あなたの父と母とを敬え

聖書:箴言232225節, マタイによる福音書1549

 今日の説教題をごらんください。「あなたの父と母とを敬え」です。これが 十戒 の戒めのうちの、第5番目の戒めであります。とてもシンプルで、だれもが納得する戒めです。しかし、この戒めはただ単に血縁関係にある父母を敬いなさい、とか、両親の言う通りにしなさいという道徳的な勧めではありません。古代イスラエルでは、両親は神への畏れや信仰を子どもたちに伝達する役割を果たしていましたから、いわば、神さまの代理のような存在であったのです。子どもたちは、神さまを礼拝する生活と信仰を父母から継承し、それをまた次の世代に伝えました。イエスさまも、神さまを天の父と呼ばれ、また弟子たちにも祈る時には「天にまします我らの父よ」と呼びかけなさいと教えられました。

神はすべてのものをお造りになり、また人間を御自分に似た者としてお造りになりました。そして私たちが生きるために沢山のものを与え、管理させ、神さまがそのすべてを支えておられるのです。真に神さま御自身が、わたしたちに天の父と呼ばれることを許してくださっています。それは真の神の子、救い主イエスさまが私たちに教えてくださったことです。このようにして、私たちは地上に父を持っている一方、神さまを天の父と呼ぶのです。

またわたしたちは地上に母を持っていますが、その他に、私たちには母と呼んでいるものがあります。それは何でしょうか。それは教会です。教会は母なる教会と呼ばれます。なぜでしょうか。それは、教会がイエスさまを信じて洗礼を受け、新しい命に生きる人を生み出すからです。クリスチャンは教会から生まれます。だから、私たちは天には父がおられ、教会を母として生まれた神の子なのです。

さて、そう考えると「あなたの父と母とを敬え」という戒めは、ただ単に親孝行しなさい、というようなこと。また両親の言うことを聞きなさいというようなことではないことが分かります。私たちが具体的に、この親の子供であるということは、不思議なことです。神さまからこういう親をいただいた、ということですから。わたしたちは誰も、親が子を選んだのでもありません。また、子が親を選んだのでもないのです。それはただ一重に、神さまがくださった親子の関係です。神さまが選んで私たちに父母を与えてくださり、その父母の力によって育てられたのですが、本当は神さまのご支配がここに働いてくださったからこそ、親子の関係ができるのです。

父母を敬うことは、神さまの導きを信じるからこそ、できることです。だからこそ、親から受けたものを子に伝えていくことができます。つまり、父母を敬うことは神さまを信頼し、神さまを敬うからこそ、できることなのではないでしょうか。神さまに信頼し、自分の道は神さまが備えてくださると信じる人は、神さまから離れないでしょうし、父母からも離れ去ることはないでしょう。しかし、わたしたちの多くは人生の主に若い時に、あるいは中年の時に、父母に反抗したり、父母を煙たく思ったりするところを経験しております。ルカ15章の有名な放蕩息子の話(139頁)のように。ただもう「父親から離れたところで、思う存分好きなように暮らしたい」という思いは、同時に神さまからも離れて生きる生活に陥らざるを得ないのです。だからこそ、放蕩息子は悔い改めて父に謝罪するとき、こう言わずにはいられませんでした。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と。

放蕩息子の例え話は、豊かな財産を持つ父親と若くて力のない息子の関係として描かれていますが、今日読んでいただいたマタイ福音書15章でイエスさまが指摘している親子の関係はそうではありません。4節からイエスさまのお言葉を読みます。「神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。」これらの言葉は、一つは出エジプト記20章12節の言葉であり、もう一つの『父または母をののしる者は』という戒めは、レビ記20章9節の言葉です。どちらも単純で率直な戒めです。親をののしる、または呪う者は死刑に処せられる。恐ろしく厳しい言葉ですが、その意味は誰でも理解できる、心に響くのではないでしょうか。

神さまが人々に律法を与えになった目的は、人々が真心から神さまを礼拝するというところにあります。そこにすべての幸いの源があるからです。十戒で見るとおり、神さまを礼拝する人生といいますか、生き方はそんなに複雑なものではありません。むしろ単純素朴であるといえるでしょう。第一戒から振り返ってみるならば、それは「あなたは、わたしのほかに、何ものも神としてはならない」です。とても明快ではないでしょうか。第二戒は偶像礼拝の禁止です。また第三戒は神さまのお名前を心から大切にすることを命じられています。ところが、第四戒の安息日の戒めについても、神さまがお命じになったことを形式的に守ろうとするうちに、次第に神さまを礼拝する真心を考えなくなってしまう。

そして安息日にしてはいけないことを増やす。ここまではしても良いが、ここからはしてはいけないことを増やすのです。事細かなルールを作り出してそれも十戒と同様に守ることを要求する人々がいました。それが律法学者とファリサイ派の人々でした。先週読んだマタイ福音書の例では弟子たちが安息日に麦畑を通った時、お腹が空いていたので、麦畑に入って麦を摘んで食べたことを、彼らは見とがめて、これは安息日にしてはいけない労働であると非難したのでした。それと同じように、今度は弟子たちの食事の前に手を洗わないといって咎めました。しかし、よく考えてみれば、だれにでも分かることがありました。食事の前に手を洗うことは衛生的に良いことですが、それは神さまを心から礼拝することとどれだけ関係があるのでしょうか

そこでイエスさまが持ち出したのが「父と母を敬え」の戒めであり、また『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』というみ言葉です。こんなに単純明快な戒めはないのではないでしょうか。イエスさまは続けて、ファリサイ派の人々、律法学者たちが決めたルール思い出させます。15章5-6節。「それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」

この言葉は十戒に代表されるような聖書に記された戒めではなく、長い間に出来上がった言い伝えであります。この言い伝えによれば、ある人が自分の持ち物の一部を神さまに供え物として捧げたとします。その人は、一部を捧げ、その残りを自分のものとして所有し続けることができます。その一方で、その持ち物は神に捧げられたのだから、その両親を扶養するために、持ち物から少しも差し出さないで、もっともらしく父母の扶養を断ることができるという話なのです。なぜ、このような言い伝えが出来たのでしょうか。それは、神殿に仕える人々(レビ人)の利益となったからです。こうすれば、人は自分の持ち物の一部を神さまに捧げたとして、実際はそれは神殿に仕える人々のものとなり、そして残りは丸々、その人の手元に残る訳ですから。

主イエスはこれを非難なさいました。また当時のラビ、教師と言われたたちの多くも、主イエスのようにこのような不正を非難したが、それでも、このような言い逃れは行われていたことが分かります。このような不正。神さまを口実に使った偽善は、神の言葉を無にすることそのものを表しています。「父と母とを敬え」と言われている父母とは、どのような父母でしょうか。今日読んでいただいた箴言の23章22節。「父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。」「父と母とを敬え」と命じられている本人は既に大人になった人でしょう。そうすると、神さまが命じられている対象は、若い両親ではありません。年老いて、力も衰え、自分で働くことのできない父母が思い描かれるのではないでしょうか。そして今の時代のように、社会保障制度がない時代であったのですが、そんな時代にも高齢の父母を見捨てるために、どうやって第五の戒めを回避できるかに心血を傾けているという浅ましい人間の罪が見えて来るのではないでしょうか。

