主イエスの祈り

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌166番
讃美歌338番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 40篇9-10節 (旧約聖書873ページ)

40:9 わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み
40:10 大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。

新約聖書  ヨハネによる福音書 17章1-13節 (新約聖書202ページ)

17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:4 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
17:6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
17:7 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
17:8 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
17:9 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

《説教》『主イエスの祈り』

今日、与えられた御言葉はヨハネによる福音書17章です。主イエスが弟子たちに教え共に過ごしたガリラヤを出られ、過越祭のエルサレムに入られ、いよいよ十字架の受難を迎えられるのです。ヨハネ福音書には最後の晩餐の明確な場面はありませんが、弟子たちの足を洗われ、沢山の教えとご自身の受難予告をされました。そして、十字架に架けられるために逮捕され、連行される直前にされたのが今日の「主イエスの祈り」です。

聖書の中で主イエスの祈りが記録されている箇所は沢山ありますが、最も有名なのが「主の祈り」でしょう。

このヨハネ福音書17章に記された主イエスの祈りは、聖書に記されている中でも最も長い祈りです。この祈りはその内容から「大祭司の祈り」とも呼ばれています。神の御子である主イエスが父なる神に私たちのためにとりなしてくださっている祈りだからです。主イエスが何を考えられ、何を祈られたのかは興味深いことです。今日のこの主イエスの祈りは、1節から5節の「主イエスご自身のための祈り」と6節以降の「弟子たちのための祈り」の二つに分けられます。先ず1節には、「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。』とあります。

主イエスは祈られるとき、目を天に向けられました。私たちは祈りの時に、目を閉じ、手を合わせ、頭を垂れてお祈りします。それが祈りの姿勢として教えられているからです。しかし主イエスの祈りの姿勢は、目を開いて、目を天に向けて、声を出して祈られています。手を合わせたとも記されていません。ですからまったく私たちの祈りの姿勢と違います。聖書には祈りの姿勢についてほとんど記されていません。旧約聖書では人々がひれ伏して祈った姿や、主イエスや弟子たちがひざまずいて祈られたことが書かれています。祈りは心でするのですから、決まった姿勢はありません。心から神様に祈るなら、どんな格好であれ、どんな場所であれ、天の神様は聞いてくださる筈です。

主イエスの祈りの第一声は「父よ。」でした。それは子供が父親に話すときの飾らない呼びかけです。そして「時がきました。」と宣言されました。この言葉には主イエスの深い思いが込められています。「時」と訳されている言葉は「ホラ:w[ra」というギリシャ語で時刻、時間を表します。『とうとう時間がきました』、『ついにその時刻になりました』という思いが込められています。今まで宣教の働きを続けられてきた中で、主イエスは「時」ということを常に考えて行動されていました。「わたしの時はまだ来ていません」、「わたしの時はまだ満ちていません」と語られたお方が、「ついにその時になりました」とおっしゃっているのです。それは神様が創造されたこの世界の歴史の中で、「最も大いなる時」です。罪に汚れた世界から私たちを救い出すために、御子が十字架に架かり、贖いをなされる「時」がそこまで来ているのです。

世界の歴史がアダムからはじまり、アダムが罪に陥って以来、この世界は神様が望まれた世界とは違った方向に進んできました。この世界は罪が支配する世界となってしまったのです。その罪に満ちた世界の中に住み、罪に陥っている私たちを神様は憐れまれました。そして罪の世界から私たちを救い出そうとされて贖いの御計画を立てられたのです。ついに、その時が来たのです。人間が受けるべき罪の刑罰を罪の無いキリストが背負って死なれることにより、罪の赦しが与えられる時です。それは主イエスが父なる神のみもとへ帰還する時であり、人の子として栄光をお受けになる時です。ヨハネ福音書では繰り返し主イエスの時がまだ到来していないことが告げられてきました。今まさに主イエスの受難と栄光の時が到来したのです。主イエスは栄光を現して下さるよう父なる神に祈り求めます。主イエスの栄光と十字架は不可分なのです。主イエスの十字架の死を通して永遠の命が私たちにもたらされるのです。この永遠の命を与えられることにおいては父と子の栄光は完全に一致しているのです。父なる神は、御子が永遠の命を与えるための人々を御子に与え、そのすべてのものを支配する権威を与えられたのが、次の2節と3節で、「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。

