キリストと共に

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌10番
讃美歌270番
讃美歌354番

《聖書箇所》

旧約聖書:サムエル記 上 9章9節 (旧約聖書440ページ)

9:9 昔、イスラエルでは神託を求めに行くとき、先見者のところへ行くと言った。今日の預言者を昔は先見者と呼んでいた。

新約聖書:マルコによる福音書 6章6b-13節 (新約聖書71ページ)

6:6 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

《説教》『キリストと共に』

私たち教会に集う者は全て、「主の御心を受け」て、「全員が福音の宣教者として神様の招きを受けている」のです。
「救われた喜び」を、私たち一人ひとりが言葉で語り、生きる姿で表す、これこそが更に多くの人々の心を開かせるのです。父なる神が、人間の救いを御自身の直接的な御業によらず、「教会に委ねた」と言われる時、選ばれた誇りと共に背負う責任の重みを、ひしひしと感じます。それこそがキリスト者の生き甲斐です。本日の礼拝では、与えられたキリスト者の使命の重みと共に、如何に意義ある人生が用意されているかを、お話ししたいと思います。
6節から9節に、「それから、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」とあります。
ここで呼び寄せられた十二人とは、言うまでもなく、主御自身が選び出されたペトロ以下の十二人のことです。少し前の3章14節で、彼らは「使徒」と名付けられました。
「使徒」ギリシャ語で「アポストロス」という言葉は「遣わされた者」という意味ですが、基本的には「使命を与えられて遣わされた者」ということです。務め・使命を与えられた「神様の意志」が最も大切なことは言うまでもありません。ですから、「使徒」という言葉は、常に「遣わされる」という受け身で理解されなければならないのです。
それに対し、通常用いられる「弟子:マセーテース」という言葉は、「教えを受ける者」という意味であり、十二人だけではなく、使徒言行録によれば、後にキリスト者全てが「弟子」と呼ばれています。
何故、このようなことを初めに述べるのかというのは、十二人が「使徒であった」から遣わされたのではなく、遣わされたことによって、「使徒になった」ということが大切だからです。
キリストに従う者は、ひとつの固定した身分や地位で生きているのではなく、「そこで何が命じられているか」ということを考え続けていかなければなりません。そして私たちが、そのキリストの御言葉に対してどのような応答をするかによって、私たちの呼び名もまた決定されるのです。十二人は「遣わされた者」として相応しく行動したため、「遣わされた者」即ち「使徒と呼ばれた者」と表現されているのです。
初代教会の信徒たちは、何事においても「キリストを第一」にするので、「キリストに従う者」(クリスティアノス)と呼ばれるようになり、それが「クリスチャン」という言葉になったということはよく知られている通りです。つまり、クリスチャンとは、自分たちが付けた名称ではなく、日々の生活があまりにも独特だったために、周囲の人から付けられた「あだ名」でした。
私たちが「何をなすべきか」を考えることは、自分自身のキリストの御前における姿を決定することなのです。自分に出来ること、自分がしたいこと、それらを考えるのではなく、主イエス・キリストが「私をどのような使命に用いられるのか」、それを聞き取ることが大切なのです。
では、主イエスは、遣わされて行く者にどのような使命を与えられたのでしょうか。
先ず第一に、7節に「二人ずつ組にした」と記されています。伝道は孤独な作業ではなく、常に、祈る友を持たなければなりません。そして祈りも、信仰の仲間の支えなしには出来るものではなく、御言葉を宣べ伝える中でこそ、キリストを主と信じる者の交わりが確認されるのです。
更に、申命記19章やルカ7章にあるようにイスラエルでは昔から証人は二人以上と定められています(申19:15、ルカ7:18)。伝道者とは御言葉の証人であり、決して個人的な作業ではなく、神に代わって御言葉を語り、神の代理者として人々の応答を聞かなければならないのです。このことは、7節の「汚れた霊に対する権能を授けた」ということからも明らかでしょう。これはキリストが持っておられる権威を代行することを示しています。遣わされた者は、遣わした方の権威を代行する者なのです。
伝道者は、自分が救われた個人的体験を語るだけであってはなりません、自分の救われた喜びを伝えるだけであってもなりません。キリストに代わって、「神の赦しの福音」を語らなければならないのです。
更に8節に「何も持つな」とも言われました。
こんなことを言った人がいました。「貧しい姿をしてこそ、貧しい者は耳を傾ける」。確かにそれは人間の心理です。しかしこのような場合、しばしば「持つな」という言葉は「持っている」ことを前提にしているのです。持っているものを隠す意図があるのです。しかし、心理的効果を高めるために、「わざわざ貧しい姿をせよ」と主イエスが命じられたとは思えません。御言葉の意図するところは、「ことさらに貧しい身なりをして語れ」ということではなく、「この世を見詰められる主の御心」を見なければなりません。仕えられるためではなく仕えるために来られた主イエスの低さと同じようにならなければなりません。
