主日CS合同礼拝説教
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌68番
讃美歌187番
讃美歌495番
《聖書箇所》
旧約聖書:創世記 11章1-9節 (旧約聖書13ページ)
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
《説教》『バベルの塔』
今日の創世記11章1節は、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」と始まりました。そして今日最後の9節には、「こういうわけで、この町の名はバべルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」と終わっています。
この物語は「世界になぜ多くの言語があるのか」という“理由を語る物語”の様に思われます。そのため、聖書が9節で親切にも解説をつけてくれているように、「バベル」という言葉を「混乱させる」という意味のヘブル語ハーラルと結び付けて、「神が審きとして人間を混乱させたのだ」と解釈した時代もありましたが、今は不適切であると言われています。言語の多様性を語ったとしても、それがなぜ起こったのかという本当の理由が説明できないからです。
この不思議な物語の正しい意味を知るためには、物語そのものを、古代人の心で改めて読み直すことが必要なのです。改めて読んでみると、1節は世界の歴史を語るものでないことに気付きます。何故なら「ノアの洪水の後」の時代について創世記10章5節は「海沿いの国々は、彼らから出て、それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった。」とあります。ここにはノアの洪水以降、人間が増えて民族となって分かれ、次第にそれぞれの言語を持つようになったと記されています。これから考えると、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」という本日の11章1節は、創世記10章の記述とは明らかに矛盾していると言えます。
バベルの塔の物語から、この物語は人間の言語の多様性を説明する物語であるという「伝統的な解釈」を取り去ってみると何が見えてくるでしょうか。そこには、人間の惨めさに関する聖書の指摘という新しい枠組みが見えて来るのではないでしょうか。
私たちの世界では、一つの国家が一つの言語ということは、必ずしも当然のことではなく、幾つもの異なる言語を持つ国は決して珍しくありません。まして巨大な国家では、同じ国民同志でも全く言葉が通じないという例は沢山あります。かつてのソ連では、プラウダという国営新聞が、国内用に毎日130の言語で印刷されていました。
確かに、ひとつの言語ですべてが間に合うということはありがたいものです。しかしながら、本日改めて注意すべきことは、言葉が通じたからと言って、それで「互いの心と心とが通じ合うとは限らない」ということです。
自分の語る言葉がいかに誤解されてしまったかといった経験を、誰でも持っているのではないでしょうか。「私のあの言葉がそんな意味で受け取られるとは、思ってもいなかった」という嘆きは、私たちが常に味うものです。
このことから明らかにされるこの物語の重要な点は、「同じ言葉を使って、同じように話していた」という聖書の記述は、「言葉が同じであった」という、単なる状態を示しているのではないということです。
もう少し深く考えてみると、ここは「言葉」と「言語」の違いであるとも言えるでしょう。「言語」とは人の意思伝達の一種の共通の記号と言えます。しかし「言葉」とは、人が自分の心の中にあるものを表現し、自分の意志を相手に伝えるものです。言語が通じたからと言って、互いの意志が明らかになるとは限りませんし、まして「心が通じ合う」ということにはなりません。
このように、「言葉と心」という関係を考えると、「バベルの塔」の問題は明らかになってきます。「同じ言葉を使って、同じように話していた」とは、用いる言語が一つであったという単純なことではなく、「心と心とが響き合う状態であった」ということを示しているのです。とするならば、それこそ「楽園の姿」であり、かつて、本来の人間、アダムとエバの間に成り立っていた「本来の人間の姿」であったとも言えるのではないでしょうか。
