キリストに従う

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌9番
讃美歌310番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 25章24-33節 (旧約聖書39ページ)

25:24 月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。
25:25 先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。
25:26 その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。
25:27 二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。
25:28 イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。
25:29 ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。
25:30 エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。
25:31 ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」
25:32 「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、
25:33 ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。

新約聖書:マルコによる福音書 8章34節~9章1節 (新約聖書77ページ)

8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
9:1 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

《説教》『キリストに従う』

先週は夏休みを頂き、感謝のうちにゆったりとした時間を与えられました。皆様も久し振りに私以外の牧師から御言葉を聞く機会が与えられ、如何でしたか、本日から「緊急事態宣言」も解除され徐々にいつもの生活に戻りますが、まだまだ油断はできません。引き続き、当面の間、このライブ配信を続けますので、感染に不安のある方は、どうぞ続けてYoutubeによるライブ配信をご視聴ください。

聖書には、思いがけないところに思いがけない言葉が使われていて、しばしば読む者を困惑させることがあります。本日のマルコによる福音書8章34節に突如現れる「群衆」という言葉もその一つです。

「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。」とあります。

本日の、この物語は、8月29日にお話しした8章27節からのペトロの信仰告白に始まる受難物語の一部分であることは明らかです。この時主イエスは、ユダヤ人たちの憎しみをしばらく避けるために、遙か北のフィリポ・カイサリアの地方へ弟子たちを連れて行かれました。27節以下を辿れば、そこにいたのは弟子たちだけであり、他には誰もいなかった筈です。

ところが、34節では、突如「群衆を呼び寄せた」と記されているのです。表面的に読むと、「弟子たちに教えておられる間に、群衆が集まったのであろう」と思われますが、ここ迄のところを改めて読み返してみると、もっと深い意味があるように思われます。

27節から振り返ってみますと、聖書は、「主イエスへの信仰」について、三段階で発展的に語っていることが分ります。

第一段階は、27節から30節に記されていた「ペトロの信仰告白」です。「あなたはメシアです」というペトロの決断の表明、ペトロの個人的な信仰告白がなされました。

第二段階は、31節から33節で語られていた「第一回目の受難の予告」で、「ペトロの個人的な信仰告白」に主イエス御自身が、その信仰内容を明確にされたのがこの箇所でした。信仰告白は、個人の主観によるものではなく、主イエス・キリスト御自身がその内容を決定されるのです。信仰告白の内容に関するこの部分では、もはやペトロ個人だけでなく、弟子たち全員が主の御言葉の対象になっています。

そして最後の第三段階が、本日の34節から38節です。この部分の主題は「信仰の実践」と言えるでしよう。キリストの甦りを告白する人間は「どのように生きるべきか」が教えられ、あらゆる時代の全てのキリスト者の「生き様」がここに告げられているのです。ここに突然、「群衆」という言葉が出て来るのです。

このように見て来ると、以上の三つの段階は、極めて意味深い内容を備えていると言えるでしよう。正しい信仰とはこの全てを備えていなければならず、第一段階の信仰告白を欠いては信仰の意味を成さず、第二段階の主イエスの宣告を聞かなければ第三段階の信仰の実践は不可能です。

ですから、ここで突如現れる「群衆」が、もし「この時やっと集まって来た人々」であったならば、34節以下の御言葉を正しく理解することは不可能です。そこで私たちは、この「群衆」という言葉を、「その場にやって来た人々」という以上の「象徴的意味」で考えることが必要になって来ます。

信仰とは、何よりも先ず、一人の人間の決断が根底になければなりません。歴史の中で、ナザレのイエスを「神の子キリストである」と告白した一人の人間ペトロがいたのです。そして主イエスは、その「一人の人間の告白」を用いて幾人かの人々に福音の何たるかを教え、信仰を「一般的」で「普遍的」なものにされました。これを公に同じと書いて「公同信仰」と呼びます。この「公同性」が教会を形作り、キリスト信仰を世界共通の「普遍的」なものとしたのです。

27節以下の一連の物語は、主イエスがお話になっている間に「だんだん人が増えていった」というような自然発生的なことではありません。ペトロの信仰告白を、その傍らで単なる聴衆として聞いていた人が、主イエスの言葉によって明らかにされた教会の信仰へ導かれ、そして「あなたもその道を行くべきではないのか」という問い掛けを、自分に向けられた課題として受取ったということです。

ですから、ここで「呼び寄せた」と言われている「群衆」とは、このとき自然に集まって来たフィリポ・カイサリアの人々だけではなく、実は、同じように「主に呼び寄せられて」、この礼拝に集ってきた私たちでもあるのです。

信仰とは、他人の告白を聴いたり、教理の内容を学ぶことではありません。主イエスに促されて「私もその道を行く」と告白し人生の旅路を歩む人のことです。それが、34節にある、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」との御言葉です。

それでは、私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。キリスト者の生き方の根本が三つの条件で記されています。

先ず第一に何よりも大切なことは、自分を「捨てる」ということです。「捨てる」と訳されている「アパルネオマイ」という言葉は、ギリシャ語で、強く「否定する」という意味です。主イエスは十字架につけられる前夜、最後の晩餐の際、ペトロが主イエスを「否定:アパルネオマイ」することを予告されました。主イエスが捕らえられた大祭司の家の庭で、ペトロは三度にわたって「私はあの人を知らない」「私はあの人と関係はない」と強く否定しました。この一連の場面で用いられている「知らない」(マルコ福音書14章30節、72節)という言葉も34節の「自分を捨てる」の「捨てる」(アパルネオマイ)「否定する」という同じ言葉です。

