平和の君を迎える

聖書:ゼカリヤ書9章9-10節, マルコ福音書1-11節

 全世界の今年も棕櫚の主日を迎えます。日本にいる私たちは、今年は桜の開花と共に今日の日を迎えました。特に寒かった冬。東京でさえ、たくさん雪が降って、雪を片付けようにも場所に困るほどだった。それでも今年の桜は平年より早く咲いたそうです。何だかんだあっても、春は必ず巡って来る。これは本当にありがたいことです。

しかし、わたしたちは同じ季節を迎えているようでも、それは同じ年では決してありません。年は変り、時代が変って行くのですから。子供たちはこの間、赤ちゃんだったのに、今は立派に讃美歌を歌っています。この間小学生だと思ったら、今はもう大学も卒業する年だと聞いてびっくりするのです。それでは、年取って行くのは、しわが増えるくらいであとは変らないのでしょうか。私たちは何となくそんなふうに思って生きて来ました。年を取ったら家で静かに過ごしたいと思っていました。ところが独り暮らしがおぼつかなくなると施設に入ることになる。もちろん、病気になれば病院に入ります。そこで過ごす生活は、自分のイメージしていたこととは一変します。毎日、朝から晩まで、入れ替わりたくさんの人と会わなければなりません。挨拶したり、質問に答えたり、次々と人が来るので、一体自分はだれに頼れば良いのか、というほど、目まぐるしい社交的な生活の始まりです。

成宗教会では、私の務めとして、多くの高齢の教会員のご様子を拝見し、共に歩んできたので、高齢者を巡るこういう変化が、私たちの時代の特徴の一つなのだと感じないではいられません。しかし、若い世代の人々にとって、時代の変化はもっと激しく、凄まじいものではないか、と想像しているのです。同じ春は巡って来る。しかし巡って来る時代は決して同じではないのです。新しい時代が来る。それが良い時代であろうと、自分にとって好ましくない時代であろうと、必ず時代は先へ先へと進んで行きます。私たちは準備をしているでしょうか。新たな時代に主の教会を建てるために備えをしているでしょうか。

本日は棕櫚の主日、パームサンデーと呼ばれる日です。マルコ福音書11章8節では「ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた」と書かれていますが、ヨハネ福音書12章13節では「人々が椰子の枝を持って出迎えに出た」と言われていることに由来するもので、イエス様がエルサレムに入城された日を表しています。それは、ゼカリヤ書9章の預言の言葉が実現した日でありました。ゼカリヤ章9章9、10節をもう一度読みましょう。「娘シオンよ、大いに躍れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」この預言が成就されるために、キリストは神に従う者となりました。その結果、神から勝利を与えられた者として、平和をもたらす王として、神の都エルサレムに迎えられるのです。

そしてキリストは高ぶることがないと書かれています。高ぶらない勝利者。謙っておられる王。このことは私たちには驚きではないでしょうか。勝利者であると同時に高ぶらない。そういう勝利者を私たちは見たことがあるでしょうか。勝利の凱旋パレードと言えば、豪華な車に乗って華やかに、きらびやかに見る者を圧倒するのが普通です。それが勝利者にふさわしいはずです。ところがゼカリヤ書に不思議なほど強調されているのは、この方が「高ぶらない」ということなのです。謙虚な勝利者というのはあまり聞いたことがありません。しかし、ゼカリヤ書では、謙虚な勝利者のしるしがあるというのです。それは子ろばです。子ろばに乗って謙虚な王が来る。この方こそ、あなたの王である。ゼカリヤは宣言しました。

そしてその預言から何百年後でしょうか。主イエスはエルサレムに入ろうとしておられます。勝利者として。苦難と死に打ち勝つ勝利者として。苦難と死を御自分のものとするために。そういうわけで、主はエルサレムに近づいた時、二人の弟子にろばの子を連れて来るように使いに出しましたが、それは御自分が疲れたので乗り物に乗りたいと思われたからではありませんでした。主は御自分の十字架の死を目の前にした今、ご自分が神の国の王であることを、荘重な儀式でお示しになることを望まれたのです。それがエルサレム入城でありました。そして御自分の王国、すなわち神の国の支配は、人々が考えるような王国とは全く違うことをお示しになりたいとお考えだったのです。もしもゼカリヤ書の「あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばの子に乗って来る」という預言がなかったら・・・。そしてその預言を誰も知らなかったなら、主イエスのエルサレム入城は大変滑稽なものであったことでしょう。

わたしたちは、この儀式に備える弟子たちの姿を注目したいと思います。彼らは主の言葉を素直に受けて従っています。主は命じられました。「向こうの村に行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」わたしたちは、主イエス・キリストを信じることは、主の言葉に従うことであると教えられています。しかし、わたしたちには常に不安があります。主に遣わされて向こうの村に行くときに、もしそんなろばが見つからなかったらどうしよう、と思うのです。そして見つかったとしても、だれもそこに人がいなかったら、黙って連れて来ても良いのだろうか。泥棒と間違われるかもしれない、と心配になります。更に、「なぜ、そんなことをするのか」と言われたとして、「主がご入用なのです。すぐここにお返しになります」と答えても、「ダメダメ、貸して上げられない」と言われたらどうしようか、等々心配の種は尽きません。

その時わたしたちは、いかに自分が主を信頼していないか、主に頼り切っていないかが分かって愕然とするのではないでしょうか。そして改めて、弟子たちがどんなにイエス様を信じていたかを発見するでしょう。彼らは特に立派な人々ではありません。密かに、自分と人とを比べて、自分の方が上だ、とか、偉いとか、思うような浅はかな者でもあったでしょう。しかし、主イエスのことを愛していました。皆、いつも一緒にいたいと思い、主イエスのお言葉通りになることを信じていた。そういう弟子であったのです。そして主イエスが彼らに命じられたことは、本当にすべてその通りになりました。私たちが心配するようなことは全く起こらなかったのです。このことにおいて、イエス様はその貧しいお姿の中に、真の神のご性質を示されていたのです。すなわち、神がお命じになったことはその通りになるように、イエス様がお命じになったことも、その通りになったからです。

さて、そうして連れて来られた子ろばには、まだだれも乗ったことがないのですから、当然鞍も鐙もありませんでした。もちろん弟子たちにもその用意がありませんでしたので、弟子たちは子ろばの上に自分の服をかけてイエス様をお乗せしました。その御姿を想像して見ても、何とも貧しいお姿ではなかったでしょうか。しかし多くの人々が自分の服を広げてカーペットのように道に敷いた。また他の人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いたということです。そして喜んで、貧しい姿の王を迎えました。主の前を行く人々も主の後ろから従う人々も声を張り上げて叫びました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来(きた)るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

人々はホサナと叫んでいますが、「ホサナ」というヘブライ語は元々、「主よ、救い給え」という意味の言葉です。しかし、ギリシャ語に音訳されて初代教会に用いられた時には、祝福の歓呼と理解されていました。それは、主イエスがほめたたえられますように、という祈りであり、感謝であり、祝福でありました。

