主よ、栄光はあなたのもの

聖書:歴代誌上29章10-14節, コリント一 3章18-23節

 この教会の礼拝に御言葉を語る務めによって働いて来た私も、あと二回の説教で終わると感慨深く思います。ちょうど主の祈りもあと二回のカテキズムの学びになります。神さまは御自身の御心を御言葉の説教によってわたしたちに教えてくださいます。しかし、御言葉を語る者も、聞く者も、共に罪人であり、様々な限界を持っていることを考えるとき、私たちは真に不思議だと思わずにはいられません。どうして罪ある人間に神の言葉が語れるだろうかと。そしてどうして罪ある人間がそれを神の言葉だと信じることができるのだろうかと。それは語る者も、聞く者も、聖霊の訪れによって、働きによっているからです。

さて、主の祈りは、どのような言葉で終わっているでしょうか。これがカテキズム問63の問であります。その答は、「国と力と栄光は、永遠にあなたのものです」です。わたしたちにできないことをしてくださるのは、神さまなのだ、としみじみと思うときは、どんな時でしょうか。皆さんにもいろいろあると思います。本日読んでいただいた旧約聖書は歴代誌上の29章です。ダビデ王は生涯の終わりが近くなって、神殿を建てるために準備をしました。非常に多くの金銀宝石や鉄や、木材、大理石を神さまに献げました。

しかし、ダビデ王は祈っています。14節。「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」ダビデ王は紀元前10世紀頃、イスラエルの12部族を統一して強い国家とした人であります。この世の権力者と同じように、軍隊を率いて戦い、破竹の勢いで周辺の国々を征服しました。しかし、彼は非常に謙って祈っています。莫大な富を神さまに献げる時にも「すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」と祈りました。

これは本当に驚くべきことだと思いませんか。もちろん、わたしたちはダビデ王のような力もない、実績もない、平凡な人間ですが、それなのに、何かちょっとできると得意になり、自分を偉いもののように考えたくなるものです。「すべてはあなたからいただいたもの」という実感するなら、それだけでわたしたちの世界は一変するのではないでしょうか。

わたしたちが今日も教会に集まっているのは、聖霊の神さまがわたしたちのうちに働いてくださったからです。そうではないでしょうか。聖霊の神さまが呼んでくださらなければ、何かもっと楽なことをしようと思うでしょう。もし、聖霊の神さまが呼んでくださらなければ、何かもっと得なことがあるかもしれないと思うでしょう。ところが、不思議な聖霊のお働きによって、その呼びかけに応える人々が集められています。全国全世界に、この2千年もの間。神さまは、本当に目に見えないお働きによって人をイエス・キリストの教会に招き、御言葉を聞かせてくださいます。わたしたちが罪の奴隷から解放されて、神さまに従う者となるために働いてくださっています。

成宗教会もそのようにして集められ、続いて来ました。本当に目に見える形では小さな群れですが、救い主として世に来られたイエスさまが、目に見える姿でわたしたちのために苦しみを受け、十字架に死んで甦ってくださったこの福音の言葉によって、生きた教会となったのです。天に昇られたイエスさまは、地上に肉体を持っておられたときとは異なって、全世界のそしていつの時代にも生きる信者と共に生きておられます。それは天からわたしたちに注がれる聖霊によって、イエスさまはわたしたちと共に生きておられるからです。

成宗教会のお墓は越生にありますが、その墓標に刻まれている言葉は、「神は我々と共におられる」というマタイ1章23節の言葉です。そうです。わたしたちと共に神さまがおられる、ということは、わたしたちの味方としておられる、ということに他なりません。救い主イエスさまが、神さまとわたしたちの間にあった罪を滅ぼすために犠牲となってくださったからです。身代わりに人間の死を死んでくださり、神さまの命に甦ってくださいました。

週報にお知らせしましたが、先週成宗教会の教会員、市川孝子姉が召天されました。ご子息のご一家は遠く九州にお住まいでしたので、なかなかお見舞いに来られなかった年月を思い、ご子息はお母さんが亡くなった時には、お骨を九州へ持って帰りたいと言っておられました。ところが、急に成宗教会の墓地にと申し出られました。成宗では2015年以後、納骨がなかったので、私も少し驚きましたが、これも神さまの深いご配慮と感謝しました。家族単位で持っていたお墓の世話も始末もできないような少子高齢化の中で、もし本当の家族と言えるとしたら、教会こそ家族なのではないでしょうか。

それは、成宗教会のお墓が一つの家族という意味ではございません。神の家族というのは、イエス・キリストを信じて、罪を赦していただいた人々のことです。この人々は、イエスさまの兄弟姉妹と呼ばれ、またイエスさまが神さまから愛する子、と呼ばれたように、イエスさまに結ばれているからこそ、神の子と呼ばれている。だからわたしたちは神の家族なのです。

このことはとても大きなことであり、とても重要なことです。なぜなら、わたしたちは罪ある人間でありますから、どうしても自分中心にしか考えられない。好きなもの、嫌いなもの、があり、これは人々についても言えるのです。一緒にいるとうれしい人間がいる一方、あの人とは一緒にいたくない、一緒にされたくないということも決して少なくない訳です。しかし、神さまはそうではない。善い方です。そしてわたしたちもまた善良になることを喜ばれます。神さまは、わたしたちが嫌ったり、捨てたり、軽蔑したりするのをご覧になってどう思われるのでしょうか。神さまは正義を愛し、不正をお嫌いになる方ですが、わたしたちの好き嫌い、わたしたちのいろいろな特徴を含めて、わたしたちを招いて神の子としてくださったのです。

そのことを考えるとき、わたしたちは「神は我々と共におられる」とはどういうことなのかに思い当るでしょう。神さまは色々な、本当にいろいろな多様性を持った人々を招いて、「わたしの子どもたち」と呼んでくださいます。そしてイエスさまは御自分の復活の体の教会を建設するために、天から聖霊を送ってくださるのではないでしょうか。

