2018年12月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

興津晴枝先生のお話

これは今年11月25日の礼拝で話されたものです。

聖書:マタイによる福音書1章18~25節

イエスと名付けなさい

興津晴枝

イエスさまはマリアさんを母としてお生まれになりました。その時マリアさんはヨセフさんと結婚の約束をしていました。その二人の所に神様のお使いである天使ガブリエルが訪れ予告します。天使はマリアさんに言いました。「恐れることはない,あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」

ヨセフさんにも夢で天使が告げます。「マリアを妻として迎え入れなさい」

この予告を聴いた二人はどんなに驚き悩み恐れおののいたことでしょうか。まだ結婚もしていないのに。でも二人はとても信仰深かったので、素直に神様を信じ生まれてくる子の両親になることを受け入れたのです。神様は二人の信仰に御子の誕生を委ねたのです。人間的には決してあり得ないことでしたが、マリアさんが身ごもったのは、神様ご自身の働きかけによってのことだったのです。聖霊とは神様ご自身のことです。イエス様はマリアさんを通して人間の子として生まれましたが、同時に神様の独子としての誕生だったのです。なぜ、神様はこのようにして私たち人間の世界に独リ子を送って下さったのでしょうか。

みなさんも経験がありませんか?私たちは自分が病気になって初めて病気の人の辛さが分かったり、自分が試練にあって苦しんでみて初めて苦しんでいる人の気持ちが分かるということがあります。イエスさまは私たちと同じ肉体をもって私たちの経験する苦しみや試練を受けて苦しまれたからこそ、私たちを罪から救い出す事がお出来になるのです。天使は更に言いました。「生まれてくる男の子にイエスと名付けなさい」両親になったマリアさんとヨセフさんが付けるのではありません。皆さんはそれぞれお父さんやお母さんが生まれる前からこんな子に育って欲しい!という願いや希望を込められた素敵な名前を持っていますね。

では、天使の告げた「イエス」という名前はどんな意味が込められていたのでしょうか。それは神様がお付けになった特別の名前なのです。ところが、実は当時のユダヤではごく一般的な名前で少しも特別ではなかったのです。不思議ですね。特別なのに特別ではない。ユダヤの人々は、何時の日かきっと神様が救い主を送って下さるという事を、預言者を通して信じていたのです。「イエス」という名は「主は救い主である」という意味です。「インマヌエル」というのは別の読み方で、「神は我らとともにおられる」です。「イエス」という名は多くの親たちの希望と願い、そして我が子にもそのことを忘れないようにとの願いが込められていたのです。

主イエスは、一人の人間としてはナザレの村で両親に仕えごく普通の少年としてそだち大人になり生活をされました。でも主イエスは「イエス」という名に込められた多くの希望を実現する方として使命を与えられてお生まれになった方でした。マリアさんが神様の御子の母となることを決心したことによって、私たちも神様の大きな愛のみこころを知らされたのです。十字架上の死から復活されて、今は天におられるイエスさまは、私たちにいつも聖霊を送って下さっています。神様から離れて罪に落ち入った私たちのため神様に赦しのとりなしをして下さっています。イエスさまを心から信じて「天のお父様」とよびかけお祈りできるようになりたいですね。

