生きた水を与える主

《賛美歌》

讃美歌298番
讃美歌404番
讃美歌461番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 1篇1-6節 (旧約聖書835ページ)

1:1 いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

新約聖書  ヨハネによる福音書 4章1-15節 (新約聖書168ページ)

◆イエスとサマリアの女
4:1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
4:2 ―洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―
4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。
4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

《説教原稿》

本日はヨハネによる福音書4章の1節から15節をご一緒に読むのですが、この場面は、5節と6節にあるように、シカルというサマリアの町の近くにあるヤコブの井戸での出来事です。

主イエスはこの時、旅をしておられました。3節と4節に、「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」とあります。聖書の後ろにある付録の中に地図があります。旧約新約が合わさっている聖書ですと地図の6に「新約時代のパレスチナ」というのがありますのでご覧いただきたいのですが、ユダヤは、この地図の下の方、死海の西側あたり、エルサレムを中心とする地域です。ガリラヤは上の方、つまり北の方の、ガリラヤ湖のあたりです。ユダヤからガリラヤへ北上していく時に通らなければならないのが、その間にあるサマリアで、この地図の真ん中あたりです。そこに「ゲリジム山」という山が書かれています。その北に「シカル」があります。ユダヤからガリラヤへの旅の丁度半ばに、主イエスはこのシカルというサマリアの町に来られたのです。このシカルの町の近くに、「ヤコブの井戸」と呼ばれる泉があったのです。主イエスは旅に疲れて、その井戸のそばに座っておられた、とあります。そこに、サマリアの女が水を汲みに来ました。旅に疲れ、喉が渇いていた主イエスは彼女に、「水を飲ませてください」と頼んだのです。

井戸というと私たちは、狭い縦穴を思い浮かべます。この「ヤコブの井戸」は、町中の辻にある井戸ではなくて、町の外にある泉であり、「泉」と「井戸」は同じ言葉なのです。

人々は毎日町を出てそこに水を汲みに来たのです。生活のための水はこの泉に来て、水がめに汲んで家まで持ち帰らなければなりませんでした。この泉がシカルの町中からどれくらい離れていたのかは分かりませんが、8節に「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」とありますし、28節には、「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き」ともあります。シカルの町とこの泉との間には一定の距離があったことが分かります。このヤコブの泉のほとりで、そこに水を汲みに来た一人の女性と主イエスとが出会い、そこで語られたのがこの13節と14節のみ言葉だったのです。主イエスが「水を飲ませてください」と願ったことから、主イエスと彼女との間に会話が始まり、二人の出会いが起りました。それは決して、たまたま偶然に起ったことではありません。主イエスは既に彼女のことを知っておられ、彼女を救いへと招くために、主イエスの方から声をかけ、出会って下さったのです。

13節で主イエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く」とおっしゃいました。人は生きるために水を飲まなければなりません。しかし水はとても重いものですから、一度にそうたくさん汲んで来ることはできません。だからじきになくなり、また泉へ汲みに行かなければならないのです。水道やペットボトルのある生活に慣れている私たちには想像もできないような苦労が、昔の人々の生活にはあったのです。飲んでも暫らくするとまた喉が渇くということのない、一度飲めばもう決して渇かない水を与える、と主イエスはおっしゃったのです。しかもこの水は、一度飲めばその効果が持続するだけではありません。主イエスが与えて下さる水は、その人の内で泉となるのです。つまり新鮮な水が滾々と湧き出る泉が自分の内に出来るのです。その水によっていつも新たに潤され、渇きを癒されるのです。汲めども尽きぬ水が自分自身の中にいつも湧き出るようになるから、もう渇くことがなくなるのです。主イエスのこのお言葉を聞いてこのサマリアの女性は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてももいいように、その水をください」と願いました。そういう泉が自分の中にあれば、もう遠くの泉へ水を汲みに行く必要がなくなる、と思ったのです。

この女性が自分から主イエスに水を求めるようになったのは、いくつかの驚きが積み重なったことによってでした。その驚きは主イエスが彼女にもたらしたものです。主イエスの方から「水を飲ませてください」と声をかけられたことは、彼女にとって大きな驚きでした。9節で彼女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言っています。彼女はここで二つのことに驚いたのです。一つは、当時、ラビと呼ばれている律法の教師は、公の場で女性に声をかけることはしませんでした。彼女は、主イエスと弟子たちの一行を、律法の教師が弟子と共に旅をしているのだと思ったのです。律法の教師は、自分が汚れを受けてしまうリスクのあることは一切しません。弟子たちだけが町へ買い物に行っているというのもそういうことだと彼女は思ったのです。そういう律法の教師が、女である自分に親しく声をかけ、水を飲ませてくださいなどと頼むなんて、当時は考えられないことでした。彼女は先ずそのことに驚いたのです。

そして第二の、大きな驚きは、主イエスはユダヤ人であり、自分はサマリア人だということです。9節の後半に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」とあるように、ユダヤ人とサマリア人は当時、お互いに敵意を抱いており、口もきかないような関係でした。それには歴史的ないきさつがありますが、ここではそれには触れません。とにかくユダヤ人がサマリア人にものを頼むなどというのはあり得ないことだったのです。このように主イエスの方から「水を飲ませてください」と声をかけられたことに彼女は極めて驚いたのです。その驚きは彼女の中に主イエスについて一つの思いを芽生えさせたと言えるでしょう。それは、この人は自分が知っている律法の教師たちとは全く違う、という思いです。この人は、男と女を分け隔てする、今日の言葉で言えば差別の思いに捕われていない。またこの人は、ユダヤ人とサマリア人の間の、決して乗り越えることができないと思われる分厚い壁、お互いを隔てて住む世界を違うものとしている障壁をも、事もなげに乗り越えている。こんな人には今まで出会ったことがない。そういう思いを彼女は抱いたのです。彼女は、その主イエスの姿に新鮮な驚きを感じたのです。

