互いに真実を語りなさい

聖書:申命記191519節, ペトロの手紙一 3814

 わたしたちは神の民に与えられた戒めを学んでいます。それは昔、旧約聖書に記されている神の民イスラエルに与えられましたが、今に至るまで、「神を愛し人を愛するとは、どういうことなのか」を教える神の言葉となっています。そして、「これを守る者は命を得る」と教えられているにも拘わらず、戒めを守ることができない人間の罪の現実をも指し示している。それが 十戒 であります。人は自分の力で戒めを守り、自分の力で命を得ることができない。すなわち、救いを得るに至らないのであります。

では、どうしたらよいのでしょうか。人は自分で救いを獲得することはできないけれども、神は人に救いの道を開いてくださいました。それはすなわち、ただ神の恵みによる救いです。神は御子を救い主、キリストとして世に遣わしてくださいました。人の力でできなかった罪の贖いを、真の神の子は、真の人の子として全人類の身代わりになって贖ってくださいました。そのことを信じた者は悔い改め、主の犠牲の死に結ばれた者となりました。主の死に結ばれたわたしたちは、主のご復活の命に結ばれて、教会の生きた肢とされたのです。教会とは、主イエスのご命令によって教えを宣べ伝える唯一の真の使徒的教会であると信じられています。

わたしたちは、自分の力で、聖書に与えられた十戒を守ることができない者でありますが、しかし、他方、キリストによって救いに招かれた喜ばしい者として、どのように生きたらよいかという課題が与えられているのです。それこそが、救われた者の感謝の生活であります。感謝の生活とはどのようなものであるか、という問いなのです。わたしたちクリスチャンは全世界の主の民であり、年齢、性別が違うだけでなく、様々な時代、様々な地域、様々な民族の特徴を持った主の民であります。「甲の肉は乙の毒」というほど、違いの方が際立って見えます。だから昔の戒めは今に通用しないと思っても不思議がないほどの多様性があるのです。

しかしながら、キリスト教徒の教会はいつの時代にも十戒を教え、十戒を学び、これを救われた者の感謝の生活の柱として来ました。わたしたちは、今までに第八戒まで学びました。今日は第九の戒めです。それは「あなたは、隣人について、偽証してはならない」です。今日は旧約聖書申命記19章を読みましたが、これはイスラエル共同体の中でどうしたら公平、公正な裁判が可能となるかを論じているのです。十戒の第九の戒めを見ると、隣人について偽証してはならない、というのですから、確かに裁判に関わっている戒めですから、日常とは違う裁判の被告人のために、あるいは原告のために、証人として立つ場合などが頭に浮かぶのではないでしょうか。19章15-19節をもう一度読みます。

「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」

「あなたは」と申命記が呼びかけているのは、裁判人に対してではありません。むしろ、裁判人を立てている信仰共同体に対して、祭司を立て、訴える者、訴えられる者を立て、証人を立てているこの信仰共同体全体に向かって、「あなたは、責任を持ちなさい」と命じられているのです。もし誰かを殺そうとして嘘の罪でその人を訴えた者がいるとしたら、その偽りの証人となった者は人を無実の罪で殺そうとしたのですから、その悪い企みの報いとして殺されなければならない、ということになります。昔の石打の刑というのも、わたしたちの目にはいかにも残虐な行為と思われますが、一人の死刑執行人が犯罪人を死なせるのではなく、みんなの責任でその人を死なせるという強い決意が共同体に迫られているのです。

このように裁判において偽証することは、共に生きる社会の中で無実の人の名誉を傷つけるだけでなく、誤った裁判を行う事になりますから、社会的な公正を破壊し、共同体を崩壊させる深刻な原因となります。ですから、強い決意をもって悪を取り除かなければならないと命じられているのです。申命記が書かれた時代は、そんなに古くはないと思われていますが、それでもも二千数百年は経過していると考えられますので、裁判の公平、公正さがこのように訴えられていることは、信仰者でなくても驚くべきことではないかと思います。わたしたちは神によって与えられていると信じるのですから、神の公平、公正を命じ給うその熱意を褒め称えずにはいられません。

申命記で取り上げられたものは公正な裁判のための偽証の禁止であります。しかし、そういう公の裁判でのことが守られるためには、ごく身近な人と人との関係の中で偽りが取り除かれなければなりません。ですから、偽証してはならないということは、家族、隣人、教会、地域社会について命じられている戒めです。今日の新約聖書は、ペトロの手紙一、3章です。8節。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」わたしたちはそれぞれの個性あふれる人間であり、異なった様々な意見を持つ自由が与えられているのですが、ところが度を超すと、些細なことでも自分と相手が違うと気に入らないと思い、受け入れられないとなり、嫌悪感を持つことは大きな問題であります。

だからこそ、一人一人、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くような心遣いが勧められています。心を一つにするとはそういうことであります。そして兄弟を愛し、と言われていますのは、天の神さまを「天にまします我らの父」と呼び奉るわたしたちだからこそ、共に神の子とされた兄弟姉妹を愛する愛が与えられているのです。また、「憐れみ深く」と言われているのは、神さまが慈愛に満ちた方であるからです。神さまが憐れみ深い方であるからこそ、兄弟姉妹を救い、その人たちの悲惨さを少しでも和らげ、またその人たちの弱さを支えるようにと、教えているのです。

これらの勧めを実行するために無くてはならないものは何でしょうか。それは謙虚であることです。人と人との心がバラバラになる大きな原因の一つは、傲慢であり気位の高さであります。自分を人より一段と高い者とするならば、そのために隣人たちを低く見るようになり、非常に問題です。そんなことがあってはならないのですが、実際はこの世の価値観が、基準が教会の中にもどんどんと入って来ます。わたしたちはこの世の価値に全く影響されないということはほとんど不可能です。何かの職業に就くためには勉強して試験をパスしなければなりません。また病気になると仕事をすることが難しいので、健康を保持しなければなりません。また家とか何かを買うためには、たくさんのお金が必要です。このようなことが沢山あり、わたしたちは苦労して来たし、またこれからもこの世の価値に関わりなく生きることはできません。

しかし、成宗教会の78年にわたる歴史を振り返ったとき、貧しい時代を生きた人々の言葉が思い起こされます。食べる物が乏しかった頃、牧師先生が畑で作ったホウレン草を分けてくださった、とか。コーヒーを入れてくださった、とか。売らなければならなかった石鹸をママ先生が買ってくださった、とか、本当に小さなことに対する感謝を忘れないでいる方々がいるのです。私の仕えた教会の17年では、そんな感謝は一つも生まれませんでした。感謝というのは、自分が貧しいからこそ生まれるものだと思います。