マタイ15章8-9節『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」こうして神さまの戒めは、無にされ、無視されている、この偽善の罪をイエスさまは鋭く指摘されているのです。神さまの戒めの目的に、立ち帰りましょう。それは神さまを礼拝することを目指しています。礼拝のために安息日が与えられました。毎日が繰り返される同じ一日のようであっても、時間が絶え間なく流れていくようであっても、神さまは人に御自身の安息を与えて下さり、人の心を神さまに向けるシンボルの日を、時間の中に定めてくださいました。

それが第四の戒めであったのですが、神さまは第五の戒めにおいて人と人との交わりの中に神さまとの関係を造り出してくださいました。父母がいる。父母は神さまが自分に与えられた存在であると思う。その思いは神さまを信頼する信仰から生まれるのです。自分中心に思えば、なかなかそうは思えない。自分に都合の良い時は、父母に頼ったけれども、父母はいつも自分に都合よくしてはくれない、と思う自己中心が、いつも人にはあるのではないでしょうか。そのようなわたしたちに、第五の戒めが与えられています。出エ20章12節にはこう書いてあります。「あなたの父と母とを敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

父と母とを敬うことと主が与えられる土地に長く生きることができる、ということがどうつながりがあるのでしょうか。それはつながるのです。なぜなら、ずばり、ここに神さまの祝福があるからです。神さまがわたしにあの父と母とを与えてくださったと思う心。その心そのものが神さまの賜物です。そして、「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」という約束の言葉は第五の戒めだけでなく、その前のすべての言葉に繋がっているのです。第一戒「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」と続きます。第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

そんなふうに第三戒にも第四戒にも続いています。このように自分中心に生きることから、神さまの戒めを受け入れて、神中心に生きることで、どんなに大きな祝福が約束されているかを、わたしたちは思うべきであります。先週、わたしたちは敬愛する姉妹を天に送り、感謝に溢れて葬儀式を行いました。とても寂しい思いはありますが、地上の労苦から自由になられたことを思うと、遺されたご家族も慰められたことでしょう。

私たちは血縁のものではないのですが、同じ信仰を与えられ、主イエス・キリストの執り成しに結ばれている人を、皆兄弟姉妹と呼びます。わたしたちは信仰によって神さまの家族とされていることを喜び、誇りに思います。わたしたちは佐田姉を母のように敬い、いつまでも敬い続けるでしょう。それは、佐田姉が天の父の御許に召されたという、何よりの信仰の証しを立ててくださったからです。真に感謝です。

最後に今日の学びは十戒の第五戒でした。カテキズム問45 第五戒は何ですか。その答は、「あなたの父と母とをうやまえです。神さまがわたしたちの父母を与えてくださり、神さまのご支配の中で育ててくださったので、父母を尊び、うやまい、助けるようにすることです。」祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま。

尊き御名を褒め称えます。わたしたちはこの荒天の中、主の御招きによって教会に集められ、礼拝を捧げることができました。今日は第五の戒めを学びました。どうかわたしたちにこの戒めを喜んで受け入れる心をお与えください。私たちは敬愛する佐田節子姉を先週、地上から失いましたが、しっかりとあなたに信頼し、地上の教会の行く末のために、祈りをもって働いてくださったことを感謝します。どうかご家族の上にこれまでにも優る祝福を注いでください。わたしたちは佐田姉妹を母のように敬い、これからも感謝を以て、思い起こします。どうかわたしたちを、これからも変ることなく主と共に歩む教会とならせてください。

今週行われる会議の上に、成宗教会の今後の歩みの上にあなたの御心をすべて行ってください。また、イエス・キリストの執り成しによって私たちの罪を赦し、御心に従って今週も歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神の安息にあずかる

聖書:出エジプト記20811節, マタイによる福音書1218

 私たちは代々の教会、全世界の教会が受け継いで来た教会の信仰を学んでいます。それは、使徒信条と 十戒 と主の祈りの中に表されています。今、私たちは十戒の三つの戒めを学びました。第一と第二と第三の戒めに共通していることがあります。それはどれも心の問題、すなわち形に表すことのできない神さまと私たちの間の問題であるということです。第二戒の「あなたはいかなる像も造ってはならない」については、もし人が像を実際に造ったり、拝んだりすれば、確かに形に表れるでしょう。しかし、人があからさまに偶像を拝んでいるという形を取っていない場合でも、人の心に密かに神以外のものにひれ伏しているということはいくらでもあります。そしてそれは外側からは全く見えないのです。

それに対して、本日学ぼうとしている第四戒は、明らかに外側に表れる形を伴っている。第四戒は「安息日をおぼえて、聖としなさい」というものです。安息日は、神さまに捧げる日であります。それは形に表れます。安息日には労働をやめることが求められるからです。自分のためであろうと、家族のためであろうと、または雇われているご主人のためであろうと、一切人に関わる自分の働きをやめることが求められたのです。

それでは、なぜ神さまは安息日を制定されたのでしょうか。それには、三つのことが考えられます。その一つは、神さまが天地創造の業を六日で完成させ第七の日に業を終えて休まれたという聖書の言葉に根拠をもっています。そこで神さまは、第七日目の休みという象徴の下に、イスラエルの人々に霊的な安息を持つことを望み給うたのです。それは、神さまを信じる人々が、神さまが自分たちの中に働いてくださることを信じてお委ねし、自分たちの業をやめることです。自分の仕事、やるべきことは延々と続くと思って休まらない心も魂も、神さまに信頼して、「休みなさい」という命令に従う。イエスさまは教えられました(マルコ4章26-7節、68頁)。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」と。神の国に向かって信仰者を成長させてくださる神さまにお任せして、安息日を守ることが命じられているのです。

安息日の制定について、神さまが求められる第二のことは、その日に人々が集まって律法を学び、儀式を執行することです。少なくとも神さまからいただいた恵みの御業について考えるために、特に捧げる日が定められることです。そして神さまは、人々がこの日を覚えて信仰生活を訓練することを望んでおられるからです。そして安息日の第三の意義は非常に具体的なことです。すなわち、自分の家のために労働する人ばかりでなく、あらゆる人々の支配下にある労働者に休みの日を与えること。たとえば、主人が働き続ければ、その家の者たちも休むことはできません。家畜に至るまで、安息日を守らせることによってすべての者に労働の免除を得させようとし給うたのです。そしてこの律法は、イスラエルの共同体の中に生きる外国人にも全く同じに適用されるように命じられました。

「安息日を守り、聖としなさい」について、以上の三つの意義をお話ししました。これが第四の戒めでありますが、ここで注目すべきは、神さまはこの戒めを他の戒め以上に重要なものとされたことです。それは、聖書の多くの個所で安息日の戒めについて特別に語られていることがあるからです。出エジプト記31章13-14節。「あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、私があなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。」146下。

非常に厳しい掟であることが分かりますが、それは安息日が単に仕事を休み、体を休める。何もしないための日ではないからです。安息日は霊的な休みの日です。それは自分の心身を使っての働きを止めるだけではなく、神さまの御業、そのお働きを瞑想する一日として定められた日なのです。ですからイザヤ書58章13-14節にこう書かれています。「安息日に歩き回ることをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。」1157下。

