キリストのもの

聖書:ゼカリヤ書7章6-12節, コリントの信徒への手紙二 10章7-11節

中学生のプロ棋士の活躍で、将棋の世界に大きな関心が集まり、特に将棋教室に入門する子供たちが急増していると聞きました。将棋という勝負事は、知らない人には見た目で判断できないものです。見た目では分からない勝負に大勢の人々の関心が集まるということは、今の時代には珍しいことではないでしょうか。目先のことばかりに関心が集まり、先のことなど考えないというのが、現代人だと思っておりました。パッと見ばかり気にしている時代。デパートの一階は化粧品コーナーで占拠されたかと思うほどで、また男まで化粧する時代です。そこに突然、人間がその内側で考えていることの違いに関心が集まるということが起こると、それは喜ばしいことかもしれないと思いました。それは、うわべのことだけ見ていては分からない世界がある、ということなのですから。

今日の7節。「あなたがたは、うわべのことだけ見ています。」これを聞く限り、見た目ばかり気に掛けるのは、現代人の特徴ではないことが分かります。将棋に限らず、勝負事は見た目の良さでは勝てないと思われますが、そうは思っても見た目に惑わされるということは日常茶飯事に起こります。「コリント教会の人々は、やはり教会の指導者たちを表面的に見ているのではないか?」とパウロは言うのです。表面的に見るその見方についても人さまざまです。人は時には、ある人に好意的な感情を持ち、あるいは反発を感じますが、そのことは教会の指導者たちに対しても同様でありましょう。

「○○先生がよい」とか、「いや、わたしは××先生の方がよい」とかいうことが、コリント教会の信徒たちの間でも公然と語られていたことは、コリントの第一の手紙の冒頭に指摘されていました。「自分たちの教会が祈って待っていたら、主がこういう先生を送ってくださった」という信仰はどこかに行ってしまったのでしょうか。私は信徒として30年、教会生活を方々の地方で送りましたが、籍を置いて居たのは、ほとんどが大きな教会でした。ある教会では、牧師の批判が公然とされていました。

それもまるで、他人事のように牧師を批判し、あれこれと見比べている。パウロもそういう酷評を受けていたようです。一方、無責任な批判をする人々がいるかと思えば、他方では偉大な伝道者であるパウロを貶めることによって、自分たちの名を高くしようとする人々の画策もありました。しかし、パウロが批判するのは、その人々を裁くためではありません。ただ教会の利益となるために、このように手紙を書いて教えるのです。だからこそこの手紙は、全く批判が当てはまる人もいれば、当てはまらない人もいるコリント教会の前会衆に読まれたばかりでなく、教会から教会へ回覧され、書き写されて、やがて聖書正典の中に編集されたのでした。どの教会でも学ぶべき、神によって与えられた言葉となりました。

さて、パウロが言う「自分がキリストのものと信じきっている人」とは、だれのことでしょうか。それは、「自分がキリストに所属している」という意味です。いろいろな訳を見ていると「自分がキリストを持っている」という訳もありました。「自分が持つ、だな度とは、キリストに失礼ではないか」と思うかもしれませんが、「所属する」「~のものである」という意味は、「相互に、お互いにそうである」という関係です。たとえば結婚の関係でいえば、夫は妻に所属し、妻は夫に所属しています。そのように、わたしたちが「キリストに所属している」ということは、わたしたちが「キリストを持っている」ということでもあります。

洗礼を受けて教会の中に入るということは、キリストの体の肢(メンバー)となることでありますが、同時に、キリストがお約束くださったように、わたしたちの中にキリストが御父と共に入って来て住んでくださるということ(ヨハネ14章23節)。この両方を意味します。さて、そこで今日の7節で、「自分はキリストのものと確信している人」ですが、それは一体誰のことなのでしょうか。もちろん、わたしたちはこの確信をもって生きたいし、生きるべきです。しかし、同時に私たちは時にはキリストのものであるという確信が持てなくて悩むこともあるような弱い者でもあります。

わたしたちがキリストのものであると確信する理由は、ただ一つ、それはわたしたちが父、御子、御霊の名によって洗礼を受けたからにほかなりません。ですから、確信が持てない時にも、信仰の弱さに悩む時にも、ただこの地上の歴史の中で時と所を定めて一人一人に対して執行された洗礼を思い起こさなければなりません。

しかしながら、パウロがここで問題にしているのは、信仰の弱さを嘆いている人々のことではありません。そうではなくて、自分がキリストに所属する者だと確信している一方で、他の人々を見下げている者たちなのです。つまり具体的には、「自分たちこそ教会の指導者にふさわしい者である」と自分を持ち上げる一方で、パウロたちをそうではないかのようにこき下ろしている。それこそが問題なのです。こういう人々は自分がキリストのものだと主張していますが、自分が気に入らない人々については、キリストのものではないかのように決めつけ、こき下ろして、排除しようとするからです。

ちょうど、「自分は天に国籍を持つ者だが、あの人は、この人は天にはふさわしくない」と自分で勝手に判断するようなものです。まして福音伝道者と称する人々に、このようなことがあって良いのでしょうか。だからパウロは「キリストに属するもの」とはどのようなことか、具体的に教えるのです。キリストのものである人は、キリストに従う者です。キリストに従って、一方では福音を教える者であり、また一方では福音を聞く者であります。福音を聞いてキリストに従う者になるのです。

パウロはキリストに属する者としての自分を高く掲げます。それは、何も自分をよく見せよう、大きく見せよう、立派に見せようとしたいからではないのです。コリント教会には、また他の教会でも今に至るまでそうですが、「自分こそ偉い、権威ある者だ」としたいあまり、パウロをけなす、つまり本当に福音に命を賭けて主に従っている伝道者をけなして「あの人はまるでダメだ」という人々がいる。そンなことを言わせておいてよいのでしょうか。キリストがそれを放置しておきなさいと仰るでしょうか。

仰らないと思います。仰らないとパウロは確信しているのです。なぜなら、パウロにはコリント教会に対して、また他のすべての教会に対して与えられている務めがあるからです。彼は命がけでコリントに伝道しに行きました。そしてその後も教会にこうして心を尽くし、力を尽くして手紙を書いています。パウロの務め、その目的とは何でしょうか。それは「あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるため」なのです。そのためにこそ、彼は自分に与えられている権威、権能を高く掲げているのです。それは何しろ、あなたがたを建てるために与えられている権威です。主から与えられている権威だからこそ、誇るべきもの、誇らずにはいられないものなのです。

