言(ことば)は神であった

クリスマスイヴ礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌98番
讃美歌121番
讃美歌109番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 9章1-5節 (旧約聖書1,074ページ)

9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
9:2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。
9:3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

新約聖書:ヨハネによる福音書 1章1-14節 (新約聖書163ページ)

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

《説教》『言(ことば)は神であった』

このヨハネによる福音書1章1節にある「初めに言があった」とは謎のような分かり難い言葉です。まず漢字で「言」と書いて、これを「ことば」と読みます。この読み方も初めから、この福音書を分かり難くしている理由かも知れません。そんな多くの謎も、先へ読み進んでいくと少しずつ解きほぐされ、語られていることが分かってきます。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」、これは、何のことを言っているのか、14節を読むとはっきりします。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。ここで「肉となって」とあるのは「肉なる人」つまり「人となって」という意味です。神と共にあり、それ自身が神である、初めにあった言、その言が肉となって私たちの間に宿られた。それは、まさに神の独り子イエス・キリストのことです。その栄光が父なる神の独り子としての栄光だったと言われていることからもそれが分かります。初めにあった言とは、神の独り子であられる主イエス・キリストのことなのです。神の子である主イエスが、全てのものの初めに、父である神と共におられたと語っているのです。2節にはもう一度、「この言は、初めに神と共にあった」と繰り返されています。そして3節には、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とあります。父なる神と共におられた独り子主イエス、「言」であるその方によって、この世の全てのものは成ったのです。「成った」とは「創造された」ということです。父なる神と共におられ、ご自身も神であられる独り子主イエスによって、この世の全てのものは造られた、主イエスは、全てのものをお造りになった創造者なる神である、ということをこの福音書ははっきりと語っているのです。

それは、天地をお造りになったのは父なる神ではなくて主イエスだ、ということではありません。天地を創造なさったのは父なる神です。後に肉となって私たちの間に宿って下さり、人間となって、この世界に来て下さった主イエスは、世の初めから、父である神と共におられ、ご自身もまことの神として天地創造のみ業に関わっておられた、それが、この福音書が宣べ伝えようとしていることなのです。

1節、2節で使われている「初めに」という言葉は、旧約聖書の創世記第1章1節の「初めに神は天地を創造された」と連動しているのです。神による天地創造こそが、聖書が語るこの世界の「初め」なのです。

「言」による天地創造とは、天地創造においても、神の独り子である主イエス・キリストが神と共にあって、私たちに語りかけてくださっておられるということです。言葉というのは必ず語りかける相手があるものです。天地創造における神の言葉は、虚しい空間に向かって語られたのではありません。神は言葉によって天地をお造りになり、私たち人間が生きることのできる場としてこの世界をお造りになったのです。そして神は言葉によって私たち人間を造り、命を与えて下さり、私たちを、神の言葉を聞き、それに応答して生きるもの、人間として、神と交わりをもって生きる存在として下さったのです。

主イエスこそ、初めにあった「言」であり、その「言」によって全てのものは造られた。この言こそ命であり、光である。その光が世に来て、全ての人を照らして下さる光、救い主となって下さる。それが主イエス・キリストであると、ヨハネ福音書は語っています。

しかしそれは、誰が読んでも「その通りである」と理解でき、納得できるものではありません。そのことを信じるのか、信じないかの決断が私たちに求められているのです。主イエス・キリストのご生涯とは、まさにそのような歩みだったということが、10節以下で語られています。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。「言」は主イエス・キリストという一人の人となって、私たちのこの世界に来て下さいました。主イエスは、ご自分が創造し、命を与えたご自分の民のところに来られたのです。しかし人々は、その主イエスを認めず、受け入れなかった、主イエスを拒み、十字架につけて殺してしまったのです。この世の人々は、主イエスがまことの神であり救い主であることが分からなかったのです。

