つまずき

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌122番
讃美歌448番
讃美歌502番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 18章15節 (旧約聖書309ページ)

18:15 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。

新約聖書:マルコによる福音書 6章1-6節a (新約聖書71ページ)

6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。

《説教》『つまずき』

先週のマルコによる福音書5章36節で、主イエスは「恐れることはない、ただ信じなさい」とおっしゃいました。会堂長ヤイロはそのみ言葉を聞いて、主イエスと共に歩き続けたのです。いやむしろ、主イエスが歩き続けるので、よろめきながらその後について行ったというべきでしょう。主イエスの後について行くことは信仰を持って生きることを象徴しています。信仰に生きるとは、確信を持って堂々と力強く生きるということばかりではないのです。恐れを抱きつつ、絶望をかかえつつ、しかし主イエスが「恐れることはない、ただ信じなさい」と言って先頭に立って歩いていかれる、その主イエスに引きずられるようによたよたとついていく、信仰を持って生きるとはそういうことでもあるのです。むしろ私たちにおいてはそういうことの方が多いのではないでしょうか。

本日からの6章には、主イエスがご自分の故郷にお帰りになり、安息日に会堂で教え始められたこと、しかし故郷の人々は主イエスの教えを受け入れず、つまずいたことが語られています。最後のところに「人々の不信仰に驚かれた」とあります。主イエスの故郷の人々は、主イエスが驚くほどの不信仰に陥ったのです。

主イエスが公生涯に入られるまでナザレで暮らしておられたことはよく知られていますが、そこでの生活については聖書には殆ど記されていません。ナザレでの主イエスの姿を記すのは、マルコ福音書ではここだけですが、弟子たちもいない伝道の最初の時期、ルカ福音書によれば、初めてナザレで説教した時、町の人々は憤慨し「イエスを崖から突き落とそうとした」(ルカ4:28-29)とさえ記されています。ナザレは主イエスにとって、決して「心温まる故郷」ではありませんでした。

今日はそのナザレに、ペトロたちを連れて帰って来た話です。自分を崖から突き落とそうとした人々、気狂い扱いにした人々、自分を追い出した人々、その人々に神の御言葉を語るために、主イエスは故郷のナザレに再び来られたのです。

ナザレの人々はどうであったでしょうか。主イエスをお迎えするために用意して待っている町ではありませんでしたし、会堂に集まった人々も、主イエスの説教を聞きたくて来たわけでもありませんでした。

律法に忠実なユダヤ人は、安息日に会堂以外の場所へ行くのを禁じられており、必ず、全員集まるのが原則でした。また、会堂の集会は、説教者が決まっているわけではなく、管理者である会堂長、先週登場したヤイロも会堂長でしたが、会堂長がその都度申し出た人を説教者として奉仕することを許可していました。そのため、誰が説教者であるかは、集会が始まるまで分からないこともあったと言われています。

ですから、この日、町の人々は、「思いもかけない場所でイエスの説教を聞くことになった」のです。

2節から3節に、「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。」とあります。

これが主イエスの御言葉に接したナザレの人々の反応でした。町の人々は「驚いた」と記されています。何に驚いたのでしょうか。あまりにも素晴しい説教に驚いたのでしょうか。それとも、自分たちに対して示された神の恵みの大きさに驚いたのでしょうか。

「驚いた」と訳されている言葉は、普通に用いられる「驚く」「びっくりする」という程度の言葉ではなく、「雷に打たれたような驚き」に用いられるものであり、大変な驚きを意味します。ここを岩波訳聖書では、「仰天した」と訳しています。彼らは何を感じたのでしょうか。

また、2節から3節にかけて三回も用いられている「この人」という言葉は、多少、軽蔑の響きのある言葉です。岩波訳聖書では「こいつ」と訳しています。下品な訳かもしれませんが、こちらの方が正確と思われます。

さらに、「どこから得たのだろう」とあるのは、意味から言えば、「どこから仕入れて来たのか」ということであり、決して、「何時の間にこんなに勉強したのか」というような「褒め言葉」ではありません。はっきり言えば、「こいつは、何処からこんな知恵を仕入れて来たのかと言って驚いた」ということであり、感心したのではなく、それどころか、「とんでもないことだ」という非難を込めた驚きでした。

ここで、主イエスが何を語られたのかは、記されていませんが、容易に想像することが出来ます。旧約聖書以来の預言の成就を語り、「神が定められた『時』、『救いの時』がやって来た」ということを告げたのです。

その福音の御言葉を聴きながら、人々は何故このような反応を示したのでしょうか。

「この人は大工ではないか」。これが彼らの呟きでした。ナザレの家はみな土や石で造られており、日本のように木材の豊富な土地ではありませんので、家を作る大工という職業はなく、家具や道具を作る職人であったと考えられます。しかしながら、間違っていけないのは、「職人であった」ということがこの時の人々の軽蔑の原因ではないということです。律法は全ての人に手に職を持って働くことを勧めています。ですから、当時の律法学者の多くは職業を持ち、働いていました。これは天幕造りという職を持っていたパウロの例からも明らかでしょう。主イエスの大工という仕事も認められることはあっても軽蔑される仕事ではありません。ここでは、職業云々ではなく、家族の名前が挙げられていることから、「それほどよく知っていた」ということであり、ナザレの人々は、主イエスのことも家族のこともよく知っていました。「私たちはみな、同じ仲間ではないか」と言っているのです。

私たちは、ここを読み、「身近な人は小さな欠点まで知っているので、まともに話を聞こうとしなかった」と理解しようとするでしょうが、それは完全な思い違いです。確かに、私たちにもそのような経験があります。

たとえば、私たちにとって、一番難しいのは家庭伝道ではないでしょうか。家族には日常生活の全てが知られています。朝寝坊はする、忘れ物は多く、そそっかしくて失敗ばかりし、ちょいちょい喧嘩もして破れ多い姿をさらしています。何を言っても、「偉そうなことを言う前に、生活態度を変えて欲しい」と言われ、そこで悔し紛れに、「預言者、故郷に容れられず」などと、いい加減なことを言うのがオチです。

私たちは、このような失敗を何度も繰り返していますが、それを主イエスに当てはめられるのでしょうか。

神の御子は、たとえ人となられても、私たちと同じ「人間としての弱さをさらけ出して生きた」と考えるのは大間違いです。視点を完全に変えなければなりません。むしろ、ナザレの人々に主イエスの生活態度を積極的に批判し得る者は「一人もいなかった」と考えるべきです。

彼らの驚きの理由はただひとつ、3節に記されているように、「我々と一緒に住んでいるではないか」ということ、即ち、「私たちと同じ町の人間ではないか」ということであり、「よく知っている仲間だ」ということです。そして問題は、まさにここにあるのです。

「同じ仲間」なら、何故いけないのでしょう。「同じ町の者」ということが、何故彼らにとって躓きになったのでしょうか。「躓いた」とは、動物が罠にかかるという意味の言葉に基づくものであり、この場合、人を神から遠ざける「障害物になった」という意味です。「何が」人を神から遠ざける障害になったのでしょうか。

