呪いを祝福に

聖書:イザヤ書53章1-5節, ローマの信徒への手紙6章4-11節

 昨日は成宗教会の兄弟の結婚式が、恵比寿にある教会で行われました。それは中国語を中心に礼拝が行われている大きな教会で、集まっている人々は働き盛りの若い世代。昔の日本の高度成長期の教会はそうだったと懐かしく思いました。それに比べると、わたしたちの教会をはじめ、日本の多くの教会は人々が高齢化し、いかにも弱っているように感じるかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。人は必ず高齢化するのです。社会もそうでしょう。山だって火山活動が盛んな時代が過ぎると、だんだんとおとなしく丸くなる時代が来ると学校で習いました。

すると私たちは進んでいるのかもしれません。血気盛んな人々が集まっている国があり、教会がある。しかし、若者は決して若者のままではいない。だれもがだんだん高齢になって行く。もし教会に、全く同じ世代の人以外、一人もいないならば、その教会はいずれ立ち行かなくなるでしょう。しかし、神様が教会を建てるとお決めになったのであれば、決して人の予想通りにはなりません。私がこの教会に呼ばれたときも、役員会の記録には、高齢化のため、礼拝出席が減少した、と書かれていました。その時も教会員は自分より、年取った方々がほとんどであったのです。

けれども自分より先輩がいること。何十年年上の大先輩が自分の傍にいるということは実は思いがけない恵みです。人は多くの場合、同じ年代の人々といることを好むので、自分と同じ年頃の人々を仲間と感じるようです。しかし、人生の先輩、信仰の大先輩がここにいる恵みは大きい。実際、私も成宗教会の大先輩の方々から多くの恵みをいただきました。遠い星を見て、宇宙を学ぶように、高齢の教会員が共に生きているならば、その人を通して神様が学ばせてくださる恵みは計りしれません。

私は大学生の時、教会に通う者となりました。その頃の礼拝の様子は、今はほとんど記憶のかなたに行ってしまっています。しかし、思い出すのは、礼拝堂の片隅に座って肩を震わせて泣いていらした老婦人の後ろ姿です。なぜ泣いていたのでしょうか。それは1960年代後半。まだ多くの高齢者が戦争の悲しみ、悼みの中にあったことを、今更ながら思います。高齢者は悲惨な時代、悲惨な社会を記憶しているからこそ、礼拝説教に涙をもって自分たちの罪を社会の罪を証ししていたのでしょう。罪によって呪われたのだと。

ですが、それから数十年の内にわたしたちはすっかり変わってしまったことに気がつきませんでした。呪いなんて、何のことだろうか。漢字も忘れてしまっています。わたしたちの理想は衣食住に困らないこと。みんなと仲良く楽しく暮らすこと。いつまでも長生きすること。それだけでいい。その理想さえ実現すれば、神様のことは忘れてもいいではないか。実際、高度経済成長期にだれもが豊かになったと感じていた頃、教会の礼拝で泣く人はいなくなったと思います。そして礼拝で居眠りする人が増えました。皆、神の愛の話を聞きたいと思います。神の祝福を受けたいと思います。しかし、それではなぜ、キリストは十字架にお掛かりにならなければならなかったのでしょうか。そのことを知らせることは、教会にとって非常に困難な時代が来たのでした。

私は居眠りしている信者の一人ではありましたけれども、教会の人々が弱り果てていることを感じておりました。そして神さまは、私がどうしても伝道者として立たなければならないというところまで追い詰められました。しかし、伝道者として、教会の皆さんに神様の言葉を説き明かすことになった時、何と言っても一番困難であったのは、人間の罪について語ることでありました。ローマの信徒への手紙3章23-24節にある言葉です。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みに寄り無償で義とされるのです。」

このわずか3行ばかりの言葉です。読み上げるのは簡単ですが、一体だれが、自分のこととして納得するのでしょうか。説教者は、会衆の一人一人に「あなたは罪ある者です」と言わなければならない。これが大変困難だったのです。私は自分は足りない人間だという自覚があり、一方で教会の人々がたいそう立派に見えました。元々、学校の教師として上から目線で生徒を見ることの無い者でした。また生徒の方も大変おおらかに言いたい放題のことを私に言って来る、そういう教師でした。私には生徒も教師も神の御前に等しい者同士だったのです。

ところが教会の説教者は、自分の落ち度を差し置いて、人間が等しく神の御前に罪人であることを語らなければなりません。そして「あんたなんかにそんなことを言われたくない」と言われることも覚悟しなければなりません。教区総会の時期になると思い出すのですが、教会記録審査という仕事があり、私もそれを担当しました。ルールに従って審査をし、問題を指摘したときのことです。ある教会の会計役員が私を指さし、その指を振りながら、声を震わして言ったのです。「お前なんかに、お前なんかに、私の報告を直されて・・・。」それは高齢の男性でしたが、私が教会の教師であることを知った上でも、自分の書類が直された怒りが治まらないようでした。私の17年の教会の務めは、人間の罪とは何か、について学ばされる年月でありました。そして、そのことを、人々に向かって恐れず大胆に語れるようになることは非常に困難で、多くの時間を要したわけです。