イスラエルの指導者たちはこれを厳しく守り、人々に守らせました。けれども、「安息日は霊的な休みの日」と教えられても、人間には外側に見えることだけしか見えないし、分からないものです。その結果、戒めを与えられた神さまのお心を思うことに、心を傾けることは次第になおざりにされ、その一方で形式だけが厳しく問われるようになっていったようです。

今日の新約聖書は、マタイ12章1節以下を読んでいただきましたが、ここに登場するファリサイ派の人々は、イエスさまの弟子たちの行為を見とがめました。彼らは、人の外側に見えるものによって、その人の信仰を図ろうとする代表的な人々でした。一方、人の内側にあるものは見えないので、ひたすら外面的な正しさだけを追及するのです。彼らは律法学者と共に第四戒から考えて、安息日にしてはいけないことの規定を具体的に増やして行きました。それは何百年もの間になされて行った律法の体系でした。それを厳格に当てはめて人を裁くのです。12章の記事でも、彼らは、イエスさまの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べるという行為を労働と位置付けました。

マタイ12章2節。「ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをしている』と言った。」このとがめは、実はイエスさまに対する妬みから出たもので、彼らは弟子たちに言いがかりをつけ、何とかしてイエスさまを陥れたかったのです。それに対してイエスさまは、名高いダビデ王の例を挙げることで弟子たちを弁護されました。3節以下。「そこで、イエスは言われた。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者も食べてはならない供えのパンを食べたではないか。』」

それはダビデ王がまだ若く、サウル王の家来であった時のことです。勇敢な武将であった彼は大変な手柄を立て、国民の人気はサウル王を遥かにしのぐ者となりました。しかしそのためにサウル王に妬まれ、命をねらわれる者となったのです。イエスさまが語られた話はダビデ王が逃げる途中の出来事です。神殿には普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えました。それは一般人が食べてはいけないことになっていたのですが、神さまはダビデの必要を認め、罪を問われなかったのです。もしダビデが空腹でパンを必要としていたことで、罪が赦されるならば、同じ理由が他の人々にも適用されなければならない訳です。この違反は、律法には違反していても、神さまに対する敬意について違反しているのでは全くないのです。

更にイエスさまは言われました。5節以下です。「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」ファリサイ派の人々は、ひたすら人の外側に見えるものでその人の信仰深さを図ろうとしました。彼らは第4の戒めを守ることに集中しているようですが、しかし、安息日を与えられた神の御心を思わないのです。このような人々の偽善の罪は真に重いと言わなければなりません。

これに対して、聖書と教会は証ししています。イエス・キリストこそ神の御心であると。イエスさまこそ安息そのものであると証しするのです。ユダヤ人は金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日として守っていました。しかしキリスト教では、主イエス・キリストの復活の日、つまり日曜日を安息日としています。なぜなら、日曜日は神の独り子イエスさまが、十字架にかかり死んで甦ってくださった日だからです。それで教会は日曜日の朝に礼拝を守っています。それは、イエスさまの復活を記念し、日曜日にすべての仕事と業を一度中断して、復活の主イエスさまに心を向けるためです。

イエスさまは言われました。「人の子は安息日の主なのである」と。このことは、イエス・キリストは彼に従う人たちを助けて、安息日を守る必要から免れさせる力をもっておられるということを意味しています。言い換えれば、真の神の子であり、人の子であられるイエスさまは、御自身の権威によって、安息日を解き放つことができると述べておられることになります。

実際考えてみれば分かることですが、もしキリストが来てくださらなければ、ただただ律法に従うことは大変な苦痛と悲惨を伴わずには済まされないでしょう。ただ主イエス・キリストのみが、神の自由の霊をもっておられます。そして、神さまは独り子であられるイエスさまを通して私たちに御自分の「子たる身分」を授ける霊を与えてくださいます。ローマの信徒への手紙8章15節にこのように書かれています。「あなたがたは、人を奴隷にして再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」284下。こうして私たちはイエスさまの執り成しによって自由の霊を与えられ、目に見える形だけの律法から自由になり、神の御心を仰ぎ見る信仰によって第四の戒めを学んでいるのです。

確かに忙しい現代では、たくさんの仕事を中断して礼拝に集まることは容易ではないのです。しかし、神さまが創造の業を完成させ、その働きを中断して安息を取られたことを思い、わたしたちもこの日を礼拝の時としてすべてを捧げるように命じられていることを銘記しましょう。

もし、律法を厳守しなければ救いはないと考えるならば、わたしたちが救われることは大変に厳しいものがあります。しかしそれに対して、神の独り子イエスさまこそ、天地創造の業を終えて安息された神に等しい方ゆえに、そのイエスさまのおられるところに、既に真の安息があると信じる。これが教会の信仰です。安息日。その日は復活の主がわたしたちと共にいてくださる喜びと安らぎがあります。その日には集い、主の言葉を聖書から聴き、感謝と讃美の礼拝を捧げます。キリストが主となられたことの恵みを味わう時。この日が教会の安息日です。天地創造の時、神さまはすべてを造られ、すべてを良しとされました。その時に造られた最初の人間の姿が、聖霊の働きによって回復される日。それが安息日なのです。

私は明日の東日本連合長老会の教会全体修養会で講師の務めをいただいております。この17年間の成宗教会での牧会についてお話するつもりです。多くの方々に是非聞いていただきたいと思うのは、自分の失敗の話やあるいは成功の話をするからではありません。むしろ、この教会の貧しさ、過去の教師の苦難にも拘わらず、教会の過去の方々が皆、一人の御方を指し示すことになったことを語ろうと思います。聖餐を如何に主が授けてご栄光を現わしてくださったか。最も弱くなった人々に主の恵みがいかに現れたかを語ろうと思います。神の恵みは常に下を支えます。本当は上をも支えているのですが、ほとんど目立ちません。それは多くの人々が自分を誇り、自分を高める一方、自分を感謝と讃美する一人の礼拝者として集まることができないからです。

しかし今、ホスピスにおられる姉妹はちがっていました。若い時に多くの働き、多くの活躍をされ、年取ってから教会の中に入られ、それからも教会の外で沢山活躍されました。しかし次第に、礼拝を一生懸命守ることに専心されるようになりました。それは命がけであったと思います。このことを忘れないで主に感謝します。神さまの前に出ること、讃美と感謝に加わること、御言葉をいただくことを生きる務めとし喜びとされた方々を私は忘れません。彼らは神さまのものとされているからこそ、できるからです。主の霊は励ます霊。私たちはこうして励まされて、主の御前に立ち、そしてついには主と共に後の世代を励ます者となりましょう。

最後に、第四戒をもう一度心に刻みましょう。カテキズム問44 第四戒は何ですか。その答は「安息日をおぼえて、これを聖とせよ」です。わたしたちは神さまのものなので、礼拝するための特別な日を大切にしなければならないということです。祈ります。

 

愛と憐れみに富み給う主イエス・キリストの父よ、

尊き御名を讃美します。あなたの戒めを守り得ず、御心に従うことのできない私たちを憐れみ、その罪をイエス・キリストの贖いによって清めてくださいました。こんなにも私たちを愛し、罪人が罪の中にとどまり、闇の中にさまよい滅びに至ることを捨て置くに忍びなかったあなたの御心を思います。どうか背きの罪を赦し、この心を新たに造り変えて主の霊に従う者とならせてください。