彼らは、決してまともに聞かなかったり、初めから馬鹿にしていたのではありません。町の人々は、主イエスの説教から、明らかに自分たちとは違うもの、異質なものを感じ取っていたに違いありません。ですから、「授かった知恵」とか「奇跡」ということがここに語られているのです。今、彼らは「知恵」とか「奇跡」と表現できる「何か」に出会っているのです。人間の知恵、人間の力、社会での常識、それらを超える「何か」を感じたことは確かであり、これはまさに、衝撃的瞬間であった筈です。

かつて、ガリラヤ湖のほとりで漁師をしていたペトロは、一晩中漁をしても魚が獲れずがっかりしていた時に、主イエスの指示に従って網を入れたところ、舟が沈みそうになるほど沢山の魚が獲れ、御前にひれ伏しました。その時のペトロの言葉は「私は罪深い者です」という告白でした。これは、自分を遥かに超える方と出会ったとの自覚でした。「私は何と小さな者か」「私は何と愚かな者か」という自己認識は、常に、自分を超える方との出会いにおいて起こるのです。ガリラヤ湖で起こったことも、ナザレの会堂で起こったことも、同じものであった筈です。

しかしナザレの会堂では、その驚きが逆の方向に進んでしまいました。確かに、主イエスの説教は神の御心を説き明かす福音の宣言でした。人々のこれまでの生き方に対して、全く異質なことが語られていました。彼らはそれをはっきりと聴き取ったのです。ですから、表面的な知恵や、単純な奇跡そのものを問題にしているのではありません。

彼らは、主イエスと出会い、あのペトロが仰ぎ見た主イエスを、「不快に感じた」のです。ここが最大の問題点です。主イエスが語られた福音を、自分たちが仰ぎ見て、そこへ向う「高み」として受け止めたのではありませんでした。あまりにも異質なものに対する憤りであったとさえ言うことが出来るでしょう。

誰もが進歩を求め向上することを願います。より良いものへと変わって行くことを願います。しかしながら、その向上心は共通であっても、進歩に遅れてしまった者は、「自分も共にそこへ行こう」と考えるより、自分より進んでいる者を引き降ろすことに熱心になるのです。

私たちの心の中には、自分を超える者への恐れと不安が何時もあるのです。そしてその不安が、自分の現在の立場を守るために「新しいものへ進む」ことを拒むのです。ある人はそれを弱者の防禦本能と呼び、ある人はそれを「罪がもたらす人間の惨めさそのもの」と言っています。

主イエスの御言葉を聞いたナザレの人々が、他の町の人々と比べて特別に信仰が弱かったということではありません。むしろ、同じ時代の全ての人々のように、救いの実現を望んでいたことでしょう。ただその宣言が、自分たちと「同じ仲間」によってもたらされたことに我慢できなかったのです。

主イエスを「自分たちと同じ仲間」として見た時に働く、「自分たちと同じ立場に留まらせよう」とする意識が、そこにあるのです。主イエスが、御自分を「神の子キリスト」とお示しになった時、人々は、主イエスに「ナザレの大工」として留まることを要求しているのです。

もちろん、主イエスも、ナザレの人々を「御自分と同じ仲間」として見ていました。ただその見方がまったく違いました。

主イエスは、「みんな同じ仲間だから、父なる神のところに一緒に行こう」と語っておられるのに、ナザレの人々は、「お前は私たちの仲間だから、私たちのところに留まっていればよい。そんな偉そうなことを言うな」と嘲笑ったのです。

6節で主イエスは「人々の不信仰に驚かれた。」とあります。

不信仰とは、神の御言葉を自分の世界、自分のレベルへ引き下げてしまうことです。自分が御言葉によって変わるのではなく、御言葉を自分たちと同じレベルに引き下げ、自分たちの生活に合わせて「変えてしまおうとすること」、それが不信仰というものの本質です。

5節にある主イエスの「何も奇跡を行うことが出来なかった」とは、力を発揮出来なかったというのではなく、信仰なき者に対する主イエスの拒否です。自分から恩寵に心を開こうとしない者に対する裁きです。

キリストが私たちにかけてくださる「あなたがたは私の家族なのだ」と言う御言葉こそ、私たちが聞く新しい希望です。「私と同じだ」というのは、主イエス御自身が十字架の苦しみと復活を通して、初めて私たちに与えられた信仰の恵みです。私たちが気付かぬ間に、罪に支配されてしまうこの世界を、神の家に変え、「神の家族」を取り戻そうとする主イエス・キリストの御心を想わなければなりません。

「あなたがたは私の家族なのだ」。背を向ける人々にさえ、このように語り続けられる主イエスの御心を感謝して受け止める時、私たちは自分一人の思いから抜け出して、自分の大切に思う人、愛する人を主イエスと共に歩む「神の国」への道、「救い」へと誘えるのです。

お祈りを致しましょう。

<<< 祈  祷 >>>

安息日の主

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌239番
讃美歌497番
讃美歌67番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 5章12-14節 (旧約聖書289ページ)

5:12  安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。
5:13  六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
5:14  七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。

新約聖書:マルコによる福音書 2章23-28節 (新約聖書64ページ)

2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」

《説教》 『安息日の主』

明けましておめでとうございます。今年もこうして皆様と共に聖書に耳を傾ける新しい年を迎えられたことを感謝します。今年は引き続きマルコによる福音書を連続してご一緒に読み進めて行きたいと思いますので、宜しくお願いいたします。

本日は「安息日」に関するお話ですが、「安息日」とは聖書で定められている最も重要な規定です。それがどのような意味で定められた日であるかを、先ず確認することが大切です。

ヘブライ語で“シャッバット”と呼ばれる「安息日」とは「休む」という意味です。そのことから、誰でも安息日と言えば、「休みの日」と考えるのが当然かもしれません。しかし、キリスト者であるならば、この「休む」ということが何から始まり、何を意味しているかを、聖書から考えてみたいものです。

この「安息日」とは、先ず第一に、「神様が祝福し、聖別された日」です。それは旧約聖書2ページ、創世記2章1~3節にあるように、「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」と、創造の御業の最期に祝福し、聖別された日でした。

第二には、「神様との契約のしるしの日」であり、生命をかけて守らなければならない「聖なる日」「最も厳かな日」です。それは、旧約聖書146ページ、出エジプト記31章13~16節にあるように、「あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。」と、死をもってしても守るべき日でした。

第三には、出エジプト、「神様の救出を想い起こす日」です。旧約聖書289ページ、申命記5章15節には、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」とあります。

これら三つが、「安息日の制定」です。神の民イスラエルは、この安息日を厳守することで、周囲の諸民族の中に埋没しがちな弱小民族でありながら、自分たちの独自性とアイデンティティを維持し続けて来ました。