今日読んでいただいたイザヤ書53章1節。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」こう言っている「わたしたち」とはだれでしょうか。それは諸国の王たちであります。人々の上に立って統治している王たちが、「実に驚きに堪えない」と言っているのです。わたしたちの聞いたことを、だれも信じられなかったし、これまでにだれもその意味が分からなかったというのであります。

それほどに、この福音を信じる者はいないというのです。だからイザヤ書はその不信仰を、悲しみ嘆かないではいられないのです。そう嘆いてから、彼らは苦難を受けた一人の方について語りはじめます。

「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」輝かしい風格、好ましい姿は美しさを表します。美しさは神の祝福のしるしです。ところがこの方は美しくなかった。だから、だれも彼を見たいと思わなかったのです。わたしたちはキリストの栄光を人間の見方によって判断してはならず、ただ聖霊の神がキリストについて教えてくださることを信仰によって理解しなければなりません。3節。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」ここでは、主の僕であるこの方のさらに詳しい状況が語られています。つまり、彼は社会から追放された者であり、侮られ、友もない。彼は悲しみと悲哀の人でありました。またこの方は、見るに堪えられないほど魅力のない、病の人であったのです。人は万事が好都合に行っていて、更に健康である時には、不健康で醜い病んでいる者をさげすみ、侮りやすいものです。だからこそわたしたちは自分のこうした傾向と戦わなければならないのです。

わたしたちは楽をして得して、その上で救われたいと考えたいのではないでしょうか。だから、キリストについて理解することができず、キリストを受け入れることができないのです。しかし、イースターの喜びについて語る前には、まず必ず、キリストの苦難と死について思わなければなりません。もし、キリストの苦難を思わず、復活から宣べ伝え始めるならば、それは弱い福音になるでしょう。預言者はキリストの悲しみ、病弱、見捨てられ、侮られ、死に至ったことから宣べ伝え始めたのです。

ところが、多くの人々が彼の死に躓くのです。それはまるで彼が死によって打ち負かされ、死によって圧倒させられたかのように感じられるからです。しかしわたしたちは、死の力と支配を主が打ち破って復活してくださったことを告げるべきなのであります。主の強さとその力は、死を打ち破ることによってこそ、その本質が理解されるからです。

主の強さと力は、死と関係なくあるのではないのです。それは死の支配を打ち破った所に示されました。さて、諸国の王たちは、キリストが負われた苦難の本当の意味を悟らされて、次のように告白したのであります。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

これまでは彼らはこの方が単純に打たれ、苦しめられ、何かの理由で神に叩かれているのだ、と考えていたのでしたが、この時初めて理解しました。実はこの方は自分たちの悩みと、自分たちの悲しみを担っていることを。キリストは地上にいらして、その御言葉によって悪霊を追い出し、多くの病人を癒されましたが、その奇跡物語は、わたしたちの魂にもたらす救いを証しするものであったのです。キリストの地上の働きは、わたしたちの体を癒すためではなく、むしろ魂を癒すことにあるのではないでしょうか。

だからこそ、その癒しは体に対する癒しよりもはるかな大きな広がりを持っていたのです。主はわたしたちの魂の医者に任命された方でありますから。「わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と」いう告白は、人間がどんなに感謝がなく邪悪であるかを、預言者が示そうとしているのに違いありません。彼らはキリストがなぜそんなに激しく苦しんでいるのかを知らず、「ただ彼自身の罪のせいで、神が彼を打ち叩いたのだ」と勝手に解釈していたのです。

わたしたちも全く変わりないと思います。自分の身に何も苦労がない間は、苦労している人の気持ちがなかなか分からない。辛い戦争の体験が共通の苦しみだった時代を記憶している間は、キリストの苦難に救いを見い出す人々が教会に集まったのです。しかし、わたしたちも何とか福音を宣べ伝えようと思うならば、ご自分のためではなく、ただただ罪人を憐れまれたために苦難を負ってくださった方の労苦を僅かでも味わうことができるのではないでしょうか。そして神の御心を知ろうとしない人間の罪、自分の痛みには火がつくほど敏感なのに、人の苦しみには全く鈍感な人間の罪が思われるのです。罪を罪とも思わない生き方そのものが呪われているのです。しかし、それにもかかわらずキリストは、この罪の浅ましさにまみれた人間をなお憐れんで、呪いを祝福に変えてくださいました。キリストの苦難と死は、わたしたちの苦難を苦しみ、死を御自分のものとしてくださったのです。ローマ6章4節。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与るものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」今日は、使徒信条の中で主は「十字架につけられた」ことがどのような意味を持つのかについてみ言葉に聞きました。「木に掛けられる者は呪われる」と聖書に書いてあります。イエス・キリストの十字架の意味は、わたしたちが神様に赦され、永遠に祝福されるために、キリストが神様に呪われたということです。最後にローマ6章7-8節を呼んで、祈ります。

「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架に付けられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」

 

父・御子・聖霊の三位一体の神様

尊き御名をほめたたえます。ペンテコステに聖霊を注いで下さり、教会の歩みが始まって以来、全世界の教会を励まして、主の体に結ばれるものとしてくださいました。わたしたちの教会もただあなたの恵みによって今日まで導かれたことを感謝します。