成宗教会は高齢化が進んでいる一方、皆力を合わせて、福音の光が輝くように祈り働いております。あなたのお支えを感謝いたします。どうか、10月のバザーの行事を御心に適って御進めください。またあなたは教会学校の働きを祝してくださっていることを感謝します。成宗教会は新しい世代に、福音の恵みが受け継がれるよう祈りながら、次年度新しい主任担任教師が与えられることを待ち望んでいます。どうか連合長老会の中で成宗教会にふさわしい道が開かれますようにお導きください。そして、その備えのために長老会を励まし、また信徒一人一人が祈りをもって備えることができますように。

今、困難の中にある方々、特にお病気の方々を助け導いて、その悩みを聞き上げてください。教会のご家族の中に新しい命が誕生したという、この何よりもうれしい恵みを感謝します。どうかご家族を主イエス・キリストの祝福で満たしてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

あなたの神、主の名を畏れる

聖書:出エジプト記207節, マタイ721-23

 わたしたちは教会に受け継がれて来た信仰を学び、広く世界に伝えたいと願います。わたしたちはそれをカテキズム、信仰問答によって学んでいます。神さまが御自分に従う人々に与えてくださった 十の戒め があります。本日はその第三戒を学びます。その戒めとは、今日読んでいただいた出エジプト記20章の7節の言葉です。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と書かれています。

わたしたちはだれでも、自分の名前が大切ということは感じていますから、もし名前を変なふうに呼ばれたりすると、とても不愉快になります。名前はその人の人格そのものを表しているからです。「あなたの神、主の名」とは神さまのお名前です。それは神さま御自身を表すものです。名前を知られるということは相手に傷つけられるという恐れもありますから、古代の神々と呼ばれるものの中には、名前を隠しているものもあったそうです。しかし、聖書に御自身を表された神さまは御自分の名を明らかにされる方です。なぜでしょうか。神さまがわたしたちに名をお知らせになるのは、わたしたちを神さまとの交わりに招いておられるからなのです。

最初に神さまのお名前を知る。それは神さまとの交わりのために無くてはならないことであります。交わりを持ちたいと思ってくださる神さま。そのために神さまは、わたしたちの知識をはるかに超えた方、この目で見ることも、この耳で聞くことも到底望むことができない方ですが、わたしたちに御自分の名を明かしてくださいました。それはわたしたち人間に対する深い慈しみから出ているというより、他に理由があるでしょうか。それは、人間を救いに入れようという神さまの決断以外の何ものでもありません。

ところが神さまは「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とお命じになっておられます。一方では親しく交わりに招いてくださる神さまは、他方では「主の名をみだりに唱えてはならない」と言われるのです。みだりにとはどういう意味なのでしょうか。「みだり」とは、「筋道が立たない様、秩序のない様」を表します。またそこから「無作法な様子」や「浅はかな様子」を意味するのです。そうなると問題になっているのは、神さまのお名前を唱える回数が多いとか少ないとかではなく、神さまのお名前を唱えるわたしたちの礼儀正しさなのだということになります。

そうしますと、どうでしょうか。普段は神さまのことを忘れてしまっている人々。あるいは無視している人々。さらには、そもそも神さまの存在を否定している人々。この場合は堂々と無神論者と名乗る訳ですが、そういう程度の差はあるけれども、こういう人々は物事が自分にとってうまくいっている時には神さまの名を唱えることはないでしょう。ところが思いがけない窮地に立たされる時、正に困ったときの神頼みのようなことが起こるとしたらどうでしょうか。普段は感謝することも賛美することもしない神さまに、困ったときだけそのお名前を唱えて助けを求める。このことはみだりに唱えることにはならないでしょうか。真に神さまから御覧になれば、失礼千万なことではないでしょうか。

この世界にあるもの、すべてに人間は名を付けました。形ある物にも、人にも、そして出来事にも名を付けました。だから好きなだけその名を呼ぶことができるでしょう。しかし、神さまのお名前は人間の付けたものではありません。神さまのお名前は神さまだけのものですから、わたしたちが自由にできるものではありません。それは神さま御自身が明らかにしてくださり、わたしたちに教えてくださった名前だからです。

イザヤ42章8節にこう書かれています。1128頁下「わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることはしない」と。ですから、わたしたちは自分の誓いを人々に信用せるために、「神さまに誓って」などと、みだりに主の名を唱えることはできないのです。それは、自分の願望、欲望のために神さまを利用するいう恐ろしい行為であり、結局は偶像礼拝に繋がってしまうからです。

さて、ここでわたしたちは十戒の言葉が与えられた人々について、改めて考えたいと思います。それは、イスラエルの人々。神さまの約束によって旅をし、多くの苦難を味わいながらも、信仰を全うしたアブラハム、イサク、ヤコブの子孫でありました。この人々は自分たちを自分で救い出すことのできない窮地に陥っていたのですが、そこから救い出してくださった神さまを、真の神さまと知りました。そこで神さまは、彼らにご自分の名を明らかにしてくださったのでした。

先週の礼拝では、第二戒を学びました。そこで、わたしたちは神さまの名を教えられました。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」と。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と。真に恐ろしいことではありますが、父祖の罪が子にも受け継がれるのを、わたしたちは認めざるを得ません。悔い改めのない親の罪のために、苦しむ子がどんなに多いかをわたしたちは知っているからです。しかし、父祖の罪を負う子孫にも、真の神からの呼びかけを聴く機会が必ず与えられますように、と教会は祈るのです。そして救いがどこから来るかを誰もが悟るように、と祈るのです。真の神さまに出会い、この方を愛し、この方にだけ従い、その戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみが与えられる。このことを神さまは約束しておられます。だから、この約束だけに頼って全身全霊を挙げて主に従って来なさい、と主は命じておられます。

神さまに救われた人々は貧弱な小さな群れで、窮地に陥った民でありました。しかし神さまは不思議に彼らを選び、彼らを御自分の民と呼んでくださいました。十戒は神の民となった人々に与えられた戒めです。ですから、神さまを知らない人々ではありません。十戒は、神さまを知って礼拝する人々に与えられた戒めです。礼拝の民、神の教会の人々に神さまは第三戒を命じておられるのです。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と。

ですから、神さまを知っている人々。神さまに知られていることを知っている人々は、神さまを畏れずにはいられません。畏れ敬わずにはいられないはずです。そしてこれこそが、何がなくても礼拝に無くてはならないことなのです。讃美歌を歌う時にはうまいとか下手だとかいうことよりもはるかに大切なことがあります。それは真心から歌うということです。わたしたちはメロディの美しさに心惹かれますが、讃美歌は献げ物であります。主をほめたたえることは、唇の実と言われます。それに更に楽器を用いて捧げた歌は詩編に代表されるように、主をほめたたえる歌なのです。嘆きの歌でもそれは感謝の歌に変えていただける。本当にわたしたちに求められていることは真心から主の御名前を呼ぶことに他なりません。