本日は新約聖書のコリントの信徒への手紙一、3章18節から読んでいただきましたが、これは、教会を建設することについての議論の続きです。いろいろな人々、多様性を持った人々を神さまは招いてくださったのですが、だからこそ、教会建設の土台は何かをしっかりと知る必要があるのです。言うまでもないことだと思うのですが、教会の土台はイエス・キリストなのです。ところが言うまでもない、と思っているのに、現実は大変な行き違い、勘違いがどんどん起こります。これはパウロの時代、すなわち、初代教会の時代から、おそらくいつでも、どこでも起こったことだったでしょう。自分がちょっと何かわかったと思うと、たちまち偉そうなことを言う人々は教会の外にも中にもいるからです。コリントの教会では教師について分派が起こりました。あの先生の方がよい、いやこの先生の方がよい。説教のうまい、下手とか。声が良いとか、悪いとか。挙句の果てはスタイルから、年令から、何だかんだと比較してほめたりけなしたり・・・。

ところが、コリント教会でタレントの人気投票もどきのことをされているパウロも、アポロも、ケファすなわちペトロも、その間、何をしていたでしょうか。教会の人々の救いのために労苦していたのです。くだらない議論にうつつを抜かしている間も、その人々をも含めて教会建設のために命がけの戦いをしていました。そしてそれは今の時代に至るまで大きく変わらないのです。使徒たちは迫害の時代を生きて働きました。国家が宗教を認めても、また別の戦いをしなければなりませんでした。戦争も起こりました。飢饉も起こりました。地上の教会の戦いは終わることはありません。だからパウロは厳しい忠告をしています。18~21節。

「だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のあるものとなるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。『神は、知恵のある者たちを、その悪賢さによって捕えられる』と書いてあり、また、『主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを』とも書いてあります。」

私も16世紀のルターやカルヴァンなど宗教改革者の戦いについて聞いたことが大きな慰めになりました。最近では、落合建仁という神学者が連合長老会の機関誌『宣教』に書いたカルヴァンのエピソードに私は深く心打たれました。それはカルヴァンが最初にジュネーブに行った時そこで受けた脅しと迫害でありました。彼は書いているそうです。「わたしを馬鹿にして、挨拶がわりということで、夕方に入口のドアめがけて火縄銃を四十から五十発くらったこともありました。」

信仰者の戦いについて言えば、20年近く入院したまま地上を去った市川孝子姉もまた、忍耐の年月を戦った方でした。それは死んだ方がましだと自ら言うほどの苦難の日々でしたが、不思議にお元気になることがありました。また彼女ほど牧師の問安を喜んで待っていた人はいなかったと思います。讃美歌に「かみによりて いつくしめる こころのまじわり いともたのし」と歌われる主にある交わりの真実を、この方は証ししてくださったのでしたから、どんなに励まされたことでしょう。理不尽なこと、仰天するようなことが起こっても、苦難に生きた人々の忍耐を思い起こすことができるとき、わたしたちは神の家族の交わりをいただいていることを知るのです。そしてこの交わりのただ中に主がおられることも。

これからわたしたちの多くは年を取り、この社会も困難を増すばかりのことが予想されます。しかし、神さまは人を謙らせて、自分を誇ることをやめさせてくださるなら、それは本当に幸いなことです。困難なことが起こり、自分たちには望ましいとは思えないことが起こる時にも、神さまの深い御心を思うならば、わたしたちは実に幸いです。なぜなら、わたしたちは、神さまがわたしたちに善いものをくださろうとしていると信じるために召されているのですから。どうしてパウロは言うのでしょう。「すべてはあなたがたのものです」と。神さまがすべてを支配しておられ、すべてをくださろうとしておられるからではないでしょうか。それが救いです。それがすべてです。

わたしたちはキリストのもの、そしてキリストは神のもの、と言われます。貧しい人も、豊かな人も、弱い人も、強い人も、いろいろな問題を抱えている人も、いない人も、神の知恵、キリストにあって一つとされるなら、全体が神のものとして支配され、善いものに変えられることを信じましょう。そして祈りましょう「主よ、栄光はあなたのもの」と。最後にもう一度、カテキズム問63です。「主の祈りは、どのような言葉で終わっていますか。答は『国と力と栄光は、永遠にあなたのもの』です。この世の権力も支配も栄光もすべて神さまのものであることを信じて、心から神さまをほめたたえて終わるのです。」祈ります。

 

御在天の父なる神さま

あなたは罪人を深く憐れみ、御子の苦難によって、わたしたちの苦境を打ち破ってくださいました。わたしたちの目に受け入れがたい苦難を通して、わたしたちを常に謙らせ、あなたに祈り、隣人と共に祈り、教会の礼拝に集い、あなたのご栄光をほめたたえる者となりますように。

あなたは先週、一人の姉妹をこの群れから天に召されましたが、長い間病気のために教会に集うこともできない苦労の生活の方でした。あなたはしかし、この姉妹を通して多くの働きをなし、ご栄光をたたえる生涯を終えましたことを感謝申し上げます。私たちにも教会の交わりを証しし、御言葉によって養われる生涯をお与えください。

先週はまた、東日本連合長老会の長老研修会を感謝します。長老の務め、執事の務めについて良い学びの時と交わりが与えられましたことを感謝します。どうかすべての問題、課題について心を開き、互いに学び合い、互いの利益となる連合長老会となりますように。

また、新しく東北地方に新しい連合長老会が発足に向かって進んでいます。どうかそのために労苦しておられる先生方を特に顧みてください。

どうか、藤野雄大先生、美樹先生のご赴任に先立つご準備を祝福してください。この先生方と共に心を一つにして祈り、支えていく志が教会の皆さまにあふれますように。私も最後の引き継ぎを行い、問安の一週間を過ごします。どうか教会員、客員、求道者、教会学校のすべての方々の上に、平安と新しい希望をお与えください。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