12月の御言葉

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住むものの上に、光が輝いた。」

イザヤ9章1節

12月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

12月2日(日)  イザヤ書9:1-6        お話の担当…斉藤 紀

9日(日) ルカ1:26-38               並木せつ子

16日(日) ルカ1:39-45             並木せつ子

23日(日) ルカ2:1-7               興津・山口

成宗教会学校からお知らせ

  • クリスマスを待つ心の準備をしましょう・・・「待降節」(アドヴェント)という言葉を聞いたことがありますか。待降節はイエスさまの誕生を迎える準備の季節です。クリスマスの4つ前の日曜日から始まります。今年は12 月2日(日)から始まります。
  • 今年の教会学校クリスマス礼拝・・・12月23日(日)9時15分から。いつもは来られない人も、来られますように。みんなプレゼントをいただいて、イエス様のお誕生を心からお祝いしましょう。
  • クリスマス主日聖餐礼拝・・・12月23日(日)10時半~。大人の人々が中心ですが、小さいお子さんも参加できます。信仰を告白した人々が参加する聖餐式があります。どうぞ見学してください。
  • クリスマスイヴ礼拝・・・12月24日(月)夜7時~8時半。成宗教会では、毎年、クリスマス・イヴ礼拝(キャンドルサービス)を教会学校の生徒さんも参加して行っています。お家の方々といらして下さい。
  • 12月30日(日)の教会学校はお休みです・・・来年は1月6日から来てください。そして教会では、日曜日10時半からの礼拝は毎週いつでもあります。いらしてください。

主を待ち望め

聖書:詩編13018節, ローマの信徒への手紙3920

 週報にも報告しました通り、成宗教会は私の後任の教師を招聘するべく準備を進めております。ひと昔前の時代には、倒れるまで頑張ってあとはよろしくというのが牧師の務めのように考える傾向もあったかもしれません。しかし、辞任を表明する牧師は、単に辞めて行けば良いのではない。後任を迎えるために長老会と共に最大限の努力を傾ける。これが教会の主に対する私の最後にして最大の務めである。このことを今、私は長老会と共に主から示されているところであります。

さて、そういうわけで、次年度に続く仕事の一つはキリスト教主義の学校とのつながりでありますから、来年も成宗教会の教会学校が覚えられるようにと、先週も明治学院東村山校のキリスト教教育懇談会に参加して参りました。高校三年生の方々が教会やキリスト教について、それぞれの持つイメージや考えを発表していました。大変印象的だったことは、受洗を決心したきっかけが、いろいろなキャンプへの参加であったことです。とても楽しく心を打ち明けて話が出来た。その後も楽しい交流が続いているなど、発表者のほとんどが同様の体験を語っていました。

同年代の生徒が、若者が、一緒にいるとそれだけで楽しいという経験。これは、わたしの年代だと小中学校で普通にあったことなのに、今はそうではないらしい。楽しくない集団がむしろ当たり前になっているのかもしれないと思いました。それが現実だとすれば、イエスさまを教える主催者が開くキャンプは、彼らにとって本当に珍しい喜びの体験だったのは当然だと思いました。

その反対の例ですが、勤労感謝の祝日にわたしが教会の前を掃除しようと出て見ると、何と不審な人々が5,6人も前の道路に立っていました。と言っても集団で来たのではありません。ほとんど並んでスマホを見ながら立っていますが、恐らくポケモンを探しているのだろう、と想像できなかったら、私にはただ気味の悪い人々としか感じられないでしょう。一緒に人々がいる、ということだけで、うれしい、楽しいということには決してならないのです。

わたしたちは、この夏から 十戒 についてみ言葉を学んで参りました。人々が一緒に喜んで生きるためのルール、それが十戒であるとも言えるのであります。これは、神さまから与えられました。人々が一緒に喜んで生きるためのルールなら、人が決めれば良いのではないか、と思うかもしれませんが、理屈はそうでも、それはできなかったのです。なぜなら、次のように書いてあるとおりです。ローマの信徒への手紙3章10節~11節。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」人々が一緒にいて喜んで生きられるというためには、何よりも人々を一人残らずお造りになった神さまを信頼することが前提となります。ところが、神さまを信じ、神さまを頼りにする人がいないという。皆、罪人だというのです。

12~18節。「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦みで満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」

わたしたちには律法が与えられているのですが、それでは、これらの律法、戒めをすべて守ることができるでしょうか。その問には、今日読んでいただいたローマの信徒への手紙が答えています。わたしたちはたとえ見た目には正しいことをしているように見えるとしても、心の中では十戒をすべて守ってはいないのです。密かに人を呪い、姦淫の罪を犯し、人のものが絶えず羨ましく、自分のものにしたいと思い、また嘘をついてします。そしてそういう罪が大きい人ほど、ますます自分の罪には気がつかないということが起こります。それは自分で自分をだまし、ごまかし、欺いているからで、ここに人間の罪の深刻さがあります。

