祝福の下に

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌115番
讃美歌280番
讃美歌444番

《聖書箇所》

旧約聖書:箴言 30章18-19節 (旧約聖書1,031ページ)

30:18 わたしにとって、驚くべきことが三つ/知りえぬことが四つ。
30:19 天にある鷲の道/岩の上の蛇の道/大海の中の船の道/男がおとめに向かう道。

新約聖書:マルコによる福音書 10章1-12節 (新約聖書80ページ)

10:1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。
10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10:10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

《説教》『祝福の下に』

主イエスは、「ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」とあります。「ユダヤ地方」とは、エルサレムを中心とする地域です。また「ヨルダン川の向こう側」というのはペレアと呼ばれている地域のことです。

ペレアのことが、ここに出てくるのは何故でしょうか。当時ペレアは、ガリラヤ地方と同じく、ヘロデ・アンティパスが支配していました。エルサレムを中心とするユダヤは、ローマ帝国が直接治めており、その総督がポンティオ・ピラトだったわけですが、ガリラヤとペレアは、ローマの監督の下で、ヘロデが治めていたのです。このペレアで、ヘロデの支配下で、この問答が行われたことに大きな意味があるのです。というのは、本日の主題は、2節に「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」という問いが記されているように、離婚、離縁のことなのですが、この問題は、ヘロデの支配の下では触れてはならないタブーとされていたからです。その事情はこのマルコ福音書第6章14節以下に語られていました。ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻であったヘロディアを、フィリポと別れさせて結婚したのです。そのことを厳しく批判したのが、洗礼者ヨハネでした。彼は「兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と言ったのです。そのために彼はヘロデに捕えられ、ついには首を切られてしまいました。ヘロデの支配下で公にこの問題に触れることは、このように死を招きかねないことだったのです。そのペレアで、ファリサイ派の人々が主イエスのもとに来て、「イエスを試そうとして」、この質問をしました。それは、単に主イエスの律法についての知識を試そうとしたということではなくて、ヘロデの支配下で敢えてこのことを問うことによって、主イエスを危機に陥れようとしているのです。主イエスがもしも、妻を離縁することはいけない、と答えるなら、洗礼者ヨハネと同じ運命をたどることになります。逆に、場合によっては離縁してもよいのだ、と答えるなら、主イエスは洗礼者ヨハネとは違って身を守るために律法を守らず、ヘロデを批判することを避けた、ということになります。主イエスを陥れ、返答次第では殺してしまうことができると思ったのです。

主イエスは5節で、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と言っておられます。旧約聖書には確かに離縁についての教えがあります。申命記24章1節には、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」とあります。これがファリサイ派の人々が考えていた答えでした。確かに、ここには離婚の許可が記されています。そして、これを根拠にして、ユダヤ人社会では離婚が認められていました。

離婚が絶対的に禁じられているのではありませんでしたが、それは、人間の心が頑固だから、神様に背き逆らう罪に捕えられているからだと言われているのです。向かい合って共に生きていく努力を誠実にしていっても、それぞれが持っている頑固さ、罪や弱さのゆえに、どうしても共に生きることができなくなることもあります。互いに反目し合いながら形だけ夫婦であるという状態によって、お互いの罪がますます大きくなり、傷つけ合うことがエスカレートしてしまうということも起るでしょう。そのような場合に、より大きな罪や不幸を避けるために、離婚という選択肢もある、離婚した方がよいという場合もある、それが私たちプロテスタント教会の聖書の読み方です。ですからそれは、離婚が許されているか否かというような単純な、表面的な問題ではないのです。

ここで、ファリサイ派の人々が敢えてこの問題を主イエスへの「試み」として用いたという背景には、当時、この御言葉の解釈を巡って二つの立場があったからです。申命記の離婚理由には「恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったとき」と記されています。そこで、「恥ずべきこととは何か」ということを明らかにする必要が生じました。

当時のユダヤ教の律法学者には二つの学派がありました。シャンマイ派とヒルレル派です。「恥ずべきこと」の定義に関し、シャンマイ派は、「夫婦間の恥ずべきこととは姦淫の問題である」として、「恥ずべきこと」を「不品行」に限定しました。「性的関係の乱れが生じた場合、離婚は許される」としたのです。ただし、「恥ずべきこと」が、申命記では「妻に」と限定されているため、離婚の条件である「不品行」も「妻にのみ適用される」という不公平がありました。

一方、ヒルレル派は、「恥ずべきこと」の内容を、「妻として恥ずべきことの全て」と極めて広範に考えました。その結果、料理、容貌、態度などの全てが、「恥ずべきこと」として定義されたのです。やがて、「恥ずべきこと」よりも、それに続く「気に入らなくなったとき」という言葉のほうに重点が移り、有名なラビ・アキバという学者は「自分の妻よりも美しい女がいた場合にも適用される」とまで言ったと伝えられています。実に勝手なことだと笑われるかもしれませんが、人間とは、本来、勝手な者なのです。男と女は対等ではないと人格的に差別されていた社会で、この二つの立場のうち、どちらの解釈を人々が喜んだかは言うまでもないでしょう。そして人々は、自分たちに都合のよい解釈をしてくれるものに従いました。

今、主イエスに質問をしたファリサイ派の人々は、拡大的解釈を採ったヒルレル派であると思われます。大衆の人気を背景にして主イエスに挑戦して来たのです。しかしながら、このような大衆の人気、支持を得たという背後に、大きな危機があることに気づかないのが、何時の時代にもいる社会に迎合する(ポピュリズム)世俗的宗教者の惨めさです。そこでは、律法を神の御言葉として成り立たせている信仰の本質が見失われているのです。信仰とは神への服従です。御言葉への忠誠です。御言葉への服従と忠誠とは、御言葉が表す御心への臣従に他なりません。