そして、その驚きに、主イエスは10節の、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方から“その人”に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」と答えられました。彼女には主イエスのこの言葉の意味はさっぱり分からなかったでしょう。しかし、「水を飲ませてください」と言った“その人”というのは目の前にいるこの人であり、この人が、私はあなたに生きた水を与える、と言っていることだけは分かったのです。それはいったいどういうことだろうか、水を飲ませてくださいと願っているこの人が私に水を与えるだなんて、そんなことがどうしてあり得るだろうか、と彼女はますます驚き、混乱しました。そしてこう言ったのです。11と12節です。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。彼女は、主イエスが与えると言っておられる「生きた水」を、泉から湧き出る普通の水として捉えています。だから、あなたは汲む物も持っていないのにどうして私に水を与えることなどできるのですか、と言ったのです。しかしここで彼女は、主イエスの言葉に、泉から汲まれた普通の水を与えることとは違う何かを感じ取ってもいます。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」以下の言葉がそれを表しています。サマリア人にとっても、ヤコブはユダヤ人たちと共通の先祖です。その先祖ヤコブが、息子ヨセフを通して、自分たちの先祖であるマナセとエフライムにこの地を与え、ここで生きるようにしてくれたのです。ヤコブがこの井戸を与えてくれたというのは、自分たちが生きていく場としてこの地を与えてくれたことを意味しているのです。そのことを持ち出している彼女の言葉には、あなたも先祖ヤコブと同じように、水を与えるだけでなく、私たちが生きていく場を、言い換えれば私たちに命を与えて下さる方なのですか、という問いが込められています。彼女は、「私がだれであるかをあなたが知っていたなら、あなたの方から私に生きた水を求め、私はそれを与えるだろう」と言われる主イエスの言葉に驚かされながらも、そこに自分たちを本当に生かしてくれる神の力と権威を、おぼろげながら感じ始めているのです。

主イエスはご自分から彼女に語りかけ、出会っていかれました。それが、主イエスに対する驚きをもたらし、主イエスが与える生きた水を求める思いを少しずつ育てていったのです。その上で、あの13節と14節のみ言葉をお語りになったのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。それを聞いた彼女は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてももいいように、その水をください」と願いました。このようにして、水を飲ませてくださいと主イエスから求められた彼女が、自分から主イエスに水を求める者へと変えられたのです。

しかし、彼女が求めているのはなお、泉から汲む普通の水です。決して渇かなくなる水があれば、繰り返しこの泉に汲みに来なくてもよくなるから、と言っています。けれどもその彼女の心の中には同時に、よく分かってはいないながらも、普通の水を超えた、自分を本当に生かす「生きた水」「永遠の命に至る水」を求める思いが芽生えてきていると言えるでしょう。「水を飲ませてください」と自分に頼んできたこの方は、実は私たちを本当に生かす水を与えて下さる方なのかもしれない、と彼女は思い始めているのです。「主よ」という呼び掛けがそのことを示しています。主であられる方に、渇くことのない命の水を求める思いを、主イエスご自身が彼女の中に起し、与えて下さったのです。

主イエスは私たちと出会って下さり、語りかけて下さることによって、私たちの中にも、主イエスが与えて下さる生きた水、永遠の命に至る水を求める思いを起し、与えて下さいます。その水は、私たちの渇きを一時癒すだけの、その場しのぎの水ではありません。それは私たちの内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出るような水、主イエス・キリストは私たちの内に、新鮮な水が滾々と湧き出る泉を与えて下さるのです。この泉は、主イエス・キリストご自身です。主イエス・キリストご自身が私たちの内に来て下さり、宿って下さることによって、泉となって下さるのです。それは私たちが主イエスを信じて、主イエスと共に生きる者となること、洗礼を受けてキリストの体である教会の一員とされることによって与えられる恵みです。主イエス・キリストと結び合わされることによって、主イエスが私たちの内で泉となり、生きた水によって私たちの渇きを癒し、潤していって下さるのです。

主イエスは私たちの救いのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった方です。そして私たちの先駆けとして復活して、永遠の命を生きておられる方です。十字架にかかって死んで、復活して下さった主イエスが与えて下さる水ですから、それは「永遠の命に至る水」、肉体の死を超えて、私たちを、主イエスの復活と永遠の命にあずからせてくれる水です。「その水を私にください」と求めさえすれば、主イエスという涸れることのない泉が私たちの内に宿って下さり、私たちを決して渇くことのない生きた水によって潤して下さり、流れのほとりに植えられた木のように豊かに実を結ばせて下さるのです。

お祈りを致します。

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あの方は栄える

《賛美歌》

讃美歌54番
讃美歌151番
讃美歌238番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 6篇7-11節 (旧約聖書838ページ)

6:7 わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。
6:8 苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいました。
6:9 悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き
6:10 主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
6:11 敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる。

新約聖書  ヨハネによる福音書 3章22-30節 (新約聖書168ページ)

3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
3:23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
3:24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
3:25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
3:27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
3:30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

