家から解放されるためには、自分の苦しみに気づかなければなりません。息苦しいけれども、死にそうだけれども気づかない人々は多いのです。自分は救われる必要があると、そして救われたいと願い求めることが必要です。自分を支配しているものが何かに気づかなければなりません。自分を支配している罪を知って、悔い改めたいと心から願うことが必要なのです。イスラエルの人々の救いの物語は、文字通り、救われるための格闘でありましたが、彼らが自分の力でしたことはほとんど何もありませんでした。彼らにはただただモーセに従って行くこと、神さまを信じることだけが求められました。そして神が自ら勝利してくださったので、彼らは自由にされたのでした。

もしわたしたちが、そのようにして解放されたなら、その神さまに何と言って応えたらよいでしょうか。どんな御礼ができるでしょうか。ただただ神さまのお与えくださる戒めを守って生きること。そのことによって応えるしかないのです。十戒はそのようにしてイスラエルの人々に与えられました。

ところで、このようにして救われたイスラエルの人々は、特別な人々だったでしょうか。いいえ、むしろ普通の人だったでしょう。むしろ、弱い、力のない人々だったけれども、主なる神さまは彼らを愛して、ご自分のものとしてくださいました。教会に来てイエスさまと結ばれる人々も同じです。神さまの秘密の選びによって招かれているので、だれも人間的な評価によって、神さまの選びを考えることはできません。ただ恵みによって選ばれたことを感謝して十戒をいただくのです。

ところが新約聖書ローマの信徒への手紙10章を見ますと、十戒(ここでは律法と言われています)を与えられた人々の中には、自分を誇る人々がいました。十戒を守れる人は偉い人、立派な人。守れない人は罪人と評価し、できる人は自分の正しさを主張しました。1~3節。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」

人が自分の正しさ(義)を主張するために、神さまは律法(十戒)を与えられたのでしょうか。全くそうではありません。自分が正しいという人も、実は神さまの前では罪人に過ぎないからです。十戒の目的は、人が自分の罪に気がつき、本当に正しい方は神さまだけだと悟ることにあるのです。4節。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」神さまの正しさは、イエスさまの中に表されました。すなわち、神の子イエスさまは御自分の正しさを誇るために世に来られたのではありません。その全く逆に、正しくありたいと願いながら正しくなれない人間の罪を御自分に引き受け、ご自分の本来持っておられた正しさをわたしたちに与えてくださるために、世に来られたのです。

ですから、ここに主張されているとおり、律法の目標はイエス・キリストであります。十戒をいただいたイスラエルは何とか守ろうとして熱心に務めました。そして中には守ることができたと得意になり、守れない人々を罪人として軽蔑する者もいました。また、十戒を与えられた自分たちの民族は特別優れているからだ、と異邦人を軽蔑する人々もいました。しかし、律法の目標は、律法を完全に守ることができない自分に気がつき、自分の罪を悔い改めて、神さまの恵みにより頼むことなのです。

新約聖書の時代を生きるわたしたちはイエスさまに出会い、この方に表された神さまの深い慈しみを信じる者とされました。教会はイエス・キリストの罪の赦しに結ばれた者として、改めて感謝の内に、父なる神さまより十戒をいただくのです。主に従う者とされたので、依然として罪人ではありますが、絶えざる感謝と悔い改めの思いをもって、新たに十戒の言葉をいただきたいと願います。

今日の学びはカテキズム問39です。「十戒とは何ですか。」答は「十戒は、神さまに救われたわたしたちが、御心に従って生きるために与えられた律法です。」祈りましょう。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。一週間の歩みをお守りいただき、再び礼拝の場に集められましたことを感謝いたします。先週まで約一年にわたって学んで参りました使徒信条の学びを終え、本日から、十戒について新たに学び始めました。どうか、この学びによってみ言葉の力が聖霊によって豊かに発揮され、それぞれの魂が救いの主に向かって成長できますように道を開いてください。