神さまは罪人であるわたしたちに、ある時は苦難に遭わせます。わたしたちはしばしば、苦しんでいる人々に対して同情しない。それどころか、神に見捨てられているのだと突き放すことさえあるのではないでしょうか。その反対に、自分が苦しみに遭う時には、神さまに見捨てられたように感じてしまうでしょう。どちらにしても、わたしたちの考えは、神さまのお考えとは全く違うのです。そのように、わたしたちは皆、神さまから心が離れてしまう罪人です。しかし、旧約聖書詩編130篇で詩人は叫びます。礼拝の場、エルサレムを目指して、神さまに叫び求めるのです。しかしそれは、自分が正しい者だから、神さまに祈り求める資格がある者だから叫ぶのではありません。

そうではなく、詩人は深い淵の中にいる者として、耐え難い試練に打ち沈んでいる者として、しかしながら、神さまに叫ぶのです。自分は間違っていない、自分は悪くない、と主張しているのではありません。神さまがわたしたちの間違い、罪、いろいろすべて数え上げなさるならば、主よ、誰が耐えられるでしょう。「だれもあなたからお咎めを受けないで済む者はいません」と、自分の罪を認めざるを得ないのです。一つ一つ罪を裁かれたら、その罰は死刑が100回どころか1000回も死ななければならないでしょう。

しかし、それでは詩人はなぜ叫ぶのでしょうか。なぜか、が分かる人は真に幸いです。なぜなら、それこそが神さまが罪人に求めておられることだからです。だからこそ、神さまはわたしたちに試練をお与えになるのではないでしょうか。「悩みを与えられ、懲らしめを受けて、ついに神さまに向かって叫び求める者になりなさい」と。詩人は自分が神さまの御手によって懲らしめられるのは、当然であることを認めながらも、勇気を出し、立ち上がって神さまに救いを求めます。そればかりか、すべての信仰者に向かって、神さまに確かな望みを抱くように勧めるのです。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに」と。なぜなら、神さまはとこしえにご自分の民を救う方、贖う方でありますから。神さまは人々を死から救い出す手立てを、その御手の内に常に備えておられると確信しているからです。

世の人々は、神の存在も認めず、従って神を恐れない傲慢な人々が多いのですが、それでも、神がおられると信じる人々は、神は厳しく裁く方であると考える人々も少なくないと思います。しかし、聖書の信仰は、わたしたちにご自分を顕される神さまは、罪人を憐れみ、悔い改める者を救いに招こうとなさる方である、ということなのです。わたしたちに起こるあらゆる困難、試練、災いも幸いも、すべて、わたしたちを悔い改めに導こうとなさる神さまのご配慮であります。そのことを信じて常に神さまの恵みの招きに立ち帰るなら、わたしたちは、困難の中にあっても本当に幸いな者とされるでしょう。

旧約の詩人が待ち望み、人々に力強く教え励ました救いを求める祈りは、イエス・キリストによって実現しました。旧約の民に与えられた二枚の板に記された十戒。この戒めはローマ3章20節の言葉の中に目的を達成したのです。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」つまりだれも律法を自分の力で実行することができなかったということなのです。しかし、神さまは御自分の独り子イエスさまを世に送ってくださいました。そしてイエスさまだけが、律法の心を実現なさったのでした。律法の心、それは、イエスさまが人々に教えられたみ言葉です。マタイ22章37-39節。「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」44頁。

そしてイエスさまは人々に教えられた戒めを、御自身において実行され、神を愛し、そのみ心を行われました。そして、隣人を愛し、最後まで愛し抜いて下さったのです。すなわち、わたしたちの罪の身代わりとして十字架に掛かられ、わたしたちの贖いとなってくださいました。このようにして、イエスさまは、隣人を愛することも、神さまを愛することもできず、いやそれどころか神さまの独り子イエスさまを十字架に付けた張本人であるわたしたちの罪を赦してくださったのです。