主イエスはご自身のためには、ただ一つのことだけを父なる神に願っておられます。それは「栄光を与えてください」です。それは、もともと主エスが持っておられた栄光です。三位一体の神として栄光の中に住んでおられたお方が、天での栄光を捨てて父なる神の御心に従って人間イエスとしてこの世に下ってこられました。その目的は父なる神の栄光を現すためであり、私たちを罪のさばきから救い、永遠のいのちを与えるためでした。

イエス・キリストが天の栄光を捨てられるほど人間を愛しておられる、それは私たちの目には不思議なことです。これを理解するためには、皆さんが神様の立場になったときのことを考えてみてはどうでしょうか。

もし皆さんが神様で、全能者だったらどうするでしょうか。最高のおしゃれをし、最高の車に乗り、最高の家に住みます。何でも思いのままです。しかしだんだんとその虚しさに気付くのではないでしょうか。すべてのものを手に入れても、愛が無ければ虚しいものです。全能者であるなら、金も衣食住も、すべてのものを手に入れることができます。そこには感動や喜びは有るのでしょうか。全能者にとって何が喜びとなりえるのでしょうか。その答えは聖書にあります。新約聖書317ページ コリントの信徒への手紙第一13章13節には、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と記されています。

これは素晴らしい真理のことばです、最も大いなるものは愛だと教えているのです。

全能者には希望も信仰も必要ありません。すべて現実となるからです。残るのは愛だけです。そして事実、神様は聖書を通して、私たち人間を愛していると伝えておられます。新約聖書167ページヨハネによる福音書3章16節に、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とはっきりと示されています。

全能者なる神様は私たちを愛しておられ、そして私たちが神様を愛することを願っておられるのです。

もし私が全能者であるなら、人間が崖から落ちそうになったときに手を差し伸べて助けあげるでしょう。人間が悩み苦しんでいるなら解決しようとするでしょう。しかし、決して自分が身代わりになって死の苦しみを味わおうとは思わないでしょう。自分が造ったもののために苦しむことなどありえないからです。しかし、主イエスはそれをしてくださったのです。ご自分の栄光を捨てて、人となられ、苦しまれ、実に十字架の死の苦しみまでも味わわれました。主イエスは私たちのため大いなる代償を支払ってくださったのです。主イエスの愛は私たちの想像をはるかに超えているのです。そして4節と5節には、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」と祈られました。

地上での主イエスは数々の奇蹟をはじめ、なすべきわざをすべて行われました。語るべきことばをすべて弟子たちに語り終えられました。そして父なる神の御心を示し、ご自身の愛を示されました。この直後、捕えられ、十字架で殺されること、そして三日目によみがえられることもご存知で、その覚悟もできていました。主イエス御自身の御言葉から、十字架の受難はすでに終わったことのように話されています。主イエスの祈りは地上での役目を終えられて父なる神の身元に帰って、栄光の中に留まることでした。それが主イエスが、ご自身のために祈られた唯一のことでした。そして、この後からは、弟子たちのために、私たちのために祈られます。

6節にあるように主イエスは弟子たちを、父なる神によって主イエスに与えられた者と呼ばれます。また、このヨハネ福音書は信仰者をも父なる神によって主イエスに与えられた者たちと呼びます(6:37,39,10:29,17:2,6‐9,24,18:9)。この与えられた者たちに主イエスは父なる神を知らせ、御言葉を与えられました。彼らは主イエスの御言葉を受け入れ、主イエスが神のみもとから遣わされた方であることを信じました(17:8)。6節から10節で主イエスが祈られた「彼ら」とは、弟子たちだけではなく、9節の「わたしに与えてくださった人々」とあるように、キリストを信じる信仰者すべてであり、10節にあるようにその信仰者が主イエスを通して神に栄光を帰するのです。

成すべき御業を成し遂げ、語るべき御言葉をすべて語り終えたと主イエスは言われました。父なる神から受けた使命をすべて終えたという達成感のある言葉です。そして主イエスの働きを通して、弟子たちが主の御言葉を信じ、イエス・キリストが天から来られたことを理解し、そして永遠のいのちを持ち、神様の者となったことを感謝し祈られたのでした。