死は勝利にのみ込まれた

聖書:イザヤ2579節, コリントの信徒への手紙一155058

 私たちの国にはお盆という習慣があって、これは仏教の慣わしと思っていましたが、外国から伝来した元々の仏教の教えや習慣ではなく、実は先祖を崇拝する日本古来の伝統なのだそうです。この季節はそういうわけで、死んだ家族のことを思うことと、日本が太平洋戦争に敗れた終戦の年を思うこととを両方思い起こす時になっております。罪もない多くの人々が戦争によって命を失ったのですが、人間は、「どうしてあの人々は死んだのか」ということを考えます。この戦争を起こしたのは誰だと問うのです。すると、自分たちばかりが責められることを避けたいものですから、他に理由を探したくなるのです。たとえば、部下だった人は上司が悪いと言うのです。上司は更に上に立つ人が悪いと言います。例えば原爆投下の話で言えば、原爆を落としたのは、そうしないと日本が戦争をやめなかったからだと主張も出て来ます。このように、人はどうしても「自分は悪くない」と考えたいようです。しかし聖書の教えは一貫しています。

ローマの信徒への手紙に、このように言われているのです。3章23節。277頁下。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、(24節)ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」私は成宗教会に務めを与えられまして17年目になります。振り返ってみる時に、もし自分のして来た働きということを判断の基準にして考えるならば、本当に良い結果は、良い働きをしたからだということになり、良くない結果は、良い働きをしなかったからだということになります。

すると、振り返って満足するどころか、考えれば考えるほど、自分の働きの乏しさが思わされるばかりになるでしょう。17年もここにいたのだから、もっとああすればよかった。こうするべきではなかったということが沢山あります。どんどん反省して行ったら、退任を控えた教師である私としては、落ち込むばかりではないでしょうか。いやいや、ここで落ち込んではいけない。そこで、自分は悪くなかったと思いたいために、働きの乏しさをこの時代のせいにするのでしょうか。それとも、他人のせいにするのでしょうか。

しかし、結論を言うならば、全くそうはならないのです。なぜなら成宗教会にいる私たちは、ここで礼拝をし、ここでいただく福音によって主の教会に結ばれているからです。主に結ばれているわたしたちは、罪の赦しに結ばれているということなのですから。過去を振り返ってみると、心痛むことがありました。悔やまれることがありました。その度にだれが悪いのか、と教会の中で問いたくなることもあったと思います。しかし、わたしたちには教会の告白があります。これをもって代々の教会が建てられて来た信仰告白です。前回私たちは、使徒信条で告白している「罪の赦しを信じる」ということはどういうことかを学びました。

わたしたちはどう生きるべきかを神さまから教えられています。律法によって教えられているのです。律法とは、一つには神に対する戒めであり、もう一つは隣人に対する戒めであります。私たちは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と教えられています。また私たちは、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられています。しかし、律法を知っていながら、律法を守ることができない者であります。このような律法を神さまからいただいているからこそ、私たちは、それを守っているとは決して言えない自分を知っているのです。

キリストは律法を守ろうとして守ることのできない罪人のために死んでくださいました。それは罪人の代わりにその罪の罰を受けてくださって、私たちを罪から解放してくださるためだったのです。そして、キリストは復活されました。このことは、キリストの身代わりの死を神さまが受け入れてくださったことを証ししています。教会は、わたしたちのために死んで復活してくださったキリストを信じ、キリストに結ばれて終わりの日に復活する約束を受けた者の群れです。

さて本日は、使徒信条が告白する「からだの甦りを信じる」ことについて学びます。体と言いますと、当然のことながら私たちは、この自分の肉体を思います。今は写真やビデオやいろいろな記録手段によって自分の姿形がいつまでも残る時代です。幼子だった時のあどけない姿や若い頃の写真。その一方で同じ人とは思われない年取った自分等々。この同じ体が、人の姿がどんどん変わって行くことを考えれば、このままで、この姿かたちのままで、天国に入れられるということはあり得ないだろうと思うのです。

「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」と聖書に言われます。肉と血とは、この地上の生活を生きる体です。それは年老いてやがては朽ちて行くより他はありません。聖書の時代の人々はすべての人々は死んで葬られるが、終わりの日に復活させられる。そして裁きを受けなければならないと信じていました。イエスさまもヨハネ福音書でこう教えておられます。ヨハネ5章28-29節です。172-3頁。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」

だからこそ、主イエスさまは別のところで、こう命じられました。マタイ10:28です。18下「人々を恐れてはならない。(中略)体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

イエスさまが「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われた、本当に恐れるべきお方とはどなたでしょう。その方こそ、真の造り主であり、イエス・キリストの父である神さまです。人間を愛して止まない方、しかし、同時に罪を憎んで止まないその方です。その方の御心、その愛こそが、イエスさまを世の罪を贖う救い主として世にお遣わしになりました。

聖書はこのことを伝えているのです。つまり、イエス・キリストの罪の赦しに結ばれている者は、罪の赦しを約束されている。これが福音です。今日の聖書15章51節でパウロが告げている神秘とはこのことではないでしょうか。終わりの日に、「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられる」というのです。52節です。「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちないものとされ、わたしたちは変えられます。」終わりの日に一瞬のうちに起こることを、ラッパという表現でパウロは伝えました。すなわち、軍隊の隊長がラッパの音とともに兵隊を集めるように、主はわたしたち生きて地上にいる者と共に、眠りについている者(すなわち死んだ者たち)を復活させ、世界の隅々から集められるのです。

この言葉が語られた当時は福音が伝えられた世界は限られた地域でした。そして使徒パウロたちも、イエス・キリストが来られる終わりの日は近いと緊張していたようです。しかし、今や福音は、一つの民族だけでなく、全世界の人々に宣べ伝えられています。ですから、終わりの日にはすべての人が呼び集められ、神の裁きの御座に出頭しなけばならないでしょう。生きている者も集められるばかりでなく、死者も墓から出て来るよう呼びかけられるでしょう。更に、乾いた骨とほこりにも命じて、再び初めの形と霊とを取らせ、人皆が生き返らせられて、キリストの面前に直ちに出頭しなければならない時が来るというのですから。それは、正に天地を揺るがす大音響となるでありましょう。