律法を、神の御心の本質から、人間の都合に合わせて解釈し利用する人間の醜さがここにあります。その姿は、かつてのユダヤ人だけではないところに、この問題の根深さがあります。人間の要求、社会の要望に対し、「開かれた教会」などという美名を用いて、聖書の御言葉を自分たちの利益のために利用しようとする思惑は、どの時代にも決してなくならないのです。何よりも心すべきことは、御言葉に接する時、常に「神の御前に立つ畏れを持ち、御心を窺わなければならない」ということです。

5節で主イエスは、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」と言われました。ファリサイ派の人々は、主イエスが律法を否定することを期待していたのですが、主イエスは、御自身こそ律法の真の意味を明らかにする者であることを、ここに示されたのです。律法とは、罪の下にある人間の生き方を導くものであり、律法は、決して永遠・絶対的なものではなく、使徒パウロの表現によれば律法は、「人を福音に導く養育係」に過ぎません。

律法は、主イエス・キリストによって救いの御業が完成される時まで、罪の中にある人間を守り導くものです。言わば、不完全な人間に「それ以上の過ちを犯させないための保護措置」と言えるでしょう。それ故に、主イエスは、申命記の離婚規定について、「あなたたちの心が頑固なので、モーセはこのような掟を書いたのだ」と言われたのです。ここで「頑固」と訳されているギリシャ語の「sklhrokardi,an:スケーロカルディアン」とは、決して「頑固」という人間の性格を表す言葉ではありません。これは「干からびた心」という意味であり、「愛が消えうせて、干からびてしまった状態の心」のことです。文語訳は「汝らの心、無情により」と訳しています。名訳です。

愛が消え失せて干からびてしまった心。それは、もはや神が喜ばれる心でないのは当然でしょう。それ故に、モーセの規定は、むしろ、瑞々しい愛を失った人間に対する「告発と裁き」であったと考えるべきでしょう。いたわりを忘れ、互いに傷つけ合う「あなたがたの心の何処に愛があるのか」ということです。

ですから、申命記24章の規定は、「離縁状があれば離婚してもよい」ということに目的があったのではなく、当時の社会においてモーセの本心は「勝手に離婚することは許されない」と、女性を守ることに目的があったことも明らかです。

聖書が教える創造の信仰によれば、結婚とは、神によって造られ、選び出された「差し向かいとなる人」との巡り合いであり、差し向かいになり、互いに心と心とが響きあう相手との結合なのです。

私たちは、今日のファリサイ派の人々やその時代の人々のように、離婚を自分勝手なものと考えていないとしても、現在の自分の結婚生活が、この「神の摂理」に基づいているか否かを問われているのです。それ故に、本日の問題は、「離婚、是か非か」ということではなく、「あなたは今の生活は神の御心に適うものか」という、主イエスからの問いとして受け止めなければなりません。

「死後もなお夫婦であり続けるか否か」といった神学問題は別にしても、死を越え、死の先でも「夫婦一体でありたい」と願う時、単なる人間的感情を越えた「キリスト者としての家庭」こそが信仰の原点であることを忘れてはなりません。

この離婚についての主イエスの教え、いやむしろ結婚、夫婦とは何かという教えが、主イエスのエルサレムへの歩み、十字架の苦しみと死とに向けての歩みが始められる場面にあることに注意しなければなりません。

夫婦が互いに向かい合い、共に生きていく間には、人間の頑固さ、罪や弱さのゆえに様々な問題が生じ、傷つけ合うことが起きます。夫婦が共に生きることも、主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みによって支えられているのです。主イエスによる罪の赦しがなければ、夫婦の関係も、助け合うよりもむしろ傷つけ合うことが多いものとなってしまうでしょう。

主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みの中でこそ私たちは、お互いに向かい合い、赦し合いながら共に生きていくための努力をしていくことができるのです。そしてそれは夫婦の関係においてのみでなく、私たちの人間関係の全てに通じることです。頑固さに捕えられており、罪と弱さを負って生きている私たちは、主イエス・キリストの十字架による赦しの中にあって、隣人としっかりと向かい合い、良い関係を築いていけるのです。

今から始まる新しい日々を、この信仰の自覚から始めようではありませんか。

お祈りを致しましょう。

受難節第3主日礼拝 (2021/3/7 № 3743)

司会:齋藤 正
奏楽:ヒムプレーヤ
前奏  新型コロナウィルス感染症流行拡大防止のため自粛中です
招詞
讃美 68
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 12913節(交読詩編p.149 [赤司会・黒一同]
祈祷
讃美 500
聖書 箴言 31章18節 (旧約 p.1,033)
マルコによる福音書 4章21-25節 (新約 p.67)
説教
「福音に生きる」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 517
献金 547 齋藤千鶴子
頌栄 543番
祝祷
後奏
受付:齋藤千鶴子

高慢な者は低くされる

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌138番
讃美歌448番

《聖書箇所》

旧約聖書  箴言 30篇11-14節 (旧約聖書1,031ページ)

30:11 父を呪い、母を祝福しない世代
30:12 自分を清いものと見なし/自分の汚物を洗い落とさぬ世代
30:13 目つきは高慢で、まなざしの驕った世代
30:14 歯は剣、牙は刃物の世代/それは貧しい人を食らい尽くして土地を奪い/乏しい人を食らい尽くして命を奪う。