「あなたがたを造り上げる」ための権威、とパウロは申します。主イエスによって与えられたその権威の目指すところは、コリントの人々の救いのために他なりません。それはすなわち信者の徳を高めることでもあります。「造り上げる」と訳されている言葉は、「家を建てる」という動詞です。こうして建てられるのは主イエス・キリストの教会です。造り上げるために、教会の基を据えて、建設しようとするのです。コリントの人々にとってこれほど良いこと、利益となることが他にあるでしょうか。

福音によって建てられる救いの教会。それこそ、喜んで建てられるべきものではないでしょうか。皆に呼びかけて、一緒に教会を建てるべきではないでしょうか。その教会はあの人のもの、この人のものではない。主がお建てになる教会です。主の福音によって教えによって建てられる教会。わたしたちを愛してくださる主の忍耐によって建てられる教会です。さあ、コリントの人々は次のどちらを信じたのでしょうか。パウロを、福音を宣べ伝える権威ある使徒と信じるのでしょうか。それともパウロをけなし、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』とこき下ろす人々を信じるのでしょうか。本物の使徒を選ぶか、偽者の使徒を選ぶかは、教会の人々の判断です。どんなにパウロが真心を込めて教えます。論じます。教会の人々は、それを受け止める信仰が問われるのです。それがなければ、教会は建てられないのです。

これはいつの時代でも、わたしたちでも同じです。福音を語る者は力を尽くして、主の御心がどこにあるかを尋ね求め、それを伝えるのであります。しかし、福音を聞く者はいつまでもいつまでも聞く者のままでいるだけでしょうか。聞くだけに終わる者でしょうか。そうではないのです。聞いて行う人になりなさい、と言われています(ヤコブの手紙1章22節以下)。私は家の中で一番年下で育ちました。いつでも主役ではなく、その他大勢の立場が好きでした。それは大人になってからも変わりませんでした。全責任を持たされるより、仲間と共にワイワイと、上に立つ人には協力するけれども、先頭切って何かしたいとは思わなかった・・・と昔を振り返ります。

皆様の中には、若い時からの教師を大事にしていつまでも楽しい学びを続けていらっしゃる方がいらっしゃることでしょう。いつまでも教え、教えられる立場は変わらない。それは本当に良い交わりではありますけど、教師が高齢になって教えることができなくなった時は、その会は残念ながら閉じることになるでしょう。しかし、教会はそうではないのです。生きておられる神の教会ですから。教会では、教えられていた者が、やがて教える者になって行く。教会の子供だった人の中から、やがて教師になる人が育てられ、建てられる。成宗教会で、一番そういうことが具体的に起こっているのは、おそらく教会学校でしょう。初め礼拝に来て説教を聞くだけだった信者が、やがて教会学校の教師になった。立場が少しずつ変わるということが期待されます。恵みを沢山受けている者はやがて果物の木のように花開いて、実を成らせ、やがて人に分け与えるようになる。それはいろいろな分野で言えることでしょうが、教会においては、何よりも御言葉が教えられ、伝えられ、教会の人々の徳が建てられることが目指されるべきであります。

それは自己実現を目指す世界とは全く違うものです。一見して華やかで、見栄えがよく、いかにもこの人について行けば何もかもうまく行きそうな気がする指導者たちが、最終的にはパウロと敵対する勢力となってしまう危険はいつでもあります。それは主イエス・キリストの教会を破壊に至らせる危険に他なりません。自己中心によっては、教会は建てられない。甘い言葉、巧みに人を操ることによってあなたがたを打ち倒す指導者たちか、どうか、それを見極める。見抜くのはだれでしょうか。長老たちであり、普通の一般の信者たちにかかっているのではないでしょうか。しかし、長老もまた、教会の会衆の中から選挙によって選ばれるのですから、やはり、教会が造り上げられるか、打ち倒されるかは、わたしたち一人一人の祈りにかかっているのです。

御言葉に仕える者は皆、御言葉による権威を与えられていることを思います。逆に主の権威をいただかないで、人間の考えで福音を宣べ伝えるということは危険なこと、あり得ないことではないでしょうか。キリストのものであるわたしたちは、キリストに従う者です。聞く者が語る者とされ、語る者が聞く者とされ、御言葉の権威によって教会が建てられますように。等しく御言葉に仕える者として、神を仰ぎましょう。最後にルカ10:16を読みます。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」125下。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

聖なる御名をほめたたえます。今日の礼拝、わたしたちを集め、忙しい人々、ご高齢の方方、たくさんの事情があって来られない人々のことを思いながら、あなたの御前に感謝と賛美を備えることができました。

わたしたちは真に弱く、信仰を確信することができず、絶えずあなたの差し出される恵みに背いているものです。しかし、あなたは限りない忍耐をもってこのようなわたしたちを、今日もこうして礼拝を守らせてくださり、御言葉を聴かせてくださいました。ありがとうございます。どうか、御言葉によってわたしたちが新たに造り変えられますように。罪赦され、キリストの命を約束された者として、主の与え給う御業に励む者となりますように。困難な時代を生きているわたしたちが、常に主を見上げて御心を尋ね求める者となりますように。

6月最後の礼拝となりました。どうか、飛ぶように過ぎ去って行く年月を心に留め、救いに招かれているわたしたちが、今日の日、また今週を主に従って生き、祈りを熱心に続ける者としてください。今日はナオミ会の例会後にガレージでの奉仕が予定されています。良い奉仕の機会となりますように。また、教会の様々な活動に参加する人々をも増し加えてください。今、病床にある方、またご家族の養育、病気、介護に携わる方、仕事、旅行など、様々な困難に直面しておられる方、どうかあなたを見上げ、祈り、助けが与えられますように。東日本連合長老会の交わりを豊かに祝福してください。また教区、教団の教会が直面している多くの問題を、どうか御手によってお導きください。

この多くの感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストの優しさと寛大さをもって

聖書:イザヤ42章1-4節, コリントの信徒への手紙二 10章1-6

 先週の月曜日、夕暮れ時の横浜、馬車道から歩いて指路教会に向かいました。そこを会場にして開かれる全国連合長老会の教会会議に先立つ礼拝でした。旅行鞄を引いて全国から集まって来る94教会の議員たちで会堂は満席でした。日本基督教団の長老派の教会は改革長老教会協議会という運動体をもっていますが、その中心を担っているのが、連合長老会です。普段は地域長老会の中で活動していますが、年に一度こうして集まり、礼拝を捧げ、会議に望みます。