神の子とされた者たちが、堅く持ち続けなければならない希望、唯一つの希望があります。それは、わたしたちの悩みに沈み、罪に苦しんでいる日々の中でも、ついには贖い主が来られるという希望なのです。神はただ仲保者、すなわちキリストの執り成しによって、人々に慈悲深い方となられるのです。そして仲保者は御自分の民をあらゆる罪、咎、過ちから解放なさる方であります。この方こそ、罪に沈み、悲惨に打ちのめされた人々を歓喜させる方にほかなりません。だからこそ、預言者ゼカリヤとその言葉を語る今日の聖句は、私たちを励ましているのです。たとえわたしたちに何がなくても、だれがいなくても、贖い主が共におられる。だからこそ、わたしたちは真に喜ぶことが出来るのだと。

今日まで、そして後も、主イエス・キリストは天の父の右に座し給い、御国を求める教会の人々を御支配くださっておられます。しかし、十字架にかかられる前、主イエス・キリストの地上のお姿を記したこの有様は何と貧しいものであったことでしょうか。それにもかかわらず、大勢の人々が歌いながら、叫びながら、子ろばに乗った王を迎え、従って行ったのでした。

「主の名によって来られる方に」と歌うこの言葉に注目しましょう。主の名によって来られるとは、すなわち、神によって任命され、遣わされたという意味です。神の遣わし給う王は、世の人々の罪を贖う救い主。この方に贖っていただいて初めて、わたしたちは神の国の住民、御国の子らとさせていただけるのです。罪、咎、過ちを免れないわたしたちは、正しいことを行おうと大変な努力を重ねたと思うことで、自分に満足しようとしています。しかし、それでも救われません。神の国の住民とはなれないのです。なぜでしょうか。わたしたちは神に従うよりも早く、自分の道を行こうとするからです。キリストが「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい、と言われても、自分には十字架はないと思うほど高ぶっています。自分のことさえ十分に分かっていません。まして、自分以外の人のことがどれだけ分かるでしょうか。

また、主と共にエルサレムに入城した弟子たちは、「我らの父ダビデの来(きた)るべき国に、祝福があるように」とも歌いました。「我らの父ダビデの王国が再び建てられるように」と歌っているのは、地上に自分たちの国が再建されることを弟子たちも民衆も願っていたのではないでしょうか。そして、イエス様にその願いを託していたのかもしれません。つまり、イスラエルの貧しい人々は、救い主が御支配なさるその時には、実際に自分たちの国も他国からの支配ではなく、ダビデ王が支配したような国がキリストによって実現されると考えたのではないでしょうか。わたしたちも『御国が来ますように』と祈る時に、どうしても御国の御支配の中に自分の願い、具体的な願いを入れているかもしれないのです。そのような人々の過ちが、やがて主イエス・キリストに失望し、怒りと憎悪と軽蔑を向けるようになった。それは聖書の中では、彼らの出来事であり、弟子たちの出来事であります。そして、その罪を負って主は十字架に着かれました。このすべての的外れな人々のために。

彼らは心底主イエスを愛してついて行ったでしょう。しかし、最後までつき従うことはできませんでした。主の受けられた苦難と自分の願いとちがってしまった時、彼らはイエス様に対する自分の愛も力尽きてしまいました。しかし、それに対して、主イエス・キリストはどうでしょうか。この方は真に人の子であり、人の弱さを御自身に持っておられました。だからこそ、死の苦しみを苦しまれました。そして同時に、この方こそ真に神の子であられます。だからこそ、わたしたちの願いを打ち破り、それに代えて神の願いをお与えになりました。神の願い、神の御心はわたしたちの死を死んでくださったキリストに、わたしたちが結ばれること。そしてキリストの復活に、神の永遠の命にわたしたちが結ばれることに他なりません。これからわたしたちが直面するあらゆる罪との戦いに勝利して、平和をもたらす王。イエス・キリストを、心を新たにして迎え入れましょう。

わたしたちが御子を心に迎えさせてくださいと祈る時、わたしたちの王として、わたしたちに平和の御支配をもたらしてください祈る時、キリストの王国はわたしたちによって建てられるのではなく、わたしたちの力によって維持されるものでもなく、ただ天の助けによって堅く立つことを、わたしたちは知る者とされるでしょう。来週はイースター、そして新しい年度を迎えます。わたしたちは教会に復活の主イエス・キリストをお迎えしましょう。そして、わたしたちの心に、わたしたちの家庭に職場に、主イエスを迎え入れ、平和の御支配を祈り求めましょう。祈ります。

 

教会の頭、主イエス・キリストの父なる神様

棕櫚の主日礼拝を感謝いたします。主は私たちの罪を贖うために、来てくださいました。たとえ、私たちの罪の悩みは深くても、キリストが私たちを御支配くださるならば、私たちの罪は赦され、あなたと和解させていただけることを教えられました。どうか、聖霊のお働きによって、私たちを作り変えて、心新たに主に従う者としてください。

受難週を迎える今、どうか主イエス・キリストのご受難を覚え、心砕かれて、歩む者となりますように。病気や、仕事、また様々な事情により、礼拝を守ることが出来ないでいる兄弟姉妹を特に顧みてください。わたしたちはどんな困難な時も、主の憐れみと愛が注がれている教会であることを、信じ、感謝します。わたしたちの不信仰を打ち破り、新しい年度も、主の執り成しによって罪赦され、喜びと感謝を以て、教会を建てて行くことが出来ますように。イースターの礼拝、そこにおいて行われる洗礼式、聖餐式を導いてください。教会学校のイースター礼拝から午後の祝会に至るまで、わたしたちの捧げる喜びの賛美と感謝に豊かな祝福をお与えください。

この祈りと願いとを主イエス・キリストの御名によって捧げます。アーメン。

十字架の勝利

聖書:哀歌3章18-33節, マルコ福音書10章32-45節

 一行はエルサレムに上って行く途中であります。一行とはイエス様につき従って来た人々の一団であります。イエス様を救い主と告白する人々で成り立つ集団であります。そうだとしたら、それは教会ではないでしょうか。イエス様を救い主と信じた人々。まもなくイエス様は栄光をお受けになると信じた人々です。では彼らはなぜ信じたのでしょう。イエス様がいかにも救い主らしい威厳に満ちた、神々しいお姿でいらしたからでしょうか。あるいは天から響くような美しい声で教えられたからでしょうか。聖書にはそのような記述は一つもありません。

では、イエス様は王侯貴族のような地位と身分の方だったからでしょうか。いいえ、わたしたちの誰もがそうではないことを知っています。イエス様は慎ましい生活の中に生まれ育ち、その御姿には取り立てて言うほどの美しさはありませんでした。それにもかかわらず、その教えに人々が集まり、その癒しの業を見聞きして、やがてたくさんの人々がイエス様に着き従いました。彼らはイエス様の平凡な、むしろ貧しいお姿を見上げて、この方に救いの望みをかけたのでした。