新約聖書  ルカによる福音書 18章9-14節 (新約聖書144ページ)

18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

《説教》『高慢な者は低くされる』

皆さん、今日は教会学校との合同礼拝です。私は、この成宗教会に4月に赴任しましたが、新型コロナウィルス感染症の流行で、4月と5月の2ヶ月間は集会自粛で主日礼拝はお休み状態で、やっと6月から主日礼拝を再開しました。

この教会学校合同礼拝も私には初めてで、教会学校CSもずっと休んでいたので、CS生徒さんとは、ほぼ初顔合わせです。

そんな中での説教となりました。今日の聖書箇所の要点は18章9節にあります、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対してイエス様がたとえ話としてお話しになりました。

結論としてイエス様がおっしゃったのは最後の14節の「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということです。聖書記者のルカはイエス様のお語りになったこの結論の意味をよりはっきりさせようとして、「高ぶる者」とは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」のことだ、という説明を、たとえ話の前に置いたのです。

イエス様がこのたとえによって問題としておられるのは、「自分」のことをどのように見るかということ、つまり「自己評価」の問題なのです。自分を高くする、高く評価することと、低くする、低く評価することとが、ファリサイ派の人と徴税人の祈りの違いによってあざやかに描き出されているのです。

ここでファリサイ派とは、イエス様の時代のユダヤで、神様の掟、律法を特に厳格に守り、正しく生活を送っていた人々であって、その点で一般の人々とは違う、と自他共に自分は正しいと認めていた人々のことです。このファリサイ派の人々こそ、神様のみ前に出て祈るのに最も相応しいと誰もが思っていたのです。

それに対して徴税人とは、その正反対で、神の民であるユダヤ人でありながら、異邦人であるローマに納める税金をユダヤ人から徴収し、それによって私腹を肥しているとんでもない裏切り者であり、当時のユダヤ人にとっては仇とも言える罪人の代表でした。

この二人の祈りはまことに対照的と言えるものでした。

このファリサイ派の人は神様に感謝の祈りをささげています。その感謝の祈りの内容は、11節にあるように心の中で『ほかの人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないこと』ということでした。この世には様々な悪人たちがいるが、自分はそういう悪人達とは違う、特に、すぐそばにいるあの徴税人のようにユダヤ人の誰からも嫌われている罪人とは全く違う生き方ができていることを、このファリサイ派の人は神様に感謝しているのです。

そして、このファリサイ派の人はさらに、自分が神様をどのように信仰しているか、そしてどのように奉仕をしているかを12節から語ります。『わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』と心の中で祈ります。当時の一般のユダヤ人に求められていたのは、年に何度かの断食でしたから、ここで彼のいう週に二度というのは、普通のユダヤの人々よりもはるかに多く断食をしているということです。また『全収入の十分の一を献げている』というのも、やはりユダヤ人の律法により作物や生まれた家畜の十分の一を献げることが定められていましたが、『全収入の十分の一』というのは、はるかに徹底した献げ方です。

このように、このファリサイ派の人は他の一般的なユダヤの人々が真似をすることができないような素晴らしい信仰的行いをしていると、祈っているのです。

もう一方の徴税人の祈りは13節の、『神様、罪人のわたしを憐れんでください』の一言だけでした。しかもこの徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈ったのです。「遠くに立って」というのは、先のファリサイ派の人はおそらく神殿の正面のごく近い所で祈ったのだと思われるのに対して、徴税人は神殿の正面から遠く離れた隅の方で、祈ったということです。彼は神殿の隅っこの方で、しかも「目を天に上げようともせず」に祈ったのです。目を、つまり顔を天に上げて祈ることがユダヤ人の普通の祈りの姿で、祈りの姿勢なのです。ファリサイ派の人はまさにまっすぐに天を仰いで祈ったことでしょう。しかしこの徴税人は顔を上げることができない、神様に顔向けできない思いで祈ったのです。また「胸を打ちながら」というのは、嘆き悲しみや悔いを表すしぐさです。徴税人は、自分が神様にとうてい顔向けできない罪人であることを嘆き悲しみつつ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのです。

このファリサイ派の人と徴税人の二人の対照的な祈りの言葉を語った上でイエス様は、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」とおっしゃいました。「義とされる」というのは、「義なる者、正しい者と見なされる」ということです。人を義であると認めることができるのは神様のみです。あの徴税人が神様によって正しい者とみなされて家に帰ったのです。彼の祈りは聞き届けられたのです。

祈り願った罪の赦しが与えられ、神様との関係が回復されたのです。一言で言えば彼は救われたのです。

それに対して、ファリサイ派の人は義とされませんでした、神様によって義なる者と見なされなかったのです。人々の目から見たら、このファリサイ派の人こそ正しい人、義である人と思われていたでしょうし、自分自身でもそう思っていたのですが、神様は彼を正しい者と認めて下さらなかったのです。

つづいて14節でイエス様は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という御言葉でその理由を示しています。自分を高く評価する者は神様によって低くしか評価されなく、一方で自分自身を低く評価するへりくだった者は神様によって高く評価される、ということをイエス様は語っています。

ファリサイ派の人は、自分は周囲の罪人たちとは違い、神様にしっかり仕えている正しい者だ、と自分自身を高く評価したのです。しかし神様はそのファリサイ派の人を低く評価され、罪人と宣告されました。

それに対して徴税人は自分自身を低く評価しました。自分は神様のみ前に出るに値しない罪人だ、と評価したのです。そういう彼を神様は高く評価して下さり、罪を赦して義と認めて下さったのです。

