受難節第2主日礼拝 (2021/2/28 № 3742)

司会:齋藤正
奏楽:ヒムプレーヤ
前奏 新型コロナウィルス感染症流行拡大防止のため自粛します
招詞
讃美 66
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 12856節(交読詩編p.148 [赤司会・黒一同]
祈祷
讃美  257
聖書 出エジプト記 3112 (旧約p.96)
説教
「燃える柴の中から」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 224
献金 547 齋藤千鶴子
頌栄 543番
祝祷
後奏
受付:齋藤千鶴子

 

受難節第1主日CS合同礼拝 (2021/2/21 № 3741)

司会:齋藤正
奏楽:ヒムプレーヤ
前奏 新型コロナウィルス感染症流行拡大防止のため自粛します
招詞
讃美 191番
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 第128篇1-4節(交読詩編p.148) [赤司会・黒一同]
聖書 エレミア書 4章3節 (旧約p.1,180)
マルコによる福音書 4章1-20節 (新約p.66)
説教
「みことばの実り」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 515番
献金 547番 齋藤千鶴子
頌栄 543番
祝祷
後奏
受付:齋藤千鶴子

 

正しさとは何か

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌187番
讃美歌354番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 49章25節 (旧約聖書 1,144ページ)

49:25 主はこう言われる。
捕らわれ人が勇士から取り返され
とりこが暴君から救い出される。
わたしが、あなたと争う者と争い
わたしが、あなたの子らを救う。

新約聖書:マルコによる福音書 3章20-30節 (新約聖書66ページ)

3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

《説教》『正しさとは何か』

主イエスの周りには大勢の群衆が集まっていました。「食事をする暇もないほど」と記されていますが、原文では「食事をすることも出来なかった」となっており、時間がないということではなく、押し寄せた群衆によって小さな家が一杯になり、「食事どころではなかった」ということでした。主イエスに興味をもった人々で満ち溢れていたのが、初期のガリラヤ伝道でした。そして、集まって来た人々の期待は、主イエスの超自然的な癒しなどを求めてのことであり、主イエスを正しく理解していなかったということも事実でした。

先週1月31日に、13節以下をご一緒に読んだ時、この弟子たちと主イエスのお姿は教会の原型であることを述べました。教会とは主イエスが中心にあって、弟子たちを含むすべては、付随するものとも言えるのです。もちろん、弟子たちが何もしなかったのではありません。彼らも一生懸命に働いたことでしょう。しかしそれでもなお、中心に立たれるのは主イエス・キリストであり、教会に働く者は、たとえそれが十二使徒であろうと、ただキリストに従っている者に過ぎないのです。

それでは、この時、人々の目に映った主イエスのお姿はどうであったでしょうか。既に繰り返して来たように、主イエスの癒しの御業などに対し、人々が大きな興味と期待を寄せていたことも確かです。自分たちの要求、自分たちの眼に写る身近な幸福への願い、そのような人間の自己中心主義・エゴイズムが彼らの心にあったことに間違いありませんが、ただそれだけとも言えません。

自分の要求を第一とするエゴイズムは、誰にでも有るものであり、現代の私たちも同じでしょう。当時の人々と現代の私たちとは、問題や要求する事柄は違っていても、心の底にある自己中心性は変わっていないでしょう。

それならば、何故、あの時の熱狂が現代にはないのでしょうか。ガリラヤにおいて主イエスに向った爆発的と思える人々の集中には、単なる「物珍しさ」を通り越した「何か」があったと見るべきです。「イエスへの要求」という人間のエゴイズムだけを見るのではなく、かくも人々の心を引き付けた「何か」を、ここに読み取らなければならないのです。

続く21節から、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」とあります。

主イエスの家族の者たちは「イエスが気が変になった」と思いました。「気が変になった」とは曖昧な表現ですが、正しくは口語訳聖書にあるように「気が狂った」と記されているのです。また、ユダヤ人の宗教的指導者である律法学者たちは、「イエスは悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれている」とも非難しました。

