潔められた者

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌67番
讃美歌239番
讃美歌365番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 2章13節 (旧約聖書857ページ)

  • 2:13 穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。

新約聖書:マルコによる福音書 9章38-50節 (新約聖書80ページ)

9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
9:44 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
9:46 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。
9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

《説教》『潔められた者』

本日朗読されたマルコによる福音書9章38節から50節は、主によって語られた短い御言葉を集めたものと思われます。マタイ福音書における山上の説教と同じように、マルコ福音書では代表的な箇所ですが、このような教えを読む時も、これまで述べて来た「聖書を読む基本」から外れてはなりません。「一日一言」というような処世訓や格言集などと混同してはならないということです。ここで語られていることは、「神の御業であり福音である」ということを信仰の目を通して認識しなければなりません。

今日の38節で、弟子のヨハネが主イエスに、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」と言ったとあります。

ペトロを初めとする十二人の弟子たちが主イエスと行動を共にしていましたが、主イエスがまだ生きて宣教をされていたこの時代、既に、主イエスや弟子たちと別行動を取る者も居たようです。バプテスマのヨハネの弟子たちは、ヨハネの死後、主イエスの弟子たちとは別に、独自に神の国を宣べ伝えていたということはよく知られていますし、さらにまた、数々の人々が福音に関わるような行動をしていたようです。

主イエスは、ガリラヤのいたるところで福音を伝え、神の御心を語りました。多くの人々が主イエスの後を追いかけ、何度も何度も説教を聞いたことでしょう。当然、その中には、ペトロを初めとする十二弟子以上に理解力に優れた者もいた筈です。主イエスから聞いたことを、他の人々に語った人もいたでしょう。そして、驚くべきことには、主イエスの御言葉を伝える時、主イエスと同じような「力ある業が為されることもあった」というのです。

ここで、ヨハネが指摘し、非難している者たちが、主イエスの真似をしていた偽メシアであったと考える必要はありません。後に使徒言行録に現れる魔術師シモンは、奇跡を行う力を金で買おうとして失敗しましたが(使徒言行録8章9節以下)、ここに現れた人はそのような者ではなく、もっと素直に福音を宣べ伝えていたと思われます。

ヨハネの言った「お名前を使って」とは「名前を騙る」という悪い意味で読まれるかもしれませんが、そうではありません。古代の魔術師たちは秘密の神の名を呼ぶことによって、その神の力を利用すると考えられていました。魔術師の呪文とは「秘密の神名」のことです。ですから、「名前を使った」とは「権威によって」という意味であり、現実に行われた「悪霊の追放」が、主イエスの権威を背後に持っていることを証明しているとも言えます。

このヨハネの言葉、ギリシャ語の「エン トー オノマティ ソー」を訳すと、正しくは「あなたの名によって」であり、「利用して」ではなく、「あなたの権威によって」の意味であり、「イエス・キリストへの信仰によって」と言い換えることも出来ます。「やめさせてはならない」という主イエスの容認の言葉は、この権威を意識されているとも言えましょう。

ここで私たちは、「キリストを信じる者は、語る言葉そのものが権威を持つ」ということを教えられるのです。それこそが「信仰の力」なのです。ヨハネはその信仰の奥義を理解していなかったのです。

主イエスは、その「信仰の力」を教えられているのです。むしろ、主イエスの御心は、福音が弟子たちだけのものではなく、この後、福音が世界の至るところに広がって行くことを望んでおられるのです。マタイ福音書最後の28章の大宣教命令が、このことを明白に裏付けています。

そしてさらにそれだけではなく、主イエスの「やめさせてはならない」と言われた積極的な承認の背景には、人々に対する信頼がありました。まず知らされることは、キリスト者は「主の信頼を受けて生きている」ということです。

それが39節の主イエスが言われた「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」との、ヨハネに対する言葉ではないでしょうか。

ナザレのイエスを救い主キリストと告白する者、その告白の言葉によって神の栄光を明らかに示した者は、決して裏切ることはないということを、主イエスご自身が語られているのです。何と素晴しい宣言でしょう。

多くの聖書注解者たちは、ここで「主イエスは寛容を教えられた」と言いますが、これは「寛容」などという生易しいものではありません。十字架を意識した主イエスが、御自分の死後を託す人々への信頼を語っているのです。私たちは、このキリストの信頼に包まれていることを強く意識すべきです。

続いて主イエスはヨハネに「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」と、ここで「ひとりの人」を大切にすることを教えておられます。それは、単なるヒューマニズムにとどまるものではありません。重要な言葉がここにあります。それは41節の「キリストの弟子」という言葉と42節の「わたしを信じる者」という言葉です。弟子たちに、キリスト者として行うこと、キリスト者として受けること、すべてがキリストの愛の中を生きることだと教えておられるのです。ひとりの信仰者を愛することは、主イエス・キリストを愛することです。ひとりの信仰者を傷つけることは、主イエス・キリストを傷つけることです。人類という同じ種類の生物として、人間愛、ヒューマニズムをもって受け容れることではなく、「キリストを愛すること」が行いの基本なのです。御子キリストがその人のために生命を捨てられたことを知るならば、その人の生命が、キリストにとって「かけがえのないものである」ことを知るのです。

私たちの社会でも、恩義を知る者は、受けた恩に報いるために「恩人の愚かな息子をも見捨てない」ということがあります。私たちは、私たちのために十字架につかれたキリストの愛を知らされているのです。その愛の大きさを知るが故に、キリストが愛された人々を、キリストへの信仰の表れとして愛するのです。言わば、主イエス・キリストが「全ての人々の後見人である」とも言えるでしょう。そして私たちは、このように、隣人を愛するだけではなく、この大きな愛に「自分も守られている」ということを教えられるのです。

42節以下には、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるならば、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるならば、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。」と極めて長く厳しい言葉が連ねられています。

「片手」「片足」「片目」、全ては自分の大切なものの象徴であり、捨てるに捨てられないものです。ここに記されていることは、古代オリエントで広く知られていた「目には目を歯には歯を」という『同害報復法』で知られていますが、「片手」「片足」「片目」を失うことは、大切なものを代償とするという原理であり、現代のイスラム社会でも身近なたとえです。

しかし、主イエスは、「自分にとって大切なものであっても切り捨てよ」と言われていますが、この御言葉の中心は、勿論、「切り捨てること」にあるのではなく、「生命に入れ」「神の国に入れ」と言うことです。むしろ、「失うべからざる大切なもの」という意味でとらえておくべきでしょう。私たちにとって、片手、片足、片眼を失うことには耐え難いことであり、如何に罪を犯したといっても、それを切り取ることはしません。

しかし、御子キリストは、私たちのために生命を捨てられたのです。十字架の上で殺されました。私たちの魂を救うために、「何を犠牲にしても悔いはない」というキリストの御心を、この厳しい言葉から読み取ることが出来るでしょうか。私たちは、この御心に包まれているのです。