12節に、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります。主イエスを受け入れ、そのみ名を信じる者に、主イエスは「神の子となる資格」を与えて下さるのです。ここで「資格」と訳されていますが、これは私たちが試験を受けて取るような資格とは全く違います。資格と訳されている言葉は「権威」という意味です。「権威」は、獲得するものではなくて与えられ、認められるものです。神の子となることも、私たちが自分の力でその資格を得るのではありません。神が子として認め、受け入れて下さるという恵みによって与えられるのです。生まれつきの私たちは、この世界と私たちを造り、生かして下さっている神に逆らい、神を神として認めずに拒んでいる罪人であって、神の子となることなど到底出来ない者です。神はその私たちをご自分の子としようとして、神はその独り子である主イエス・キリストを人間としてこの世に遣わし、その十字架の死によって私たちの罪を赦して下さいました。神が遣わして下さったこのただ一人のまことの神の子主イエス・キリストを救い主と信じて受け入れ、主イエスと共に生きるなら、神はその人をご自分の子として受け入れて下さるのです。それは13節に語られている、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」ということが実現することです。主イエス・キリストを自分の救い主と信じるなら、神は私たちをご自分の子として生まれ変わらせて下さるのです。

神の「言」としての主イエスのご生涯を語っているのがこのヨハネ福音書です。主イエスのご生涯全体が、神の言、神から私たちへの恵みの言葉の語りかけなのです。3章16節に、この福音書を凝縮したような言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。主イエスという「言」が私たちに語りかけているのはこの神の愛です。主イエスは、その愛のみ心を実現するために、神に背き逆らい、み言葉に応答しない私たち罪ある人間のところに来て共に生きて下さいました。そして、私たちの身代わりとなって、私たち罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。父なる神はその主イエスを復活させて下さいました。主イエスの復活によって、神の恵みのみ心が、人間の罪と死とに勝利したのです。私たちも今、神の「言」であられる主イエスとの出会いを与えられています。そして復活して今も生きて働いておられる主イエスが私たちに呼びかけておられるのです。その主イエスの呼びかけに私たちが応え、主イエスは神の子メシアであると信じて告白する時、神は私たちを神の国の愛と平安の中に入れてくださるのです。

お一人でも多くの方が、このキリストの愛、キリストの救いへと導きいれられますよう、主イエス・キリストの愛と恵みに溢れた呼びかけに感謝して、お祈りを致します。 皆様、お祈りの姿勢をお取りください。

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イエス様の誕生

主日CS合同クリスマス礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌94番
讃美歌108番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 9章5節 (旧約聖書1,074ページ)

9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

新約聖書:ルカによる福音書 2章1-7節 (新約聖書102ページ)

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

《説教》『イエス様の誕生』

主イエスの誕生を語るこの箇所は、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」という書き出しで始まっています。皇帝アウグストゥスとは、ローマ帝国の最初の皇帝です。彼の時代から、ローマは共和国から皇帝の治める帝国になったのです。彼はオクタヴィアヌスという名前でしたが、紀元前44年に暗殺されたユリウス・カエサルの養子、後継者となり、カエサル亡き後の長い内戦に終止符を打ち、勝利者となりました。ローマの元老院は紀元前27年に彼に「アウグストゥス」という尊称を贈りました。権限を得た彼は次第に帝政を敷き、ローマは共和国から皇帝の治める帝国となったのです。このおよそ百年後にルカはこの福音書を書いたのです。

さてこの皇帝アウグストゥスが、「全領土の住民に、登録をせよとの勅令」を出したとあります。これは、人口調査のための住民登録です。人口調査はそれぞれの地域に住む人々の数や経済状態、生活の様子を調べることによって政策決定の基礎データを収集するために行われました。アウグストゥスはその治世の間に三度この調査を行いました。ルカが福音書を書いたこの時、ユダヤはヘロデが王である王国でした。形は独立国家の王国でしたが、ユダヤは既に事実上ローマの支配下にあり、ローマ帝国の住民登録の対象になっていたのです。1節には、この住民登録が「キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の」ものだったとあります。このキリニウスとは、長くローマ帝国シリア州の総督を務めた人です。ただし、主イエスがお生まれになった時の住民登録が、キリニウスがシリア州の総督であったということについては、歴史的に疑問がある様です。さらに、3節の「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」ということも疑問です。果して当時の住民登録がここに語られているように、おのおのが先祖の町、いわば本籍地に行って登録するという仕方で行われたのかどうかはかなり疑問です。父のヨセフもそうであったように、本籍地を離れて暮らしていた人も多かった筈です。それらの人々がいっせいに本籍地に戻って登録をするなどというのは現実離れしているように思われます。むしろ、私たちの現在の国勢調査がそうであるように、今住んでいる所で登録をした方が現状が把握できてよい筈です。ですから、このような方法での住民登録が本当に行われたのかどうかは、かなり疑問があるのです。