しかしながら、主イエスが、病人を癒し、悪霊を追い出しているだけであったならば、家族の人々は「気が狂った」とは思わなかったでしょう。自分たちの家族の一人であるイエスが「どうしてこのような癒しの力を身に付けたのか」と不思議に思ったとしても、「取り押さえに来る」ことはなかった筈です。ナザレからカファルナウムまで約25km、石がごろごろしているガリラヤの山道を丸一日歩かなければなりません。31節を見れば、母マリアまで来ているのであり、大変な思いで駆けつけて来たと思われます。

それ程までしてナザレからやって来たということは、ただごとではない「気が狂った」としか思えない「何かがあった」と考えるべきではないでしょうか。そして弟子たちも、主イエスと同じ姿をとっていたに違いないのです。

何が、「狂った」と言われるほどに異常だったのでしょうか。それは、「何をしているか」ではなく、「どのように生きているか」ということでした。

それは先ず、彼らが平凡な生活を否定したことに見ることが出来るでしょう。ペトロたちはガリラヤ湖での主イエスとの出会い以来、家も職業も捨てたと思われ、御言葉を聞く人々にも自分たちのような在り方を勧めていたため、これ迄の生活を守る堅実な生き方を否定する危険な思想のように受け取られたのかもしれません。

また、主イエスは、多くの人々からバプテスマのヨハネの再来と見られたように、この世の権力を真っ向から否定はしなかったものの、それに従うのではなく、新しい権威、新しい価値観を説いていたと思われます。

祭司や律法学者たちは民衆の指導者であり、尊敬され、大きな権限を持っていました。会堂を中心としたユダヤ人の日常生活は、伝統的な体制に依存していました。そのため主イエスたちは反社会的行動をしていると見做されていたでしょう。加えて、主イエスの周りには当時の社会で軽んじられている人たちばかりが群がっていました。ガリラヤ湖で魚を採っていた漁師たち、軽蔑されていた徴税人、危険思想を持つ熱心党員、それらに加えて、娼婦として軽蔑されていた女性たちや難病に苦しむ人々、苦しい生活を強いられた未亡人たち。主イエスの周りに集まったのはこのような人々でした。

「神の国の到来」という福音を宣べ伝える主イエスの姿勢は、その時代の一般的な人々、特に体制派の人々には受け入れられないものでした。当時の常識的な人生の価値観と共存出来るものではなく、その時代の現実の社会体制の中で生きる者にとって「異質なもの」と見做されたのです。

私たちの周りには時折、「イエスの時代に生まれ、イエスの説教を直接聴いたら、素晴しい信仰者になったであろう」と言う人がいますが、それは大変な思い違いです。主イエスの御言葉を聴く者は、それまで自分が守って来たもの、大切にして来たものを否定する言葉を聴くのです。福音は、それまでの生活の流れを徹底的に変えることを要求しました。

今ここで、聖霊なる神が導かれる教会で、聖書を読んで分からない人は、何処へ行っても分からないでしよう。何故なら、それは聖書が難しいのではなく、心が固いからです。御言葉を拒否してしまっているからです。主イエスの時代の人々と同じように、福音を自分とは異質なものとして聴いているからです。主イエスの家族は、「言うことは分かるが、それほど迄にすることはあるまい。これはもう行き過ぎている」と思ったのです。

私たちはどうでしょうか。自分のこれまでの生活のリズムがある程度保たれ、社会の人々と折り合いをつけられるのであれば、異なる意見に対しても寛容であり得ます。しかし、自分を守る最後の場が否定されれば相手に対して寛容になることは出来ないでしょう。

律法学者たちが主イエスの奇蹟の御業を目の当たりにし、そこで示された偉大な力を見てそれを認めながら、それでもなお、悪霊との結び付きしか考えられないのも、主イエスの家族と同じ状態にあることを示しています。自分の考え、自分の生き方に合わないもの全てを、「まともではない」と決め付けるのです。

