神の安息にあずかる

聖書:出エジプト記20811節, マタイによる福音書1218

 私たちは代々の教会、全世界の教会が受け継いで来た教会の信仰を学んでいます。それは、使徒信条と 十戒 と主の祈りの中に表されています。今、私たちは十戒の三つの戒めを学びました。第一と第二と第三の戒めに共通していることがあります。それはどれも心の問題、すなわち形に表すことのできない神さまと私たちの間の問題であるということです。第二戒の「あなたはいかなる像も造ってはならない」については、もし人が像を実際に造ったり、拝んだりすれば、確かに形に表れるでしょう。しかし、人があからさまに偶像を拝んでいるという形を取っていない場合でも、人の心に密かに神以外のものにひれ伏しているということはいくらでもあります。そしてそれは外側からは全く見えないのです。

それに対して、本日学ぼうとしている第四戒は、明らかに外側に表れる形を伴っている。第四戒は「安息日をおぼえて、聖としなさい」というものです。安息日は、神さまに捧げる日であります。それは形に表れます。安息日には労働をやめることが求められるからです。自分のためであろうと、家族のためであろうと、または雇われているご主人のためであろうと、一切人に関わる自分の働きをやめることが求められたのです。

それでは、なぜ神さまは安息日を制定されたのでしょうか。それには、三つのことが考えられます。その一つは、神さまが天地創造の業を六日で完成させ第七の日に業を終えて休まれたという聖書の言葉に根拠をもっています。そこで神さまは、第七日目の休みという象徴の下に、イスラエルの人々に霊的な安息を持つことを望み給うたのです。それは、神さまを信じる人々が、神さまが自分たちの中に働いてくださることを信じてお委ねし、自分たちの業をやめることです。自分の仕事、やるべきことは延々と続くと思って休まらない心も魂も、神さまに信頼して、「休みなさい」という命令に従う。イエスさまは教えられました(マルコ4章26-7節、68頁)。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」と。神の国に向かって信仰者を成長させてくださる神さまにお任せして、安息日を守ることが命じられているのです。

安息日の制定について、神さまが求められる第二のことは、その日に人々が集まって律法を学び、儀式を執行することです。少なくとも神さまからいただいた恵みの御業について考えるために、特に捧げる日が定められることです。そして神さまは、人々がこの日を覚えて信仰生活を訓練することを望んでおられるからです。そして安息日の第三の意義は非常に具体的なことです。すなわち、自分の家のために労働する人ばかりでなく、あらゆる人々の支配下にある労働者に休みの日を与えること。たとえば、主人が働き続ければ、その家の者たちも休むことはできません。家畜に至るまで、安息日を守らせることによってすべての者に労働の免除を得させようとし給うたのです。そしてこの律法は、イスラエルの共同体の中に生きる外国人にも全く同じに適用されるように命じられました。

「安息日を守り、聖としなさい」について、以上の三つの意義をお話ししました。これが第四の戒めでありますが、ここで注目すべきは、神さまはこの戒めを他の戒め以上に重要なものとされたことです。それは、聖書の多くの個所で安息日の戒めについて特別に語られていることがあるからです。出エジプト記31章13-14節。「あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、私があなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。」146下。

非常に厳しい掟であることが分かりますが、それは安息日が単に仕事を休み、体を休める。何もしないための日ではないからです。安息日は霊的な休みの日です。それは自分の心身を使っての働きを止めるだけではなく、神さまの御業、そのお働きを瞑想する一日として定められた日なのです。ですからイザヤ書58章13-14節にこう書かれています。「安息日に歩き回ることをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。」1157下。

イスラエルの指導者たちはこれを厳しく守り、人々に守らせました。けれども、「安息日は霊的な休みの日」と教えられても、人間には外側に見えることだけしか見えないし、分からないものです。その結果、戒めを与えられた神さまのお心を思うことに、心を傾けることは次第になおざりにされ、その一方で形式だけが厳しく問われるようになっていったようです。

今日の新約聖書は、マタイ12章1節以下を読んでいただきましたが、ここに登場するファリサイ派の人々は、イエスさまの弟子たちの行為を見とがめました。彼らは、人の外側に見えるものによって、その人の信仰を図ろうとする代表的な人々でした。一方、人の内側にあるものは見えないので、ひたすら外面的な正しさだけを追及するのです。彼らは律法学者と共に第四戒から考えて、安息日にしてはいけないことの規定を具体的に増やして行きました。それは何百年もの間になされて行った律法の体系でした。それを厳格に当てはめて人を裁くのです。12章の記事でも、彼らは、イエスさまの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べるという行為を労働と位置付けました。