《説  教》

今日のヨハネによる福音書と、他の三つの福音書、いわゆる共観福音書との間にはいろいろな点で違いがあります。本日の箇所の冒頭、22節に、主イエスが洗礼を授けておられたと記されています。しかし共観福音書には、主イエスが洗礼を授けたことは何処にも書かれていません。主イエスご自身が洗礼を授けたと語っているのは共観福音書ではないヨハネ福音書だけなのです。また、主イエスと洗礼者ヨハネが同じ時期に洗礼を授ける活動をしていたとも書かれています。この洗礼者ヨハネのことは既に1章に語られていました。彼は主イエスのことを証しするために神から遣わされた人であり、主イエスがこの世に現れることの備えとして洗礼を授けていました。そして主イエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊だ」と記されていました。洗礼者ヨハネと主イエスが同じ時期に活動していたと語られていることも他の三つの福音書、共観福音書とは違っています。例えばマルコ福音書の1章14節では、「ヨハネが捕えられた後(のち)、主イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて…」とあります。共観福音書ではこのように、洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって捕えられた後で、主イエスの活動が始まったと語られているので、洗礼者ヨハネと主イエスの活動は重なっていません。しかしヨハネ福音書がこのように洗礼者ヨハネの活動と主イエスの活動が重なっていたことを語り、しかも主イエスも洗礼者ヨハネと同じように洗礼を授けていたと語っていることには、一つの意図があります。本日の箇所は、その意図に基づいて書かれているのです。その意図とは、主イエスと洗礼者ヨハネとを比較して、両者の関係を明確にする、ということです。しかもその関係を、ヨハネ福音書の言葉によって示そうとしているのが本日の箇所なのです。

ここまで聞いて頂いて、お気付きの方もいらっしゃると思いますが、同じヨハネを名乗っても洗礼者ヨハネとヨハネ福音書を書いた福音書記者のヨハネは全くの別の人物ですので、以降は洗礼者ヨハネと洗礼者を付けると長くなるので、単にヨハネと呼ぶ時は洗礼者ヨハネで、ヨハネ福音書記者のヨハネは福音書記者ヨハネと呼びますので、お間違いない様お聞きください。

ヨハネ福音書が書かれたのは、主イエスの十字架と復活、そして教会の誕生から既に五十年以上が経っていた紀元1世紀の終り頃でした。当時のユダヤには、ヨハネの教えを受け継ぐ弟子たちがまだ多く残っていたのです。その人たちはユダヤ人の共同体の中に残ったまま、ヨハネが授けていた悔改めバプテスマ(洗礼)を受けて、神に従う生活を築こうとしていました。その人々の中から、主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と信じて主イエスの弟子となる、つまりキリスト教会に加わる人々が現れて来たのでした。しかしユダヤ人たちの間には、イエスを救い主メシアと信じる者をユダヤ教会堂から追放する、という迫害が始まっていたのです。ヨハネの弟子たちはそういう状況の中で、ユダヤ人の共同体つまりユダヤ教に留まり続けるのか、主イエスを信じるキリスト教会に連なっていくのか、という決断を突きつけられていたのです。それが、紀元1世紀の終り頃のユダヤ人たちの置かれていた状況なのです。

ヨハネは27節で、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と言っています。ヨハネのもとに人々が洗礼を受けにやって来たのも、今主イエスのもとにみんなが行っているのも、どちらも天から与えられたこと、神の御心なのだ、とヨハネは言っているのです。神の御心によって人々はヨハネのもとに来て洗礼を受けた、そして今、神の御心によってその人々は主イエスの方へと行っているのです。どうしてそういうことが起るのかが、ヨハネによって28節に語られています。「わたしは『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが…」とあります。1章の19節以下に語られていたように、ヨハネは「わたしはメシアではない」つまり救い主ではない、とはっきり語りました。「ではあなたは何なのか」という問いに対して彼は1章23節で、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えました。メシア、救い主である主が自分の後に来られる。私はその主の道をまっすぐに整えるために先に遣わされた者だ、ということです。ヨハネの役割は、後から来られるメシアである主イエスのための道を備えることなのです。だからヨハネの働きによって、人々はメシアである主イエスを知り、主イエスのもとに行ってその救いにあずかっていくのです。神の御心によってヨハネのもとに来た人々が、主イエスこそ救い主であられるというヨハネの証しを聞いて主イエスのもとに行き、主イエスを信じて救いにあずかっていく、それが神の御心なのです。

28節の後半には「そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」とあります。ヨハネの弟子たちが、師であるヨハネの証しを聞いて主イエスのもとへ行き、その救いにあずかることこそが、ヨハネが自分に与えられた使命をしっかりと果たしていることの証しとなるのです。だから、みんなが自分のところにではなく主イエスの方へ行っているという報告は、ヨハネにとってはむしろ当然のこと、喜ぶべきことなのです。

しかし、ここで主イエスが洗礼を授けていたと語られているのは、歴史的には事実ではありません。主イエスは地上のご生涯においては、神の国の福音を宣べ伝え、神のご支配の印としての奇跡を行い、そして十字架の死による救いを成し遂げられたのです。主イエスを信じて受けるキリスト教の洗礼は、復活なさった主イエスのご命令によって、教会の誕生と共に始まったことです。主イエスによる救いにあずかる群れが洗礼によって結集されていったのはヨハネ福音書が書かれた後代です。ですから、地上を歩まれた主イエスがヨハネと同じように洗礼を授けていたわけではないのです。