わたしたちは聖書の中に登場する最初の弟子たちが、しばしばあまりにも普通の人々のように見えるので、半分驚きながら、半分安心するのではないかと思います。彼らはあまりにもわたしたちの現実に近いということを思うのですが、ではわたしたちもなぜ、他の人々はイエス様について来ないのに、わたしたちはついて来たのでしょうか。本当に自分が他の人々と特別に変わったこともなく、特に立派である訳でもないことを思う時、改めて分かることがあるのです。彼らも、またわたしたちも、こうしてイエス様の教会にいる、イエス様の群れの中にいるその理由は、イエス様が招いてくださったからです。招いてくださったからこそ、イエス様のお言葉を信じることが出来たのです。

イエス様は「神の国は近づいた」と言われました。神の国とは、神の御支配される王国です。悩みのあるわたしたちを神がご支配なさる、と聞いて、それを信じたからこそ、わたしたちは祈ります。『御国が来ますように』と。「御心の天になるごとく地にもなさせ給え」と。なぜか分からないけれども、わたしたちの悩みを御支配くださり、悩みを平安に変えてくださる神を信じる。その信仰がイエス様の教えによって与えられました。それでは、今はもうわたしたちも悩みなく、憂いなく、生きているでしょうか。そんなことはありません。地上に生きているわたしたちは、今も「神の国は近づいた」と言われたイエス様を信じ、『御国が来ますように』とひたすら祈っています。また祈ることが必要です。それは、わたしたちもまた教会の中にあってイエス様と共に旅を続けている途上にあるからなのです。

さて、一行はエルサレムに上って行きます。イエス様はこの旅路を先頭に立って進まれます。この世の王様のように先立つ者に露払いをさせ、多くの人々に守られて行くのではありません。先頭に立ってエルサレムを目指しておられます。エルサレム、そこに待っている敵対する者がいることを、主に従っていた人々は知っていたでしょう。そこには、主イエスを憎み、陥れようとする者たちが待っている。しかも彼らは権力ある者たちです。だから、弟子たちは驚き、従っている人々は恐ろしく思いましたが、しかしそれでも、彼らは主の後につき従って行った。それは、彼らに信仰が与えられていたからです。神の救いの恵みが何より素晴らしいと思う心が与えられていたからです。

そこで、主は今一度改めて弟子たちに教えられます。「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打った上で殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」と。この苦難と死と復活。これこそがこの旅の目的でありました。この目的を理解させるために、主は繰り返し語られ、弟子たちを励ましておられます。すなわち、これから起こることを前もって知らせることによって、主は彼らを信仰の戦いに備えさせ、彼らが思いがけない悪に突然襲われるような時にも、悪に負けないようにさせたいのです。

主はまたご自分の十字架に対して、弟子たちが短期間ではあっても屈辱を受けられる主を見て心挫けることがないようにさせたい。この方こそ神の子であり、死に勝ち給う方であることを確信するようにさせるためでありました。このために主は三日目の復活を弟子たちに知らせて励ましてくださいました。彼らは臆病になっていましたが、それでも主を離れてしまわなかった。自分たちも主の弟子として迫害や暴力を受ける危険があるかもしれないけれど、それでも主に従って行きました。

これは神の国を来たらせるための戦いだ、わたしたちはイエス様に従って行こうと、弟子たちは決心した。そこまでは良かったのですが、その時です。主に対する熱意と信仰が、思いがけない欲望にとって代わられたのです。それがあからさまに行動に表れたのは、ゼベダイの子ヤコブとヨハネでした。この二人は兄弟で、主イエスが「わたしについて来なさい」とお招きになった最初の頃の弟子たちの二人です。彼らは熱心に主に従い、ペトロと共にいつも主の近くにお仕えしていました。そのうちに彼らは、主はわたしたちを特別にだれよりも大切に思っておられるのだ、という得意になっていたのではないでしょうか。

彼らのように、教会の中でたくさんの奉仕を熱心に行い、主に仕えることが喜びであるという人々は、主にも喜ばれ、教会にとっても大変ありがたいと思われるでしょう。しかし、自分たちは神さまから特別に大切にされて当然だと思うほど働いている、と思い上がってしまった結果、神の国に特別な地位を求めるとしたら、それは大変な問題であります。

ヤコブとヨハネは「あなたが栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と求めましたが、一体彼らはキリストが栄光を受けるということが何を意味するか知っていたでしょうか。ほとんど知らなかったと思います。主イエスがエルサレムに上って行かれるのは、苦難と死を受けるためです。そして、この苦難は御自身のためではなく、わたしたちが受けるはずの苦難です。この死は御自身のためでなく(神の御子がどうして死ななければならないはずがあるでしょうか)、わたしたちが受けるはずの死なのです。

彼らは主イエスが世に軽蔑され、非難にさらされているのを見ていました。しかし、それでも彼らは主がまもなく偉大な王となるだろうと信じていました。なぜなら、ただ主がそう言われたからです。主の教えを単純素朴に信じた彼らの信仰は素晴らしいと思います。しかし彼らは将来実現されると信じた王国を心に描いた時、たちまち欲望に囚われました。神の国で一番になりたい。二番になりたいと。このように単純な素直な信仰者も、たやすく自分に取りつかれてしまうことを思う時、私たちは自分のためにこう祈らなければなりません。

主よ、どうかわたしたちの心の目を開いてください、そしてわたしたちを導き、常に正しい目的に向かってひたすら進むことが出来るようにお守りくださいと。わたしたちに信仰を起こしていただくだけでなく、その信仰が救いの道から踏み外すことのないようにお守りくださいと。その時イエスは言われたのです。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と。わたしたちは神に従う者とされました。それは、本当に不思議な恵みの選びによるもので、なぜなのかをわたしたちは知りません。しかし、この恵みによる救いだけがいつもわたしたちの喜びであることを思う者は真に幸いであります。

しかし、ヤコブとヨハネはそれだけに満足しないで、神さまがお望みかどうか知ることのできないことにまで口を出し、自分を神さまのお考え以上の者にしようと画策しました。他の弟子たちは憤慨しましたが、実は彼らもまた同じようなことを考えていたからこそ腹が立っただけなのです。こういう態度は決して主に喜ばれるものではないでしょう。更に問題なのは、彼らが、神の王国について、地上の王国のような序列を想像していることです。人間の浅はかな空想で神の国や、天国について好き勝手なことを考え、それを事実であるかのように言いふらす人々は大きな過ちを犯していると言えるでしょう。