牧師たちが顔を合わせるのは、年に一度か二度なので、お互いに少しずつ年を取って行くことがよく分かります。苦労がにじみ出ている。自分の教会のことだけでも本当に大変です。教会員の安否、求道者のこと。災害を経験した教会も数多くあります。会堂の保全。地域社会とのこと。家族のこと。嬉しい騒ぎならば良いのですが、そうでないトラブルも沢山あります。子育てや教育で悩みを抱えながら、親の介護で、中には寝たきりの配偶者の介護で苦労しながら、という教師もいます。自分のことだけで手いっぱいの教会、そしてそれぞれの教会でも、自分の悩み、困難を抱えていない人はほとんどないかもしれません。

それなのに、集まって来る。遠くから来る人々のために交通費補助をしますと言って、集められるのです。教会は不思議なところです。疲れ果てている月曜日の夕方、電灯の明かりの下での礼拝で聞く招きの言葉。最初の方にいきなり唱和する十戒。熊本錦が丘教会の牧師が司式、説教、聖餐のすべてをつかさどりました。そして信仰告白はニカイアコンスタンチノーポリス信条を唱和しました。これは使徒信条と並ぶ基本信条です。その成立は古く4世紀です。シーンと静まり返った会堂に響く、司式者の祈り、御言葉を聴き、賛美する時、私たちはただ、今を生きているだけでなく、キリストと共に生きたすべての時代に連なっている心地がしました。苦労の山、問題の山の中で、同労の教師と出会う。長老と出会う。今回は赤ちゃんをあやしながらの教職が二組いました。不思議な力を受け、慰められて、また全国に散って行ったことでしょう。

そうすると、初代教会に山積する問題も、不思議に身近に感じられるのですが、パウロはこれまでコリント教会の人々に、捧げる心、奉仕について勧めをなしてきました。これはコリントの人々がパウロの伝道者としての忠告、教会を建てる者としての忠告を、彼らが聞き入れて、悔い改めを形に表したからです。こうしてパウロは教会の人々と心を通わせることができた。再び信頼関係を回復することができたからこそ、奉仕について勧めをなしたのでした。それは実状を知り、共に悩むからこそ築かれる信頼ですが、その信頼は人対人の信頼でないことは、既に何度も申し上げました。コリントの人々がパウロを信頼するということ。パウロがコリントの人々を信頼するということだけなら、教会は建てられないのです。両方が信頼しているのは、教会の主、イエス・キリストへの信頼です。そしてイエス・キリストが身をもって示してくださった神への信頼です。この信頼、信仰を土台とするからこそ、教会は建てられるのです。

奉仕する側は神に奉仕するのだと思い、奉仕できることを感謝する。また奉仕を受ける側も、神からの恵みだと思い、感謝する。こうして生まれる奉仕は特定の人にだけできるものではなく、また特定の人に対してだけなされるのではない、という理解もまた、わたしたちが神の公平、神の隔てない愛を見上げているからなのです。

同じように、10章でパウロが新たに始めた議論もまた、人間的な思いから出たものではありません。「このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います」というところに最初に注目しましょう。このわたしパウロが、という主語は大変に強調されています。わたし(エゴー)という主語は普通言わないのですから。わたしパウロは、どんな人でしょう。あなたがたの中にはこう思っているのではありませんか、と彼は言いたいのです。つまり、コリント教会では、パウロを軽く見る人々でこんな陰口が叩かれていたようです。「パウロは面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」と。

「弱腰」という言葉は「慎ましい」という意味です。しかし、「小さくなっている」ともとれるのです。それでパウロを貶めたい人々は、「あの男は気が小さくて、面と向かっては言いたいことも言えないから、犬の遠吠えのように、遠くにいる時に厳しいことを言って我々を指導しようというのか」と批判し、ますます軽蔑していたようです。しかし、教師という者はできるだけ穏やかに教え、受け入れてもらえるのなら、それが一番良い方法です。まして主の教会を建てるのに、脅したり、強権的に抑え込んだりするべきでしょうか。

今日の旧約聖書に読まれましたイザヤ書はイエス・キリストのご性質、お姿を指し示しています。救い主は「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」方です。主イエスも新約聖書マタイ11:29-30で次のように教えられました。21上。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」正にこの柔和さこそ、主イエスが身をもってわたしたちに表してくださったものであります。また日々、御自身の僕たち、すなわち教会を伝道牧会する者たちを通して表してい給うものであります。

ところが、残念ながらコリント教会には、そのようにパウロを見ることができない人々がいました。後から来た指導者たち、パウロに敵意を抱く人々は、パウロが肉に従って歩んでいると思っているのでした。「肉に従って歩む」とは、普通の意味では、不誠実な行為。たとえば汚職、賄賂、今はやりの忖度などでしょう。しかし、この場合は外見のことです。うわべのきらびやかさ、見せびらかしは、自分をよく見せようとする人のすることです。そういう外見しか見ない人は逆に、パウロの目に見えて優れたところのない肉の姿を見て、「あいつは外見通りのみすぼらしい、つまらない人間だ」と見下しているのです。パウロは、この世の人々が称賛するような賜物は何も授かっていなかったようで、群れの中のごく平凡な一人に過ぎないかのように侮られていたというわけです。

しかし穏やかに教えても通用しない人々に対しては、離れている時しかできないだろうと鼻で笑っている強硬な態度を、離れている時ではなく、近くにいる時に取りますよ、というのです。それは最後の手段であって、そうならないように願っているのです。パウロは「肉において歩んでいる」といいます。この肉とは「肉体を持って生きている」ということです。また「世の人々と交わりを持っている」ということです。従って、自分の肉の弱さ、交わりの中での試練をも絶えず経験します。しかし、それがあればこそ、伝道をすることができ、また伝道しなさいと言われているのです。

しかし「肉に従って戦うのではない」とパウロは断言しています。肉に従って戦うとは、人間的な手段を頼りにして戦うことであります。人間的な手段、すなわち、頭がよい、姿がよい、声がよい、地位がある、名誉がある、お金がある、いくらでも挙げられますが、実はこれらも一つとして上からの賜物として人に与えられなかったものはありません。それなのに、少しも天を仰いで感謝することがない。神に栄光を帰すことがない。その中に召し上げられるでしょうが、人は日々、感謝するチャンスを逃しているようなものです。

パウロは戦いと言います。クリスチャンになることは、主の戦いに参加することに他ならないからです。わたしたちはもう戦争はいやだ、平和が良いと思っておりますが、実はキリスト者の生涯とは、絶えざる戦いであります。なぜなら、神に仕える身となるならば、サタンとの間に休戦条約を締結することは決してあり得ないからです。もし、神の僕としての戦いを止めれば、楽になる、平和になると考えるでしょうか。逆に平和になるどころか、サタンから絶えざる攻撃を受けるので、わたしたちには絶えず不安と苦悩が付きまとうことになるでしょう。