主イエスはご自分が十字架の贖いを成し終えて天に帰られることを知っておられました。従って、自分のすぐ後に続く福音宣教の働きを弟子たちに託され、そのために主イエスは弟子たちのために11節から13節で祈られました。これから使徒として彼らがどんな困難にも負けず、働いていくためでした。そして弟子たちの福音宣教を通して救われるクリスチャンたちのために同じ内容のことを祈られました。ですから、この主イエスの祈りは私たちのために祈られた祈りでもあるのです。

この主イエスの祈りと願いから、私たちが何を求めて祈ったらいいのか、そしてどのように信仰者として生きていったらよいのかを知ることができます。今、父なる神のみもとへ行かれようとしている主イエスが願われるのは、弟子たちをこの世から連れ出すことではありません。このすぐ後の15節にあるように、彼らがこの世にあって悪い者から守られることなのです。それは主イエスが弟子たちをやむを得ず世に残しておくのではなく、積極的に弟子たちを世に対して派遣しているからなのです。父なる神が御子イエスをこの世に派遣して御業を成し遂げさせたように、弟子たちをこの世に派遣するのが目的なのです。

世に遣わされる弟子たちのために、17節にあるように主イエスはまた彼らの聖別を祈られます。神が聖であるように彼らも聖であることが求められているのです。

クリスチャンたちが神の家族として仲睦まじく集う教会、互いに愛し合い、励まし合い、主にある豊かな恵みを分かち合う教会、そしてその中心にはイエス・キリストがおられ、心からの礼拝を共にささげる教会は、天国に最も近い場所だと言えるでしょう。

しかしながら、実際の教会には多くの問題があることも現実です。教会に集われる人々には、大人もいれば子供もおり、老人もいます。男性も女性もいて、育った環境や性格も趣味も違います。当然、習慣の違いや考え方の違いがあります。

信仰面では、聖書解釈が違ったり、伝道方針が違ったりもするでしょう。仲たがいがあり、躓いたりして、和やかに交わることができないときもあります。

自分の思い描く理想の教会との違いにつまずいてしまう人もいます。教会につまずくくらいなら教会に来ることをやめたいと思う人もいます。そのようなときには、主イエスが「御名によって彼らを守ってください」と祈られたことを思い出しましょう。

私たちは同じ信仰を持って生きています。同じ御霊をいただいています。同じ主イエスを信じています。主イエスを愛するように互いに愛し合おうとするなら多くの問題は必ず解決できる筈です。愛はすべての結びの帯であり、私たちが一つとなるために新しい戒めとして主イエスが与えられたのです。

その愛による執り成しの祈りを、主イエスは今も私たちのために祈ってくださっているのです。

お祈りを致しましょう。

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主の喜びが私たちの内に満ちあふれるように

聖書:詩編84篇5-13節, ヨハネ17章1-13節

 本日は、礼拝の後、新しい牧師先生方をお迎えし、私を送るというので、長老会は歓送迎会を予定してくださいました。私は4月に赴任される藤野雄大先生、美樹先生の歓迎会は当然4月の最初に開くべき、と思いましたが、本当に人手の少ないところ準備してくださることを思い、今日のような形になりました。しかし、これで良かったとも思います。なぜなら、私は、私を見送るだけのために今日の礼拝に出席していただきたいとは思わなかったからです。なぜなら、私は礼拝に向かって皆様をいつもいつもお招きして来たのですから、私のために礼拝にいらしてくださいというつもりは全くなかったからです。

それが、御言葉を語るために遣わされた者の思いです。17年も講壇に立って来たのに、説教準備は一度だって楽だったことはありませんでした。楽ということは祈らなくてもできるということですから。いつでも苦しんで祈って聖霊の助けを求めて準備して参りました。引退したら、さぞ並木先生は楽になるだろうと思っている方もおられるでしょう。ところがそうではございません。私は御言葉を語るのがこんなに苦しいのに、しかし説教のために準備することで、救われていました。それが教会にいる私の務めだったからです。説教者の務めのために、私はありとあらゆることを耐え忍ぶことができたのだと思います。

皆様はどうでしょうか。礼拝に来るのは健康の面で大変な人が増えました。忙しい人も、仕事を理由に礼拝から遠ざかる人々も増えました。しかし、楽に教会に来られる人々だけが礼拝を守っているのでしょうか。そんなことはございません。私は若い時、鬱状態でした。二時間と続けて眠ることができない時もありました。しかし、とにかく教会に向かって足を向けよう、と思いました。100m歩いてダメだったら、家に帰ろうと思いました。教会に着いた途端にダメだったら、それでも良いと思って礼拝に向かいました。途中で引き返すようなことには一度もなりませんでした。礼拝に向かう思いを、主は喜んでくださいます。皆様も苦労して苦労しても礼拝に足を運び、御言葉を聞き続けてください。