安息日は確かに「休みの日」です。如何なる仕事もしてはならず、それを汚す者、即ち仕事をする者は死刑に処せられると定められた厳粛な日です。同時に一週間に一回の休日でもありました。しかし、その「休み」とは、人間が身体の疲れを癒すことに第一の目的があるのではなく、ましてや、天地創造された「神様の休養」にお付き合いをする日でもありません。

天地創造の第七の日に「神はその日を聖別された」と記されています。「聖」と訳されているヘブル語の“コーデシュ”は、元来「分ける」「分離する」という意味で、信仰の問題に用いられる場合、神と人間との分離を示し、神に属するものと人間に属するものとの区別を表しました。「聖なるもの」とは「神にのみ属するもの」であり、「神によって特別に選ばれたもの」「特別により分けられたもの」を意味するのです。天地創造の第七の日を「神がその日を聖別された」ということは、その日を「特別な日として定められた」ということです。「特別な日」とは「神の創造を覚える日」であり、「神の契約の記念日」であり、「人間を奴隷の苦しみから救い出された神」への信仰を新たにする日なのです。主なる神の恵みを思い、「神の民・しもべ」としての姿を明らかにし、礼拝を献げる日であり、『その礼拝を守るため』に仕事を休むのです。

「仕事を休む」とは、「主のために休む」のであり、主なる神の御心に応える時、結果的に、一週間の労働で疲れた身体を休めることになるのです。三千年以上の昔から一週間に一度仕事を休んでいたのは、イスラエル民族をおいて他にありませんでした。六日間の労働で疲れた身体に安らぎを与え、社会生活の中で荒んだ心に神様を仰ぐ喜びを呼び戻すことが、安息日を定められた神の御心でした。安息日とは、私たち人間を見詰められる神の御心、愛の満ち溢れる日なのです。

本日の、マルコ福音書2章23節には、「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」とあります。実にのどかな光景で、都会生活では味わえない農村風景が本日の舞台です。時は安息日とあります。弟子たちは何故「麦の穂を摘み始めた」のでしょうか。よく、面白半分で、何気なく道端の木の枝を折ったり、草をむしったりすることがあります。しかし>
この時の弟子たちは、マタイ福音書12章1節によると、「空腹になったので」と理由が記されています。そしてこれは、イスラエルでは認められていることでした。律法にはこのように定められています。旧約聖書317ページ、申命記23章25~26節に、「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよい>が、その麦畑で鎌を使ってはならない。」と、あります。これは、「家に持って帰るほど取ってはならないが、そこで食べるのはよい」ということです。おおよそ、一人の人が腹一杯食べたとしても、どれほどの損害になるのか。まして、そのようなことをする人はよほどの空腹であり、その空腹を癒すことが出来ることを喜ぶべきではないのか。これが律法というものの本来の精神です。律法は神から与えられた戒めであり、人間が正しく生きるための道しるべです。神が教えて下さった人間の正しい生き方とは、疲れた者を慰め、飢えた者を満たすことにあります。貧しい者が苦しむことなく、互いの助け合いによって日々の生活を喜ぶことが出来る生き方なのです。

では、ファリサイ派の人々は何を非難したのでしょうか。24節にあるように、「安息日にしてはならないことをした」というのがその理由でした。「安息日にしてはならないこと」とは、先程の出エジプト記31章14節以下に記されている通り「仕事」です。既に見て来たとおり、律法は安息日に仕事をすることを固く禁じていました。そこで神の御民として直ちに問題にせざるを得ないのは、それでは「仕事とは何か」という定義です。「してよい事」と「してはいけない事」の境目を明らかにしなければ、律法に従う生活を遵守することが出来ません。そこで律法学者たちは、律法の内容を事細かに定義して行きました。紀元二百年頃に編纂された権威ある口伝律法集ミシュナーには、伝承されて来た膨大な規定が残され、安息日に関する規定だけでも、何と24章にもわたって記されています。

ファリサイ派が律法を何よりも大切なものとして受け入れ、御言葉を重んじたということ自体は誤りではありません。律法は神より与えられたものであり、御心そのものと考えられていました。しかしながら、律法を見る彼らの眼が、律法本来の精神から離れ、「それをどのように守るか」ということのみに向けられたことが問題なのです。安息日は「聖なる日」であり大切な日です。しかしファリサイ派の眼は、「安息」即ち「休む」ということへ重点的に向けられていました。律法の専門家として、「安息日には仕事を休まなければならない」と教え、このことに「神の民イスラエルの基本的な姿が示されなければならない」と説いたのです。本来の目的と付随的な結果とが入れ替わってしまったと言えるでしょう。

このような理解に立つファリサイ派によれば、この時の主イエスの弟子たちの行為は「安息日に禁じられている四つの罪」を犯していることになります。麦の穂を摘むことは「刈り入れの罪」、穂から実を取ることは「籾殻を取り分ける罪」、手でもんで食べることは「臼で引く罪」、そしてこれらを合わせて「食事の準備をした罪」ということです。

25節から26節で主イエスは、「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」と言われました。

これは旧約聖書サムエル記上の21章1節以下に記されていることです。昔、サウルに追われ逃れたダビデがノブの聖所に立ち寄った時、祭司アヒメレクは、空腹で逃亡中のダビデに、祭司以外の者が食べてはならない「祭壇から下げてきた聖別された供え物のパン」を与えました。これは非常の場合、「例外はあり得る」という有名な故事であり、規定上は違反であったとしても律法の精神はそこにあるという実例です。

安息日に麦の穂を摘んだ弟子たちを責めるファリサイ派の人たちに、主イエスは「形を守ること」ではなく、「御心に従うこと」に重要な視点があることを告げたのです。ファリサイ派の立場から言えば弟子たちの行為は明白に律法違反でした。しかしそれは、父なる神がどのような眼差しで空腹な者を御覧になっているかということは、全く考えられていません。空腹に苦しむ者に、「安息日だから空腹のままで我慢せよ」と主なる神が言われるでしょうか。そもそも、聖書の何処にも「安息日に食事をしてはならない」などとは書かれていません。むしろ、安息日こそ、人間が最も大切にしなければならない日なのです。愛し合い、助け合い、支え合って生きる人間の姿を喜ばれるのが御心であり、そのように生きる人々との交わりの日を望まれるのが主なる神です。

弟子たちが麦の穂を摘んだことの背景に、この神の御心を見なければなりません。神が定められた安息日に、御子キリストと共に歩み、神によって許された食物を採る、この姿こそ、恵みの中にある人間の姿そのものと言えるでしょう。

さらに重要なことは、ファリサイ派の人々が安息日を論じるに当って、「礼拝」について全く触れていないということです。もし、主イエスの弟子たちがこの日、神を讃美することを怠っていたならば、この非難は正当であったでしょう。礼拝を怠ることは、どんな理由があったとしても正しい弁明にはなりません。何故なら、安息日こそが礼拝をするための日であり、仕事を休むことは礼拝を守ることから生じる恩寵の結果であったからです。そのことから見ても、ファリサイ派が、安息日の意味を「礼拝」よりも「仕事を休む」ことの方に重点を移してしまったことは明らかでしょう。