マタイ12章2節。「ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをしている』と言った。」このとがめは、実はイエスさまに対する妬みから出たもので、彼らは弟子たちに言いがかりをつけ、何とかしてイエスさまを陥れたかったのです。それに対してイエスさまは、名高いダビデ王の例を挙げることで弟子たちを弁護されました。3節以下。「そこで、イエスは言われた。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者も食べてはならない供えのパンを食べたではないか。』」

それはダビデ王がまだ若く、サウル王の家来であった時のことです。勇敢な武将であった彼は大変な手柄を立て、国民の人気はサウル王を遥かにしのぐ者となりました。しかしそのためにサウル王に妬まれ、命をねらわれる者となったのです。イエスさまが語られた話はダビデ王が逃げる途中の出来事です。神殿には普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えました。それは一般人が食べてはいけないことになっていたのですが、神さまはダビデの必要を認め、罪を問われなかったのです。もしダビデが空腹でパンを必要としていたことで、罪が赦されるならば、同じ理由が他の人々にも適用されなければならない訳です。この違反は、律法には違反していても、神さまに対する敬意について違反しているのでは全くないのです。

更にイエスさまは言われました。5節以下です。「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」ファリサイ派の人々は、ひたすら人の外側に見えるものでその人の信仰深さを図ろうとしました。彼らは第4の戒めを守ることに集中しているようですが、しかし、安息日を与えられた神の御心を思わないのです。このような人々の偽善の罪は真に重いと言わなければなりません。

これに対して、聖書と教会は証ししています。イエス・キリストこそ神の御心であると。イエスさまこそ安息そのものであると証しするのです。ユダヤ人は金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日として守っていました。しかしキリスト教では、主イエス・キリストの復活の日、つまり日曜日を安息日としています。なぜなら、日曜日は神の独り子イエスさまが、十字架にかかり死んで甦ってくださった日だからです。それで教会は日曜日の朝に礼拝を守っています。それは、イエスさまの復活を記念し、日曜日にすべての仕事と業を一度中断して、復活の主イエスさまに心を向けるためです。

イエスさまは言われました。「人の子は安息日の主なのである」と。このことは、イエス・キリストは彼に従う人たちを助けて、安息日を守る必要から免れさせる力をもっておられるということを意味しています。言い換えれば、真の神の子であり、人の子であられるイエスさまは、御自身の権威によって、安息日を解き放つことができると述べておられることになります。

実際考えてみれば分かることですが、もしキリストが来てくださらなければ、ただただ律法に従うことは大変な苦痛と悲惨を伴わずには済まされないでしょう。ただ主イエス・キリストのみが、神の自由の霊をもっておられます。そして、神さまは独り子であられるイエスさまを通して私たちに御自分の「子たる身分」を授ける霊を与えてくださいます。ローマの信徒への手紙8章15節にこのように書かれています。「あなたがたは、人を奴隷にして再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」284下。こうして私たちはイエスさまの執り成しによって自由の霊を与えられ、目に見える形だけの律法から自由になり、神の御心を仰ぎ見る信仰によって第四の戒めを学んでいるのです。

確かに忙しい現代では、たくさんの仕事を中断して礼拝に集まることは容易ではないのです。しかし、神さまが創造の業を完成させ、その働きを中断して安息を取られたことを思い、わたしたちもこの日を礼拝の時としてすべてを捧げるように命じられていることを銘記しましょう。

もし、律法を厳守しなければ救いはないと考えるならば、わたしたちが救われることは大変に厳しいものがあります。しかしそれに対して、神の独り子イエスさまこそ、天地創造の業を終えて安息された神に等しい方ゆえに、そのイエスさまのおられるところに、既に真の安息があると信じる。これが教会の信仰です。安息日。その日は復活の主がわたしたちと共にいてくださる喜びと安らぎがあります。その日には集い、主の言葉を聖書から聴き、感謝と讃美の礼拝を捧げます。キリストが主となられたことの恵みを味わう時。この日が教会の安息日です。天地創造の時、神さまはすべてを造られ、すべてを良しとされました。その時に造られた最初の人間の姿が、聖霊の働きによって回復される日。それが安息日なのです。