わたしたちの中には、高齢のゆえの困難や病気と日々向き合っている方々が多くいますが、どうかその一人一人のご生活において、主イエスさまと結ばれた豊かさ、救いの御業を現わしてください。特に病院や施設で暮らす方々をあなたの恵みで覆って日々の困難に勇気を以て立ち向かわせてください。また、若い世代、働く世代の方々の困難を顧みてください。皆さんが非常に忙しく、この社会の多くの悩みを抱えていると思います。どうか、あなたの救いを信じ、いつも祈り求める者となりますように。

先週は教会学校との合同礼拝を祝してくださり、ありがとうございました。また一日夏期学校をも豊かにお守りくださり感謝です。来週から始まる教会学校の二学期をお守りください。良い学びと交わりの時が与えられ、成人の礼拝と共に、信仰を告白する者が起こされますように。また来週は9月聖餐礼拝を守ります。どうか聖餐に向かって真の悔い改めで心を清め、整えてください。また、9月8日(土)に近づきました「子どもと楽しむ音楽会」に向けて祈ります。どうか、地域に開かれた教会の務めとして、この行事を祝福してください。

すべての日常の務めの中に、主の聖霊のお働きによって備えられる、来年度の新しい教師の人事が整えられますようお祈り申し上げます。

主イエス・キリストの御名によって、御前に祈ります。アーメン。

何を誇りとして生きているか

説教:大塚啓子牧師(目黒原町教会)

聖書:ローマの信徒への手紙5章1節-11節, エレミヤ書9章22節-23節

今日の御言葉は、私たちが何を誇りとして生きているかを問いかけています。ローマの信徒への手紙を書いたパウロはこう語ります。5:2-3「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」ここでパウロは、「神の栄光にあずかる希望」と「苦難」を誇りとしていると語ります。神の栄光にあずかる希望、それは終わりの日に、キリストが復活されたように復活し、永遠の命を与えられるとの希望です。そして苦難とは、キリストに従って生きる自分に襲いかかるさまざまな苦難です。例えば、パウロが今牢獄に捕らわれているということ。また体に与えられたトゲ。精神的には、使命をまだ果たし終えていないのにどうすることもできないことへの焦りや苛立ち。しかしその苦難をも誇りとすると語ります。そして、今日の御言葉の最後でも、「それだけではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています」と告げます。徹底して神を誇りとする。神のために受ける苦難も、神の栄光にあずかる希望があるから、誇りとする。何よりも、神を大事にして生きると告げています。

この言葉の背後には、かつてのパウロの姿があります。パウロはもともと、律法を厳格に守るファリサイ派に属していました。ですから、律法を厳格に守って生きる、その生き方が正しい生き方であり、律法を守る自分を誇りとしていました。しかし、イエス・キリストと出会うことで、パウロは変わりました。律法を本当には守ることのできない自分の姿を知らされ、罪の深さを知らされ、しかしその罪を命をもって赦してくださったイエス・キリストを知らされました。パウロ自身は、選ばれたイスラエル人、ベニヤミン族の出身、非の打ち所がないほど完璧に律法の遵守をしていた人です。それらはパウロにとって社会的に有利に働く要素でしたが、それをパウロは損失と見なすようになった。主イエス・キリストを知るあまりのすばらしさに、それ以外のことはすべて塵あくたと見なし、今は何とかして死者からの復活に達したいとフィリピの信徒への手紙で語っています。またコリントの信徒への手紙一では、月足らずで生まれたようなわたしにも復活した主は現れてくださり、救いに招き入れてくださった。教会の迫害者であり、何の値打ちのないわたしをも神は恵み、救ってくださったと感謝をもって語っています。この原体験があるから、「わたしは神を誇りとする」とパウロは繰り返し述べます。

そして、キリストによって救われたパウロは、徹底して「神の栄光にあずかる希望」によって生きます。苦難の中に置かれたパウロ。肉体的な苦しみだけでなく、精神的な苦しみも大きいものでした。異邦人に福音を宣べ伝える使命を与えられているのに、獄に捕らわれている現実。今までエルサレム教会と異邦人教会の和解のために苦労してきたけれども、一向に改善しない現実。しかしその「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ということを知っているから、パウロは歩みを止めませんでした。キリストのための苦しみは無駄になることはなく、それは栄光に与る希望につながっている。キリストの苦しみにあずかることで、キリストの復活の姿にもあやかることができる。そのような確信を与えられていたので、パウロは諦めずに自分の使命を果たそうとします。