真に、人は律法の行いによって救われるのではなく、イエスさまの愛と赦しを信じる信仰によって救われることをわたしたちは教えられました。この信仰によって、わたしたちは罪赦され、新しく生きる者とされるのです。こうして律法はわたしたちをキリストへと導く養育係となったのです。イエスさまは十字架の苦難と死、そして復活によって、神と人を愛するという十戒の戒めをすべて完成させてくださいました。そして、わたしたちは、律法を行って完成することによってではなく、この律法の完成者であるイエスさまを信じることによって、救われる者となったのです。

ですから、何よりも大切なのは、キリストの御支配がわたしたちの内にあるかどうかなのです。イエスさまの霊のご支配の下に生きる者は救われます。わたしたちは、たとえ律法を完全には守ることができなくとも、キリスト・イエスさまへの信仰によって、万物を支配するキリストの御力によって、わたしたちの内に力を振るおうとする罪の支配を絶えず打ち砕いていただくことができるのです。このことは、クリスチャンの個々人に起こるだけではありません。このことは、御言葉を宣べ伝えて行く教会にまず起こらないはずはありません。わたしたちは地上に立っているこの教会の上に、まずキリストの体として御支配を受けることを祈り求めて参りましょう。

本日まで学んで参りました十戒の最後の問は、「これらの律法をすべて守ることができますか」でした。それに対する答は、「いいえ、できません。それがわたしたちの罪です。けれども律法の完成者であるイエスさまによって、罪赦されたわたしたちは、この教えに従って新しく生きることができるのです。」この十戒の教えに従って新しく生きることができるということが、十戒に与えられた新しい目標なのです。すなわち十戒に表された律法は、罪赦された者の感謝の生活を導く道しるべとなっているのです。ここに、新しく生きるクリスチャンの喜びと幸いがあります。

今日は説教の最初に、キリスト教についての高校生が持っている主観的、あるいは客観的な考えを聞いたとお話ししました。私は彼らと50年以上年を隔てて、自分が受洗した20歳前後の頃を思い出しました。時代は激しく変りましたので、今の時代に即した伝道を次世代に担っていただくことは喫緊の課題です。しかし、全く変わらないのは、クリスチャンを律法主義的に捉える世の人々の考えだと分かりました。「『クリスチャンなら悪いことしないよね』『正しいことをするよね』と言われ、プレッシャーをかけられる」と言った高校生がいたからです。

しかし、私たちが世に知らせたいのはそういうことではありません。神さまが人の命をどんなに慈しみ、大切に思っておられるか、万物の救いのためにも、人が神さまに立ち帰ることがどんなに求められているか、このことこそがイエス・キリストの到来に結晶しているのだと、世に知らせたい。それが主の喜ばれることではないでしょうか。わたしたちの社会への救いの祈りはまだ始まったばかりです。主を待ち望みましょう。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美します。 終末主日の礼拝を守るためにわたしたちを呼び集めて下さり、感謝いたします。先週の礼拝には藤野雄大先生、藤野美樹先生を次年度からの主任担任教師候補としてお遣わしくださいましたことを深く感謝申し上げます。東日本連合長老会に加盟し、全国連合長老会の人事によって新しい教職を迎える希望が与えられていることを、感謝し、このことの上に主の御導き、お支えを切に祈ります。

成宗教会は牧師の交代をまじかにしたこの時期をあなたの御心に従って、教会を整えて参りたいと存じます。どうか長老会を励まし、また信徒の皆様を励ましてください。それぞれが与えられた務めを思い、また果たすことができるために聖霊の尊き助けをいただくことができますように。招聘に向けて臨時総会を開催します。あなたの御心がすべてのことに行われますように。

十戒の学びを本日まで導いて下さったことを感謝いたします。来週から待降節に入ります。どうか心からの感謝と悔い改めの祈りをもって準備をし、待降節を迎えることができますように。今、病床にあるオルガニストの小高氏をお支えください。ご家族も慰め、励まして下さり、癒しの御手を伸ばしてくださいますようお祈りいたします。他にもお病気の方々がおられます。どうか、日々の困難の中から、主の救いを祈り求めることができますように。