では、わたしたちの戦いの武器は何でしょうか。それは神に由来する力、聖霊の力であります。従って戦いは霊的な戦いです。パウロは福音の宣教を戦いに例えています。その力は要塞をも破壊することができるのです。このことから、イエス・キリストの真実な僕の特徴が語られていることが分かります。すなわち、主に従う人々はどんなに肉の弱さに包まれているとしても、その弱さによって主の戦いに加わることができないということはありません。なぜなら神の霊的な力は、弱いわたしたちの中に燦然と光輝くからです。Ⅱコリ4:7を思い出しましょう。329上「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」

この戦いに先頭に立って主の旗を掲げる者は、御言葉に仕える者、すなわち牧師職にある者です。とにかく牧者は主の旗を掲げて他の者に先駆けて進む者とならなければならない、と宗教改革者は申しました。サタンが最大の苦痛を与え、最も激しく責め立て、最もしばしば仕掛けてくるのは、これらの仕え人、牧師に対してであると。私もそう思います。成宗教会の77年の歴史の中に大変な試練の時がありました。成宗教会だけではありません。多くの教会が経験したこと。また、今まさに経験していることです。その試練は、貧しさや病苦や災害もありましたでしょう。

しかし、それよりももっと辛いことがあったに違いありません。それは端的に言えば、十戒で与えられている戒めに反することが、世の中に満ちあふれている悪が教会の中にも入り込んで来る。牧師を苦しめ、役員、長老を疲弊させるような罪。それはコリント教会で起こったことであり、全世界の教会でも、起こらなかったと自慢できる教会は恐らくほとんどなかったことでしょう。心を一つにして祈れるなら幸いですが、それもできないような苦しみを経験したのです。

しかし、それにも拘わらず、やはり聖霊の御力は教会の弱さの中に奇跡のごとく現れました。主は成宗教会をも愛してくださいました。主は教会に祈りを残してくださいました。わたしたちは何を祈るでしょうか。すべてを善きことに変えてくださるキリストの執り成しを信じるからこそ、わたしたちは洗礼をいただいたのです。永遠の命をいただくためにキリストと結ばれたのです。それがなければ生きるにも道がなく、それがなければ、死を迎えることは、ただの恐怖にしかすぎません。わたしたちは主に結ばれているからこそ、祈ることができます。祈りがキリストによって聞き上げられることを信じて祈るのです。

あれを、これをと求めることは多くありますが、わたしたちは何を求めるべきか、本当に良いことは、必要なことは何か、さえ分からないものであります。それは社会の混迷、政治の混迷、世界の混迷を見ても分かります。絶対にこれが正しい、というものはわたしたちには見通せないのです。ただ、わたしたちは信仰によって祈ることができます。主は求める者に聖霊をくださると仰いました。わたしたちはこの力によって理屈を打ち破る、とパウロは主張しました。理屈とは神に逆らう人間の知恵です。

人間の知恵、賢さが否定されているのではありません。神の霊に逆らう高慢が打ち破られるために、わたしたちは心を低くするよう命じられているのです。高ぶる者を罰する用意が出来ているとパウロが言うその時とは、いつでしょう。それはあなたがたがキリストに従う者となった時であります。不従順を罰する、その「罰する」とは、「人の正しさを証明してやる」ということでもあるのです。裁きと救い。この両方が主イエス・キリストの教会に委ねられています。わたしたちが絶えず主に従う者となるように、執り成してくださるキリストの優しさと寛大さを思い起こしましょう。

 

父・御子・聖霊なる三位一体の神様

尊き御名をほめたたえます。真にあなたの恵みを忘れる恩知らずと、高慢の罪に絶えずさらされている者をお見捨てになることなく、寛大と忍耐の限りを尽くしてわたしたちを招いて下さる御愛に感謝いたします。

日本の社会の困難をわたしたちは語りますが、世界を思う時、はるかに大きな試練と困難の中を生きている多くの人々が思われます。どんなところにも福音を宣べ伝えて下さり、あなたに従う人々を起こして教会の民としてくださることを感謝します。わたしたちは少子高齢化社会に生きていることを平和と繁栄の結果であると感謝すべきではないでしょうか。主よ、長寿をいただいているわたしたちの多くが多くの感謝を捧げる礼拝を守ることができますよう。礼拝の民として天にも地にも祝福されていることを証しして、教会に希望を与え、社会に希望を与えてください。

主に従うことこそ幸いであることを、身をもって証しすることができますように。教会に若い世代は多くありませんが、どうか、わたしたちが家族、友人、社会のために救いを祈る者でありますように。主よ、わたしたちは多くの恵み、賜物を豊かにいただいておりますが、高慢になって主を忘れ、感謝を忘れ、多くの信仰の先輩の祈りを無駄にすることがありませんように。成宗教会が建てられ、地域の東日本の教会が建てられ、日本基督教団が主の御旨にかなった教会形成ができるようにお助け下さい。

今週の教会の働き、信徒の方々の働きと生活を、恵みを以て御支配ください。ご病気のために、ご高齢のために不調に悩んでおられる方、お仕事で礼拝を守ることができない方々を、その所に在って顧みてください。小さい子どもたち、教会学校の生徒たちの上に主の恵みの導きがございますように。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

感謝が生れる奉仕

聖書:ホセア書10章12節, コリントの信徒への手紙二9章8-15節

 今日の最初の聖句、8節をもう一度読みましょう。「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。分かりやすい文とは言えない気が致します。これを口語訳聖書で見るとこうなります。「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ちたらせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。」これをカルヴァンの註解書で見ますとこうなります。「神は、あらゆる恵みをあなたがたの内にみち溢れさせる力のある方なのである。それはあなたがたが、常にすべてのことにおいて十分なものをことごとく持ち、あらゆる善い業に富む者となるためである。」

このように聞いていると、この聖句は大きく二つのことを伝えようとしていることが分かるのではないでしょうか。つまり、一つは、神は力ある方であって、わたしたちにあらゆる恵みを満ちあふれさせることができる、というのです。わたしたちに、です。あらゆる恵みを、です。そのことを、一体わたしたちは信じていた、知っていた、と言えるでしょうか。わたしたちは毎日、絶えず、不足を感じている。感じているばかりか、口に出して言うのです。ああ、時間が足りない!健康が足りない!お金が足りない!力が足りない!と。こういうわたしたちが、今日の御言葉に出会っているのです。「神は、あらゆる恵みをあなたがたの内にみち溢れさせる力のある方なのである」と聖書は宣言しています。

