クリスマス イヴ礼拝説教「言(ことば)が人となった」

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌106番
讃美歌103番
讃美歌119番
讃美歌109番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 1章1―2節 (旧約聖書1ページ)

1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

新約聖書:・・・ヨハネによる福音書 1章1―14節 (新約聖書163ページ)

1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

《説教》『言(ことば)が人となった』

新約聖書には四つの福音書があります。福音書とは、2000年前にこの地上で人として生きて働かれた主イエスの活動記録です。ヨハネによる福音書は四番目の福音書ですので、第四福音書とも呼ばれます。この第四の福音書は、他の三つの福音書とはかなり違ったものになっています。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、主イエスのご生涯を、ほぼ同じ調子で語り、共通する記事も多くあります。そのためにこの三つは並べて比較しながら読むことができます。そういう意味でこの三つを共に同じ観点から見る「共観福音書」と言います。しかしヨハネ福音書が語っている主イエスのご生涯は、共観福音書とはかなり違いますし、他の三つの福音書には語られていない話も沢山あり、かなり毛色の違う、独特な福音書です。そして、新約聖書にこのヨハネ福音書が入っていることによって、主イエス・キリストについての、また救いについての私たちの理解と認識は、大きな広がりと深まりを与えられているのです。

ヨハネ福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と語り始めています。この謎のような言葉によってこの福音書は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。「初めに」という冒頭の言葉によって、この世界の、そして私たち人間の「初め」を尋ね求めているのです。この「初め」、それは起源、根源と言う言葉です。この世界の、人間の、初め、起源、根源とは何か。それは「言」だ、と語っているのです。その「言」とは、私たち人間が語る不確かな、あやふやな、また不誠実な言葉ではありません。神の言です。神の私たちに対する語りかけです。この世界の、そして私たちの人生の、初めには、神の語りかけがある、とヨハネ福音書は宣言しているのです。そしてその神の語りかけ、言は、神と共にあり、言そのものが神であった、と続いています。それはこの福音書が、神の語りかけ、「言」を、一人の人格的な存在として見ているということです。そのお方とは主イエス・キリストです。14節まで読み進めるとそれが分かります。この福音書が「言」と書いて「ことば」と読む「言」とは、肉つまり人となって私たちの間に宿られた主イエス・キリストのことなのです。ですから、「初めに言があった」という謎めいた言葉で語り始められているこの福音書も、やはり冒頭から主イエス・キリストのことを語っているのです。主イエスとは、この世界の根源であり、私たちの人生を根底において支えている土台であるところの神の「言」、神からの語りかけなのだ、ご自身が神であられるその「言」が肉なる人となってこの世を生きて下さったのが主イエス・キリストなのだ、ということをこの福音書は語っているのです。

2節の「この言は、初めに神と共にあった」は一見、1節を言い直しているだけのように思えますが、「この言」と訳されているのは「このもの」あるいは「この方」という意味であって、それは1節の「言」を受けていると同時に、14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」を既に意識しています。肉となってこの世を生きて下さった主イエス・キリストは世の初めに既に父である神と共におられたのです。この「初めに」は創世記冒頭の「初めに神は天地を創造された」を意識しているのです。神がこの世界を創造なさった時、そこに、言である主イエス・キリストも共におられ、天地創造のみ業に共に関わっておられたのです。そのことが3節に「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と語られているのです。「言」であられる主イエス・キリストによって、この世の全てのものは造られたのです。主イエス・キリストは神によって造られた被造物ではなくて「創造主」であられるのです。主イエスは父なる神から生まれた子なる神であられ、まことの神として創造の初めから父と共におられるのです。しかしそれは父なる神と子なる神という二人の神がおられるということのではありません。神はお一人である、ということも聖書の根本的な信仰です。そこにさらに聖霊なる神が加わって、父と子と聖霊という三者でありつつお一人なる神であるという、いわゆる「三位一体の神」という神の本質的なお姿が見えてくるのです。ヨハネ福音書のこの冒頭の部分は、聖書においてご自身を啓示しておられる神が父と子と聖霊なる三位一体の神であられることを私たちが認識するための大切な役割を果しているのです。