ローマ皇帝アウグストゥスについて、そして主イエスがお生まれになった時のユダヤの状況について見てきましたが、それでは、本日のこの主イエス誕生の物語でルカは何を語ろうとしているのでしょうか。

当時の人々にとって、ローマ帝国こそが様々な民族を包み込むすべての世界でした。ローマ帝国が全世界であり、その外のことは人々に知られていなかったのです。ですから、ローマ皇帝は全世界の支配者だったのです。そのローマ皇帝の支配下でヨセフとマリアが旅をして、その旅先で主イエスがお生まれになったと語ることによって、主イエスの誕生が、この世界全体の政治的、経済的、軍事的な動き、支配と深く結びついた出来事であることを語ろうとしているのです。

しかしそれは主イエスもこれらの政治的支配に従属している、ということではありません。ルカは第1章で、生まれてくる主イエスが、いと高き方である神の子であり、神の民の王ダビデの王座を受け継ぎ、神様の救いにあずかる民を永遠に支配する方であることを語ってきました。神の子主イエスこそまことの王、支配者であられるのです。ですからルカはここで世界の支配者皇帝アウグストゥスの名を挙げることによって、主イエスとアウグストゥスとを並べて、いったいどちらが本当の王、支配者なのか、という問いを読む者に提起しているとも言えます。実際当時のローマ帝国では、アウグストゥスのことを「救い主」と呼び、その誕生日を「福音」救いをもたらす良い知らせとして祝うということがなされていたようです。ルカはそのような中で、本当の救い主は誰なのか、本当の良い知らせとは何なのか、誰の誕生をこそ本当に福音として喜ぶべきなのか、ということを問いかけているのです。

加えてルカが、歴史的事実とは必ずしも一致しなくても、この住民登録の物語によって主イエスの誕生を語っているのは、主イエスがベツレヘムでお生まれになることが実現したことを語るためです。ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフとマリアがベツレヘムで出産をする必然性など少しもないのです。しかし皇帝アウグストゥスのあの勅令のために、彼らは身重の体でベツレヘムまで旅をすることになり、そしてベツレヘムで主イエスが生まれたのです。では、ベツレヘムで生まれるということにどういう意味があるのでしょうか。そのことが4節に語られています。ヨセフはダビデの家に属し、その血筋だった。ユダヤの繁栄の頂点だったダビデ王の子孫だったのです。ベツレヘムはダビデ王の出身地です。そこにヨセフの本籍もあり、彼は身ごもっていたいいなずけのマリアを連れて、そこへ登録に行ったのです。それによって、旧約聖書ミカ書5章1節の預言が成就したのです。そこにこうあります。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」。神様の民イスラエルを治める者、本当の支配者であり救い主である方が、ベツレヘムで、ダビデの子孫から生まれるという預言です。また本日読まれましたイザヤ書9章5節には「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる」とあります。主イエスがベツレヘムでお生まれになったことによって、ダビデ王に優る統治者、いや、ローマ皇帝をも凌ぐ「救い主」が生まれるという、これらの預言が実現したのです。主イエスがベツレヘムでお生まれになったのは、主なる神様が前もって計画し、旧約聖書で告げておられたご計画の成就、み心の実現だったのです。皇帝アウグストゥスの勅令は、主なる神様の救いのご計画、み業の中にあり、ベツレへムでの救い主の誕生という預言の成就のために用いられたのです。主なる神様こそ、皇帝をも用いて私たちの救いのためのみ心を実現して下さる本当の支配者なのです。ルカが主イエスの誕生をこのように描いたのは、そのことを語るためであり、私たちがこの箇所から聞き取るべき最も大事なこともこのことなのです。

世界の歴史を本当に支配し、導き、用いておられたのは主なる神様です。神様はこの不安や悲しみに満ちた現実のこの世界の中に御子を誕生させ、飼い葉桶の中に寝かせて下さいました。この飼い葉桶は、御子イエスが歩まれるご生涯を、とりわけ私たちを救うための十字架の贖いの死を暗示しています。神様は主イエスの苦しみと十字架の死とによって私たちのための救いのみ業を成し遂げて下さり、復活によって私たちにも、死に勝利する新しい命の約束を与えて下さったのです。