一方、今の時代にも貧しさはあります。それは健康の貧しさ、特に年を取っていろいろできないことが増える。病気にもかかる、ということで、わたしたちは貧しくなります。すると本当に小さな事にも感謝が生れます。なかなか礼拝が守れなくなった方の所に伺うと、それは喜ばしい出来事になります。何を話すか、世間話では終わりません。このわざわざ出かけて行くこと。わざわざ迎えるために待っていること。その両方がイエスさまの教会を思っているからです。教会の主が会わせてくださる交わりです。すると感謝が生れます。両方とも、主の御前に謙虚にならないではいられないからです。9節。

「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」わたしたちは神さまの慈しみを受けて生きているのですから、兄弟姉妹にも慈しみをもって交わるのですが、そのためには多くのことに耐え、また多くのことを支えていかなければなりません。時には思いがけなく意地悪な人々がいてわたしたちは腹立たしくなるのですが、その悪口、侮辱にも忍耐するように勧められています。それではやられっ放しで良くないと世の人々は思うことですが、わたしたちは悪に悪をもって立ち向かわないことが、神さまに仕える者の広い心であると教えられます。それは神さまが良い人々ばかりでなく、悪い人々の上にも雨を降らせ、太陽の恵みを注いでくださる広いお心の持ち主だからです。

だから祝福を祈りなさいと勧められます。祝福は他人の繁栄を祈ることです。わたしたちは、侮辱されてもそれに報復しないだけでなく、善を為すことによって悪を乗り越えなければならないと教えられています。そしてそれは、相手の利益のためではありません。わたしたちがクリスチャンとされたのは、神さまの祝福を受け継ぐためだからです。だからこそ、悪に悪をもって報いては、神さまの祝福を断ってしまうことになるのです。10節。

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」神さまは残酷な人や、裏切る人々を祝福することを欲してはおられません。そうではなく、善良な人々と善い行いのある人々に臨み給うことを欲しておられるのです。だからこそわたしたちは人の悪口を言ったり、人を侮辱したりすることのないようにしなさいと命じられています。また表裏のある人間、人をだます人間とならないように、舌が犯す罪、悪徳から身を守らなくてはなりません。更に、積極的に努めるべきことは、人を傷つけないこと、だれにも害を与えないこと、そして、すべての人に善くするように配慮を怠らないことです。

平和を願い、追い求めよと力強く勧められています。平和はただ争いが無く何もしなくても良い状態ではありません。ボーっとして居たら平和はわたしたちからいつの間にか逃げて行くかもしれません。ですから常に平和を追いかけて探し出さなければならない。平和とはそのように心配りすべきものであることを教えています。12節。「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」わたしたちは困難に直面するとき、まるで主は自分をお忘れになったかのように動揺することが多い者です。しかし、主は適切な時期に我々を救うために、わたしたちを見ておられます。主なる神様はわたしたちの保証人で保護者なのです。

ですから主の喜んでくださることを行っている時にも思いがけない困難、苦難に遭うことがあっても、どのような時にも人を恐れず、神さまだけを恐れて、わたしたちは互いに真実を語る者となりましょう。どんな時にも神を畏れて他人に悪を為すことなく、間違いにも不正にも耐えることが勧められています。カテキズム問49 第九戒は何ですか。その答は、「あなたは、隣人について、偽証してはならない」です。偽りや嘘や悪口を語って人を悲しませたり、困らせたりしてはいけないということです。わたしたちはイエスさまによって真実を語る者とされているからです。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

尊き御名を褒め称えます。今日の礼拝、わたしたちを一週間の旅路から、御前に引き返し、感謝と讃美を捧げる者とさせていただきました。

今日の御言葉の糧を感謝します。第九戒は偽証を禁じる戒めでした。偽証に先立つ小さな嘘、隣人に対する悪意、高慢な心をわたしたちから取り去ってください。あなたの前に低くされ、あなたの恵みを知る者とさせられたことを感謝します。互いに主のものとされ、イエスさまの生きた御体の肢とされたわたしたち、助け合って良い実を結ぶことができますように切に祈ります。今日の礼拝後に行われるバザーの行事をどうかあなたの恵みの下においてください。あなたの祝福を受け継ぐものにふさわしく、この働きを通して兄弟姉妹を祝福し、またバザーを機会に教会を訪れる地域の方々にあなたの祝福をお与えください。どうか思いがけない困難をも乗り越え、怪我無く事故無く行われますよう、最後まで御手の内にお導きください。

また、今週のわたしたちの歩みも御言葉に従うものとなりますように。来週は永眠者記念の聖餐礼拝を守ります。またどうぞ、あなたの豊かな顧みがそれぞれの生活の上に注がれますように。牧師後任の人事に伴う準備をあなたの御手によってお導きください。また東日本連合長老会の働き、日本基督教団の将来に向かう取り組みの上に御心を行ってください。わたしたちの限りある力が豊かに用いられ、あなたのご栄光を現わすために勤しむ者となりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

奪ってはならない

聖書:エゼキエル459節, エフェソの信徒への手紙425節-51

 昨日、ポストに宗教の宣伝ビラが入っていました。ハローウィーンの季節を意識してか、おどろおどろしい夏のお化けのようなイラストで各宗教を説明していました。それは仏教系の新興宗教なので、仏教以外は皆ダメだと書いてあり、特にキリスト教に至っては、「神に見捨てられた人を拝んでいる」人々がいるなんて全く信じられない弱い宗教だと総括していました。思わず微笑んだのは、これとまったく同じ感想が、古代ローマ帝国時代の人々に聞かれたということを、東北学院大学の松本宣郎学長の講演で聞いたことがあるからです。

日本社会は只今、かつて経験したことのない少子高齢化社会であり、また世界的にはIT革命の時代であります。人の仕事がITに奪われると危機感を持ち、まるで人間の価値が仕事で決まるかのように騒ぎ立てる時代に、わたしたちは呆然としてしまうかもしれません。しかし、どんな時代にも教会は信仰を受け継いで来ました。今とは異なる危機ではありますが、今より軽い患難では決してない、危機の時代を生きて、教会は旅を続けております。わたしたちは「弱いときにこそ強い」というみ言葉(Ⅱコリ12章10節)を与えられています。なぜなら、イエス・キリストがわたしたちの弱さをすべて身に受けて、弱さの極みを御自分のものとし、反対に神の強さをわたしたちに与えてくださったからです。わたしたちはこの方を救い主と信じ、自分の罪を告白して、キリストに結ばれるものとなりました。