ここに語られているのは、自分自身が信仰深く神様に仕えていることを自分が高く評価するのでなく、むしろ自分の罪を認め、ヘリ下って神様の赦しを求める者を、神様はそういう謙遜な者をこそ高く評価して下さるのです。

しかし、ここまででは、余りに簡単で中途半端ではないでしょうか。もう一度、この二人の祈りの言葉を思い出してみましょう。

ファリサイ派の人は神様に感謝していますが、その感謝は「ほかの人たち」との比較です。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」たちがいる、そういう人々に対して自分の優位性を誇っています。加えて、そばにいる「徴税人のような者でもない」と、彼の感謝は、それら他の人々と自分とを見比べて自分が優れているとの感謝です。自分はどんな信仰生活をし、どのように神様に仕え、どれだけ献金をしているか。その思いは、自分自身にばかり向けられている人間としての思いではないでしょうか。神様の思いには至っていないのです。

それに対して徴税人の祈りは、神様のみに向けられていると言えます。13節にあるように、徴税人が「罪人のわたしを」と言っているのは、周囲にいる他の人々と自分とを見比べてはいません。徴税人は目の前で祈っているファリサイ派の人のように立派な信仰生活は送れません、罪を犯してばかりで、自分は駄目な人間です、などと祈っているのではないのです。徴税人は、ただひたすら神様のみに向かい合っているのです。罪の赦しを神様に願い求めて祈っているのです。まさに神様に向かい、神様に向けられた祈りです。

神様は徴税人のその祈りに応えて下さり、彼を義として下さったのです。彼が義とされて家に帰ることができたのは、自分を低くする謙遜な祈りをしたからだけではありません。

神様のみを見つめ、本当に神様に向かって祈ったことに、神様が応えて下さったのです。

一方のファリサイ派の人も、自分を人と比較して高慢に思い上がった祈りをしたからかえって低くされてしまっただけではありません。ファリサイ派の人は、神様に向かっていないと言えるんではないでしょうか。他の人々と自分を見比べて、自分の正しさや立派さを確認して喜び、その喜びを独り言のように祈っているのに過ぎないのです。そこには神様に対するへりくだった思いがありません。神様との交わりが成り立っていないと思われます。

つまりこの二人の違いは、神様の前に立っているか、それとも他の人と自分とを見比べて自分の思いの上に立っているか、ということです。

このことが、「自分を高く評価するか低く評価するか」という違いを生んでいるのです。自分を他の人と比較する中で私たちが求めるのは、自分を少しでも高く評価することです。他の人からも高く評価されたいし、自分でも自分自身を高く評価したいのです。それは様々な仕方でなされます。

このファリサイ派の人の祈りの言葉はまことに高慢な鼻持ちならないものですが、しかしある意味で無邪気な、単純なあり方だとも言えます。私たちも、徴税人だった筈の自分自身がいつのまにかファリサイ派の人のようになってしまうことがよくあるのではないでしょうか。

大切なことは、神様のみ前に本当に立つということです。神様のみ前に本当に立ったなら、私たちはもはや人と自分とを見比べていることなどできません。神様のみ前では、「あの人よりは自分の方がましだ」と自己弁護をすることも、「あの人がこうだったから」と人のせいにすることや、話を人のことにすり替えることもできません。神様は私たち一人ひとりに対して、「人はどうであれ、あなたは、私を信じ従うのか、それとも拒むのか」と問われるのです。その神様の問いの前に立つ時、私たちは誰もが、この徴税人と同じように、遠くに立ち、目を天に上げることもできず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈り願うしかないのです。

神様の前に砕かれ、ヘリ下るしかないのです。

それでは、お祈りをいたします。

<<< 祈  祷 >>>

 

すばらしい約束

《賛美歌》

讃美歌68番
讃美歌499番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書  箴言 16章1節 (旧約聖書1,011ページ)

16:1 人間は心構えをする。
主が舌に答えるべきことを与えてくださる。

新約聖書  ヨハネによる福音書 14章12~14節 (新約聖書197ページ)

14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

《説  教》

4月から全国連合長老会と東日本連合長老会のお世話で、この成宗教会に主任担任教師として赴任させて頂いた齋藤正でございます。

新型コロナウィルス感染症の世界的な蔓延と政府の「緊急事態宣言」が出されて、4月の赴任当初から集会自粛で皆様にお会いすることも出来ずに2ヶ月が経ってしまいました。改めてご挨拶申し上げます。宜しくお願い致します。

既に自己紹介や4月からの説教原稿を教会ホームページに掲載させて頂きましたので、ご存知の方々も居られるでしょうが、1944年(昭和19年)5月生れ76歳の後期高齢者です。生家は明治維新以来のクリスチャン家庭で私で四代目でしたが、私が洗礼を受けたのは定年まで勤めた大手化学会社に勤務中の43歳の時でした。受洗以来、御言葉の伝道を心掛けてきましたが、子育てにも追われて、献身を決意して東京神学大学を受験した時には69歳になっていました。

東神大では若い神学生は少なかったものの、それでも私よりずっと若い二十数名の同級生と共に2年前に大学院を修了し、文京区の根津教会の主任担任として奉仕させて頂き、今年の4月にこちら成宗教会へ招聘頂いた訳です。

そんな晩生な私が年齢も顧みず伝道者になろうと思った理由は、主イエスに救われるとは、私自身にとって、まったく予想出来なかった驚きを通り越した喜び・感謝があったからでした。この神の御恵みを少しでも人々にお伝えしたいとの思いからでした。その神の御業の不思議な有難さは、単なる日常の些細な時だけではなく、日々祈り、聖書に聞き、そして交わりの時に覚える事が出来ます。