本日は使徒信条について、わたしたちの主が十字架にお掛かりになったことを告白して来た意義を学びました。わたしたちもあなたに立ち帰って生きるために、キリストの十字架の死に結ばれ、罪の贖いを受けました。このことを繰り返し思い起こし、新たに感謝を込めて、主の命と共に生きる者とならせてください。

教会の行事が守られ、東日本連合長老会の教会会議も恵みのうちに導かれたことを感謝します。本日は、西東京教区の総会が行われます。あなたの福音がこの小さな教会でも宣べ伝えられると同時に、全国、全世界の教会が手を携えて、福音を宣べ伝え、一つのキリストの体に結ばれるために、教区総会を清めてお用いください。そこで行われる選挙によって秋に行われる教団総会の議員が選ばれます。どうかこの選挙の上に御心が行われますように。

礼拝に来ることが困難になっている兄弟姉妹のために祈ります。多くの方々が主の日の礼拝を覚え、心を込めて祈っておられます。どうかその祈りが聴かれ、わたしたちの祈りと共に、あなたの喜びとされ、この教会が守られますように。主に連なる一人一人が共に主の恵みを受けますように。主はわたしたちをその死に結ばれ、わたしたちの呪いを御自身に受けてくださいました。その代わりにて御自分にある天の祝福に、わたしたちを結んでくださいました。わたしたちの多くが高齢となっておりますが、あなたがわたしたちに注いでくださった恵みを、年を重ねる毎にますます豊かに証しする者となりますように。

この感謝と願いとを、我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

唇に良きおとずれを

成宗教会・聖霊降臨日聖餐礼拝

聖書:ヨエル2章23-3章2節, 使徒言行録2章1-11節

 今年も聖霊降臨日を記念する礼拝を捧げることができますことを、真に感謝します。成宗教会がこの地に礼拝を始めて、今年で78年。日本の地にプロテスタント教会が建てられて150年になります。(現在も残る横浜海岸教会です。) 今では全世界の津々浦々に教会があり、イエス・キリストの福音が宣べ伝えられていることを私たちは知っております。しかし、多くの人々は不思議に思うことでしょう。一体どのようにして教会が存在するようになったのか。かつては臆病だった弟子たちが、自分たちの言葉でキリストの真理を宣べ伝えることができるようになったのか、と。

毎年、教会が復活祭イースターを祝う時には、その前にわたしたちは、主が十字架にお掛かりになったご受難の道を振り返ります。そして、その中で、主の弟子たちがどんなに臆病であったかを思い出すのです。主は弟子たちを深く愛しておられ、弟子たちもまた主の愛を知っていました。それでも、主の十字架に従うことはできませんでした。ペトロをはじめ皆それぞれが逃げ出してしまったのです。

ところが、このような弟子たちが福音を宣べ伝えたのです。全世界に神の良い知らせを告げ知らせたのです。この世に奇跡が起こるとしたら、この不思議な出来事こそ、奇跡です。奇跡は人によって起こされるのではなく、神の力によって起こされるからです。これは宣教の奇跡です。それまでは、弟子たちは「神の偉大な業」を語るための「舌」(言葉)をもっていませんでした。しかし、その人々が、今や説教を語る者となりました。

創世記2章7節で語られている人間の創造の話を思い出しましょう。神は御自分の霊を、塵を吹き入れて、人間を創造しました。神の霊とは命の息であります。そして、使徒言行録2章4節では、神の霊はかつて臆病であった弟子に命を吹き入れられました。その結果、主は今や新しい人間を創造されました。新しい人間。それは伝道する弟子たちです。彼らは、大胆に語ることのできる賜物をもった新しい人間として造られたのでした。

最初に、主なる神は弟子たちに聖霊を、一度、耳に聞こえ、目に見える形でお示しになりました。2節。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」わたしたちは神の賜物について考えるには、あまり熱心ではなく、面倒くさがる傾向があります。だから、神の力がはっきりと分かるために、神が前もってわたしたちの感覚を目覚めさせてくださらなければならなかったのです。さもないと、神の力はわたしたちに見落とされてしまうことになるでしょう。

また。突然状況が変えられることについても、大きな意味があります。それは弟子たちが勇気を出して伝道する者になった理由を考えて、「偶然こうなった、」とか、「自分の努力のせいだ」と思わないために、必要だったのです。また、風の激しさも重要です。それは人々に恐れを与えるためなのです。人は自分の知恵や力、常識など自分の判断に頼っている間は、決して神の恵みを恵みとして受け入れるようにはならないのです。神の恵みによって立つのでなければ、決して福音を宣べ伝える教会は建てられないでしょう。ただ個々人の常識を信じ、力を信じるだけの教会は、決して主イエスの教会ではありません。わたしたちは自分の限界を知り、打ち砕かれる体験をして初めて直に神の恵みのすばらしさを受け入れるようになるのです。