美しい歌も楽器もそれを用いて真心を捧げて主の名を呼ぶならば、神さまは喜んで献げ物を受け入れて下さいます。ところが、歌でも楽器でもそれを用いて神さまを賛美しているように表向きは見えても、自分の名声のために、欲望を満足させるために、そうするならば、それは主の名をみだりに唱えることになるのではないでしょうか。礼拝で捧げられる音楽を一つの例として挙げましたが、これは何も音楽に限られることでは決してありません。

新約聖書はマタイ福音書の7章21節以下を取り上げました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」主イエスさまの厳しいお言葉は一体何を意味するのでしょうか。「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。」22節で「かの日」とイエスさまが仰ったのは、終わりの日であります。キリストが再び世に来られる終わりの日に行われる審判によって、すべてのことが明らかになります。いかにも立派にふるまい、大勢の人から尊敬を集め、自分でも「救いの栄誉は自分に与えられて当然」と思っていた人々が、呆然としている場面を想像してください。彼らは必死になってイエスさまに訴えているのです。

彼らは、人の目には確かに立派に見えたかもしれません。恭しくキリストを宣べ伝え、美しい言葉によって人々の心を魅了し、「キリストに従いたい」という人々よりは、「この先生、この牧師について行こう」という人々を教会に集めたかもしれません。しかし、立派な教師、立派な長老と思われる人々が時にはとんでもない偽善、欺瞞によって人々を困惑させ、躓かせ、教会から離れさせる元になるとしたら、主はそれを裁かないはずがあるでしょうか。23節。「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

自己実現のために、何でも利用する人は、神さまをも、主イエスさまをも利用します。ローマの信徒への手紙1章16節「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」パウロがこう言った初代教会の時代は、十字架刑に死んだ人を神の子、キリストと宣べ伝えることは、全くあり得ないような至難の業でした。しかしどんな困難も福音を留めることはなかったのです。ところが、福音の教えが世界各地で実を結び始めるや否や、偽って、また偽善的に福音の教えに従う人々が現れたのです。多くの一般の人々ばかりでなく、牧師の地位にある人々の間でさえ、裏切りが起こりました。彼らは口で教え、また告白していることを、行いと生活によって否定しているのです。

これは決して人に対する裏切りではありません。これは、「主の名をみだりに唱えてはならない」という主なる神さまの戒めに対する裏切りなのです。「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」もし神さまがこの戒めを破る者を即刻裁かれたら、偽善的行為と気づかなかった私たちには、とても分かりやすいと思います。しかし、一方で深刻なことがあります。それは、一体だれがこの戒めを完全に守って裁かれない者になれるのでしょうか。瞬々刻々、一生涯にわたって、一度も真心を込めて神さまの名を呼ばなかったことはない、と言える人はいるのでしょうか。

真に、正しい人はいない、誰もいないということを一番よく知っておられるのは神さま御自身です。主は御自分を否む者には父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うと言われますが、ご自分を愛する者には幾千代にも及ぶ慈しみを与えると宣言されています。一体神さまは罪ある人間に対して、この裁きをどのように行われ、救いを実現してくださるのでしょうか。それは私たちの想像をはるかに超えることで、予想も予知もできないことです。

ただ、わたしたちに与えられた信仰があります。それは、イエスさまが世に来てくださったのも、神さまの救いのご計画によるものであったということです。神さまのこのような慈しみのご決意にも拘わらず、人は皆、罪を犯してこの恵みを受けることができなくなっていたからです。神さまはキリスト・イエスさまをお立てになり、その十字架の犠牲の血によって、信じる者のために罪を償う供え物となさいました。この福音を信じて教会が建てられてから二千年。全世界で主の教会を信じる者が起こされ、キリストに結ばれ、従う者となるために、教会に入れられています。イエスさまの執り成しによって神の国に入れられたい人は誰でも、地上の生活において真摯に誠実に新しい人生の鍛錬に励まなければなりません。

本日は十戒の第三戒を学びました。カテキズム問43 第三戒は何ですか。その答は、 「あなたの神、主の名を、みだりにとなえてはならない」です。それは、わたしたちが神さまを愛し、大切にし、畏れをもって呼び求めるべきということです。」祈ります。

 

恵み深き教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を賛美いたします。九月の第三の主の日の礼拝、わたしたちを御前に集め、共に助け合って、讃美と感謝と祈りを捧げさせてくださいました。わたしたちは多くの物事を望み、自分に不足しているものが多いことを嘆き、あなたが必要を豊かに満たしておられることを忘れてしまうような罪深い者であることを思います。真にあなたが求めておられるものは、あなたに対する真心からの賛美であり、感謝であり、祈りであることを学びました。これはあなたを真心から信頼し、愛し、従って行く者に与えられるものであります。どうかわたしたちが不信仰を悔い改め、あなたによってすべてが満たされることを信じ、告白し、感謝し、喜んで生きる者となりますように、わたしたちの罪を赦してください。わたしたちを新たに造り変えてこれから始まる一週間を主に従う者としてください。

成宗教会に与えられたこれまでの恵みを感謝いたします。この教会がただ恵みによる救いを宣べ伝える教会として、どうかこの地にこれからも建つために、どうぞあなたの聖霊の溢れる知恵と力をお与えください。長老会を励まし、信徒の方々を励ましてください。御心に適って新しい主任担任教師を迎えることができますように、道を開いてください。

今年の秋も「子どもと楽しむ音楽会」を開くことができ感謝です。また10月には教会バザーを計画しております。人手不足を心配する私たちの弱さをどうか憐れみ、慈しんでください。あなたがすべての必要を満たして、御心を行ってくださることを信じます。教会学校の働きを祝していただき感謝します。どうか知恵と力をお与えください。

今ご入院中の姉妹の苦しみ痛みを取り去り、あなたの恵みで取り囲んでください。またご家族をお支えください。他にもお病気の方がおられます。ご高齢のお一人暮らしの方、お仕事やいろいろな事情で礼拝から離れている方々の心と体と魂をお守りください。

この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主は熱情の神である

聖書:出エジプト記204-6節, ヨハネの手紙一51821

 成宗教会は、礼拝の中で教会の信仰について学びを進めています。それは古くからカテキズム信仰問答によって行われて来た学びです。それは使徒信条と 十戒 と主の祈りを学ぶことによってなされて来ました。本日は十戒の第二の戒めについて学びます。十戒はモーセが神さまから受け取って、神さまの民、イスラエルに教えたもので、出エジプト記20章に書かれています。

本日はカテキズム42。十戒のうちの第二の戒めです。それは出エジプト記20章4節に「あなたはいかなる像も造ってはならない」と命じられているとおりです。更に強調されています。「上は天に在り、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」と。本当に不思議に思うのですが、世界中どこでも、いろいろな像が造られ、神々として拝まれています。昔から、像には神々の霊が宿ると考えられていたようです。人間は神の姿を心に思い描き、自分の知恵と力でこんな姿、あんな姿と造りたかったのでしょう。しかし、下手な人が造った偶像では誰も関心しない。有り難くも思わないのに、上手な人が造ると芸術作品と同じで大変人目を引きます。素晴らしい作品であると思う。それだけなら、良いのでしょうが、そこに神の霊が宿っているということになると、造った人が褒められるばかりでなく、偶像そのものが神のように礼拝されるのです。