しかし一方では、こんな年になって、物忘れが物覚えに先立ってしまう程に、信仰の学びの足りない私に神の御旨を充分に皆様に伝えて行けるだろうかとの心配もあります。

そんな時、主なる神は先ほどお読み頂いた旧約聖書「箴言」の御言葉を私に投げかけられました。「人間は心構えをする。主が舌に答えるべきことを与えてくださる。」と励まされました。

パウロがコリント書3章で言う、キリストとの関係が‟乳飲み子“の様な私に対しても主なる神は、この箴言の御言葉で私たちを支えて、語るべきことを与えて下さるのです。このことこそが、主の御言葉を語るすべての者に与えられた恵みであると確信しています。

今日お読みした新約聖書のヨハネ14章の、この聖書箇所は、読み方によっては少々難解というか。場合によっては誤解を招きやすい箇所です。

と、言いますのは12節にある「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と記されている聖書箇所です。キリストを信じる私たちが主イエスの行われた業を見倣って行う、までは分かりますが、キリストよりもっと大きな業を行うようになるとあります。キリストの御業より‟大きな業を行うようになれる“と取られかねない言葉があるからです。

その為に、ヨハネによる福音書のこの聖書箇所に至る主イエスの足跡を、少し前に遡って辿ってみたいと思います。後に弟子たちの中の使徒としても第一人者となるペトロが‟イエス様のためには自分の命をも捨てます“と言い切る、そのペテロでさえも主イエスから離反してしまうことを、主イエスご自身が直前の13章36節から予告しています。

そして、迫りくる十字架の前の晩、精神的にも極めて重い気持ちでおられた主イエスが残った弟子たちにされた最後の説教の初めの部分で語られたのが、この御言葉なのです。

主イエスご自身が苦難の死を予告される中で、それを聞いた弟子たちは共に大変な不安の中にあったことでしょう。そんな状況の中での主イエスご自身による弟子たちへの発言でした。

この様な状況を考えても、主イエスが心を込め、ご自分で予知しておられる十字架の死を見詰めながら、弟子たちに丁寧に愛をもって話されていること分かります。しかし、残念なことに、弟子たちにはそんな主イエスのことは、まったく分かっていなかったのでした。

14章にはいると、フィリポとトマスの弟子二人だけが登場しますが、実際には裏切ったユダを除いた、他のすべての弟子たちが一緒に居て主イエスの話を聞いていたと思われます。ここで、主イエスは、ご自身が地上を去る日の近いことを弟子たちにお話になりました。そして、それを、聞かされた弟子たちが動揺するのを見越して主イエスは、「心を騒がせるな。」しっかりしなさいと言われました。

ここで、主イエスはご自分の復活と弟子たちの先行きにも極めてはっきりとお答えになっておられるのです。

その主イエスのお話しを弟子たちには、まったく理解出来ていませんでした。

5節には、「トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。』と、トマスが主イエスに聞いたとあります。トマスは、主イエスが弟子たちから離れてどこかへ旅立って行くのかといった、不安の中からちょっとピント外れな質問をしています。

このトマスの質問に対して、主イエスはあの有名な真理の教えである御言葉を返されます。6節以下に、「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。』とあります。

この主イエスと弟子たちとの遣り取りでは、天の神から遣わされて、再び天に帰っていく主イエスは、弟子たちと信じる者たちのために、天に場所を用意し、彼らを父と子の交わりの中に入れようとされているのです。そして、その交わりの用意が済み次第戻って来られることを約束して下さいました。この主イエスの語られた、主イエスがすぐに戻られる再来の約束は、ヨハネ福音書の特徴でもあるのです。

そして、続く8節では、今度はフィリポが、トマスと同様に主イエスを充分に理解しているとは思えない質問をしました。「主よ、わたしたちに御父(おんちち)をお示しください。そうすれば満足できます」と言ったのです。

これは、ある意味ではすべての人間の思い・願望を代表しているとも言えます。フィリポは直接神を見たいと願ったのです。我々人間は例え信心や信仰心がなくとも、はっきりと神を見たい、直接神に会いたいという気持ちがあるものです。そのフィリポの質問に対して、十字架が直前に迫りながらも主イエスは丁寧にフィリポにお答えになりました。9節以下に“イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 わたしが父の内(うち)におり、父がわたしの内(うち)におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。”とあります。このフィリポの質問に対して、主イエスはキリスト信仰の本質である父なる神とご自分の関係をフィリポにお答えになりました。主イエスを見た者は父なる神を見たのです。これは、ヨハネ1章の初め(18)から繰り返し語られている重要な真理なのです。御子イエスが御父におり、御父が御子イエスにおられるという一体性が主イエスご自身によって語られているのです。主イエスの御言葉と御業とが主イエスをお遣わしになった父なる神の言葉であり、教えなのです。

そしてこれからが、今日の問題の12節以下です。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」とフィリポに丁寧に話されました。この12節には「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と記されています。

この12節を別の日本語訳の聖書で読んでみますと、口語訳聖書では、「わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。」とあります。

また、新改訳2017聖書では、「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。」とあり、大きな意味の差ははありません。この12節には「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と明確に記されています。この様に、日本語訳聖書を読むと、主イエスを信じる者が、主イエス以上の大きな働きをする様になると記されているのです。

使徒たちや弟子たち、初代教会の信者たちだけでなく、2000年後の私たち信仰者にいたるまで、凡そ主イエスを信じる者達が主イエスを越える働きが出来ると言われているのです。三位一体の神であられる主イエスを越える働きが出来るとは、どの様な意味で主イエスが語られたのでしょうか?

