聖書:ホセア書11章8-9節, コリントの信徒への手紙二11章28-33節
わたしたちは、こうして礼拝を守り、イエス・キリストによって救いに招いてくださった父である神をほめたたえました。差し出された救いを過去のものとしてではなく、または将来の可能性としてではなく、今、現在の救いとして受け取るために、御言葉を聴くのであります。わたしたちは、これまでコリントの信徒への手紙二、を通してみ言葉を伺って来ました。コリントの教会の群れは、二千年前に確かに地上に存在していましたが、どのような教会であったかは、今は推測することができるだけであります。
異邦人、つまり元々の神の民であったユダヤ人の教会ではなかったと思われます。日本の教会は明治以後を数えると宣教開始から150年が経ちますが、それから比べると、コリント教会はまだ建てられて何年も経っていなかったのですから、本当に出来たばかりで、わたしたちがそうしているように、尊敬する信仰の先輩と見上げる人々さえも、まだまだいなかったと思います。そんな若い教会には、信仰生活の一つ一つについて様々な助言が必要であったことは言うまでもなかったでしょう。
コリントの信徒へ宛てられた手紙は2巻に分けられていますが、聖書全体の内容は4世紀には確定したとはいえ、章や節が今のように確定したのは11~16世紀になってからということです。ですから、この手紙には、話が行ったり来りするような所もありますが、初めから今の順序で並んでいたのではなく、どこかで編集されて順序が入れ替わっていたのではないか?とも考えられます。そういう学者の話を聞くと、議論が堂々巡りしているように感じられるところにも納得できます。
パウロは教会の人々を愛していたに違いありません。いくつもの教会の建設にかかわったパウロでありますが、問題が多く発生したコリントの教会を特に心配して何度も手紙を書き、一つ一つの問題に対して丁寧に助言を与え、ある時は問題点を整理し、指摘し、ある時は厳しくとがめました。その思いは、教会の人々が、真に主に結ばれて、救われた者の生活を全うしてほしいためです。一人一人がそうであれば、教会は真に主のもの、キリストの花嫁となるでしょう。教会がそうであれば、その教会の信者一人一人が救いにしっかりと結ばれる希望を持つことができるのです。
ところが、教会を建てることは日々の信仰によらなければなりません。今日まで頑張ったからこれからは安心!ということには決してなりません。神は何の功績もなく、値打ちのない人間を救いに招くという、人間から見ればあり得ないことに思われる救いをキリストによってわたしたちに、また全世界に差し出しておられます。これこそ神の豊かな憐れみによる救いです。そのこと自体、信じがたいほどの良い知らせ、福音であります。
ところが、このような福音を宣べ伝えるパウロに苦難がある。パウロばかりでなく、福音に仕えようとする者すべてに、困難、苦難がある。一体なぜなのでしょうか。パウロの手紙も終盤に入りつつあります。彼は今、単刀直入に述べてはばかりません。それは、偽使徒の働きに現れていると。11章12~15節。338頁上。「わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くにはあたりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。」
偽使徒はすなわちサタンに仕える者。パウロがこのようにはっきりと彼らを断罪するのには、理由があります。コリントの人々には、何とキリストの使徒とサタンに仕える者の区別が困難だからです。「まさか、本物の使徒と偽者の区別がつかないとは・・・」とわたしたちは思います。わたしたちはコリント教会の人々がどのような人々だったのかを知ることはできません。しかし、わたしたちの日本の教会を考えてみても、人々はこの150年の間にどんなに変化したことでしょうか。
戦争があり、動乱があり、平和もありましたが、好景気も大不況のどん底も、大災害もありました。貧しくて、希望もない時代、どん底生活の中で福音を聞いた時代もありました。私の学生時代、会堂の片隅に牧師の説教を、肩を震わせて聞いていた老婦人がいた。私には個人的な痛みのようには感じられませんでした。あの時代、まだ敗戦から20年ほどしか経っていなかったことを、私は70年近く生きている身として今更のように思うのです。苦労して苦労して伝道してくださった先生を感謝して思い出す。その同じ人が、好景気が来て、何でもうまく行くようになると、だんだん苦労するのがバカバカしくなる。楽に生きたいと思う。そうすると、苦労して伝道している牧師もバカバカしく見えるようになるのではないでしょうか。