今、様々な試練、困難の中にある方々を顧みてください。助けを求める信仰が豊かに与えられますよう、祈ります。

この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神の栄光を現わす

聖書:申命記324852節, ペトロの手紙一 4711

 本日の礼拝、11月最初の主の日の礼拝を、わたしたちは永眠者記念聖餐礼拝として捧げるために、こうして教会に集められました。思えば、わたしたちは何と豊かにされていることでしょうか。世界中では人々が自分の住むところを失うほどの戦争や社会不安に襲われている地域があります。アメリカでは中米から何千人という人々が合衆国を目指して移動を始めたというニュースが流れ、本当に行き場を失う人々がいるのだ。またそれを迎え入れるかどうか、という問題に直面している人々がいるのだ、ということに驚きます。

人口減少社会の日本がある一方、世界は人口爆発です。わたしたちの社会も明日が予測できない方向へと向かっているのですが、今日という日、わたしたちは成宗教会に集められ、たくさんの写真を前にしています。あわただしい日々の中で、また明日の思い煩いが押し寄せる日々の中で、わたしたちはこれらの写真の方々を思い出して礼拝を守ります。何と豊かなことでしょうか。わたしたちは何がなくても、今日、教会と共にいらした方々を思い起こしたい、そして神さまに感謝したいという思いに満たされているからです。

本日は旧約聖書の申命記32章を読んでいただきました。これは、預言者モーセの最期についての神さまのお言葉です。モーセという人は、神さまの命令に従った人でした。彼は何か偉い人になりたかったわけでは決してありませんでした。しかし、神さまは彼をお選びになってイスラエルの人々を救い出す仕事をお与えになったのです。彼はそのために多くの困難に直面しなければなりませんでした。有名なのは、エジプト王ファラオが頑なで、どうしてもイスラエルの人々を奴隷解放しませんでしたので、彼はその罰として次々とエジプトに災いをもたらすように神さまから命じられたことです。また、モーセが杖を持って手を海に差し伸べると海が真っ二つに分かれ、乾いた地が現れたので、イスラエルの人々はそこを歩いて渡って、襲いかかるファラオの追手から救われたのでした。

しかし、モーセの直面した最もつらい試練は、敵の王様の頑固さではありません。何と味方であるはずのイスラエルの人々の頑なさでありました。モーセが苦労し、神さまに従ってすべてを耐え忍んだのは、イスラエルの人々を救うためではなかったでしょうか。ところが彼らは感謝するどころか、不平不満の塊で、モーセに激しく反抗したのでした。その時にただ一度だけ、モーセは神さまの命令通りにしなかった、ということなのです。神さまはモーセが「イスラエルの人々の中で私に背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかった」と言われました。モーセは、ただ一度の罪のために、イスラエルに約束された土地に入ることができなかったのだと言われています。

モーセは本当に神さまに忠実でしたが、完全に神様に従うことができませんでした。彼は神さまが救おうとしてくださる神の民のあまりの不信仰、あまりの恩知らずに驚き、あきれ、ついに怒ってしまったからです。それでも、モーセはイスラエルの人々の罪を一生懸命に神さまに執り成して、その生涯を終えたのですが、神さまはモーセに言われました。「イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかった」と。神さまが聖なる方であるとはどういうことなのでしょうか。

新約聖書はペトロの手紙の一、4章7節から読んでいただきました。その一つ前の6節から見ましょう。6節。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためです。」死んだ者にも福音が告げ知らされたと語られています。このことはキリストが十字架にお掛かりになり、死んで葬られ、陰府に下られたときに、死んで陰府にいた人々にも福音を宣べ伝えてくださったのだと解釈する人々がいますが、それは確かではありません。ただ、イエスさまの福音が死者を生かす力あるものであるからには、福音がこの地上で生きている人々に限定されて宣べ伝えられるということは考えられないでしょう。

わたしたちの親しい人々が既に地上から去って行きました。その中には、キリストを知らない人々、キリストを信じるに至らなかった人々が多くいます。キリスト教人口が1パーセントと言われるこの国では、当然の現実です。また、教会はこの救いを宣べ伝える使命をイエスさまからいただいているのですが、罪ある人間が十分に宣べ伝えることができているとは決して言えない。イエスさまのことが十分に分かってもらえないうちに親しい者は地上を去って行くでしょう。福音を聞く者も、語る者も共に罪あるわたしたちです。このことを神さまは御存じです。