しかし51節で「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられる」というのは、呼び集められるすべての人のことではありません。それでは、「わたしたち」とは誰のことでしょうか。それはキリスト・イエスに結ばれている人のことです。その他の人々について語られているのではありません。52節。なぜなら、「ラッパが鳴ると、復活して朽ちない者とされ、変えられる」というわたしたちは、朽ちるからだのままでは、神さまの前に出ることができない者ですが、キリストに結ばれているので、神さまの御前に立つことができる者に変えていただけるということなのです。

53節。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」と言われているのは、朽ちるからだのままでは、神さまの前に出ることができない者が、朽ちないもの、死なないものを着て、神さまの御前に立つことができるということです。朽ちないもの、死なないものとは何でしょうか。それは、イエス・キリストの義、すなわちキリストの義しさであります。このお方は真に神の子であり、同時に人の子としてわたしたちと同じ肉体を持って生きてくださいましたが、神さまに忠実にその使命を果たされた方です。パウロはこのようにキリストの義しさを朽ちない衣という言葉によって表しました。わたしたちはキリストの義しさを衣のように自分の上に着て、罪赦され、義しい者とされるでしょう。

イエスさまは人間の罪を負って十字架に死なれました。私たちの死を苦しまれ、わたしたちの下るべき陰府に下ってくださいました。そして死に勝利されました。神さまがキリストの贖いを義と認められたからです。死は勝利にのみ込まれた、という表現は、今日読まれた旧約イザヤ25章8節からの引用だと言われています。そこには、のみ込むという言葉ではなく、「死を永久に滅ぼしてくださる」という表現がなされています。それは全滅させる、絶滅させるという意味なのです。

死よ、お前のとげはどこにあるのかと、歌われているのは、キリストの勝利をほめたたえるためです。死のとげは罪であり、罪の力は律法であります。しかし、人々は考えるかもしれません。「律法がなければ、罪もなかったのではないか。悪いのは律法があることではないか」と。しかし、それでは、「神を愛しなさい」と、言われなければよかったのでしょうか。また、「隣人を愛しなさいと、言われなければよかったのでしょうか。そんなことはあり得ません。それではまるで、何も知らずに泣きわめいている赤ん坊が、何も知らないまま大人になって、傍若無人にふるまい、人が傷つこうが気付けられようが、一切自分が悪いとは思わなくて一生が終わった方が良い、と言っているようなものです。愛そうとするからこそ、多くの失敗、過ちに気づき、悲しみも苦しみも経験することをわたしたちは知っているのです。

わたしたちは自分の罪を知る者だからこそ、キリストに出会うことができました。だからこそ、悔い改めへの招きに従う者となりました。だからこそ主イエス・キリストに結ばれて、終わりの日に復活にキリストの義しさに結ばれて、罪に勝利することができます。使徒信条で告白している「からだのよみがえりを信じる」とは、この希望をいただいて、今与えられている地上の命を大切に生きることです。どんなに悩み多い日々であり、どんなに心に責められることの多い人生であっても、わたしたちは死にのみ込まれることは決してないのです。主イエス・キリストが死の勝利してくださったのですから。この確信に生きましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を賛美します。厳しい暑さの中、八月第二の主の日の礼拝に、わたしたちを呼び集めてくださり、わたしたちは恵みの御言葉をいただきました。足りない者、罪深い者を慈しみ、励まして、キリストの恵みに結んでくださいました。過ぎし日々の歩みを思い感謝に堪えません。

わたしたちの教会に与えられて来た恵みを思い感謝いたします。78年の歴史を歩み、この地域とこの時代に在って福音を宣べ伝える貴い務めをいただきました。私は8代目の教師として遣わされましたが、本当に至らないことが多かったにもかかわらず、教会に忍耐を与えて下さり、共に助け合う教会に育ててくださったことを感謝します。あなたが聖霊の助けによっていつも共にいらして、支え導いてくださったことを思います。

わたしたちの群れは、来年度新しい教師を迎えようとしています。福音を宣べ伝えるためにこれまで用いて下さった事を感謝し、これからもこの教会を生かし用いてくださいますように祈ります。成宗教会は太平洋戦争が起こる前に伝道を開始しました。戦争中の迫害と困窮の中、あなたは牧師とわずかな信徒を励まし忍耐させてくださったからこそ、教会は残されたことを思います。今はその時代を知る人々はほんのわずかになりましたが、困難を共に忍んでくださった主がここにおられたことを感謝します。どうか、これから迎えようとしている新たな試練の時代にこそ、これまでにいただいて来た恵みを振り返って勇気と知恵とを与えられますように。

小さな群れよ、恐れるな、御国をくださることは父の御心である、と御言葉によって励ましてくださる主に感謝します。どうか、高齢の会員を励まし、信仰を強くし、後の世代のために祈りの務めを果たすものとならせてください。どうか若い世代、勤労世代の会員を励まし、求道者の方々と共に、家族とともに、御言葉によって道が開かれることを信じる者とならせてください。

来週は教会学校の行事に合わせて合同の礼拝を捧げます。どうか、心を合わせて主を礼拝し、主を喜び、御言葉に養われますよう、お導きください。午後の教会学校の活動を祝してください。また、9月の音楽会、10月のバザーに向けての準備を導いてください。今日の長老会にあなたが共にいらして、御心をなしてください。すべてを御手に委ね、感謝して、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