現代でも、この意味でのファリサイ主義は横行しています。日曜日は仕事を休む日であり、遊ぶ日、休息の日、家族慰安の日という考えが支配しています。「日曜日に何故家族サービスをしないのか」と言われて後ろめたい思いをする人もあるでしょう。「何故、せっかくの休みに教会へ行かなければならないのか」と言われて反論出来ない奇妙なクリスチャンも少なくありません。熱心なファリサイ派も不熱心な現代のクリスチャンも、主なる神が居られることを忘れている姿では、全く同じだと言わざるを得ません。

そして27節から28節で更に、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」と言われました。

「人のための安息日」とは、人が自由に行動して良いということではなく、人間が「正しい人間であるための日」という意味で理解すべきです。「イエス・キリストは主である」という告白を、他の六日間よりも純粋に、真心から告白できる日が現代の安息日、即ち「聖日」の意味なのです。

本日の物語では、ファリサイ派の人々の律法理解がいかに本末転倒になっているかがよく分かります。しかしこれは決して他人事ではありません。私たちは、神様が安息日を与えて下さった意味を本当にしっかりとわきまえているでしょうか。私たちがもし、教会に集うことで、神様からの安息をいただくのではなく、有意義な働きや意味ある奉仕をすることを第一とし、自分が役に立つ者となることを追い求め、その結果信仰に生きることは疲れることだと思い、自分より多くの奉仕をしている人には心苦しさを感じ、自分より奉仕をしていないと思う人を裁いたりしているならば、ファリサイ派の人々と同じ本末転倒に陥っていると言わなければならないのです。

このことをわきまえるなら、私たちの安息日である主の日、日曜日に教会の礼拝に集い、神様を礼拝しつつ神様に仕えて生きる信仰の生活において、自分が有意義な働きや意味ある奉仕をすることを目的としてはならないことが分かります。礼拝を守って信仰者として生きることは、私たちが良いことをし、役に立つ人になるためではなくて、神様が、独り子主イエス・キリストによって与えて下さる救いにあずかり、まことの安息、休みを与えられるためなのです。しかもそれは私たちの自己満足や誇りを満たすことによる安息ではありません。むしろ神様は私たちを、そのような自己満足や誇りを満たすことを求める思いから解放して下さるのです。主イエス・キリストは、そういう疲れから私たちを解放し、まことの安息を与えて下さるのです。神様の独り子である主イエス・キリストが、何の役にも立たないどころか、神様に迷惑をかけてばかりいる罪人である私たちのために十字架にかかって死んで下さり、罪を赦し、神様の子として生きる新しい命を与えて下さったのです。私たちは、有意義な働きも意味ある奉仕も何もなしに、ただ神様の恵みによって安息を与えられ、明日へと歩み続ける力を、今日も礼拝によって与えられるのです。

お祈りを致しましょう。

<<<祈 祷>>>

・・・以 上・・・

主イエスの恵み“カリス”

《賛美歌》

讃美歌20番
讃美歌183番
讃美歌546番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 4章20節 (旧約聖書287ページ)

4:20 しかし主はあなたたちを選び出し、鉄の炉であるエジプトから導き出し、今日のように御自分の嗣業の民とされた。

新約聖書:エフェソの信徒への手紙 2章1-10節 (新約聖書353ページ)

2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

《説教》『主イエスの恵み“カリス”』

本日の聖書箇所は、エフェソの教会の兄弟姉妹たちの現実の姿を描き出すことから始まります。それは、この手紙を書いたパウロ自身の現実でもあり、現在の私たちの現実でもあります。その現実とは、私たちは洗礼を受けて教会に加わる前には、「自分の過ちと罪のために死んでいた」という現実です。と、言ってもその現実を明らかにするパウロの言葉は、エフェソの教会の兄弟姉妹たちを非難する言葉ではありません。ここにある、「死んでいた」という表現は、以前のあなたがたは、こうであったと責めたてる言葉というよりも、今は、過ちと罪を赦されて、そこから解き放たれて、自由にされていることの喜びを共にする言葉として理解することができます。死んでいたに等しい人間が、生きるようになったことへの不思議さと感謝の言葉から始まっていると言えましょう。それは、先週ご一緒にお読みした放蕩息子が父のもとに戻って受け入れられたことの喜びに通じます。

私も、あなたも、以前は自分の過ちと罪のために死んだようになっていた。世界を支配する神に背き、罪と過ちを犯して歩んできた。神の怒りを真っ先に受けるにふさわしい者であった。しかし、そのような私たちが、今やキリストと共に生かされているという恵みを語り始めるのです。この恵みがどれほどすばらしいものかが、後半部分の7節以下には鳴り響きます。

さて、2節の「この世を支配する者」や、「かの空中に勢力を持つ者」とは、すぐ後の「不従順な者たち」のことです。「内に今も働く霊」とは悪魔のことと思われます。「この世を支配する者」は原文では「このコスモスのアイオーン」という言葉です。「コスモス」とは「宇宙」と訳される言葉で、「アイオーン」は、当時のアレキサンドリヤなどでは神として祭られていたこともあることから、「偶像の神」と解釈できます。そして、「かの空中に勢力を持つ者」とは、悪魔・サタンと考えられます。サタンは人間を遥かに超える力を持っています。主イエスがこの世に来られた明白な目的は、まさに「悪魔の働きを滅ぼすため」にほかならなかったと言われます(Ⅰヨハ3:8)。主イエスご自身も、公の生涯のはじめに荒れ野でサタンの誘惑に遭われ、サタンを退けられました。サタンは大変巧妙で、パウロはサタンのことを「光の天使を装うのです」(Ⅱコリ11:14)と指摘しているほどです。サタンは、善人を装い、時には天使を装って私たちに近づき、私たちを肉の欲望のままに生きる者として、神様から私たちを遠ざけることを企みます。

使徒パウロは、人間が偶像崇拝に陥り、サタンの支配にとらわれていく現実をしっかりと見つめます。私たちも自分は、サタンや偶像礼拝と無縁だ、自分は教会生活をしっかりと守り、信仰に堅く立っていると、自分勝手に思い込んでいるんではないでしょうか。パウロが語るサタンとは、残忍で恐ろしい姿かたちをいつもとっているわけではありません。私たちが、神以外のものをより大切にし、自分が良いと思っているところに心惹かれていくとき、すでにサタンの誘惑に陥っているのです。パウロは、3節では、ユダヤ人として信仰を受けている人たちや信仰を得ていない不信仰者を含むすべての人々は、生まれながらの本来の姿なら、神の怒りにあう者であり、神の怒りから逃れられないと言っています。自分が善かれと思って行うことが、「肉の欲望の赴くままに生活する」ことです。そのような罪の現実の最大の問題は、自分の思いのままに生きる時、私たちはキリストと共に生きている、キリストによって生かされていることを忘れてしまうことです。