わたしたちはキリストに結ばれ、キリストの体の教会の部分となっています。イエスさまは言われました。(ヨハネ15:4…198頁)「わたしに繋がっていなさい。わたしもあなたがたに繋がっている」と。またこうも言われます。「人がわたしに繋がっており、わたしもその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ(ヨハネ15:5)」と。わたしたちはどのようにして教会の肢となるのでしょう。それは洗礼を受けて肢となるのです。ではどのようにして教会の肢として、イエス・キリストに繋がっていることができるのでしょう。それは、礼拝を捧げ、神の言葉によって養われることによってつながっているのです。

さて、イエスさまに結ばれた者は、罪赦され救われていることを、どのように感謝したら良いでしょうか。これがわたしたちの大きなテーマです。今日まで学んで来た 十戒 も、この大きなテーマの中で学んでいます。すなわち、わたしたちが暮らす一日一日は感謝の生活であるはずだからです。今日は十戒の第八番目です。第八戒とは何でしょうか。それは、「あなたは、ぬすんではならない」です。世の中の犯罪の中で最も多いのは、窃盗、ひったくり、そして万引きだそうです。盗むというとそういうことを思い出しますので、わたしは盗んでない。だからわたしには関係ない、と思うかもしれません。

しかし、この戒めは単に物を盗むことだけを言っているのでしょうか。決してそうではないのです。この戒めも第六戒の「殺してはならない」や、第七戒の「姦淫してはならない」と同様に、人と人との関係を破壊するに至る重大な罪を指しているのです。盗みの非常に深刻な一例は誘拐であります。誘拐はすなわち人間を盗むことです。古代社会では労働力を確保するために誘拐が頻繁に行われました。先週取り上げました創世記のヨセフ物語でも、悪意ある兄たちは、穴に入れられたヨセフを、売ろうか、どうしようかと相談しているうちに、商人の一行が来て、穴の中の子供を勝手に引き上げ、奴隷として売るために連れ去ったことが語られています。このことからも、誘拐が珍しくなかったことが分かるのです。しかし、自分の身にそういうことが起こることを少しでも想像すれば、誰にでも分かることですが、自分の人生が誰かの手に握られるのは、失われたも同然であります。そして、誘拐された家族の生活も破壊されます。

本日の旧約聖書はエゼキエル45章9節を読んでいただきました。「主なる神はこう言われる。イスラエルの君主たちよ、もう十分だ。不法と強奪をやめよ。正義と恵みの業を行い、わが民を追い立てることをやめよと、主なる神は言われる。」ここでは誘拐という盗みとはまた異なった盗みについて、預言者の言葉が語られます。大国との戦争に破れたイスラエルの人々は奴隷の民となってバビロンに引いて行かれ、異国で敗戦の民の憂き目を味わいました。ペルシャ王クロスの時代から祖国への帰還ができるようになったのですが、依然としてイスラエルは外国の支配を受ける属国でありました。その属国を支配する者は同じ神の民、イスラエルでありながら、上に立つ者が権力を奮い、貧しい人々を苦しめ、搾取したのです。彼らはどうやってそれをしたのか。貧しい人々から盗んでいるとは、全く思いません。支配者たちは自分たちの都合の良い方法で、お金を貸し、作物の種を貸し、土地を耕させるからです。しかし、農耕民は借金が返せなくなると、先祖からの嗣業の土地を手放さざるを得なくなる。また、土地ばかりか、子供たちさえ売らなければならない。最後には自分自身さえも、借金の抵当として取られてしまう。こうして真に深刻な共同体の破壊が起こりました。

このようなことが起こらないように、村の人々を守り、町の人々を守ることこそ、上に立つ指導者、権力者の務めであったはずです。エゼキエル書の預言者は叫びます。正義と恵みの業を行えと。そのためには、正しい度量衡を施行することも、支配者の責任でありました。申命記25章13-16節には次のように言われます。「あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升をおいてはならない。あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができるが、このようなことをし、不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。」320頁上。ところが法に違反して、二種類の升、二種類の重りを使い分けて、不正な取引が実際行われ、その結果は貧富の差の著しい拡大となりました。

盗んではならないという戒めが指し示すものは、わたしたちの生きる社会、世界でも全く同じではないでしょうか。イエスさまの許に来た金持ちの青年がいました。マタイ19章16節です。彼は尋ねます。「永遠の命を得るには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」イエスさまは十戒によってお答えになりました。「殺すな、姦淫するな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい」と。青年はこともなげに答えました。「そういうことはみな守ってきました」と。それほど簡単に答えられることの方が不思議です。しかし彼は、「持ち物を売り払って貧しい人々に施しなさい」と勧められると、悲しみながら去っていきました。盗んではならないという戒めの意味の深さ、大きさを彼は思いめぐらすことができなかったのでしょう。今日の世界中の貧富の差を考えると、そしてますますそれが開いて行くということを知らされると、本当に深刻なことではないでしょうか。キリストの体に結ばれているわたしたちは、ただ主を仰ぐより他はありません。

今日読んでいただいた新約聖書は、エフェソの信徒への手紙4章25節からです。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」わたしたちは神さまが人間を神の形にお造りになったと教えられました。ところが、神さまに背いて以来、神の似姿を失ってしまいました。イエスさまは真の神の子であられますが、人間を救うために背きの罪を贖ってくださいました。わたしたちは真の神の子と結ばれて、神さまが最初に人間にお与えになった神の形を回復させていただいたのであります。そこで神の形と言われる人間になるとは、どんな風になることなのでしょうか。

それは神さまの似姿ですから、神さまに似たものとなることです。神さまは真実な方ですから、わたしたちもまた偽りを捨て、真実を語ることを目指します。クリスマスが近づくと聖書に読まれる祭司ザカリヤはこう歌いました。ルカ1章74節。102頁。「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」これは「わたしたちは清く神さまに仕えたい」という目標です。そして「正しく隣人と仕え合いたい」という目標です。しかし、これはわたしたちの力でできることではありません。ただ教会の主イエスさまに結ばれているからできる希望があるのです。26節。