29節においてヨハネは、主イエスと自分との関係を花婿と花婿の介添え人という譬えで語っています。「花嫁を迎えるのは花婿だ」というのは、婚礼の主役は花婿だということです。その花婿とは主イエスです。自分は花婿の介添え人だとヨハネは言っています。介添え人は「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」のです。当時の婚礼において、花婿には男性の、花嫁には女性の介添え人がついたようです。今の教会の結婚式でも、花嫁には介添え人がついて、いろいろとお世話をします。しかし花婿には介添え人はいません。特に必要がないからです。当時のユダヤの結婚式だって、おそらく花婿の介添え人には大してすることはなかったのでしょう。「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」ぐらいしかすることはないのです。介添え人はあくまでも脇役です。花婿、主役である主イエスに対して、自分は介添え人、脇役なのだ、とヨハネは言っているのです。

30節の「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という言葉もそういうことを意味しています。栄えるべきなのは主役、花婿である主イエスなのであって、介添え人である自分が栄えてはならない、介添え人が花婿より目立ってどうする、介添え人である自分は、むしろ衰えていく、見えなくなっていく、消え去っていくことで、花婿である主イエスの栄光がよりはっきりと表されていくのだ、「みんながあの人の方へ行っています」ということによってまさにそうなるべきである、とヨハネは言っているのです。

さて、ヨハネがこのように自分を花婿の介添え人つまり脇役と位置づけており、「その方は栄え、自分は衰えねばならない」と言っているのを読むと、何だか自分の人生には大した意味がないと言っているようでヨハネが可哀想だと感じてしまうかもしれません。しかしそうではないのです。「介添え人」と訳されている言葉は、直訳すると「友」です。ヨハネは花婿主イエスの友である、と福音書は語っているのです。このことには深い意味があります。15章14-15節には、主イエスのこういうお言葉があるのです。「わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。主イエスが弟子たちを友と呼んで下さる、そこに大きな恵みがあることがここに示されています。主イエスの「友」となるとは、独り子なる神、主イエスが父なる神から聞いたことをすべて知らせて下さり、主イエスの命じること、父なる神の御心を行なうことができるようになる、ということです。僕と友の違いもここに示されています。僕はただ命じられたことをその通りにするのであって、主人が何を思い、何のためにこれを命じているのかなどは知る由もありません。しかし友は、主イエスのみ言葉を聞くことによって、父なる神が独り子主イエスによって実現しようとしておられる救いの御心を知らされるのです。そしてその御心を自発的に行なっていくのです。主イエスの友とはそのように、主イエスの言葉を聞いて父なる神の御心を知り、主イエスと共にそれを行なっていく者です。ヨハネもそういう意味で主イエスの友なのだ、ということを、「花婿の介添え人、友」という言葉に込めているのです。花婿の介添え人が「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」と語られていることが大切な意味を持ってきます。この喜びは、主イエスの友とされた者の喜びです。ヨハネは、主イエスの語る言葉に耳を傾け、主イエスが父なる神から聞いたこと、父なる神が独り子主イエスによって実現しようとしておられる救いの御心をしっかり聞いたのです。それによって、主イエスこそ来るべき救い主であられることを確信し、喜びに満たされて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証ししたのです。このヨハネの姿に、主イエスの友とされた者はどのように生きるのかが示されています。主イエスの友とは主イエスを証しする人です。弟子たちも主イエスの友とされ、証しする者として立てられていきました。1章の6-8節にこのように語られていました。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」。このように、ヨハネを、主イエスの友とされて、主イエスの証しをするというとても大切な働きをした人として、信仰者たちの先駆けとして描いているのです。ですからここに語られているのは、ヨハネは介添え人、脇役に過ぎない、大して意味のない人だ、ということではありません。むしろヨハネは、主イエスの最初の友とされ、主イエスの言葉を聞いて父なる神の救いの御心を最初に知らされた人であり、その喜びを最初に味わった人であり、その喜びに押し出されて主イエスこそ救い主であることを最初に証しした人だったのです。

ですからこのヨハネこそ、主イエスを信じて生きる私たち信仰者の先頭に立っている人です。私たちも、主イエス・キリストのもとに来るならば、このヨハネのようになることができるのです。主イエス・キリストのもとに来ることによって私たちは、自分が神に背いている罪人であり、本来は裁かれ滅ぼされるしかない者であることを示されます。しかしそのような罪人である私たちを、神が愛して下さって、独り子主イエス・キリストを与えて下さり、その十字架と復活によって罪を赦し、私たちが滅びることなく永遠の命を得るようにして下さったことをも示されます。その神の独り子であり救い主であられる主イエスが、私たちを友として下さり、父なる神の愛の御心を御言葉によって知らせて下さるのです。私たちも主イエスと共にその神の愛の御心に従っていくことができるようにして下さるのです。私たちはヨハネと共に、「あの方は栄える」と喜びをもって語ることができるのです。

お祈りを致します。

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悲しみが喜びに変わる

《賛美歌》

讃美歌56番
讃美歌338番
讃美歌515番

《聖書箇所》

旧約聖書  イザヤ書 26篇17節 (旧約聖書1,100ページ)

26:17 妊婦に出産のときが近づくと/もだえ苦しみ、叫びます。主よ、わたしたちもあなたの御前で/このようでした。

新約聖書  ヨハネによる福音書 16章12~24節 (新約聖書200ページ)

16:12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16:14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
16:16 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
16:17 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
16:18 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
16:19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
16:20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
16:21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
16:22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