本日の結論とも言える言葉が49節から「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」とあります。

さっと読むと、何となく良く分かったと思える言葉ですが、「火で塩味を付けられる」とは何でしょうか。

かつて、旧約の時代、神殿で献げられる生贄の動物は、塩をかけて潔めてから献げられました。それを「契約の塩」と言います。本日の旧約聖書レビ記2章13節がそれにあたります。祭壇に供えられる動物は、塩の潔めによって、「聖なるもの」として神に献げるに相応しいものになると考えられていました。塩は、「潔めの塩」の意味を持ちます。また、「火」も、穢れを消滅させる「潔めの火」として尊ばれていました。

ですから、「人は皆、火で塩味を付けられる」とは、「神の潔めを受けている」ということなのです。私たちは皆、「イエス・キリストの贖いによって潔められた者」として、自分を神の御前に差し出しているということです。

本来、私たちの誰が、自分を「神の御前に差し出すのに相応しい」と思っていたでしょう。むしろ、恥ずかしくて、アダムやエバのように、木の陰に隠れたいところです。しかし主イエスは、もはやそんな心配が不要なことを宣言しておられるのです。

何故なら、私たちは、「契約の塩、潔めの火としてのキリストの血」によって潔められたからであり、キリストの贖いの御業によって、私たちの弱さ・愚かさに拘わらず、「聖なるもの」に造り変えられたからなのです。

私たち相互の交わりにおける平安は、この神に受け容れられたことから生じます。私たちは、もはや「神の国から弾き出される」ような者ではありません。人生の一番大切なときに、「お前には用がない」と言って締め出される者でもありません。父なる神が受け容れてくださる保証を、御子キリストが与えてくださったのです。この「神の受け容れ」を主は「平和」と表現しています。聖書は、ここをヘブル語で「シャーローム」と記しています。

「シャーローム」とは、政治的概念としての「戦いのない状態・平和」ではなく、「和合」「充満」を意味し、「欠けるところのない満たされた平安」を表す言葉です。このような状態は、神によって与えられるものでしかなく、神と共に生きる世界にのみ存在するものと言えるでしょう。神によって受け容れられた姿、それを真実の平安と言うのです。

キリストを信じる小さな者をつまづかせる者になるのではなく、自分自身の内に潔めの塩をもって、自分の家族を始め、一人でも多くの方々と共にキリストの十字架に救われ、互いに平和に過ごしたいものです。

お祈りを致します。

仕えて生きる

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌20番
讃美歌194番
讃美歌453番

《聖書箇所》

旧約聖書:コヘレトの言葉 3章1-8節 (旧約聖書1,036ページ)

3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3:3 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
3:4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
3:5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
3:6 求める時、失う時/保つ時、放つ時
3:7 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
3:8 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。

新約聖書:マルコによる福音書 9章33-37節 (新約聖書79ページ)

9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

《説教》『仕えて生きる』

主イエスと弟子たちはカファルナウムにやって来ました。ガリラヤ湖のほとりにあるカファルナウムは、ペトロの家がある町であり、イエスが宣教の生涯を始められた記念の場所でもあります。

しかし今、このカファルナウムは、旅の目的地ではなく、「旅の通過点」に過ぎませんでした。主イエスの眼は、しっかりとエルサレムへ向けられ、父なる神の御心に従い、全ての人間の罪の贖いを実現するため、十字架を生涯の目標として定められていたからです。

33節の「家に着いた」とは、恐らくペトロの家でしょう。彼の家は、イエスが最初の説教を行ったカファルナウムの会堂のすぐ前にあり、ペトロの義理の母の熱病を主が癒されて以来、活動の拠点として用いられていたようです。

それ故に、「その家に着いた」ということは、ペトロにとって生家であり、また、元来この町の漁師であったペトロの弟アンデレや、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ兄弟たちにとっても、懐かしい心安らぐ場所であったと言えるでしょう。

久し振りに故郷へ帰って来た思いに満たされている弟子たち。その町も棄てて行かれようとする主イエス。この意識の差が、まさに喜劇的であり、悲劇的なかたちでここに記されているのです。

「途中で何を議論していたのか」。イエスは弟子たちにこうお尋ねになりました。彼らが何を話していたのかは、すぐ次の34節で明らかにされていますが、先ず、この「途中」という言葉に注目する必要があります。

文語訳聖書では、ここを文学的に「道すがら」と訳しています。「汝ら、道すがら、何を論ぜしか」。素晴しい訳文です。主と共に歩む旅が私たちの人生であるならば、私たちもまた、この「主と共に歩む旅の道すがら、何を語るのか」を問題にすべきでしょう。ですから、「何を議論していたのか」は少々大袈裟で、「語り合い」と言うほうが適切でしょう。「主と共に歩む人生の道すがら、何を語るのか」。それが今日、改めて考えるべき問題です。

フイリポ・カイサリアからエルサレムへ、主イエスは十字架への道を歩んでおられるのです。生まれ故郷を棄て、親しい人々と会うこともせず、ただひたすらに、父なる神の救いの御計画実現のために尽くされようとしているのです。

主イエスの受難に向かわれる道すがら、共に歩む弟子たちはは何を語り、何を思うべきでましょうか。

私たちもまた、「キリストと共に生きるとき」、自分が何処へ向かって歩んでいるのか、何処へ導かれているのかを、改めて見詰めるべきです。そして、自分の歩むべき道が行き着くところを正しく見極めた時、初めて、この人生の道すがら「主の弟子として何を語るべきか」ということを知るのです。

主イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになると、弟子たちは「黙っていた。」とあります。

弟子たちは黙っていました。主イエスの問いに答えられませんでした。主イエスの問いかけに対し、沈黙する人間に、「正しい生き方をしている者は一人もいない」と言ってよいでしょう。

例えば、今年1月10日に「怒る主イエス」と題して、マルコ3章1節から御言葉を聞きました。お読みします。

3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。

3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。

3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。

3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。

キリストの問い掛けに「彼らは黙っていた。」とあります。キリストの御言葉を、正面から受け止めようとしない姿。都合の悪いことには答えない「頑なさ」。その時、その人の心の中には何があるのでしょうか。

主イエスの問いかけに沈黙する時、いや、沈黙せざるを得ない時、それは、自分の心への警戒警報であると言えます。何故、答えることが出来なかったのでしょうか。何故、沈黙してしまったのでしょうか。弟子たちは、決して口数の少ない人間ではありませんでした。あの厳粛な最後の晩餐の席上でも、いろいろなことを語り続け、主イエスにたしなめらるような人々でした。

しかしながら、それでもなお、「何を話していたのか」と尋ねられた時、「黙ってしまった」ということは、彼ら自らが問題点を暴露してしまったと言うべきではないでしょうか。