本日は詩編84篇5節から読みました。「いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついにシオンで神にまみえるでしょう。」神さまは礼拝のために集まって来る人々に、シオンでお会いくださいます。そのように、神さまは礼拝のために教会に集まる人々を喜ばれ、聖霊によって共にいらしてくださいます。礼拝で、人々は共に御言葉を聞き、讃美を捧げ、自分たちの告白によって神さまをほめたたえ、互いに顔と顔とを合わせて、慰めと励ましを共にいただくのです。

私が御言葉を語る務めのために、すべてのことを耐え忍ぶことができたように、皆様もあらゆる困難苦難の中で苦労して礼拝を守り、御言葉を聞き続けるならば、わたしたちが生きて行くために通らなければならない道筋で起こるすべてのことを耐え忍ぶことができるでしょう。私はこのことを確信して皆様にお勧め致します。

さて、わたしたちが礼拝で学んで参りました主の祈りですが、本日は最後の祈りの言葉です。主の祈りを祈るわたしたちは「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」と祈って、最後にアーメンと唱えます。この「アーメン」とはどういうことでしょうか。わたしたちは、この世の権力も支配も栄光もすべて神さまのものであることを信じて、心から神さまをほめたたえて終わりました。アーメンとは「そのとおり」という意味です。

さて、この祈りを教えてくださった主イエスさまは、十字架の苦難を受ける最後の時が迫っておられたとき、何をなさったでしょうか。その時、弟子たちはイエスさまが去って行かれることを思い、不安と悲しみで胸つぶれる思いでいたのですが、その弟子たちを愛して、最後まで愛し抜かれた主は、彼らに平安を残すために、彼らに分かるように声に出してお祈りをなさいました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と。アウグスティヌスはこの祈りを解き明かして、主イエスは、「あなたがわたしによって全地に知られるように、わたしを復活させてください」と祈られたのだと言っています。

主イエスさまは天の父に祈られました。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたから委ねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」人は皆、罪を犯しているために神さまのご支配を喜ばず、神さまに逆らって、却ってこの世の支配を受ける結果になりますが、この世の支配は人を生かすでしょうか。それはじりじりと人を追い詰めて滅びに至らせるのではないでしょうか。神さまはすべての人に永遠の命を与えることがお出来になりますが、神さまはその力を、愛する御子にお与えになりました。イエスさまは永遠の命を与えることができるのです。だからイエスさまは祈りの中で宣言されます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストとを知ることです」と。

わたしたちは、主の祈りを教えられました。わたしたちが「天の父よ」と呼びかけることをお許しくださる神さまがおられる、とわたしたちは教えられました。わたしたちは神さまを見ることができない。わたしたちは神さまを知らなかったのです。しかし、イエスさまは地上に来られ、天の父の御心をお示しくださいました。わたしたちはイエス・キリストを知ることで、天の父なる神さまを知ることになります。

最初の弟子たち、イエスさまが地上に来られた時、一緒にいた弟子たちを、イエスさまは愛されました。そして、地上に来られた目的を果たして、神さまの御許に帰るときが迫りました時、彼らのために声に出して祈られたヨハネ17章の祈りは、後に続く弟子たちにも、その弟子たちの弟子たちのためにも、何十代も後の弟子たちであるわたしたちのためにも、声に出して祈ってくださった祈りでもあります。11節。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」

父なる神さまと御子イエスさまは心一つであられます。そのように地上に遺されたわたしたちも主に守られ、主に在って一つとなるように、とイエスさまは祈っておられるのです。そのために主は地上に来られました。そのために、わたしたち罪人の重荷を負い、罪人の報いを受け、罪人に代わって十字架の死を死んでくださろうとしておられます。しかし、その目的は、神の永遠の命に復活されることです。そしてイエスさまのご復活の命に、わたしたちも与る希望が与えられているのです。その希望のために、わたしたちはイエスさまを贖い主と信じ告白して、洗礼を受け、キリストの体に結ばれる者となりました。