主は彼らの願いがまちがっていることを教え、諭そうとしてくださいます。そのために「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」とお尋ねになりました。それは、主イエスの受けなければならない苦難と死を受けることが出来るかと、問うておられるのです。彼らは簡単に「できます」答えました。これもまた、傲慢な態度だと言わざるを得ません。苦難について、一体誰が自信満々に「わたしは耐えられる」と言うことが出来るでしょうか。わたしたちは日頃、なるべく楽に生きたい。苦労はしたくない。災難には遭いたくないと思っています。それにも拘わらず、天の父は思いがけない苦難、苦労の体験をわたしたちにお与えになりますが、それがわたしたちに必要だとお考えだからなのだ、と思わざるを得ません。

わたしたちは愚かにも、自分が病気にならないと病人の辛さを思い遣ることが十分できないし、また自分が苦労しないと他人の苦労が十分には分からない者です。「そうだね、本当だね」と共に悩みを分かち合うことが出来るように、神さまはご配慮くださっているのではないでしょうか。そのようにして主は世にいらしたとき、わたしたちの弱さをいつも担ってくださり、真の神として誰よりも偉い方であられるのにも拘らず、真の人として誰よりも下にお立ち下さり、多くの人々を下から支えてくださったのです。

私は一生の間に多くの教師に出会い教えられました。高校、大学の先生。そして50歳で編入学した東京神学大学の先生方。教区の牧師方や連合長老会の教職の方々。結論から申しますと、優れた先生ほど、謙虚でありました。相手が優秀であろうがなかろうが、質問を喜んで受け、相手に力に応じて熱心に教えてくださったことを思い出します。だからイエス・キリストの苦難の意味に納得させられるのです。キリストはこの上ない高いところにおられた卓越した方だからこそ、地の底にまで降って、救われる値打ちのない者をも、ただ恵みによって、愛によって救ってくださる天の父の御心を表していることが知られるのです。

エルサレムに上って行く主イエスに、教会も従って行きます。この苦難はわたしたちの勝利のためです。主イエスは十字架の勝利を目指して進んで行かれました。主の勝利はわたしたちに対しても約束された勝利です。ただ、わたしたちは主イエスに従って行く途上にあります。そして主イエスは、ご自分の教会に勝利を確信しなさいと言われます。しかしそのことは、「もう勝ったんだ」とか、「どうせ最後は勝利に終わるから」と言って、地上の日々を無為に過ごしたり、好き勝手なことに時を費やして安閑と空しく過ごすことではありません。この日々の労苦が必ず報われると天の父に希望をかけ、日々の思いがけない戦いに備え、そこにわたしたちの努力を傾けることに集中する。それが十字架の勝利を確信する生き方なのです。

では、十字架の主に従うわたしたちの戦いは、どんな戦いなのでしょうか。それは、主イエスがなさってように、仕えられるためではなく、仕える者となるように、すべての人の僕(しもべ)となるように、日々、このことを私たちの祈りとし、与えられた立場において、境遇において、主が望み給う最善を尽くして、主の体の教会にふさわしく生きる戦いではないでしょうか。教会学校の今月の聖句は、次の言葉です。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つです。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」わたしたちは主イエスの命のパンを分けていただいて一つの家族、神の家族とされているのです。一つの体として、だれかの苦しみを共に苦しみ、だれかの悩みを悩みとし、だれかに慰めをもたらすように。だれかに喜びをもたらすように。この戦いが、私たちに絶えず働いてくださる聖霊の神の助けによって十字架の勝利をもたらしますように。祈ります。

 

御在天の父なる神様

あなたは御子をわたしたちに賜り、あなたの御心を十字架に表してくださいました。御子がわたしたちのためにあらゆる労苦を忍んでくださったことを覚え、深く感謝申し上げます。何のとりえもないわたしたちが、ただ恵みによって救いに招かれていることを思い、わたしたち、喜んで主に従う者となりますように。

一筋の救いの道を歩み、あなたがわたしたちに与えられた尊い使命を見い出し、どのような日にも倦むことなく疲れることなく、いただいた務めを果たすことが出来ますように。私たちの教会に与えられている使命を思います。どうか世の終わりまで福音が力強く宣べ伝えられ、恵みの福音を新しい世代もまた聴くことが出来ますように。救いに入れられる人々をこれからもこの教会に起こしてください。また同時に、わたしたち年老いて行く者が、主に従う者として地上の生涯を全うすることが出来ますように。幾多の苦しみ悩みを乗り越えさせていただき、本当にイエス様は神の御子であったと心から告白しますように。

成宗教会のイースターへ向かう日々、また教会総会に向けて準備する私たちの歩みをお守り下さい。また、悩み多い世に在って、またご病気のため、なかなか礼拝に来られない方々を覚えます。どうかその方々の心身共に安らかに今週もお守り下さい。新年度に備えるこの時期、来年度もいただいた賜物を生かし用いてくださる主の聖霊の導きを切に祈ります。この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2018年3月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

山口智代子先生のお話

(これは昨年10月29日の礼拝で話されたものです。)

聖書:イザヤ書42章5-6節

「天地の造り主を信じる」

山口智代子

大人の礼拝では、主の祈りと、使徒信条を告白します。使徒信条は、私達が信じる信仰の内容を短く、分かりやすく表したものです。使徒信条の最初に、「我は天地の造り主全能の父なる神を信ず。」とあります。神様は、天と地とを造られました。天と地球上の動物や植物、そして私達人間も神様が造られました。人間は、神様に似せて造られました。天と地を造って、それでおしまいということではなく、神様は、これまでも、今日も、これからも私達に必要なものを備えて下さって、祝福を与えて、守り、導いて下さっています。私達が、神様のお守りと赦しの中で、増えて広がっていくことを神様は、望んでいます。

私達は、多くの物に囲まれて生活しています。私達が住んでいる家やこの教会の建物や、着ている服や、歩く道も、それらを作った人がいます。今朝食べた朝ごはんもお母さんが作ってくれたのではないでしょうか。でも、私達は、お米を炊いたり、パンを焼いたり、卵焼きを作ったりはできますが、お米や小麦の種そのものを作ったり、卵や卵を産む鶏を作ることは出来ません。造り、命を与えるのは、神様だけがお出来になることです。今も、動物でも植物でも菌でも、新しい品種が毎年見つかっています。私達の知らないことは、まだまだたくさんあります。宇宙についても新しい星がどんどん発見されていますが、謎だらけです。宇宙は、完成しているわけではなくて、今も広がっています。光の速度よりも速いスピードで広がり続けていると言われています。宇宙や科学を研究している科学者の中には、科学を知れば知るほど、神様がお造りになったと考えざるを得なくて、神様の存在を確信して、クリスチャンになる方も少なくないということです。

先ほど読んで頂いた聖書の箇所は、イザヤ書です。イザヤ書は、紀元前6世紀頃に、預言者イザヤによって語られました。預言者というのは、神様から示された言葉を語る人です。聖書に出てくる預言者は、神様のみことばを預かり、それを神様の命令によって人々に向かって告げ知らせる人です。預言者イザヤは、新しい神様のみことばを告げます。