これほどおかしなことはないと思うのですが、おかしいと思わない人々も多いのです。聖書は、神は天地を創造され、万物を御支配されていると教えます。神が万物を創造された。人間も神の作品です。それなのに、その人間が神を造り出している。こんな真逆なことをしておかしいとは思わない。それはなぜでしょうか。神の像を造ることには目的がありました。像を造ってそこに神さまの霊を閉じ込めたいのです。どこそこの神殿に行けばいつでも神がそこにいるという訳です。神をその像に閉じ込めて、人間の思いどおりに操りたいからなのです。

人々の願いは、豊かな実りを求めることであったでしょう。作物が沢山取れますように。家畜が沢山増えますように。家族が与えられ、子宝に恵まれ、家が栄えますようにという願いは誰しも持っているのです。イスラエルの人々の周りにはそういう人々の願いに応えてくれそうな神々が沢山礼拝されていました。人々の願いに奉仕してくれる偶像を彼らは求めていたのです。神という名で呼ばれながら、実は人間の要求に応えるために造り出された偶像は、人間の作品そのものです。

偶像は人間の作品。それに対して聖書はこう語ります。わたしたちは神の作品であると。わたしたちをお造りになった神さまは、人間の手の業の中に閉じ込められるような方では決してありません。人間の支配を受けるような方では決してないのです。昔、アブラハムという人も偶像を拝む人々の世界に住んでいました。ところが主なる神さまはアブラハムに呼びかけられました。創世記12章です。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民西、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたに依って祝福に入る。」

アブラハムは住み慣れた偶像だらけの土地を離れて、神さまに従うように命じられました。祝福の約束はいただきましたが、祝福の内容は分かりませんでした。具体的にどこに行くのかも分かりませんでした。しかし、アブラハムは約束してくださる神さまを信じて従って行ったのでした。400年もの年月が流れて、アブラハムの子孫、イスラエルはエジプトにいました。不思議な神さまの導きによってひどく困ったときもありましたし、大変繁栄したときもありました。しかし、この時はイスラエルの人々はエジプトの奴隷でした。ひどく虐待され、彼らの叫び声が神さまに届いた時、神さまはモーセを指導者としてお立てになり、奇跡的に人々を救ってくださったのです。

この時以来、イスラエルの人々は真の神さまはどのような方かを知らされたのです。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天に在り、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」と偶像を禁止される神さまは、更に御自分を次のように紹介されたのです。「あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」これこそ、真の神さまの自己紹介であります。

真の神さまのご性質(姿は見えないのですが、そのお姿と言っても良いと思います)、そのお姿は、偶像とは全く違う、かけ離れたものでしょうか。「熱情の神」と言われる方。口語訳聖書は、これを「嫉む神」と訳しています。嫉むほどに御自分の民を愛する神さまであるということです。しかし、神さまの愛を人間の愛情と比べるのは限界がありますし、畏れ多いことであります。激しく愛するけれども、熱が冷めたら、あとは捨てて顧みないという愛ではありません。むしろ激しく愛するあまり、その愛に応えない人間に激しい怒りを表す愛と言う方が真実に近いと思います。それは神の愛に応えない人間の行動の結果を見れば分かります。神に背く行為、背信行為は、神の忌み嫌う不正であり、欺瞞であり、偽善という実を結ぶからです。

真の神さまは天地万物をお造りになり、わたしたちに必要なものを豊かに満たしてくださることがお出来になります。それにも拘わらず、人々が偶像を拝むことは、神から豊かにいただいたものを、偶像に御礼を述べていることになります。まるで偶像が豊かにくださったと信じているかのように。神さまをほめたたえずに、自分の手で造った偶像をほめたたえるという不正、欺瞞が平然と行われているのです。偶像礼拝について、アウグスティヌスもこう指摘します。「像が聞き上げてくれると思うか、ないしは願いを適えてくれると期待するかでなければ、だれもこのように像を見つめて祈ったり拝んだりはしない。」

神さまが人間をこんなにも愛し、すべての善いもので満たしておられるのに、人間は神さまを無視して、神さまでないものにひれ伏しているとしたら、どうでしょうか。神さまにならば恥ずかしくてお願いできないような身勝手なお願いを、偶像にしているとしたら。「私だけ豊かになりますように。わたしのほしいもの、ものだけでなく人も手に入りますように」と偶像にひれ伏しているとしたら。その結果はひどいものです。自己中心と自己中心がぶつかり合って争いは絶えない。弱い者、良心的な者は踏みにじられて捨てられて行く。神さまの熱烈な愛は怒りに変らないでしょうか。

それでも人間は自分の偶像を諦めません。そして神さまにはそんなに熱烈に愛されない方が良い。わたしのことは放っておいてほしい。わたしはどこで何をしようと気にしないでくださいと言う。真の神さまから熱愛されたくない人間の気持ちは、だれもが何となく理解できるのではないでしょうか。先週の北海道の震災。美しい山々がまるで巨大な熊の爪でえぐられたように地肌がむき出しになって、裾野の人々の家が土砂の下敷きになって、信じられない光景でした。広島の7月の豪雨災害、大阪の災害と次々と起こって、わたしたちは頭が真っ白になるより他はありません。

しかし、このような大惨事の時も慰められることが一つあります。それは無残ながれきや土砂の山に遠くから小さな豆粒のように見える救助隊の人々の姿。あんなに恐ろしいところにも暑さにも、いつまた襲って来るかもしれない激しい地震の危険にも、あきらめない。止めないで救助しようとする人々の姿を見ます。何日も経って、何十日も経っても、もう生きては見つからないだろうと思っても、止めないで捜している。その人々の姿に、私たちは救いを見ないでしょうか。慰めを受けないでしょうか。

人の命の大切さを思うのが当然だとする社会が、まだここにある。もう生きていないとしても、遺体になっても、見つけ出そうとするのは、人が人として生きるために、大切な根本的なことを、わたしたちが共有しているからではないでしょうか。それこそは神さまが熱情の神である、と宣言されている人間に対する愛に他なりません。何ものにも代えられないから放っておけない。とことん捜し求めて、失われた人を見い出そうとする。それは、わたしたちが神さまの尊さをいただいている人間だからではないでしょうか。

失われた人間を見出そうとする神さまの情熱は、独り子イエスさまを世に遣わしてくださいました。本日はヨハネの手紙一5章を読みました。ヨハネはこう言います。「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。」本当に神から生まれた者は、御子イエス・キリストお一人だけです。しかし、わたしたちはイエスさまを信じて、イエスさまの死に与りました。すなわち、わたしたちの罪のために十字架で死んでくださったイエスさまと共に、わたしたちも罪に死んで、イエスさまの命に結ばれ、新しく神の子とされたのです。このことを、ヨハネの手紙は「神から生まれた者」と呼んでいるのです。

しかし、「神から生まれた者は、罪を犯さない」と言われると、どうもそうは思われないのではないでしょうか。わたしたちは生きている限り、相変わらず間違いも多く、人を傷つけたり、傷ついたり、本当に日々悔い改めを必要とする者です。しかし、ヨハネが言っている「すべて神から生まれた者は罪を犯しません」ということはそういうことではありません。ヨハネが言いたいのは、神さまの恩恵を失わない人は決して罪を犯さないということなのです。自分の力で罪を犯さないということは、だれも決してできないので、わたしたちは神さまを畏れてその恵みの中に身を委ねます。そうすると神さまをいつも畏れている者は、悪魔的なものに身を任せるほどに惑わされることがないように自分を制するようにさせられます。神さまの恵みによって罪を犯さないのです。