主イエスより大きな業がいったい私達に可能なのでしょうか?

古来、この聖書箇所の解釈には様々なものがありましたが、どう考えても、神であり数々の奇跡を行われ、天に上られた主イエス以上の大きな業が出来るとは思えませんし、また聖書原典をひっくり返して詳しく読み直しても主イエスの行った業を越える、大きな業はどこにも具体的に記されていません。そこで、再度よくよく12節を読んでみると、「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」とあります。

ここで注目すべきこととして、「もっと大きな業」とは主イエスの御業より大きいと明確に書いてあるのではない上に、注目したいのは、12節の終わりに『わたしが父のもとへ行くからである。』と「もっと大きな業」が切り離せない主イエスの言葉として語られている言葉ではないでしょうか。

この2つの言葉の密接な繋がりをみてみますと、主イエスを信じる者は、主イエスが行った業、例えば愛の業を主イエスに倣って出来るようになり、更に加えて、その人自身で行った業を更に越える業を行うようになっていく、主イエスに倣って行った業が進歩していく、発展していくと解釈もできます。

つまり、主イエスの行う業を越える業ではなく、主イエスに倣って信じて行った業が、主イエスによって更にもっと大きな業を行うことが出来る様になると約束していて下さるのです。

その理由が、主イエスが父なる神の御許に行かれ、聖霊を送って下さり、その聖霊が「弁護者」として働いて下さるからなのです。

「もっと大きな業」とは、主イエスが私たち信じる者を、神として天上から導かれると同時に、その主イエスが聖霊を遣わす働きが、2000年前のユダヤの地にて真の人であった主イエスご自身がこの地上でなさった神としての御業を除く、人としての御業を越える御業とも、限定的に考えられるのです。

また、「もっと大きな業」とは、弟子たちの働きが、主イエスがこの地上でなさったより、もっともっと広い地域に拡がり、パレスティナだけでなく、全世界的に広がると言った意味も含んでいるとも考えられます。

この、主イエスよりも「もっと大きな業」を弟子たちがすることができるのは、主イエスが父なる神の御許へ帰られて、来たるべきこの世の終わりに再びこの地に来られ神の子たちを全世界的に集められることにおいてなされ、それが、世界の歴史全体の終末論の目的であり、弟子たちの働きにおいて、それがなされることだとも言えるでしょう。

今、既に信仰を与えられている私たちは、自分は主イエスを三位一体なる神として受け入れている筈です。しかし、私たちはキリスト者であっても、案外この時のトマスやフィリポのように、主イエスが語られる教えを守って行くことで真理に到達し、命が得られると思い込んでしまうのではないでしょうか。

そのような思い込みの中で、日々の教会生活が真の平安の内に置かれずに、心を騒がせてしまうことがあるのではないでしょうか。「わたしは主イエスのために死ねる」と、そこまでは言えなくとも、自分の信仰の道が、救いを得るために十分であろうか、言い替えれば、キリスト者として充分に働いているのかと言うことに関心を集中させていないでしょうか。

その結果は、自分の奉仕の至らなさを嘆き、隣人の欠けを裁いたりするのです。それは、本当に救いに至る道とは違い、自分の働きで救いに至ろうとする道です。

そのように時として道を踏み外す私たちに、主イエスは、わたしこそ道であるとおっしゃっているのです。私たちではなく主イエスが、父の御許へ行く道を歩んで下さり、救いを成し遂げて下さった。それ故、私たちは、主イエスこそ、神であることを信じ、神によって成し遂げられた救いの御業に信頼して主イエスの道を歩めば良いのです。そのような歩みをする時、12節で記されているように、「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」のです。

主イエスこそ真の道であると信じて、その道を歩き出す時、その道を歩く者は主イエスの業を行う者とされていきます。それは、自分の救いを自分の力で確かなものとするために、道を求め、道を究めて行くような自分の業ではありません。私たちが、自分の業によって救いを得ようとするのではなく、主イエスこそ神であり救い主であるという信仰に生きる時に、自然と、主イエスの救いが証しされて行くのです。そのようにして、私たちが、道である主イエスを指し示して行くのです。主イエスの救いに生かされる信仰者が、道そのものである主イエスを指し示して行くのです。

14節には、「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」とあります。これは、主イエスを信じれば御利益として、願い事がかなうと言うことではありません。真の道を歩み、主イエスの御業を行って行く歩みを通して、主に栄光を帰して行く時、真理、命にあずかっていると言う真の平安が与えられると言うことです。

私たちは、私たちが父なる神のもとに行くための道となって下さった主イエスを、自分自身の主、神と受け入れつつ歩む時に、真に神と結ばれる者とされます。自分自身の力で神の御許へと行く道を捜し求め、そこを歩いて行こうとすることによってではありません。私たちではなく主イエスご自身が、父にいたる道を歩き、それによって私たちが父と結ばれていることに信頼して、道であり、真理であり、命であるキリストを通して父のもとへと歩んで行くのです。そのような歩みをする時にのみ、私たちはどんな困難な力が迫る時にも、たとえ自分の命が取り去られてしまうような死の力が襲う時にも、心を騒がせることなく、平安の内に歩む者とされるのです。その道が、神であられる主イエスが歩んで下さった道であるが故に、必ず、父のもとへと通じているからです。

主イエスを信じる私たちは、御霊によって、日々導かれ、主イエスに倣った業をすることが出来ると、主イエスご自身によって約束されています。そして、その業は聖霊の力によって、主イエスに倣って行うごとに、より大きく、より深く、より良くなっていくのです。