今日のクリスマスに生まれて来られた御子、主イエス・キリストこそが私たちの「救い主」「メシア」「キリスト」です。お祈りを致します。

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イエス様が生れる約束

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌2番
讃美歌142番
讃美歌320番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 9章1-6節 (旧約聖書1,073ページ)

8:23 先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
9:2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。
9:3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。
9:6 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

《説教》『イエス様が生れる約束』

今日から教会は、イエス様がお生まれになったクリスマスを待ち望むアドベント、漢字で降るのを待つと書く「待降節」を迎えます。私たちが待ち望むクリスマス、イエス様が2000年前に、お生まれになったことは誰でも知っています。

そのイエス様がお生まれになった更にずっと昔に、そのイエス様がお生まれになることが旧約聖書に書かれているのです。今日の旧約聖書イザヤ書9章1~6節は、同じイザヤ書11章1~5節と共に「メシア預言」と呼ばれ、ダビデの家系に王様が誕生し、イスラエルの民を救うことを預言していました。

5節に「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱(とな)えられる」とあります。誕生する子供が王様となって、神様に導かれてイスラエルの民を救う計画を成し遂げ、その支配は、神様の代わりとして、公平さをもって永遠に治め、平和を実現すると書かれているのです。

このイザヤ書を残したイザヤは、イエス様がお生まれになる700年ほど昔にイスラエルで活躍した預言者です。このイザヤの時代のイスラエルの民は、とっても苦しくてつらい日々を過ごしていました。ダビデ王がイスラエル王国の王様のときには繁栄していたイスラエルも、北と南に分裂してしまい、そして、ついにシリア・エフライム戦争が起こってしまい北イスラエル王国はアッシリアに攻められ、紀元前722年に首都のサマリアが陥落し滅びてしまいます。何とか耐え忍んだ南王国も、再びアッシリアなど強い国がいつ攻め込んでくるか分からないという不安の中にありました。南王国も、そのアッシリアの属国として重税など大きな負担を払わなければなりませんでした。そのような大変苦しい現実を生きていたイスラエルの民に、預言者イザヤは「ひとりの男の赤ちゃんが生まれる」と告げたのです。その生まれてくる男の子は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」という名前で呼ばれる、と言われたのです。神様から特別な力を与えられている男の子は、神様の導きによってご自分の計画を成し遂げ、地上で神様のみ旨を行い、イスラエルを永遠に支配し、平和を実現する方です。「ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない」とも言われています。生まれてくる男の子は、王となってイスラエル王国をもう一度強くしてくれると期待されていました。ところが、北の王国だけでなく南の王国も紀元前587年には滅ぼされてしまいます。でも、国が滅んでしまったイスラエルの民は、このイザヤの預言がいつか来てくださる救い主・メシアのことを告げていると信じて期待するようになりました。

 

このイザヤ書では、真の希望とは何か。それは神様が預言者イザヤを通して、大国アッシリヤの勢力の圧迫下に心を惑わし、悩み苦しむご自身の民イスラエルと、イスラエルの王アハズと、後に続くすべての者に対して神様の啓示として、素晴らしい光である救い主・メシヤが来られることを「永遠の希望」として告げているのでした。歴史を造られ支配される神様の預言であれば、数年後の未来に実現することも、何百年もの幾世紀も先に実現することも同じであり、その神様の代弁者・預言者であるイザヤはただ示されるままに神様の啓示の伝達者としての役割を果したのでした。

ユダヤの民にとって大変暗い状況の中で、神の恵みの光が、民を救うために救い主・メシアとして、この世に来られることを、美しい詩を用いた文章の形でイザヤは預言しているのです。