神様は、そのような私たちを、それでもなお深く憐み愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、キリストと共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいましたとパウロは記します。本来なら、神を忘れて、神様とは別な方向を向いている私たちを、神の御前に連れ戻してくださるのです。4節の「愛」とは、神ご自身の愛のことです。この愛は、人間をサタンの誘惑から解き放ち、サタンの支配を粉みじんに打ち砕くような厳しく、激しい決然とした愛です。神が愛する独り子を世界に遣わし、それによって私たちを新たに生まれさせ、生き方を変えてくださった愛です。神様が私たち人間を愛するゆえに、御子をすら惜しまなかった徹底した愛です。この徹底した愛にこそ、はじめからの神の目的があります。5節と6節は、私たちの予想に反するような恵みが語られています。神様がくださる恵みです。「生まれながら神の怒りを受けるべき者」を新生させてくださる神の目的は、5節の「キリストと共に生かし」てくださることであり、6節にある「共に復活させ、共に天の王座に着かせ」るためなのです。その神の豊かな愛は、ここにある「憐れみの豊かさ」であり、「わたしたちをこの上なく愛してくだ」さったからです。

新しく生まれる「新生」とは、霊的に死んでいた者に対する神の一方的な賜物、恵みです。神様は、何のとりえもない私たちを、信仰ゆえに憐み、ただひたすら一方的な恵みによって、私たちを罪の支配から救い出してくださるのです。キリスト者は、いつの時代にもこの一点だけで、共通の経験をしている者です。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」とありますが、これは、すでに与えられた救い、つまりイエス・キリストによる罪の赦しと罪の支配への勝利を示しています。この箇所は、教会における洗礼を指しています。コロサイの信徒への手紙2章12節には、「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」と、洗礼についてハッキリと記されています。今日のエフェソ書では、洗礼について明記はありませんが、パウロの言葉遣いは明らかに洗礼を指しています。5節の「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」とあります。この「共に生かし」とは、こことコロサイの信徒への手紙2章13節にだけ出て来る言葉です。この「生かす」とは「命をつくる」という言葉です。「キリストの救い」とは、単なる罪の赦しだけではなく、キリストにある新しい命を私たちに与えて下さるのです。この「キリストと共に生かす」とは、「新しく生まれ」てキリストと結び付けられ、キリストに起ったこと「復活と天の王座へ座ること」が、神の力によって私たちにも起こることを示しています。イエス・キリストの生命に与って、それと一体となることです。この「愛による救い」の文章は8節にまで続きますが、感極まったパウロはここで「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」と、5節と8節で繰り返し歓呼しています。霊的に死んでいた状態から新しく生きる「新生」とは私たちに対する神の一方的な恵みなのです。

そして、この「救われた」という動詞は完了形で、イエス・キリストの十字架の御業で「すでに救われている」と言っているのです。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」と、ここに「恵み(カリス)」という言葉が出てきます。今日の短い聖書箇所だけでも3回も登場しています。神の救いが、人間に対する神の愛による一方的な賜物・恵みであることを表している言葉です。

成宗教会の皆さんの中にはお気付きの方もいらっしゃいますが、成宗教会のメールアドレスは「ナリムネ・カリス」です。「カリス」に決まった経緯を私は聞かされていませんが、並木先生時代に開設されたメールアドレスが、この「恵み(カリス)」であることに今日は不思議な神の導きを感じずにはおられません。

6節の「共に復活させ、共に天の王座に着かせ」るとは、やがて来る未来の終りの日のことよりも、現在既に起こった出来事を指します。神の救いは霊的な死からのよみがえり・復活ばかりか、何と、神の子たる身分への天への招きでもあるのです。「共に復活させ、共に天の王座に着かせ」と2回も続いて語られる「共に」という言葉は、一つの言葉としては存在していません。この「共に」という言葉は「復活させる」「着かせる・座らせる」という動詞の接頭語です。分かり易く日本語の意味を加えると「キリスト・イエスと一緒に復活させ、天の王座にキリスト・イエスと一緒に着かせてくださいました」となります。霊的に生き返る「新生」とは、天におられる復活の主イエス・キリストと共に新しく生きるということなのです。

7節では、「その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」と、私たちの救いの目的をさらに明らかにします。この「来るべき世」とは、終末に続く新天新地を含む無限の将来・永遠を指し示しています。1章4節に「天地創造の前に、神様はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」とありました。私たちの「選び」は過去から続くものでしたが、その「恵み(カリス)」は、現在の私たちに永遠の将来まで一方的に与えられるのです。

8節の「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」とあります。「恵み(カリス)」は、漠然とした「恵み(カリス)」ではありませせん。前の7節の「キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵み(カリス)」であり、「キリスト・イエスの十字架による慈しみ」のことです。キリストの出来事のすべてが「恵み(カリス)」です。しかもその恵みの出来事は一方的に与えられました。

しかし、その恵みとは、私たちの応答を問うことなしに、ばらまかれるのではありません。「恵みにより、信仰によって救われた」とあります。ここは、正確には「信仰による恵みで・・・」と訳すことができます。人はイエス・キリストを自分の救い主として受け入れる信仰を通して、その恵みを受けることが出来るのです。「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」。神の救いとは、神様からたまたま頂いた賜物ではなくて、受け取る私たちの悔い改めを前提として信仰という管を通して神のご意思によって与えられる「恵み(カリス)」と言った方が適当でしょう。

9節の、「行いによるのではありません。」とは、前の8節の「自らの力によるのではなく、神の賜物です。」の言い換え、繰り返しです。どんな形でも人の力や功績、努力が顔を出す余地はなく、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるから」(ロマ3:28)なのです。

10節では、「なぜなら」と、前節までの内容を繰り返して説明を重ねます。私たちは神の作品なのだから、神の救いが人間の行い、善行や業績によることはあり得ないのです。私たち人間は「神が前もって準備してくださった善い業のため」に神によって造られた作品なのです。

キリストの救いとは、救われる私たちの善行という努力や働きがまったく必要ない神の一方的な愛の「恵み(カリス)」なのです。

「恵み(カリス)」は、信仰によってのみ神様から頂くことができるものです。神様は主イエスを救い主として信じる者に溢れるばかりに「恵み(カリス)」を注がれるのであって、善行の報酬として与えられるものではありません。「恵み(カリス)」をいただく手段は信仰のみです。しかも、実に、その信仰そのものも神の賜物なのです(エフェ2:8)。

私たちは、主なる神によって創造された、神の作品です。ゆえに、私たちは、自分を誇ることができません。私たちが誇ることができる唯一の出来事は、神の御子イエス・キリストによる救いという出来事のみです。誇るならば、主を誇れという言葉通りに、信仰者の誇りとは、信仰を持つ自分ではなくて、私たちが信仰の対象としている神の御子イエス・キリストの十字架と復活の出来事、「恵み(カリス)」の出来事に他なりません。神の作品として「恵み(カリス)」を感謝し続けて生きる者となりましょう。