神の霊は、聖霊、御霊とも言いますが、それは風を意味する言葉です。それは神の本質を表します。しかし、神の本質は私たち人間には測り知られないものです。聖霊降臨日とはペンテコステと呼ばれます。それは過越しの祭から50日目を表すギリシャ語です。主イエスが十字架にお掛かりになったその時も過越しの祭でありました。そして、もう一つのユダヤ教の祭が五旬祭というもう一つのユダヤの祭りでした。それは春の収穫の恵みを感謝する祭でありました。

主イエスに従う者たちは集まって祈り、待っていました。上からの力が与えられるのを待っていたのです。その時、新しい日は、風のような天からの音の噴出によって始まりました。最初は音だけを聞いたのでしたが、次に目に見えるものが現れました。それは、炎のような舌であります。舌とは何でしょう。英語でもそうですが、ギリシャ語でも、舌は同時に言語、言葉を表します。「炎のような舌」とは、5節以下に表現されているように、天下のあらゆる国の人々が使っているさまざまな言語を表しているのでしょう。一か国語ではなく、万国に神の恵み伝えるための万国の言語であります。

創世記8章には有名なバベルの塔の物語があります。かつて人間同士の言葉が通じなくなったのは、人間の傲慢に対する神の懲罰であったと言われています。しかし、この時、神はその懲罰を祝福に変えられました。人は互いに言葉が通じない、心が通じないために、ちりぢりバラバラにされてしまったのでありました。しかし、この人々を一つの祝福に入らせるために、神は主の福音を宣べ伝える使徒たちに各種の国語を語らせました。ここに集まっているのは、天下のあらゆる国々に散らされていたユダヤ人たち。彼らは他国で生まれ育った人々でした。

実にユダヤ人の国は何百年にもわたって、戦争に次ぐ戦争によって荒れ果て、その度に人々は他国に寄留する者とされたのでした。その苦難の歴史の中で彼らがどうして生きて行ったのか、それは奇跡としか言いようがないことです。中には、弱小国の民であることを捨てて、エジプトや、ペルシャや、マケドニア、ギリシャ、ローマに住み着き、地元の神々を拝み、自分たちのルーツを失ってしまった人々もいたかもしれません。しかし、しかし、他方では自分たちがアブラハムによって神の民とされた子孫であることを忘れない人々も全世界に散らばって存在していました。そして一方では、異なる国の言語を話し、異なる国の住民、市民でありながら、他方では、イスラエルの神を真の唯一の神として礼拝するために、ユダヤ教の祭にはエルサレムに集まって来るのを常としていたのです。そして、出エジプトの時も、それ以前も、このイスラエル人が神の許に帰って来る時には、その群れの中に異邦人たちもいたのでした。

今、大勢のユダヤ人と異教徒も含む全世界の人々がエルサレムに集まるこの祭りの時に、主はその霊を弟子たちに注いでくださいました。聖霊は、教会が福音を持って「民衆の場へ出て行く」力であり、教会に民衆をひきつける力であります。聖霊は教会に聞く価値のあることを語らしめる力を与えているのです。この霊の力こそが福音を宣べ伝えることを可能にします。その一方では、福音を宣べ伝えることは、人々に疑問を抱かせたり、戸惑いや嘲りとを呼び起こします。聖霊の力を受けて人々が力強く福音を宣べ伝え始めました。すると、そこには信じる者が起こされます。と同時に、意地悪くあざけっている人々が現れます。また真剣に尋ねている人々も現れます。このことの繰り返しが、最初の教会から始まっているのが分かります。決して一喜一憂すべきではありません。教会の働きは、すべて聖霊の力にかかっているのですから。

五旬祭、収穫の恵みの初穂をささげるこの日に、聖霊の恵みが人々にもたらされたことは大変大きな意味を表しています。旧約聖書では、聖霊が降ってくださるということは、神の預言が成就することを意味していました。それに対して新約聖書では、聖霊が来てくださるということは、復活の主・イエス・キリストの約束なさった救いの御業が、ここに完成したことを意味するのです。

神の驚くべき慈愛はここに輝き渡りました。では、この奇跡は何のために、だれのためになされたのでしょうか。これは皆、神の、わたしたちへの愛のためになされたことなのです。ところで、燃える炎のような舌、という表現の炎とは何を指し示すのでしょうか。使徒たちは元々、ただの人間、弱さと欠点を持った人間に過ぎません。しかし、彼らの上に聖霊の助けが降ったのは、彼らが全く新しい者として用いられるためです。ですから、彼ら、使徒、宣教者たちの声の中に、神の尊い力が示されることを、決して疑ってはならないのです。彼らの声、彼らが語った福音は、聖霊の臨在を証明するしるしでありました。このしるしは、わたしたちを真理に与らせるために、真理を示すのです。わたしたちの感覚によって理解できるように示しているのです。

主は彼らの語る神の偉大な業をほめたたえる言葉を、その声によって、人々の心を燃え立たせようとしておられます。ですから、彼らの言葉は、この世の虚栄を焼き尽くし、すべてのものを清め、一新するために燃える火に他なりません。使徒たちの教えは空気中で雷鳴のように鳴り響いたのではありません。そうではなくて、それらは人々の心に奥にまで入り込みました。心を天の熱い思いによって満たしたのです。そして、この力は、2000年前の使徒たちだけに与えられたのではありません。そうではなくて、今も日ごとに全世界の教会で証明されているのであります。