その結果、私達信じる者が、「さらにもっと大きな業」ができると、『すばらしい約束』を私達にして下さいました。

お祈りを致します。

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あなたの父と母とを敬え

聖書:箴言232225節, マタイによる福音書1549

 今日の説教題をごらんください。「あなたの父と母とを敬え」です。これが 十戒 の戒めのうちの、第5番目の戒めであります。とてもシンプルで、だれもが納得する戒めです。しかし、この戒めはただ単に血縁関係にある父母を敬いなさい、とか、両親の言う通りにしなさいという道徳的な勧めではありません。古代イスラエルでは、両親は神への畏れや信仰を子どもたちに伝達する役割を果たしていましたから、いわば、神さまの代理のような存在であったのです。子どもたちは、神さまを礼拝する生活と信仰を父母から継承し、それをまた次の世代に伝えました。イエスさまも、神さまを天の父と呼ばれ、また弟子たちにも祈る時には「天にまします我らの父よ」と呼びかけなさいと教えられました。

神はすべてのものをお造りになり、また人間を御自分に似た者としてお造りになりました。そして私たちが生きるために沢山のものを与え、管理させ、神さまがそのすべてを支えておられるのです。真に神さま御自身が、わたしたちに天の父と呼ばれることを許してくださっています。それは真の神の子、救い主イエスさまが私たちに教えてくださったことです。このようにして、私たちは地上に父を持っている一方、神さまを天の父と呼ぶのです。

またわたしたちは地上に母を持っていますが、その他に、私たちには母と呼んでいるものがあります。それは何でしょうか。それは教会です。教会は母なる教会と呼ばれます。なぜでしょうか。それは、教会がイエスさまを信じて洗礼を受け、新しい命に生きる人を生み出すからです。クリスチャンは教会から生まれます。だから、私たちは天には父がおられ、教会を母として生まれた神の子なのです。

さて、そう考えると「あなたの父と母とを敬え」という戒めは、ただ単に親孝行しなさい、というようなこと。また両親の言うことを聞きなさいというようなことではないことが分かります。私たちが具体的に、この親の子供であるということは、不思議なことです。神さまからこういう親をいただいた、ということですから。わたしたちは誰も、親が子を選んだのでもありません。また、子が親を選んだのでもないのです。それはただ一重に、神さまがくださった親子の関係です。神さまが選んで私たちに父母を与えてくださり、その父母の力によって育てられたのですが、本当は神さまのご支配がここに働いてくださったからこそ、親子の関係ができるのです。

父母を敬うことは、神さまの導きを信じるからこそ、できることです。だからこそ、親から受けたものを子に伝えていくことができます。つまり、父母を敬うことは神さまを信頼し、神さまを敬うからこそ、できることなのではないでしょうか。神さまに信頼し、自分の道は神さまが備えてくださると信じる人は、神さまから離れないでしょうし、父母からも離れ去ることはないでしょう。しかし、わたしたちの多くは人生の主に若い時に、あるいは中年の時に、父母に反抗したり、父母を煙たく思ったりするところを経験しております。ルカ15章の有名な放蕩息子の話(139頁)のように。ただもう「父親から離れたところで、思う存分好きなように暮らしたい」という思いは、同時に神さまからも離れて生きる生活に陥らざるを得ないのです。だからこそ、放蕩息子は悔い改めて父に謝罪するとき、こう言わずにはいられませんでした。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と。

放蕩息子の例え話は、豊かな財産を持つ父親と若くて力のない息子の関係として描かれていますが、今日読んでいただいたマタイ福音書15章でイエスさまが指摘している親子の関係はそうではありません。4節からイエスさまのお言葉を読みます。「神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。」これらの言葉は、一つは出エジプト記20章12節の言葉であり、もう一つの『父または母をののしる者は』という戒めは、レビ記20章9節の言葉です。どちらも単純で率直な戒めです。親をののしる、または呪う者は死刑に処せられる。恐ろしく厳しい言葉ですが、その意味は誰でも理解できる、心に響くのではないでしょうか。

神さまが人々に律法を与えになった目的は、人々が真心から神さまを礼拝するというところにあります。そこにすべての幸いの源があるからです。十戒で見るとおり、神さまを礼拝する人生といいますか、生き方はそんなに複雑なものではありません。むしろ単純素朴であるといえるでしょう。第一戒から振り返ってみるならば、それは「あなたは、わたしのほかに、何ものも神としてはならない」です。とても明快ではないでしょうか。第二戒は偶像礼拝の禁止です。また第三戒は神さまのお名前を心から大切にすることを命じられています。ところが、第四戒の安息日の戒めについても、神さまがお命じになったことを形式的に守ろうとするうちに、次第に神さまを礼拝する真心を考えなくなってしまう。

そして安息日にしてはいけないことを増やす。ここまではしても良いが、ここからはしてはいけないことを増やすのです。事細かなルールを作り出してそれも十戒と同様に守ることを要求する人々がいました。それが律法学者とファリサイ派の人々でした。先週読んだマタイ福音書の例では弟子たちが安息日に麦畑を通った時、お腹が空いていたので、麦畑に入って麦を摘んで食べたことを、彼らは見とがめて、これは安息日にしてはいけない労働であると非難したのでした。それと同じように、今度は弟子たちの食事の前に手を洗わないといって咎めました。しかし、よく考えてみれば、だれにでも分かることがありました。食事の前に手を洗うことは衛生的に良いことですが、それは神さまを心から礼拝することとどれだけ関係があるのでしょうか