主イエスは弟子たちが宣教することが、ただ主なる神にのみに依存しているということのしるしとして、軽装で旅に出るように彼らに命じられたのです。それは、彼らが唯一の頼みとするものは、主イエスから受けた権威だけだからでした。弟子たちは村に入ったときに提供されるもてなしは何でも受けること、そして、よりよい便宜を計ろうとする者を探しに行ってはならないことを、主イエスは彼らに命じたのです。それは、与えられた仕事の達成に彼らの精神と力とを集中し続けることができるようになるための訓練でした。
私たちは、「伝道に出る」ということを「汚れた世界へ福音を伝えに行く」と考えがちです。しかし、主イエスの見方は正反対です。キリストの眼には、もともと汚れている場所はひとつもありません。主イエスの眼差しの下では全ての土地は聖なるものでした。何故なら、全ての人は神様に愛されており、主イエス・キリストは愛されている全ての人々を救うために来られたからです。ヨハネによる福音書3章16節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と記されています。御言葉が語られる場所は、すべて「聖なる場所」なのです。主なる神様がそこにおられる場所です。そしてこのことに気付く時、11節の、「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」と言われる御言葉の厳しさが初めて理解出来るのです。
それは交わりの正式な否認でしたが、同時に、弟子たちを受け入れない村に対して、その拒絶によって彼らが招く危険について警告を与えるものでした。御言葉を拒否する者の地こそが汚れた者の地であり、「神に創造された聖なる地が、神に背を向ける新しい異邦人の土地になった」ということの告知でした。ここにおいて、ヨハネによる福音書3章18節に記されている、「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」。この御言葉が現実になるのです。
救いの地、顧みの地からの脱落、この恐るべきことが、「遣わされた者の言葉」によって初めて起こるのです。このように読んで来ると、御言葉の証人として使わされる者の使命は大変重要であると言えるでしょう。「二人一組」と表現されている証人の使命は、救いを拒否し、滅びの世界に留まろうとする人間自身への裁きの証人となることです。そしてまた、御言葉を受け入れる人間の救いを保証する証人になることでもあるのです。
誰がこの伝道の使命を果たすことが出来るでしょうか。誰がこの使命に相応しいと自認することが出来るでしょうか。しかし、選ばれた十二人は出て行きました。12節から13節には、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」とあります。
彼らは、自分たちが「その業に相応しい」と考えたからではなく、また、「出来る自信があった」からでもなく、ただ、キリストが「行け」と言われたから行ったのです。そしてそこで、キリストの権威を代行することが出来ました。
私たちもまた、伝道する時には、先ず、主の御言葉を聴くことから始めなければなりません。「私に何が出来るのか」ということではなく、「自分の思いを虚しくして主の御言葉を聴いているか」ということが必要なのです。
そして今、「主よ、語りたまえ。しもべは聞いております」と祈ったサムエルと同じように御前にひれ伏すならば、その時、私たちを召し、「お前を遣わそう」という御言葉を聞くことが出来るのです。
主イエス・キリストが復活されて、今も生きてここにおられるからこそ、私たちは、主イエスの成し遂げられた救いを信じることができます。私たちが生きているこの世の現実には、苦しみや悲しみが満ちています。また肉体をもってこの世を生きる私たちの歩みは、病や老い、そして最終的には死の力によって常に脅かされています。それらのことによって苦しみ、悲しみ、恐れを覚えずにいられないのが私たちの現実なのです。その私たちの救いのために、神様の独り子である主イエス・キリストがこの世に来て下さいました。主イエスは私たちの全ての罪と、苦しみ悲しみの全てを背負って十字架にかかって死んで下さいました。そして、父なる神様は主イエスを復活させて下さったのです。主イエスをも捉えた死の力を打ち破り、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さったことで、私たちにも、同じ復活と永遠の命を与えることを約束して下さったのです。主イエスの復活によってこそこれらの救いが与えられています。しかしこれらのことにも増して大事なのは、復活なさった主イエスが今も生きておられる方として私たちと出会って下さり、語りかけて下さり、そして私たちを召して、伝道へと派遣して下さるということです。
私たちは伝道に派遣されるのです。この礼拝の最後でも、その伝道への派遣を祈る祝祷がなされます。私たちにとって、その伝道への派遣とは、どういうことでしょうか。
それは、聖書を開いてキリスト教を人に伝えることでも、世の為、人の為に一生懸命社会奉仕することでもありません。勿論奉仕も大切ですが、それは結果としてなされるものです。
伝道の第一歩はマルタとマリアで例えられたマリアになることから始まるのです。主イエスのみ言葉を足もとで聞き、それに聞き従うのです。そして、その結果主イエス・キリストの十字架の救いの御業を頂き、自分自身が悔改めて変えられていくのです。
その救いによって変えられた結果は私たちの生活から直ぐに人の目に見えるように出て来ないかもしれませんが、確実に私たちの生き方を変えて行くでしょう。それは、救いの喜びに満たされ、救いの喜びの溢れ出す生き方です。
そして周りの誰もが、そんなあなたを見て、その喜びを少しでも自分に欲しいと思うんではないでしょうか。それが私たちの伝道です。
お祈りを致しましょう。