悪い者は手を触れることができないというのは、致命的な傷を意味しています。神の子は信仰の盾によってサタンのあらゆる襲撃を退け、心臓に達する傷を受けることはないので、神の子においてはその霊的生命は消え失せることがないのです。たとえ信仰者が肉の弱さそのものによって罪を犯したとしても、その人は罪の重荷の下で呻き、自分に嫌悪を抱いても、自分を追い求めて救ってくださる神を畏れることを止めることはありません。

19節「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」世という表現は全世界を意味しているのではありません。ただ人間がサタンの支配下に陥りやすいということなのです。このような世に在って、神さまに従って生きる者とされるために招かれて神の子とされることは、本当に光栄なことであります。この栄誉は、ただただ神さまの恵みを信じる信仰の生活によって証しされることができるだけです。

20節。「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」わたしたちはイエスさまによって真の神、真実な方を知ることができました。イエスさまに結ばれて、神の子として神の内に生きる者とされました。わたしたちが罪を犯さないのは、イエスさまがわたしたちのために今も後も祈っておられる執り成しの恵みによるものです。この恵みにしっかりと頼る者は偶像を避けることができ、イエス・キリストの名によって真の神のみを知り、礼拝する者となることができます。

今日のカテキズム問42は十戒のうちの第二の戒めです。答は「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。神さまは、人が造り出すいかなるものも、神としてあがめることを禁じておられます。祈ります。

 

天の父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。わたしたちは一週間の生活を守られ、導かれ、御許に集められました。この幸いを感謝いたします。

あなたは真に熱情の神であると教えられました。わたしたちを愛して、その罪から救うために独り子であるイエス・キリストを惜しまず、世に遣わしてくださり、その熱情をお示しくださいました。わたしたちは、そのことを学びました。この身をもって生活を以て、あなたこそ真の神でいらっしゃることを証しするために、偶像を慕い求める罪の誘惑からわたしたちを救い出してください。

先週は西にも北にも、災害が起こり、人名が失われ、人々が悲しみに暮れ、途方に暮れています。このような時にも、わたしたちは教会で「子どもと楽しむ音楽会」を開くことができました。多くの人々が集められましたことを感謝します。このような善き活動を通して、人々が教会に出会い、励ましを受けて、どんな困難にも立ち上がって行くことができますように。わたしたちはすべての善いものがあなたから豊かに与えられることを信じて参ります。

弱い者が強くされ、病の者が健康にされ、罪深い者が皆、イエスさまの犠牲の死によって罪赦され、わたしたち皆が悔い改めて、あなたに感謝を捧げる者となりますように。そして地上の生涯の終わりが近づいたならば、主に結ばれて御国に招かれていることを確信してあなたを待ち望む者とならせてください。地上にある成宗教会が、どうか福音のために用いられますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

唯一の真の神

聖書:エレミヤ1758節, マタイ4810

 神さまの国に招かれた人々の生涯は、神さまがどんなにわたしたちを愛して、慈しんで、救って下さろうとしておられるかを、知るようになる日々の歩みです。その神さまは聖書において御自身を証しされました。教会では聖書の言葉を聴き、神さまの言葉として聞いて、神さまを礼拝します。

さてわたしたちはカテキズム、信仰問答によって、今、 十戒 について学び始めました。先週は問の39、「十戒とは何ですか」という問いに対して、その答をわたしたちは学びました。十戒とは、神さまに救われたわたしたちが、御心に従って生きるために与えられた律法です。神さまに招かれた人々は、神さまがどんなにわたしたちを愛して、慈しんで、救って下さろうとしておられるかを、感じ始めました。この方の愛にどのようにして応えることができるでしょうか。その人々に与えられたのが律法です。

では、十の戒めとは、どんな内容なのでしょうか。わたしたちは出エジプト記20章にその内容が書いてあることを学んだところです。連合長老会の教会では、十戒を礼拝毎に読み上げている教会が多いので、わたしたちも、十戒がここにある御言葉であることをしっかり覚えたいと思います。カテキズムの次の問は、では、「十戒はわたしたちに何を教えてくれますか」という問いです。十の戒めを与えられた神さまの目的は、それによってわたしたちに何をお命じになっておられるかということです。

それは二つのことです。その第一に神を愛すること。そして第二に隣人を愛することです。イエスさまも、そのことを教えておられます。これほど、分かりやすい言葉はないと思います。素晴らしいと思います。しかし、これほど難しいこともありません。教える方も教えられる方も悩みに悩んでしまうほどのことなのです。私は十戒の学びの最後に改めてこの問いについて取り上げることと致します。そこで今日は早速、実際の戒めについて入って行きたいと思います。

問41は「第一戒は何ですか」と尋ねます。そしてその答は、「あなたには、わたしのほかに、何ものをも神としてはならない」です。池上彰氏の国ごとの宗教分類によれば、日本は仏教国となっていますが、それは江戸時代からの国家政策によるので、元々は八百万の神々がいると信じられていましたから、今でも、生まれた子は神社に御礼に行き、結婚式はキリスト教式もいますが、死ぬときは仏教式で、という人々が多いようです。私は昔、横浜で結婚する時に借家を探さなければならなかったのですが、候補の家を見に行ったら、赤い旗に黒字で何やら書いたものが何本も庭の傍らに立っていました。「これは一体何の宗教だろう」と少し心配しました。しかし後になってそれは商売繁盛のご利益があるという狐を祀っているので、毎年旗を立てる時期に当たっていたことが分かりました。こういう狐の祠のような物は日本では珍しくないのだと分かりましたが、ありがたいことに、あまり信じている様子でもなく、従って祟りを恐れている様子でもないようでした。

旧約聖書の中で神さまから十戒をいただいたイスラエルの人々はどうだったのでしょう。彼らの周りの世界も、今の日本の社会とあまり違いはなかったと思われます。エジプトの奴隷となって苦しんで、助けを求めた時、その叫びを聞いてくださり、彼らを解放してくださった神さまに彼らは従いたいと思いました。しかし、彼らが苦労して旅を続け、ついに住み着いた土地には、いろいろな神々を拝む人々がいました。隣の家の芝生は青いという諺の通り、イスラエルの人々には、他の民族がいろいろ拝んでいる神々の方が魅力的に見えました。そして彼らは自分たちが豊かになったときに、却って自分たちを愛し、慈しみ、その苦難の時の叫びを聞いて手を差し伸べてくださった神さまを忘れるようになったのです。

それは彼らの考えが、「神さまはお一人ではなく、大勢いて天地を造ったのだ」という考えに変ったということでは決してないでしょう。頭の中では、神さまはお一人と思っているのかもしれません。今日読んでいただいたエレミヤ書は紀元前7世紀のバビロニアの大王ネブカトネツァルによってユダ王国が滅ぼされ、バビロンに人々が奴隷として連れて行かれる直前の時代を記しています。人々はこの時代にも律法に従って神殿に行き、礼拝を守っていたと思われます。しかし、神さまが救いに招いた人々は、表向きは神さまに従っているようでも、実際には二つのグループに分かれています。それは目に見えて別れているというより、神さまの目にははっきりと区別される違いがあるということなのです。