何故なら、その「おしゃべり」の内容が、主イエスには言えないようなものであったからです。主イエスと共にその道を歩きながら、「主イエスを抜きにした話に熱中していた」というのです。

私たちの日毎の歩みでも、現に慎むべきことは、主イエス・キリストを抜きにした「おしゃべり」です。「主の御前で言えないような話」はしないことです。互いの「おしゃべり」には熱心だが、キリストとの対話は拒否してしまう人間。それが弟子たちの姿であったということは、驚くべきことではありますが、信仰に生きていないときは、誰でも、そうなる恐れがあるのではないでしょうか。

さらに恐るべきことは、主イエスに分からないように話し合っていたつもりのことが、全て、実は「イエスには分かっている」ということです。それは35節からもあきらかです。「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と、あります。弟子たちが、沈黙によって心の中に覆い隠したつもりのことを、主イエスの方から話題にされました。「分からないから」尋ねたのではなく、「知っていながら」問いかけたのです。

エデンの園の物語を思い出してください。あの時、御言葉に背いたアダムとエバは、主なる神がお帰りになったことを知り、木の陰に隠れました。その時、主なる神は「あなたは何処にいるのか」と言われました。全能の神に木の陰にいるアダムが分からない筈はありません、すべてを御存知でありながら、アダムに自分の罪を告白して出て来ることを期待しておられたのです。誰が、主なる神の眼差しから自分を隠すことが出来るでしょうか。誰が、主イエス・キリストに聞かれないように内緒話をすることが出来るでしょうか。主なる神は、全てを見通しておられる方です。

語り合っていたことは、「誰がいちばん偉いか」ということでした。「いちばん偉い」とは、「おおいなる者」という意味です。「最も大切な役目を果たす者」のことです。

このこと自体、決して悪いものでないことは、主イエス御自身、「いちばん先になる方法」を教えておられることで明らかです。むしろ、よく言われる「無気力なキリスト者」になってはならないのであり、誰でも「上を望む心」「向上心」を持たなければなりません。

弟子たちは、「誰が一番偉いか」と議論していたというのですが、それは、誰が一番身分が高いかとか、誰が一番金持ちか、というような話ではありません。彼らは、誰が主イエスに一番仕えているか、弟子としての務めを最も忠実に果たしているのは誰か、ということを競い合っていた筈です。例えばペトロは、「自分こそ、一番先にイエス様に呼ばれて弟子になった者だ。自分は誰よりも長くイエス様に従い、仕えている」と主張したことでしょう。それに対して他の弟子たちも、「イエス様に従い仕える思いなら自分だって決して負けてはいない」と反論したことでしょう。そのように彼らは、主イエス・キリストに仕えることにおいて、一番素晴らしい弟子になろうとしていた筈です。それと同じことは教会においてもしばしば起ります。教会で自分の意見ばかりを主張してそれに固執し、人を自分に従わせようとするようなタイプの人はあまり好まれません。むしろ身を低くして神様と隣人とに仕えていくような人が尊敬されます。それは主イエスの教えからして当然のことですが、しかしそこにはともすれば、自分はいかに謙遜に奉仕をしているか、ということにおいて人よりも先になろうとする、という競い合いが起ります。「誰が一番偉いか」と議論していた弟子たちの思いは私たちの中にもあります。ですから弟子たちに対して語られた主イエスのみ言葉は、私たちに対するみ言葉でもあるのです。

それを、主イエスの御前では言えないのは何故でしょうか。ひとことで言ってしまえば、弟子たちの話し合いの内容が、神中心ではなく、人間中心、自己中心的であったのです。神との対話を「祈り」と言います。「祈り」から離れた姿、「祈り」を必要としない事柄、これら全ては、神なき人間の姿であり、人間主義として否定されなければならないのです。

しかも、弟子たちは、それを自覚して、恥ずかしくて言えなかったのです。既に見て来たように、御言葉に答えられない沈黙は、しばしば主の叱責を受けざるを得ません。弟子たちが競い合っていた「偉さ」とは何でしょうか。この論点をもう少し深く理解しておくことは大切です。

ここで主イエスは、あえて「いちばん先になる方法」を教えられました。「いちばん先」と訳されているギリシャ語の“プロートス”とは、文語訳聖書では「かしら」、新改訳聖書では「ひとの先に立つ」、翻訳に忠実な岩波訳聖書では「筆頭の者」と訳されている、時間的に早いという意味を含めて英語の“First”と言う言葉に当たります。

主イエスは、「いちばん先」となることを否定しているのではなく、むしろ、「それを望め」と言われています。大切なことは、「何がいちばん先なのか」ということを知ることでです。

主イエス・キリストの福音を信じる者の最大の希望は、罪赦されて「永遠の生命」を受けることであり、「神の国」に迎えられることです。

罪を自覚する意識が強ければ強いほど、神の国を求める願いは強くなります。そして罪の恐ろしさを知る者は、決して罪の世界に長く留まりたいとは思わないでしょう。

私たちもまた、神が「生きよ」と言われる限り、生き続けるのです。その歩みの全て、その努力の全ては、招かれている「神の国に於ける喜び」が目標なのです。キリスト者は、この希望を明らかにする者です。そして、その希望を持つ者は、必然的に、「いちばん先になりたい」と思い、神の国に最初に入りたいと願う筈です。

「いちばん先になりたいと思わない人」は、自分が今生きている世界の価値のなさを自覚していない人であり、キリストが招いて下さる神の国の素晴しさを、理解出来てない人と言えるでしょう。

しかし、主イエス・キリストは、その願いを強く持つ人ほど、結果として、「いちばん後になる」と言っておられます。

「いちばん後になる」とは何でしょうか。これは、決して、「最後で結構です」というような遠慮がちで謙虚なものではないのです。むしろ、願いを強く持つ人ほど、自分から「後になる」と思うでしょう。「いちばん後になる」というところに重点があるのではなく、「仕える者になる」ということが大切なのです。主に招かれた者にとって、人生の目標は明らかです。

もし、神の国に入ることが最も大切な願いとなっているならば、「自分ひとりだけ入れば良い」とは、誰も思わないでしょう。自分が愛している人々と、「なんとか一緒にそこへ行きたい」と願うのではないでしょうか。

山に登る時、自分だけ頂上を目指し、足の弱い人を置いて行く登山者がいるでしょうか。疲れた人を励まし、登頂を断念しようとしている人に、頂上の素晴しさを語って力づけるのではないでしょうか。そして、なんとか一緒に到達の喜びを味わおうと、荷物を持ち、手を引き、後ろから押し上げるのです。強い人ほど、後ろから上がることになります。