お祈りをいたします。

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私の軛(くびき)を負いなさい

《賛美歌》

讃美歌9番
讃美歌352番
讃美歌312番

《聖書箇所》

旧約聖書 申命記 1章29b~31節 (旧約聖書280ページ)

1:29b 「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。
1:30 あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。

新約聖書 マタイによる福音書 11章28~30節 (新約聖書21ページ)

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

《説 教》

今日、示された新約聖書の御言葉は、教会では度々「招きの言葉」・「招詞」としても大変良く用いられる御言葉で、キリスト者にとっては、諳んじて覚えられているほど馴染み深い聖書箇所と言えるでしょう。

本日のこの聖書箇所の少し前の11章20節から振り返って見ましょう。主イエスは、ガリラヤで伝道を始められてから沢山の奇蹟をされましたが、ここには、悔い改めなかったガリラヤの町を主イエスが叱り始められたとあります。それらの町の人々は、主イエスに癒しや悪霊からの解放を求めました。しかしながら、ティルスとシドンの人々は主イエスの御言葉に耳を傾けても悔い改めることをしませんでした。主イエスは、これらのガリラヤの町は旧約聖書に引用されている「ソドム」や「ゴモラ」などより重い罰に値すると言われたのでした。これらのガリラヤの町は、神の御子主イエスの御言葉を直接聞くことができ、すぐにも、悔い改めて主に聞き従えるという有利な立場にありながら、旧約聖書に出て来る町「ソドム」や「ゴモラ」と同じように、主イエスの御言葉に応答しなかったからなのです。ガリラヤの地で伝道を開始された主イエスの御言葉には力がありました、その最初の御言葉は4章17節にある、「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。この御言葉を聞き信じた人々は、最も大切なこととして、主イエス様ご自身が言われた「わたしの軛を負いなさい」という御言葉に聞き従ったのです。今日の御言葉の直前の25節以下で主イエスは、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」と言われています。自らを「知恵のある者や賢い者」として高ぶる者には神の国の真理は隠され、幼子のように素直に心を開き信頼する者に、神の国の真理は明らかにされると主イエスは語られたのです。

人間にとって神様を信じる信仰という霊的な行為は、人間の常識とは別のものであることを主イエスは語られたのです。主イエスが「父」と呼ぶ神様が、御子である主イエスを通してご自身を現したのであり、主イエスは神様のひとり子として父なる神様と特別で密接な関係にあることを話されたのが、主イエスの伝道の御言葉でした(2:15、3:17、4:3、6、8:29)。御子イエスが父なる神様を人々に知らせなければ、人は父なる神様を知ることは出来ない、人は主イエスを通してしか神様を知ることが出来ないことを語られたのです。

28節で、主イエスは、「疲れた者」と呼びかけておられます。この「疲れた者」とは、当時の律法学者やファリサイ派の人々によって、律法の重荷を負わされていた民衆です。毎日毎日さまざまな掟によって縛り付けられていたユダヤの人々のことでした。

律法とは、ユダヤの人々が生きて行くこと、日々の生活を神様の恵みと喜び、感謝しながら過ごす中にあるもので、本来人々に知恵を与えるものでした。しかし、当時のユダヤ教の祭司や律法学者、ファリサイ派の人々は多くの律法の規定を作り出してしまい、かえって律法を重荷にしてしまったのでした。そして、この「疲れた者」に対する聖書の御言葉と主イエスの約束は、今ここに生きている私達に向けられた御言葉でもあるのです。

私たちの人生にはさまざまな労苦があります。重い重い、重荷があります。私達を疲れさせるものが沢山あります。疲れ果ててしまっている私達に対して、主イエスは、「疲れた者」と呼びかけておられるのです。

これは私達疲れ果てた者に対する主イエスの呼び掛け・招きです。ここで主イエスが私達に与えようとされている「安息」とは一体どんなものでしょうか。また、それは本当に必要なものであるということを、私達が充分に理解しているでしょうか。世の中には、重荷を負っている人は沢山居ますが、その重荷は、主イエスによってのみ軽くして頂けるものなのでしょうか。本当にそうなのか、どうしたらそうなるのか、ということだけでなく、その内容を私達がどれだけ知っているのでしょうか。例えば、世の中の多くの人々は酒を飲むことによって、重荷をおろそうとしています。もしかすると、キリスト者でありながら、キリストのところへ行って重荷をおろすより、一杯やったほうが気が晴れると、心の奥底の何処かで思っている人も居るのではないでしょうか。私なども、長いサラリーマン生活の中で、ついつい深酒をしてしまったこともありました。こんな一例に限らず、私達は「重荷を負っている者こそ、この私達なのだ。」と思っています。それほど重荷は何処にでもあるのです。そして、何と自分が重荷を負っていることは当然分かり切っているのですが、その「重荷の正体」を実は何も分かっていないのではないでしょうか。「重荷の正体」とは、いったい何なのでしょうか。今日、私達に示された28節の御言葉を読んで気付かされるのは、実は私達が重荷だ、重荷だと思っていたものを、主イエス様が「そうだ、それがお前の重荷だ。」と簡単に受け入れて下さっているのではないということです。

そうではなく、私達が「これは苦しく悲しい、大変な重荷だ」と考えるよりも、ずっと深い思いで、本当の重荷とは何か、私達を苦しめている本当の重荷とは何であるかを主イエスは見抜いておられるのです。

私達を、疲れ果てさせて、絶望の淵にまで追い込んでいるものは、いったい何であり、どんな重荷なのでしょうか。それを本当に取り除いてしまう道はどこにあるのでしょうか。その重荷を取り除くことに関連する御言葉として29節には「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と主イエス様は仰っています。口語訳聖書では、主イエス様は「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」と若干違った訳になっていますが、29節のこの日本語に訳されている「得られる」と「与えられる」との言葉は元来「見出す」という言葉です。

苦しく重い「重荷」を放り出したり、下ろしたりするのではないのです。そうではなく「安らぎを見出す」と主イエスは言われたのです。私達は人生において、苦しい時や悲しい時に、得てして「ああ、休みたい、ここで荷を下ろして休みたい。」と思います。しかし、主イエスは言われました。重荷とは放り出したり、下ろしたり出来るものではない、また、主イエスによって与えられる「安らぎ」とは、その重荷を負った者に、重荷を負ったままで与えられるものなのだと、言われているのです。この主イエスの与えられる「安らぎの約束」は、その前にある2つの御言葉を前提としています。その二つの御言葉は「わたしの軛を負いなさい」と「わたしから学びなさい」の2つです。そうすれば主イエスは重荷を負ったまま「休ませてあげよう」と言われているのです。「安らぎ」を与えられるのは、主イエスの軛を負って、主イエスに学ぶときであると、はっきりと言っておられるのです。主イエスは「その重荷を下しなさい」とか「わたしが重荷を下ろしてあげよう」と言われているのでは決してないのです。実に、この人生の重荷は下ろすことも、外すことも出来ないのです。言ってしまえば「重荷は死ななければ下ろせない」のです。この下ろせない重荷を軽く担えるようにして下さるのが、主イエスが言われた「わたしの軛」なのです。