これは、わたしたちの現実とあまりにかけ離れているのではないでしょうか。わたしたちの多くは正直、そう告白しない訳には行かないでしょう。先週は今年のペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝を守りました。聖霊が来てくださった日、教会が生れた記念日です。ところで、聖霊はだれのところに来てくださったのでしょうか。主イエスの約束を信じた人々のところに来てくださったのです。信じただけで、バラバラになっていたのでしょうか。そうではありませんでした。彼らは信じたからこそ、一緒に集まりました。集まって祈っていたのです。主の約束が実現することを熱心に祈り、求めて、待っていた。その人々のところに聖霊は降ってくださったのでした。

ルカの福音書11章で主イエスは弟子たちに教えておられます。熱心に祈ることを。11章9節以下を読みます。128頁「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

わたしたちは絶えず思っています。ああ、時間が足りない!健康が足りない!お金が足りない!力が足りない!と。しかし、聖書が「神は、あらゆる恵みをあなたがたの内にみち溢れさせる力のある方なのである」と宣言するとき、わたしたちが、それを信じることができるのは、聖霊の助けによるのです。そうでなければ神がわたしたちに豊かにあらゆる恵みをくださろうとしておられるとは、だれにも信じられないでしょう。だからこそ、何よりもわたしたちが求めるべきことは、聖霊の助けなのではないでしょうか。

そして、今日の8節が伝えようとしているもう一つのことを申しましょう。それは、神がわたしたちにあらゆる恵みを満ちあふれさせてくださる目的です。神がわたしたちに賜物をくださる目的は何でしょうか。それはあなたがたが、常にすべてのことにおいて十分なものをことごとく持ち、あらゆる良い業に富む者となるため」であるというのです。あらゆる良い業に富む者となるために。しかし、もしわたしたちが時間も、健康も、お金も、力も用いて、思う存分自分のために何でもしようと思うなら、実際いくらあっても足りない。「もっと、もっと!」と思うばかりでしょう。その結果、「神さまは私にあらゆる恵みを満ちあふれさせてくださった」と満足することは、とてもできないことでしょう。

このことからも、神の御心はわたしたちが善い業を豊かに行う者となることであることがよく分かるのではないでしょうか。9節にパウロが引用しているのは、詩編112篇9節の言葉です。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。惜しみなく分け与え、という言葉は、一部の人々に惜しみなく与えたのではなく、散らして与えた、という言葉です。貧しい人々の隅々に届くように、という意味が伝わってきます。神は憐れみと慈しみに富む方であると信じているわたしたちは、弱り果てている人々を思いやる心が求められているのです。

新鮮な水源をもつ泉からは絶えず水が流れ出るものです。同様に信仰者の寛容な心も、泉の水の流れのように永久に枯れないはずではないでしょうか。パウロは、わたしたちが良き業を果たすのに倦み疲れないように、この預言者の言葉を掲げています。私も若い頃には良き業をしようと大変頑張った時代がありました。しかし、自分の力で頑張るならば、すぐに行き詰ってしまうことが多いものです。良き業を果たしたいという志もまた、自分に期待するのではなく、ひたすら主に期待をかけるものでなければなりません。

10節はこの聖書のように未来形として訳すこともできますが、これは祈りの言葉として解釈する方を宗教改革者は勧めています。キングジェイムズ版の聖書もカルヴァンと大体同じです。「さて、種蒔く人に種を備えてくださる方が、あなたがたにもまた、食べるべきパンを与え、あなたがたの種を増やし、そしてあなたがたの義の実りを増し加えてくださるようにと祈ります。」

大変慰めに満ちた祈りです。なぜなら、種を与え、糧を備えてくださるのは、神の恵みなのだ、と断言されているからです。働き人は自分の労働だけによって、自分や他の人々を養っていると思いがちだが、そうではありません。自分の頑張りでこれが出来たと考える人は、元気な時は良いかもしれませんが、常に自分の努力だけが頼りというのは絶えず不安にさらされている状態でもあります。元気な時は神を忘れて高慢になり、そして弱り果てた時には、頼るべき方を思い出すこともできないことほど不幸なことはありません。

申命記8章17節で、モーセは神に救われた民に向かって、次の戒めの言葉を伝えました。「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」295上。神は、種を蒔く人には、蒔くべき奉仕の種を与えてくださる方であり、そして同時にその人には自分が生きるために必要なパンをも備えてくださる。神はその両方をくださる方なのです。

このことをわたしたちは心から信じているでしょうか。人間は生来自分のものを自分のものとしていつまでもいつまでも取って置こうとするほど狭量な者に過ぎません。しかし、神はイエス・キリストによって、御自身がどのようなお方であるかを知らされました。ヨハネ福音書3章16節が証しするとおりです。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」わたしたちは、主キリストが御自身の血によって贖い取った教会の中に入れられ、キリストの体の教会を建てる働きを与えられています。

そこで、コリントの信徒への手紙二、8章9節を思い出しましょう。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」ですから、その結果をパウロは今述べています。今日の11節。「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。」この訳では、「すべてのことに富む者とされて」となっていますが、元々は「すべての純真さの故にすべてにおいて豊かにされて」という意味です。つまり、豊かさの源は、単純に主を信頼する信仰であり、そこから物惜しみしない、まごころ、寛容な心が生れて来るのです。主のわたしたちに対する真心に出会って、わたしたちは真心をもって主に応えるのです。

そうすると、このコリントの手紙で、取り上げられている奉仕の働きは、ただ、この時代にパレスチナで起こった飢饉の問題ではなくなりました。エルサレム教会の聖なる者たち(すなわち、信者の人々)を助けよう、不足を補うために募金をしようという一つの運動、一つの活動にとどまることではないことが分かります。この活動はただ豊かな教会の人々から、困っている教会の人々へ、この時だけたまたま行われるのではありません。なぜなら、助ける人々も、助けられる人々もお互いだけを見ているのではないからです。

では彼らは何を見ているのでしょうか。彼らは皆、これらの活動を通して、神を見上げているのでした。この奉仕を捧げる者たちは、この奉仕を通して神を見るのです。「ああ、わたしたちは、人に何かを上げているのではない。本当は神様に献げているのだ。神様が喜んでくださるのが分かるから」と彼らは言うことでしょう。そして一方、困窮の時に援助を受ける人々も、「ああ、コリント教会さんはありがたい、親切な人々だ」では決して終わらないでしょう。この感謝を、彼らは神様に捧げずにはいられないでしょう。主の教会だから。主の贖い。主の罪の赦し、主の命に結ばれているからこそ、この助けが与えられるのだ。「何と有り難いことか。主よ、どうか、わたしたちの感謝が遠くの教会にも近くの教会にも届きますように。今はわたしたちには何もできないけれど、何の力もないけれど、あなたが自ら、彼らの奉仕に、愛の業に報いてください」という祈りが必ず生れることでしょう。