6節になると、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」と、一人の人間のことが語られ始めます。ここで私たちの目は、この世のこと、地上を生きた具体的現実的な人間のことへと向けられるのです。このヨハネとは、「洗礼者ヨハネ」と呼ばれ、ヨハネ福音書を書き記したヨハネとはまったくの別人です。主イエス・キリストが宣教活動を始められる前に、洗礼者ヨハネが現れ、主イエスの伝道のための備えをしました。しかし、その洗礼者ヨハネがどのように主イエスのための備えをしたかは、ヨハネ福音書と他の三つの福音書ではかなり違っています。他の三つの福音書では、洗礼者ヨハネは人々の罪を指摘し、悔い改めを求め、悔い改めの印としての洗礼を授けました。自分たちが罪人であることを人々に意識させ、悔い改めて神に立ち帰り、向き合うことによって、救い主イエス・キリストを迎える準備をしたのです。それに対して、ヨハネ福音書において洗礼者ヨハネがしたことは何か。7節に「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」とあります。ヨハネ福音書における洗礼者ヨハネは、証しをするために神から遣わされた人なのです。証しとは、証言です。見たり聞いたり体験して知っていることを、「こうでした」と人に伝え、それを聞いた人々が「ああそうなんだ」と知るようになる、それが証しです。洗礼者ヨハネは、「光について証しをするため」に神によって遣わされました。その光とは、初めにあった「言」に命と光があった、と言われているその光です。5節に「光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と言われているその光です。そして9節では「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と言われています。初めにあった「言」、自らが神であり、命であり、光であるその方がこの世に来られて、まことの光として全ての人を照らす、それは主イエス・キリストのことです。「言」も「命」も「光」も、主イエス・キリストのことなのです。その「光」である主イエスについて証しをするために洗礼者ヨハネが現れたのです。洗礼者ヨハネは、「証し人」です。彼は主イエスこそがまことの光であることを全ての人が知り、信じるようになるために証しして、救い主イエス・キリストの働きのための備えをしたのです。

これは、主イエス・キリストの現れとは、罪が支配するこの世の暗闇の中に、神の救いの恵みの光が輝き、罪の闇に打ち勝つ、というような象徴的なことではありません。そうではなく、人間を照らす光が、暗闇の中に輝いているのです。それは、まことの神である主イエス・キリストが人間となってこの世に来て下さり、この地上を生きて下さり、十字架の死と復活による救いを実現して下さったことを言っているのです。「人間を照らす光」とは、主イエス・キリストです。「光は暗闇の中に輝いている」というのも、私たちの罪によって深まっているこの世の暗闇の中に、主イエス・キリストが来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、それで私たちの罪を赦して下さり、その死からの復活によって、私たちにも復活と永遠の命の約束を与えて下さった、ということです。その主イエスが今、この礼拝において私たちと出会い、語りかけ、交わりを持って下さっているのです。この世の現実におけるどのような暗闇も、この主イエスの恵みの光に打ち勝つことはできません。暗闇は光を支配下に置くことはできないのです。

主イエスについての証しを聞いて、主イエスを神の言、救い主、まことの光として信じ、受け入れると、私たちには「神の子」として新しく生かされる、という救いを与えられます。

しかしそこには同時に、主イエスを受け入れず、信じない、ということも可能です。この世を生きている私たちは、自分がそのどちらの道を選び、歩むのかを問われているのです。「証しの書」であるヨハネ福音書は、そのことを私たちに問い掛けているのです。その最初の「証し」が洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネから始まった主イエスについての証しを信じて受け入れ、世に来てすべての者を照らして下さるまことの光である主イエスによって照らされるなら、私たちも神の子とされて生きることができます。その信仰の歩みにおいて私たちも、まことの光である救い主イエス・キリストの証し人として、それぞれの生活の場へと、神によって遣わされていくのです。

お祈りを致します。

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キリストの御前に出る

《賛美歌》

讃美歌Ⅱ-30番
讃美歌187番
讃美歌000番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 43章25-26節 (旧約聖書1,132ページ)

43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。
43:26 わたしに思い出させるならば/共に裁きに臨まなければならない。申し立てて、自分の正しさを立証してみよ。

新約聖書:マルコによる福音書 2章1-12節 (新約聖書63ページ)