現代社会、それも都会に生きる私達にとってまったく馴染みのない、「軛」とは何でしょうか。「軛」とは、通常2頭の牛などの家畜の首の間に渡され、運搬や農耕の作業時に家畜の力を使うために装着された道具です。2頭の家畜の間に渡して鋤を引かせて畑の畝起こしをしていたと言われれば想像することができるでしょう。日本の田畑は土が柔らかく通常1頭の家畜で鋤起こししていましたが、荒れ地で固い土が多かったパレスティナでは左右2頭の家畜に渡した「軛」が使われていたのです。この軛は、家畜を傷めないために1頭づつのオーダーメードで作られていました。この軛は家畜にかかる負担を下げて、皮膚が剥けたりしないよう上手く作られないといけませんが、公生涯前の若きイエス様はこの軛制作の匠でもありました。そのイエス様の経験が、「軛」という御言葉に現れているのです。また、そればかりではなく、当時のユダヤ人は、元来家畜が重荷を負う時に用いられた道具である「軛」という言葉を比喩的に『掟』を意味するものとして用いました。当時のユダヤ人の世界では、重荷を背負いながら、生きていく時の最も優れた生き方として、掟である律法、例えて「軛」によって生きることが求められていたのです。その「掟」である「軛」を主イエスは「軛なんかいらん」「軛は外してしまえ」と仰ったのではないのです。「わたしの軛を与えよう」すなわち「わたしの新しい掟を与える」と仰っているのです。この主イエスの新しい掟である「軛」は、明らかに主イエスによる、新しい教えであり、新しい律法であり、新しい約束なのです。主イエスの「新しい掟」とは、『山上の説教』に代表される福音です。主イエスの「新しい掟」である福音とは律法を廃止するためではなく、“律法を完成させるため”に主イエス様が与えられた「軛」なのであると、『山上の説教』で高らかに宣言されています。

私達は、この世に生きるとき、人生の重荷が、軽重の差は別としても、間違いなく厳然と存在するのです。

その人生の重荷のために、「安らぎ」を得られるのは、死ぬ時しかないとさえ考える人もいます。ここに自殺の誘惑が生じているとも言えましょう。もちろん、この「安らぎ」を自ら命を絶つこと、自殺することによって得られると考えることは、大変悲しいことです。そんな、不幸な現実から主イエスは私達を救い出して下さるのです。それは、私達の担いきれない重荷を主イエスが担って下さるから私達は生きることが出来るのです。自分に与えられた重い命、重い人生を軽々と担って生きられる、そんな生きる道があるのだと、主イエスは言われているのです。「わたしの軛を負いながら、生きなさい」と言われているのです。

それでは、「主イエスの軛」はなぜ軽いのでしょうか。それには2つの理由があります。その一つは、「軛」とは、2頭の家畜をつないで2頭の首に掛けられ重荷を引くものです。2頭の家畜が軛で一つとなって重荷を引くのです。その軛が軽くなるためには、あなたが自分の首に掛けた一方の軛、そのもう一方は主イエスご自身が担ってくださるのだ。だから主イエスの軛は軽いのだ。大変分かり易い話です。もう一つは、私達が生きる際の重荷をすべて主イエス様に委ねることが、この聖書箇所で許され約束されているから、重荷はすべて神様にお委ねする。私達の重荷を主イエス様が背負って下さるというのです。

昔は作者不詳と言われていましたが、現在は作者の分かった有名な詩があります。私の大好きな詩です。お読みします。

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主はささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
まして、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」

30節にある「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と約束されている理由は、まさに主イエスご自身が、私たちの苦しみや試みの時に、主イエスが私たちを背負って歩いて下さるからです。

あの『山上の説教』の中で主イエスが力強く言われておられる「思い悩むな」と約束は、私たちの生きるための労苦のすべてを、主イエスが共に担って下さり、背負って歩まれるからなのです。

また、「私に学びなさい」とは、父なる神様の御心をすべて従順に受け入れられたことを主イエスに学ぶということです。人生のすべてにおいて、神様に聞き従うすべを主イエスに倣って学ぶのです。それは、自分のすべてを神様に委ねてしまうことでもあります。そして、その結果、主イエスが、あなたに代わって人生の重荷を背負って下さるのです。従って、あなたは軽くなった人生の重荷を喜びをもって担うことが出来るのです。

今日の、この28節から30節のたった3節の間には、「わたしは」「わたしに」「わたしの」と、合計6回も主イエスの「わたし」が出て来ます。ここには、「わたしを通らなければ誰も・・・できない」を強調して、父なる神様へのとりなしをされる主イエスの重要な役割が述べられているのです。しかも、29節の「わたしは柔和で謙遜な者だから」とあるように、主イエスは神の柔和と謙遜そのものです。私達にとっては、倣うべき見本なのです。

主イエスは神と等しい者であることを好まず、ご自分を無にして、僕の身分になり、私達に仕える者となって下さり、2頭立ての軛の一方を、共に担って下さるだけでなく、時として疲れ切った私たちを背負って歩かれるのです。しかも、「疲れた者」である私達のふらつく歩みに合わせてゆっくりと、また背の高いイエス様は私達の背丈に合わせてかがむように軛の一方を担って下さるのです。

神様と等しい者でありながら、私達に仕える者となられた主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と、この苦しみ悲しむ私達を優しく招いておられるのです。

主イエスのご生涯は、ただ私達のために“安らぎ”を与えるためのものでした。そして、主イエスが私達の人生を、ただ重く、苦しく喘ぎながら生きるのではなく、軽やかに神の恵みの中に生きる人生に変えて下さったのです。私達もまた、主イエスに倣って、柔和と謙遜に生きることが出来るのです。主イエスの掟が軽いことを知っているからこそ、主イエスと共に「軛」を負いつつ柔和で、謙遜に生きることが出来るのです。主イエスから、人に仕えることの軽やかさを教えられるのです。

それでは、お祈りを致します。

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あなたは宝の民

成宗教会副牧師 藤野美樹

聖書:ヨハネによる福音書 15:12~17、申命記7:6~11

私たち夫婦が、この成宗教会に赴任して、2ヶ月が経とうとしております。雄大牧師と、成宗教会に赴任してまだ二ヶ月か、もう二年経ったような気がするね、と言っていました。というのも、この二ヶ月は、いろいろなことがぎっしりつまった二ヶ月間でありました。並木牧師から引き継ぎ、受難節、イースター礼拝、定期総会、納骨式、墓前礼拝、そして、ひとりの姉妹の信仰告白式を行うことができました。家族のようにホットする雰囲気の教会の方々にいろいろ教えていただきながら、牧会をすることができており、とても感謝しております。

二ヶ月前、成宗教会にどんな方々がいらっしゃるのかも知りませんでした。でも、今では毎週お会いして、ともに礼拝を守り、祈り合っております。二ヶ月前には想像もつかないことでした。この成宗教会に赴任したことに、神様の不思議なお導きを感じずにはいられません。