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」カルヴァンは怒りの三段階ということを言いました。第一は、自分の一身に関わる不正、過ちに動揺して腹を立てることです。第二段階は、ひとたび動揺すると度を越して激しい怒りに走ってしまうことです。第三段階になると、自分に対して向けるべき怒りを兄弟たちに向けるようになります。いわゆる八つ当たりで、自他ともに思い当たることではないでしょうか。パウロが勧めているのは、罪を犯さないように怒りなさいということです。そのためには怒りの原因を他人よりも自分の中に求めなければなりません。また怒ることがあっても、いつまでも怒り続けることのないように努力しなさいと勧めています。

ところで、皆様は思うかもしれません。今日の第八の戒めと怒りとは関係がないのではないかと。これまで盗んではいけないのは、物だけではないことを学んで来ました。人そのものを盗んではならないのです。そうだとすれば、人の心にあるものも盗んだり、奪ったりしてはならないのです。パワハラで奪われるものは心の平安ではないでしょうか。八つ当たりされる家族は、落ち着いていられません。小さい者、弱い者ほど、激しく盗まれるのではないでしょうか。27節。

「悪魔にすきを与えてはなりません。」怒りに身を任せている人はサタンに心が占領されているのです。また、それがいつまでも根深い恨みとなって心に残れば、それは癒しがたい病となるでしょう。28節。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」くり返して申しますが、盗みを働いていた者とは、泥棒家業の人ではありません。ここでは、人間の裁きでは見逃されてしまうような、隠れた盗みのことを言っているのです。つまり、他人の利益を自分の方に引っ張って来るあらゆる種類の横領を含めて考えています。オレオレ詐欺は実に巧妙ですが、人から名誉を盗む、評判を盗む、人のことを巧みにけなしたり、持ち上げたりして自分の利益になるようにもって行く人は、自分でも盗みを働いているとは、全く気付かない。そこにわたしたちの隠れた罪があります。

しかし、わたしたちは、ただ神の言葉によって過ちが正され、悔い改めに至るように、聖霊の助けを絶えず願いましょう。教会の肢であるわたしたちには高い目標が与えられています。これまで他人の利益を密かに奪うようなことをして来たとしても、これからはだれにも害を及ぼさないように働くという目標です。それは、ただ単に自分を養うだけのものを得るために働くだけではなく、他の人々を助けることができるようにならねばならないという高い目標です。自分だけのために生きることを考えるのでなく、互いの必要に役立つように努力する。これこそがキリストが与える愛の目標なのです。

わたしはもう年取って何の役にも立たないと、言いたくなる気持ちはよく分かります。しかし、それもまた、人間の側の身勝手な判断ではないでしょうか。だれが役に立つのでしょうか。だれが役に立たないというのでしょうか。わたしたちが役に立つのはキリストに結ばれているからです。もし人が、わたしに繋がっているならば、その人は豊かに実を結ぶと主は言われたではありませんか。「生きている限り清く正しく」と歌うザカリヤの言葉は真実です。わたしたちの判断によってではなく、ただ主の恵みによって、わたしたちは第八の戒めを守る者とされるでしょう。

カテキズム問48 第八戒は何ですか。その答は、「あなたは、ぬすんではならない」です。神さまは、わたしたちに必要なものをすべて与えてくださいます。しかし、自分に与えられたものを恵みと理解せずに、むしろ不満に思って、人に与えられている神さまからの恵みを奪うことが禁じられています。」祈ります。

 

主なる父なる神さま

今、わたしたちは、必要なものはすべて豊かにあなたから与えられていることを、教えられました。真に感謝です。わたしたちの救いのために、御子をも惜しまず、すべてのことを成し遂げてくださったことに、あなたの豊かさを知る者でありますように。そして讃美礼拝する者となりますように。

わたしたちを主の体の教会に連なる者としてくださったこの計り知れない恵みを感謝します。わたしたちはこの群れに在って、互いの安否を尋ね合い、互いの喜びを喜びとし、互いの悲しみを悲しみとして、キリストの体にふさわしい教会となりますように。どうか御言葉を以てわたしたちを養い、守り、教会を建ててください。成宗教会は連合長老会に加盟し、5年が経ちました。東日本の諸教会との交わりを感謝します。また更に大きな教会の交わりを与えられ、共に助け合って、教会形成をする道が開かれますように。

目に見える教会の行事の一つ一つを顧みて、福音伝道にふさわしく整えてください。働く者が足りないと思っているわたしたちですが、あなたがいつも必要を満たしてくださいました。特に来週行われるバザーの行事、事故無く怪我無く、あなたの御旨のままに良き交わりの時が与えられますように。奉仕する者、参加する者を祝福してください。また今、ご健康を害しておられる方、いろいろな悩みの中にある方、遠くにいて教会を覚えている方々を顧み、共に主に在って一つの群れとしてください。

成宗教会は、主の恵みの下に、東日本連合長老会の指導を受けて牧師後任の人事に取り組んでいます。そのすべての上にあなたの御心が成りますように。 すべてを感謝し、御手に委ねます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神と人との正しい関係

聖書:創世記21825節, コロサイの信徒への手紙315

本日は説教題を「神と人との正しい関係」と題して、モーセの 十戒 を学びます。十戒のうちの第七の戒めです。それは、「あなたは、姦淫してはならない」という戒めです。姦淫とは、どういう意味でしょうか。古代イスラエルでは、婚約しているかまたは結婚関係にある女性が、婚約者もしくは夫以外の男性と性的な関係を持つことを意味しました。それは殺人と同じ位重大な犯罪で、両方共に死刑を免れないほどだったのです。なぜでしょうか。これは結婚の関係を破壊する悪事であるからです。破壊されるのは、夫婦関係ばかりではありません。親子関係、子供たちとの関係、年老いた親との関係にも計り知れない打撃となるでしょう。だからこそ、「あなたは、姦淫するはずがない」と戒められているのです。

この戒めの根拠は、今日読んでいただいた創世記2章に見ることができるでしょう。18節。「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」そこで神さまは野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を形づくり、人に名前を付けさせましたが、自分に合う助ける者は見つけることができ」ませんでした。そこで神さまは人を深く眠らせ、人のあばら骨から取った骨で女を造りました。アダムはすぐに大変喜んで、言いました。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。」

この言葉は、自分にふさわしい助ける者を動物たちに見つけることができなかったのとは、対照的な喜びでした。今やアダムは助け手を与えられました。エバはただ肉体的にアダムと共にいるだけでなく、精神的、霊的にも助けとなるものとして共にいる者となったからです。2章21~23節では、神さまは女を男のあばら骨から造られたと書かれているので、これを盾にして女は男より劣った存在とする風潮が長く世界を支配したかもしれません。しかし、これより前の1章27節では、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と宣言されています。神さまは男も女も神の形に創造されたのです。ですから、当たり前ですが、人類は男と女から成り立っています。男がなければ女は存在しないように、女がなければ男は存在しないという相互的な関係であります。