2:1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2:2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
2:3 四人の男が中風の人を運んで来た。
2:4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
2:6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
2:8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
2:11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

《説教》『キリストの御前に出る』

先週の説教では、重い皮膚病を患っている男の「癒し」というより、「救い」を主イエスがなさり、その評判を聞いた人々が癒しを願って殺到し、主イエスはカファルナウムの町に入ることができなくなりました。町の外の人の居ないところに移られましたが、それでも人々が主イエスのもとに集まって来てしまいました。

1節から、「家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」とあります。この家とはおそらくシモン・ペトロの家と考えられます。

物語に入る前に、当時の庶民の家の構造をお話ししておきましょう。木材が極端に乏しいパレスティナでは、土に藁などを混ぜて固めた日干し煉瓦で壁を作りました。雨の殆ど降らない砂漠の国だから使える材料です。この家は壁が厚いので、夏は涼しく、冬は暖かいという利点もありました。壁から壁に約1米間隔で渡された梁があり、その上に泥で塗り固められ平たい屋根を乗せたというような簡単な作りになっていました。ペトロの家もおそらくこのようなものであったでしょう。

2節に、「戸口の辺りまですきまもないほど」と記されていますが、狭い漁師の家であり、近所の人々が集まっただけで一杯になり、入りきれない人々が戸口から中を覗いていたという状況が思い浮かびます。

この人々が何を期待して集まっていたのかは聖書からは分かりませんが、おそらく、再び奇跡を求めて来たのではないでしようか。しかしここで主イエスがなされたのは神様の愛の宣言であり、人間の救いに関する福音の説き明かしでした。人々は期待外れの思いをしていたでしよう。そんな話より噂に聞いた素晴らしい奇跡を見たいものだ。誰もが見たことのない驚くべき力を早く示してくれないだろうか。集まった人々の心はおそらくこのような奇蹟を期待するものであったでしょう。しかし、主イエスは福音を語られたのです。それが教会の始めであり、教会とはそのようなものでなければなりません。しかしながら、この集まりは思いもかけないことによって中断されてしまうのです。

3節と4節には、「イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」とあります。既に述べた当時の庶民の家の構造から、緊急の時に屋根をはがすことは決して考えられないことではありませんでした。

ところが、そうは言っても、他人の家の屋根を剥がして、家の中を土煙・土埃まみれにして、行われている集会を中断させ、集まった人々の真ん中に頭上から病人を吊り降ろすとは実に乱暴で、無作法なことでした。部屋の中にいる人々の頭の上から、壊された屋根の泥や土埃がたくさん落ちてきたことでしょう。家の主人であるペトロにとって、言葉にもならない驚きであったに違いありません。

ところが、ここには、さらに驚くべきことがあるのです。この男たちの非常識さに勝って私たちを驚かせ、当惑させるものが、ここにあります。それが、このときの主イエスの仰った言葉です。5節に、「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」とあります。

主イエスはこの時、信仰の何を御覧になったのでしょうか。何故、このような宣言をなさったのでしょうか。

これまでも病気の癒しを主イエスは数多くなされてきました。主イエスのもとに来るのは、御言葉を聞く人より、病気の癒しを求める人のほうが圧倒的に多かったからです。そしてその都度、主イエスは病気で苦しむ人々の要求に応えられながらも、御言葉を求めることを知らない人々にガッカリなさった筈です。

それにも拘らず、主イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われました。ここに、私たちの眼と主イエスが御覧になる眼との違いが明らかになって来るのです。

今ここで、主イエスの眼差しは病気の男だけにではなく、このような非常手段に訴えて病人を運んで来た四人の男たちにも向けられているのです。私たちは彼らの行動を非常識なものと考えてしまいます。しかしそれでは、常識的な行動とはどのようなことでしょうか。病人を運んで来た四人の男が常識的に行動するとは、どうすることでしょうか。

この男たちが病人を連れて来た時、主イエスの居られる家は満員でした。中へ入る余裕はありませんでした。しかし彼らは諦めなかったのです。彼らの求めは、「場所が空くまで外で待とう」などという程度ではなく、「何としても中に入る」という行動に結び付きました。「何が何でもナザレのイエスの前に連れて行かなければならない」ということに心は集中していました。もちろんそれは「友人の病気を治したい」という次元のものでした。