《説教原稿》

イエスは今や十字架の時、父なる神の御許へ帰る時が近付いていたので、弟子たちに対して告別の説教をされてきました。しかし、弟子たちにはそれらのことが十分に理解出来たわけではありませんでした。

助け主なる聖霊が弟子たちに派遣されることと、その働きについては、ヨハネによる福音書14章で、主イエスは、ハッキリと弟子たちに話されました。16章7節では、主イエスが去ることが「弁護者」の到来という益をもたらすとまで語られています。この「弁護者」とは、皆様がよくご存知の「聖霊」を指しています。この聖霊が派遣されると、8節にあるように、この世に対しては「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」のです。

そして、本日の12節以下に入ります。そこには主イエスが弟子たちに、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」と、主イエスの弟子たちに対する別れの言葉が続いています。主イエスは、とにかく弟子たちに慰めと励ましの言葉を残し、聖霊を派遣されようとしておられるのがよく分かります。

派遣される聖霊の働きとは、13節にあるように「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と弟子たちに対して真理を明らかにするのです。弟子たちは、しばしば主イエスの言葉を十分には理解出来ませんでした。しかし、弁護者である聖霊は弟子たちに主イエスの言葉の意味を明らかにして、弟子たちをすべての真理に導くのです。主イエスこそが、その十字架においてこの世を救われ、聖霊はこれらのことを世に対して明らかにするのです(8‐11)。従って14節にあるように「その方(御霊)はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」と聖霊の働きがはっきり述べられているのです。16節には、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」と、またしても弟子たちの理解出来ないことを言われました。弟子たちは、主イエスの言葉と態度に、何かしら、いつもと違うただならぬものを感じ取っています。張りつめた空気が漂っています。しかし、その言葉の真意を悟ることができませんでした。

この時になっても、まだ主イエスが明くる日に十字架にかかって死なれることになるということを、弟子たちは誰も信じることができなかったのです。弟子たちは互いに、言い合いました。17節と18節に、そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」と、弟子たちのうろたえた様子を伝えています。

聖書を読んで、この後の展開を知っている私たちにしてみれば、もどかしい気もします。「ここまでイエス様がおっしゃっているのに、どうしてわからないのか。」何か映画やドラマのあらすじを知っている者が、その物語の中の登場人物が、それが分らずにいるのがもどかしく見えるのに似ているかも知れません。すぐ横に解決のヒントがあるのに。犯人が分かっているのに。でもそれに気づかないで、通り過ぎていく。テレビドラマなどを見ていると、こちらも、じれったくてイライラしてきます。「ほらそこにいるのに、どうして気づかないの。すぐそこにいるじゃないの。そっちじゃない! こっちだ、こっちだ!」テレビを見ながら、本気で叫んでいる人もいます。

しかし考えてみると、私たちと主イエスの関係も、これと似たところがあるのかも知れません。すぐそばにおられるのに分からない。すぐそばに解決のヒントがあるのに、それに気づかないのではないでしょうか。それをもう一つ、別の視点で見れば、「救いはそこまで来ているのに、どうして気づかないの」ということになるかも知れません。

その気付かぬ弟子たちに主イエスはお答えになります。続く19節で、「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」とあります。

この時、弟子たちは不安と恐れの真っ只中にありました。主イエスがまだ目の前におられる訳ですから、まだ悲しみはそれほど感じていないかも知れません。しかし、主イエスは彼らの悲しみを先取りして、しかもその悲しみは一時的なものだと言って慰め、その先には喜びが待っていると告げられるのです。

少し前の14章19節に「しばらくすると」という言葉が1回出てきます。ところがこの16章では、何と7回も出てきます。この「しばらくすると」と言う言葉が、これから「しばらくすると」自分はいなくなる。しかしまた「しばらくすると」帰ってくる。主イエスは、悲しみに続く喜びまで語っておられるのです。

「しばらくすると」とはおもしろい表現です。日本語訳の幾つかの聖書を読み比べてみましたが、どの聖書も「しばらく」という言葉を使っています。この「しばらく」というのは、「ほんのわずかの間」という意味です。ちなみにギリシャ語では、ミクロンという言葉です。ミクロンというのは、目に見えない小さな世界です。それほど小さな時間、という意味なのです。

時間の感覚というのは、非常に主観的なものです。「しばらく」というのも、それがどれ位の長さなのかは、状況次第です。人によって受けとめ方が違います。同じ時間でも、楽しい時間はあっという間に過ぎますが、苦しい時間は、言いようもなく長く感じたりします。「テレビドラマの30分はあっという間なのに、教会の説教の30分は何でこんなに長いのか」と感じている人もおられるかも知れません。そう言われないように私も頑張り、今日は30分丁度で終ります。

弟子たちにとって、主イエスと一緒にいた「しばらく」の間は、あっという間に過ぎたことでしょうが、十字架の後の悲嘆にくれた「しばらく」の間は、とても長く感じられたことでしょう。

この最初の「しばらくすると」の後は、主イエスの受難、十字架の死を指しているのですが、その次に「喜びに変わる」時とは、復活を指していると読むこともできますし、「聖霊降臨」を指している、と読むこともできるでしょう。

いずれにせよ、主イエスは弟子たちの疑問に明確な答を与えられませんでしたが、弟子たちの悲しみがやがては奪い去ることの出来ない喜びに変る日が来ることを約束されたのです。