そして2章24節に戻りますが、「こういう訳で、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と言われます。結婚は、人をその妻と一つの体、一つの魂に結びつける絆であります。それは、人間の他の一切の結び付きの中でも、際立って聖なる絆であるということなのです。聖なるとは、神さまが特別に分けられたという意味です。神さまは男と女を創造された時、彼らを祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言われました。ですから、生殖行動をも祝福されたことは明らかです。しかしそれは、神さまが制定された結婚の関係という秩序を守ることにおいて祝福されているのです。

結婚をこのような聖なる秩序として、絶えず大切にし、守って来た夫婦から生まれた子供たちは、そうでない夫婦から生まれた子供たちよりも結婚の秩序を守ること、すなわち第七戒の「姦淫してはならない」を守ることが当然のことだと感じるでしょう。しかし、長い人生の歩みの中で、この戒めを破る誘惑は非常に多いと言わなければなりません。旧約聖書の中で、有名なのはダビデ王の姦淫の罪です。サムエル記下11~12章に詳しく語られています。ダビデは少年時代から勇敢で忍耐強い人で、戦争で数々の勝利を収めましたが、それがかえって自分の主君の妬みを買うことになり、王を敵に回して命がけの逃避行が何年も続いたのでした。そのような地獄の年月を救ったのは、彼が信頼して止まない神さまであって、そのためにダビデは今に至るまでイスラエルの最も尊敬される王であり、イエスさまもその子孫からお生まれになった、ダビデの子と呼ばれるのです。

しかし、そのような立派な王にも大きな誘惑が訪れました。誘惑は人が苦しみに苦しんで戦っていた時では無く、九死に一生を得て、ホッとした、安心、安楽の時にこそ来るものです。ダビデは何と忠実な彼の部下が戦場で戦って留守の間に、部下の妻と姦淫の罪を犯しました。しかもそれを何とか誤魔化そうとしてできないことが分かると、部下を戦死させるように画策したのです。

ダビデ王ほど有名ではありませんが、創世記が記している姦淫の事件があります。それは、創世記39章に記されています。この物語の主人公はヨセフという少年で、彼はアブラハムのひ孫にあたります。ダビデの場合とは正反対で、彼は姦淫の加害者ではなく、被害者とされそうになりました。ヨセフは兄たちの妬みと憎しみを受けて殺されそうになったのですが、殺されず、エジプトに奴隷として連れて来られました。彼はエジプトの王ファラオの侍従長の家で働いたのですが、その妻がヨセフを誘惑しました。しかし、当時まだ未成年であったと思われる彼は、毅然として主人の妻にこう言ったのです。

39章8節。「しかし、ヨセフ拒んで、主人の妻に言った。『ご存知のように、ご主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお使いになりません。財産もすべてわたしの手に委ねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。』」68下。

ヨセフのこの気高さは驚くべきものです。彼は純真で人を疑うことなく、人に取り入ることのない人で、神さまから受けた夢をそのままに語りました。姦淫が大きな悪であると宣言したことも、自分の経験や知識から出たことではなく、神さまから受けた啓示であったに違いありません。彼はこのような性質のために罪人たちから大変な憎しみを受け、患難苦難を忍ばなければなりませんでしたが、それはすべて神さまの救いのご計画のためであったことが後に分かります。彼は自分を殺すほど憎んでいた兄弟たちを含む家族、父イスラエルを始め一族全員の命を救う者となる、それが神さまのご計画でありました。

このヨセフの物語は、後に地上に送られた救い主イエス・キリストを指し示すものであります。ヨセフは罪深い自分の家族を救いましたが、イエスさまは御自分を憎み、殺そうと謀った人々を含め、すべての罪人の命を救うために、死に至るまでの艱難苦難を忍ばれました。さて、そのお方御自身、姦淫の罪について語られているところが、新約聖書に二か所あります。その一つは、マタイ福音書マタイ5章の山上の説教にあります。27節~28節。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」

このようにイエスさまは、わたしたちの目には見えない、従って他の人には知られない心の中の罪について指摘しておられます。すると、だれも人の前では誇れることでも、自分の中では誇ることができない罪があることを認めざるを得ないのではないでしょうか。このように、姦淫の罪は、他の罪と同様、たとえ目に見えなくても私たちの心の奥底にまでこびりついたものなのです。

それでは、一体だれが第七戒を守っていることになるでしょうか。人の心を見ておられる方は、だれ一人正しくないことを知っておられます。だからこそ、罪人を救うためにイエスさまはわたしたちの所に来てくださったのです。ヨハネ福音書8章では姦淫の罪に問われた女の人がイエスさまの前に連れて来られた、という出来事が記録されています。連れて来た人々は、「姦淫の女は律法に従って石で打ち殺すべきである」と、イエスさまが答えるかどうか、試すのが目的でした。

姦淫の罪は、神さまから祝福された結婚の秩序を破壊するもので、重大な罪であります。しかしイエスさまは言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に対して石を投げなさい」と。すると、だれも石を投げることができませんでした。これはイエスさまの起こされた奇跡の一つではなりでしょうか。イエスさまの前では、なぜか誰も自分を偽って「わたしは罪がない」と思うことができなかったからです。イエスさまが地上に来られた目的は、罪人を救うためでありますから、イエスさまは第七の戒めを破る者に対しても、死罪に当たる罪を犯した者にも、罪の赦しを与えようとしておられます。姦淫の女のように、罪のただ中でイエスさまに出会うならば、本当に自分の罪を認めない訳には行かない。本当に罪の報いとして死ぬか、罪を認めて心から悔い改め、イエスさまから罪の赦しを受けるか、その二つに一つを選ばなければならないでしょう。

今日の新約聖書はコロサイの信徒への手紙3章です。パウロは、コロサイの教会の人々に語りかけます。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にある者を求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」と。キリストは復活されたのは、十字架に死んだからこそ、復活されたのでした。ですから、キリストを信じるわたしたちも、キリストと共に罪に死んだからこそ、共に復活させられて、新しい命に生きるものとされたのです。

新しい命は上にあるものを求める生活です。キリストは地上を離れて神さまの右におられます。つまり、神さまと共にすべてを御支配なさる方なのです。わたしたちはこの方の執り成しによって罪赦されてキリストに結ばれ、キリストの体と呼ばれているのですから、ひたすら、イエスさまの執り成しによって、神さまとの正しい関係を求めて生きるのです。それは、神の形として造られた本来の人間の祝福に満ちた関係です。だから「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と勧められています。