その姿が崩壊し「言葉が乱され、全地に散らされた」ということは、心と心の間に大きな壁が出来、その結果、互いの理解が不十分となり、世界に憎しみ・争いが発生し、人は生きる苦しみの中に追いやられた、ということになるでしょう。即ち、楽園追放後の世界・罪の世界に生きる人間の惨めさを聖書は示しており、バベルの塔の物語において、「人は何故苦しんで生きるようになったのか」という根本的問題が改めて語られているのです。
2節以下にありますように、東のメソポタミア地方から移動してきたイスラエルの人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着きました。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合いました。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた、とあります。この「シンアルの地」とは、チグリス・ユーフラテス流域の平原地帯を指す言葉であり、現在のイラクの辺りと考えてよいでしょう。
遠い昔、石が少ないメソポタミア地方に移って来たイスラエルの人々は、強烈な日差しの下で粘土を乾かし、焼き、立派な日干しレンガを作り上げ、またアスファルトを用いることを発見しました。その昔の泥を塗った家に住んでいたことから比べると、これだけでも画期的な進歩でした。更に、この建築技術によって堅固な城壁を造り、敵の侵略から守り、全員が生命の危険に襲われることのないようにしたことから、強い団結が生じました。当時は、ひとつの町がひとつの国でもあったのですから、これは国造りを始めたと言ってもよいでしょう。そして彼らは、自分たちの社会の中心として「塔」の建設を目指したのです。ここで語られている「塔」とは、現在メソポタミア地方に多くの遺跡として残っているジクラットのことでしょう。ジクラットとは神を祀る礼拝所のことです。
当時の人々は、神は高きに居ますと考え、それを空間的に理解しました。それ故に、礼拝の場所を出来るだけ高い所に造り、平野部では、それが「塔」となったのです。「塔」と言っても、形はピラミッドのようなもので、表面には石段が造られています。高きに居ます神はこの塔の石段を降りて来るのであり、また祭司は、「塔」の頂上に上がって祈ることにより、神に近く立つことが出来ると考えました。言わば「塔」は、天と地の連絡場所であったとも言えるでしょう。
バベルの人々は、この礼拝所を中心にして、優れた文化と団結心により、理想的な国家の建設を目指しました。これは当時の人間が、自分たちの持つ能力のすべてを出し切った結果であり、信仰を中心にして一生懸命に生きようとする社会的行為でした。しかしここで、残念ながら、最も大切なところでバベルの人々は間違った、ということを指摘しなければなりません。5節に、主は「塔のあるこの町を見て、言われた。」とあります。原文では、ここは「見た。そして言った」となっており、「見た」ということが先ず強調されています。即ち、最も重要なことは、「主が見ておられる」ということです。世界の造り主であり、支配者であられる主なる神が、すべてをご覧になっているのです。
バベルの人々は、「天まで届く塔のある町を建てよう」と言いました。これは「立派な大きな塔を建てよう」というだけのことではありません。「天に届く塔」、ここが問題なのです。
高きに居ます神は塔を伝って降りて来られると人々は考えていましたが、しかしなお、「塔の頂き」と「天」との間には、広大な空間があります。その広大な空間を、神のみが、人間に考えられない力をもって自由に行き来されるのです。塔の頂上と神の住まいである天と、その空間こそが神と人間の格差を表し、人間にとって、越えることの出来ない絶対的な隔たりでした。神は自由に降りて来られるが、人間は「塔の頂上」以上に登ることは出来ない。それが神と人間との大きな違いでした。
しかしバベルの人々は、「天に届く塔を建てる」ということによって、その格差を、自分たちの努力によって解消しようとしたのです。神が住まわれる場所である「天」にまで自由に登るために、神と人間とを隔てる空間を、自分たちの技術と知恵と努力によって埋めてしまおうと企てたのです。まさにこれこそ、人間自らが神と等しくなろうとする志に他なりません。エデンの園で蛇はエバを「神のようになる」と言葉巧みに誘惑しました。「神のようになる」。これこそ、世界で初めてなされたサタンの誘惑の言葉であり、神に対する人間の決定的な罪の姿であったことを思い返すべきでしょう。バベルの人々は、自分たちの社会の中心に礼拝所を建てましたが、それこそが、神を否定する最大の拠点になったのです。