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聖霊が降る

ペンテコステ礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌181番
讃美歌183番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨエル書 3章1-5節 (旧約聖書1,425ページ)

◆神の霊の降臨
3:1 その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。
3:2 その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
3:3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。
3:4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。
3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

新約聖書:使徒言行録 2章1~13節 (新約聖書214ページ)

◆聖霊が降る
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

《説教》『聖霊が降る』

「五旬祭の日が来た」と本日の物語は始まっています。この祭りは、旧約時代に守られていた「七週の祭」に由来するもので、元来、小麦の収穫を祝う日でした。申命記やレビ記の定めによれば、過越祭の安息日が終わり大麦に鎌を入れ収穫し始めました。過越しの日から七週後、即ち、五十日目に小麦の収穫が始まり初物を神に献げる「七週」「50日」後に当たります。更にこの日は、「過越の閉じる日」とも呼ばれ、過越祭に始まる一連の春の行事の終わりの日とされ、すべての仕事を休み神殿に集まる大切な日でありました。この祭が、過越から数えて五十日目にあたることから、「五旬節」とも呼ばれ、そのギリシア語がペンテコーストス「50番目の日」なのです。ですから、ペンテコステは、穀物の収穫を祝う日であり、本来、それ以上の何ものでもありませんでした。
「五旬祭の日が来た」。私たちが、先ず注目するのは、この「来た」と訳されている言葉であります。この言葉は「満たす」という意味の言葉を強めたものであり、「時が満ちた」「いよいよその時が来た」という内容を持っています。
「時が満ちる」とは、重要な出来事、予告されていた事柄の実現の近いことを意味します。ですから、ただ「過越祭から五十日が経過した」ということではなく、「ペンテコステの日に満ちる時」とは何か、「満ちる時そのもの」に眼を向けなければなりません。そして、「満ちる時」を理解するためには、当然、それに先立つ「約束」を思い返さなければなりません。
主イエスが十字架に向かわれる前に弟子たちに約束していたことを思い出してください。新約聖書200ページ、ヨハネによる福音書16章12節から14節に「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」とあります。主イエスはご自身がこの世から去られた後に、聖霊を送られることを繰り返してお約束になったとヨハネ福音書は記しています。残された弟子たちの苦難を予告されると共に、その苦しみが喜びに変わる日のことを、はっきりと告げられました。「真理の霊」をこの世に送り、その聖霊なる神こそ、私たちの「助け主」であり、「すべてを父なる神の御計画に従って整える」ということを、主イエスは約束されました。
もちろん、十字架前夜の弟子たちには、その御言葉の意味が分からなかったでしょう。しかしながら、主の御言葉が謎に満ちていたにせよ、「来るべき日には、何かが起こる」ということは、弟子たちも感じ取っていたのです。
そのあとに続いた十字架と復活を巡って、明らかとなった弟子たちの惨めな姿、裏切りと挫折、混乱と絶望。それらを通して、主イエスは、新しい御業へと弟子たちの眼を向けさせて、「来るべきその日」に対する信仰の姿勢を整えさせたのです。
本日の使徒言行録2章1節から3節に、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。
これが、この世に教会が初めて誕生した時でした。いったい、何が起こったのでしょうか。
1章12節以下によれば、すでに使徒と呼ばれた弟子たちや主イエスの家族を含めた主イエスに従って来た人々120人程が皆、「心を合わせて熱心に祈っていた」のです。彼らには祈ることしかありませんでした。祈る以外、なすべきことがなかったと言ってもよいでしょう。父なる神の御許に帰って行かれた主イエスの御言葉に彼らはすべてを委ねるようになっていたからです。彼らは、「この時」を待っていたのです。神の力が与えられ、為すべきことが教えられる「時」を、ひたすらに待っていました。それ故に、この2節の「突然」という言葉が、言いようもない「喜びへの招き」として響いて来るのです。
私たちは、聖書の御言葉を読むとき、ときとして、理解できない出来事にぶつかります。神の御心は、「理解できないことがあまりにも多すぎる」ということは事実です。それは、神の知恵によるものであり、私たちとは比べものにならない深い御心から出ているからです。それ故に、理解できない、不合理であると言って御言葉を退けるならば、一番大切なものを失ってしまうことにもなります。「不合理なるが故に信ず」という古典的な告白は、キリスト者すべてに共通なものと言えるでしょう。信仰とは、理解できないことを信頼することなのです。主イエス・キリストが父なる神の御心を受けてすべてを良いようにしてくださる。私たちは、その時を待つことに最大の努力をすべきです。
「激しい風が吹いて来るような音」。「炎のような舌」。すべては「~のような」という表現であり、その時の光景を、直接的・具体的に語ってはいないことに注目すべきです。それは、「風」ではなく「炎」でもなく、「舌」でもありません。何ひとつはっきりと示されてはいないのです。
「天から聞こえた音」とは、「風の激しさ」を表現するものです。眼に見えぬ「風の激しさ」は、「音の大きさ」でしか表現することはできません。それでは、これほどの激しさで迫って来る「風」とは何であったでしょうか。「風:プノエー」とは、「息」という意味です。ここで語られている「風」とは、自然現象である「空気の流れ」ではなく、「神の息」のことなのです。
神の驚くべき力を秘めた聖霊に、突然満たされた人間の驚き、それは、あたかも全世界に響き渡るような強烈な体験でした。彼らは、頭の中で「聖霊に満たされた」と考えたのではありません。そう「思い込んだ」のでもありません。人間の思いのすべてを遥かに超える「神の力」に包み込まれてしまったのです。
それ故に、生命と力とに満ちた聖霊なる神を、「風と炎のような舌」という想像を絶するような表現で語る以外に方法を知らなかったと言うべきでしょう。