13節。「しかし、今、わたしは参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」このように主イエスさまは弟子たちの前で祈られました。この言葉が語られたのは、地上におられる間のことです。地上には多くの不安があり、この世の支配者、すなわちサタンの勢いが増しているようにさえ見えるからです。

しかし、だからこそ、主イエスさまは祈られました。「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と。これから十字架の道を進まれるイエスさまは、どんなに苦しまれようとしていたことでしょう。どんなに傷を受け、侮辱され、捨てられようとしていたことでしょう。しかし、主は言われるのです。「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるように」と。神の御子の内には喜びがあるのです。この世のどんな苦難にも打ち崩されることのない喜びが。それはこの世の苦難にいつも脅され、打ちのめされるわたしたちには、思いも及ばない圧倒的な平安が、御子の内にあるのだ、ということに他なりません。そして御子イエスさまの喜びこそが、天の父の御心そのものでなくて何でしょうか。

ここに、主の祈りの最後のアーメンがあるのではないでしょうか。主の祈りを祈るわたしたちに、何よりもなくてならないものがあります。それは何でしょうか。それは天の父に対する心からの信頼です。そして、このアーメンに表れた心からの信頼は、主の祈りの終わりの言葉にあるだけでなく、初めから終わりまで、神を信じ、神の働きとわざに信頼する者が捧げる共通の思いに他なりません。

最初の弟子たちは、地上のイエスさまに付き従っていた時には、イエスさまの喜び、天の父なる神さまと共にあるゆるぎない喜び、平安が分からなかったでしょう。しかし、主の十字架の苦難と死という大変な悲しみと絶望を体験した彼らだったからこそ、やがて復活の主に出会い、この尽きることのない圧倒的な喜びを宣べ伝える者に変えられて行ったのであります。そして、わたしたちには救いの出来事が届けられました。神さまの備えられた救いのご計画を知らされているわたしたちではないでしょうか。

だから、どんな困難に打ちのめされるばかりの時も、どんな希望も見えて来ないと思われる時にも、主の祈りは祈られて来たように、今もこれからも祈られることが求められているのです。そして不安の風に震える木の葉のような世界の中でも、社会にあっても、神さまお一人が善い方であり、正義を愛し、慈しみを愛して、嵐を鎮めてくださる方であると固く信じて、主の祈りを祈りましょう。主イエスさまは「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるように」と祈ってくださいました。

だから、神さまが与えてくださるものは、地上の生活を送る私たちにとってなくてはならないものだと確信しましょう。この命も、この生涯も、この家族も私たちに無くてならないものとして与えられています。そして日用の糧も、それから私たちには「いらない」言いたいものや、避けて通りたいものも、何か深い訳があって私たちに与えられていると信じましょう。そしていつの日には、その訳を教えていただきたいと願いながらも、天の父のご配慮を信じて従って参りましょう。

この教会にはかつてヘンデルのメサイアを歌う合唱団に加わっていた方もいらしたと思います。東京神学大学でもメサイアを歌う学生を募集していましたが、アーメンコーラスだけでも大変長く難しかったので、ギヴアップしたことを思い出します。しかし、たとえ歌が上手に歌えなくても、アーメンの言葉は地上を生きる私たちの人生の中でいつも鳴り響いています。初めは、「神さま、ああなりますように。こうなりますように」という真に身勝手な、自分の願いばかりであった私たちの祈りも、次第にアーメンの祈りに変えられて行くでしょう。「主なる神さま、どうかあなたのご計画のとおりにしてください。あなたは、その通り行われる方であることを、わたしたちはよく知っています」と。祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。あなたは御子を世に遣わし、わたしたちの罪の贖いのために苦難を負わせられました。この死と復活によって私たちにも主と共に復活の命に与る希望が与えられました。深く感謝申し上げます。どうかこの救いの恵みを信じ、悔い改めて多くの人々が主あなたの子とされるために、主イエスさまの執り成しを受けることができますように。教会に与えられた尊い働きを思い、感謝申し上げます。どうか、成宗教会がこれまでお守りくださった御心に従い、福音伝道の使命を果たすものとしてください。

また私たちの教会は2013年以来、東日本連合長老会と共に助け合って歩むことができ、真に感謝です。この礼拝を以て私は与えられた務めを終えますが、この尊い務めを受け継いでくださる教師、藤野雄大先生、美樹先生を与えられましたことを心から感謝申し上げます。どうぞお二人の先生方のお働きを祝し、成宗教会ばかりでなく、東京神学大学や多くの働きを担う先生方を豊かに支え導いてください。