それと同じように、「共に神の国に入りたい」という熱心さが、結果として、「いちばん後ろになる」のであり、御心を受けて「人に仕える」という姿が、そこに表されるのです。

身体に障害のある人々など社会的弱者は、この社会では一人前の権利を認められているとは言えません。しかし、神の国では、そのような差別はありません。つまり、神の救いの御業の対象は、人間の差別を超えるものであり、神の愛が「全ての人間に向けられている」のです。

従って、信仰の熱心さは、「一人でも救いから漏れることは耐えられない」という気持ちとなって出てくるでしょう。もちろん、その「救い」の成果は、私たちの手によって決定するものではありません。父なる神の御心を想い、十字架への道を歩み続けた主イエス・キリストの御姿を思い返すならば、「一人でも多くの方々と共にその道を行こう」と思うのではないでしょうか。共に生きる人を思わず、自分だけの誇りを求めることは有り得ません。

弟子たちが議論していた「誰が一番偉いか」とは、「すべての人を救いたい」とのキリストの御心忘れていることであり、主イエスは、信仰の本来の姿を弟子たち、私たちに教えたかったのです。

主イエスの愛に包まれた人生の喜びを覚える時、神の国に向かって生きる人生の意味を知る時、その時こそ、御子キリストを遣わされた神の喜びに仕えて行く人生を確認することが出来るのです。

私たちキリスト者は、人生の旅路が決して孤独ではないことを知っています。そして、人生が、「孤独の旅ではない」ことを知り、一人でも多くの「共に信仰の旅路を歩む人」を望むのです。

その希望に満たされて歩むこと、それが、イエス・キリストの問いかけに、正しく答える人間の生き方です。

お祈りを致します。

生きる目標

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌191番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 22章1-14節 (旧約聖書31ページ)

22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
22:3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
22:4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、
22:5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
22:6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

新約聖書:マルコによる福音書 9章30-32節 (新約聖書79ページ)

9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

《説教》『生きる目標』

本日の聖書箇所は、主イエスご自身による二回目の受難の予告です。マルコによる福音書は、受難予告を三度も繰り返すことによって、何を語ろうとしているのでしょうか。

最初は8章31節でした。その時、主イエスがはっきりと語られたことに対して弟子たちは何も分からず、かえって「サタン、引き下がれ」と叱責される始末でした。二回目が本日の聖書箇所で、ここでは、最後の32節で、「この言葉が分からず、怖くて尋ねられなかった」と記されています。三回目は10章32節以下で、予告が最も詳しく語られたにも拘わらず、先頭に立ってエルサレムへ向かう主イエスの毅然たるお姿に、弟子たちは、「驚き、恐れた」とあります。十字架へ向かわれる主イエスの凄まじい気迫に圧倒されている弟子たちがそこに描かれています。

主イエスと弟子たち一行は、これまでユダヤ人居住地の北の外れフィリポ・カイサリアに居ました。ペトロの信仰告白がなされ、山上の変貌という大いなる出来事が起こったのもここでした。しかしこれから、主イエスは一気に南のエルサレムへ向かって進まれるのです。「そこを去って、ガリラヤを通って行った」とは、「通り過ぎて行った」の意味です。エルサレムへ向かう主イエスの視線には、もはやガリラヤはなかったのです。

ガリラヤは、主イエスがお育ちになったところであり、親しい人々が沢山おり、福音を語られた最初の場所、力ある業を最も多く為されたところでした。そして、弟子たちの殆どはガリラヤ出身であり、一行にとって、懐かしい故郷でした。

しかし今、主イエスはそこを通り過ぎて行かれたのです。主イエスを必要とする人々がもういなくなったのでしょうか。主イエスは、ガリラヤ地方に対する愛着を捨ててしまわれたのでしょうか。

確かに、反対者たちの妨害活動は次第に激しくなって来ました。しかし、遥か北のフィリポ・カイサリア地方でさえ、噂を聞いて多くの人が集まったことを考えると、ガリラヤの人々は益々主イエスを求めていた筈です。素晴しい御言葉、力ある御業を追い求めて、人々はなおも集まって来たに違いありません。これらの人々に対する主イエスの愛と憐れみが「冷めてしまった」などということは全く考えられないことです。

それでは、何故、主イエスは、この愛すべき故郷ガリラヤを通り過ぎて行かれるのでしょうか。

 

私たちの人生にも、さまざまな状況があります。自分を受け入れてくれる温かい場もあれば、まったく顧みられない場もあります。それどころか、「あなたには居て欲しくない」といった苛酷な場さえあるでしょう。様々な場で、私たちは生き続けます。そして、その幾つもの場の中で、自分に最も適合した場を選び取ろうとするでしょう。

自分を受け容れてくれる場、自分の能力を活かせる場、快適に過ごせる場を、生涯の働きの場として「選び取ろう」と考えます。もちろん、そのような場に恵まれるかどうかはまったく別な問題ですが、私たちの「願い」であることに間違いありません。職業を転々と変えたり、職場の不満を呟き続ける人々、その様な人々は、大抵「私には向いていない」「私には合っていない」と言います。

しかしながら、主イエスは、今、御自分に最も適した働きの場に背を向けられました。幼い時代を過ごしたナザレを除いて、他の殆どの場所で、常に大勢の群衆に囲まれ歓迎され続けていました。この華やかな時代を「ガリラヤの春」と呼ぶことが出来ます。それにも拘わらず、その場を棄てられたのです。30節に、「人に気づかれるのを好まなかった」とあります。誰にも会おうとはされなかったのです。

領主ヘロデの迫害から逃れるため足を速めていたのでもありません。共に歩む弟子たちが、口を挟むことさえためらう程の厳しい御顔で前方を見詰めておられたのは、御自身に与えられた生涯の目標をはっきりと見詰めておられたからです。もはやガリラヤに「留まるべきではない」と見極めておられたからに他なりません。

人生において、目的と手段を混同してはならないことは言うまでもありません。私たちの日毎の生活の全ては、目的を達成するための手段です。毎日繰り返される生きる努力は、今与えられている生命の日々に於いて「何を明らかに示し得るか」というための手段であり、目的に至る一段階に過ぎません。生活が目的そのものではなく、日常の生活は、主が与えて下さった人生の究極的目標を実行して行くための場なのです。ですから、そこで大切なことは、その状況が「如何に自分に合っているか」ということではなく、また「どれほど受け容れられているか」ということでもなく、キリスト者にとって、「私は何を為すべく生かされているのか」ということを考えるべきです。

 

皆さんは、アルベルト・シュヴァイツァーという人について良く御存知でしょう。アフリカで医療と伝道に生きノーベル平和賞を受賞した彼は20世紀の偉人として児童向けの偉人伝には必ず登場します。彼は、神学者としても第一級の学者でした。特に大著である「イエス伝研究史」は、現在でも新約学を学ぶ者に必読の書物です。また、音楽家としても第一級の才能を持つ人で、特にバッハ演奏家としてヨーロッパでは有名でした。

