決断

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌301番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:エゼキエル書 9章1-6節 (旧約聖書1,306ページ)

9:1 彼は大声でわたしの耳に語った。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」
9:2 すると、北に面する上の門に通ずる道から、六人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやって来るではないか。そのうちの一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼らはやって来ると、青銅の祭壇の傍らに立った。
9:3 すると、ケルビムの上にとどまっていたイスラエルの神の栄光はそこから昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。
9:4 主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」
9:5 また、他の者たちに言っておられるのが、わたしの耳に入った。「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。
9:6 老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ。」彼らは、神殿の前にいた長老たちから始めた。

新約聖書:マルコによる福音書 10章38-42節 (新約聖書127ページ)

11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
11:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
11:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」
11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。
11:19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。

《説教》『決断』

主イエスは、少年時代から幾度もエルサレム神殿へ来ておられ、この日、受難週2日目の月曜日、特に神殿の境内に変わったことはありませんでした。しかし、この日の主イエスの行動は、誰も予想することの出来ない程の暴力行為と言えます。通常、「宮潔め」と言われるこの有名な事件が何を表しているのか。「聖なる怒り」とも呼ばれる主イエスのこのお姿は、受難週の二日目という十字架を目前にし、緊迫した状況の中で見るべきです。

本日の物語はいささか特殊なものですので、初めに神殿の構造を簡単に述べておくことにします。

第三神殿とも呼ばれるヘロデ大王が造ったエルサレム神殿は、東西約三百米、南北約五百米、広さ約一四万平米と言われています。中心にあるのは巨大な石造りの建物で、内部は二つに仕切られ、最も奥は至聖所と呼ばれ、主なる神が居まし給うところと信じられ、年に一度、大祭司だけが入ることが許されていました。手前の部屋が聖所で、そこには選ばれた祭司が入り、供え物を献げていました。

聖所の前の広場が「祭司の庭」で、そこでは一日中、犠牲の動物が焼かれていました。更に、そこに柵があり、その手前が「イスラエルの庭」と呼ばれ、神殿を訪れたユダヤ人の男性はそこまで入ることが許され、焼き尽くす捧げ物「燔祭」として献げられた犠牲の動物が焼かれるのを見ながら祈っていました。女性は更にその手前、「婦人の庭」と呼ばれるところまでしか入ることは許されません。献金箱はその婦人の庭にあり、そこまでが聖なる場所と呼ばれ、ユダヤ人以外の者は立ち入ることは絶対に許されませんでした。そこから外へ出る門が有名な「美しの門」であり、門の外は「異邦人の庭」と言われ、周囲は大きな列柱で囲まれており、神殿を訪れたすべての人が入ることが出来る場所で、聖なるものと世俗との接点であったと言ってよいでしょう。この区別を犯す者はすべて死刑と定められており、この禁止命令を記した碑文が神殿跡から発掘されています。

この時代、一番外側の異邦人の庭は、どう見ても礼拝の場所に相応しいものとは言えないものになっていた様です。神殿を訪れる者は、感謝のしるしとして献げ物や献金をします。しかし、当時ローマ帝国の植民地のユダヤで使われていたローマコインの表面には殆ど皇帝の肖像が刻んであり、裏には異教の神々の像が刻まれていました。しかし、ユダヤの信仰の中心である十戒は、偶像を厳しく否定しています。社会生活上、ローマ帝国の支配権は承認せざるを得ませんし、日常の通貨としてはローマ帝国のコインを使用していました。しかし、律法に従って生きるユダヤ人として、ローマ皇帝の肖像を刻んだコインを神に献げることは許されません。神殿礼拝に訪れた者は、献金のために、肖像を刻んでないユダヤコインに両替しなければなりませんでした。そこで、異邦人の庭には、両替商の店が出ていたのです。

献金に加えて、ユダヤ人は贖罪のために様々な犠牲の動物を献げますが、律法は、神に献げるものに傷があってはならないとも命じています。そこで、「献げものに相応しい」という証明書付きの動物を売る店が出ているのも「異邦人の庭」でした。

両替の手数料は極めて高く、証明書付きの動物は通常価格の百倍以上とも言われています。世界中から集まって来るユダヤ人の数は極めて多く、ヨセフスという当時の歴史家が報告するところによれば、過越の祭りの時には、二百七十万人とも記されています。参詣者によって膨大な利益を生む店が、「異邦人の庭」を満たしていたのであり、それらすべては、大祭司の個人的独占事業であったと言われています。