イザヤがみ言葉をつげたのは、ユダヤの人々が、大きな戦争で負けてしまい、外国によって支配されている時代でした。力を失って、深い悲しみを抱えた人々の心にイザヤの取り次ぐ神様のみことばが響きます。

「わたしがあなたがたに息を与え、霊を与える。わたし自身の命を分け与え、祈りによってわたしと心を通わせながら生きる人間として生まれ変わらせる」と神様は語って下さいました。新しい国は、神様が呼んで、手を取り、お立てになるひとりのしもべによって造られます。神様がお呼びになるしもべは、私達すべての人間が、たとえどんな暗い所にいても、牢屋のような所に閉じこめられていても、必ず救い出してくださいます。

イザヤの告げた、このしもべとは、イエス・キリストのことです。イエス様は、十字架にかかられ、ご自分の命と引き換えに、私達を救い出して下さいました。神様の御心にかなう道がどこにあるのか、わからなくなっていた私達を、イエス様は光となって照らして下さいました。希望がなく、神様から遠く離れている私達を救って下さったのです。神様が愛をもって、天地を造って下さり、イエス様をこの世に遣わして下さいました。神様は、小さな人間を心に留めて下さいます。神様の愛に応えて、イエス様と共に父なる神様を賛美しながら、1日1日を感謝をもって生きていきたいと思います。

3月の御言葉

「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」

コリントの信徒への手紙一、10章17節。

3月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

3月 4日 (日)   エフェソ4:13-16     お話の担当…  並木せつ子

11日(日)  コリント(一)10:16-17        並木せつ子

18日(日)  エレミヤ31:33-34         並木邦夫

25日(日)  ヨハネ(一) 3:2           興津晴枝


成宗教会学校からお知らせ

  • 教会の暦(今年のイースターは4月1日)・・・イエス様は人間の罪の身代わりとなって十字架に掛かられましたが、予告しておられたように三日目によみがえって弟子たちの間に現れて、ご自分が生きておられることを告げ知らせられたのです。神の子、イエス様はわたしたちの罪から救うためにこのような苦難を受けてくださいました。わたしたちはこの溢れる愛に感謝します。この時から弟子たちはイエス様の復活された日曜日に集まって礼拝を守るようになりました。それが全世界のイエス様の教会の始まりです。イースターは毎年、春分の日の後の、満月を過ぎた最初の日曜日にお祝いすることが全世界で決まっています。
  • 教会学校のイースター礼拝では、今年度学んだ聖句の暗唱を発表します。その後、卵探し(エッグハンティングと言います)の楽しいゲームがあります。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。

キリストに、神の輝くお姿を見る

聖書:出エジプト24章12-18節, コリントの信徒への手紙二 4章1-6節

 本日は、旧約聖書として出エジプト記の聖書が与えられています。出エジプトの民の物語は、今、21世紀を生きるわたしたちに、現実として差し出されています。彼らの先祖であるヨセフは、ヤコブの息子であり、アブラハムのひ孫にあたりますが、兄弟に妬まれ、憎まれて、奴隷としてエジプトに売られました。しかしその兄弟たちもすべて、パレスチナの飢饉の際にエジプトに移り住んだのです。そして長い間にはエジプト人に支配され、奴隷の身分に転落して行きました。しかし、彼らは神がご自分に従う民として選ばれたアブラハムの子孫でありました。そこで神は人々を支配する者の鎖を断ち切ってくださり、自由へと招いてくださいました。自由。それは神に向かう自由。神に従う自由であります。

人々は実に孤独で生きて来たのではありません。人々の生きた歴史は、人々が共に生きる共同体の歴史です。共に生きる交わりです。それはどんな共同体なのでしょうか。血縁共同体なのでしょうか。または住む地域を共にする地縁の(地域社会の)共同体なのでしょうか。それとも、共同体とは、一緒に仕事をする仲間なのでしょうか。趣味の仲間ならたくさんいる、という人々もいることでしょう。学びの仲間もそうかもしれません。しかしそれ以上に、共同体を作るために集まる人々もいます。それでは、出エジプトの民はどんな共同体だったでしょう。そのどれも当てはまるところがあるかもしれません。しかし、全く当てはまるかと言えば、そのどれにも当てはまらないのです。

なぜなら、出エジプトの民は神が集められた共同体であります。奴隷の状態から自由にされた共同体です。そして自由とは、神への自由です。神だけが人をあらゆるものの支配から自由にしてくださる方です。これは神への信頼で成り立っている共同体です。逆に言えば、それがなければ成り立たない共同体なのです。

先ほど私は、出エジプトの民の現実を私たちも生きていると言いました。なぜなら、わたしたちもまた現代という激動の時代を生きているからです。21世紀、激しい気候変動が起こっています。また、福島の原発事故は人類がかつて体験したことのない災害でありました。これから何十年、あるいは何百年経っても過去の話にはできないかもしれません。そして第二、第三の事故がいつでも起こるリスクがあります。それも、自然災害からだけではなくても、戦争という人災によって引き起こされる可能性はいつでもあるのです。その上に日本ではこれから激しい人口減少に直面していかなければなりません。その一方、世界中では人口爆発があり、地球全体としてはすでに72億を越えているということです。

そういう現代に在って、今わたしたちも、神の集められた共同体に生きています。イエス・キリストによって招かれたからです。今日も、こうしてわたしたちは成宗教会という日本基督教団の1600余りの教会の一つである小さな教会に礼拝を守っております。また、教団の中にある連合長老会の一つである東日本連合長老会という地域教会に所属する群れとして礼拝を守っております。このように、聖書の御言葉に向かいながら、今、歴史的に自分たちがどこに立っているのか、また世界の中でどこに立っているのかを、確認させられることは大切なことではないでしょうか。

こうして今年も春に向かおうとしています。教会の入り口から差し込む光が日に日に明るくなり、柔らかくなっているのを感じて、「ああ、今年も春だ。春だ」と思いながら、私は16年も成宗教会と共におらせていただいたのだと感慨深く思います。16年前も礼拝に集まっていた人々が集まることが出来なくなったという嘆きの思いが教会にありました。一生懸命教会に仕えていた人々が高齢になり、教会に足を運ぶことが出来なくなった。また、転居を、引っ越しを境にどこの教会にも行かなくなった人々は少なくありません。しかし、礼拝を守ることが出来ないことの深刻さを真に理解していた人々はどれだけいたのでしょうか。

出エジプト記でエジプトから脱出した民は、人間の支配者の奴隷状態から救い出されたのでしたが、それからが彼らの戦いの始まりでした。なぜなら、人の支配に縛られなくなっても、罪の支配を受けず、本当に神に従う自由な人となるために、人々は自分たちの罪と戦わなければならなかったからです。なぜなら、人は一人で生きる者ではなく、共同体の一員として生きる者だからです。実はこういうふうに申しますことさえ、ごく最近まで「それは共同体論という一思想に過ぎない」と批判されるだけになっていました。