もともとヨハネ福音書は、ルカ福音書のようにはっきりと復活の40日後に聖霊降臨という出来事があったという書き方をしてはいません。復活と聖霊降臨が同時であったと読まざるを得ません。ヨハネ福音書の聖霊降臨は20章22節で復活の主イエスが弟子たちの家を訪れ、戸に鍵がかかっているのに、ドアをすり抜けて、弟子たちに息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」と言われるのが聖霊降臨にあたります。

私たちは生きて行く中で、つらい悲しみや苦しみの時があります。また、それに代わる喜びの時もあります。今日の20節の終わりでは「悲しみが喜びに変わる」と主イエスははっきりと言われています。悲しみと喜びが無関係に交互に現れてくるのではなくて、悲しみが喜びに変わると言われています。しかも、このことをたいへん具体的な例で21節に「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。」と、「時」という言葉を使いながら、女性の出産前後の苦しみと喜びのことを表しています。女性が出産後、一人の人間が世に生まれ出る喜びのために、もはや出産の苦痛を思い出さないことに譬えています。今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

16章で7回も出て来た、「しばらくすると」は終末の日を指し示している、という風に読むこともできます。未だこの約束は実現していない。私たちにはまだ悲しみが残っている。そのことは、22節の「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」とあります。この喜びは、わずか一時(いっとき)であるというのではありません。

今日の聖書箇所の時点では、何も分からなかった弟子たちでした。悲しみで心が閉ざされていて、喜びなどなかったのでした。しかし喜びが与えられると主イエスから約束されたことが実現します。20章19節以下に、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。弟子たちは復活の主イエスに出会い、本当に「喜んだ」のです。

主イエスは22節で言われました。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」とあります。主イエスが与えてくださる喜びは、決して奪い去られないものなのです。

これらはあの2000年前のユダヤで主イエスの復活と聖霊降臨の日に起こったことでした。現代の私たちにしてみれば、主イエスは目に見えるお姿ではおられません。目に見えない聖霊として臨在してくださっているのです。しかし終わりの日にはすべての人の目に明らかに現われてくださる。23節には、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」とあります。なぜ尋ねないのか。すべての疑問が解けるからです。主イエスと顔と顔を合わせて一体となる世界が実現するのです。尋ねる必要がないのです。

主イエスが復活される。それは死を乗り越えることです。それだけではありません。私たち人間の罪を乗り越え、悲惨さを乗り越え、病を乗り越え、悲しみを乗り越え、苦難を乗り越える。あらゆることを乗り越える喜びが与えられるということなのです。

たとえ私たちの人生がどのようであっても、一週間ごとに喜びが約束されている人生が私たちキリスト者の人生です。たとえどのような一週間を送ったとしても、私たちはここに集い、与えられている喜びを新たに受け取り、新しい一週間を始めていくのです。

今日の聖書箇所の23節後半には、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

この「願いなさい」というのは、今日の聖書箇所の文脈に合わせて「願いなさい」と訳されていますが、本来は「求めなさい」と訳すべき言葉です。「求めなさい。そうすれば与えられる。」、何が与えられるのでしょうか。喜びです。決して取り去られることのない喜びが与えられる。主イエスがそのように約束をしてくださり、その約束が本当に私たちの間で実現されていくのです。

お祈りを致します。

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すばらしい約束

《賛美歌》

讃美歌68番
讃美歌499番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書  箴言 16章1節 (旧約聖書1,011ページ)

16:1 人間は心構えをする。
主が舌に答えるべきことを与えてくださる。

新約聖書  ヨハネによる福音書 14章12~14節 (新約聖書197ページ)

14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

《説  教》

4月から全国連合長老会と東日本連合長老会のお世話で、この成宗教会に主任担任教師として赴任させて頂いた齋藤正でございます。

新型コロナウィルス感染症の世界的な蔓延と政府の「緊急事態宣言」が出されて、4月の赴任当初から集会自粛で皆様にお会いすることも出来ずに2ヶ月が経ってしまいました。改めてご挨拶申し上げます。宜しくお願い致します。

既に自己紹介や4月からの説教原稿を教会ホームページに掲載させて頂きましたので、ご存知の方々も居られるでしょうが、1944年(昭和19年)5月生れ76歳の後期高齢者です。生家は明治維新以来のクリスチャン家庭で私で四代目でしたが、私が洗礼を受けたのは定年まで勤めた大手化学会社に勤務中の43歳の時でした。受洗以来、御言葉の伝道を心掛けてきましたが、子育てにも追われて、献身を決意して東京神学大学を受験した時には69歳になっていました。

東神大では若い神学生は少なかったものの、それでも私よりずっと若い二十数名の同級生と共に2年前に大学院を修了し、文京区の根津教会の主任担任として奉仕させて頂き、今年の4月にこちら成宗教会へ招聘頂いた訳です。

そんな晩生な私が年齢も顧みず伝道者になろうと思った理由は、主イエスに救われるとは、私自身にとって、まったく予想出来なかった驚きを通り越した喜び・感謝があったからでした。この神の御恵みを少しでも人々にお伝えしたいとの思いからでした。その神の御業の不思議な有難さは、単なる日常の些細な時だけではなく、日々祈り、聖書に聞き、そして交わりの時に覚える事が出来ます。

しかし一方では、こんな年になって、物忘れが物覚えに先立ってしまう程に、信仰の学びの足りない私に神の御旨を充分に皆様に伝えて行けるだろうかとの心配もあります。

そんな時、主なる神は先ほどお読み頂いた旧約聖書「箴言」の御言葉を私に投げかけられました。「人間は心構えをする。主が舌に答えるべきことを与えてくださる。」と励まされました。