13節で、パウロが特に強調していることは、これらの教会の間の奉仕の土台になっているものについてです。エルサレムの教会はペンテコステの教会、聖霊が降った最初の教会です。キリストの福音が公然と宣べ伝えられた最初の教会です。彼らは伝道者が送り出され、世界に教会が建てられたことを知りました。エルサレム教会の困窮の時に遠くの教会から、異邦人の教会から援助の手が差し伸べられたことを感謝すると思います。しかし何と言っても彼らの喜びは、これらの異邦人たちがキリストの福音を聞いて、信じて従う者となったこと。それを、堂々と公言する教会となったことであったに違いありません。

そして、エルサレムの人々は「自分たちだけが助かれば良い」とは思わず、この施しがエルサレム教会だけでなく、必要が起これば、どこにでも助けを惜しまず分け与えられると分かれば、どんなに喜ぶことでしょうか。なぜなら、彼らも、コリントの教会も、そしてもちろん、迫害の中にあるマケドニアの諸教会も、主に在って一つだ、と心底実感するからです。そしてもちろん彼らも、このすべてのことを、神の素晴らしい恵みと信じて感謝するでしょう。そして、大きな励ましを主から受けて、コリント教会をはじめ、他の教会のために祈るでしょう。

パウロはこのように述べました。これは既に起こったことではなく、これから起ころうとしていること。必ずこのように教会が教会同士、助け合い、祈り合い、支え合う未来が今実現しようとしていることを、パウロは確信しているのです。振り返ってみれば、使徒たちの伝道には困難につぐ困難。迫害に次ぐ迫害がありました。これからも、大変な苦難が待ち受けていることをパウロは知っていたと思います。しかし、その中で、語られた美しいヴィジョンは、決して幻には終わりませんでした。主の御心に適うことは、聖霊の助けによって、必ず実現されて行くからです。

わたしたちの時代も同じです。祈りは聞かれます。「祈ることしかできない」などといいますが、本当に主を信頼し、祈り求めることこそ、わたしたちにできる最良の業の始まりです。善き業に先立つ祈りが在ってこそ、善き業から感謝が生れるのです。主の教会を建て、主の救いに入れられて生きる者となりましょう。祈ります。

 

主なる父なる神様

御名をほめたたえます。あなたは主イエス・キリストによって、計り知れない慈しみをわたしたちにお示しになり、恵みによって救いに招いて下さいました。あなたの喜ばれる奉仕は、わたしたちの交わりの中に感謝を生み出すことを教えられました。どうかわたしたちが自分の力を頼ることなく、あなたの助けによって、主の喜ばれる活動をし、すべてをあなたに委ねることができますように。すべてを通して、御名が崇められますように。

わたしたちの多くのものが高齢になっており、奉仕と言っても何もできないと思うわたしたちですが、奉仕は何よりもまず、聖霊の主の助けを祈り求めることから始まることを知る者でありますように。どうか、成宗教会の今年度の歩みの上に、主の聖霊の御支配、お導きを切に願います。わたしたちは小さな群れですが、東日本連合長老会の中で共に教会を建てて行くことができる希望を感謝します。また今週横浜指路教会で開かれる全国連合長老会の教会会議があなたの御心に適って、用いられますように祈ります。また、日本基督教団の様々な困難と課題を抱える諸教会が、主の教会を信じる信仰の交わりの中で、希望を持って福音に仕えることができますよう、お導きください。

教会の諸活動、特に教会学校に豊かな働きをさせてくださることを感謝します。また聖研祈祷会、ナオミ会も恵まれて活動出来ていますことを感謝します。今、礼拝に出られない事情の教会員を顧みて恵んでください。

この感謝と願いとを、尊き主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

福音を世界に!

聖書:エゼキエル書37章1-10節, 使徒言行録2章1-13節

 世界中で起こっている痛ましい無差別殺人事件は、世界が今は形の見えない戦争状態にあることを示しています。人が集まるところ、しかも平和を楽しんでいる人々の所に、あるいは恵まれた人々、社会の中枢にいる人々が集まる場所がテロの標的になっている。これは本当に恐ろしいことです。太平洋戦争の末期には特攻隊が編成され、片道だけのガソリンで敵地に飛び立つということが行われました。つまり、国家の命令で行われた自爆テロのようなものです。日本人はあのようなことは二度と起こしてはならないし、二度と起きないと思っていたのです。ところが今、自分の命もろとも、多くの人々の命を滅ぼすことを実行する人々が世界中にいるということですから、わたしたちは明らかに、見えない戦争という狂気の世界の中に、生きています。

しかし、わたしたちは形の見えないものを恐れて隠れて生きてはいません。それどころか苦労して出かけるのです。行き先に幸いがあると信じるからです。ペンテコステの礼拝は、2000年前エルサレムで起こった奇跡を記念する日です。2000年前のその日、それは主イエス・キリストが十字架の死を遂げられた過越しの祭から50日目の五旬祭というもう一つのユダヤの祭りでした。主イエス・キリストによって招かれ、12使徒とされた弟子たちの一人は主を裏切って敵に売り渡しました。しかし他の11人も自分の志や力によって主に従うことができませんでした。

最初の弟子たちとはそのような人々だったのです。そして、わたしたちはどうかと言えば、わたしたちもそうではないでしょうか。従おうとして従えなかった。何か不都合なことがあると逃げてしまうような者。主はそのような者たちをご存じでした。昔も今も。そのような者たちの罪を赦して再び主に従う者としてくださるために、主は復活してくださったのではないでしょうか。再び主に出会った使徒たちは喜びました。主は40日、彼らと共にいらして、聖書について教え、神の国について説き明かしてくださいました。そして約束してくださったのです。使徒言行録1章8節。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」213下。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」この約束の意味を使徒たちは理解したでしょうか。いつ、どこで、何が、どうやって、ということは何も明らかではありませんでした。彼らは復活の主にお会いした後も、主が天に昇られるお姿を見送った後も、今までの彼らに過ぎませんでした。つまり、臆病な、弱い弟子たちの群れでありました。かつてたくさんの預言者が迫害を受けたように、そして彼らの主イエスさまが迫害を受けたように、彼らもいつ何時、憎まれ、叩かれるかもしれないと思っていました。敵を恐れて目立たないようにしていたかもしれません。

そんなに消極的な彼らが、ただ一つ一生懸命、熱心にしたことがあります。それは皆で集まって祈ることでした。使徒言行録1章15節によると、百二十人ほどが一つになって集まっていたようです。弱い人々が一つになって集まる。それは、一つになって集まる理由があるからこそ集まるのです。何ができるわけでもない。見通しも無い。ただ、一つになっているのは、ただ一つの約束を信じているからではないでしょうか。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」