また、16節には、主イエスが「礼拝以外の目的で境内を通ることをお許しにならなかった」と記されていますが、これも元々律法が厳しく禁じていることであり、敢えて「イエスが禁じた」ということは、その戒めを破ることが当然のように行われていたということでしょう。聖なる場所が、単なる「運搬の近道」になっていたのです。大祭司を始め、神殿が大切な信仰の意味を見失うものになっていたのです。

このような状況では、主イエスならずとも怒りたくなるでしょう。ですから、大衆を搾取する神殿特権階級への主イエスの怒りとして見ることも出来ます。

このようなことから「社会正義を貫く主イエス」または「搾取する特権階級への闘いを挑む主イエス」と見る人々もいます。しかし、もしそうだとするならば、大きな疑問も出て来ます。

先ほども述べたように、主イエスは少年時代から幾度も神殿に入りながら、一度もこのようなことはなさらなかったのに、今回に限り、乱暴とも言えるほどの激しい怒りを示されたのは何故でしょうか。

さらに、27節によれば、主イエスは翌日も神殿に来られてます。当然、両替屋も動物を売る店も、翌日、店を出していた筈です。何故なら、店が出ていなかったなら献げ物は不可能になってしまうからです。特に、全世界からユダヤ人が集まっている過越の祭りの時に店が出ていないことなど、考えられません。それなのに、27節で、主イエスは、もはや大胆なことをなさらないのは何故でしょうか。

これが「聖なる怒りの謎」であり、この「謎」を解かなければ「宮潔め」の意味は分からないのです。生涯にただ一度、暴力を振るわれた主イエスの御心が伝わって来ないのです。

先ず考えられるべきことは、そこが「聖なる場所」であったということです。商売人の居た「異邦人の庭」は、聖なる場所の外側と言っても神殿の境内に変わりなく、異邦人が祈るための場所でした。たとえ、ユダヤ人以外の人であったにせよ、なおそこは、異邦人に許された大切な聖なる場所でした。

その祈りの場が、今や商売の場所となり、生活道路としてしまうとは、本来の神殿の秩序を完全に無視する罪と言わざるを得ません。聖なるものを自分のために利用する人間への怒りであり、また、どんな人であれ、「祈りの場を汚すことは許されない」ということを、主イエスは怒りと共にお示しになったのです。神に対する信仰者のあり方を正し、「神の御前における姿を取り戻せ」ということを怒りと共に告げられたのです。

しかしながら、最も重要なことを見逃してはなりません。それが、この物語を挟んでいる「いちじくの木の奇跡」が明らかにするのです。

先週ご一緒に読んだように、いちじくの木を枯らした主イエスは、それによって、終末における神の裁きを弟子たちに示されました。そして、その裁く権威を持つ者こそ主イエス御自身であることを告げられたのです。

さらに、これに先立つエルサレム入城の際にも、ろばの子に乗ってゼカリヤの預言を思い起こさせ、11章3節では、初めて御自身を「主」と名乗られました。

この受難週の出来事は、すべてご自身を「主なるイエス」「終末のキリスト」として告げられているのです。そして、このことから、「宮潔め」に関する旧約の預言であるエゼキエル書 9章1節~6節を思い起こさなければならないのです。

エゼキエルが幻の中で見た「神の怒りの日の光景」は「わたしの神殿から始めよ。」と結ばれています。主イエスの「宮潔め」をここに見ることが出来ます。主イエスは、いちじくの木が枯れている姿の中に「神に背を向けたイスラエルの滅びを見よ」と教えられました。それは、イスラエルが神の怒りの前に裁かれ、その裁きは、「神殿の破壊」から始まるのです。

以上のように理解すれば、主イエスの生涯におけるただ一度の暴力的と言える「宮清め」の意味は明らかになるのです。主イエスは、「今や、その時が来た」ということを告げておられるのです。旧約の預言者たちが語った言葉が「今や、成就の時を迎えた」ということを、ここに示されたのです。