後に活躍することになる使徒パウロも5つの言葉で話すことができたと言われていますが、これを彼は勉学によって行ったのではなく、聖霊によって与えられたと言われています。これらの異なる言葉が用いられる目的は、もちろん、多くの異邦人に理解できるようにという配慮です。パウロは、ギリシャ人にはギリシャ語を、イタリア人にはラテン語を話したほど、言葉の多様さと理解力とを授かっていたからこそ、聴衆との真のふれあいが出来ていたのだと分かるのです。

ここに、離散していたユダヤ人たちの出身となる国々、地方の名前が並べられています。東はペルシャからカスピ海、南はアラビア、エジプトといった当時のほとんど全世界とも言える地方が書かれています。ユダヤ人は離散し、ほとんど全く滅ぼされたかのように見えるが、異国に在っても彼らの間に信仰の一致を保持したのは、神の奇跡であります。「ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」ここには二つの驚きが語られています。その一つは、最初の教会を形成した使徒たちが、実はガリラヤの無学な田舎出身者ばかりであったことでした。そしてもう一つは、それなのに彼らは、大勢の人々の前で一斉に異なった言葉の人々に理解できるように神の偉大な御業を語り出したことでした。ある者はラテン語を、ある者はギリシャ語を、他の者はアラビア語を話したと思われます。これこそ神の素晴らしい奇跡の御業ではなかったでしょうか。

わたしたちは、昨年、カンボジア伝道に召命を受けておられる今村宣教師ご夫妻をお招きして礼拝を守り、宣教活動を伺いましたが、やはり伝道をするために第一に取り組むことはその地方の人々の言語を学ぶことなのだと教えられ、感銘を新たにしました。明治の初めに日本に宣教した人々の傾けた努力もどんなであったことかと思います。しかし、改めて思いますことは、それは人々の努力によらず、聖霊の力強い助けによって遂げられたことです。聖霊は、主イエスの上には鳩のように降ってくださったと言われます。その姿はキリストの執り成しの職務を表すものであったでしょう。キリストはわたしたちの平和であります。キリストによって一つとされるところにこそ、平和が打ち建てられるのです。

わたしたちの努力では到底成し遂げられない、気の遠くなるような働きを、主は成し遂げてくださったのですから、わたしたちの努力すべきことはただ一つだけです。それは、キリストの執り成しに頼り、キリストに結ばれて平和を求めることです。家庭で。またそれぞれのいるところで。それぞれが与えられているこの地上の持ち場で。しっかりと主に結ばれて生きましょう。わたしたちの上に聖霊の助けを待ち望みましょう。炎のような舌に表される聖霊は、主の愛の炎です。わたしたちの汚れを清め、救いの福音を、神の賛美をこの唇に与えてくださる主の霊を待ち望みましょう。

ヨエル書は、打ちのめされた人々に神の救いを語ります。この救いは食い尽くすいなごからの解放。命を支える食糧をたちまち食い尽くすイナゴの大襲来からの解放に匹敵する救いなのです。この救いをあなたがたの子孫に語り伝えよとヨエルは叫びます。そのように、わたしたちにも主は命じておられるのではありませんか。神が主イエスの生涯と死と復活を通してなしとげてくださった神の力強い御業を彼らに語りなさい、と。

 

主なる父なる神様

聖霊降臨日の礼拝、あなたの尊き御業が成し遂げられたことを感謝します。わたしたちは、2000年前、主に従う民にあなたは主の霊をお遣わしくださいました。弱い者も力ない者も共に主の体の教会の肢とされ、あなたの霊で燃え立たせていただいたことを感謝します。多くの者にどのようにして救いの恵みを宣べ伝えることができるのか、それぞれの時代、それぞれの地方で、困難がございました。今、わたしたちに与えられている課題は少子高齢化の社会の課題です。しかし、あなたはいつでもどこでもあなたに信頼し、従う教会を助けてくださいました。わたしたちは自分の力を頼らず、あなたの恵みにより頼みます。どうぞ、わたしたちを用いて力強い御業を行ってください。この教会に新しい教師を遣わしてくださることを信じます。わたしたちに善き備えをする知恵をお与えください。

また、本日行われます東日本連合長老会教会会議の上に御心を行ってください。

この教会を今日まで守り導きくださったあなたの慈しみに感謝します。本当に小さな信仰しかない者をも憐れみ助けてくださいました。わたしたちは将来を見通すことはできませんが、これまでの歩みを振り返る時、たくさんの慎ましく美しい証しを残してくださった兄弟姉妹がいることを誇りに思います。あなたの恵みの足跡です。先週も江村姉の最愛のご家族が地上の生涯を終え、安らかな眠りについたことを伺いました。どうかご遺族の上に豊かな慰めと平安をお与えください。また今週26日に行われます焦 凝兄の結婚式に主の豊かな祝福を注いでください。あなたの恵みによってご家庭が導かれますように。

2018年5月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

勝田令子先生のお話

(これは今年121日の礼拝で話されたものです。)