私は明日の東日本連合長老会の教会全体修養会で講師の務めをいただいております。この17年間の成宗教会での牧会についてお話するつもりです。多くの方々に是非聞いていただきたいと思うのは、自分の失敗の話やあるいは成功の話をするからではありません。むしろ、この教会の貧しさ、過去の教師の苦難にも拘わらず、教会の過去の方々が皆、一人の御方を指し示すことになったことを語ろうと思います。聖餐を如何に主が授けてご栄光を現わしてくださったか。最も弱くなった人々に主の恵みがいかに現れたかを語ろうと思います。神の恵みは常に下を支えます。本当は上をも支えているのですが、ほとんど目立ちません。それは多くの人々が自分を誇り、自分を高める一方、自分を感謝と讃美する一人の礼拝者として集まることができないからです。

しかし今、ホスピスにおられる姉妹はちがっていました。若い時に多くの働き、多くの活躍をされ、年取ってから教会の中に入られ、それからも教会の外で沢山活躍されました。しかし次第に、礼拝を一生懸命守ることに専心されるようになりました。それは命がけであったと思います。このことを忘れないで主に感謝します。神さまの前に出ること、讃美と感謝に加わること、御言葉をいただくことを生きる務めとし喜びとされた方々を私は忘れません。彼らは神さまのものとされているからこそ、できるからです。主の霊は励ます霊。私たちはこうして励まされて、主の御前に立ち、そしてついには主と共に後の世代を励ます者となりましょう。

最後に、第四戒をもう一度心に刻みましょう。カテキズム問44 第四戒は何ですか。その答は「安息日をおぼえて、これを聖とせよ」です。わたしたちは神さまのものなので、礼拝するための特別な日を大切にしなければならないということです。祈ります。

 

愛と憐れみに富み給う主イエス・キリストの父よ、

尊き御名を讃美します。あなたの戒めを守り得ず、御心に従うことのできない私たちを憐れみ、その罪をイエス・キリストの贖いによって清めてくださいました。こんなにも私たちを愛し、罪人が罪の中にとどまり、闇の中にさまよい滅びに至ることを捨て置くに忍びなかったあなたの御心を思います。どうか背きの罪を赦し、この心を新たに造り変えて主の霊に従う者とならせてください。

成宗教会は高齢化が進んでいる一方、皆力を合わせて、福音の光が輝くように祈り働いております。あなたのお支えを感謝いたします。どうか、10月のバザーの行事を御心に適って御進めください。またあなたは教会学校の働きを祝してくださっていることを感謝します。成宗教会は新しい世代に、福音の恵みが受け継がれるよう祈りながら、次年度新しい主任担任教師が与えられることを待ち望んでいます。どうか連合長老会の中で成宗教会にふさわしい道が開かれますようにお導きください。そして、その備えのために長老会を励まし、また信徒一人一人が祈りをもって備えることができますように。

今、困難の中にある方々、特にお病気の方々を助け導いて、その悩みを聞き上げてください。教会のご家族の中に新しい命が誕生したという、この何よりもうれしい恵みを感謝します。どうかご家族を主イエス・キリストの祝福で満たしてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

あなたの神、主の名を畏れる

聖書:出エジプト記207節, マタイ721-23

 わたしたちは教会に受け継がれて来た信仰を学び、広く世界に伝えたいと願います。わたしたちはそれをカテキズム、信仰問答によって学んでいます。神さまが御自分に従う人々に与えてくださった 十の戒め があります。本日はその第三戒を学びます。その戒めとは、今日読んでいただいた出エジプト記20章の7節の言葉です。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と書かれています。

わたしたちはだれでも、自分の名前が大切ということは感じていますから、もし名前を変なふうに呼ばれたりすると、とても不愉快になります。名前はその人の人格そのものを表しているからです。「あなたの神、主の名」とは神さまのお名前です。それは神さま御自身を表すものです。名前を知られるということは相手に傷つけられるという恐れもありますから、古代の神々と呼ばれるものの中には、名前を隠しているものもあったそうです。しかし、聖書に御自身を表された神さまは御自分の名を明らかにされる方です。なぜでしょうか。神さまがわたしたちに名をお知らせになるのは、わたしたちを神さまとの交わりに招いておられるからなのです。

最初に神さまのお名前を知る。それは神さまとの交わりのために無くてはならないことであります。交わりを持ちたいと思ってくださる神さま。そのために神さまは、わたしたちの知識をはるかに超えた方、この目で見ることも、この耳で聞くことも到底望むことができない方ですが、わたしたちに御自分の名を明かしてくださいました。それはわたしたち人間に対する深い慈しみから出ているというより、他に理由があるでしょうか。それは、人間を救いに入れようという神さまの決断以外の何ものでもありません。