すると、「地上のもの」というところを、何か禁欲的に解釈して、物を持つことを禁止したり、結婚を禁じたり、断食をしたり、そういう目に見える何かをしないといけないかのように考え、勧める人々が力を持つことがあります。また、そういう勧めによって人々の行動を支配しようとする力が働きます。しかし、神さまはこのような偽善をご存じで、決してお見逃しにはなりません。「地上的なもの」とは、5節にその例が示されているとおりで、今日のテーマに関わっています。

「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝に他ならない。」姦淫もまた情欲であり貪欲の一例であります。お金をいくら集めても飽き足らないのと同様、立派な美しい配偶者がいるのに、姦淫をする人が後を絶たないのは貪欲の罪、偶像礼拝の罪と重なっているからだと教えられます。

このような罪を罪とも思わない人々に満ちている社会に生きています。しかも殺人は禁じている法律はあっても、姦淫にはほとんど無法状態の世の中であります。脅迫されて罪を犯さざるを得ないという危険は沢山あるのではないでしょうか。しかし、ヨセフ物語でヨセフと共にいらして彼を救った神さまは、わたしたちにイエスさまの助けという現実となって勇気を与えておられます。コロサイ3章3節です。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されて見えなくても、そこにある!と力強く言われているのです。ですから、わたしたちの命は、見かけはそうは見えなくても、危険から守られています。神さまに従う約束を神さまは受け入れてくださいました。神さまは誠実な方です。神さまにお委ねし、頼り行くわたしたちを、神さまは欺くことは決してありません。

ですから、わたしたちは上にあるもの、すなわち神さまとの正しい関係を求め、共に生きる人々との関係を、神さまの戒めの下で慎ましく喜ばしいものにしていただきましょう。

今日はカテキズム問47を学びました。それは、第七戒は何かということです。そしてその答は「あなたは、姦淫してはならない」です。わたしたちの心とからだは、神さまのものなので、神さまの御前に純潔を守り、神と人との関係を正しく保つことです。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を讃美致します。一週間の旅路を守られ、導かれて、わたしたちは礼拝を捧げる幸いに招かれました。代々の教会と共に、主の日の礼拝を守り、地上にある主の教会の民と共にあなたを見上げて感謝と讃美を捧げます。あなたは御子イエス・キリストの執り成しによってわたしたちの罪を赦して下さり、天にある、朽ちず、しぼまない命の希望に生きる者と作り変えてくださいます。地上の日々は大きな変化に絶えずさらされ、自然の営みも人の営みも激しく変わって行くように思われます。

その中でわたしたちは、目に見える幸いを追い求めることに忙しい世に在って、あなたの御心を尋ね求める者こそ幸いであることを教えられました。どうか神さまの喜ばれることこそが、わたしたちの喜びとなりますように。あなたの喜ばれないことから遠ざかる知恵をお与えください。わたしたちの教会で計画され、行われることが、福音を宣べ伝えるあなたのご命令に従うものとなりますように。また、わたしたちが礼拝の場を去って、それぞれの生活のある所に出て行くとき、どうか福音をそこにもたらすものとならせてください。

命の神よ、わたしたちはあなたの御許に隠されているわたしたちの命を思い、感謝します。どうか、苦しみの時、悩みの時、わたしたちの命に至る道を指し示してください。地上に与えられる新たな命を祝し、またキリストの執り成しによって生まれる救いの命を祝してください。また、地上を去ってあなたの御国に目覚める命を目指して歩む教会を祝してください。わたしたちの信仰の旅路を今週もお守りください。

この感謝と願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

命は神さまのもの

聖書:創世記4章1-16節, ローマの信徒への手紙12章15-21節

 教会の主イエス・キリストの父である神さまは、私たちを教会に招き、恵みの福音をお知らせくださいました。私たちは、教会がこの救いをどのように信じているかを使徒信条によって学びました。そして、この教会の信仰を受け入れた者は洗礼を受け、信者の群れの一員とされたのです。救われることに優る喜びはありません。なぜなら、私たちはこの世の生活がすべてではなく、神の永遠の命と結ばれて生きているからです。そこで、私たちは救われて、神の子とされた者としてどのように生きるべきでしょうか。それは感謝の生活であります。

神さまに感謝して生活するための道しるべとして、私たちは改めて 十戒 の戒めをいただいているのです。さて、本日は十戒のうちの第六番目の戒めを学びます。第六戒は何でしょうか。それは、「あなたは、殺してはならない」です。「殺してはならない」の直訳は、「殺すことはないであろう」とか、「殺すはずがない」という意味です。つまり、わたしたちはそんなことは当たり前ではないか。この戒めに関してだけは、自分は殺す心配もないし、殺される心配もしなくて大丈夫と、何となく簡単に守っているかのような気持ちでいるのではないでしょうか。

今日は創世記4章のカインとアベルの話を読んでいただきました。カインとアベルは最初の人間、アダムとエバの子供です。神さまは人間を神の形に造られたのです。それは、すべての造られたものの中で、人間だけが、神さまの呼びかけに応えるものとして神さまの交わりに招かれたということです。神さまに出会い、神さまと対話をするということは、神さまを礼拝することに他なりません。人間が神さまに出会い、礼拝するのは、神さまへの信頼なしにはできないことです。神さまはわたしたちを憐れんでくださる。その足りないところ、失敗を赦してくださることを信じることが出来るので、全知全能の神さまの前に出ることができるのでしょう。

ところがアダムとエバは神さまとの約束を破った時、神さまが呼んでも応えないで、逃げ隠れしたのです。神さまが自分たちを赦してくれないだろうと思うので、神さまに出会うことは恐ろしいことだったからです。それでも、神さまはこの二人から祝福を残してくださいましたので、二人は労苦して働き、子供が生まれました。エバは「わたしは主によって一人の人を得た」と言いました。生れた子どもを、自分が産んだとか、自分の赤ちゃんだとか言わずに、神さまが一人の人を(口語訳、KJ版ではa man)与えてくださったと感謝しました。この二人は神さまを知らないのではなく、エデンの園から追放された後も、神さまを礼拝する家族であり続けていたことが分かります。