しかし彼は、その栄光を捨て去りました。アフリカに赴き、一病院の院長として働きました。それを、「必ずしも成功とは言えない」と批評する者も居ます。或いはそうであったかもしれません。しかしそれは、キリストの福音を聴いた一人の人間としての彼の決断でした。彼もまた、御心に従って、この世的には自分の能力を最も評価されると思われる場を、自分から棄てた人間でした。そして御心に従う人生には、このような決断が、常に有り得るのです。

 

キリスト者にとっては、自分の生活がどうか、自分の気持ちがどうか、というだけではなく、「主なる神が、今、私に何を命じられているのか」を考えることこそが大切なのです。そして、御言葉を真正面から受け止めた時、それまで最も快適であった場が、実は「通り過ぎるべき場」であったことに気づくのです。

31節で、主イエスは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」とハッキリと語られました。

主イエスの眼差しは、周囲の人々への愛と憐れみに満ちていました。その御業で示された、「真実の愛に生きること」「苦しむ人々への徹底した憐れみとしての癒し」「虐げられ、疎外されている人々の仲間になること」、その全ては、御子キリストが、自らの行いで示されたことでした。

しかし、主イエスが示された愛の御業は御子キリストの本当の目的ではありませんでした。神の独り子が栄光の御姿を棄て、自ら人として世に来られた目的は、罪の中に苦しむ者を救出するために、贖いの御業を実現することでした。それだけが、御子がこの世に来られた目的であり、弟子たちとの旅の途上で語り続けて来られたことはこのことであったのです。

今、主イエスが、父なる神より託されたこの使命を全うするために、御自身のこの世に於ける最大の目標へ向かわれるために、敢えて、愛する人々、主イエスを必要としている人々を残されるという厳しい決断を、ここに見なければなりません。

32節には、弟子たちはこの言葉が分からなかったが、「怖くて尋ねられなかった。」とあります。

何が怖かったのでしょうか。直前に、「この言葉が分からなかった」と記されています。弟子たちは、十字架へ赴かれる神の独り子の使命を悟ることもなく、受難の必然性など考えてもいませんでした。弟子たちは、「コトの本質」を全く理解していなかったと言うべきなのです。とするならば、この時の弟子たちの「怖くて尋ねられなかった」原因は、エルサレムへ向かわれるう「主イエスの御姿そのものにあった」、と見ることが出来ます。

神に従う決断は、神の命に服してモリヤの山で息子イサクを献げるアブラハムにも見られます。自分の生涯のすべて、生き甲斐のすべて、人生のすべてをそこに賭けるのです。「愛する人々」と「愛する場」に訣別を告げる決断は、決して簡単なものでは有り得ません。

エルサレムへ向かわれる主イエスの毅然とした御姿は、弟子たちの眼には、このアブラハムの姿のように見えたのではないでしょうか。他の何者も介入することを許さない決断の厳しさを、そこに見た筈です。

受難予告を聞かされた弟子たちの沈黙は、この主イエスの決断に「ついて行けなかった」ことを示しています。弟子たちと主イエスとの間には、超えることの出来ない大きな隔たりが存在していました。

その隔たりとは何でしょうか。それは、人間が「何に仕えているか」ということによって決まるのです。

「自分の生涯の目標を何に向けているか」という違いが、人と人との隔たりを造るのです。そして私たちはその人の目標へ向けての決断が理解出来ない時、「私はもうこれ以上あなたについて行けない」と呟くのです。

弟子たちが抱く主イエスへの期待が、彼ら自身の「この世的関心にしかなかった」ということは、これまで繰り返し学んで来た通りです。弟子たちは、主イエスの「十字架の贖いの御業」を考えも付きませんでした。彼らは、この世に於ける名誉と誇りを求めていました。彼らなりの「栄光のメシア」と言ってもよいでしょう。そして「栄光のメシア」は、主イエスの下に集まって来た全ての人々の期待でもありました。主イエスもそのことは知っておられたでしょう。人々の求めが何であるのかを、十分知っておられたに違いありません。

しかし、主イエスは決して弟子たちや多くの群衆の求めに妥協されませんでした。何故なら、主イエス・キリストは、「従うべき方は、どなたであるか」ということを、はっきりと認識しておられたからです。

受難予告は、既に8章31節でも記されていました。十字架と復活は、単なる未来のひとつの可能性として語られたのではなく、『そうなることに決まっており、それ以外ではあり得ない』という「神の御心の必然」、信仰のdei/:デイであるのです。それ故に、人々にではなく、父なる神に仕える道の厳しさを、主イエスはここに示しておられると理解すべきでしょう。

 

今、私たちは、このような主イエス・キリストの御姿を見るとき、私たちもまた、自分の生きる道筋を見極めることの重要性を、教えられるのではないでしょうか。主に従う旅の途上に自分を見出さなければなりません。主と共にその道を行く時、神の御子が生涯を賭けて獲得して下さった永遠の生命を、生きる目標として選び取るのです。

周りの人々にではなく、自分の心にでもなく、ただ神の御心にのみ仕えて行く生涯が、主イエス・キリストによって開かれていることをここに確信すべきです。御心を悟らない人々が恐れるような、毅然とした生き方が、キリスト者には必要であり、可能なのです。その生き方は、キリスト者でない人々には理解できない生き方とも言えましょう。

私たちは、この世界に永遠に留まるものでもなければ、墓石の下で終わるものでもありません。御子キリストによって罪が贖われ、神の御許に於いて永遠の生命を生きるべく、召されて行くのです。

「救われた者」として、棄て去るべきものに心惑わされることなく、通り過ぎる場に心囚われることなく、主によって備えられた一筋の信仰の道を、ただ、ひたすらに歩むべきです。

そして何より、家族を始め、自分の愛する周りの人々から捨て去られる人々が出ないように、共に「救われた道を歩む者」として「永遠の生命」を目指さなければならないのです。

お祈りを致します。

信じる者には、何でも出来る

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌19番
讃美歌380番
讃美歌420番

《聖書箇所》

旧約聖書:出エジプト記 19章9節 (旧約聖書857ページ)

19:9 主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」モーセは民の言葉を主に告げた。

新約聖書:マルコによる福音書 9章14-29節 (新約聖書78ページ)

9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
9:15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
9:16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

《説教》『信じる者には、何でも出来る』

マルコによる福音書9章に入って、主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて「高い山」に登り、神の栄光をお教えになりました。それは、僅か一瞬の出来事でしたが、それまで隠されていた「イエスこそ終末のメシア・キリストである」という神の御業の秘密を見ることか出来ました。「山上の変貌」と呼ばれるこの物語は、弟子たちにとって、思いがけない至福の時でありました。そして主イエスは弟子たちと共に山を下りるとき、再び死と復活による本当の救いについて予告をされます。