現代人は共同体など不必要、なくても生きられるという思想が歓迎されたからです。ひとりで○○に登ったとか、世界を一人で○○したとか、そういう個人プレーがもてはやされるのですが、実際にはその個人を育て、サポートするどれだけ多くの人々がいるか、ということが成功の決め手であります。また、7年前の震災の直後、私は一人の老人がお団子屋さんの前から動かないのを見ました。何だかんだと話しながら、そこに座り込んでいるので、店の主人は困った顔をしていましたが、老人の気楽な独り暮らしが地震を境に一変して、家にいるのが恐ろしい様子でした。

生きるということは、決して一人で誰とも関わりなく生きることではないとは、震災を経験したすべての現代人が知っていることです。また長く生きれば生きるほど、多くの人々のサポートによって自分の生活が成り立つことを実感することでしょう。また実感すべきです。また、少子化が進む時代に、子供を家庭で育てられなくなるという深刻な事態も急速に増えています。子どもたちが家族という共同体を失って行く危機的な状況が広がっているのです。

このような今、成宗教会に集まっているわたしたちは、礼拝共同体の一員として主の御招きを受けているのです。神に招かれ、神の自由に生きる特別な恵みを受けるために。主はモーセに言われました。出エジプト記24章12節。「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける。」そこでモーセは山に登り、十戒を刻んだ石の板を主から受けることになるのですが、この板は御存じの通り、礼拝共同体の人々が神に対する戒めを守り、隣人に対する戒めを守って、救いを得るための律法が書かれていたのです。

モーセは神の御許に出るために山に登って行く際に、礼拝共同体の長老たちに言いました。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」

こう言い残してモーセは人々から離れ、四十日四十夜神の御声に聞き従っていましたが、モーセが不在の間、神の礼拝共同体であるはずの人々は、自分たちを導いてくださる神から心が離れ、金の子牛の形を造り、これを自分たちの神として拵え上げ、これに礼拝を捧げるようになってしまったのです。

わたしたちを圧迫し、支配する人間から解放してくださった方こそ、真の神でありますが、その方を信じ続け、従い続けることの何と困難なことでしょう。また、真の神は目に見えない方、わたしたちの感覚や考えをはるかに超える方でありますが、わたしたちは自分の考え、感覚を何と信じていることか。自分で良いと思うものに何と夢中になることか。そして自分で拵え上げたものを神としてこれに仕え、この世の支配に縛られ、それに何とがんじがらめに縛られることになることでしょうか。

モーセが不在であった40日40夜とは、イエス様が荒野で悪魔の誘惑を受けられた長さに匹敵します。それは実際の数字というよりは、十分長い期間を意味します。その間、神の共同体は礼拝を守り、教えを聞くことが出来なかったのでしょうか。それともしなかったのでしょうか。ここに礼拝を守ることの大切さをわたしたちは教えられるのではないでしょうか。わたしたちはイエス・キリストによって礼拝の民とされました。共に集まり、讃美と感謝を捧げ、御言葉によって生かされるのです。主の聖霊がわたしたちの罪の赦しを御言葉によって教えてくださるからです。

わたしたちは旧約の民に優るとも劣らない罪の誘惑にさらされている者です。それは絶えざる不安となってわたしたちを攻め立てて来ないでしょうか。自分が救いに入れられたということがどんなに大きな事であったことか。神を忘れ、すぐに他の頼れるものを捜し求めてバタバタする。礼拝を守るどころではない、ということになってしまう。しかし、神はわたしたちの不信仰にもかかわらず、様々な落ち度にもかかわらず、ただ恵みによって救いに入れてくださったのです。それも忘れてしまって、わたしはあれをしたから良かった、わたしはこれができるから、と自分で自分に値打ちをつけようとします。そうすることによって、ただ自分を輝くようにしたいのです。その結果、神の恵み深さをほめたたえることから遠ざかり、神の栄光の輝きを目立たないようにするために努力しているという、真に情けない不幸な状態に陥るのではないでしょうか。

それでも、この教会の群れは、大変幸いであると私は思います。今日の新約聖書コリントの信徒への手紙で、使徒パウロが強調して止まないことを、私も強調するために、説教をさせていただくことが出来たからです。すなわち、イエス・キリストの真の福音とはどのようなものかを明らかに伝えるために、主はパウロをお遣わしになりましたが、私もまた、どんなに小さな足りない者であっても同じ福音を伝え続けるために、この教会に遣わされたからです。本当に誇るべきは、この輝かしい福音伝道の務めであります。

ですからパウロは、「卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」と述べましたその言葉を、私もそのままお伝えしたいと思います。使徒パウロほど、人生の大逆転を経験した人はいないと思います。キリストを迫害する者、教会を迫害する者としてのサウロ。彼の名はダビデ王を妬み殺そうとしてサウル王と同じでした。サウル王には神からの悪霊が来て、彼を迫害者に変貌させたのですが、教会の迫害者サウロには何と主イエス御自身が来てくださって彼を罪に死なせ、福音に生きる者と生まれ変わらせてくださいました。

真に恐るべきは神の力。神の恵みの圧倒的な力であります。わたしたちの目には何が正しいのか、また何が一番大切なのかが、しばしば隠されて見えません。様々な声がわたしたちを惑わし、迷わせるからです。しかし、主の方に向き直りましょう。災害や疫病や戦争や、ありとあらゆる不安が世界に昔からあるのに加えて、今はIT革命の時代です。人間も社会をも支配すると言われるITが果たして誰の支配を受けるのか、わたしたちの知恵が及ばないとしても、わたしたちは見えない神の御支配を信じ、2000年従って来たキリストの体の教会を信じます。

「この世の神(=悪魔)が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の(目に見えない)似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。」御父は人間の感覚によっては理解できません。しかし神は、御子を通してわたしたちに現れたまい、御子によって見えるものとなり給うたのです。「闇の中から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。キリストは闇の中に輝く光、救いの光です。しかし、わたしたちの救いのためにいらしてくださった主は、地上では何ら輝かしい、人を引き付けるようなお姿をお持ちになりませんでした。わたしたちの中にいらしてわたしたちの弱さを担い、わたしたちの破れを御自分のものとしてくださったこの愛を、わたしたちは知ることが出来るでしょうか。この愛に神の輝くお姿を見ることが出来るでしょうか。

キリストは救いの光として世に来てくださいました。光がそこにあるだけではわたしたちは感じることが出来ません。目の中に映し出されて、初めてわたしたちは光を見ることが出来るのです。福音は二つの光に例えられます。一つは聖霊が与え給う福音がキリストをわたしたちの罪を贖うために掲げてくださる光です。そしてもう一つは聖霊がわたしたちの心にその光を感じる光を与えてくださることです。聖霊がわたしたちの心を照らして、救いを悟らせてくださるために、わたしたちは礼拝共同体として御言葉を聴き、真の救いを心に確信する教会を建てて参りましょう。