4節には、「すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」とあります。
これこそが聖霊なる神が降られた目的であり、新しく造られた教会の姿です。彼らは語り始めたのです。どこの国の言葉で語ったのか、何ヶ国語であったのかを考えることは意味のないことです。ペンテコステの日に起こったことは、語学の天才の誕生ではなく、「教会の誕生」です。それ故に、教会とはどのようなものであるかを考えることが何よりも大切なのです。
私たちの教会は、「すべての人間を救う」という神の永遠の御計画の中で、欠くことの出来ないものとして新しく造られ、今、このように存在しています。教会は、復活のキリストが、御自身世にとどまって親しく導かれること以上の大きな働きをするためのものとして、特別に与えられたものなのです。
「神の時」が新しく教会を生まれさせ、罪の中に生きて来た誰もが予想すら出来なかったにもかかわらず、恩寵の賜物として新しく建てられたのが「聖霊の宮なる教会」なのです。聖霊の宮である「教会」に生きる喜びに満たされること、それこそが、主が約束して下さった「来るべきその日」のキリスト者の姿なのです。
先ず、ここで注意しなければならないことは、ここに集まっている人々は、「すべてユダヤ人である」ということです。それが5節の指摘することでした。また、9節以下の一覧表は、「各国の人々」という意味ではなく、「それぞれの地方から帰って来た人々」ということであり、これも「ペンテコステのために海外から帰って来たユダヤ人」と理解すれば十分でしょう。この帰って来たユダヤ人とは、紀元前597年のバビロン捕囚に始まったユダヤの地から離れていったユダヤ人で、エジプト、小アジヤ、ローマ等に広く離散して、新約時代のアレキサンドリアには100万人以上も居ました。これをディアスポラ「離散」のユダヤ人と言います。現代的に言えば、それらの人々が祭りのために故郷に帰省したということです。
4節の「ほかの国々の言葉」という表現は、何を表しているのでしょうか。ある人々は「離散したユダヤ人の各国の言語による証しだ」と説明しています。それにしては、人々が7節にあるように「驚き怪しんだ」り、13節の「驚き、とまどった」のは何故でしょうか。11節の「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞いた」という驚きと、13節の「新しいぶどう酒に酔っているのだ」という嘲りは、同時には理解できません。加えて、この場にいた多くの人々の悔い改めは、14節から始まるペトロの説教を聴いた後に初めて起こって来たのです。人々の悔い改めは37節の「わたしたちはどうしたらよいのですか」という正しい反応へ導いたのはペトロの説教でした。ここでの、「とまどいと嘲り」しか引き起こさなかった「証し」とは、いったい何であったのでしょう。
これも2節以下と同じく、聖霊の御業を語る「信仰的表現」と考えることができます。即ち、5節以下は、4節の表現方法なのです。聖霊降臨を語る聖書は、その実態を明らかに語る表現方法を持ちませんでした。それと同じく、そこで始まった聖霊の御業も、このように表現するしかなかったのです。
4節の「ほかの国々の言葉」と訳されている「言葉」には、「恍惚状態」という意味もあるので、正しくは、「異なる言語」ではなく「異なる言(ことば)」、あの「言(げん)」と一字で書いて「言:ことば」と訳すべきだとも言われています(岩波訳、岩隈訳、永井訳)。神の霊によって導かれる者は、自分の知恵・自分の思いではなく、神の知恵によって語り、「自分の想いを遥かに超える事柄を語る」ということです。そもそも福音とは、そういう要素を持つものなのです。
「このとき語られたのは何ヶ国語か」ということではなく、聖霊なる神によって、「教会は、今や、全く新しいことを始めたのだ」ということを告げているのです。告げられたれた内容が大切なのです。まさに、ヨハネ福音書1章1節で語られているように、「言(げん)」一字で「ことば」と呼ばせた「ロゴス」が示されたのです。
ヨハネ福音書14章27節で主イエスは、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教える」と言われ、また今日の聖書箇所使徒言行録1章8節では、「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」とも言われました。その約束された「力」こそ「言」と漢字一字で書いた「ことば・ロゴス」なのです。神の力は、「ことば・ロゴス」となって人々の心の中に深く送り込まれるのです。それは、人間の業ではなく、人間の才能によるものでもありません。それは、神の業であり、神の力なのです。
9節から11節に記されている地名の一覧表も、単純に、表面的に見るのではなく、信仰の知恵によって、まったく別な意味で理解することが出来るでしょう。この地名は、厳密に語られているのではなく、言わば、代表として挙げられているのです。ユダヤを中心としてみると東方の4地域、北方の5地域、それに南方の2地域の11の地域であり、これにローマを加えれば十二です。十二は、民族を表す完全数であり、「全世界を表す」と考えられます。「西」がないと言われるかもしれませんが、ユダヤの西は地中海です。そこで、「この地名表をもって全世界を表す」という解釈が生じて来るのです。さらに、海の民の代表としてのクレタ、砂漠の民の代表としてアラビアを加えて完全さに念を入れたと考えられます。
「ユダヤが出発地であり、ローマが目的地である全世界を表す」と解釈することが出来ます。そのすべての人々が「今や福音を聞く時が来た」という宣言です。
13節の「新しいぶどう酒に酔っている」は、「安物の酒で悪酔いしているような、わけのわからない妄言」「理解できないことば」としか、この世の人々には受け止められなかったことが示されています。それだけに、聖霊の導きのもとに行われた教会の出発は、「全く新しいことであった」と言われるのです。
神の御業の先頭を走るべく建てられた教会が、世の人々から受ける反応も、このときの人々の反応と似ていると言えます。「福音をすべての人々へ」。「すべての人々に対する神の国への招き」。どこの国ではなく、どこの地域でもなく、すべての人々への招きを教会は語り始めました。
教会は、神の御心を実現するために誕生し、教会に集まる人は、神の御心に仕えるのです。
周囲の人々からのいかなる嘲りや無視、妨害さえも、世界は神の御心の下にあって、神の御業の働く場であり、御心は、「この世界に生きるすべての人間の救いである」という福音を、教会は語り続けるのです。
4節によれば、語り出したのは「聖霊に満たされた全員」でありました。「誰が」というのではなく、「一同」が「一斉に」語り出したのです。それが聖霊の御業です。聖霊に満たされた者は、語らずにはいられないのです。
これこそが、私たちのこの教会に与えられた聖霊の働きなのです。
お祈りを致しましょう。