主イエスを愛する家族たちも、主イエスを憎む律法学者たちも、主イエスに対する対応が同じであるならば、それは、個人の感情的な問題ではなく、まさに人間の持つ罪の姿と言う以外ありません。福音とは、神様に背を向けた人間の眼には、「狂っている」としか見えないようなことがあるのです。

更に23節から主イエスは、「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることは出来ない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」と言われました。

この28節以下は主イエスが「悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれている」という批判に対する論駁です。そして27節の「強い人」とは、その悪霊を指しています。悪霊は、その力で人を罪と死の奴隷にし、「家財道具」のように家に閉じ込めているのです。この悪霊である「強い人」の家に押し入り、その支配下にある「家財道具を略奪しよう」とは、「悪霊に縛られている人を解放しよう」としているのです。そのためには、まず「強い人」を縛り上げるほどの強い力が必要であり、「わたしが悪霊を追い出しているのは、わたしが悪霊よりもはるかに強い力を持っていることの証明である」と、主イエスは言われているのです。

主イエスは悪霊との結び付きを完全に否定しています。そして、悪霊に憑かれていることが「気が変になっている」ということと同じであるとするならば、主イエスはここで、御自分の姿こそ「正常である」と言っているのです。そして更に、もし主イエスが正常であるならば、主イエスを「まともではない」と言う人こそ「まともではない」ということになるでしょう。「正しい」とか「まともである」ということは、それが何を基準にして判断されるのか、明らかに示されなければなりません。

主イエスは御自分の正しさをはっきりと宣言されました。そしてそれは、御自分の家族を含めて、多くの人々が「正常ではない」という宣言でもありました。「正しさ」とは「存在の正しさ」です。私たちが、今、どのように生きているかという問題です。どれだけ、世のため、人のため、また教会のために尽くしているかということではなく、どれ程人を愛して来たかということでもありません。「何のためになされるのか」ということが問われているのです。それは、「神様のため、神様に喜ばれるため」に他ならないのです。

この本来のあるべき姿を失った時、人は全て正常ではなくなると言わざるを得ません。かくて、神様に背を向けて生きる全ての人々は「まともではない」のです。信仰を与えられ神の御前に立つということは、この世の信仰のない人々の生き方から見れば異常な姿に見えるでしょう。信仰を与えられ人本来のあるべき姿として、神の国を生きる時に、人は正常な者として自分を新たに発見するのです。与えられた信仰こそが正しく人を生かすのです。

そして、28節から主イエスは、「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と言われました。

この世で人間の犯す全ての罪は赦される、しかし、永遠の罰が定められるのは聖霊を汚す者だけとあります。それは何故でしょうか。

聖霊なる神とは、キリストから遣わされて私たちのところに来られた「助け主」です。聖霊を拒否する者は、聖霊が与えて下さる神様の赦しを拒否する者であり、神様の赦しを拒否する者は最終的な裁きを受けざるを得ないのです。

ですから、全ての人間に、神様の赦し、つまり正常な人間に戻る道が備えられているのです。福音を信ずるならば全ての人間は救われるのであり、滅びる者は、自分から赦しを拒否して破滅への道を進んでいるのです。

私たちが、今、キリストに属する者、キリストの弟子として教会に召されたということは、この神様の救いの御心が、全ての人々に対して向けられている、ということを証しするためなのです。

聖書が告げる主イエス・キリストの喜びは、私たちがこの世に埋没してしまうことではなく、この世の人々と平和に共存してしまうことでもなく、弟子たちのように、周囲の人々とは違う生き方、新しい生き甲斐を持つ人間の姿を示すことなのです。「いったい、どちらが正常なのか。」との問い掛けを、生涯をかけてこの世に向って証ししていくのが、私たちキリスト者なのです。私たちの日々の生活、生きる姿によって、聖霊に助けられてこの証し人となるのです。

お祈りを致します。

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