一緒について苦労するのは御免蒙りたい。迫害を受けている教師についているよりも、みんなに褒められ、有り難がられ、立派に見える教師についている方が楽で得だと思うようになるのではないでしょうか。わたしたちは二千年前の教会は知らなくても、現代の教会の有り様を知っているのです。楽して得をしたい人々がそういう教師を立てるとしたら、パウロの労苦が、使徒たちの労苦が、そして本当に主イエス・キリストに結ばれた教会を形成しようとする人々の労苦が理解できないのは当然です。
しかし、わたしたちはもちろん知っております。主イエス・キリストの思いがどこにあるか。父なる神の御心がパウロの側にあるのか、それとも彼に敵対する側にあるのか、ということを、です。パウロは敵対者が誇っているその誇りに対決するように、誇りとする項目を挙げ始めました。先週読んだ、22節以下。敵対する人々が神の民の祝福の源となったアブラハムの子孫であることを誇れば、自分もまた正真正銘のヘブライ人であると誇ります。彼はその中でもエリートであるファリサイ派の出身、ラビの教えを受けた者でありました。
しかし、敵対する者たちがキリストに仕える者と自称していることに対しては、怒りと情熱で狂ったように自分を誇ります。これがキリストに仕える者の姿であると人々に示したい、その一心で、パウロはこれまでの苦難の数々を書き連ねるのです。身をかがめて肩を震わせながら礼拝堂に座っていた老婦人のことを話しました。その人々は私の親の世代、あるいは私より40年50年上の世代でありました。あの人々はどのような苦難の中でキリストに出会ったのだろうか、と思います。親兄弟息子を失い、家を焼かれ、飢えと病気に苦しみ、生き残って敗戦を迎えれば、「お前たちは戦争に協力したのだろう。なぜ、侵略戦争に反対しなかったのか」と、声高に責められた世代でありました。
そして、私自身もまた時代の子に違いなかったのです。周りの人々はだれもそうは思わなかったのでしょうが、伝道者になるように呼んでおられるのは主であると確信せざるを得なかったので、献身したのですが、そこまでになっても、どこかずるずると時代を引きずっていて、「私は本当は楽をして得をしたい人間だったのに・・・」と思い返していました。パウロの使徒としての苦労を、苦難を知っても、どこかで「この人は特別な人だから、こうなのだ」とか、「平凡な人は平凡で良いのだ」と思っているのでした。
しかし、皆さんも感じておられることと思いますが、時代は大きく変わりつつあります。苦労している人を見ても「人は人、自分は自分」と見過ごす時代が裁かれているのではないでしょうか。障がい者と健常者などと人々を区分して、自分は健常者と勝手に思っていたあの時代が裁かれる。精神病棟の中にいる人を自分とは全く関係ないと思っていたあの時代が裁かれる。人はだれもが、年を取り、病気にかかり、身体的に、知的にも、精神的にも障害を持つようになることが、ようやく、少しずつですが誰の目にも明らかになりつつある時代です。しかし、このような時代にも教会があるのです。これは何と有り難いことではないでしょうか。わたしたちは、福音を聞くことができるのです。パウロの苦難を知ることができるのです。
パウロの苦難。わたしたちの苦労と比べてみたことがあるでしょうか。彼はファリサイ派のエリート教育を受けたユダヤ人で、ローマの市民権も持っていました。経済的にも豊かな階級に属していたと思います。しかし彼の苦難を御覧ください。ありとあらゆる苦難がありました。これは誰のための労苦でしょうか。何のための労苦でしょうか。自分のためでないことは確かです。お金のためでないことはもちろん、人から褒められるためでもない。なぜでしょうか。ただただ、キリストに仕えるため、福音のためにこんなに苦難を受けているのです。