ですから、たとえわたしたちが、またわたしたちの愛する者、親しい者がイエスさまをこの地上で救い主として受け入れないまま世を去ったとしても、それだからイエス・キリストの罪の赦しは無駄になるのか、無意味になるのか、と言えば、決してそういうことではありません。なぜなら、キリストの恵みの御業は、生きている者たちにばかりでなく、死んだ者たちにまで及ぶにちがいないのですから。だからこそ、わたしたちが「あの人は救われない」とか「あの人は駄目だ。この人は・・・」と批判したりすることは空しいこと、無意味なことではないでしょうか。

御覧ください。ここに飾られた写真の方々、教師として奉仕した方々も、信徒として教会に結ばれていた方々も、地上を去っても霊においてキリストと結ばれて生きる者とされています。では、わたしたちが今地上にあって為すべきことは何でしょうか。モーセに言われた主の御言葉を思い出しましょう。地上に生きているうちになすべきことは、神さまが聖なる方であることを表すことです。モーセにさえ完全にはできなかったこのことを、成し遂げられたのは、イエス・キリストでした。この方は、神さまがわたしたちの罪を赦して下さり、神さまの命に生きる者となるために、わたしたちのために執り成しをして下さったのです。すなわち、イエスさまは十字架にかかり、すべての人の罪の身代わりとなって死んでくださいました。この救いを信じて告白した教会の人々が、新しいイスラエル、神の民です。そのわたしたちは何をして生きればよいのか。すなわち何をしてこの救いの神さまが聖なる方であることを表したらよいのでしょうか。今日のペトロの手紙は勧めています。

「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と。教会では自分たちの求めるべき幸福は神の国の宝を受け継ぐことである、と教えられます。そうはいうものの、わたしたちは特に近年は長寿国に生きていますので、何となく自分も長生きできると思っていますから、神の国のことを思うよりも、専ら考えるのは地上のことです。たとえて言うならば、地上を去る時は必ず迫って来るのに、まるで夢の中でウトウトしているように生きている訳です。しかし、聖書は、それは愚かなことであると警告します。

そうは言っても、ペトロの手紙の時代以来、2千年もの間、世の終わりは来ないではないか、と言う人も多いでしょう。確かに今日明日と過ぎて行くこの世の流れによって、時の長さを測る限り、時間は長いと感じられるのではないでしょうか。しかし、わたしたちの目を上げて、神さまの永遠を思うことができるとするならば、数百年をもって数えられる多くの歳月も、一時間あるいは一分間と思われるようになるのです。そして終わりが近いということに、わたしたちは動揺しません。なぜなら信じる者には、永遠の命を約束されているからです。

そこで勧められています。「思慮深くふるまい、身を慎んでいなさい」と。イエスさまもマタイ24章で教えておられます。42節です。「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなたがたには分からないからである」と。

そして祈りなさいと勧められています。クリスチャンが生活の中で実践しなければならないことは祈りです。なぜなら、わたしたちの力はすべて主の御力によって与えられる力であって、わたしたち自身の力ではありませんから。それならば、わたしたちが祈らないでいることは、本当に弱くなるばかりということです。だから、「わたしたちを主の御力によって強くしてくださいと、主なる神様に求めなさい」と勧められているのです。

さて、主なる神さまに願い求めるべき、わたしたちの生活は、「何よりもまず、心を込めて愛し合う」生活であります。だから、このためにこそわたしたちは祈らなければなりません。なぜならば、「愛は多くの罪を覆うからです。」人々が互いに愛し合う時には、多くの事がらを互いに赦し合うようになります。わたしたちのうちに愛が支配するとき、それは、特別な恵みをわたしたちにもたらします。それは、忘却という恵みです。不愉快な扱いを受けたこと、傷つけられた思いをいつの間にか忘れてしまうというということよりも大きな恵みはないのではないでしょうか。忘却によって、心に残っていた多くの悪い事を、悪い思い出を葬り去ることができる。これは特別な恵みです。だから、わたしたちが愛のうちに互いを赦し合い、助け合う以上に良いことはありません。人は誰もが多くの罪という名のシミがあり、しわがあり、傷があるのですが、神さまがキリストによってわたしたちを赦してくださいました。だからこそ、わたしたちは何よりも互いに赦し合うことが必要なのです。