共に苦しみ、共に喜ぶ

聖書:エレミヤ書313134節, コリントの信徒への手紙一121231

 大変な暑さの中で、先週は二階の集会室のエアコンに不具合が起こりました。急なことで無理なお願いをしましたが、原田姉の会社の方々がすぐに来てくださって、本当に助かりました。わたしたちは、今は高度な機械も指一本で操作できる時代と思っていますが、 実際には故障の原因は簡単に分かる者ではなく、作業してくださる方々は、どんどん上昇する暑さの中でエアコンの中を開けて、汗だくになってあれこれ、力と知恵の業を駆使して直す、その様子を目の当たりにして私は思いました。

わたしたちの生活は機械があれば、人の助けは要らない、ということにはならないのだと。一つの物事を解決するのに、実に多くの助けがあり、支えがあって初めてわたしたちが当たり前と思っている生活ができるのだと。人が汗だくになって働いて助けてくださることの有難さを思います。そして改めて思うことは、イエスさまがわたしたちの落ち度、失敗、過ちを、御自身の身に受けて、わたしたちの負った傷を覆ってくださるために働いてくださったことの有難さであります。

そしてわたしたちは教会の有難さを特に思っています。神さまが与えてくださったイエスさま、救い主の教会だと信じるからです。神さまがイエスさまの執り成しを受け入れてわたしたちの罪を赦してくださったことが、わたしたちにとって一番大切なことです。このことなしには生きられない、と信じるので、わたしたちは何とかして礼拝を守るのです。神さまに普段から「父なる神さま、あなたには何でもできないことはありません」と、賛美を捧げないでいながら、「神さま、わたしを助けてください」はあり得ないでしょう。神さまに常日頃、「神さま、あなたはこれまでわたしたちを恵み、導いてくださいました」と、感謝を捧げずに、「神さま、わたしの願いを聴いてください」はあり得ないからです。

ところが世の多くの人々はイエスさまの宣べ伝えられた神さまについて何も知らないので、まさか自分の救いのためにそんなに労苦してくださる神の子イエスさまがおられるとは知りません。だから残念なことに、教会の有難さ、礼拝の大切さをも理解できません。それで自分を頼りに生きるのですが、その自分自身は年を取って行くばかりなのですからどうしようもないのです。何を頼って生きるのか。自分の子供か。お金か、ということになりますが、そんなにあてにすることができるものではありません。まして最初からそれもあてにできない人は多いのですから、多くの人々の人生は惨めなことこの上ないのではないでしょうか。

わたしたちが教会に集まるのは神さまを礼拝するためであります。そして教会は主イエス・キリストの体であり、わたしたちはその肢、部分であると教えられています。この目に見える小さな教会に集まったわたしたちがキリストを信じて告白するなら、わたしたちは目に見えるこの教会のメンバーとして数えられるだけでなく、同時に、天にある目に見えない唯一つのキリストの教会のメンバー、部分として名を記されると信じます。全世界の様々な教会もこの唯一の真の教会を目指して一つとされるのであります。

今日の聖書コリントの信徒への手紙一、12章は、キリストに在って一つとされる教会は、一つの体に例えられています。体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの体も一つなのです。教会にはいろいろな人々が招かれます。わたしたちが招いているように見えても、本当に招いてくださるのは主です。ですから、皆一つの体となるために洗礼を受けるのです。今は受けていない人々も主が招いて御自分の体としてくださるなら、きっとそうなるでしょう。洗礼は一つです。お国柄が違っても、人種が違っても、言葉が違っても、その他実に様々な違いがあっても、洗礼は一つです。これは全世界でこの2千年変わりないことで、世の終わりまで続くことです。

一つの洗礼を受けると、父と子から送られる聖霊が、わたしたちを清めて、教会の肢として主の体の部分として成長させ、御国の教会にふさわしいものとしてくださいます。ですからわたしたちに来てくださる聖霊も一つであることはいうまでもありません。この二千年の間、地上には多くの教会が建てられ受け継がれて今日に至ったのですが、世にある教会はいつも試練無くして建つことはありません。コリントの信徒への手紙に語られていることは、教会には実に様々な試練があり、サタンによる絶え間ない攻撃が教会を破壊しようとしていたか、そしてパウロを初め使徒たちがどんなにその攻撃と戦っていたかということなのです。

その一つが今日読んでいただいた12章にあります。それはコリント教会の中に、皆一つの霊をのませてもらったことに反対する勢力がいたということです。皆、一つの体となるために聖霊が各自に来て働いておられるという信仰に反対する理由は何でしょうか。それは聖霊があの人よりも優れた霊としてわたしに来てくださったという主張です。たとえば、わたしたちも、人のお祈りを何気なくほめたりすることがありますが、そういうことから、次第にお祈りの優劣を主張する考えが生れることに警戒しなければなりません。

ある教会では非常に長く熱心に祈る人々が多いのですが、即興で延々と祈る、自発的に立ち上がって祈るということには慣れていない者にとっては、非常にとまどうことです。しかし、初代教会にも我こそはすぐれた霊が降っていると信じ込んで、祈りや預言や、異言(誰かに説明してもらわない限り、普通には理解できない言葉)を語る能力に、優劣をつける考えが教会にはびこることになるのです。パウロは、それはキリストの体として大問題だと警告しているのではないでしょうか。

サッカー選手が活躍すれば、みんなサッカー選手になりたい。将棋の天才少年が現れれば、こぞって将棋教室に通うというのはほほえましいことですが、キリストの体ではありえないことです。みんなが目を羨んでみんなが目になってもらっては困るからです。もし、足が「わたしは手ではないから、みんなと他の人と一緒にやっていけないよ、と言ったらどうなるのでしょうか。それがもっとひどくなると、あの人は役に立たない盲腸みたいな人だから、と言って軽蔑することになるのでしょうか。それはキリストの体ではあり得ないことです。

しかし、現実にはわたしたちは皆、神さまから見れば、小学生のようなことを言ったりしたりしているのです。「お母さん、お隣の○○ちゃんがバレーを習っているから、わたしも習いたい」みたいな言動です。このようなわたしたちをキリストの体の部分としてくださるために、主はどんなに働かれたことでしょうか。もし、わたしたちが主の体の部分であるならば、わたしたちは部分としていつも首である主イエスさまのことを思うはずです。その結果、主がお建てになった体全体のことを思わずにはいられないのです。