神様が心を痛められたのは、神の民であるイスラエルが高慢になって、自分たちの力を信じて、神様に信頼することがなくなることでした。イザヤは、イスラエルが圧倒的に強力なアッシリヤの軍事力に圧迫されても、自分たちは自分たちの力で立ち上がり、守り抜けるのだ、とイスラエルが高ぶることをまず指摘したのです。このすぐ後の9節に「れんがが崩れるなら、切り石で家を築き 桑の木が倒されるなら、杉を代わりにしよう。」とあるように、れんがが駄目になったらもっと高価な切り石で、桑の木が駄目になったらもっと高価な杉の木で、という具合に自分たちは向上するのだと豪語し、北イスラエルは高慢になっていると厳しく責められます。万能なる神様はイスラエルの周囲の異邦の国々を用いて、そのような高慢で、神様を信頼しあがめることをしないご自身の民を打たれるのだ、とイザヤは告げるのです。神様は、それでもなお謙虚にへりくだらない高慢なイスラエルの民に対して厳しく迫られますが、民は神様の警告に耳を貸しません。そのような彼らをさばくために、この後更に、神様は指導者たちに混乱をもたらされますが、それでもなお謙虚にならないイスラエルの民に対する神様の審判は激しく広がるのです。

6節には「ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」と言われています。国家の滅亡を経験したイスラエルの民は、イザヤが、来るべき救い主の王なるメシアについて預言していることを信じるようになりました。

救い主・メシアが到来すれば、闇の中を歩んでいるイスラエルの民に光が差し込みます。1節の「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と言われているようになります。死を身近に感じて生きていたイスラエルの人々は、まさに「闇の中」を歩んでいました。イザヤは、そのような人たちが「大いなる光」を見るときが来る、彼らの上に「光が輝く」ときが来る、と告げたのです。

 

2節では、そのとき神様が「深い喜び」と「大きな楽しみ」を与えてくださり、人々が、収穫と戦利品の分配を祝うように、神様の前に喜び祝うことが語られています。現代を生きる私たちにとって、収穫の喜びはあまり実感のないものになっています。豊かな時代になったからだけでなく、収穫を目の当たりにし、その喜びを経験することがなくなったからかもしれません。しかし、当時の収穫は、窮乏の終わりを意味しました。もはや飢えに苦しむことも怯えることもないのです。

3節には「奴隷の軛が壊され」ること、4節には「戦いの武器が取り除かれ」ることが告げられています。奴隷の軛は、アッシリアが属国としたイスラエルの民に与えた課税などの大きな負担を示しています。また「地を踏み鳴らした兵士の靴」や「血にまみれた軍服」は、イスラエルの地で行われた戦争の現実を突きつけています。メシアの到来によって、そのような支配と戦争から解放されることが告げられているのです。

イスラエルの民はイザヤの預言が実現するのをずっと待っていました。それはいつ実現したのでしょうか。イエス様がこの世界に来てくださった時です。イエス様がこの世界に来てくださり、十字架で死んで復活してくださったことによって救いが実現しました。イエス様こそが、イザヤが預言した救い主・メシアなのです。

私たちもまた、自分が闇の中を歩んでいるように、死の陰の地に住んでいるように感じることがあります。また、この世界は戦争などの闇の中にある国や地域も多くあります。貧困、戦争、差別は、過去のことではなく、現在のこの世界を覆っています。

また、世界が闇に覆われているだけではありません。何よりも私たち白身が闇を抱えています。自分自身の力では取り除くことができない闇です。私たちは自分の闇に自分の力で光を灯すことはできません。イエス様は、そのような私たちの闇の中へ来てくださいます。罪に支配された世界へと来てくださったのです。そしてイエス様の十字架の死と復活によって、イザヤの預言が成就しました。イエス様こそイザヤが預言した救い主・メシアです。イエス様によって神様と私たちの間に平和が打ち立てられました。神の国が到来し、神様の恵みの支配が始まったのです。

 

ところで、最初に、イエス様の到来を待ち望むのがアドヴェントであると申しました。しかしよく考えてみると、イエス様は、2000年前にすでにお生まれになっています。ですから、私たちはイエス様のお誕生を待ち望む必要はありません。私たちが待ち望むのは、イエス様が再び来てくださること「再臨」です。預言者イザヤがメシアの到来を預言してからイエス様がお生まれになるまで700年が過ぎました。私たちが生きている間にイエス様の再臨が実現するかは分かりません。けれども私たちは、イスラエルの民が、メシアが救いに来られるのを待ち望み続けたように、クリスマスにお生まれになり、十字架と復活によって私たちの救いを実現してくださったイエス様が、再び来てくださり救いを完成してくださることを待ち望みつつ、自分に与えられた地上の人生を歩んでいくのです。この人生の歩みにこそ私たちの希望があることを共に分かち合いつつ、アドヴェントを過ごしていきたいと願います。

お祈りを致しましょう。