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つまずき

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌122番
讃美歌448番
讃美歌502番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 18章15節 (旧約聖書309ページ)

18:15 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。

新約聖書:マルコによる福音書 6章1-6節a (新約聖書71ページ)

6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。

《説教》『つまずき』

先週のマルコによる福音書5章36節で、主イエスは「恐れることはない、ただ信じなさい」とおっしゃいました。会堂長ヤイロはそのみ言葉を聞いて、主イエスと共に歩き続けたのです。いやむしろ、主イエスが歩き続けるので、よろめきながらその後について行ったというべきでしょう。主イエスの後について行くことは信仰を持って生きることを象徴しています。信仰に生きるとは、確信を持って堂々と力強く生きるということばかりではないのです。恐れを抱きつつ、絶望をかかえつつ、しかし主イエスが「恐れることはない、ただ信じなさい」と言って先頭に立って歩いていかれる、その主イエスに引きずられるようによたよたとついていく、信仰を持って生きるとはそういうことでもあるのです。むしろ私たちにおいてはそういうことの方が多いのではないでしょうか。

本日からの6章には、主イエスがご自分の故郷にお帰りになり、安息日に会堂で教え始められたこと、しかし故郷の人々は主イエスの教えを受け入れず、つまずいたことが語られています。最後のところに「人々の不信仰に驚かれた」とあります。主イエスの故郷の人々は、主イエスが驚くほどの不信仰に陥ったのです。

主イエスが公生涯に入られるまでナザレで暮らしておられたことはよく知られていますが、そこでの生活については聖書には殆ど記されていません。ナザレでの主イエスの姿を記すのは、マルコ福音書ではここだけですが、弟子たちもいない伝道の最初の時期、ルカ福音書によれば、初めてナザレで説教した時、町の人々は憤慨し「イエスを崖から突き落とそうとした」(ルカ4:28-29)とさえ記されています。ナザレは主イエスにとって、決して「心温まる故郷」ではありませんでした。

今日はそのナザレに、ペトロたちを連れて帰って来た話です。自分を崖から突き落とそうとした人々、気狂い扱いにした人々、自分を追い出した人々、その人々に神の御言葉を語るために、主イエスは故郷のナザレに再び来られたのです。

ナザレの人々はどうであったでしょうか。主イエスをお迎えするために用意して待っている町ではありませんでしたし、会堂に集まった人々も、主イエスの説教を聞きたくて来たわけでもありませんでした。

律法に忠実なユダヤ人は、安息日に会堂以外の場所へ行くのを禁じられており、必ず、全員集まるのが原則でした。また、会堂の集会は、説教者が決まっているわけではなく、管理者である会堂長、先週登場したヤイロも会堂長でしたが、会堂長がその都度申し出た人を説教者として奉仕することを許可していました。そのため、誰が説教者であるかは、集会が始まるまで分からないこともあったと言われています。

ですから、この日、町の人々は、「思いもかけない場所でイエスの説教を聞くことになった」のです。

2節から3節に、「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。」とあります。

これが主イエスの御言葉に接したナザレの人々の反応でした。町の人々は「驚いた」と記されています。何に驚いたのでしょうか。あまりにも素晴しい説教に驚いたのでしょうか。それとも、自分たちに対して示された神の恵みの大きさに驚いたのでしょうか。

「驚いた」と訳されている言葉は、普通に用いられる「驚く」「びっくりする」という程度の言葉ではなく、「雷に打たれたような驚き」に用いられるものであり、大変な驚きを意味します。ここを岩波訳聖書では、「仰天した」と訳しています。彼らは何を感じたのでしょうか。

また、2節から3節にかけて三回も用いられている「この人」という言葉は、多少、軽蔑の響きのある言葉です。岩波訳聖書では「こいつ」と訳しています。下品な訳かもしれませんが、こちらの方が正確と思われます。

さらに、「どこから得たのだろう」とあるのは、意味から言えば、「どこから仕入れて来たのか」ということであり、決して、「何時の間にこんなに勉強したのか」というような「褒め言葉」ではありません。はっきり言えば、「こいつは、何処からこんな知恵を仕入れて来たのかと言って驚いた」ということであり、感心したのではなく、それどころか、「とんでもないことだ」という非難を込めた驚きでした。

ここで、主イエスが何を語られたのかは、記されていませんが、容易に想像することが出来ます。旧約聖書以来の預言の成就を語り、「神が定められた『時』、『救いの時』がやって来た」ということを告げたのです。

その福音の御言葉を聴きながら、人々は何故このような反応を示したのでしょうか。

「この人は大工ではないか」。これが彼らの呟きでした。ナザレの家はみな土や石で造られており、日本のように木材の豊富な土地ではありませんので、家を作る大工という職業はなく、家具や道具を作る職人であったと考えられます。しかしながら、間違っていけないのは、「職人であった」ということがこの時の人々の軽蔑の原因ではないということです。律法は全ての人に手に職を持って働くことを勧めています。ですから、当時の律法学者の多くは職業を持ち、働いていました。これは天幕造りという職を持っていたパウロの例からも明らかでしょう。主イエスの大工という仕事も認められることはあっても軽蔑される仕事ではありません。ここでは、職業云々ではなく、家族の名前が挙げられていることから、「それほどよく知っていた」ということであり、ナザレの人々は、主イエスのことも家族のこともよく知っていました。「私たちはみな、同じ仲間ではないか」と言っているのです。

私たちは、ここを読み、「身近な人は小さな欠点まで知っているので、まともに話を聞こうとしなかった」と理解しようとするでしょうが、それは完全な思い違いです。確かに、私たちにもそのような経験があります。