ところが神さまは「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とお命じになっておられます。一方では親しく交わりに招いてくださる神さまは、他方では「主の名をみだりに唱えてはならない」と言われるのです。みだりにとはどういう意味なのでしょうか。「みだり」とは、「筋道が立たない様、秩序のない様」を表します。またそこから「無作法な様子」や「浅はかな様子」を意味するのです。そうなると問題になっているのは、神さまのお名前を唱える回数が多いとか少ないとかではなく、神さまのお名前を唱えるわたしたちの礼儀正しさなのだということになります。

そうしますと、どうでしょうか。普段は神さまのことを忘れてしまっている人々。あるいは無視している人々。さらには、そもそも神さまの存在を否定している人々。この場合は堂々と無神論者と名乗る訳ですが、そういう程度の差はあるけれども、こういう人々は物事が自分にとってうまくいっている時には神さまの名を唱えることはないでしょう。ところが思いがけない窮地に立たされる時、正に困ったときの神頼みのようなことが起こるとしたらどうでしょうか。普段は感謝することも賛美することもしない神さまに、困ったときだけそのお名前を唱えて助けを求める。このことはみだりに唱えることにはならないでしょうか。真に神さまから御覧になれば、失礼千万なことではないでしょうか。

この世界にあるもの、すべてに人間は名を付けました。形ある物にも、人にも、そして出来事にも名を付けました。だから好きなだけその名を呼ぶことができるでしょう。しかし、神さまのお名前は人間の付けたものではありません。神さまのお名前は神さまだけのものですから、わたしたちが自由にできるものではありません。それは神さま御自身が明らかにしてくださり、わたしたちに教えてくださった名前だからです。

イザヤ42章8節にこう書かれています。1128頁下「わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることはしない」と。ですから、わたしたちは自分の誓いを人々に信用せるために、「神さまに誓って」などと、みだりに主の名を唱えることはできないのです。それは、自分の願望、欲望のために神さまを利用するいう恐ろしい行為であり、結局は偶像礼拝に繋がってしまうからです。

さて、ここでわたしたちは十戒の言葉が与えられた人々について、改めて考えたいと思います。それは、イスラエルの人々。神さまの約束によって旅をし、多くの苦難を味わいながらも、信仰を全うしたアブラハム、イサク、ヤコブの子孫でありました。この人々は自分たちを自分で救い出すことのできない窮地に陥っていたのですが、そこから救い出してくださった神さまを、真の神さまと知りました。そこで神さまは、彼らにご自分の名を明らかにしてくださったのでした。

先週の礼拝では、第二戒を学びました。そこで、わたしたちは神さまの名を教えられました。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」と。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と。真に恐ろしいことではありますが、父祖の罪が子にも受け継がれるのを、わたしたちは認めざるを得ません。悔い改めのない親の罪のために、苦しむ子がどんなに多いかをわたしたちは知っているからです。しかし、父祖の罪を負う子孫にも、真の神からの呼びかけを聴く機会が必ず与えられますように、と教会は祈るのです。そして救いがどこから来るかを誰もが悟るように、と祈るのです。真の神さまに出会い、この方を愛し、この方にだけ従い、その戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみが与えられる。このことを神さまは約束しておられます。だから、この約束だけに頼って全身全霊を挙げて主に従って来なさい、と主は命じておられます。

神さまに救われた人々は貧弱な小さな群れで、窮地に陥った民でありました。しかし神さまは不思議に彼らを選び、彼らを御自分の民と呼んでくださいました。十戒は神の民となった人々に与えられた戒めです。ですから、神さまを知らない人々ではありません。十戒は、神さまを知って礼拝する人々に与えられた戒めです。礼拝の民、神の教会の人々に神さまは第三戒を命じておられるのです。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と。

ですから、神さまを知っている人々。神さまに知られていることを知っている人々は、神さまを畏れずにはいられません。畏れ敬わずにはいられないはずです。そしてこれこそが、何がなくても礼拝に無くてはならないことなのです。讃美歌を歌う時にはうまいとか下手だとかいうことよりもはるかに大切なことがあります。それは真心から歌うということです。わたしたちはメロディの美しさに心惹かれますが、讃美歌は献げ物であります。主をほめたたえることは、唇の実と言われます。それに更に楽器を用いて捧げた歌は詩編に代表されるように、主をほめたたえる歌なのです。嘆きの歌でもそれは感謝の歌に変えていただける。本当にわたしたちに求められていることは真心から主の御名前を呼ぶことに他なりません。