主イエスがこの四人の男を御覧になり、彼らを受け入れられたのはもはや理屈ではありません。彼らの行動がどのようなものであり、正しいか間違っているか、或いは社会常識においてどうか、などということを主イエスは問題にされませんでした。四人の男たちは、ただひたすらに「キリストへ近づく」ということに集中しています。自分の前に置かれている障害を突破し、なんとしてもナザレのイエスの前に辿り着こうという凄まじい気迫を、この四人の男たちに見ることが出来ます。

主イエス・キリストとの出会いを妨げるものに対して、私たちはこれほど強引でしようか。主イエス・キリストに近づくために、私たちはこれほど力を出せるでしょうか。主イエス・キリストの前に出ることの価値を、私たちはこれほど尊く感じているでしょうか。

「病気を治してもらいたいだけではないか」と批判する前に、この世に来られた神の御子の前で、友人のために屋根をはがした男たちと、今の自分の姿とを比べてみるべきでしょう。

主イエスは彼らを受け入れました。この男たちの友人への愛と熱情を主イエスは喜ばれ、「よし」とされたのです。「ナザレのイエス以外に希望はない」という彼らの思いを受け止め、主イエスは救いを宣言されたのです。

「あなたの罪は赦される」。ここでの「罪」という言葉は原文では複数なので、生まれながらの罪である「原罪」ではなく、日々の生活の中で犯す罪、日々積み重なる「個々の罪」のことです。当時の人々が病気の原因と考えていたものを主イエスは取り去られたのです。「何か悪いことをしたから病気になった」と思い込んでいた人々に、「もうそのようなことで悩む必要はない」という宣言がここにあるのです。

6節と7節には「ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』」とあります。さすがに律法学者たちは聖書に詳しく、ものごとを聖書に従って正しく判断しており、「罪を赦すのは神のみである」とはまさしくその通りです。もし、律法学者たちが主イエスを批判し、その正体を探るために監視していたのであるならば、「罪を赦す者は神のみである」との正しい答えがここから出て来る筈です。しかし、そのような考え方は、律法学者たちにとって「決してあってはならないこと」でありました。彼らにとって、自分たちが理解している律法を超える救い主など断固として認められなかったからです。ですから、彼らはこれまで多くの人々と共にペトロの家で、御言葉を聞いていながらも、実は、心の中で「そんなことがある筈はない」と思い、あら探しに熱心になっていたのです。律法学者たちは、その他大勢の人々と同じように、主イエスの御言葉を福音として聞いていなかったのです。

それに対して、屋根を壊してでも病人を吊り下げた男たちは、それを少しも信仰だとは思っていなかったかもしれません。しかし、主イエスは御自身に対する「強引な委ね」を受け止められたのです。

この男の病気は癒されました。もはやこの癒しが「罪の赦し」という御業の前では付録に過ぎないことは明らかでしよう。しかし、世の中には付録の方を大切にする人もいるのです。そこで主は「付録」において神の御子としての権威をお示しになったのであり、この奇跡は、かたくなな全ての人々の誤りを正す「思いやり」としてみることが出来るでしょう。

12節に「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。」とあります。

「今まで見たことがない。」とは、「聞かされた主イエスの御言葉」より、自分が目にした出来事の方が問題になっているということです。ここに、信仰の本当の意味を決して悟ることの出来ない人間の姿があります。

そして何よりも私たちが驚かされるのは、この人々の悟ることの出来ない姿にも拘らず、主イエスが人間の僅かな思いも見落とされず、受け止めて下さるということです。主イエスご自身が、この様な無知で、知ろうとしない人々に対して、怒ったり、落胆されたりせずに、丁寧に愛情あふれた対応をされているのです。

無知な人間の熱心さとかたくなな人間の批判の眼の前において、なおも神様のご愛とご栄光が、明らかにされているのです。神様の怒りを招くのではないかとさえ思える人間の愚かさに対してさえ、神様の赦しがなされるのです。

この素晴らしい神様の恵みである主イエス・キリストの救いを、皆様が大切にしたいと願っている人たちにお伝えしていきましょう。お祈りを致しましょう。

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