たとえば、私たちにとって、一番難しいのは家庭伝道ではないでしょうか。家族には日常生活の全てが知られています。朝寝坊はする、忘れ物は多く、そそっかしくて失敗ばかりし、ちょいちょい喧嘩もして破れ多い姿をさらしています。何を言っても、「偉そうなことを言う前に、生活態度を変えて欲しい」と言われ、そこで悔し紛れに、「預言者、故郷に容れられず」などと、いい加減なことを言うのがオチです。

私たちは、このような失敗を何度も繰り返していますが、それを主イエスに当てはめられるのでしょうか。

神の御子は、たとえ人となられても、私たちと同じ「人間としての弱さをさらけ出して生きた」と考えるのは大間違いです。視点を完全に変えなければなりません。むしろ、ナザレの人々に主イエスの生活態度を積極的に批判し得る者は「一人もいなかった」と考えるべきです。

彼らの驚きの理由はただひとつ、3節に記されているように、「我々と一緒に住んでいるではないか」ということ、即ち、「私たちと同じ町の人間ではないか」ということであり、「よく知っている仲間だ」ということです。そして問題は、まさにここにあるのです。

「同じ仲間」なら、何故いけないのでしょう。「同じ町の者」ということが、何故彼らにとって躓きになったのでしょうか。「躓いた」とは、動物が罠にかかるという意味の言葉に基づくものであり、この場合、人を神から遠ざける「障害物になった」という意味です。「何が」人を神から遠ざける障害になったのでしょうか。

彼らは、決してまともに聞かなかったり、初めから馬鹿にしていたのではありません。町の人々は、主イエスの説教から、明らかに自分たちとは違うもの、異質なものを感じ取っていたに違いありません。ですから、「授かった知恵」とか「奇跡」ということがここに語られているのです。今、彼らは「知恵」とか「奇跡」と表現できる「何か」に出会っているのです。人間の知恵、人間の力、社会での常識、それらを超える「何か」を感じたことは確かであり、これはまさに、衝撃的瞬間であった筈です。

かつて、ガリラヤ湖のほとりで漁師をしていたペトロは、一晩中漁をしても魚が獲れずがっかりしていた時に、主イエスの指示に従って網を入れたところ、舟が沈みそうになるほど沢山の魚が獲れ、御前にひれ伏しました。その時のペトロの言葉は「私は罪深い者です」という告白でした。これは、自分を遥かに超える方と出会ったとの自覚でした。「私は何と小さな者か」「私は何と愚かな者か」という自己認識は、常に、自分を超える方との出会いにおいて起こるのです。ガリラヤ湖で起こったことも、ナザレの会堂で起こったことも、同じものであった筈です。

しかしナザレの会堂では、その驚きが逆の方向に進んでしまいました。確かに、主イエスの説教は神の御心を説き明かす福音の宣言でした。人々のこれまでの生き方に対して、全く異質なことが語られていました。彼らはそれをはっきりと聴き取ったのです。ですから、表面的な知恵や、単純な奇跡そのものを問題にしているのではありません。

彼らは、主イエスと出会い、あのペトロが仰ぎ見た主イエスを、「不快に感じた」のです。ここが最大の問題点です。主イエスが語られた福音を、自分たちが仰ぎ見て、そこへ向う「高み」として受け止めたのではありませんでした。あまりにも異質なものに対する憤りであったとさえ言うことが出来るでしょう。

誰もが進歩を求め向上することを願います。より良いものへと変わって行くことを願います。しかしながら、その向上心は共通であっても、進歩に遅れてしまった者は、「自分も共にそこへ行こう」と考えるより、自分より進んでいる者を引き降ろすことに熱心になるのです。

私たちの心の中には、自分を超える者への恐れと不安が何時もあるのです。そしてその不安が、自分の現在の立場を守るために「新しいものへ進む」ことを拒むのです。ある人はそれを弱者の防禦本能と呼び、ある人はそれを「罪がもたらす人間の惨めさそのもの」と言っています。

主イエスの御言葉を聞いたナザレの人々が、他の町の人々と比べて特別に信仰が弱かったということではありません。むしろ、同じ時代の全ての人々のように、救いの実現を望んでいたことでしょう。ただその宣言が、自分たちと「同じ仲間」によってもたらされたことに我慢できなかったのです。

主イエスを「自分たちと同じ仲間」として見た時に働く、「自分たちと同じ立場に留まらせよう」とする意識が、そこにあるのです。主イエスが、御自分を「神の子キリスト」とお示しになった時、人々は、主イエスに「ナザレの大工」として留まることを要求しているのです。

もちろん、主イエスも、ナザレの人々を「御自分と同じ仲間」として見ていました。ただその見方がまったく違いました。

主イエスは、「みんな同じ仲間だから、父なる神のところに一緒に行こう」と語っておられるのに、ナザレの人々は、「お前は私たちの仲間だから、私たちのところに留まっていればよい。そんな偉そうなことを言うな」と嘲笑ったのです。

6節で主イエスは「人々の不信仰に驚かれた。」とあります。

不信仰とは、神の御言葉を自分の世界、自分のレベルへ引き下げてしまうことです。自分が御言葉によって変わるのではなく、御言葉を自分たちと同じレベルに引き下げ、自分たちの生活に合わせて「変えてしまおうとすること」、それが不信仰というものの本質です。

5節にある主イエスの「何も奇跡を行うことが出来なかった」とは、力を発揮出来なかったというのではなく、信仰なき者に対する主イエスの拒否です。自分から恩寵に心を開こうとしない者に対する裁きです。