 

御在天の主なる父なる神様

御子イエス・キリストによって開かれた救いの御業を感謝し、尊き御名をほめたたえます。わたしたちはあなたの御招きに従って、本日も礼拝を守り、代々の教会と共に、また全国全世界にある教会と共に真の主イエス・キリストの体に結ばれることを切に願い祈ります。

目に見える悲惨と困難に満ちた世界に在って、またこの国、この社会の問題の中にあって、わたしたちはただ恵みによってあなたに招かれ、あなたに従う者とされました。どうかわたしたちが志を同じくする東日本連合長老会と共に、また全国全世界の教会と共に、御心を尋ね求め、福音を宣べ伝えて真にあなたに信頼する共同体を建て上げるために努めることが出来ますように。

主なる神様、あなたはあなたの慈しみに頼る他はない貧しい者を決してお見捨てにならないとわたしたちは知っております。どうか、同じ信仰を告白し、主の執り成しに頼る人々を教会に集めてください。わたしたちをつなぐものはイエス・キリストの尊い死と復活の命であることを、多くの人々が悟り、悔い改めてあなたに立ち帰りますように。どうか受難節の歩みを主が共に導いてください。今苦しんでいる者を顧みてください。

この尽きない感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって捧げます。アーメン。

キリストは我らの苦難を負って下さった

聖書:イザヤ55章8-11節, マルコ福音書8章27-37節

 今年の受難節は2月の14日(水)から始まりました。例年二月はほとんど特別な行事がありませんで、それだけ静かにしみじみと主のご受難を覚える季節を迎えるのですが、今年は少し様子が違いました。東日本連合長老会の行事として、2月11日(日)講壇交換礼拝が行われ、十貫坂教会の清野先生をお迎えしました。続いて12日(月)には東日本の長老、執事研修会が自由が丘教会で行われ、その同じ日に、第4回東日本長老会議も開かれました。

例年以上に厳しかった寒さ、インフルエンザの流行が影響して、教会学校やピアノ教室もお休みの方が多かった2月でしたが、皆様のお祈りと奉仕が祝され、支えられて、成宗教会は無事に受難節第3の主日を迎えることが出来ました。真に感謝です。そして2017年度も今月で終わろうとしています。今、ご存知のように成宗教会は記念誌を編集しております。発行は2019年3月です。この計画は2017年度の教会総会で可決承認されたものですが、アッという間に一年が経ちましたので、来年度一年で何とか完成させることを目指さし、皆様のご協力をお願いしたいと思います。

私が赴任しましたのは、2002年ですから、今月で16年が過ぎたことになります。私の前々任の長村亮介先生の時代に50年史が編纂されていますので、それ以後、大石健一先生と私の赴任していた時代の記録を整理することが、成宗教会に必要であるということで賛同を得ています。私は今日まで16年も成宗教会に仕えて参りましたが、私の牧師としての務めは、実は第二の人生の務めでありました。私の前歴については、どなたもほとんど関心をお持ちにならないと思って、お話もあまりしなかったのですが、元々、私が一番やりがいがあると感じ、また誰からも喜ばれた仕事がありました。それは産休代替の教員です。

今有名人の藤井君という中学生棋士が通う名古屋大学附属学校をはじめ、4つぐらいの公立私立で臨時教員を務めました。その仕事の特徴は、勤務年限がはっきりしていることです。産休代替の教員は産休、育休の間、学校に派遣されて喜ばれ、お産の教師が職場に戻れば、辞めていなくなって喜ばれる。だれからも喜ばれる教師でした。そして私個人としては一人の人の出産に協力したという喜びがある。産休と育児休暇で長くても15カ月を超えることはありませんでした。居心地が良いからそこにいつまでもとどまりたい、そういう選択肢はありません。しかし、私はこういう仕事が非常に気に入っていました。

ところが、神さまは私の気に入っていることを好きなようにさせてくださる、ということではありませんでした。神さまは、「自分の好きな道を行きなさい」とは仰らない。ただ、「わたしに従って来なさい」と言われます。ある日神さまは突然、すべてのわたしの気に入っていた職業も、教会も、ボランティアの仕事も次々と道を閉ざされました。そして、神学校だけが、それも東京神学大学への道だけが開かれました。

わたしたちは、皆それぞれに決心をして洗礼を受けています。私も50年前洗礼を受ける前に勉強会があったことを覚えていますが、進行について十分分かったから受けたというようなものでは決してありませんでした。洗礼を受けるということは、自分はこう信じるとか、ああ信じると告白することではありません。そうではなくて、教会が信じて来た信仰を受け入れ、イエス様の体に連なることなのです。しかしそのことも、教えられなければ自分で分かることは困難です。それでも、わたしたちは皆それぞれに、いろいろあっても今日も礼拝を守り、教会に連なる者とされています。これは、決して当たり前のことではなく、とても恵まれた不思議なことなのだと思います。

本日の聖書は、イエス様が弟子たちに信仰の教育をされているところであります。受難節が巡って来ますと、イエス様の弟子たちについて、わたしたちは学ぶのですが、イエス様の弟子たちも元々はわたしたちとそんなに変わりのない人々だと感じるのではないかと思います。イエス様が大好き。でも、あまり苦労はしたくない。イエス様と一緒にいると何か得することがあるのではないか。と思っているような、まあ普通の人々ではないかと思います。イエス様は初めに一般の人々は、御自分のことをどういう者だと考えているのか、と尋ねておられます。それは、イエス様が世間の評判を気にしておられたからではありません。そして弟子たちも、イエス様にはっきりと敵対している人々の考えについて答えたのではありませんでした。むしろ、ユダヤの人々はイエス様を洗礼者ヨハネと比較し、エリヤと比較して、似ているとか、そっくりだとか、評価していたのでしょう。その好意的な意見について弟子たちは報告しています。

わたしたちも教会の外の人々について考える時、イエス様に好意的な人々、キリスト教に対して良い印象を持っている人々があることを知っています。それはうれしいことではありますが、しかし、イエス様は弟子たちにお尋ねになりました。他の人々はそう考えているのだということだが、それでは、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」イエス様は今、エルサレムを目指して進んで行かれます。その目的地には、非常な苦難が待っていることを弟子たちに教えなければなりません。弟子たちはこれまでイエス様に従って、教えを受けていたのですが、イエス様が受けなければならない苦難については、何も理解してはいませんでした。彼らは本当にわたしたちとあまり変わりない人々だったことは、驚きでもありますが、神さまがイエス様によってこういう人々を呼び集めてくださったことは、わたしたち自身の現実を考える時には、慰められることでもあります。