時は五旬祭の日でした。主が十字架の死を遂げた過越しの祭の時と同じく、大勢の人々がエルサレムに集まっていました。世界中から祭りを祝うためです。観光旅行なのでしょうか。ユダヤのお祭りは人気の観光スポットなのでしょうか。そうではないのです。世界中から集まる人々の多くが離散のユダヤ人とその子孫でありました。イスラエル民族はソロモン王の次の世代には早くも分裂し、弱体化し、周辺の国々に攻め込まれ、また大国に滅ぼされた歴史を持ちます。その度に人々が国を追われ、奴隷にされ、異国の地で嘲りの種とされながら、世界中に散らされて行ったのです。そのような風前の灯のような民族でありながら、彼らは不思議に生き残りました。彼らはどこにいても、一つの信仰を守ったからです。どこにいても、一人の神を礼拝することを忘れない。そしてユダヤ教の祭の時には、遠くから近くから、人々はエルサレムに帰って来ました。

神は、この民のただ中に、全世界の救い主をお遣わしになりました。主イエス・キリストが十字架に贖いの死を遂げられたのは、過越しの祭の時でした。神は、エルサレムに全世界から人々の集まる時を選んで、この業を成し遂げられたのです。ですから、同じように、エルサレムに全世界から人々の集まる五旬祭の日に、天から聖霊が与えられたのも、神の深いご計画によるものであったに違いありません。今日読んでいただきましたエゼキエル書37章9節で、主なる神はこう言われます。「主はわたしに言われた。『霊(breath)に預言せよ。人の子よ(mortal)、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ(Come from four winds, O breath,)。霊よ、これらの殺されたものの上に吹き付けよ。そうすれば彼らは生き返る。』」

霊よ、と呼びかけられているのは、息のことです。神の息(breath)です。霊よ、四方から吹き来れ、というのは四つの風から来なさい、という意味です。このように、聖霊は神の息であり、風として表現されています。わたしたちは聖霊を見ることができません。そして物理的な音として聴くことも、普通は全くできません。しかし、主なる神は御自身の神秘的なご性質をわたしたちに知らせることを望まれたからこそ、このようなしるしによってお示しになったのです。大勢の人々が集まるこの時をお選びになり、多くの人々の五感に知られる、このような激しい風の音で聖霊の降臨をお知らせくださいました。

炎のような舌という不思議なものが弟子たち一人一人の頭の上にとどまった、というのも、同様に神が奇跡によって表してくださった聖霊降臨のしるしでした。炎のような舌によって表されるのは、天下のあらゆる国のさまざまな言語のことではないでしょうか。使徒たちの声の中に、言葉の中に神の尊い力が示された。わたしたちはこのことを決して疑ってはならないと思います。炎の舌という言葉は、わたしたちに神の真理を理解させるために、真理をわたしたちの感覚によって示している。神はここでもまた、わたしたちの限界と能力に寄り添ってくださっているのです。

もう一度エゼキエル書の先程の言葉を思い出してください。主は言われました。「霊よ、これらの殺されたものの上に吹き付けよ。そうすれば彼らは生き返る。」枯れた骨は殺された人々の骨です。彼らは戦争で殺されたのでしょうか。卑劣なテロの犠牲者なのでしょうか。それなら、ただただ犠牲者だ、彼らは何も悪くない、ということになるでしょう。しかし、実は、そうではないのです。では人々は、しかも神の教会の人々です。人々は何に殺されたのでしょうか。だれに殺されたのでしょうか。彼らは自分の欲に殺されたのです。自分自身の中にいる、他ならぬ神の敵に殺されたのだ。すなわち、人々は罪のために死んでいるのです。エゼキエルの時代にそうであったように、主イエスの時代にも神の教会の民が罪のために、神の敵に支配され、殺されてしまっています。そして、これは決して他人事ではない。昔のことではない。今の時代のことでもあります。

使徒たちの上に聖霊が降った時、彼らは立ち上がりました。主が彼らの心を燃え立たせ、この世の虚栄を焼き尽くし、すべてのものを清め、一新するための日、それがペンテコステであります。神はこうして歴史に残るこの日、聖霊を一度だけ、目に見える形でお示しになりました。このことは、聖霊の助けという神の目に見えない隠れた恵みは、今も決して教会に欠乏してはいないことを、わたしたちに確信させるためなのです。

先週、日本基督教団の西東京教区総会が行われました。教団は30ほどの異なる教派の合同教会でありますが、1970年頃から教団の外のクリスチャンから物笑いの種となるほどの問題を抱えていました。信仰共同体としての一致が損なわれる危機的な状況が続いていたのです。私が献身に至った大きな理由の一つでもありました。特に10年近く前には聖餐を巡る対立が激化しました。それまで非常に楽観的な人々、何よりも和気あいあいの交わりを第一とする人々も、これは大変だと危機感を持ったようです。二年か、三年前ですか、国分寺教会で行われた教区総会の際、かつてないことが起こりました。

教区総会は開会礼拝の時、聖餐式を執行し、日本基督教団信仰告白を全員で告白することになったのです。私が印象的だったのは、教団信仰告白をいい加減に(ただ読み上げているだけなのに)しか言えない人々が近くに居たことでした。使徒信条も礼拝では告白していないかと思うほどで、このような人々が牧師として、信徒議員として出席していたのか、と驚きました。また、聖餐の時、退席した人もいたようです。そして今年の教会総会、聖餐式を執行し、日本基督教団信仰告白を全員で告白し、教会の代表者の集まりとして整然と行われ、ヤジも怒号も飛びませんでした。

わたしたちは何を教会の旗印とするのか、について改めて考えさせられるのではないでしょうか。主の制定された聖餐を正しく執行すること。そして教団信仰告白に表された、世々の教会の受け継いだ信仰を表明すること無しに、教会は建てられないことを思わされます。けれども一方で、主は聖霊を降して、最初に教会にさせたことは、言葉による証しでした。全世界の人々の集まったところで、使徒たちは聖霊に満たされ、他の国々の言葉で話し出したのです。

聞いた人々はびっくり仰天しました。それは一つには、使徒たちがガリラヤの無学な田舎出身者ばかりであったからです。そしてもう一つの驚きは、無学なはずの彼らが、大勢の人々の前で、一斉に異なった言葉を話す人々に理解できるように、神の偉大な御業を語り出したからです。すなわち、ある者はラテン語を話し、ある者はギリシャ語を、他の者はアラビア語を話したとしたら、これこそ神の御業による奇跡でなくて何であったでしょう。