その「山の上」から下って来た「山の下の世界」即ち現実の世界は、主イエスの御心とはかけ離れた姿をとっていました。本日の14節以下には、「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。」とあります。

この時、山の下には、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を除く弟子たちが残されていました。彼らのところに、悪霊に憑かれた子供を持つ父親がやって来たのです。ナザレのイエスの評判を聞き、恐らく最後の望みを主イエスに託して来たのでしょう。しかし、そこに主イエスは居られず、主イエスの帰りを待つ弟子たちだけがいました。

主イエスの居られない時の弟子たち。帰りを待つ弟子たち。これは何を意味しているのでしょうか。それは、今、私たちが置かれている状況とも言えるでしょう。そのことから、本日の物語を見て行くことにします。

教会とは「イエスの帰りを待つ者の群れ」とも言えます。そして、「イエスの帰りを待つ者の群れ」には、イエスの御言葉と御業とを委託されているのです。世の人々は、この「イエスの帰りを待つ者の群れ」に、イエスに期待したことを代わって実現することを要求したのです。

悪霊に憑かれた子供を持つ父親は、主イエスが留守であることを知ると、弟子たちに癒しを願いました。かつて、弟子たちが各地に派遣された時、彼らは「多くの悪霊を追い出し、多くの病人を癒した」と6章13節には記されており、決して突拍子もない無理な願いではありませんでした。ですから、彼らはその時の経験を思い起こし、癒しを試みたのでしょう。しかし、この日、奇跡は起こりませんでした。弟子たちは悪霊を追い出すことに失敗したのです。

ある人は、「これは暗い物語である」と言っています。何故なら、「イエスを待つ者の群れ」が示す、哀れな姿だからです。残された弟子たちは、主イエスの留守の間も御言葉を語り、福音を宣べ伝えていたことでしよう。無為に過ごしていたとは考えられません。彼らは彼らなりに、宣教の御業に励んで来たことでしよう。しかし今、明らかになったことは、彼ら自身には「何も出来ない」ということなのです。主イエスと共に居たときには可能であった癒しの奇蹟が、「弟子たちだけでは全く出来ない」ということに気付かされたのです。この失敗が、律法学者たちにとって絶好の攻撃目標になったのは、当然のことでした。

世の中には、自分では何もしないが他人の失敗を決して見逃さない、という人が沢山います。「イエスの帰りを待つ者の群れ」即ち教会が語ることを、その傍で聞いているようなふりをしながら、ひとたび教会の無力さが顕わになった時、時を移さず、直ちに非難の矢を向けようと構えている人々が大勢いるのです。

弟子たちは自分たちだけでは悪霊を追い出すことが出来ませんでした。病気を癒すことに失敗したのです。そこで、律法学者たちは「何故治らないのか」と問い質したのでしょう。14節には「議論をしていた」と記されていますが、それは議論などというものではなく、失敗の追及とその弁明という「互いの言い争い」「罵り合い」と言うべきものと思われます。「何故、治らないのか、出来るならやってみよ」「お前たちが邪魔して煩しいから気が散って駄目だ」。せいぜいそんなところでしよう。

この罵り合いが「問題の本質」に関わるような論争ではなかったことは、子供の父親を含めた群衆が、帰って来た主イエスを見つけるや否や、直ちに彼らを離れて走り寄ったことからも明らかです。

父親の願いは悪霊に苦しめられている子供を救うことでした。しかし弟子たちも律法学者たちも、互いに相手を非難し攻撃するだけで、病気の息子を連れて来た父親の心を少しも考えていません。この罵り合いには父親の痛みが全く顧みられておらず、苦しむ息子を前にして途方に暮れている者を無視し、ただ単なる宗教上の議論に終始している、人間的対立でしかありませんでした。

ですから、集まった群衆にも、聞くに耐えないものであったのでしょう。「もはや、この人々ではどうにもならない」という絶望でしかなかったのです。

19節の主イエスの嘆き「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」とあります。

この主イエスの嘆きが、主イエスの周りだけのものであった、とは言えないでしょう。また主イエスの指摘する「あなたがた」とは、この時の弟子たちや律法学者たち、群衆だけに限定されているとは言えません。私たちは、「山の下」に住み、「イエスの帰りを待つ者の群れ」として、この御言葉を聴かなければならないのです。

この時、最も非難されているのが弟子たちであるのは明らかです。15節によれば、「群衆は皆駆け寄って来た」と記されているのに、弟子たちのことは記されてはいません。主がお帰りになった時、真っ先に駆けつけるのが弟子の姿であるはずです。自分たちに課せられた困難な課題を、主イエス・キリストに委ねるのが弟子の為すべきことである筈です。誰よりも先に、誰よりも熱心に主のもとに駆けつけ、苦しみを訴えるのが召された者の姿ではないでしょうか。

主イエスが「信仰がない」と決め付けられたのは、彼らが奇跡を行えなかったからではなく、弟子として最も大切なことが欠けていることを指摘しておられるのです。

「イエスは主である」「ナザレのイエスこそキリストである」という口先だけの告白など、何の役にも立ちません。8章29節に記されているように、彼らは、確かに、ペトロと共に、フィリポ・カイサリアで主イエスへの信仰を告白しました。しかしその信仰告白が、自分の生きる姿の中に表されていなければ、新しいことは何も起こらないのです。主は主であり、しもべはしもべです。しもべは主の下にあって初めてしもべであり、主から離れて独立しようとする時、しもべは、「主の栄光を映し出す務め」を放棄することになるのです。

20節から24節には、「人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」とありました。

ここのイエスの御言葉は、父親に語られていますが、むしろ弟子たちへの想いが込められているように聞こえます。神の子キリストにとって、悪霊を追い出し、病気を癒すことは簡単なことでした。事実、25節以下に記されているように、イエスの一言で悪霊は逃げ出すのです。ですから、この父親の求めを聞くだけならば、また律法学者たちを黙らせるだけであるならば、23節と24節の「信じる者」の話は不要な筈です。

しかし、この時、主イエスにとって最も大切であったことは、十字架への時が切迫しているこの時、後を託す弟子たちの霊的成長であったことは、「何時まであなたがたと共にいられようか」という19節の御言葉からもあきらかです。

「信じる者には何でもできる」。この御言葉を、弟子たちはどんな気持ちで聞いたでしょうか。彼らは「信じる者」になっていた筈でした。少なくとも、フィリポ・カイサリアでペトロと共に信仰告白した時、彼らは「信じる者になった」筈です。しかし今、現実に自分たちの無力さを知らされた時、同時に、「信じる者になり切れていない自分」を、思い知らされたのです。