美しい歌も楽器もそれを用いて真心を捧げて主の名を呼ぶならば、神さまは喜んで献げ物を受け入れて下さいます。ところが、歌でも楽器でもそれを用いて神さまを賛美しているように表向きは見えても、自分の名声のために、欲望を満足させるために、そうするならば、それは主の名をみだりに唱えることになるのではないでしょうか。礼拝で捧げられる音楽を一つの例として挙げましたが、これは何も音楽に限られることでは決してありません。

新約聖書はマタイ福音書の7章21節以下を取り上げました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」主イエスさまの厳しいお言葉は一体何を意味するのでしょうか。「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。」22節で「かの日」とイエスさまが仰ったのは、終わりの日であります。キリストが再び世に来られる終わりの日に行われる審判によって、すべてのことが明らかになります。いかにも立派にふるまい、大勢の人から尊敬を集め、自分でも「救いの栄誉は自分に与えられて当然」と思っていた人々が、呆然としている場面を想像してください。彼らは必死になってイエスさまに訴えているのです。

彼らは、人の目には確かに立派に見えたかもしれません。恭しくキリストを宣べ伝え、美しい言葉によって人々の心を魅了し、「キリストに従いたい」という人々よりは、「この先生、この牧師について行こう」という人々を教会に集めたかもしれません。しかし、立派な教師、立派な長老と思われる人々が時にはとんでもない偽善、欺瞞によって人々を困惑させ、躓かせ、教会から離れさせる元になるとしたら、主はそれを裁かないはずがあるでしょうか。23節。「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

自己実現のために、何でも利用する人は、神さまをも、主イエスさまをも利用します。ローマの信徒への手紙1章16節「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」パウロがこう言った初代教会の時代は、十字架刑に死んだ人を神の子、キリストと宣べ伝えることは、全くあり得ないような至難の業でした。しかしどんな困難も福音を留めることはなかったのです。ところが、福音の教えが世界各地で実を結び始めるや否や、偽って、また偽善的に福音の教えに従う人々が現れたのです。多くの一般の人々ばかりでなく、牧師の地位にある人々の間でさえ、裏切りが起こりました。彼らは口で教え、また告白していることを、行いと生活によって否定しているのです。

これは決して人に対する裏切りではありません。これは、「主の名をみだりに唱えてはならない」という主なる神さまの戒めに対する裏切りなのです。「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」もし神さまがこの戒めを破る者を即刻裁かれたら、偽善的行為と気づかなかった私たちには、とても分かりやすいと思います。しかし、一方で深刻なことがあります。それは、一体だれがこの戒めを完全に守って裁かれない者になれるのでしょうか。瞬々刻々、一生涯にわたって、一度も真心を込めて神さまの名を呼ばなかったことはない、と言える人はいるのでしょうか。

真に、正しい人はいない、誰もいないということを一番よく知っておられるのは神さま御自身です。主は御自分を否む者には父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うと言われますが、ご自分を愛する者には幾千代にも及ぶ慈しみを与えると宣言されています。一体神さまは罪ある人間に対して、この裁きをどのように行われ、救いを実現してくださるのでしょうか。それは私たちの想像をはるかに超えることで、予想も予知もできないことです。

ただ、わたしたちに与えられた信仰があります。それは、イエスさまが世に来てくださったのも、神さまの救いのご計画によるものであったということです。神さまのこのような慈しみのご決意にも拘わらず、人は皆、罪を犯してこの恵みを受けることができなくなっていたからです。神さまはキリスト・イエスさまをお立てになり、その十字架の犠牲の血によって、信じる者のために罪を償う供え物となさいました。この福音を信じて教会が建てられてから二千年。全世界で主の教会を信じる者が起こされ、キリストに結ばれ、従う者となるために、教会に入れられています。イエスさまの執り成しによって神の国に入れられたい人は誰でも、地上の生活において真摯に誠実に新しい人生の鍛錬に励まなければなりません。

本日は十戒の第三戒を学びました。カテキズム問43 第三戒は何ですか。その答は、 「あなたの神、主の名を、みだりにとなえてはならない」です。それは、わたしたちが神さまを愛し、大切にし、畏れをもって呼び求めるべきということです。」祈ります。

 