大祭司の庭でのペトロは、死の恐怖の前で自分の命を惜みました。自分を否定出来ませんでした。惨めな姿をさらしている主イエスに従って行くことが出来ませんでした。それ故にペトロは、自分を守るために主イエスとの絆を自分から切り離そうとしたのです。

キリストの復活を信じ、キリストの御言葉に自分の将来を見るならば、先ず「自分自身を捨てよ」と主イエスは教えておられるのです。誇りに満ちた自分の生き様、これまで辿って来た人生の目標、何よりも大切にして来た価値観、その全てを意味なきものとして投げ捨てる決断が必要なのです。

罪に塗れた自分自身を捨てることが、「信仰の第一歩なのだ」と主イエスは教えておられるのです。

そして、信仰にとっての第二歩は、「自分の十字架を負う」ということです。キリストの十字架は罪の贖いでした。ですから、私たちはキリストと同じ十字架を背負うのでは有りません。ただキリストが、どのようなお姿で十字架への道を歩まれたかを思い起こすべきなのです。それは、この後のマルコ福音書14章36節に、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」とあります。

この「わたしが願うことではなく」とは、当然「自己否定」を意味します。そして「御心に適うことが行われますように」という祈りこそが、「自分の十字架を負う」ということで、「父なる神が示された道を歩む」ということです。生涯の目的を自分の考えによって選び取るのではなく、「神が、私に何を期待し、何を望んでおられるのか」を祈り求めて行くことなのです。

このような生き方は簡単なものではありません。絶えず襲って来るサタンの誘惑との闘いが生涯続くのです。しかし、神の御子イエス・キリストが、この生き方の見本となってくださいました。荒野に於いては40日40夜の全てを費やして祈り、ゲッセマネに於いては血の汗を流して祈り。十字架は、その生き方の頂点にあったのです。

ひたすら祈ることだけがサタンへの勝利であることを、主イエスは、地上に於ける全生涯を通してお示しになりました。私たちの祈りもまた、「神の御心に従うこと」へと向けられなければならないのです。

信仰にとっての第三歩とは、「わたしに従え」ということです。「従う」という言葉は、しばしば「服従」という意味でとらえられます。それは決して間違いではありませんが、それでは「言うことをきく」という低い次元で終わってしまいます。「従う」(アコルーセオー」とは、「ついて行く」という意味なのです。主イエス・キリストは「私について来なさい」と言っておられるのであり、34節ではこの言葉が二度も繰り返されています。

主イエス・キリストは、私たちに対し「あれをしろ」「これをしろ」と言われるのではなく、「私と一緒に歩きなさい」と言って下さるのです。

雪国の生活や冬山登山を経験したことのある人なら分かるでしょうが、雪の積もったところでは、人は必ず「誰かが歩いた跡」を行くものです。誰かが歩けばそこは固められて自然に道が出来ます。誰も踏み入れていない深い雪の中にわざわざ入る人はいません。前を歩いた人のおかげで、後を行く人は楽に歩けるのです。

主イエス・キリストが「私について来なさい」と言われた時、私たちは、「主イエス・キリストが開いて下さった道を行く恵み」を知ることか出来るのです。キリストによって間違いなく神の国へ到達する道が用意されているのであり、私たちが歩きやすいように、主イエスが踏み固めて下さったのです。

主イエス・キリストが御自分の生命を犠牲にして与えて下さった永遠の生命は、キリストに従う者全てに与えられるのです。そして用意された永遠の生命は、この世の如何なるものにも勝って素晴しいものなのです。

36節では「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」とあります。「永遠の生命」を「全世界」と比較して「なお余りある」と語られています。神の独り子の生命と引き換えに与えられる賜物なのです。

私たちは多くのものに心を奪われています。数知れない誘惑が私たちの欲望を刺激します。あたかも「人生の全てを費やしても悔いがない」と思わせるようなものが、次々に私たちの前に姿を現します。その時こそ、しっかりと信仰の眼を開いて、その価値の違いを見定めなければなりません。先程ご一緒に読んだ旧約聖書で、エサウは、たった一杯の豆の煮物と神の祝福とを交換したのです。あのエサウの過ちを、私たちは如何に多く繰り返しているでしょうか。

しかし、神の独り子主イエスがが、御自身の生命をも惜しまないで与えて下さった恵みが、私たちに何ものにも代え難い豊かな喜びの人生を用意しているのです。

パウロは新約聖書273ページ、ローマの信徒への手紙 1章16節で「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」と記しています。

このパウロと共に、同じ告白をする者は、神の裁きから赦されることが、38節で保証されているのです。38節には、「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使と共に来るときに、その者を恥じる。」とあります。

これは、いったい誰が神から受け入れられるかという問題提起ではありません。神は、主イエスの言葉を恥じない私たちを必ず受け入れて下さると告げられているのです。これが決定的な赦し、主なる神の救いの保証です。

栄光に満たされた神の国は、主イエスに呼び集められ、御言葉に従う群衆のために用意されています。

永遠なる神の国での栄光を求め、主イエス・キリストが用意して下さった道を真直ぐ辿る群衆でありましょう。

お祈りを致します。

主が教えて下さったとおり

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌301番
讃美歌502番

《聖書箇所》

旧約聖書:ダニエル書 7章13-14節 (旧約聖書1,393ページ)

7:13 夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
7:14 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。

新約聖書:マルコによる福音書 8章31-33節 (新約聖書77ページ)