「信じる者」とは、どのような人なのでしょう。「信じる者」は、本当に何でも出来るのでしょうか。29節で主イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。」とあります。

「信じる者」とは、「祈る者のことである」と主イエスは言われているのです。「信じる」とは「祈る」ことであり、「祈る」ということは、「自分の全てを神に委ねること」です。「祈り」は、人間の独り言ではなく、祈る者は、聖霊の御導きにより、神とキリストとの交わりの中に招かれるのです。

神との交わりに於いては、自分の主導権を全く放棄することが「真実の祈り」です。ですから、「祈り」によって神に委ねた出来事は、もはや人間の業ではなく、神の御心がそれを実現して行くのです。このことが明らかであるならば、「祈り」において不可能を想定する人はないでしよう。「もし出来れば」という「祈り」はあり得ないのです。

もう一度申し上げます。「祈り」とは、人間の勝手な独り言ではなく、祈る者と主なる神が、聖霊なる神の御導きによって、交わりの姿をとることです。そしてその祈りの中で、御心の実現を求めるのがキリスト者というものです。

もしあの時、弟子たちが御心を第一に考えて祈っていたとするならば、彼らは、誰よりも先に、帰って来られた主イエスのもとに駆けつけた筈です。つまり、24節の「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」との叫びこそ、弟子たちの言葉でなければならなかったのです。

この物語は、「教会にとって最も大切なものは何か」ということを明確に示しています。主イエスは、御前に平伏した父親に、「信じる者には何でも出きる」即ち「祈る者に不可能はない」と、はっきりと言われました。

この御言葉を聞く時、多くの人々は「不可能はない」という言葉の大胆さに驚きます。そんなことがどうして言えるのかと不思議に思います。しかし、よく考えてください。「祈り」によって起こるあらゆることは御心の実現であり、「神の御業に不可能はない」のです。本当に驚かなければならないのは、その不可能がない大きな力を持つ「祈り」が、「私たちに祈ることが許されている」ということなのです。

私たちは、今、「山の下」にいます。最も大切なことは、「山の下の教会が常に祈りに満たされている」ということです。

教会は何をする所かと問われるならば、確信を持って、「教会は祈る所です」と答えるべきです。それ以外にはありません。私たちは、祈ることによって、主から託された使命を果すべく生きているのです。山の下で、キリストが再び帰って来られることを待つ者の群れである私たちは、主が教えて下さったように、「ひたすら祈る」のです。

教会に託されている祈りの交わりを軽んじ、共に祈ることを怠る者には、教会の本当の力が分かりません。現代の教会の切実な問題は、祈りの欠乏であり、特に祈祷会の衰退でしょう。そう言った意味で、私たちの教会で毎週行われる水曜日の祈祷会を充実させることこそ、主なる神の御恵みです。

私たちの教会は、祈る者で満ちていなければなりません。家族の救いを祈り、主の御栄えを祈り、地域の救いを祈り、神の宮としての教会の栄光を祈るのです。祈る者だけが主の力の偉大さに触れることが出来るのです。

キリスト者は、祈りの信仰の中にこそ、生きなければならないのです。

お祈りを致します。

山の下にて

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌12番
讃美歌294番
讃美歌448番

《聖書箇所》

旧約聖書:マラキ書 3章23-24節 (旧約聖書1,501ページ)

3:23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
3:24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。

新約聖書:マルコによる福音書 9章9-13節 (新約聖書78ページ)

9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
9:10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
9:11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
9:12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
9:13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

《説教》『山の下にて』

本日の9節には、「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた。」とあります。

これまで隠されていた神様の御計画を知らされた時、人は何を感じるでしょうか。「創造の出来ないようなことを教えられた」「思いもよらないことが明らかになった」。今まで誰も会ったことのない神様の御顔を拝して、神様の秘密を知った優越感を他の人々に対して持つことが出来るかもしれません。

しかし、神様の栄光が輝く時、そこで明らかにされるのは、神様に背を向け、罪の中にあるこの世の闇です。そしてその闇が、この「私」がこれまで暮らし、慣れ親しんで来た「世界そのもの」であるならば、そこに生きて来た自分を否定しなければならないのです。初めて見た神様の栄光の前で、「何故、私たちはこのような闇の中に安住しているのか」という疑問が湧いてくるのは当然のことと思われます。

主イエスは、「医者を必要とするのは病人だけである」と言われました。確かに、健康な時には医者や薬の必要性を感じません。しかし、身体に異常を感じるならば、医者や薬を求めます。

弟子たちが、山の上で明らかにされた神様の栄光の下で考えなければならないことは、この世界・神なき世界が示す異常性であり、「何故、私たちの世界がこのような状態に留まっているのか」という疑問です。

何故、人は神様を求めないのか。何故、人は今のままで「よし」としているのか。これこそ、神様の真実の姿をかいま見た人間の疑問であり、聖書を読む私たちが抱く基本的な問題意識です。そして、その問いを発することから、「栄光をかいま見た山から下りた生活」は始まるべきなのです。

そして、10節から11節に、「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。そして、イエスに、『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。」とあります。

このエリヤとは、紀元前九世紀の預言者です。アハブ、イゼベルという偶像礼拝者たちと闘い、カルメル山上でバアルの預言者やアシェラの預言者たちを打ち破り、さまざまな出来事の後、弟子のエリシャが見送る中、火の車に乗って天に昇った人物です。彼はイスラエル最大の預言者です。そして、死ぬことなく天に昇ったエリヤは、この世の終わり、終末に先立って、再びこの世にやって来るとイスラエルでは信じられていました。それは、旧約聖書1501ページ、マラキ書3章23節以下に、こうあるからです。もう一度お読みいたします。

見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。

律法学者をはじめとするイスラエルの宗教指導者たちは、民にこのことを教えて来たのであり、ペトロたちも、それを聞かされて育って来ました。

しかし、彼らがかいま見た信仰の現実は、エリヤは山の上に居り、「山の下にはいない」ということです。主イエスだけがそこに居られ、主イエスは御自身の迫害を予告し、十字架の死が必要なことを語られました。弟子たちにとって、謎は深まるばかりでした。約束のエリヤさえ来れば全ては明らかになり、主イエスが迫害され死ぬこともないのでないか。

ペトロたちの疑問も当然でした。山の上にエリヤが現れたことを今こそ大いに広めるべきではないのか。ナザレのイエスこそが約束の救い主であることを、エリヤの出現によって証明出来るのではないのか。ペトロは単純にそう思ったに違いありません。しかし、意外にも、主イエスはそれを禁じ、「だれにも話してはいけない」と命じられたのです。