キリストが私たちにかけてくださる「あなたがたは私の家族なのだ」と言う御言葉こそ、私たちが聞く新しい希望です。「私と同じだ」というのは、主イエス御自身が十字架の苦しみと復活を通して、初めて私たちに与えられた信仰の恵みです。私たちが気付かぬ間に、罪に支配されてしまうこの世界を、神の家に変え、「神の家族」を取り戻そうとする主イエス・キリストの御心を想わなければなりません。

「あなたがたは私の家族なのだ」。背を向ける人々にさえ、このように語り続けられる主イエスの御心を感謝して受け止める時、私たちは自分一人の思いから抜け出して、自分の大切に思う人、愛する人を主イエスと共に歩む「神の国」への道、「救い」へと誘えるのです。

お祈りを致しましょう。

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恐れるな、ただ信ぜよ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌12番
讃美歌257番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:列王記 上 17章21-22節 (旧約聖書562ページ)

17:21 彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」
17:22 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。

新約聖書:マルコによる福音書 5章35-43節 (新約聖書70ページ)

5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
5:43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

《説教》『恐れるな、ただ信ぜよ』

主イエス・キリストの御前には、さまざまな人々が集まって来ます。真剣に御言葉を求めている人もいれば、単なる野次馬に過ぎない人もいました。ある者は喜んで御言葉に耳を傾け、ある者は御言葉を共に聞きながら、何もなかったかのように立ち去って行きました。福音書の時代から現代の教会に至るまで、どれ程多くの人々が集まり、また去って行ったことでしょう。数々の期待と失望が主イエスの前に立つ人間の心の中に生まれ、今の私たちに至るまでそれが続いています。本日の物語も、そのように期待と失望という対照的な人々の姿を語っています。

35節に、「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』」とあります。

この「まだ話しておられるときに」とは、先週お話しした十二年間の長きに亘る出血の病を癒された女性が「まだそこにいた」ということです。

彼女には救われた喜びが溢れていました。キリストに見詰められて、キリストの眼差しを全身で受け止めて応えた喜びがありました。「病気が治った」ということだけではなく、主イエス・キリストとの交わりを確認し、「私は見放されてはいなかった」「主は私を御存知であった」ということを教えられて生きる喜びが、この女性の心を満たしていたことでしょう。しかしながら、この女性が感謝の眼差しで主イエスを仰いでいるまさにその時、彼女とは正反対に、絶望的な知らせを受け取った人物もいたのです。主イエスと共にここまでやって来たカファルナウムの会堂長ヤイロでした。

彼は自分の娘を救いたい一心で主イエスのもとに来ました。そのために、自分の誇りも、世間体も、これからの生活も、一切を投げ捨て、主イエスの御前にひれ伏しました。もはやナザレのイエス以外に望みはないと思ったからです。

そこまで追い込まれて来た会堂長ヤイロは、今まさに、救われた喜びに満たされている女性の前で、愛する娘の死を知らされました。

これまでの長い生涯の中で築き上げて来た社会的地位を全て投げ捨てても助けたかった大切な愛する娘を、失ってしまったのです。ヤイロは、「長血を患っていた女性」よりも更に熱心に主イエスを求めながら、ただ「悲しみしか与えられなかった」と思ったことでしょう。

35節の「お嬢さんは亡くなりました」という知らせは、ヤイロにとって決定的と思えるものでした。「先生を煩わすには及ばないでしょう」。主イエスをもってしても「何の役にも立たない」ということです。

私たちも、苦しみの中で幾度この声を聞いたことでしょう。「イエス様に祈ってもどうにもならないのではないのか」「キリストに祈って、いったい何が変わるのだろうか」「所詮、自分ひとりで苦しみに耐えなければならないのだ」。

「絶望は罪である」と言った人がいます。「絶望」とは「望みを絶つこと」であり、希望の源である救い主キリストを、自分の心から追い出してしまうことになるからです。「キリストなしで生きて行こう」という決意こそ、サタンが最も喜ぶことなのです。ですから、娘の死を伝え、「主イエスは無用になった」という報告を主イエスが「そばで聞いていた」と記されていますが、これはむしろ「聞き流す」というくらいの意味で理解すべきです。「先生を煩わすには及ばないでしょう」という人々の声を、主イエスはあえて「無視した」ということです。主イエスの御業は、「キリストなしで生きていこう」というサタンのささやきを覆すものであることを、改めてここに示しているのです。

主イエスは36節で「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。私たちは、常にふたつの言葉を聞いています。現実のさまざまな惑いの中で、「もうキリストに祈っても無駄だ」という声と、「恐れることはない。ただ信じなさい」というふたつの声です。そのどちらかに従うかで、私たちの運命が決まってしまうのです。

しかしながら、私たちに最も重要なことは何でしょうか。私たちが見極めなければならない現実とは何でしょうか。

確かに、私たちの前には苦難や悲しみがあります。それを無視することは出来ません。しかしそれと共に、その試練に直面している私たちの傍らに、主イエス・キリストが居られるということも、また確かなのです。

私たちは、「キリストが共に、その試練に出会っていて下さっているのだ」ということを忘れてはなりません。私たちがキリストを忘れるところにサタンのつけ入る隙があると言わなければならないのです。

「恐れることはない」という御言葉は、単なる言葉の上での慰めではなく、神の御子が、悲しむヤイロの傍らにおられることを、御自身が明らかにしておられるのです。

「私はここにいるのだ。しっかりしなさい」。主イエスは、今もこのように私たちに呼びかけておられるのです。

38節から40節に、「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。『なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。』人々はイエスをあざ笑った。」とあります。これが人間の悲しい姿です。「キリストは必要ない」と言った人々の姿がここにあります。