困難なことが多い中ですが、本当に大切な人の救いを社会に知らせるために、成宗教会を強めてください。共に喜んで教会形成をなすために、長老会を強め、励ましてください。また同じ地域連合長老会に在って、互いに励まし合い、主のご栄光のために喜んで働く教会員の皆さんを励ましてください。また、高齢の教会員を特に励まし、清い手を上げて祈る者となり、生涯の終わりを迎える時まで、あなたに喜ばれる者となりますように。

今週、明日から新年度の歩みが始まります。どうか、特に教会学校の働きを顧みてください。教会総会、イースター、墓前礼拝と多くの行事が続きますが、あなたの恵みのご支配のもとに導かれますように。特に教会形成のために皆が果たすべき役割、奉仕を喜んで担うように、主の聖霊がご支配くださいますように。

わたしたちの内にある多くの困難、悩み、病気その他の問題を御存じのあなたが、すべてのことを通して、私たちに信仰による忍耐と愛と希望を増し加えてください。

言い尽くしません感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

天の父よ、と呼びかける

聖書:イザヤ6316節、ヨハネによる福音書171-5

 主イエスさまの教えてくださった祈りは、神さまへの呼びかけから始まります。話し始める前に、聞いてもらいたい相手の名前を呼ぶということは大切です。私たちは誰に向かって話しているのか、はっきり意識することが必要ですが。そのことは、祈りにおいてはなおさらのことです。よく子どもが遊びながら、一人でぶつぶつ言っているのを見ます。時には大人も歩きながらぶつぶつ言っているのを見かけます。しかし、自分は一体だれに向かって話しているのか、考えを述べているのか、このことに気がつく人は幸いです。

なぜなら、私たちは心の中で話をしているうちに次第に後ろ向きな考えに陥ることがあるからです。「お前は駄目だ」という声や、人々の批判、陰口、悪口、そしりなどが、まるで耳元に語られるようにリアルに聞こえるならば、わたしたちは決して善い者との対話をしているのではないのです。ですからわたしたちが心の中で話す時、誰に向かって話しているのか、私たちの話を聞いている相手を知ることは非常に大切です。もし、私たちが悪魔に向かって話しているとしたら、いつの間にか邪な考えや、自分を破壊するような考えに陥ってしまうのは当然なのではないでしょうか。

わたしたちの考え、願い、不安などを、もし実際に人に聞いてもらうなら、相手は誠実な人でなければなければならないのです。わたしたちの弱さに付け込んで来るような者、また悪い道に唆すような人には、決してわたしたちの思いを聞いてもらいたくないものです。こう考えますと、人にも語ることを用心しているわたしたちの思いを、神さまに聞いていただくという時には、何よりも大切なことは神さまに対する信頼です。わたしたちはお祈りする時には、まず第一番に神さまが誠実な方であることを信じなければなりません。

イエスさまの弟子たちは、イエスさまが祈るのを見ていていました。人々に無くてはならない神さまの言葉を語り、救いの御業を行うことは、この世の勢力との戦いでした。そのために、イエスさまは夜を徹して祈り、ご自分の全てを神さまにゆだねておられた。弟子たちはそのことを知っていました。それで主の祈りを教えてくださいとお願いのでした。

そこでイエスさまは、祈りは何よりもまず、神さまに呼びかけなさいと教えられました。そして「天におられる父なる神さまと呼びかけなさい」と言われたのです。天とは何でしょうか。どこにあるのでしょうか。創世記第1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。しかしイエスさまの教えられた天とは、天地を造られた、その「天」ではありません。「天におられる神さま」と呼びかける天とは、神さまのおられるところを意味します。イエスさまは復活後、天に昇られたと、教会が告白する使徒信条。その告白の中で言われる天のことです。

天におられる神さまは、イエス・キリストの父なる神さまであります。そして、イエスさまは言われました。御自身の父である神さまのことを、「あなたがたも、わたしと同じように『わたしたちのお父さん』と呼びなさい」と。考えてみれば、これは何と驚くべきことではないでしょうか。何と恐れ多いことではないでしょうか。わたしたちは神さまのことを全く知らなかったのに、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけることが許されたのです。