8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

《説教》『主が教えて下さったとおり』

私たちキリスト者の信仰の中心は、「主イエス・キリストの十字架による贖いと復活」を信じることです。

本日の聖書箇所は、「受難の予告」と呼ばれ、ここで初めて「十字架と復活」という主イエスのこの世での最終目的を弟子たちに明かされるのです。主イエスが自ら教えて下さった「福音」を受け入れるために何が必要であるのか、聖書はそれをここに語るのです。

キリスト信仰とは、「キリストと私」という「神と人の一対一の関係」でなければならないということです。「キリストと私」という関係は、他のあらゆるこの世的なものの介入を否定するものです。たとえ、親子、兄弟、夫婦だけでなく牧師でさえ、「キリストと私」という関係の中に入って来ることは出来ないのです。一人ひとりが主イエス・キリストの御前に立ち、自分の生きる姿を明らかにしなければなりません。

このような意味から考えれば、一人ひとりの心の中にある主イエス・キリストの御姿は千差万別です。全ての者は、キリストとそれぞれ独自な関係を形作るからです。先週の29節に記されていた「ペトロの告白」は、「イエスとペトロ」の関係を、ペトロ自身の言葉によって明らかにした「信仰告白」でした。

このように、信仰とは極めて個人的なものでありながら、その反面、最も重要なことは、信仰とは「教会によって伝えられたものである」ということなのです。これを、「信仰の公同性」と言います。

主イエス・キリストとの関係は、確かに、個人によって様々な「あり方」が可能です。しかし、「ナザレのイエスとは、どのような御方であるのか」ということに関しては、全てのキリスト者が「ひとつの告白」の下に立たなければなりません。

先程も触れた29節では、ペトロは主イエスの問いかけに対し、「あなたはメシアです」という初めての信仰告白をしました。この告白は、キリストの御前にただ一人で立つときの中心となる軸というべきものです。

しかし、ここでペトロが語った「あなたはメシアです」という言葉は、未だペトロ個人の心の中だけの問題であり、ペトロ個人の判断に過ぎませんでした。つまり、主イエスとペトロの私的関係に過ぎなかったということです。「あなたこそメシア・キリストです」という個人の告白と、そのキリストが「どのようなお方であるのか」という普遍的な内容とは、比較してみれば、「信仰の個人性と信仰の共同性・普遍性」ということです。それが、今、ここにおいて、主イエス御自身によって明らかにされて行くのです。

31節以下には、「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった。」とあります。これこそが、2000年に亘って世界の教会が伝えて来たことの根本であり、全てのキリスト者の告白が一致すべきものです。

この教えが、ペトロの告白に引き続いて、「イエス御自身によってなされた」ということが大切なのです。「あなたこそメシア・キリストです」という信仰告白は、あたかも一人の信仰者の判断によるものと考えられがちですが、その告白の内容は、「主イエスから与えられたものである」ということなのです。教会が伝えて来たものとは、主イエス御自身が教えられたことであり、教会の務めは、その告白を、絶えることなく、正しく伝えることです。31節の、「人の子は必ず多くの苦しみを受け」とありますが、主イエスは御自分のことを語られる時、「わたし」とは言わず「人の子」という表現をとることが普通でした。「人の子」とは、旧約以来、特別な意味を持っている言葉でした。先程お読みした旧約聖書、ダニエル書7章13節には「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り…」とありました。このダニエル書によれば、「人の子」とは、神の権力をもってこの世を支配する「栄光のメシア」と考えられて来ました。主イエスの時代、紀元一世紀のイスラエルの人々は、殆ど例外なく、この「栄光のメシア」が来られることを期待していたと言えます。何故かと言えば、

① ローマ帝国の占領下にある惨めさという政治的な苦しみ。

② ローマ帝国とヘロデ王家の二重支配によって搾取される経済的な苦痛。

③ 救いを失い、形式ばかりに拘る神殿宗教になったユダヤ教への信仰的な虚しさ。

これらの時代的危機の中で、神の偉大な力によって一気に世界を覆すメシアを求める気持ちになるのは、無理もないことでした。それが、ダニエル書に語られている「政治的・栄光のメシア」でした。

しかしながら、主イエスは、このような期待を抱いている人々の考えも及ばない、根本的な解決・徹底的な救いを用意して来られたのです。何故なら、たとえローマ軍を追い払い、ヘロデ・アンティパスを打ち倒し、世界がどのように変わったとしても、そこに生きる人間が神に背を向けた姿勢をとり続ける限り、楽園の回復は決してあり得ないからです。人間が背負う「神に対する反逆の罪」は、如何なる人間の努力によっても解消されることは有り得ません。日常生活の苦しみ、現実的な社会生活の苦しみにあえぐ人々は自分自身の罪を見つめることがありませんでした。このような、誰一人として考えもしなかった「救いの実現」のために、誰一人として考えもしなかった方法で、ただ一人、その道を行かれる主イエス・キリストの姿を、ここに見なければならないのです。

また、主イエスは、31節で、「必ず多くの苦しみを受け」と、ここで「必ず」と言われました。「必ず」と訳されているギリシャ語は「デイ」という言葉です。この言葉は、「神の絶対的な定め」「避けることの出来ない神の必然性」を表す言葉で、「決定的に定められて変わらない神の御計画」であることを示しています。これを「信仰のデイである」と強調される先輩牧師がいます。十字架と復活、それが父なる神の絶対的な決意であるということなのです。もはや、人間が関与すべき余地のないところで神の御子の御業が進められて行くのであり、人間の犯した罪が、神の独り子の死に於いて徹底的な裁きへと向かうのです。