パウロがコリント書3章で言う、キリストとの関係が‟乳飲み子“の様な私に対しても主なる神は、この箴言の御言葉で私たちを支えて、語るべきことを与えて下さるのです。このことこそが、主の御言葉を語るすべての者に与えられた恵みであると確信しています。

今日お読みした新約聖書のヨハネ14章の、この聖書箇所は、読み方によっては少々難解というか。場合によっては誤解を招きやすい箇所です。

と、言いますのは12節にある「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と記されている聖書箇所です。キリストを信じる私たちが主イエスの行われた業を見倣って行う、までは分かりますが、キリストよりもっと大きな業を行うようになるとあります。キリストの御業より‟大きな業を行うようになれる“と取られかねない言葉があるからです。

その為に、ヨハネによる福音書のこの聖書箇所に至る主イエスの足跡を、少し前に遡って辿ってみたいと思います。後に弟子たちの中の使徒としても第一人者となるペトロが‟イエス様のためには自分の命をも捨てます“と言い切る、そのペテロでさえも主イエスから離反してしまうことを、主イエスご自身が直前の13章36節から予告しています。

そして、迫りくる十字架の前の晩、精神的にも極めて重い気持ちでおられた主イエスが残った弟子たちにされた最後の説教の初めの部分で語られたのが、この御言葉なのです。

主イエスご自身が苦難の死を予告される中で、それを聞いた弟子たちは共に大変な不安の中にあったことでしょう。そんな状況の中での主イエスご自身による弟子たちへの発言でした。

この様な状況を考えても、主イエスが心を込め、ご自分で予知しておられる十字架の死を見詰めながら、弟子たちに丁寧に愛をもって話されていること分かります。しかし、残念なことに、弟子たちにはそんな主イエスのことは、まったく分かっていなかったのでした。

14章にはいると、フィリポとトマスの弟子二人だけが登場しますが、実際には裏切ったユダを除いた、他のすべての弟子たちが一緒に居て主イエスの話を聞いていたと思われます。ここで、主イエスは、ご自身が地上を去る日の近いことを弟子たちにお話になりました。そして、それを、聞かされた弟子たちが動揺するのを見越して主イエスは、「心を騒がせるな。」しっかりしなさいと言われました。

ここで、主イエスはご自分の復活と弟子たちの先行きにも極めてはっきりとお答えになっておられるのです。

その主イエスのお話しを弟子たちには、まったく理解出来ていませんでした。

5節には、「トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。』と、トマスが主イエスに聞いたとあります。トマスは、主イエスが弟子たちから離れてどこかへ旅立って行くのかといった、不安の中からちょっとピント外れな質問をしています。

このトマスの質問に対して、主イエスはあの有名な真理の教えである御言葉を返されます。6節以下に、「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。』とあります。

この主イエスと弟子たちとの遣り取りでは、天の神から遣わされて、再び天に帰っていく主イエスは、弟子たちと信じる者たちのために、天に場所を用意し、彼らを父と子の交わりの中に入れようとされているのです。そして、その交わりの用意が済み次第戻って来られることを約束して下さいました。この主イエスの語られた、主イエスがすぐに戻られる再来の約束は、ヨハネ福音書の特徴でもあるのです。

そして、続く8節では、今度はフィリポが、トマスと同様に主イエスを充分に理解しているとは思えない質問をしました。「主よ、わたしたちに御父(おんちち)をお示しください。そうすれば満足できます」と言ったのです。

これは、ある意味ではすべての人間の思い・願望を代表しているとも言えます。フィリポは直接神を見たいと願ったのです。我々人間は例え信心や信仰心がなくとも、はっきりと神を見たい、直接神に会いたいという気持ちがあるものです。そのフィリポの質問に対して、十字架が直前に迫りながらも主イエスは丁寧にフィリポにお答えになりました。9節以下に“イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 わたしが父の内(うち)におり、父がわたしの内(うち)におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。”とあります。このフィリポの質問に対して、主イエスはキリスト信仰の本質である父なる神とご自分の関係をフィリポにお答えになりました。主イエスを見た者は父なる神を見たのです。これは、ヨハネ1章の初め(18)から繰り返し語られている重要な真理なのです。御子イエスが御父におり、御父が御子イエスにおられるという一体性が主イエスご自身によって語られているのです。主イエスの御言葉と御業とが主イエスをお遣わしになった父なる神の言葉であり、教えなのです。

そしてこれからが、今日の問題の12節以下です。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」とフィリポに丁寧に話されました。この12節には「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と記されています。

この12節を別の日本語訳の聖書で読んでみますと、口語訳聖書では、「わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。」とあります。

また、新改訳2017聖書では、「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。」とあり、大きな意味の差ははありません。この12節には「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と明確に記されています。この様に、日本語訳聖書を読むと、主イエスを信じる者が、主イエス以上の大きな働きをする様になると記されているのです。

使徒たちや弟子たち、初代教会の信者たちだけでなく、2000年後の私たち信仰者にいたるまで、凡そ主イエスを信じる者達が主イエスを越える働きが出来ると言われているのです。三位一体の神であられる主イエスを越える働きが出来るとは、どの様な意味で主イエスが語られたのでしょうか?

主イエスより大きな業がいったい私達に可能なのでしょうか?