今日は28節から読みます。「このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」そうです。彼はあらゆる教会について心配しているのです。どの教会もキリストの教会だから。どの教会もキリストの教会として建ち続けるために。コリント教会のためにこんなに心配して、言葉を尽くして、心を尽くして手紙を書きました。また救われて信者となった一人一人を思い起こして祈っています。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか」とパウロは言います。本当にその人の身になって考えたら、弱った人を助けるのは強い人ではないか、とわたしたちは思うでしょう。しかし、実際そうではないのです。
キリストは地に住む人の救いとなるために、地上に降りてくださいました。神の強さを捨てて、人間の弱さを身に帯びてわたしたちのところに来てくださったのです。わたしたしの弱さを負って死んでくださいました。しかし、神はこの方を復活させてくださったので、わたしたちもこの方の命に与ることができるのです。弱い人のことを思って弱くなる伝道者。それは伝道者の力によってではなく、伝道者が宣べ伝えているキリストの命に結ばれ、強くされるためではないでしょうか。
誰かがつまずくとしたら、どうでしょうか。教会が本当に福音の言葉に生かされないならば、絶えずいろいろなところでつまずきが起こります。人が本当にキリストに結ばれずに、キリストを宣べ伝えているように見せかけて、実は自分に結ぼうとする偽の伝道者につまずくということも起こるでしょう。そんな時、つまずいた人が悪いのでしょうか。せっかくキリストの招きを受けた人々が教会を離れてしまう。パウロは言います。「だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」わたしたちは何よりもパウロの言葉に主イエスの情熱を思うべきではないでしょうか。どうしてお前を見捨てることができようか、と主は言われるのです。
これまで言われてきたことの結論として、パウロは自分の弱さに関することなら、何よりも喜んで誇ろうと言います。この世的に考えれば、名誉あることではなく、反対にむしろ恥となるようなことでも、もっと喜んで誇ろうと言うのであります。その例としてパウロはダマスコでの出来事を語りました。ダマスコでの初めての伝道でした。キリストを迫害する者から、キリストを宣べ伝える者へ。それはパウロの劇的な転換点であり、同時にユダヤ人たちから命をねらわれる迫害の始まりでした。
しかし、この苦難が、二千年の教会史においてどんなに多くのキリスト者を力づけたことか。真に不思議なことですが、実は不思議ではないのです。なぜなら、人間の苦難は人を怖気づかせますが、キリストの苦難はわたしたちを救うからです。今もそうです。パウロの証言を思い出しましょう。Ⅱコリ1:4-6(325)「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ち溢れてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」祈ります。
恵み深き天の父なる神様
本日もわたしたちをここに集め、礼拝を与えてくださり、御言葉によって新たにしてくださったことを感謝します。多くの人々がご高齢のため、また病気のため、また様々な事情のために集まることができません。しかし、弱い時に使徒が共に弱くなって、心を合わせて主に結ばれたように、わたしたちも思いを一つにされて、主の命に結ばれていることを感謝します。
どうか、弱い者、つまずくばかりの者を憐れんでくださる主を仰ぎ、主に頼り行く信仰をわたしたちにお与えください。わたしたちはこの教会で主に仕え、わたしたちと共に奉仕された姉妹を思い起こしております。その姉妹のお子様が地上の生涯を終えられたことを伺いました。どうぞ、遺されたご家族の上に深い慰めをお与えください。主イエス・キリストを信じて救いに入れられたこの方と共にわたしたちも主に結ばれている幸いを感謝します。いつの日か、この姉妹と共に天においてあなたの御顔を仰ぐことができますように。
今週も礼拝から世に出て行くわたしたちを、あなたの愛を証しする者としてお遣わしください。聖霊の御力によって弱い者も強くされますように。
この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。