「あなたは、メシアです」という告白は、このような罪の中に生きて来た「自分自身への完全な否定」を意味するものであるということが、ここで告げられているのです。

そして、その最終的な結論が主イエスの「復活」です。「復活を欠落させた信仰告白」が如何に無意味なものであるのかは、もはや明らかでしょう。

何故なら、キリストの十字架は、罪の裁き・神の怒りの表れであり、もし十字架がその後に復活を伴わなかったならば、父なる神の御心は「怒りによる裁き」で終わることになってしまうからです。それ故に、復活は、怒りから赦しへの偉大な大逆転なのです。もはや明らかなように、先程から注目して来た「必ず」という神の決意を表す言葉「デイ」は、この「復活する」というところにまでかかっているのです。神の正義による裁きとは、人間の罪を余すところなく暴き出し、それを御子の十字架という究極的なかたちで遂行されました。まさに徹底的な仕方で「裁き」が為されたのです。

しかし同時に、悪に対して怒られる神の正義は、御子の死に続く「復活」に於いて、愛と結ばれるのです。

「死んだ者が甦る」という、まさにあり得ない奇跡によって、今や、愛が、赦しの愛が、罪を糾弾する正義に代わって、私たちの前に示されたのです。主イエス・キリストは、「あなたこそメシアです」というペトロの言葉に対して、父なる神の変わることのない永遠の御計画である信仰の本質を、ペトロに初めてお与えになったのです。

ところが、32節後半に「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」とあります。これは一体なんでしょうか。ペトロの「いさめる」とは、元来、ギリシャ語で「叱る」という意味であり、強い否定・反対を表す言葉です。このペトロの言葉は、キリスト者として生きる私たちに重大な警告を与えていると言えましょう。何故なら、彼は、今、主イエスが明らかにされた「信ずべきことがら」を、自分の考えによって変えようとしているからです。ガリラヤ湖の漁師であったペトロも、当時の人々の常として、「栄光のメシア」を期待していたのでした。民族の誇りを回復し、現実の生活を良くしてくれるメシア・救い主、それが忘れられなかったのです。栄光のメシアを期待している者の心は、「罪の身代わりとして苦しむメシア」を受け入れることが出来ません。自分の思いによって神の御計画を歪めようとする人間の新たな罪がここにある、と言えるでしょう。何故ペトロは、この神の御業に気付くことが出来なかったのでしょうか。それは、ペトロが、主イエスが語られた神の御計画から「復活」を聞き漏らしていたからに他なりません。「苦難のメシア」から「栄光のメシア」への転換こそ、「復活」です。神の愛と力があらゆるものに勝り、御心が余すところなく示されるのが「キリストの復活」です。ペトロは、最後の勝利である復活の力に気付きませんでした。それ故に、「惨めな死を遂げられる栄光のメシア」など考えたくなかったのでしょう。

おおよそ、キリストの復活を信じない人は、全てこのペトロと同じであり、主イエス・キリストから「サタン」と呼ばれ、退けられるのです。何故なら、「復活」は、キリスト御自身が私たちに与えて下さった福音の根本です。キリスト御自身が教えて下さった信仰を、人間が勝手に変えてしまうことは許されないからです。「あなたはメシアです」という信仰告白は、キリストの復活の上に立たなければなりません。

私たちは、キリストが教えて下さったとおり、主イエスが御自身の身体で「復活」の確かさを示して下さったとおり、この喜びのメッセージを受け取るものでありましょう。この主イエスの受難予告は、受難だけの予告ではなく、私たちの救われるべき完成の時が近づいたという「喜びの予告」であるからです。

お祈りを致します。

思い出

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌138番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 7章9-11節 (旧約聖書1,071ページ)

7:9 エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」
7:10 主は更にアハズに向かって言われた。
7:11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

新約聖書:マルコによる福音書 8章11-21節 (新約聖書76ページ)

8:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
8:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

《説教》『思い出』

先週、ご一緒に読んだ「四千人の給食」の行われた場所は、ユダヤ人が住むガリラヤではなく、異邦人の住む土地でした。主イエスは、ユダヤ人に追われる様に弟子たちと共にダルマヌタ地方に来られました。

このダルマヌタ地方とは何処なのか、聖書では、このマルコ福音書の、この箇所にたった1回しか出て来ないのでハッキリとは分かりませんが、並行聖書箇所のマタイ福音書ではマガダン地方となっていることなどからガリラヤ湖西岸のマグダラの辺りではないかといった説が有力なようです。

ここに来られた主イエスの周りに、またまたファリサイ派の人々が現れました。彼らはここでも主イエスを陥れるために議論を仕掛けて来たのでした。

彼らは主イエスを試そうとして「天からのしるし」を求めたと書かれています。「天からのしるし」とは、「神による直接の証明」を示せということです。

彼らは、主イエスが各地で驚くべき御業・奇蹟をされたことを聞き、また、その出来事に出会って来た筈です。

しかし、それでも満足していませんでした。神の御子の大いなる御業に接し、その出来事を聞かされながら、それが信じられないのです。それは、自分自身の目で見て満足出来れば、自分たちの判断によって、「神を承認しよう」ということ、人間が神の上に立つということです。

既に、ご一緒に読んで来ましたように、五千人の人々に食事を与え、四千人の空腹を癒したパンの奇跡こそ、「神の国の食卓を表す」ということを私たちは学んで来ました。そこには神の御子の偉大な御業が現わされていました。

しかし、ファリサイ派の人々は、それらの出来事を何ひとつ正しく受け止めようとはしませんでした。深い知識と十分な経験を持ちながら、彼らは自分たちの持つ硬い殻を破れず、何も悟ることが出来なかったのです。