恵み深き教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を賛美いたします。九月の第三の主の日の礼拝、わたしたちを御前に集め、共に助け合って、讃美と感謝と祈りを捧げさせてくださいました。わたしたちは多くの物事を望み、自分に不足しているものが多いことを嘆き、あなたが必要を豊かに満たしておられることを忘れてしまうような罪深い者であることを思います。真にあなたが求めておられるものは、あなたに対する真心からの賛美であり、感謝であり、祈りであることを学びました。これはあなたを真心から信頼し、愛し、従って行く者に与えられるものであります。どうかわたしたちが不信仰を悔い改め、あなたによってすべてが満たされることを信じ、告白し、感謝し、喜んで生きる者となりますように、わたしたちの罪を赦してください。わたしたちを新たに造り変えてこれから始まる一週間を主に従う者としてください。

成宗教会に与えられたこれまでの恵みを感謝いたします。この教会がただ恵みによる救いを宣べ伝える教会として、どうかこの地にこれからも建つために、どうぞあなたの聖霊の溢れる知恵と力をお与えください。長老会を励まし、信徒の方々を励ましてください。御心に適って新しい主任担任教師を迎えることができますように、道を開いてください。

今年の秋も「子どもと楽しむ音楽会」を開くことができ感謝です。また10月には教会バザーを計画しております。人手不足を心配する私たちの弱さをどうか憐れみ、慈しんでください。あなたがすべての必要を満たして、御心を行ってくださることを信じます。教会学校の働きを祝していただき感謝します。どうか知恵と力をお与えください。

今ご入院中の姉妹の苦しみ痛みを取り去り、あなたの恵みで取り囲んでください。またご家族をお支えください。他にもお病気の方がおられます。ご高齢のお一人暮らしの方、お仕事やいろいろな事情で礼拝から離れている方々の心と体と魂をお守りください。

この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主は熱情の神である

聖書:出エジプト記204-6節, ヨハネの手紙一51821

 成宗教会は、礼拝の中で教会の信仰について学びを進めています。それは古くからカテキズム信仰問答によって行われて来た学びです。それは使徒信条と 十戒 と主の祈りを学ぶことによってなされて来ました。本日は十戒の第二の戒めについて学びます。十戒はモーセが神さまから受け取って、神さまの民、イスラエルに教えたもので、出エジプト記20章に書かれています。

本日はカテキズム42。十戒のうちの第二の戒めです。それは出エジプト記20章4節に「あなたはいかなる像も造ってはならない」と命じられているとおりです。更に強調されています。「上は天に在り、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」と。本当に不思議に思うのですが、世界中どこでも、いろいろな像が造られ、神々として拝まれています。昔から、像には神々の霊が宿ると考えられていたようです。人間は神の姿を心に思い描き、自分の知恵と力でこんな姿、あんな姿と造りたかったのでしょう。しかし、下手な人が造った偶像では誰も関心しない。有り難くも思わないのに、上手な人が造ると芸術作品と同じで大変人目を引きます。素晴らしい作品であると思う。それだけなら、良いのでしょうが、そこに神の霊が宿っているということになると、造った人が褒められるばかりでなく、偶像そのものが神のように礼拝されるのです。

これほどおかしなことはないと思うのですが、おかしいと思わない人々も多いのです。聖書は、神は天地を創造され、万物を御支配されていると教えます。神が万物を創造された。人間も神の作品です。それなのに、その人間が神を造り出している。こんな真逆なことをしておかしいとは思わない。それはなぜでしょうか。神の像を造ることには目的がありました。像を造ってそこに神さまの霊を閉じ込めたいのです。どこそこの神殿に行けばいつでも神がそこにいるという訳です。神をその像に閉じ込めて、人間の思いどおりに操りたいからなのです。

人々の願いは、豊かな実りを求めることであったでしょう。作物が沢山取れますように。家畜が沢山増えますように。家族が与えられ、子宝に恵まれ、家が栄えますようにという願いは誰しも持っているのです。イスラエルの人々の周りにはそういう人々の願いに応えてくれそうな神々が沢山礼拝されていました。人々の願いに奉仕してくれる偶像を彼らは求めていたのです。神という名で呼ばれながら、実は人間の要求に応えるために造り出された偶像は、人間の作品そのものです。

偶像は人間の作品。それに対して聖書はこう語ります。わたしたちは神の作品であると。わたしたちをお造りになった神さまは、人間の手の業の中に閉じ込められるような方では決してありません。人間の支配を受けるような方では決してないのです。昔、アブラハムという人も偶像を拝む人々の世界に住んでいました。ところが主なる神さまはアブラハムに呼びかけられました。創世記12章です。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民西、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたに依って祝福に入る。」