そこでイエスさまが持ち出したのが「父と母を敬え」の戒めであり、また『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』というみ言葉です。こんなに単純明快な戒めはないのではないでしょうか。イエスさまは続けて、ファリサイ派の人々、律法学者たちが決めたルール思い出させます。15章5-6節。「それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」

この言葉は十戒に代表されるような聖書に記された戒めではなく、長い間に出来上がった言い伝えであります。この言い伝えによれば、ある人が自分の持ち物の一部を神さまに供え物として捧げたとします。その人は、一部を捧げ、その残りを自分のものとして所有し続けることができます。その一方で、その持ち物は神に捧げられたのだから、その両親を扶養するために、持ち物から少しも差し出さないで、もっともらしく父母の扶養を断ることができるという話なのです。なぜ、このような言い伝えが出来たのでしょうか。それは、神殿に仕える人々(レビ人)の利益となったからです。こうすれば、人は自分の持ち物の一部を神さまに捧げたとして、実際はそれは神殿に仕える人々のものとなり、そして残りは丸々、その人の手元に残る訳ですから。

主イエスはこれを非難なさいました。また当時のラビ、教師と言われたたちの多くも、主イエスのようにこのような不正を非難したが、それでも、このような言い逃れは行われていたことが分かります。このような不正。神さまを口実に使った偽善は、神の言葉を無にすることそのものを表しています。「父と母とを敬え」と言われている父母とは、どのような父母でしょうか。今日読んでいただいた箴言の23章22節。「父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。」「父と母とを敬え」と命じられている本人は既に大人になった人でしょう。そうすると、神さまが命じられている対象は、若い両親ではありません。年老いて、力も衰え、自分で働くことのできない父母が思い描かれるのではないでしょうか。そして今の時代のように、社会保障制度がない時代であったのですが、そんな時代にも高齢の父母を見捨てるために、どうやって第五の戒めを回避できるかに心血を傾けているという浅ましい人間の罪が見えて来るのではないでしょうか。

マタイ15章8-9節『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」こうして神さまの戒めは、無にされ、無視されている、この偽善の罪をイエスさまは鋭く指摘されているのです。神さまの戒めの目的に、立ち帰りましょう。それは神さまを礼拝することを目指しています。礼拝のために安息日が与えられました。毎日が繰り返される同じ一日のようであっても、時間が絶え間なく流れていくようであっても、神さまは人に御自身の安息を与えて下さり、人の心を神さまに向けるシンボルの日を、時間の中に定めてくださいました。

それが第四の戒めであったのですが、神さまは第五の戒めにおいて人と人との交わりの中に神さまとの関係を造り出してくださいました。父母がいる。父母は神さまが自分に与えられた存在であると思う。その思いは神さまを信頼する信仰から生まれるのです。自分中心に思えば、なかなかそうは思えない。自分に都合の良い時は、父母に頼ったけれども、父母はいつも自分に都合よくしてはくれない、と思う自己中心が、いつも人にはあるのではないでしょうか。そのようなわたしたちに、第五の戒めが与えられています。出エ20章12節にはこう書いてあります。「あなたの父と母とを敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

父と母とを敬うことと主が与えられる土地に長く生きることができる、ということがどうつながりがあるのでしょうか。それはつながるのです。なぜなら、ずばり、ここに神さまの祝福があるからです。神さまがわたしにあの父と母とを与えてくださったと思う心。その心そのものが神さまの賜物です。そして、「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」という約束の言葉は第五の戒めだけでなく、その前のすべての言葉に繋がっているのです。第一戒「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」と続きます。第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

そんなふうに第三戒にも第四戒にも続いています。このように自分中心に生きることから、神さまの戒めを受け入れて、神中心に生きることで、どんなに大きな祝福が約束されているかを、わたしたちは思うべきであります。先週、わたしたちは敬愛する姉妹を天に送り、感謝に溢れて葬儀式を行いました。とても寂しい思いはありますが、地上の労苦から自由になられたことを思うと、遺されたご家族も慰められたことでしょう。

私たちは血縁のものではないのですが、同じ信仰を与えられ、主イエス・キリストの執り成しに結ばれている人を、皆兄弟姉妹と呼びます。わたしたちは信仰によって神さまの家族とされていることを喜び、誇りに思います。わたしたちは佐田姉を母のように敬い、いつまでも敬い続けるでしょう。それは、佐田姉が天の父の御許に召されたという、何よりの信仰の証しを立ててくださったからです。真に感謝です。

最後に今日の学びは十戒の第五戒でした。カテキズム問45 第五戒は何ですか。その答は、「あなたの父と母とをうやまえです。神さまがわたしたちの父母を与えてくださり、神さまのご支配の中で育ててくださったので、父母を尊び、うやまい、助けるようにすることです。」祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま。

尊き御名を褒め称えます。わたしたちはこの荒天の中、主の御招きによって教会に集められ、礼拝を捧げることができました。今日は第五の戒めを学びました。どうかわたしたちにこの戒めを喜んで受け入れる心をお与えください。私たちは敬愛する佐田節子姉を先週、地上から失いましたが、しっかりとあなたに信頼し、地上の教会の行く末のために、祈りをもって働いてくださったことを感謝します。どうかご家族の上にこれまでにも優る祝福を注いでください。わたしたちは佐田姉妹を母のように敬い、これからも感謝を以て、思い起こします。どうかわたしたちを、これからも変ることなく主と共に歩む教会とならせてください。

今週行われる会議の上に、成宗教会の今後の歩みの上にあなたの御心をすべて行ってください。また、イエス・キリストの執り成しによって私たちの罪を赦し、御心に従って今週も歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。