自分を虚しく出来ない人にとって、神の御業は全く無意味であることが、ここに示されたと言えます。「この世のものでないこと」に出会っていながら、なお自分の判断で理解しようとする人々。その人々は、たとえ「しるし」を示されても、それが「しるし」であることに気付かないのです。

主イエスの嘆きは、このような人間の愚かさに対するものでした。

「しるし」がないのではなく、無数に示された「しるし」を見ない「人間の惨めさ」への嘆きがここにあると言えるでしょう。

主イエスは「しるしがない」と言っておられるのではなく、神の御業を見ようともしない人間を悲しまれているのです。

主イエスは、ファリサイ派の人たちに背を向けられました。議論の相手になろうともせず、彼らの求めに応えようともせず、彼らを見捨てて去って行かれました。神の独り子を眼の前にしながら、なおそこに何も見ようとしなかった人々への「天からのしるし」は、もはや神の直接的な御手が下される終末の時を待つ以外ないからです。そして、そのような人々は、舟に乗って去る神の御子を「ただ岸辺で見送るだけ」なのです。

そして、このすぐ後、ガリラヤ湖を渡る舟の中で、主イエスと弟子たちとの間に交わされた会話こそ、私たちが心して聞かなければならないことなのです。

15節に、主イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められたとあります。

この時代、微生物はおろか、微生物の働きである「発酵」や「腐敗」についての原理は知る由もありませんでした。「パン種」とは、焼く前のイースト菌の入った生パンの一片を、次のパンを作るときに、新しいパン生地に加えて発酵させて、次のパンを作るときに用いていたことを現わしているのです。

ところで、皆さんは、微生物の働きである「発酵」と「腐敗」の違いをご存知でしょうか。実は「発酵」と「腐敗」は微生物による有機物の分解でまったく同じ働きを表わす言葉です。

「発酵」と「腐敗」の違いは、私たち人間の役に立つものが「発酵」で、役に立たないものが「腐敗」と呼ばれているだけです。

「発酵」と「腐敗」することはまったく同じであり、「パン種」とは作ろうとするパンに次々に微生物の働きが移って行くことです。このため、聖書では、この「パン種」という言葉は「腐敗」や「伝染」という悪い意味でも用いられました。ここに語られている「ファリサイ派のパン種」とは、悪い影響をもたらし、真実を歪める偽りの信仰という意味として理解出来ます。彼らは、外から見た目には、信仰には熱心であり、敬虔でありました。しかし内実は、自分を第一とし、神を「二の次」とする者として批判せざるを得ません。

「神を求める」と言いながら、実は、神の名を借りて自分の立場を守っていたのがこの人々の特徴でした。彼らが示す信仰者の姿は、真実の自分を隠し、偽りの姿で惑わせる巧妙な偽装に過ぎませんでした。

ファリサイ派の人々に対する主イエスの厳しい批判は、マタイによる福音書23章1節以下の小見出し「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」に詳しく記されています。後でお読み頂けると幸いです。また、15節にある「ヘロデのパン種」とは、当時の社会に存在していた「ヘロデ党」と呼ばれる政治的団体に代表される「この世中心主義」のことです。現実主義であり、「自分の生活が第一、神は第二」という世俗主義のことです。富の豊かさと社会的地位や権力を求める人間、それらに眼を奪われる人間。それがこの「ヘロデのパン種」に譬えられるタイプの人間です。

この二つの「パン種」という言葉によって表れされるのは、自分の考え、自分の生活を第一にする人間のことであり、神の御業に出会っても、何も見えない人とも言えます。自分の要求が満足させられるか否か、ただそれだけを求める人は、結局、「そこでは何も見なかった」のと同じことになってしまいます。

幸福を与えるために来られた神の御子に見捨てられ、舟に乗って遠ざかるキリストを岸で見送る虚しさ、これが神を第二とする人間の特徴と言えましょう。

私たちも、ファリサイ派の人々ほど極端ではないかもしれません。ヘロデ党の人々ほど世俗的ではないと言えるかもしれません。しかし、私たちの心の中に、自己中心主義の小さなかけらが一つもないと言えるでしょうか。

神の御業に目隠しをしてしまう力を秘めたものが、心の片隅にこびり付いていないでしょうか。このような自己中心主義の危険にさらされていることが、ファリサイ派の人々やヘロデ党の人々だけの問題でないことは、この舟の中に主イエスと共にいる弟子たちの姿を見れば明らかです。

14節に、「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。」とあります。弟子たちは弁当を持って来ることを忘れたのです。この時、彼ら全体でパンを「ひとつ」しか持っていませんでした。ですから、主イエスの御言葉を聞きながら、一番の心配事として、「パンがひとつしかない」ということに心を痛めていたというのです。余りにも馬鹿馬鹿しい勘違いだと笑う人がいるかもしれません。実に愚かなことだと私たちも思います。

しかしこれこそ、「常に、自分を第一」と考えさせる、あの「パン種」の仕業なのです。

主イエスはそれに気づいて言われました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」。弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを裂いたときには、集めたパン屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と弟子たちは答えました。主イエスは、何を言おうとされているのでしょうか。

五つのパンで五千人。七つのパンで四千人。「そこまで言うならば、ひとつのパンでも十分だったのではないか」と思うなら、その人もまた、この弟子たちを笑う資格はないでしょう。ここで問題になっていることは何でしょうか。