アブラハムは住み慣れた偶像だらけの土地を離れて、神さまに従うように命じられました。祝福の約束はいただきましたが、祝福の内容は分かりませんでした。具体的にどこに行くのかも分かりませんでした。しかし、アブラハムは約束してくださる神さまを信じて従って行ったのでした。400年もの年月が流れて、アブラハムの子孫、イスラエルはエジプトにいました。不思議な神さまの導きによってひどく困ったときもありましたし、大変繁栄したときもありました。しかし、この時はイスラエルの人々はエジプトの奴隷でした。ひどく虐待され、彼らの叫び声が神さまに届いた時、神さまはモーセを指導者としてお立てになり、奇跡的に人々を救ってくださったのです。

この時以来、イスラエルの人々は真の神さまはどのような方かを知らされたのです。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天に在り、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」と偶像を禁止される神さまは、更に御自分を次のように紹介されたのです。「あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」これこそ、真の神さまの自己紹介であります。

真の神さまのご性質(姿は見えないのですが、そのお姿と言っても良いと思います)、そのお姿は、偶像とは全く違う、かけ離れたものでしょうか。「熱情の神」と言われる方。口語訳聖書は、これを「嫉む神」と訳しています。嫉むほどに御自分の民を愛する神さまであるということです。しかし、神さまの愛を人間の愛情と比べるのは限界がありますし、畏れ多いことであります。激しく愛するけれども、熱が冷めたら、あとは捨てて顧みないという愛ではありません。むしろ激しく愛するあまり、その愛に応えない人間に激しい怒りを表す愛と言う方が真実に近いと思います。それは神の愛に応えない人間の行動の結果を見れば分かります。神に背く行為、背信行為は、神の忌み嫌う不正であり、欺瞞であり、偽善という実を結ぶからです。

真の神さまは天地万物をお造りになり、わたしたちに必要なものを豊かに満たしてくださることがお出来になります。それにも拘わらず、人々が偶像を拝むことは、神から豊かにいただいたものを、偶像に御礼を述べていることになります。まるで偶像が豊かにくださったと信じているかのように。神さまをほめたたえずに、自分の手で造った偶像をほめたたえるという不正、欺瞞が平然と行われているのです。偶像礼拝について、アウグスティヌスもこう指摘します。「像が聞き上げてくれると思うか、ないしは願いを適えてくれると期待するかでなければ、だれもこのように像を見つめて祈ったり拝んだりはしない。」

神さまが人間をこんなにも愛し、すべての善いもので満たしておられるのに、人間は神さまを無視して、神さまでないものにひれ伏しているとしたら、どうでしょうか。神さまにならば恥ずかしくてお願いできないような身勝手なお願いを、偶像にしているとしたら。「私だけ豊かになりますように。わたしのほしいもの、ものだけでなく人も手に入りますように」と偶像にひれ伏しているとしたら。その結果はひどいものです。自己中心と自己中心がぶつかり合って争いは絶えない。弱い者、良心的な者は踏みにじられて捨てられて行く。神さまの熱烈な愛は怒りに変らないでしょうか。

それでも人間は自分の偶像を諦めません。そして神さまにはそんなに熱烈に愛されない方が良い。わたしのことは放っておいてほしい。わたしはどこで何をしようと気にしないでくださいと言う。真の神さまから熱愛されたくない人間の気持ちは、だれもが何となく理解できるのではないでしょうか。先週の北海道の震災。美しい山々がまるで巨大な熊の爪でえぐられたように地肌がむき出しになって、裾野の人々の家が土砂の下敷きになって、信じられない光景でした。広島の7月の豪雨災害、大阪の災害と次々と起こって、わたしたちは頭が真っ白になるより他はありません。

しかし、このような大惨事の時も慰められることが一つあります。それは無残ながれきや土砂の山に遠くから小さな豆粒のように見える救助隊の人々の姿。あんなに恐ろしいところにも暑さにも、いつまた襲って来るかもしれない激しい地震の危険にも、あきらめない。止めないで救助しようとする人々の姿を見ます。何日も経って、何十日も経っても、もう生きては見つからないだろうと思っても、止めないで捜している。その人々の姿に、私たちは救いを見ないでしょうか。慰めを受けないでしょうか。