5節には、「それによって有名になろう」と記されていますが、これは人々の間で名を知られるという意味での「有名」ではなく、「名をなす」「自分の名を高める」という意味です。即ち、神の御名が崇められるのではなく、高められるのは「人間自身」であり、人間が神の上になることなのです。ですから、そこでの神は、人間が自由に利用出来る神であり、自分たちの行いを正当化するための「単なる道具」に過ぎません。これがサタンが唆す人間中心の罪の世界なのです。神を恐れることを忘れた人間が、優れた知恵を持ち、進んだ文化を作り上げ、絶えざる努力を重ねれば重ねる程、そこに実現されるのは、恐るべき悪魔の世界と言うべきでしょう。そしてその悪魔の世界の建設に、町の人々が「心を一つにして」一致団結して向かったというところに、この物語の悲劇性があるのです。
6節から、「これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」とあります。
これが神の審きでした。既に述べたように、「言葉」とは、単なる「言語」ではなく、人の幸福に直結するもの、即ち、「心」の問題です。「心」が通じ合わなければ、「心」を表す道具としての「言語」は、もはや言葉としての役を果たしていないと言わなければならないでしょう。バベルの人々の姿は、神を無視して生きようとした人間の罪を暴露するものでした。そしてその結果として「全地に散らされた」とは、世界各地にという意味ではなく、「本来の故郷・帰るべき楽園から限りなく隔てられた」という意味で理解するべきでしょう。
つまり、誤解と無理解、悪意と中傷で満ち満ちている私たちの世界の現在の混乱は、「自ら神に等しくなろうとした罪に対する、神の審きの結果である」と聖書は告げているのです。そして、罪がもたらす惨めさを痛感するならば、その惨めさの中にある私たちこそ、神の怒りによって散らされた、あのバベルの人々の末裔であることを認めざるを得ないでしょう。
地上の諸民族がそれぞれ違う言葉を語り、言葉が通じない、それゆえに共に生きることができない、一つとなることができない、それこそが私たち人間の、救いを必要としている状態です。一つとなって共に生きることこそ、神様が本来人間を造って下さった御心であり、それのかなうところが楽園なのです。そのような人間の一体性を、人間の側からバベルの塔を建てることによって一つにすることは人間の傲慢以外の何者でもありません。
神様は、それとは全く違う御業で、散り散りになっている人間を一つにして下さいます。言葉が通じない状態から救い出し、人と人とが本当に共に生きることができるようにして下さるのです。
主イエスが十字架にかかって死なれ、三日目に復活され弟子たち始め沢山の人々に40日間に亘ってお姿を現され天に昇られました。その昇られた天から「助け主」であり「弁護者」である精霊を遣わすと約束していてくださいました。そして「ペンテコステ」「五旬節」の日の精霊降臨については使徒言行録2章に詳しく記され、皆様も良くご存じでしょう。この使徒言行録2章を思い出していただくと5節に「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」と不思議な記事がありました。言葉の通じないと思っていた人たち同士に意思が通じ合ったのでした。このペンテコステは「初めて教会が出来た日」です。ここでバベルで乱された言葉がお互い理解できる言葉として戻って来たのです。何処へ戻ったかと言えば、「初めて造られた教会」であったのは言うまでもありません。バベルの人々の傲慢で退けられた神の愛が、主イエス・キリストの十字架の赦しを通した精霊降臨をもって人々の間に再び愛が復活したのです。
来るべきまことの救い主イエス・キリストと、キリストのもとに集められる新しいイスラエルである教会がそれであると指し示されているのです。主イエス・キリストが、私たち全ての者の罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神様の救いが実現したのです。そしてその主イエスを信じ、その救いにあずかる者たちの群れである教会において、すべての人が一つとされていくのです。神様はバベルの塔を建てる人間の罪に対して言葉が通じない、といった審きではなく、主イエス・キリストの十字架の救いをもって新しい救いの道に導かれようとしているのです。
お祈りを致します。