「僅かひとつのパン」で、「どうして全員が食事をすることが出来るか」ということでしょうか。

17節から18節の主イエスの言われた「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」 主イエスとしては珍しく強い言葉です、一言で言えば、「愚か者!」ということでしょう。まさに厳しい叱責であり、強烈な批判です。主イエスの御業をしっかりと見詰めておらず、そこで示された恩寵の素晴しさを思い出すことも出来ない愚かさが、ここに指摘されているのです。

あの「五千人の給食」と「四千人の給食」で「思い出さなければならないこと」とは何でしょうか。

あの時の飢えは、単なる肉体的な飢えではありませんでした。あの時の満腹は、単なる肉体的な満腹ではありませんでした。主イエスと共にいることで「時」を忘れ、主イエスご自身が解散させるまで離れようとしなかった人々。空腹を忘れ、飢えを忘れ、寒さを忘れ、家に帰るべき時間を忘れた人々。その人々に、主イエスは何をもって報いたでしょうか。その人々は、何を携えて家に帰って行ったのでしょうか。これらの「パンの奇跡」こそ、神の国の恵みの先取りであり、キリストと共にいることの喜びにすべてをささげ、飢えも寒さもあらゆる不安からも解放されたのが、あの時の人々の姿でした。まさしく、「神の国」が実現し、「キリストと共にある豊かさ」が全ての人々を満たしていました。たとえそれが、僅かなひと時であったとは言え、「来るべき神の国」を、主はあの奇跡によって示されたのでした。それにも拘らず、何故、弟子たちは「そのこと」を思い出さなかったのでしょう。主イエスは言われました。「まだ悟らないのか」(21)、「もう分かったであろう」ということです。「あの出来事を思い出したであろう」ということです。

私たちの信仰も、この主イエスの御言葉を正しく思い出すことにかかっているのです。

弟子たちは、「パンがひとつしかない」ということしか考えていませんでした。聖書は、「ひとつのパン」ということから「何を思い出せ」と言っているのでしょうか。それは、新約聖書312ページ、コリントの信徒への手紙第一 10章16節の中頃から17節に、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」とあります。

ここの「ひとつ」とは、ひとつ・ふたつと数える数字の「イチ」“ひとつ”ではなく、「掛け替えのない」“ひとつ:ファースト”ということなのです。主イエス・キリストこそ「生命のパン」であり、私たちの新しい生命のための「唯一のパン」なのです。

そして主イエス・キリストは、パンである「御自身のからだ」によって数知れない多くの人々を養われるのであり、この「偉大なパン」を、何よりも大切なものとしなければならないのです。

「たったひとつの生命のパン」、それこそ、主イエス・キリストと私たちを結ぶ信仰の絆なのです。その力を持つものこそが、「天からのしるしとしてのパン」なのです。

あの時、舟の中で弟子たちは、「パンがひとつしかない」と言って心配しました。しかし私たちは、「ここにひとつのパンがある!」ということを喜ぶべきなのです。

ガリラヤ湖に浮かぶ小さな舟。主イエス・キリストを中心とする舟の中の人々。それこそ、教会の姿を示しています。自己中心的、人間主義的な考えから自由になれないファリサイ派の人々やヘロデ派の人々から、主イエス・キリスト御自身が引き離して「湖の上に分け隔てられた群れ」こそ、教会の姿に他なりません。しかし、その教会の中にあっても、私たちは自分自身の力によって、自らの歩みを確かなものにしようとします。主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを自分のものと悟ることが出来ず、聖書は赦しを語っているのに、自分で自分を裁いたり、隣人の過ちを裁いてしまうこともあります。

信仰の恵みを理解出来ず、目があっても見ない、耳があっても聞かない者のためにこそ、主イエス・キリストが十字架上で苦しまれているのです。私たちは、その主イエス・キリストの十字架の御苦しみが私たちのためであると理解できたとき、その一つのパンによって赦され、救われた者として歩むようになれるのです。

主イエス・キリストが十字架で苦しまれつつ自らの御体を裂かれたことを思い、その恵みが自分たち教会のためであり、共に信仰に生きる主イエス・キリストの家族のためだったと感謝できる時、救われてその恵みに生かされる者となっていくのです。

お祈りを致しましょう。

生命のパン

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌15番
讃美歌142番
讃美歌000番

《聖書箇所》

旧約聖書:列王記 下 4章42-44節 (旧約聖書583ページ)

4:42 一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、
4:43 召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」
4:44 召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。

新約聖書:マルコによる福音書 8章1-10節 (新約聖書76ページ)

◆四千人に食べ物を与える
8:1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
8:3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
8:4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」
8:5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。
8:6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
8:7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。
8:8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。
8:9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。
8:10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。

《説教》『生命のパン』

皆さんと御一緒に読んできたマルコによる福音書は本日から、8章に入ります。

1節の初めに「そのころ、また」とあります。「そのころ」とは直訳では「その直後」という言葉で、「前の物語のすぐ後」といった意味です。続く、「また」とあるギリシャ語は「パリン」という言葉ですが、これは「再び」という意味です。何故「再び」と言われているのでしょうか。それは、ここに語られる「パンの奇跡」が、既に6章30節以下で行われた「五千人の給食」と同じような奇蹟であるからでしょうか。

確かに本日の、「四千人の給食」物語は、6章の「五千人の給食」と非常に良く似ています。違いと言えば、6章が「五つのパンと二匹の魚」であり、本日の箇所は「七つのパンと少しの魚」ということくらいで、その他は似たようなものです。

そこで多くの人々は、この二つの物語は実際には同じものであったが、伝えられている間にパンの数が変わり、マルコは別々の物語として記録したのであろう、と考えるのです。

確かに、よく似ていることは事実です。しかし、ただ「似ているだけ」では、すぐそばに二つの物語を置く必要はなさそうです。マルコは、ここに「キリストの恵みに接する人間の傲慢さ」があると言っているのです。