人の命の大切さを思うのが当然だとする社会が、まだここにある。もう生きていないとしても、遺体になっても、見つけ出そうとするのは、人が人として生きるために、大切な根本的なことを、わたしたちが共有しているからではないでしょうか。それこそは神さまが熱情の神である、と宣言されている人間に対する愛に他なりません。何ものにも代えられないから放っておけない。とことん捜し求めて、失われた人を見い出そうとする。それは、わたしたちが神さまの尊さをいただいている人間だからではないでしょうか。

失われた人間を見出そうとする神さまの情熱は、独り子イエスさまを世に遣わしてくださいました。本日はヨハネの手紙一5章を読みました。ヨハネはこう言います。「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。」本当に神から生まれた者は、御子イエス・キリストお一人だけです。しかし、わたしたちはイエスさまを信じて、イエスさまの死に与りました。すなわち、わたしたちの罪のために十字架で死んでくださったイエスさまと共に、わたしたちも罪に死んで、イエスさまの命に結ばれ、新しく神の子とされたのです。このことを、ヨハネの手紙は「神から生まれた者」と呼んでいるのです。

しかし、「神から生まれた者は、罪を犯さない」と言われると、どうもそうは思われないのではないでしょうか。わたしたちは生きている限り、相変わらず間違いも多く、人を傷つけたり、傷ついたり、本当に日々悔い改めを必要とする者です。しかし、ヨハネが言っている「すべて神から生まれた者は罪を犯しません」ということはそういうことではありません。ヨハネが言いたいのは、神さまの恩恵を失わない人は決して罪を犯さないということなのです。自分の力で罪を犯さないということは、だれも決してできないので、わたしたちは神さまを畏れてその恵みの中に身を委ねます。そうすると神さまをいつも畏れている者は、悪魔的なものに身を任せるほどに惑わされることがないように自分を制するようにさせられます。神さまの恵みによって罪を犯さないのです。

悪い者は手を触れることができないというのは、致命的な傷を意味しています。神の子は信仰の盾によってサタンのあらゆる襲撃を退け、心臓に達する傷を受けることはないので、神の子においてはその霊的生命は消え失せることがないのです。たとえ信仰者が肉の弱さそのものによって罪を犯したとしても、その人は罪の重荷の下で呻き、自分に嫌悪を抱いても、自分を追い求めて救ってくださる神を畏れることを止めることはありません。

19節「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」世という表現は全世界を意味しているのではありません。ただ人間がサタンの支配下に陥りやすいということなのです。このような世に在って、神さまに従って生きる者とされるために招かれて神の子とされることは、本当に光栄なことであります。この栄誉は、ただただ神さまの恵みを信じる信仰の生活によって証しされることができるだけです。

20節。「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」わたしたちはイエスさまによって真の神、真実な方を知ることができました。イエスさまに結ばれて、神の子として神の内に生きる者とされました。わたしたちが罪を犯さないのは、イエスさまがわたしたちのために今も後も祈っておられる執り成しの恵みによるものです。この恵みにしっかりと頼る者は偶像を避けることができ、イエス・キリストの名によって真の神のみを知り、礼拝する者となることができます。

今日のカテキズム問42は十戒のうちの第二の戒めです。答は「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。神さまは、人が造り出すいかなるものも、神としてあがめることを禁じておられます。祈ります。

 

天の父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。わたしたちは一週間の生活を守られ、導かれ、御許に集められました。この幸いを感謝いたします。

あなたは真に熱情の神であると教えられました。わたしたちを愛して、その罪から救うために独り子であるイエス・キリストを惜しまず、世に遣わしてくださり、その熱情をお示しくださいました。わたしたちは、そのことを学びました。この身をもって生活を以て、あなたこそ真の神でいらっしゃることを証しするために、偶像を慕い求める罪の誘惑からわたしたちを救い出してください。

先週は西にも北にも、災害が起こり、人名が失われ、人々が悲しみに暮れ、途方に暮れています。このような時にも、わたしたちは教会で「子どもと楽しむ音楽会」を開くことができました。多くの人々が集められましたことを感謝します。このような善き活動を通して、人々が教会に出会い、励ましを受けて、どんな困難にも立ち上がって行くことができますように。わたしたちはすべての善いものがあなたから豊かに与えられることを信じて参ります。

弱い者が強くされ、病の者が健康にされ、罪深い者が皆、イエスさまの犠牲の死によって罪赦され、わたしたち皆が悔い改めて、あなたに感謝を捧げる者となりますように。そして地上の生涯の終わりが近づいたならば、主に結ばれて御国に招かれていることを確信してあなたを待ち望む者とならせてください。地上にある成宗教会が、どうか福音のために用いられますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。