ところが、そのような家族の中で生まれた二人の息子に悲劇が起こりました。カインとアベルは神さまに感謝の献げ物をささげたのですが、神さまはアベルの献げ物は目を留められた一方、カインの方には目を留められませんでした。どうしてこのようなことになったのか、と私たちは原因をあれこれと詮索しますが、目に見えてこうだと言えるようなことは分かりません。しかし、はっきりと言えることは、神さまに感謝を捧げるために無くてならないものは、真心であるということです。形は立派に整っていて、人々の目には何も問題は無く、むしろ素晴らしく見えても、神さまは捧げる人の真心を見ておられます。

で預言者サムエルは次のように言いました。(サム上15:22、452頁、上)「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえに優り、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」正しい礼拝とは、私たち自身の真心を霊的な供え物として神さまに捧げることであります。ですから、カインの献げ物が神さまに喜ばれなかった原因は、何よりもそこにあったのです。そうだとしたら、カインは自分自身を責め、悔い改めるべきではなかったでしょうか。カインが目に見える形だけの供え物によって神さまをなだめようと考え、自分を全く神に捧げ切ろうとは少しも思わなかったに違いありません。ところが彼は自分の間違いに気がつくどころか、自分の願いがかなわないのは自分の罪のせいだとは考えないで、こうなったのは皆アベルのせいだとしました。そこで、たちまちアベルに対する妬みが火のように燃え上がったのです。

主はカインに呼びかけられました。これは神さまの叱責です。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

妬みに燃え上がっている者は、もし自分が罪を犯したら、直ちに罰を受けるということに思い当るならば、罪を支配することもできるのですが、恐ろしいことにはそうではないのです。良心に責めさいなまれることもなく、自分の気にいることを何もかもできると思い込み、自らを欺くことになります。

私たちは神さまを礼拝する家族の中でさえ、このような妬みに駆られた恐ろしい罪が身近に起こることを教えられました。しかし、私たちはカインのようになってはならないことを、しっかりと心に刻まなければなりません。そのためには、十戒の第六の戒め「あなたは、殺してはならない」が命じていることは、単なる殺人の禁止ではないことを理解する必要があります。神さまは人を御自分の似姿として創造されました。そして罪に陥った人間の救いのために、自らの独り子を世に遣わしてくださり、人の罪を贖ってくださったほど、人の命を大切にされました。

そうすると、何があっても、殺人には至らないから良いだろうなどとどうして言えるでしょうか。たとえば人を蔑ろにする言動。いじめや人を疎んじる行動。その人格を否定するような行為のすべてを、神さまは咎めておいでになるのです。罪のない者の命が脅かされることを神さまは決して見過ごしにはなさいません。たとえ犯罪行為を告発する者がなくても、神さまは人が犯した罪について御自身が知っておられることを、聖書は示しています。神さまにとって、人間の命は罪なき者の血が流されて罰せられずには済まないほど愛すべきもの、その救いのために罪なき御子を贖い主としてお遣わしになるほど、貴いものであるということを、私たちは畏れを以て悟らなければなりません。

新約聖書はローマの信徒への手紙12章15節から読みました。十戒の『殺してはならない』という命令は、この世界で味わう苦難や試練ゆえに生じる憎しみや憤りを克服して、互いに愛し合う積極的な生き方へと転換することをわたしたちに求めています。14節から読みますと、「あなたがたを迫害する者のために、祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と。ここに非常に高い目標が与えられています。イエスさま御自身、この勧めを私たちにくださいました。要求されていることが難しくあればあるだけ、私たちはこれを切実に追い求める努力を傾けなければならない。なぜなら、主は私たちが主に従わなくても簡単にできるようなことは、お命じにならないでしょうから。私たちは自分を守ることに必死ですから、自分を苦しめる相手に同情することはとてもできないのが常です。しかし、相手は神さまに従っている者を不当に苦しめることで、ますます自分に滅びを招いているのですから、神様はそのような者に心を配ることを、わたしたちに欲しておられます。それが救いの主に従う教会の民にふさわしい高い目標なのです。

15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」兄弟姉妹の繁栄を見て喜ばないのは、羨(うらや)み、ねたみであります。また兄弟に不幸があるのを見て悲しまないのは不人情でです。私たちは、できる限り互いに他と一致し、一人の人に何が起ころうとも、他の人たちはそれを同じ思いで受け取り、艱難に遭っては彼とその深い悲しみを共にし、あるいは、繁栄に遭っては喜びを共にする。これが教会に与えられている目標です。

「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」ここは身分の低い人々と訳されていますが、人々と言うより、低いもの、慎ましさを意味します。高ぶった思いと対照的に心の謙りが強調されているのです。たとえば、誉れを人から奪って自分のものにするのではなく、誉れを人に譲ることこそ、イエスさまに従う者にふさわしいのではないでしょうか。17節。

「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」すべての人の前で善を行う目的は、人々が私たちの行いに感心し、私たちが称賛されることではありません。イエスさまは言われました。マタイ6章4節。「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」18節。

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と勧められています。できるならばと言われていますのは、この世がサタンを頭としている以上、この世と永久的な平和を維持することはできないからです。私たちは平和のために、できる限り多くを忍びますが、しかし必要に迫られる時には、厳しい戦いをする備えをしなければなりません。そして、19節。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。サタンに支配されている者と同じ土俵に立って仕返しをすること自体、サタンの支配下にさらされる非常に危険なことなのです。それを避けなさいと主は言われます。

更に、復讐どころか、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」と勧められています。「そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」と。悪に報いるに悪をもってしようとすることは、この悪に負けたことになります。それに対して、悪に善をもって報いるならば、これによってわたしたちは神に従う者の一貫性を証明することになります。これこそが悪に対する勝利ではないでしょうか。真に、悪によって悪に勝とうとする人は、その行いそのものによって悪魔に仕えているになってしまうからです。

イエスさまはおっしゃいました。マタイ7:12「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」11下。

今日の学びはカテキズム問46「第六戒は何ですか」でした。その答は「あなたは、殺してはならない」です。わたしたち人間の命は神さまのものです。その命はイエスさまが十字架にかかって贖ってくださったほどに値高いものです。だから、自分の命も含めて、誰の命も粗末にしたり、殺してはならないばかりか、それを愛することを神さまは求めておられるということです。

教会の主と共に生きるわたしたちは高い目標を与えられています。私たちは自分の好きな人と共にいたい。そして敵対する人はもちろん、自分の気に入らない人はなるべく遠ざけたい。自分にひどいことをする人には仕返しをしたい。この世の考えに従って生きて来ました。しかし、救われた者には高い目標が与えられています。それは教会の主イエスさまの与えられた目標です。