その一つは不信仰な人々であり、神さまを信じている、礼拝している、と言いながら、心は遠く神さまから離れている人々でありました。そこで預言者エレミヤはその人々は呪われている、と叫んでいるのです。5-6節。「主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。神は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする。」

わたしたちもこの言葉を非常に真剣に聞きたいと思います。なぜなら、これは大昔のイスラエルに語られているのではなく、だれでも人間に僅かな望みでも置く人は、ある程度神さまから離れ去っているのでありますから。人が人を尊敬することは良いことです。しかし、それは人の持っているお金、地位、健康、才能を尊敬することになってはいないでしょうか。そして自分にもそれがあると誤解し、「まだまだ、もっともっと」と自分の望むイメージを追い求めて行くのです。そして神さまを失い、自分を見失ってしまうのでしょうか。良いものは皆、神さまから恵みとして各人に与えられているものであって、また神さまの望まれるときに取り去られるものに過ぎません。そのことをいつも弁えるならば、本当に望みを置くべきは人に対してではないはずです。だからわたしたちは厳しく戒められているのです。「人に望みを置く者は神に背を向けているのであり、神を見捨てているのだ」と。

不信仰な人、神さまに望みを置かない人は、枯れ木に例えられているのではありません。根もあるし、外見は生き生きしているようにさえ見えるのです。彼らは幸せに見え、自分でもそう思っている一方、神の教えを皆はねつけています。まるで自分たちは神さまには縛られないし、自由であると言っているかのようです。そういう人々は神の預言者の言うことには耳を貸しません。その結果は根もあり葉もある木なのに実を結ばない。炎暑が来ると干上がってしまうことになるのです。

さて、これに対して、もう一方のグループは、神に心から信頼する信仰者です。エレミヤは預言します。17章7-8節。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いが無く、実を結ぶことをやめない。」

本当に神に信頼し、望みを置く人は、どのような人でしょうか。宗教改革者カルヴァンはこう言います。「自分自身の災いと窮乏と裸と恥の意識に打ちのめされ脅えている者こそ、自己認識において最も進歩している。」わたしたちは思うのではないでしょうか。そんなに自分はダメだと打ちのめされていたら、何もする元気も勇気も出ないのではないかと。しかしそうではないのです。カルヴァンは続けて言います。「しかしまた、同時に、人は自分の中にないものを神に置いて回復すると学ぶ限り、自分を低め過ぎて危険に陥ることにならずに済むからである。」自分の中には何も良いものがない。しかし神さまは必要なものをすべて自分の中に回復してくださる、と信じることこそ、神さまへの信頼なのです。一体どうして自分にがっかりして落ち込んでしまう必要があるでしょうか。このような自分をも愛し、救おうとしておられる恵みの主がおられるのですから。

このことからわたしたちが学ぶべきことは、神さまが与え給うことを忘れ、神さまが与え給う以上に持ちたいと願うことは、自分に破滅をもたらすということです。わたしたちは聖書に登場する最初の人間がどのようにして悪魔に唆されたかを知っています。人は、善悪を知って神のようになりたいという願いを起こさせられました。しかし、神さまからの恵みによらないで、恵みとは別に、恵みを拒否して、自分の判断で善悪を知ることはい信仰の死をもたらすことになったのです。それは、神さまとの喜ばしい信頼の関係が断絶したということでありました。

わたしたちは新約聖書マタイ4章8-10節を読みました。これはイエスさまが悪魔から受けられた誘惑の一つです。「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。イエスさまが悪魔に高い山に連れて行かれ、この世の繁栄をごらんになったのは、わたしたちのように何か花々しいもの、キラキラしたものに心を奪われたからではありません。イエスさまはわたしたちの弱さを知っておられましたから、わたしたちのためにこの誘惑に遭ってくださったのです。

この世界の壮大な美しさ、あらゆる魅力的なものを支配したいという欲望のために、その願いを適えてくれそうな神でないものにひれ伏したいという誘惑。しかしあらゆるものを支配しておられる方は天地万物をお造りになった唯一の真の神さまではありませんか。それを忘れてしまう。それを思わず忘れさせるようなこの悪魔の傲慢な言葉。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」何というあきれ返る傲慢ではありませんか。神さまのものを如何にも自分のものであるかのように言う詐欺師であり、泥棒であります。しかし、この言葉、この誘惑にわたしたちはいつも直面しているのではないでしょうか。そして時には悪魔と一緒になってこの傲慢な言葉を口にしかねない誘惑にさえさらされているのです。

イエスさまは言われました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」真に、このイエスさまのお言葉こそ、十戒の戒めの第一であります。聖書は神さまのみを礼拝することを、つまり神さまだけに仕えることを命じています。わたしたちは主の祈りの中で、「我らの日用の糧を今日も与え給え」と祈ります。これはわたしたちに与えられるすべては神さまからいただく、という堅い信仰を表します。神さまからもいただけるけれども、他からももらえるかもしれないとか、他からももらいたい、ということでは決してありません。良いものはすべて神さまから賜るものと信じるのでなければ、どうして様々な思いがけない試練の時に、救いは主から来ると信じることができるでしょうか。

最後に、ローマの信徒への手紙8章32節を読みます。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」わたしたちはただ一人のまことの神さまだけに依り頼み、この神さまだけを礼拝しましょう。主なる神さまはそのことをわたしたちに求めておられます。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

2018年も9月を迎えました。本日の聖餐礼拝を感謝します。厳しい夏の間もわたしたちのそれぞれが生活と健康とを支えられて、このように礼拝に集まり、あなたのご栄光を現わすことができます幸いを感謝します。

真に弱く乏しい者でありながら、あなたの恵みを受け、イエス・キリストの福音によって救いに入れられましたことを感謝します。わたしたち自身にも、家族にもそしてこの社会にも多くの困難があり、試練がありますが、今こそ、真に救いをもたらす神さまであるあなたを公に言い表し、あなたに依り頼み従う信仰を新たにしてください。

弱い者が強くされ、最も力ない者があなたの恵みを証ししている教会に、今わたしたちはおりますことを感謝します。どうか教会に集う一人一人が信仰を強くされ、人の力によらず、ただ上より賜る励ましと慰めと必要な力とを待ち望む者となりますように。

本日は聖餐に与ります。どうか、心を低くされ、主イエス・キリストがわたしたちの罪を皆負ってくださったこの尊い愛に感謝を表すことができますように。

また、先週は遠くにある方々、病床にある方も聖餐に与ることができましたことを感謝します。どうか礼拝に足を運ぶことができない方々と共に主イエス・キリストの生ける体としてわたしたちを終わりの日まで一つの信仰に連ならせてください。

今週は毎年恒例となりましたコンサート「子どもと楽しむ音楽会」を開催します。どうぞ、この行事をあなたの御名が広められ、讃えられる機会としてください。10月にはバザーも企画しております。どうぞ御心に従ってその準備をもお恵みください。また今日から始まった教会学校の後半の歩みをも、豊かに祝し、御言葉が広く宣べ伝えられますように祈ります。聖霊の主よ、今、病床にある方をどうか平安で包み、その痛みを取り去ってくださいますように、切に祈ります。

この感謝、願いを我らの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。