聖書:フィリピの信徒への手紙268

「僕(しもべ)となった神の子」

勝田令子

今日は年が明けて三回目の日曜日です。昨年12月24日、クリスマスのお祝いをしましたね。クリスマスって、どうしてお祝いをするのでしょう?それは、イエス様がマリア様よりお生まれになった日だからです。神様のお子様であるイエス様が、私たち人間と同じ人間になってくださったのです。先程お読みいただいたフィリピの信徒への手紙6節、7節で「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わずに、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ」とあります。

固執って、どういう意味ですか?辞書には、「こだわること」と書かれています。イエス様は、神様であられる方、永遠の神でいらっしゃるお方なのに、それにこだわらず、ご自分を無にして、人間と同じ者になられたのです。僕(しもべ)の身分になる…とありますが、僕(しもべ)というのは使用人、この時代の奴隷のことです。神様の御子が人となられた。それも、王様や貴族ではなく、僕(しもべ)、奴隷となられた。奴隷は、主人の言うことを聞いて、主人の言うままに働きます。キリストは、父なる神の僕(しもべ)となり、父なる神の御心(みこころ)に従われたのです。

この手紙は、パウロが牢獄の中で書きました。フィリピの人々は教会の中で利己心や虚栄心から争いばかりしていました。その様子に心を痛めたパウロは「何ごとも、利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と書いています。

私たちは、自分のことが一番大事です。弟や妹から馬鹿にされたようなことを言われると、腹が立ちますね。私には、姉が一人と 妹たちが四人います。この妹たちに見下されたことを言われると腹が立ちます。だから、馬鹿にされることの無いよう努力します。自分が大事だからです。

でも、イエス様は、神の御子でいらっしゃりながら、そのご自分にこだわることをせず、ご自分を捨てて天から下り、私たちと同じ人間になられました。そして、イエス様は、神様の僕(しもべ)として神様のおっしゃることを何でも聞き、8節には、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と書かれています。

イエス様は、十字架で苦しんで死ぬということまで、神様の御心を受け入れました。それ

は、何のためだったのでしょう?それは、自分にばかりこだわって、神様を大切にすることができなくなってしまっている私たちを救うためでした。私たちの罪を助けるためにご自分の生命をさし出してくださったのです。十字架で死なれたイエスさまは、お墓に入れられ、死者の国に下り、三日目に復活されました。死の力に勝利なされたのです。

イエス様は私たちに永遠の生命を与えてくださる方、主でいらっしゃいます。どんな時もイエス様を信じて、教会のみんなと仲良くしていきましょうね。

5月の御言葉

「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」

創世記1章3節~4節

5月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

5月6日(日)  ルカ4:16-21       お話の担当…  並木せつ子

13日(日) 創世記1:1-31               並木せつ子

20日(日) 使徒言行録2:1-13          勝田令子

27日(日) イザヤ5:1-4             興津晴枝


成宗教会学校からお知らせ

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

(新約聖書、コロサイ人への手紙2章3節)

  • キリスト教の三大祭りはクリスマスとイースターとペンテコステですが、今年は5月20日がペンテコステ(聖霊降臨日)の日に当たります。十字架に死なれたイエス様は復活し、弟子たちに御自分が生きておられることをお知らせくださいました。それから40日後に天に昇られ、地上の教会に聖霊を送ってくださいました。イエス様が約束された神の霊の助けが地上に与えられた記念の日がペンテコステ(聖霊降臨日)です。イエス様は昔も今も、そしてこれからも、生きておられます!
  • 聖霊の神様の助けによって全世界に教会が建てられました。教会は神様の見えない恵みを、確かな宝物として皆さんにお分けしたいと思います。それはイエス様の福音(良い知らせ)という宝です。世界中の教会に与えられているこの宝を、皆さんも心に受けて、新しい一歩を元気に踏み出すことができますようにお祈りします。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。

我らを兄弟と呼ぶために

イザヤ7章10-14節, ヘブライ人への手紙2章10-18節

昨日は子供の日でしたので、ある俳優の方が、子どもたちを祝福するメッセージをラジオで語っていました。子どもたちよ、失敗を恐れず、勇敢に生きなさいと。そして私も85歳だが、もう少し頑張って楽しく仕事に打ち込み、それからあの世とやらに行くつもりだと。この方は一人の人間として、高齢者として、誠実に精いっぱい愛情を込めて語っていることだと感じました。しかし人が人に語ることとしては、これ以上のことは言えないと思います。

わたしたちは2018年度の教会標語を掲げました。それは週報の表紙に書かれています。(エフェソの信徒への手紙第3章18-19節)「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

キリストの愛とは、キリストの内に表された神の愛を指しています。それはわたしたちの生きる土台となるものです。私たちの信仰の学びは「神とはどなたであるか?」を知ることから始まりました。この学びを続けることは、人の言葉ではなく、神の言葉を求めることです。人の励ましではなく、神の励ましを受けることによって、わたしたちは、これからあの世とやらに至る道ではなく、救いに至る道をしっかりと歩むことができるのです。