「私の羊を飼いなさい」と主は言われました。私も伝道者としてこの教会に招聘された時、この人々がわたしに任された羊と思って、万難を排して教会にとどまり、牧会を続けて参りました。当時の教会の人々の中には私を受け入れがたい様子が感じられました。しかし、私を知って私を憎んでいるからではないことを私は知っておりました。昔の牧師、前の牧師が懐かしいあまり、後任者を受け入れがたいのだと理解しました。しかし、その当時対立したことが嘘のように、今は教会に残っている方々と新しく加わった方々と助け合って主に仕えています。それは私たちの人間的な懐かしさとか、好き嫌いを超えて、私たちを一つにしてくださる主の聖霊の働きによるのです。

私たちは今、新しい教師を迎えるために準備を始めております。私たちはどんな備えを為すべきでしょうか。それは、祈りです。ふさわしい教師をお与えくださいと、祈りに祈ることです。真心から祈るなら、主は私たちの祈りに応えてくださるでしょう。そして準備して、迎えることができたならば、その先生が主の教会の働きのために遣わされたことを確信することが大切です。決して、後ろ向きになってはならない。必ず、前を向いて小さな群れを愛して命を捨ててくださった主に従って参りましょう。祈ります。

 

主なる父なる神さま

本日の聖餐礼拝を感謝します。主イエス・キリストの恵みによって立てられた救いが私たちにも与えられていることを確信し、ただ感謝を以て本日の聖餐に与らせてください。礼拝に参加できない方にも、主の日を覚えさせ、聖霊の助けによって私たち、心を一つにさせてください。また年々年を取って行くわたしたちが最期の日まで、安らかに健やかに主を仰ぎ見る生活を送るために、私たちの決意を新たにさせてください。

成宗教会は後任教師の招聘を求めております。どうかこのために備える祈りを篤くしてください。ふさわしい道が開かれますように。招聘委員会である長老会の働きを強め、また教会員一人一人が、自分の教会の大切な働きを覚え、主の御業がこれからもこの教会を通して行われるように祈る者となりますように。主よ、祈りをもって支え、主の与え給う教師を感謝を以て迎え、喜んで支えていく決意に至るまで、どうぞ私たちの日々をお導きください。どうかあなたに仕える教会の群れを今週も守り導き、あらゆる困難、労苦の中にあっても、災いから救い出して命を得させてください。本日行われる長老会の上にあなたの恵みのご支配を祈ります。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2018年10月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

山口智代子先生のお話

(これは今年9月30日の礼拝で話されたものです。)

聖書:創世記15章1-6節

「アブラハムの信仰」

山口智代子

アブラムは、75歳の時に、神様の言葉を聞きました。「あなたは、生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしは、あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福しあなたの名を高める祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」

アブラムは、神様を信じて、神様の言葉に従って、旅立ちました。行く先も知らないで旅たちました。アブラムは、奥さんのサライ、甥のロトを連れて、カナンに着きました。そこで、神様はアブラムに「あなたの子孫にこの土地を与える。」と約束して下さいました。

それから、アブラムの回りでは色々大変なことが起こりました。飢饉が起こって、エジプトへ逃げたこともありました。飢饉というのは、作物が十分に実らなくて、食べるものが足りなくなって、人々が飢えることです。食べるものがなくては行きていけないので、エジプトへ逃げました。

それから、周辺の国々の争いに巻き込まれてしまいました。甥のロトと財産が奪われてしまったのですが、神様の助けがあって、ロトを助け出すことができました。どんな時でもアブラムは、神様を信じていました。でもアブラムには、恐れと不安がありました。争いには勝ってロトを助けることができましたが、また敵に襲われるかも知れないと思っていたでしょうし、それ以上に、自分には跡継ぎがいないことを不安に思っていました。

そのような時、神様は、アブラムに呼びかけられました。「恐れるな、アブラムよ、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と神様は言われます。

神様は、アブラムを守り、非常に大きい贈り物を与えると約束して下さいました。アブラムは、神様の言葉を聞いて、自分の不安を神様に言いました。「我が神、主よ、私に何をお与えになるのですか。私には、まだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。ご覧下さい。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が私の跡取りになるでしょう。」と言いました。

その時、アブラムは、75歳で、奥さんのサラは、65歳でした。普通、その年では、子供が出来るとは考えられません。その前から自分達にはもう子供は生まれないと思っていたので、エリエゼルという家の使用人を養子にして、自分の跡を継がせようと考えていました。

ところが神様は、「その者が跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」とはっきり約束して下さいました。それから神様は、アブラムを外に連れ出して、「天を仰いで、星を数えることができるなら数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」と言われました。神様は、アブラムの子孫が空の星のように増えるとを約束なさいました。

アブラムは、神様の言葉を信じました。神様は、アブラムが神様の言葉を信じたのをご覧になって、それを彼の義と認められました。「義と認めた」というのは、アブラムが神様を信じたことを神様は「正しいこと」を認められたのです。神様の御心に従ったと認められました。自分の力では出来ないこと、不可能なことをアブラムは、そのまま信じました。その信仰が、アブラムを義としました。全てを神様に委ねて、神様には出来ないことはないと信じました。アブラムも将来のことを不安に思っていたように私たちも色々心配なことや不安に思うことがあります。私たちが神様を信じていれば、神様は、明日のことを準備して下さり、私達のことを守って下さいます。そして、神様は、必ず約束を実現して下さいます。いつ実現して下さるかは、私達にはわかりません。私達が望む時ではないかも知れません。アブラムは、神様が約束して下さる未来を信じました。

その後、アブラムは、神様に命じられてアブラハムと名を変えました。奥さんのサライも名を変えるように命じられて、サラになりました。アブラハムが100歳、サラが90歳の時、サラは男の子を生みました。そしてその子はイサクと名づけられました。神様とアブラムとの約束通りに、アブラハムの子孫は増えて、国ができるまでになりました。神様に出来ないことはありません。神様は、信頼できる方です。いつも私達を愛し、私達をまもり、導いて下さいます。全てを神様にまかせて、神様を信じ、神様を信頼して、毎日元気に生活していけたら良いと思います。

10月の御言葉

「「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

イザヤ書4031

10月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。
10月7日(日) コリント(一)15:1-11 並木邦夫
14日(日) イザヤ書40:27-31 並木せつ子
21日(日) 創世記18:9-15 並木せつ子
28日(日) ルカ15:11-24 興津晴枝

 

成宗教会学校からお知らせ

  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。