私たちは、奇跡物語に出会うと「こんな奇跡はある筈はない」と思い、二度続けて出てくると「二度も起こる筈はない」と思うでしょう。それは、神の恵みの御業を、なるべく小さなものに、人間が合理的に理解できるものにしようとするのではないでしょうか。神の御業を人間の理解できるものにしようとする滑稽な努力が、この8章1節以下の物語の独立性を否定しようとしているのです。この奇跡は、繰り返される必要のないものなのでしょうか。

もし、本当に「渇きに耐えかねた動物が、谷川の水を求めて険しい崖を下るような思い」で、神の恵みの御業を求めているのであるならば、再び示されたこの奇跡を「増し加えられた恩寵」として喜ぶべきです。むしろ、「まだこのほかにも沢山行われた筈だ」と考えたくなるのではないでしょうか。

主イエス・キリストと共におり、キリストが自ら祝福して下さったパンを受け取ることこそ、神の国に生きる者の願いなら、この奇跡は、「繰り返されるべき恩寵の御業であった」と言うべきではないでしょうか。そして、現在の私たちが聖餐式で受ける恵みこそ、このパンの奇跡の繰り返しに他なりません。再び行われたこの奇跡は、「キリストと共にある時、何時も与えられる恵みのしるし」として受け止めるべきです。

奇跡の行われた、この場所は、ユダヤ人が住むガリラヤではなく、既に述べたように異邦人の住む土地でした。ですから、これらの二つの奇跡を単純に区別するならば、6章30節以下はガリラヤで行われた「ユダヤ人に対する恵み」、今日の8章1節以下は、主イエスがユダヤ人に追われて行った先で行われた「異邦人に対する奇跡」と言うことも出来ます。そう考える時、この奇跡が単なる繰り返しというものではなく、神の国が、ユダヤ人の境を越えて、神の民とは見做されていなかった異邦人のところまで広がっていることを示している、と見ることが出来るでしょう。

2節で「群衆がかわいそうだ。」と主イエスは言われました。ここが6章30節以下と決定的に異なるところです。この時まで救いから外されてきた異邦人、私たち日本人を含め、神の国の食卓に着くことが出来るようになったのは、この主イエス・キリストの憐れみに基づくものであるということを忘れてはなりません。

私たちも異邦人でした。罪の中にありながら、罪とは何であるかを知らず、神の国を求めることさえも知らなかった私たちが、今、このように教会に招かれ、恵みのパンを受け、永遠の生命を約束される神の国の民となったのは、このキリストの憐れみによるものです。

「群衆がかわいそうだ」と言われたキリストの御言葉が全ての人々の運命を変えて行くのです。「かわいそうである」と訳されている「スプラグコニゾマイ」という言葉は本来、ユダヤ人が感情の宿ると考えていた「腸(はらわた)」という言葉から派生した意味の言葉であり、別の岩波訳聖書では「腸(はらわた)のちぎれる想いがする」と訳しています。まさに心の想いが充満した状態を表して、単なる「かわいそう」という日本語の訳では人間の惨めさを見詰める主イエスの御心を表現するにはまことに不十分と言えましょう。御前に集まる人間の惨めさに対する主イエスの心からの思いが、この御言葉によって示されているからです。

主イエスは、彼らの何を見てそれほど心を揺り動かされたのでしょうか。全ての者を神の御国へ導く救い主キリストの御言葉は、何に基づいて語られているのでしょうか。

2節で主イエスは、「食べ物がない」と言われています。空腹が直接のキッカケであったことは確かです。しかし、単なる飢えがそれ程の問題になり得たでしょうか。家に帰れば食料はあり、ただ「今、この場に食べ物がない」というだけのことです。その程度の空腹に対し、「神の御子が心からの思いをもって憐れんだ」というのは少々大袈裟で、変ではないでしょうか。飢えにも様々なものがあり、求めるものも様々です。そして共通することは「飢えとは我慢できないものである」ということです。一切れのパンのために牢獄に繋がれる人もあり、創世記25章のイサクの長男エサウが空腹のために煮豆で長子の権利を弟ヤコブに譲ってしまうのは旧約聖書の有名な物語です。これは決して絵空事ではなく、人は飢えを満たすために生きているとも言えるでしょう。古い話ですが、昭和二〇年代前半、敗戦後の日本ではアメリカからの援助を期待してクリスマスには各地の教会は満員になり、教会の前には貧しい人々で列ができたと聞きました。しかし、社会が豊かになった時、人々は教会から離れました。

主イエスが群衆を見て「腸(はらわた)を揺り動かされた」のは、単に空腹であったからではなく、「その飢えとは何であるのか」ということを見透されたからなのです。「もう三日もわたしと一緒にいる」。即ち、群衆の空腹は「キリストと共にいた」ということから起こったのです。「主を追い求めた結果」として気付かされた「飢え」とは空腹とは違う飢えだったのです。

キリストと共にいて初めて覚える「飢え」とは何でしょうか。そこで気付く飢えとは、肉体の飢えではなく、日頃は忘れていた「魂の貧しさ」だったのです。敢えて言えば、主の御言葉を追い求め続けたことが「魂の飢えを呼び覚ました」ということなのです。そして、「三日の日々、主の御許に留まった」ということは、そのために空腹になったということを説明するのではなく、魂の飢えの満たされることを願って「食べることを忘れた」と言うべきでしよう。