そこで、本日の使徒信条の学びは、使徒信条に「主は聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれ」と告白されていることについてです。これはどういうことでしょうか。答は、結論から言えば、イエスさまが、罪を別にすればわたしたちと同じ人間になってくださったということです。ここにこそ、神の愛が真っ先に人間に向けられていることが表されているのです。神は御自分に似せて人間を創造されました。ところが人は罪の支配を受けて以来、死を恐れるようになりました。アダムとエヴァは神との約束を破って、食べてはならないと言われた木の実を食べました。するとその直後、二人が取った行動は神の前にありのままの自分の姿を見せることではなく、神から自分の身を隠すことだったのです。

こうして人間は、光の源である神から身を隠すようになって以来、闇に支配されることになりました。闇を恐れ、死を恐れながら、しかし神に立ち帰ることができないのです。では、これに対して、神はどうされたでしょうか。神は人間の創造者であります。人間を造り人間に目標を与えられました。その目標とは、神の交わりに生きることです。神は、罪のためにその目標を失っている人間を御覧になりました。そこで悲惨な人間のために行動し給うたのです。それはまさに神にふさわしいことでありました。

今日のヘブライ人への手紙2章10節。「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。」ここで、「彼らの救いの創始者」と言われるのは、イエス・キリストその方です。創始者というより、救いに導く方という方がふさわしいと思います。わたしたち人間を神の子とするために、神の独り子をお遣わしになるほど、神は世を愛されたことを、わたしたちは繰り返し思うのです。神の御子である救い主も(11節には人を聖なる者とする方)、また私たち救われる者(聖なる者とされる人たちと言われています)も、その源は一つ、キリストは神から出た方であり、私たちは神に造られたものだからです。

神は人間を(しかも罪のために悲惨な状態に陥っている人間を)どんなに愛しておられることでしょうか。それで、御子であるイエスさまは、わたしたちを兄弟と呼ぶことを恥ずかしいと思われないのです。よく子供たちがいたずらをしたり、悪いことをすると、親は叱って、「こんな子はうちの子じゃない!」と言います。そりゃ、親にして見たら恥ずかしいと思うことがあるのです。しかし、神様はどうでしょう。恥ずかしいようなことをしでかす人間を、何とか救おうとなさるのであります。

それでイエスさまも、恥さらしのとんでもない人間を兄弟姉妹と呼ぶことを厭わないで、12節。「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言い、また、「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。12節の引用は詩編22篇23節です。この詩人は、人から虫けらのように言われ、人間の屑と蔑まれるわたしを、主は救ってくださったと証ししています。だから私はこのことを兄弟たちに証ししたい。それはそれを知って、多くの人々が救われるようにと願うからです。

また13節後半には、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」が引用されています。ヘブライ人への手紙の著者は、これをキリストの言葉として私たちに聞かせているのです。ヨハネ福音書10章11節(186頁)に、主イエスは言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われた主の御言葉を思い出します。

そこで主イエスは、私たちを救いに招き、兄弟姉妹と呼ぶために、何をしてくださったでしょうか。私たちに目に見える姿で現れ、私たちの耳が聞くことのできる言葉を語るために、主はどうなさったでしょうか。主は謙って、私たちの世界に現れてくださいました。すなわち、主は血と肉を備えられたのです。血と肉とは地上の命のことです。血と肉とは、やがては死すべき人間を表します。私たちは皆、地上に血と肉をもって生きているので、私たちを救おうとなさるお方もまた、御自身に血と肉を備えられました。

今日の旧約聖書イザヤ7章11節「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」インマヌエル、すなわち、「神、我らと共にいまし給う」です。イザヤ書に登場するユダ王国の王アハズとその国民はイスラエル王国の滅亡の危機、大国アッシリアの攻撃の脅威にさらされ、風に震える木の葉のように動揺していたと言われます。その時、預言者イザヤは「主の救いを信じなさい」とアハズ王を励ましたのです。

ここに鋭く問われているのは、王と民の信仰であり、またわたしたち教会の民の信仰なのです。神に対して自己を完全に委ねること。そうすれば、どんな危機に直面したとしても、わたしたちは神の真実に堅く信頼して立つことができるのです。しかし、もし王にこのように委ね切ることがなく、かえって神が在さないかのように恐れおののくなら、王も民もその安全は確かに脅かされるだろうとイザヤは警告します。イスラエルの民は信仰においてのみ成り立っているからです。なぜなら、イスラエルは神の選びによって生まれたのでありますから、神に全面的に信頼している限りにおいてのみ、存続するのです。だから、もし信じることができなければ、イスラエルの王も貴族も神の民も消滅するでしょう。

イスラエルの不信仰。すなわち神に招かれ、その民とされながら、神に信頼し委ね切ることができない。そのイスラエルのために、イザヤは預言しました「主御自ら、あなたたちにしるしを与えられる」と。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と。こうして、神の御子、すべてを超越した存在であるイエスさまが、地上に生まれられました。このことによって、主はすべての人間と共通する存在であることを、御自分に受け入れたのであります。14節~15節を読みます。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらの者を備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」イエス・キリストは肉を裂き、血を流して我らの贖いとなってくださったことを思います。すなわち、わたしたちを死から解放するためにご自分を犠牲として捧げ、罪を断罪してくださいました。この目的のためにも、主は肉体を取ってくださったのです。