私たちも、パウロと同じように、復活の主によって救われました。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」神は罪深い私たちを愛し、独り子イエス・キリストを十字架につけ、私たちの罪を贖われました。御自分の御子を犠牲にしてでも、私たちを救おうとされる神の愛が、十字架で、また今日の聖餐ではっきりと示されています。そしてこの深い愛は、絶えず聖霊によって、私たちの心に注がれています。礼拝を通して、御言葉と聖礼典を通して、神の愛がいつも心に注がれます。また日々の生活の中でも、聖霊と共に祈るとき、神との交わりが与えられ、神の愛が注がれます。イエス・キリストの救いは完全な救いです。もともと罪を犯し、神の敵であった時でさえ、神は御子の血によって私たちと和解されました。まして、和解された今は、キリストの血によって救われるのは尚更のことです。神は私たちに神の栄光にあずかる希望を与えられましたが、この希望は欺くことのない確かな希望です。どんなに拙い歩みであったとしても、神は私たちを神の栄光にあずからせくださいます。この希望が、私たちの生きる力となります。パウロが苦難の中でも自分の使命に生きたように、私たちも、教会も、苦難の中でも使命に生きることができます。キリストのための苦しみは、キリストの栄光につながります。教会がいろいろな課題や困難の中でも、伝道の業を果たしていく。毎週心からの礼拝をささげ、そして救われたことを喜び、感謝して生きる時、この地に神の栄光が表されます。また、神の愛の深さ、キリストによる救いのすばらしさ、キリストを誇りとして生きる私たちの姿が、キリストを指し示すものとなります。今、改めて自分が何を誇りとして生きているかを問いかけてみたいと思います。

預言者エレミヤもこう呼びかけます。9:22以下「主は言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」人間は、自分の知恵や力を誇ります。たいしたことのない知恵や力であっても、気づかない内に頼りにしている。そういう自分の姿があります。しかし、一番大切なのは、目覚めて主を知ることです。主なる神は、この天地を造られ、また私たち人間を造られました。この世界は神の御手の内にあり、歴史も神の支配の中を動いています。圧倒的な神という方がおられることを知ることが、生きる上で私たちに正しい姿勢を与えます。神を知ることで、人間の無力さやはかなさを知ることができます。それは、どんな人も欠けのある弱い器であり、完全な人なんていないということです。人の間に優劣の差はなく、すべての人が神の前には不完全で、でも神に深く愛されています。教会も同じで、大きい教会、小さい教会があり、力の差があるように思えますが、神の前には同じ罪人の集まりです。しかしキリストによって罪を赦され、聖なる者とされた聖なる公同の教会です。神はこの地に立てられた一つ一つの教会を愛し、いつも聖霊を送り、神を、イエス・キリストを知ることができるようにしてくださっています。ですから、私たちは諦めることなく、キリストの救いを宣べ伝え続けることができます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を」生みます。神のための苦しみは、決して無駄になることはなく、むしろ私たちにさらなる希望を与えてくださいます。神の栄光にあずかる希望は、確かなものです。神は私たちを用いて神の栄光をこの地域に現わされます。どんなに拙い歩みでも、キリストを信じて歩き続けるとき、それがキリストを証しする生き方となります。イエス・キリストを信じて生きる生き方は、本当に確かな生き方です。異常な気象が続き、世界が歪んでいる。情勢も不安定な現実の中でも、キリストにより頼み、キリストを誇りとして生きる生き方は、確かで安定した生き方となります。天地を、また私たちを造られ、支配されている主と共に生きる時、私たちはこの世界で一番確かなものと一緒に生きているからです。そして主は、いつも私たちに神の愛を示し、私たちを守り、天の神のもとへと導いてくださいます。この主が私たちと共におられますので、私たちは安心して生きることができます。私たちは何よりも、神を知ることを求めていきたいと思います。必要なものが満たされるようにと祈ることも必要ですが、「まず、神の国と義を求めなさい」と言われるように、神を知ることをまず求めたいと思います。そして神の恵みにより、キリストの救いにあずかったことを喜び、感謝しながら、これからもキリスト者として歩んでいきたいと思います。