わたしたちは体の大事な目立つところが病気になった時だけ、具合が悪くなるのではありません。小指の先でもちょっと傷ついたら、とても痛い、辛いのです。そして小指だからと、目は「ふーん、わたしとは関係ないよ」と言うとは思えません。胃が痛いと全身具合が悪い、と感じます。体全体が同情して熱を出して、痛い、痛いと苦しんで、早く治そうとするではありませんか。

また、外に出して目立った方が全体として美しく見えるところは、外に出して、目立たないように隠して、そっと守ってやらなければならないところは、体の内側に置き、更に着る物で覆っています。そのように全体として各部分が配慮し合っているのが体です。改めてパウロは訴えています。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分なのだと。そして最後にパウロは、教会での働き人について具体的な明らかにします。28節。「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡をおこなう者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」ところがどうでしょうか。教会の中ではみんなが使徒になりたいと言い出したのでしょうか。みんなが預言者になりたい、教師になりたい、奇跡を起こしたい、異言を語りたいと言い出したのでしょうか。

体の例えで考えるなら、これは笑わずにはいられないことではないでしょうか。一人が「わたしは目になりたい」と言えば、次々に「わたしも、俺も、わたしだって」みたいなことです。一人が「わたしは手になりたい」と言えば、「僕も、わたしも、俺も」みたいなことになってしまいます。小学校の授業中みたいなことを申しましたが、これは大人の話であり、教会の話であります。使徒たちは、実に生まれたばかりのコリントの教会を、この世の支配から守り、主の体の教会とするために真剣な戦いをしているのであります。

それでは、主はこのような愚かで浅ましい者たちを御自分の体に結ばれたことを後悔されたでしょうか。有り難いことにそうではなかったと思います。マルコ福音書9章33節でイエスさまは弟子たちに、何を議論していたのかとお尋ねになったのですが、弟子たちは黙っていました。なぜなら、だれがいちばん偉いかと議論し合っていたとは、恥ずかしくて言えなかったのです。コリントの教会の人々、そしてわたしたちの時代の教会でもほとんど変わりない自分中心な罪人の姿がここにあるのです。このようなわたしたちを救うために主イエスさまが来てくださったことを改めて思います。

神はその昔、旧約聖書の民にご自分を顕して神の民として生きるように律法をお与えになりました。神を唯一として礼拝し、人々を愛して共に生きるための律法です。ところがこの人々は自己中心の罪から神に背を向け、律法を守ることができませんでした。神を愛さない者は隣人を愛することもできません。愛とは、相手のことを思って共に苦しみ、相手の救いのために共に忍ぶことに他ならないからです。そして愛とは、相手の幸いを、救いを共に喜ぶことではないでしょうか。

預言者エレミヤは言いました。エレミヤ31章31節。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ計画はこれである、と主は言われる。(33節。)すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」エレミヤの預言した新しい契約はイエス・キリストによってもたらされました。そのとき、人々はキリストによって神さまの御心を知りました。キリストによって神に立ち帰り、罪の赦しを約束されました。

こうして教会は「聖徒の交わり」を信じると告白して参りました。聖徒とはわたしたち信仰者です。どれ程貧しく小さくとも、神さまが恵みによって選び集めてくださった信仰者のことです。「聖徒の交わり」を信じるとは、わたしたちがイエスさまに結ばれて、神さまから与えられた賜物をお互いに分け合うということです。こうして、救いの喜びをより豊かに、また多くの人に届けたいと願うようになります。元々自己中心的な貧しい者であるわたしたちは、しかし、教会を通して、生けるイエスさまの言葉を聴き、イエスさまの体である教会の一部分となります。教会の頭であるイエスさまの生命を、ぶどうの木が地中から吸い上げる水のようにいただいて生きることができます。それはイエスさまの心を心とし、共に苦しみ、共に喜ぶ教会に成長させられることを目指します。祈ります。

 

主なる父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。猛烈な暑さの中、わたしたちは礼拝を与えられ、こうして集められました。大変な異常気象の惹き起こす災害に見舞われてた西日本の被災地を思い、その復興を支えてくださいますようお願い申し上げます。どうか被災者の方々の上に立ちあがって行く希望をお与えください。多くの困難に立ち向かう救援の方々に道を開いてください。

また、わたしたちも同様の困難に備えるために日々の祈りを整えてください。全地を御支配くださる主の恵みを全世界に現わしてください。わたしたちは小さな群れの中にあって見えない主の体の教会を仰いでいます。どうかこの地の救いのために祈り、わたしたちの家族、友人、社会のためにたゆまず祈る教会でありますように。

本日は聖徒の交わりを信じることについて学びました。どうか、わたしたちの貧しさ、弱さにもかかわらず、わたしたちを招いて、罪を赦しキリストの命に結んでくださった方が、わたしたちの教会に将来を与えてください。新しい年度に牧師を迎え、78年続いた成宗教会に将来を開くことができますように。この少子高齢化の時代にも、若い人々に希望を与えてください。また高齢の世代も守られていますことを感謝します。どうか終わりの日に至るまで、キリストの体全体のために奉仕する肢として生かされますように。

今、教会に来ることができなくなっている方々を、あなたの恵みによって慰め、励ましてください。聖徒の交わりの中に立ち帰ることができますように。また、今、大きな悩み、試練の中にある方々を上よりの御力で支えてください。あなたの恵みと慈しみによって立ち上がり、主を証しする生活をいただくことができますように。

教会学校も来週で今年の前半を終えました。あなたの恵みのうちに守られたことを感謝します。8月の一日夏期学校の行事をあなたの御心に従って行い、御名が崇められますように。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