そして、わたしたちに、信じたくても信じることができず、信じ続けることがなお難しい人間のために、目に見える存在として、耳で聞くことのできる存在として、また不信仰なトマスと同じく、触ってみなければ信じない人間のためにも、地上にただ一度いらしてくださって、神の愛がどのようなものであるかを明らかにしてくださいました。この目的のためにも、救い主は限りある血と肉とを人間となってくださいました。

人々は神を知ることを真剣に求めない人でも、天使や悪魔に興味のある人は多いと思います。姿形まで想像して絵や彫像を造ったりします。彼らが霊的存在であることも興味が惹かれる理由の一つであると思います。お化け、幽霊とか、ハリーポッターなどの世界に登場する霊が好まれるところを見ると、どうも変幻自在であるとか、神出鬼没という存在が人間の憧れなのかもしれません。しかし、神の愛は人間に注がれている、ということを、最もユニークに表現しているのは、ヘブライ人への手紙ではないかと私は思います。16節に「確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫たちを助けられるのです。」とあるからです。

神は、限りある肉体をもって、地上に限定されて生きている人間を愛しておられます。ちょうど、植物が雨が降っても雨宿りもできず、日照りの時も川に移動することもできずに、一つところに根を下ろしたら、その場でいつの日にも一生懸命生きていくより他はないように、神は、私たちが日々の困難に耐えて精一杯生きてこそ、美しいと見給うのではないでしょうか。その所で、その時において、造り主を見上げ、その愛が造られた者に注がれていることを信じ、この神を私たちに教えてくださった救い主をほめたたえる命を今日も生きたいと願います。

植物の例えを出しましたが、私たちは空の鳥、野の花より価値あるものであると教えてくださったのも、また救い主イエス・キリストであります。私たちは神の形に造られた者。空の鳥、野の花を手本に生きるのではありません。それを造られ、守られる恵み深い神に立ち帰り、神をほめたたえるために、私たちは罪の赦しに結ばれなければならないのです。自然にそれができたのでは決してない。神を離れ、さ迷い出て苦しむ私たちのために、私たちと神との間に立ってくださり、壊れた関係を回復してくださるために、神の御前において憐れみ深い大祭司となってくださいました。憐れみ深い神の御心を表してくださいました。同時に忠実な大祭司となってくださいました。それは、神に対して忠実な人間の本当の姿を表してくださったということなのです。

御自身は神に忠実であり、神に全く背いておられないのに、試練を受けて苦しまれたのは、神に背いて試練を受けていた人たちを助けるためでした。これほどの愛をいただいているのは、天使ではないのです。限りある私たちなのです。この喜ばしい言葉を、神の恵みの言葉として聞きましょう。目に見える私たちは小さな群れ、しかし、主はこの群れを愛して、その証しを沢山残してくださいました。見ようと願うなら見ることができます。聞こうと願うなら聞くことができます。礼拝の民として、とどまることを願うなら、あなたがた自身、主の愛が注がれた者としての生涯を証しすることになるでしょう。

主がそのことを喜び助けられるからです。祈ります。

 

御在天の父なる神様

尊き救いの御名をほめたたえます。あなたは罪ある者の罪を憎み、それを決して見逃されない方です。しかしあなたは罪ある者を憐れみ、イエス・キリストにおいて、その愛の広さ、高さ、長さ、深さを表してくださいました。どうか、私たち地上の生涯の間に、その愛を少しでも多く知ることができ、知って喜び、感謝し、讃美礼拝の中に、あなたの御許に召される日まで、歩ませてください。

あなたの御心はまた、御子によって示された計り知れない愛を、地上に在って、主の兄弟姉妹とされた教会の方々と、共に分かち合うことにあると知りました。どうか、あなたの御心を全く知らずに、または信じられず、主にゆだねることができずに、不安の日々を生きている多くの人々に、主と共に生きる幸いを知らせてください。主が聖霊を送って共におらせてくださることを切に願います。20日にはペンテコステ礼拝を守ります。どうか私たちを清めて、聖霊の住み給うにふさわしいものとしてください。

多くの方々が高齢になっております。それぞれのご家庭をあなたの恵みの御支配のある所としてください。平安と必要な助けが日々与えられますように。また同様に、独り暮らしの方、ご病気の方、どうぞあなたのお守りと顧みが豊かにございますように。来週は墓前礼拝を予定しております。どうか、このために出かける旅路をあなたの恵みのうちにお守りください。感謝の礼拝を捧げることができますように。

本日は、長老会議が開かれます。どうぞ、来年度の主任担任教師の交代に向けて長老会を導いてください。すべての教会員が心を一つにして備えることができますように。また、教師ばかりでなく、長老、信徒についても新しい奉仕者が与えられますように切に祈ります。また、東日本連合長老会の交わり、その働きがあなたの御心にかなったものとなり、共に主の体の教会を建てて行くために、諸教会と心を合わせて進むことができますように、助け導いてください。善き働きのために奉仕する諸教会の教師、長老、信徒の皆様のご健康が祝されますように祈ります。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。