今日読みました旧約聖書、イザヤ63章16節を読みます。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です。」神さまはその昔アブラハムを呼び出され、祝福を約束されました。(創世記12章2節)「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」しかしイザヤ書の預言者の時代、アブラハムの子孫の国は荒れ果て、やせ衰え、人々は国を追われ、イスラエルの民はほんのわずかとなりました。

それは、神さまが約束をたがえたからではありません。逆に、イスラエルの人々が神さまに逆らい、その愛に背き、真心を踏みにじった結果なのであります。こうしてイスラエルの人々は諸国の中でも惨めなもの、見捨てられたもののようになりました。その時、預言者は立ち上がって人々のために神さまに訴えているのです。わたしたちは落ちぶれ、みすぼらしい民となってしまっているけれども、あなたはわたしたちの父ですと、神さまに告白しているのです。もしも、わたしたちの先祖であり、信仰の父であるアブラハムがわたしたちの現在の姿を見たら、驚きのあまり、「ああ、こんな惨めな、わずかばかりの人々がわたしの子孫なのか。そんなはずはない。」と叫ぶかもしれません。わたしたちのことを「そんな人々は全く知らない。私と関係ない」と言うかもしれません。

本当に信仰の父アブラハムのことを思えば、そういわれても仕方がない。アブラハムは主なる神さまに従って旅に出、人生の苦難を耐え忍びました。しかも自分のために耐え忍んだのではない。あらゆる人々のわがまま、身勝手に悩みながら、耐え忍びました。神さまの約束を信じて、約束されたものを自分の時代に受けなかったけれども、信仰を抱いて死にました。更にまさった故郷を、天の故郷を熱望していたからです。そのアブラハムと比べて自分たちの惨めさはどうだろう。神さまからいただいた豊かさに、繁栄に飽きたりて、得意になって、豊かに恵んでくださった神さまを忘れてしまった。わたしたちは真に恩知らずの民なのだ、とイザヤ書の預言者は知っているのです。

しかし、その上で、彼は神さまに訴えます。「主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です」と。このような罪深い者をお見捨てにならず、永遠の昔から、贖ってくださる神さま、わたしたちはあなたがそういうお名前を持っていらっしゃることを告白します」と。私たちはどうでしょうか。さんざん不信仰な人生を歩んで来た。でも、「私もそうだけれども、あの人はもっとひどいではないか」と言って、非難し合うのでしょうか。それとも、「今頃になって神さまに救ってくださいと言うほど、私は恥知らずではない」と言って、神さまに助けを求めないのが正しいのでしょうか。

しかし、預言者は訴えました。「あなたはわたしたちの父です」と。「あなたこそ、わたしたちの贖い主です」と。「あなたのお名前は、永遠の昔から変わることがありません」と。そしてこの訴えこそ、神さまの真のお姿、お名前を人々に指し示すこととなったのです。

イエスさまは地上で弟子たちと共に歩まれる間、み言葉の説教と驚くべき御業によって永遠の命がここにあることを証ししてくださいました。そして地上を去るときが近づいた時、弟子たちの前で声に出して祈られました。それが今日の聖書ヨハネ17章1節です。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」このように声に出して祈られたのは、聞いている人々が主の祈りによって教えられるためでしたでしょう。父よ、と祈る祈りによって、神さまがどんなに恵み深い方であるかを言い表されたのです。「あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために」とは、神の子イエスさま御自身が、天の父なる神さまの栄光を現わすようになる」ということです。

神さまの栄光を現わすために、イエスさまは十字架に死なれました。イエスさまはすべての人の罪を贖うために、神さまの御心に従われたのです。このイエスさまを神さまは復活させ、罪の贖いを成し遂げられました。このことによって神さまの栄光が明らかになったのです。なぜなら、イエスさまによってどのように罪深い者にも悔い改めによって救いの道が拓かれたからです。イエスさまは天に昇られ、そこから、私たちを見守り、聖霊を注いで、私たちと私たちの教会を導いてくださっています。

このイエスさまが地上で弟子たちに教えられた祈りを、私たちも祈ることができるとは、本当にありがたい恵みであります。父なる神さまは、人間の父のように、子を愛し助けてくださる方です。また私たちの悪い行いをご覧になった時、それを裁き、罰してくださるのは、私たちを滅ぼさないためです。ただ天の父の恵み深さ、忍耐強さは人間の父とは比べものになりません。そのことを私たちはイエスさまによって知らされています。