ところが、イエス様の問に対して、ペトロははっきりと答えます。「あなたは、メシアです。」つまりペトロは、あなたはキリストです、と答えたのでした。キリスト、ヘブライ語でメシアは、救い主の永遠の御支配と祭司職を表します。キリストはわたしたちを神に和解させて下さり、わたしたちのために完全な義を獲得して下さいます。つまりキリストの捧げる犠牲によって、わたしたちの罪を廃棄してくださるのです。こうしてキリストはわたしたちを自分のものとされ、御自分の中に受け入れ、わたしたちをあらゆる種類の祝福で豊かにして保ってくださるのであります。

「あなたはキリストです」という告白。この中にわたしたちの救いがすべて含まれているのです。教会の信仰告白としてわたしたちは使徒信条を告白しています。しかし、ペトロの告白は教会の信仰の根幹であります。こう告白出来たということは、本当に素晴らしいことでありました。では、この告白をしたからには、弟子たちはイエス様のことがすっかり理解できたのでしょうか。それは全くそうではなかった。31節以下を見ますと、そうではなかったことが分かります。

わたしたちの歩んできた生活を振り返ってみますと、弟子たちの様子はよく分かるのではないでしょうか。「あなたはキリストです」と告白出来たことは、本当に素晴らしいことで、奇跡的なことというべきです。なぜなら、わたしたちはだれも、イエス様がキリストである、ということが本当にどういうことなのか、よく分かっている人はいないからです。わたしたちがたとえ長生きするとしても、キリストの担われる苦難と死について、どうして十分理解できるはずがあるでしょうか。ですから、真に聖霊の助け、恵みの御業がなければ、この小さな告白も決して起こらないのです。

しかし、イエス様は弟子たちが全く理解出来ないことをお教えにならなければなりませんでした。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と。苦難と死の予告は、弟子たちには全く耐え難いものでした。想像を絶するものでした。そのことを知っておられるイエス様は、すぐに「三日の後に復活することになっている」というお言葉を述べて、彼らを慰めてくださったのですが、本当に衝撃は大きく、彼らの耳に全く入りませんでした。

イエス様があからさまに話された時、ペトロはイエス様をわきの方にお連れしたということです。それは、「イエス様に皆の前で何か物申すのは失礼だから・・・」という配慮からでしょうが、しかし、そもそも先ほどの告白と、ペトロの行為はどうつながっているのでしょうか。あなたはメシア、キリストですと告白したからには、わたしたちはキリストにただただ従って行くだけなのです。それなのに、ペトロはキリストに意見をして「苦難を受けるなんてとんでもない!」「殺されるなんてとんでもない!」とお考えを変えるように迫りました。わたしたちはいかにキリストを侮っていることか。それは神を侮っていることと何一つ変らない、恐ろしいことなのです。

わたしたちは、神様に従って生きているつもりでも、実はどんなに逆らっているか、神様を説得して考えを変えさせようとするほど、神様を侮っていることに気がつきません。自分の考えは絶対正しい!と少しも疑わないということが起こります。イエス様はペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」ペトロは何とサタンと呼ばれました。実際、彼は神に逆らっている彼はサタンの支配を受けていたからです。しかし、このように厳しいお叱りを受けたからこそ、彼は悔い改めることになるのでした。

キリストはわたしたちを招いておられます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」わたしたちは自分には背負うべき十字架があるとはあまり思っていなかったでしょう。わたしたちは自分の行きたいところに行って、自分のしたいことをして生きるのが理想だったかもしれません。楽しい趣味で生活を満たして生きようとしたかもしれません。一方、イエス様だけが重い十字架を背負って苦しんでおられるように見えていたのではないでしょうか。

イエス様はあんなに苦労なさって死の報いを受けることしかなくて、お気の毒でした。イエス様は大変立派な方で、奇跡も起こしてくださったけど、あんな苦労は、わたしはしたくない、というのが偽らない気持ちではなかったでしょうか。そして、苦労は一方的にイエス様のところに、楽な人生は一方的に自分のところにあるような錯覚に陥っていたのではないでしょうか。

私は学校教員として派遣されて喜ばれ、学校を去って喜ばれた、と自分の過去を申しました。私は16年前に成宗教会に派遣された時、教会の皆さんに喜ばれているようには感じられませんでした。非常な悲しみと痛みが皆さんの背後に感じられたからです。私はその原因についてほとんど何も分かりませんでした。けれども、少なくとも私は、私を成宗教会に呼んでくださった方を知っておりました。私をここに来させた方は、この教会と共にあり、わたしたちが苦労も苦難も拒否していた時もわたしたちのために、わたしたちに代わって、十字架を負ってくださったことを、私は知っていたからです。それがどなたであるか、皆様はもうご存知です。その方こそ、教会の主イエス・キリストです。教会と共にいてくださる主、皆様の背後にある苦労と苦難と悲しみと痛みを負ってくださるキリストを信じて、皆様は教会にとどまることが出来ました。だからこそ、主はわたしたちに主の命をくださろうとしておられる。そして、それをわたしたちは信じているなら、そのことこそが、わたしたちに与えられた恵みなのです。祈ります。

 

主なる父なる神様

信仰弱い教会に、計り知れない慈しみをお示しになって、救いに招いてくださるあなたの愛を見上げ、心からの感謝をささげたいと願います。昔地上にいらした時にあなたが読んで下さった弟子たちをあなたは御子によって愛し、その愚かさにも拘わらずお見捨てになりませんでした。わたしたちは何も知らないものでありながら、自分を賢い者のようにあなたに従おうとしませんでした。自分の考えの方があなたよりも正しいと思うに至るほど、罪深いものです。しかし、実際には少しの重荷にも、労苦にも耐えられない。あなたはそのようなわたしたちに、絶えず愛を注ぎ、希望を注いで導いてくださいました。どうかわたしたちがそのことに気付き、驚き、感謝に溢れる日が来ますように。

今苦しんでいる者も、今悩んでいる者にも、そのような日が来て、あなたの思い、溢れる愛を発見する恵みに与りますように。どうかイエス様の労苦、苦難がわたしたちを救うためであったことを悟ることができますように。喜びと感謝に溢れる日が来ますように。この受難節の日々、どうか人知れず労苦している方々の労苦を顧みてください。病気の悩み、孤独の悩み、仕事の悩みにあなたの助け、慰めと癒しをお与え下さい。

今、わたしたちは2017年度の終わりを迎えています。様々な困難のあった一年でしたが、あなたは多くの悩みを通して、共に祈り支え合うことを教えてくださいました。どうぞ、ここにこそ、主の喜ばれることが実現しますようにお助けください。新しい年度に向けて整えなければならないことが多くあります。どうか貧しいわたしたちが持てる力、与えられた賜物を生かしてあなたの喜ばれる教会を建てることが出来ますように、お導きください。連合長老会と共に歩む歩みが祝されますように、切に祈ります。復活のお祝いの日を目指して、わたしたちの日々を一歩一歩整えてください。お病気の方々も癒されて共にイースターを喜び迎えることが出来ますように。

この尽きない感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。