死者の中から甦り

聖書:ヨブ記19章25-27節, コリントの信徒への手紙一 151222

 イエス・キリストの福音を宣べ伝える礼拝、今日も守ることができる幸いを感謝します。この福音はキリスト教会の二千年の歴史を振り返ること無しに、語ることはできません。教会に新しい方が来ると、私たちはその方のことを何も知らないのですが、その方と教会とのつながりを神さまが作ってくださっていることを思います。先月ご結婚された成宗教会の兄弟が、初めて成宗教会に来た時、私は兄弟の出身の国と日本の長い歴史を思いました。それこそ千年、二千年にわたる交わりです。日本人は昔あなたの国に留学生を送って勉強したのですと、わたしは申しました。

本日は愛知県の半田教会から40年前の私たち夫婦の知り合いの方々がいらっしゃると聞いて、私は思いがけないことを思い出しました。それは、半田教会の創立者は数年前まで成宗にギリシャ語を教えに来てくださった小泉仰先生のお祖父さまご夫妻ではないかということです。小泉紋次郎先生は、今91歳の方のお爺様ですから明治の初めの頃の方でしょう。脇差を腰に徒歩で青森から東京に出て来た話や、戦争中に空襲を避けるために国策で強制的に教会堂を壊された話を伺ったことがありました。

教会は人々の労苦を経て建っています。ですから人々の労苦を忘れないことはとても大切なことです。しかし、人の労苦だけで建っているのなら、100年、200年と続いて行くのはとても困難でしょう。ところが100年、200年どころか、教会は1000年も2000年も続いているのです。とても人間の力ではできないです。しかも、全世界に建っている。それは、イエス・キリストの名によって建っているからに他なりません。もっと言えば、その時代、その時代の人々が、昔も今もイエス・キリストの御名を信じたからに他なりません。キリストは今も生きておられると。今も生きて私たちを救ってくださると。昔も今も、そして世界の津々浦々で信じられているからこそ、教会は建っているのです。

キリストは今も生きておられると信じる。それはつまり、キリストは十字架にお掛かりになった。本当に死んでしまわれたこと。お墓に葬られたことを信じたのです。キリストの死を信じた上で、しかし、キリストは死人の中から甦られたことを信じている、ということなのです。教会は信仰告白において、このことをはっきりと告白しました。そして主なる神は、この告白の上に教会を絶ち続けてくださっています。

しかしながら、この告白は何の問題もなく、あっさりと教会の人々に受け入れたのではありませんでした。今日の新約聖書のテキスト15章12節で、使徒パウロは教会の人々に尋ねています。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」と。この手紙が書かれた時代は紀元五十年代です。それは、主の十字架の出来事からまだ三十年も経っていない頃でありました。それなのに、キリストが十字架に死に給うたことを信じるかどうか。そして三日目に復活されたことを信じるかどうか。そういう議論が、早くもコリント教会で問題になっていたことが分かります。つまり教会の中に、この頃早くも復活を信じない人々が現れていました。それで議論が起こっていたのです。

すごいことだと思います。ついこの間の出来事であろうと、2千年前の出来事であろうと信じない人々は信じない。そして信じる人々は信じるのです。それでは、信じない人には、「信じなくてよい、勝手にしなさい。我々は信じる者だけでやって行くから」ということになったとか、というと、全くそうではありません。復活を信じる者が福音を宣べ伝えて来たのです。復活を信じる者が教会を建てて来たのです。そして信じる者を助けるお方がおられる。すなわちご復活の主がおられるからこそ、教会は建つのです。

そこで教会を建てるためですから、使徒パウロは信じない者を放置しません。議論し、説得に努めたのです。キリストの復活を信じることは、私たちの復活を信じる根拠でありからです。そこで、もしキリストが復活したのならば、私たちも復活するでしょう。もし、キリストが復活しなかったのならば、私たちもまた復活しないでしょう。これを逆に言っても同じです。「もしわたしたちが復活するとすれば、キリストが復活されたからです。もし私たちが復活しないならば、キリストもまた、復活しなかったのです。」

それならば、キリストは復活されたが、それはわたしたちの復活とは関わりない、という話にはならないのです。またキリストは復活されなかったが、わたしたちは復活するとか、もう既に復活している、などという考えは成り立たないということなのです。なぜなら、キリストが死んで、甦られたのは、御自身のためではないからです。そうではなくて、御自身の体となった教会のためです。そして教会の中に、主に結ばれた信者であるわたしたちもいるからです。

それなのに、あなたがたの中にいる一部の人々は死者の復活などない、と言っている。よろしい、とパウロは、その人々の主張を仮に正しいものとしたらどうなるかを考えましょう、というのです。13節。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」キリストが地上の生涯の間、語られた福音を人々は聞きました。また、なされた数々の不思議な業を体験し、証言しました。キリストは神の真心を具体的に表されたのです。しかし、人々はこの方を十字架の死に至らせた。この義人の死を認める人々は多かったでしょう。しかし、神はこの方を復活させる力がないというのでしょうか。死者は死者のままで終わる。たとえキリストであっても復活はない、というのであれば、その人々がキリストの名を呼び続けるのは空しいことではないでしょうか。

キリストが死に呑み込まれ、全く滅び去り、罪の呪いによって圧倒されていたならば、つまり、キリストがサタンに打ち負かされていたならば、もはや何が残っているのでしょうか。キリストの死だけを認め、復活がないものとすれば、そこに見い出されるのは絶望の種ばかりです。それでは、全く死に打ちひしがれた人が他人に救いをもたらす者となることは不可能でしょう。

よく人の名前の付いた教会があります。○○記念教会という名前ですが、たとえそれがその教会を建設するために力を尽くした人の名であっても、その人の名を呼んで教会を建てることはできません。キリストの教会を建てるためにはキリストの名を呼ぶのです。そしてキリストの名を呼ぶのは、正にキリストが生きておられるからです。主の名を呼ぶ者を救う力がある方がキリストだからです。キリストの復活を信じない人が、自分の都合によってキリストの名によって祈り、助けを求めることほど、矛盾していることはありません。復活について信じるのか信じないのか、いい加減な考えのままで生きている。危機に直面したときだけ、いくらか真剣に考えるけれども、そうでない時には忘れている。こういう中途半端な信仰が教会に増えれば増えるほど、教会は力を失って行ったのだと言わなければなりません。パウロや使徒たちの労苦はこのような不信仰を打ち破るためにも費やされました。