今に至るまで、そしてこれからも地上に目に見える形で教会があることを私たちは知っています。そして地上の教会が正しく建設されるならば、それらは目に見えない一つの教会を指し示していることを私たちは信じています。教会は、主が私たちのために試練と苦難を通して、救いの道を開いてくださったことを証ししています。そこで私たちはイエスさまの父なる神を、あたかも本当の父であるかのように、「父なる神よ」と呼びかけることができるのです。

この呼びかけの言葉は、イエスさまの苦難と死を通して恵みによって救われたことを思うときに、改めて心の底から発することができるでしょう。心からの信頼と感謝をもって。そしてまた、私たちは天のお父さまと呼びかけるとき、神さまの前に本当に小さな子供のように立ちましょう。年齢も、職業も、何も関係なく、神さまの前にたちは幼子のようなものではないでしょうか。分別がある、知識がある、と思う人も、明日のことさえ分からない。また自分の正しささえ、本当には分からない。そんな小さな者に過ぎないのです。

これまでの私たちの歩みを振り返ると、私たちの教会の将来も、自分の将来も、だれも正しく予測もすることも予定することもできませんでした。ただ私たちは教会に集められ、共に礼拝し、共に祈ることができたからこそ、今日があることを思います。先々の事まで見通そうとすると、楽観的になれることはなかなか見い出せないことが多いのではないでしょうか。すると、自分だけ取りあえず助かろうとするのか、どこかもっと有利な立場を求めて動き回る人々は多いのです。そうして離合集散を繰り返すのですが、私たちはここに神さまが集めてくださったことを大切にして来ました。この群れはただの人の集まりではなかったからです。イエス・キリストさまが御自分の血によって贖い取って神の子とされた人々、すなわち教会だと信じたからです。

教会は建て物ではありません。人々がいるから教会なのでもありません。教会は信じるからこそ教会とされるものです。イエスさまの建てられた教会が、今もイエスさまが天から送ってくださる聖霊によって、教会とされているのです。聖霊は、私たちに来てくださって、私たちが主の祈りを祈ることができるようにしてくださいます。「天におられるわたしたちの父なる神さま、」と親しく祈ることができるのも、イエスさまの送ってくださる聖霊がわたしたちと共にいてくださるからに他なりません。

ローマ8章15-16節を読みます。284頁。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊こそは、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」今日のカテキズム問56 「主の祈りは、どのような言葉で始まっていますか。そして答は、「『天におられるわたしたちの父よ』です。私たちは、イエスさまによって神さまの子どもとされたので、天におられる神さまを『父よ』と呼びかけることから始めます」です。主の祈りを与えられていること自体が限りない恵みでありますから、共に主の体の教会に連なり、父なる神さまを呼び求めて参りましょう。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。一年で一番寒さの厳しい季節、インフルエンザも猛威を奮っている中、私たちを今日の礼拝に集めてくださり、み言葉によって罪の赦しをお知らせくださいました。集まることのできたわたしたちは真に小さな群れですが、背後に教会員は祈りを合わせております。集められた者も、集まることのできなかった者も、どうかあなたの恵みによって、私たちに豊かな慰め、励ましをお与えください。聖霊の神さまの助けによって病が癒され、弱り果てている者も、疲れている者も、あなたの平安で満たされ立ち上がって行くことができますように。

主よ、私たちは2019年度新しい先生方を招聘するべく道が開かれましたことを思い、真にあなたのお導きを感謝申し上げます。どうか私たちの小さな力を励まし奮い立たせて善き準備をなすことができますようお助け下さい。来週の長老会議には藤野先生ご夫妻にご臨席いただき、準備を始める予定ですが、御心に適って進めることができますように。長老会の働き、また教会学校の働きを祝し、御力をお与えください。

また、記念誌の発行までの道筋をも整えていただき、真に感謝致します。この教会が東日本連合長老会の中で共に学び、共に教会を形成する働きに加わって行くことができますように。私たちの教会を慈しんで励ましてくださる主が、共に歩む東日本の諸教会とその長老信徒の皆様を豊かに慈しみ励ましてください。

皆様のご健康を祝し、整えてください。この厳しい季節の困難の中にある全国の教会を励まして助け導いてください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。