そして更に勧められています。「不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神の様々な恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」と。わたしたちは自分のものと思っているものも、すべて主から与えられている賜物であります。だから、人に何かを与えるとしても、何一つ自分のものを与えるわけではなく、ただ、主がわたしたちの手の中へ入れてくださったものを、他の人々にも分配しているにすぎないのです。ですから自分に与えられた恵みの善い管理者になりなさい、と教えられます。もしあなたが物やお金や、才能を多く与えられているならば、主は、あなたが多く他の人々に分配し、共に豊かになるようにと与えてくださったと知るべきであります。神さまがすべての人に同じ賜物を平等に与えてくださらない理由がそこにあるのです。神さまの御旨は、わたしたちが互いの不足を補い合い、助け合って生きるようになることなのですから。

「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように。」キリストに救われて、今を生きるわたしたちが、神さまに求められていることがここに示されています。それは神が栄光を受けるために、わたしたちが与えられたものすべてを用いて、神の栄光を現わすものになることです。

モーセのような忠実な神の僕であっても赦されず、裁かれた罪を、イエス・キリストは取り除いて下さった。この恵み深い神の計り知れない救いのご計画を思い、感謝が溢れます。成宗教会は創立78年になります。主に結ばれていることを証しして下さった兄弟姉妹を、そして教職の方々を通して、教会の主は今、わたしたちに恵みを注いでおられます。不思議な主の御力によって、この方々は地上を去った今も、主と共に在って励ましを送ってくださっています。いつまでも思い出されるのは善いこと、懐かしいことばかりなのです。ここに神の御名がほめたたえられずにはいられない教会があります。わたしたちもまた後に続いて、神の栄光を輝かせるものとなりましょう。地上を生きるこの時を生かし、わたしたちに与えられている賜物を生かして。 祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を讃美します。今日わたしたちは御前に喜び集い、永眠者記念礼拝を捧げ、聖餐の恵みに与ることを感謝します。わたしたちは小さな群れですが、あなたは恵みを豊かに注いで、今日まで守り導いてくださいました。今、わたしたちは、雨の日も風の日も成宗教会に在って共に教会の主に結ばれ、主にお仕えした永眠者の方々を覚え、感謝を捧げます。地上で思い出すわたしたち以上に、天でその名が覚えられていることを信じ、またわたしたちも後に続きたいと切に願います。すべてが主の栄光を現わすために用いられ、天上にも地上にもあなたの喜びが溢れますように。

今日、礼拝にあなたに依って招かれたご遺族の上に、あなたの豊かな顧みがありますように。地上であなたを愛していた兄弟姉妹のご家族がご子孫が、あなたの恵みを受け、主イエス・キリストを知る者となりますように。

成宗教会を今日まで守り導いて下さった大きな恵みを改めて思い、感謝申し上げます。わたしたちは、牧師の退任に伴う後任の人事を進めるために、連合長老会と学びを共にしております。どうか東日本の諸教会と共に歩み、教会の業を整えて行くことができますようにお助けください。この地に変らないあなたの恵み、福音を宣べ伝える教会として、成宗教会を建設してください。今日の長老会の上に恵みのご支配を祈ります。

本日は主の聖餐に与ることを感謝します。どうかわたしたちを、主の死に結ばれ主の命に生きる者として、悔い改めと感謝を捧げて聖餐に与ることを得させてください。本日礼拝に参加できなかった方々も顧みてください。病気の方、悩みにある方々に癒しの賜物をお与えください。

すべてを感謝し、御手に委ねます。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2018年11月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

 

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

勝田令子先生のお話

(これは今年9月16日の礼拝で話されたものです。)