この奇跡については、あり得ないとして退けるものから、様々な解釈をするものまで諸説あるのでしょうが、奇跡物語を神の御業として受け止めることもわたしたちの信仰です。言葉が通じるという奇跡です。日本聖書協会によりますと、世界には約6600のもの言語があり、現在も500近くの言語の聖書翻訳プログラムが進められているとのことです。相手に分かる言葉で話すということは、伝えたい良い知らせがあるからです。そして、福音がまだ届かない人々へ、是非届けたいと願うのは、何よりも神の愛がわたしたちに迫っているからに他なりません。神の働きと知恵について堂々と語った使徒たち。小さな者、弱い者、取るに足りない者の上に降りたもうた聖霊の御業を思う時、私たちもその計り知れない力に驚く者となりましょう。御業に驚く。御業を信じる。そしてこの奇跡を成し遂げて福音を世界に宣べ伝える教会を開始した主の聖霊は、今もわたしたちに働いてくださることを信じて、その御業を待ち望みましょう。祈ります。

 

教会の頭であるイエス・キリストの父なる神様

ペンテコステ、聖霊降臨日の聖餐礼拝を感謝します。御言葉によってあなたの御業を知らされる時、私たちは自分たちの力の不足、知恵の不足を嘆くことから解放されます。真に感謝です。主よ、あなたは聖霊を教会にお遣わしくださって、計り知れない励ましと大きな御業を成し遂げてくださる方であることを知りました。この小さな成宗教会の群れをもこれまで目に見えないお支えと励ましを送って下さいました。わたしたちは不信仰な者で絶えず、祈る代わりに思い煩うことの多い者ですが、悔い改めます。

主の聖餐に与り、罪の贖いに結ばれていることを感謝します。どうか、キリストの執り成しによって、この罪を赦し、わたしたちを新たに造りかえて、聖霊の神様の導きを常に信じ祈る者にしてください。

本日は、今年度初めて長老に選ばれた兄弟に対して、選挙で再選された兄弟姉妹と共に長老任職式を執行しました。主よ、どうぞ、だれよりもあなたに近くいますことを望み、自分の不足を嘆くことなく、豊かに賜物をくださる主に信頼してこの務めを果たすことができますように。また長老を選んだ教会全体も、それぞれの責任を主に対して果たし、教会が御心に適ったキリストの体の肢とされるように、怠りなく祈らせてください。

わたしたちは困難な社会にありますが、真に主なるあなたを拠り所として悪に傾くことなく、怠惰に落ちることなく、目を覚まして祈り、より苦労している兄弟姉妹の上に助けを祈り続ける者でありますように。成宗教会を通して、東日本の諸教会を通して、主の御心が示され、力強い伝道がなされるために、小さな時も所も、奉仕も生かしてください。

礼拝に来られない兄姉の上に、主の慈しみ、顧みが豊かに与えられますように。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2017年6月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

斉藤 紀先生のお話

(これは2月12日にお話しいただいたものです。)

聖書:ヨハネの手紙一 3章11-16節

「殺してはならない」

斉藤 紀

今日の聖書箇所は、ヨハネの手紙です。ここには、私たちは互いに愛し合うべきである、そして弟を殺したカインのようになってはならない、とあります。

今日は、父なる神様によって与えられた十の戒め(守らなければならないこと)“十戒”の第六戒「殺してはならない」を学びます。

皆さんは動物と植物との違いを知っていますか? 動物は、他の生物の命を貰っていきており、植物は土から栄養をいただいて生きているのです。植物は動けません、でも生きてゆくために根から養分を吸い取って栄養にして大きくなります。動物や植物が死んで土に帰るとその成分が分解されて土の栄養になって蓄えられます。ですから、植物は命を殺すのではなく、土の栄養をもらっているのです(食虫植物などという例外はありますが)。

一方動物は、自分以外の動物や植物の命を貰って生きているのです。熊が鮭をとったり、鳥が虫を食べたりしますね。とんかつもホウレンソウのおひたしも、それらは元来生きていたものです。その命をいただいて人間や他の動物は生きていかなければならないのです。

そのように、他の命をいただいて生きている動物である人間ですが、生きるためですから、神様は許してくださっています。神様のおっしゃることは、人を殺してはいけないということです。イエス様も、「人を殺してはいけない、人を殺すものはさばきを受けなければならない」とおっしゃり、人に腹を立てても、バカ者といってもさばきを受けなければならないとおっしゃっています。また「目には目を歯には歯を」と言われているけれど、右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい、自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさいとおっしゃっています。

殺してはいけないという戒めには、人を赦し、愛しなさいという神様のみ心が示されているのです。人の命は神様から与えられているのですから、大切にしなければならないのです。ここで、殺すという言葉が出てきましたが、これは「人の命を殺してはいけない」ともうひとつ、「人の心を殺してはいけない」という意味があると思います。ですから、この十戒の「殺してはならない」という戒めには、「へりくだる心を持ち、人を赦しなさい、愛し合いなさい」という神様からのメッセージが入っているのではないでしょうか。

6月の教会学校礼拝(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

◎ 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。

◎ お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

6月4日 (日)  ペンテコステ、

使徒言行録:2-1-13     お話の担当… 並木せつ子

11日(日)  ローマ12:1-2             斉藤 紀

18日(日)  詩編145:14-16            並木せつ子

25日(日)  マタイ6:14-15           興津晴枝

教会・教会学校の行事

  • 今年のペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝は6月4日(日)です。どんな記念日なのか、参加してまなびましょう!
  • 教会の暦(花の日)・・・6月第二日曜日(今年は6月11 日)は花の日(子どもの日)と呼ばれ、教会ではお花を持って病院や施設の問安をする伝統がありました。成宗教会学校では成田東三丁目の交番に日頃の感謝のしるしにお花を届けます。
  • 今年も夏休み一日教会学校を開きます。8月27日(日)午後3時からを予定しています。小学生が対象ですが、ヘルパーとして中学生の参加も歓迎します。去年はロウケツ染めに挑戦しました。今年の活動を考案中!皆さんお楽しみに。

教会学校で学ぶこと

  • 真の神は、イエス・キリストの御生涯に表されました。イエス様を通して、私たちは、神の真実について学ぶことができます
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方も参加できます。また、中学生以上の方には、10時半~11時半の一般の礼拝もお勧めしています。親子連れの方も、どうぞいらしてください。

礼拝でのお話は小学校高学年~中学生にもわかりやすく語られます。礼拝後の活動は幼少~小学生向きですが、何歳でも楽しく参加することができます。

6月の御言葉

「すると、一同は聖霊に満たされ、‟霊”が語らせるままに他の国々の言葉で話し出した。」使徒言行録2章4節