何故、禁じられたのでしょうか。それは、聖書の御言葉を自分の思い通りに都合よく理解しようとする人間の愚かさを主イエスが御存知だったからです。

異民族の支配による長い苦しみの中で、「エリヤさえ現れれば」とイスラエルの民が待ち続けた気持ちは分かります。しかし、「来るべきエリヤ」とはいったい何者でしょうか。もし、エリヤが来たとしても、何をもって「約束のエリヤ」と断定するのでしょうか。エリヤが天に昇った時から既に九百年近く経っているのに、どうしてそれが「約束のエリヤ」だと分かるのでしょうか。

それは「姿によって」ではなく、「働きによって」と言う他はありません。「終末のエリヤ」は、約束され、預言されて来た務めを果たす時、初めて「その姿を認め得る」ということです。人の役柄は「その人が何をしたのか?」ということでしか分からないものなのです。

律法学者やイスラエルの民衆はエリヤを待ち望んでいました。しかし、「そのエリヤは何をするのか」ということを「聖書に基づいて」考えてはいなかったのです。自分の期待や希望を第一にし、エリヤは天の軍勢と共に現れて憎いローマ軍を追い払い、イスラエルの栄光を回復して下さると勝手に考えていました。それ故に、ローマの占領下、政治的独立を回復していない以上、「エリヤは未だ来ていない」と決め付けていたのです。

12節以下で主イエスは言われました。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」とあります。

主イエスは先ず、旧約聖書に記されている預言の正しいことを指摘し、父なる神の約束に少しの狂いもないことを明らかにしています。神の御言葉には変わりがなく、ただ、約束を待ち望む人々の信仰が問題なのだと言われたのです。

エリヤがこの世に来る目的は何でしようか。主イエスが言っておられるように「すべてを元どおりにする」ということです。それでは、「元どおり」とは何のことでしょうか。大切なことはここです。

当時の人々は、ダビデ時代の独立王国の夢を追っていました。かつての、栄光に包まれたユダヤ人・イスラエル民族の独立王国の再建が人々の希望でした。エリヤの到来は、この夢の実現と同一視されていたのです。

しかしながら、「本来の人間の姿は、『そこにあるのではない』」と主イエスは教えて来られた筈です。何故なら、人々が千年前のダビデ時代に憧れ、ダビデを永遠の王のモデルと見做しても、そのダビデ自身も数々の過ちを犯し、ダビデの王国時代にも人間は惨めな姿を示していました。

たとえ、政治的独立があり、周辺諸民族に対する優越感に満足したとしても、人間の苦しみや悲しみは何ら解決されず、神様を忘れて生きる人々で満ちている現状は変わりません。決して理想的で幸福な時代・ユートピアの到来ではなく、依然として、アダム以来の罪と罰の世界であり続けるのです。

ですから、もし立ち戻るならば、ダビデ時代ではなく、もっと以前の「人間本来の姿への復帰」がなされなければなりません。「元どおり」とは、神様が見て「よしとされた人間本来の姿」への回帰のことであり、アダムによって歪められた罪の姿から、真っ直ぐに神様へ向かう人間本来の姿勢を回復することなのです。

先程お読みしたマラキ書には「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」と記されていました。神様に背を向けて来た者が神様へ顔を向けて方向転換すること、それを新約聖書では「悔い改め」(メタノイア)というのであり、エリヤの使命は、最後の時が来る前に、全ての人々を悔い改めに導くことにあったのです。

このマラキ書3章の1節には、「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」とあります。

この悔い改め「メタノイア(方向転換)」を叫び、「わたしの後に来る人を見よ」と語る人物が、既に現れて居たということは、この時代の人々は誰でも知っていました。

「エリヤは既に来た」と主イエスがはっきりと語っておられるように、バプテスマのヨハネこそ、「救い主の到来を告げる先触れ」、「約束のエリヤ」であったと言われているのです。

しかし、「人々は好きなようにヨハネをあしらった」と主イエスは指摘しておられます。何故、人々はバプテスマのヨハネによる神様の告知を聴かなかったのでしょうか。

人々は、空虚な栄光のメシアの幻影を追って、真実の平安を見ようともしなかったのです。繰り返し聞かされながら、互いに繰り返し語りながら、なおそのことに気付かなかったところに、罪の中に埋没している人間世界の闇の深さが感じられます。

自分の要求を第一に考える人。自分たちの期待する通りに神様が働いてくれると考える人々。神の御業をこの世での誇りを尺度に考える人々。自分の思いに反する神様を、心の中から追い出す人々。このような人々が、神の御業を正しく見ることが出来ないのは当然です。主なる神が自分の前に立たれたその時でも、自分の思いに固執して心の耳を塞ぎ、心の目を閉じて、「これは違う」と言ってのけるからです。

「神の御子が自らこの世に来られた」という驚くべき出来事に接しながらも「これは私たちの考えていることと違う」「私たちの期待はこんなものではない」と言って、拒否してしまうのです。神の御計画の実現を祈るのではなく、自分たちの期待の成就だけを願っていたのが、「山の下の世界」でした。

これが、私たちの「本来あるべき姿」ではありません。人間の要求は各自異なります。百人百通りです。私たちの世界の悲惨は、人間が自分自身の要求を頑迷に貫くところにこそ原因があるのです。

それ故に、この世界を「元どおりにする」ということが大変な難事業であるということは、明らかです。この世の闇の中にあって、罪の世界にどっぷりと漬かり、自分が異常であることを自覚していない私たち人間を、正常に戻さなければならないからです。

自分が「本来あるべき姿」ではないことをどのようにして知ることが出来るでしょうか。それは、「神の御子が十字架につけられ、殺され、その死に於いてなお、私たちを愛されたという出来事」を認識することによってしかありません。十字架の惨めさを自分の姿に重ねあわせることによってのみ、それが分ってくるのです。自分のために支払われた代償の大きさによって、初めて、自分が犯した罪の大きさを知るからです。

もう一度、9節を読んでみましょう。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない。」と主イエスご自身が教えられています。

ここで主イエスは、十字架と復活を経なければ「全ては意味をなさない」ということを告げられています。十字架と復活、人の罪への処罰と救済の実現。これが運命の大逆転を決定するのです。

山の下の世界に神様の栄光が輝き渡るためには、キリストの死と復活が絶対的に必要なのです。十字架の苦しみがなければ人間の罪は贖われず、その出来事への驚きがなければ、神への反逆は終わることはありません。そして、御子キリストにしか出来ないその御業は、ここで、実現に近づいているのです。

十字架へ向かう主イエスの御姿を仰ぎつつ、「私たちの世界はこのままでよいのか」という問いを、もう一度今、自分に問いかけることが必要ではないでしょうか。

山の上の栄光と、山の下の悲惨。この格差を埋めるために遣わされたのが聖霊なる神であり、聖霊なる神が御業を行われる場が教会です。

お一人でも多くの方が、共に救われ、山の下の世界に一筋の神様の栄光が輝きますよう、お祈りを致しましょう。