教会というところには、さまざまな人たちが集まっています。年齢も仕事も境遇も教会へ通うきっかけも、それぞれ違う方々が週一回集まり、ともに神様のまえにひれふして、礼拝を捧げています。そう考えますと、教会とはとても不思議なところに思えます。

教会とは、一体何でしょうか。

本日読みました、申命記ではこう語られています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民のなかからあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」

教会とは、「聖なる民」の集まりだと言われているのです。ここで言われている「聖なる」というのは、道徳的に清く正しいという意味ではありません。「聖なる民」というのは、「主なる神様のために聖別された」人々、という意味です。私たちは、それぞれ、神様との関係の中で、召し出され、招かれて、いま教会にいるということです。そして、神様は私たちのことを「宝の民」と呼んで、宝のように価値のある者としてくださっています。

しかし、私たちがそのようにして神様から選ばれ、「宝の民」と呼ばれるのは、なぜでしょうか。私たち、教会に集う者たちは、この地上の誰よりも優れているから、選ばれたのでしょうか。7節ではこう語られています。

「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」。

つまり、私たちが選ばれ理由は、私たちの能力、素質によるのではなく、ひとえに「神様の愛」によるのです。神の選びは、人間の側の価値ではなく、むしろ資格のないような者に向けられているのです。それは、この世の価値観とは正反対です。「宝の民」と呼ばれる私たちは、優れたものであるどころか、神様から見たら貧弱な存在です。しかし、神様は私たちを選んで、「神様の宝の民」としてくださいました。

このように、教会というのは、ただ神様の愛によって選ばれた者の集いなのです。

本日お読みしました、もうひとつの聖書のみことば、ヨハネによる福音書にも、この「選び」ということが語られています。15章16節で主はこうおっしゃいます。

「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。」

主イエスは、はっきりと仰います。主が私たちを選んでくださいました。私たちの側には主の選びにふさわしい理由は何もないのです。主イエスが私たちを探しに来てくださったから、私たちは主イエスを知ることができたのです。主の無償の愛が私たちには注がれているのです。

13~15節では、さらに、その主の愛について語られています。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」 

 主イエスは、私たちを「友」と呼んでくださっています。「友」とは、何でも打ち明けたり、共有したりできる間柄です。長く続く友情というのは、利害関係によって成り立つものではなく、利害に関わらず、何でも打ち明けたり、指摘し合ったりできる間柄ではないでしょうか。主イエスは、無償の愛を注いで、私たちの本当の「友」になってくださいました。

主イエスは友である私たちのために、十字架の死によってご自分の命を捧げられました。主の十字架の死によって、私たちの罪は帳消しにされました。それほどまでに、私たちを愛してくださったからです。主が私たち人間のために命を捨てられ、罪を赦してくださったことを思う時、そこには人間の友人関係以上の、もはや私たちには想像できない、深い愛を感じるのではないでしょうか。

主は、私たちとの関係性を僕と主人にたとえておられます。僕つまり奴隷は、主人のことをよく知らず、愛されているかいないかもわからず、ただ主人から命令されたことだけをするのです。でも、私たちと神様の関係は異なります。友となってくださる神様は、私たちにはっきりと、その愛を知らせ、すべてを打ち明けてくださっています。

カルヴァンは15節の注解で、このように言います。「わたしたちは福音のうちに、いわば開かれたキリストの心を所有しており、かれの愛を疑わず、容易に把握できるようにされているのである。わたしたちは、わたしたちの救いの確実性を求めて、雲の上はるかに高く登ったり、深淵の奥底に深く沈み入ろうとする必要はない。福音のうちに含まれているこの愛のあかしだけで満足しよう。」と言っています。

私たちは、福音のみことば、聖書、つまり主イエス・キリストを通して、神様の愛を知らされています。ですから、すこしも神様の愛を疑わず、救いに預かることができるのです。

主が、私たち人間のために、罪を贖うために、この世に降りてきてくさって、十字架の死と復活によって、大きな愛を示してくださいました。ですから、私たちのほうが、がんばって登って行く必要もないし、神様の愛がわからない、難しい、と深淵でもがき苦しむ必要もないというのです。

教会というのは、そのとてつもなく大きな、神様の無償の愛を受けるために選ばれた者が集まるところです。

成宗教会は、今から約80年前、この成田の地で開拓伝道された有馬牧師の家庭集会から始まりました。現在に至るまで、成宗教会は滞ることなく礼拝をずっと守り続け、永遠に変わることのない福音をのべ伝えて来ました。そしてこれからも、福音をのべ伝えて行きます。

教会員の数が減り、伝道が困難なこの時代です。日本の教会はずっと、多くの信仰者が与えられるように祈り続けてきました。それでも、クリスチャンの人口は減っており、もともと1パーセントと言われていましたが、もう1パーセントを切ってしまいました。

アメリカ留学中には、いろいろな国の生徒がいました。アメリカや韓国、中国、エチオピア、ナイジェリア、どの学生も口を揃えて、日本のクリスチャンは少ないと聞いているけれど、伝道が進むように祈っているよ、と言ってくれました。

でも、考えてみると、伝道が困難なこの日本のなかで、私たちはクリスチャンとして生きております。その少ない1パーセントのなかに入れられているのです。神様が私たちを選んでくださったのです。この成宗教会が成田の地で開拓伝道を始めて、約80年間の伝道の業によって、いまここに私たちは呼び集められました。これは、「実り」であると言えるのではないでしょうか。主はおっしゃいます。

「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。

ここでは、主イエス・キリストにつながって、祈り求めるのなら、父なる神様は必ず実りを与えてくださると言われています。15章のはじめには、ぶどうの木のたとえが語られています。ぶどうの木は、枝が幹にしっかりとつながって養分がたっぷり行き渡り、しっかりと剪定されれば、おいしい実が実ります。

教会は、このぶどうの木のようなものです。父なる神様によって剪定された、つまり選ばれた枝である私たちは、主イエス・キリストという養分たっぷりの幹につながっていれば、必ず豊かな実を結ぶことができるのです。

私たちは、教会に集い、礼拝で福音のめぐみに生かされています。それは、教会が今までなしてきた、大きな実りということができるのではないでしょうか。そして、そのぶどうの実は、だれかに食べられて無くなってしまうものではなくて、これからも残るものです。私たち、ひとりひとりのうちに永遠の命の御言葉として残ると同時に、教会がこれからも実りを生み出していくという意味においても、永遠に残っていくものです。

そのとき、教会に、神様の無償の愛により任命され、選ばれた私たちには、求められていることがあります。しかも、主はそのことを繰り返し、何度も何度もおっしゃっておられます。それは、この神様の愛にとどまりつつ、「互いに愛し合う」ということです。神様から受けている大きな愛を、互いに持ちながら、互いに愛し合いつつ、全員で協力して、教会を立てていく必要があるのです。