ユダヤ人にとって「穢れた者」であり「豚」とまで蔑まれた異邦人を、主イエスはその御言葉によって、神の国の民に変えて行ったのです。

主イエスの下に集まった多くの異邦人が「初めから特別に熱心であった」とは考えられません。彼らもほかの場合と同じように、「有名なナザレのイエスを見てみたい」という興味本位であったり、或いは「病気を治して欲しい」という自己中心的な理由であったかも知れません。しかし、集まった理由は様々であっても、そこで語られた主イエスの御言葉が、彼らに「時」を忘れさせたのです。

これは、私たち自身のことを考えれば明らかでしょう。多くの場合、教会へ足を踏み入れるきっかけは、極めて世俗的な理由によるものです。私たちは、決して信仰のエリートではありませんし、特別な熱心さを初めから持っていたわけでもありません。ただ、ふと足を踏み入れた教会で聞いた御言葉が、そこで初めて知った聖書に記された主イエス・キリストのお姿が、何故か、心を捉えて離さなかった、ということなのです。

「もう三日もわたしと一緒にいるのに」と主イエスは言われました。御言葉に捉えられて、初めて魂の飢えを知った者に、主イエス・キリストは生命のパンを与えて下さるのです。

4節には、「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」と弟子たちが言いました。場所は荒野です。パンを手に入れることが出来る場所ではありません。

自分自身で自分の飢えを満たすことは不可能だと気付かされる時、丁度、荒野の真ん中で途方にくれている弟子たちのように自分に絶望する時、キリストの手が差し伸べられていることを知るのです。神の御恵み「恩寵」とは、人間の努力の虚しさの彼方にあるものなのです。

5節から8節にあるように、主イエスはわずかに持ち合わせのあった7つのパンで四千人を満腹させる奇跡を行われました。この奇跡に何を見なければならないのかは、明らかです。「七つのパンで四千人の人が満腹した」ということは驚くことではないのです。この世に来られた独り子なる神が、「七つのパンで四千人を養った」からといって、不思議に思う必要はまったくないのです。

しかしながら、このことに躓く人が沢山います。「そんなことは不可能だ」と言い、「幼稚な作り話だ」と笑い捨てる人もいるでしょう。しかし、もしこの恵みを受けている群衆の中に自分がいることを考えるならば、どうでしょうか。「七つのパンで四千人を養うこと」と「私の罪を赦すこと」の、どちらが容易だと思いますか。

「本当の奇跡」とは、罪の中に苦しんで来た人間が「御言葉に捉えられる」ということです。神に背を向けて生きて来た人間が、「神の国に迎え入れられる」ということです。そしてなお、御言葉を十分に理解できない異邦人のためにも、主イエス・キリストの祝福が与えられたということです。

この時、神の国の食卓を示す奇跡に「七つのパン」が用いられました。この数は、たまたま弟子たちが持っていた数であったのかもしれません。しかし、聖書が教えることは、「七は聖なる数である」ということです。聖書はしばしば象徴によって恵みの真理を語ることを思い出してください。

ということは、この食事が、神の子キリストによって与えられる「聖なる食事である」ということを、「七つの」という言葉によって暗示しているのだということが出来るでしょう。キリストが与えて下さるパンは、単なる肉体の飢えをその場限りで満たすものではなく、永遠に連なる神の国の豊かさを、人間の魂に与えて下さっているのです。

さらに、「感謝の祈りを唱えてこれを裂き」と記されていますが、これは新約聖書314ページのコリントの信徒への手紙第一 11章24節でパウロが語る、「主の晩餐の制定」の言葉と全く同じです。そして、この6節の「感謝する」と訳されている言葉「ユーカリステオー」から「聖餐:ユーカリスティア」という言葉が生れました。主イエス・キリストの顧みによって与えられた聖なる食事、それこそ、驚くべき奇跡の始まりであり、今や、主の御許に集まった異邦人の群れの中に、「新しい神の民が誕生した」ということが、ここに宣言されているのです。

8節には、その四千人の人々を主イエスが解散させられたとあります。人々は主イエスから離れ、それぞれ自分の家に帰って行きました。神の御子と共に居り、御言葉を親しく聞いていた場から、再び現実の生活の場へと戻って行きました。そしてそれが、この時の主イエスの目的であったのです。

主イエス・キリストが与えて下さる生命のパンは、御言葉を聞いた人々が新しい力に満たされ、生活の場へ戻って行くためのものなのです。これこそが教会に許された聖餐の意味です。罪と戦い、永遠の御国へ向かう魂の旅路を支える生命のパンは、主の憐れみよって備えられているのです。

新約聖書176ページ、ヨハネによる福音書 6章35節の主イエスの言われた御言葉をお読みします。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことはない。」

主イエス・キリストは、魂の飢えを満たし、この世の日々を喜びのうちに全うするために、御自身を「新しい生命のパン」として、私たちに差し出されているのです。御言葉に捉えられ、キリストと共に喜ぶ者に、主イエス・キリストは、今もなお繰り返し「生命のパン」を与えて下さっています。

私たちが弱りきってしまわないために、与えられた御言葉を確かなものとして生活の中に持ち帰ることが出来るために、永遠の生命に至る長い道のりを歩き通すことが出来るために、主イエス・キリストは、今日も恵みの御手を差し伸べ、私たちに「生命のパン」を与えて下さり、この世の生活を支えて下さっているのです。

未だその「生命のパン」の味を知らないお一人でも多くの方々、ご家族の上に「救いの素晴しさ」を知ってほしいと祈り願い続けます。

お祈りを致します。