「人々は大声で泣きわめいて騒いでいた」。これは何の涙であったのでしょう。女の子の死を悲しんでいたのでしょうか。当然、そうであったでしょう。愛する者の死に出会って泣かない者はいません。しかし、そこにある悲しみは何を表しているのでしょうか。死は別離です。しかし、もしそれが「愛する者との別れの悲しみ」であるならば、その涙の中には「再会の希望」が込められている筈です。

遠くへ旅立つ人を見送る時、「いつかまた会えるであろう」という微かな期待が別れの寂しさを和らげてくれます。

ですから、死者との別れの悲しみが大きければ大きいほど、「再会の願いも大きい筈だ」と言えます。ヤイロの家に集まっていた人々の心に、どれ程、この祈りが込められていたでしょう。

それにも拘らず、「子供は死んだのではない」とイエスが言われた時、人々は「あざ笑った」のです。「馬鹿なことを言う」と否定しました。

私たちは、愛する者を失った時、その死を、簡単には受け入れられないものです。「もう駄目だ」と言われても、最後の最後まで、「もしかすると」という期待を捨てきれないものです。「なんとか甦って欲しい」と願います。

まして、ヤイロの娘は、今、息を引き取ったばかりです。「まだ大丈夫」という主イエスの言葉を聞いた時、喜ぶのが当然ではないでしょうか。「出来るなら、早速甦らせていただきたい」とお願いするのが普通でしょう。

しかし、彼らは「あざ笑った」のです。主イエスを拒否する人間は、僅かな希望すら見失っているということが、ここにも見られます。神に祈り求めることを知らない人間の悲しみは、もはや決して「喜びに変わることのない悲しみ」なのです。

主イエス・キリストは、悲しみを悲しみで終わらせず、喜びに変えて下さるのです。それが「キリストと共に生きる人間の現実」なのです。

41節から42節には、「子供の手を取って、『タリタ・クム』と言われた。これは『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。少女はすぐに起き上がって歩き出した。」とあります。

主イエスの言葉が悲しみを打ち破りました。「タリタ・クム」。これは主イエスが日常話していたアラム語です。特別な呪文ではなく、普段の調子で「静かに話しかけた」ことを示しています。「娘よ起きなさい」。それだけで十分だったのです。ヤイロがどれ程の喜びを驚きと共に味わったかは言うまでもないでしょう。

ヤイロの娘は確かに甦りました。それは確かです。しかしそれと共に、「再び死ぬ運命にある」ということを忘れてはなりません。如何にこれから健康に恵まれたとしても、やがて父と母を見送り、自分もまた必ず世を去るのです。別離を悲しむ叫びが再びそこで繰り返されるでしょう。この世の時を生きる限り、それは変わることのない事実です。

ですから、ヤイロの娘の甦りの奇跡は、ひとつの悲しみを解消することは出来ても、全ての人間が出会う死の悲しみの本質的解決ではありません。私たちの信仰の眼は、ヤイロの娘の甦りの中に「一人の少女の奇跡的生き返り」を見るだけではなく、今ここに、「現実に死者を甦らせる力を持つ方が居られる」ということへ注がれなければなりません。死に打ち勝ち、死の力を滅ぼす方が居られることをここに見るのです

大事なことは、主イエス・キリストによって「新しい命」が、一人の少女に、そしてその家族に与えられ、家族が新しく生き始めることができた、という恵みの出来事として捉えることです。マルコはそういう出来事としてこれを描いているのです。

そしてこの少女の甦りと織り合わされて、もう一人の女性の癒しがここには語られていました。十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた女性の癒しです。彼女も、主イエス・キリストの恵みによって病を癒され、新しく生き始めることができたのです。

ここで、この「ヤイロの娘」と「長血の女」の二つの物語が、どこで織合わさっているかが見えて来たのではないでしょうか。「長血の女の喜び」と対照的であった「ヤイロの悲しみ」は、この喜びに連なっていたのです。私たちは、ここでも「主イエスは求める者を決して悲しみのままで去らせることはない」という聖書のメッセージに出会うのです。

先々週以来申しましたように、この二つの物語は密接に結びついており、両方合わせて一つのことを語っているのです。その一つのこととは、主イエス・キリストによって新しく生かされる恵みであり、喜びなのです。

私たちにも、主イエス・キリストの復活の命が与えられ、新しく生き始めました。これが洗礼です。主イエス・キリストによって新しく生かされている恵みです。主イエス・キリストの新しい命に生かされる喜びの日々を覚えつつ、感謝の祈りを捧げ、新しい日々をしっかりと歩みましょう。

お祈りを致します。

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復活節第6主日礼拝 (2021年5月9日午前10時30分 № 3752)

司会:齋藤 正
奏楽:ヒムプレーヤ
前奏 新型コロナウィルス感染症流行拡大防止のためにYoutubeライブ配信です
招詞
讃美 12番
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 第132編8-9節(交読詩編p.150) [赤司会・黒一同]
祈祷
讃美 257番
聖書 列王記上 17章21-22節 (旧約 p.562)
マルコによる福音書 5章35-43節 (新約 p.70)
説教
恐れるな、ただ信ぜよ
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 512番
献金 547 齋藤千鶴子
頌栄 543番
祝祷
後奏
受付:齋藤千鶴子

6月は23日ペンテコステ(聖霊降臨日)が聖餐式です。