大切なことは、イエス・キリストの体である教会に結ばれることです。そのために最も大切なことは、キリストは死者の中から甦られたことを信じることです。福音のすべては、ただ一重にキリストの死と復活に掛かっているからです。

わたしたちはもし福音によってその益を得ようと真剣に考えるならば、この点にこそ、自分の思いを集中しなければなりません。使徒パウロはギリギリの所まで自分を追い込んで、伝道者の存在を賭けてこう述べています。15節。「更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。」神によってその永遠の真理を宣べ伝える者として立てられた使徒が、もしも嘘偽りをもって世の人々をだましてきたことが発覚するならば、それは由々しき一大事と言わなければならないでしょう。なぜなら使徒たちは、何と神に対して大変な侮辱を与えることになるからであります。

更に不幸なのは、使徒たちの教えによって信仰に入った教会の人々ということになってしまいます。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストも復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。」もし、キリストの復活がなかったものと仮定するなら、生きている者は今もその罪の中にあることになります。なぜなら、キリストの罪の執り成しがなかったことになってしまうからです。そうだとすれば、人は以前そうであったように、自分の正しさを証明するために自分で果てしなく償いをしなければなりません。

そして更にキリストの執り成しを信じて眠りについた信者にとってもそれは空しいことになってしまうのです。罪赦され、終わりの復活の日に、御国を継ぐために召し出される希望がなければ、死者にも幸いはありません。最後に生きて労苦している信者たちも、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めなもの」だということになります。

この世の生活でキリストに在って信じるだけしか、考えていないのは、実は現代人にこそ最も特徴的ではないでしょうか。物質的繁栄の結果、すべての望みをこの世にかけるような堕落が起こっているのです。それは、私たちの信仰の実をこの世だけで結ばせようとする考えであって、私たちの信仰がこの世の果てよりも更に遠くを見通し、更に広く広がって行くことがなくなります。そうなると、ひたすら今繁栄している人々が羨ましい、苦労はただただ避けたい。苦難、困難に何の意義も感じないということになりかねない。神の御支配どころか、神がおられることすら、頭から消えてしまって考える余地もなく、時を過ごしているのです。

神はキリストに苦難を負わせられました。キリストは御自分の罪ではなく、罪人の罪、わたしたちの罪のために苦しまれたのです。だから、わたしたちもご復活に与る者であることを信じなければ、すべての労苦は空しくただただ辛いだけになってしまうでしょう。クリスチャンがそうでない人々よりも苦労しているように見えるのは何も不思議なことではありません。クリスチャンが皆貧乏なわけでもなく、皆病気なのでもありません。キリストを信じる人も信じない人も富める人、貧しい人、健康な人、病気の人がいます。そして共通しているのは、皆等しく年取って行くことにだけです。

しかし、クリスチャンでない人々がしばしば幸福そうに安泰に見えるのは無理もないことです。自分のことしか考えない人々は悩みが少ない。それに対して、身近な人々、更に多くの人々の集団に対して責任を感じ、いつも皆の安寧平和を考える人々は、いつも多くの悩みを共有しているのです。額にしわを寄せ、重荷を負って皆のことを思う人々は、当然キリストのご労苦が分かります。ご自分のためでなく多くの人々の幸福のために自ら労苦して、自ら不幸を負ってくださった。わたしのためにも死ぬほど苦労してくださったと思えば感謝があふれます。死者のさまよう陰府に降って霊のことさえも心配してくださったと思えば涙があふれます。

一方、そういうことを少しも考えない人はのんびりしたものです。生き生きと自分の楽しみに邁進しているように見えます。ちょうど、屠られる動物が、屠られるその日まで丸々と太らされるように、悲しむことも労苦することもないのを見て居るだとしたら、キリストを信じる者は羨ましく思ってはならないのです。キリストの福音は神の愛があふれてわたしたちに届いたのですから、わたしたちもそれに応えて、キリストを愛し、隣人を愛して教会を建てて仕えたいと願います。最後にⅡペト1:7-8を読み、祈ります。436下。「信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、私たちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。」

 

主なる父なる神様

尊き御名をほめたたえます。本日の礼拝を感謝します。わたしたちは、使徒信条の中で「三日目に死人のうちからみがえり」とはどういうことかを学びました。人間の不信仰は新約聖書の時代にも、早くも復活を曖昧にして来ました。それにもかかわらず、教会が全世界に福音の宣教によって建てられたことは、一重にあなたの憐れみと愛の勝利です。

主イエスキリストが復活され、死に勝利されましたので、わたしたちも主に結ばれて復活の希望に生きることができます。日本の社会はますます困難な時代を迎えますが、わたしたちはそれぞれの置かれたところで、過去の恵みを日毎に思い起こし、人々に証しすることを怠ることなく、恵みの教会、恵みの救いを世に宣べ伝え、残して行くことができますように。死ぬ者をも生かす愛の神。罪人を死と滅びから救い出される神に、栄光を祈り続けて参ります。

今日礼拝を守ることができなかった方々にあなたの顧みがございますように。御名を呼ぶ者を、憐れみ、悔い改めに導いてください。ご病気の方々を支え、励まし平安をお与えください。若い世代は多忙を究めていますが、あなたのご配慮によって必要を満たしてください。全国連合長老会が明日から金沢で開かれます。主よどうぞ、地方で労苦している教会、教師、長老の方々を励まし、一つのキリストの体を与えられますように助けてください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2019年度教会標語

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

(コリントの信徒への手紙Ⅰ 第36-7節)