古来、この聖書箇所の解釈には様々なものがありましたが、どう考えても、神であり数々の奇跡を行われ、天に上られた主イエス以上の大きな業が出来るとは思えませんし、また聖書原典をひっくり返して詳しく読み直しても主イエスの行った業を越える、大きな業はどこにも具体的に記されていません。そこで、再度よくよく12節を読んでみると、「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」とあります。

ここで注目すべきこととして、「もっと大きな業」とは主イエスの御業より大きいと明確に書いてあるのではない上に、注目したいのは、12節の終わりに『わたしが父のもとへ行くからである。』と「もっと大きな業」が切り離せない主イエスの言葉として語られている言葉ではないでしょうか。

この2つの言葉の密接な繋がりをみてみますと、主イエスを信じる者は、主イエスが行った業、例えば愛の業を主イエスに倣って出来るようになり、更に加えて、その人自身で行った業を更に越える業を行うようになっていく、主イエスに倣って行った業が進歩していく、発展していくと解釈もできます。

つまり、主イエスの行う業を越える業ではなく、主イエスに倣って信じて行った業が、主イエスによって更にもっと大きな業を行うことが出来る様になると約束していて下さるのです。

その理由が、主イエスが父なる神の御許に行かれ、聖霊を送って下さり、その聖霊が「弁護者」として働いて下さるからなのです。

「もっと大きな業」とは、主イエスが私たち信じる者を、神として天上から導かれると同時に、その主イエスが聖霊を遣わす働きが、2000年前のユダヤの地にて真の人であった主イエスご自身がこの地上でなさった神としての御業を除く、人としての御業を越える御業とも、限定的に考えられるのです。

また、「もっと大きな業」とは、弟子たちの働きが、主イエスがこの地上でなさったより、もっともっと広い地域に拡がり、パレスティナだけでなく、全世界的に広がると言った意味も含んでいるとも考えられます。

この、主イエスよりも「もっと大きな業」を弟子たちがすることができるのは、主イエスが父なる神の御許へ帰られて、来たるべきこの世の終わりに再びこの地に来られ神の子たちを全世界的に集められることにおいてなされ、それが、世界の歴史全体の終末論の目的であり、弟子たちの働きにおいて、それがなされることだとも言えるでしょう。

今、既に信仰を与えられている私たちは、自分は主イエスを三位一体なる神として受け入れている筈です。しかし、私たちはキリスト者であっても、案外この時のトマスやフィリポのように、主イエスが語られる教えを守って行くことで真理に到達し、命が得られると思い込んでしまうのではないでしょうか。

そのような思い込みの中で、日々の教会生活が真の平安の内に置かれずに、心を騒がせてしまうことがあるのではないでしょうか。「わたしは主イエスのために死ねる」と、そこまでは言えなくとも、自分の信仰の道が、救いを得るために十分であろうか、言い替えれば、キリスト者として充分に働いているのかと言うことに関心を集中させていないでしょうか。

その結果は、自分の奉仕の至らなさを嘆き、隣人の欠けを裁いたりするのです。それは、本当に救いに至る道とは違い、自分の働きで救いに至ろうとする道です。

そのように時として道を踏み外す私たちに、主イエスは、わたしこそ道であるとおっしゃっているのです。私たちではなく主イエスが、父の御許へ行く道を歩んで下さり、救いを成し遂げて下さった。それ故、私たちは、主イエスこそ、神であることを信じ、神によって成し遂げられた救いの御業に信頼して主イエスの道を歩めば良いのです。そのような歩みをする時、12節で記されているように、「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」のです。

主イエスこそ真の道であると信じて、その道を歩き出す時、その道を歩く者は主イエスの業を行う者とされていきます。それは、自分の救いを自分の力で確かなものとするために、道を求め、道を究めて行くような自分の業ではありません。私たちが、自分の業によって救いを得ようとするのではなく、主イエスこそ神であり救い主であるという信仰に生きる時に、自然と、主イエスの救いが証しされて行くのです。そのようにして、私たちが、道である主イエスを指し示して行くのです。主イエスの救いに生かされる信仰者が、道そのものである主イエスを指し示して行くのです。

14節には、「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」とあります。これは、主イエスを信じれば御利益として、願い事がかなうと言うことではありません。真の道を歩み、主イエスの御業を行って行く歩みを通して、主に栄光を帰して行く時、真理、命にあずかっていると言う真の平安が与えられると言うことです。

私たちは、私たちが父なる神のもとに行くための道となって下さった主イエスを、自分自身の主、神と受け入れつつ歩む時に、真に神と結ばれる者とされます。自分自身の力で神の御許へと行く道を捜し求め、そこを歩いて行こうとすることによってではありません。私たちではなく主イエスご自身が、父にいたる道を歩き、それによって私たちが父と結ばれていることに信頼して、道であり、真理であり、命であるキリストを通して父のもとへと歩んで行くのです。そのような歩みをする時にのみ、私たちはどんな困難な力が迫る時にも、たとえ自分の命が取り去られてしまうような死の力が襲う時にも、心を騒がせることなく、平安の内に歩む者とされるのです。その道が、神であられる主イエスが歩んで下さった道であるが故に、必ず、父のもとへと通じているからです。

主イエスを信じる私たちは、御霊によって、日々導かれ、主イエスに倣った業をすることが出来ると、主イエスご自身によって約束されています。そして、その業は聖霊の力によって、主イエスに倣って行うごとに、より大きく、より深く、より良くなっていくのです。

その結果、私達信じる者が、「さらにもっと大きな業」ができると、『すばらしい約束』を私達にして下さいました。

お祈りを致します。

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