聖書:創世記9:9-17

「神様の約束の虹」

勝田令子

 皆さんは、ノアの箱舟の物語を知っていらっしゃいますか?絵本や紙芝居にもなっていますから、見たことがあるかもしれませんね。なぜ洪水が起こったのでしょう?創世記6章5節に「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」とあります。地上に人が増え始めると、人は悪いことばかり考え、悪いことばかり行い、悪が満ち溢れました。神様はこの様子をご覧になって、6章7節「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も、這うものも、空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」とあります。そして神様はこの世の全てのものを滅ぼすことにしました。

全部滅ぼすと、何もなくなってしまいますね。そこで神様はノアを選ばれました。ノアは神様に従う正しい人でした。7章1節で「この世代の中で、あなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている」とあります。事実、ノアは神さまに命じられたことを「なぜ」と聞き返さず、全部言われた通りに実行していきます。神様はノアに「大きな船を造って、大洪水が来た時はその中に入りなさい」と伝えました。その舟のことを「ノアの箱舟」と言います。

6章12節には「次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを350アンマ、幅を50アンマ、高さを30アンマにして、それを仕上げなさい。」そして、「一階、二階、三階を造りなさい」とも書かれています。300アンマというのは訳135m、幅が22,5メートル、高さが13,5m暗いです。皆さんの学校の肯定は100mが直線で取れますか?50メートルは取れても100mだと取れないのではないでしょうか?そんなに大きいのです。そして、その中にノアさんの家族と、すべての動物の雄と雌一組ずつ乗せなさいと神さまはおっしゃいました。

ノアがこの箱舟を造り始めた時は、まだ、雨も降っていませんでした。大洪水なんて起こりそうもない時に、こんな大きな船を造っている人が皆さんのご近所にいたら、皆さんはどう思いますか?馬鹿じゃない…と思うでしょう。ノアの近所の人も、何をやっているんだとか、おかしいんじゃないか…と笑いました。でも、ノアは毎日こつこつとこの大きな舟を造り続けました。

そしてその後、神さまのおっしゃった通り、40日物間雨が降り、洪水が起こりました。箱舟は、雨が降って水が増え始めると、だんだん浮いて行きました。そして、ノアさんの家族と、すべての動物の雄と雌は、箱舟に入って助かったのです。そしてこの時助かった人たちから、また新しい世界が始まりました。

その後が、先ほど、並木先生にお読みいただいたところです。神様は、この出来事を記念し覚えておくようにと、空に虹をかけてくださいました。そして、全世界を滅ぼすようなことは二度としないとお約束して下さいました。これを‟虹の契約”と呼びます。

今、この世界も悪いこと、悪が満ち溢れています。ノアさんのような正しい人、すべてを神様に従う人がいなければ、この世界も滅んでしまいます。神様はこの世界を救うため、わたしたちの罪をあがなうために、大切な大切な独り子イエスさまをこの世に送ってくださいました。わたしたちはイエスさまの十字架によって救われたのです。イエス様の体である教会は、だれでも、全ての人が来ることができます。ノアさんのように、素直に神さまに、そしてイエス様に従う人になりましょうね。

11月の御言葉

「イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』」

ルカ5章10節

 

11月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。
11月4日(日) マタイ1:21 焦  凝
11日(日) マルコ15:33-41 並木せつ子
18日(日) ルカ5:1-11 藤野美樹
25日(日) マタイ1:18-25 興津晴枝

 

教会・教会学校からお知らせ・お祈り

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

(新約聖書、コロサイ人への手紙2章3節)

  • わたしたちが生きるために一番大切なことは、神さまを知ることです。
  • 皆さんの生活のすべてを恵みの道へと導いてくださる神様がおられます。この方を、聖書を通し、イエス様の教会を通して学んでください。

成宗教会・行事のお知らせ

  • 10月28 日(日)成宗教会バザーに教会学校の皆さん、お手伝い頑張ってくださいました。お父さん、お母さんのご協力も本当にありがとうございました。
  • 成宗教会では、毎年、教会学校クリスマス、大人も子どもも参加できるクリスマス祝会とクリスマス・イヴ礼拝に向けて準備を致します。楽しみに参加してください。
  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。