大祭司が支配する店をひっくり返すということは、神の民として生きて来たイスラエルの信仰の形のすべてを否定することであり、「もはや二度と後戻りすることが出来ない」という決意を示すものです。ご自身の身の安全を守る術を自ら投げ捨てたのが、主イエスの「宮潔め」であったと言うべきでしょう。

18世紀イギリスの哲学者バークリーはこう言っています。「『宮潔め』とは、イエスの生涯におけるルビコン川であった。彼は、川を渡った後、自分が帰るべき舟を焼き捨てた。人間的な言い方をすれば、イエスは御自分の死刑執行令状に、それと知りながら、署名されたのである。」

18節には「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。」とあります。これが、主イエスの決断に対する罪の下にある人間の反応でした。

主イエスの怒りは、ささやかなその場限りの怒りではなく、たかだかその時代の権力者への反抗として終わる革命運動でもなく、すべての人間の魂を苦しめるサタンの支配に対し、神の御子が全力を挙げて戦いを決意されたものなのです。

本日の15節~19節は、先週の11節~25節の「主イエスといちじくの木」に挟まれたサンドウィッチの中身です。先週の両側のパンを含めて大切な中身と考えなければなりません。その中身に、「主イエスの宮清め」を挟んだのは終末に向かう時の中を生きる者に「祈り」の大切さを教えるためでした。この「いちじくの木」と「宮清め」を締めくくるのは25節で主イエスの語られた「祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」に示されています。これは私たちが日々祈っている「主の祈り」の中の、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と同じです。主の祈りにおいても、 神様に自分の罪を赦していただくことと、私たちが人の罪を赦すこと が不可分に結び合っています。私たちが人の罪を赦すことが、神様に 赦していただくための交換条件なのではありません。神様は独り子イエス・キリストの十字架の死によって、罪人である私たちを赦して下さっているのです。しかし私たちがその赦しの恵みを本当に知り、その恵みにあずかっていくことは、私たち自身が、人の罪を赦すことができるようにと、主イエスの父である神様に祈りつつ、神様との交わりに生きることの中でこそ与えられていくのです。

主イエス・キリストは、私たちをそのような祈りに生きる者として下さるために、そして祈ることの中で山が動くという体験をさせて下さるために、十字架の死への道を歩んで下さいました。その主イエスを父なる神は復活させ、新しい永遠の命を与えて下さいました。今 も生きておられる主イエスは、私たちをご自分のもとに集め、ここに、全ての人々のための「祈りの家」を築かれるのです。教会こそが、全ての人々のための「祈りの家」です。私たちはこの祈りの家の家族として共に生きているのです。

お一人でも多くの方が主イエス・キリストの十字架で救われ神の家族として「祈りの家」に入れられます様、お祈りを致しましょう。

イエスの拒否

《賛美歌》

讃美歌187番
讃美歌217番
讃美歌332番

《聖書箇所》

旧約聖書:エゼキエル書 35章15節 (旧約聖書1,354ページ)

35:15 お前がイスラエルの家の嗣業の荒れ果てたのを喜んだように、わたしもお前に同じようにする。セイル山よ、エドムの全地よ、お前は荒れ地となる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。

新約聖書:マルコによる福音書 3章7-12節 (新約聖書65ページ)

3:7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、
3:8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。
3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
3:10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
3:12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

《説教》『イエスの拒否』

先週の礼拝では、安息日に主イエスがユダヤ人の会堂で片手の萎えた人を癒されたことが語られました。この癒しのみ業がなされた結果、ファリサイ派の人々は出て行って、ヘロデ派の人々と、どのようにして主イエスを殺そうかという相談を始めたのです。

本日はその続きです。初めに、「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた」とあります。湖とはガリラヤ湖です。主イエスと弟子たちは会堂を出てガリラヤ湖の方へと立ち去られたのです。ここは口語訳聖書では「退かれた」となっていました。その方が原文のニュアンスを伝えています。ただ立ち去ったと言うよりも、退いた、退却したのです。それはファリサイ派やヘロデ派の人々の敵意、殺意が高まっていたからでしょう。ユダヤ人の会堂はファリサイ派のホームグラウンドです。そこから逃れてガリラヤ湖の方に退却したのです。

しかし、その退いた主イエスの周りには沢山の人々が集まって来ました。すぐ後に、「ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」とあります。

ここに出てくる地名で、「ガリラヤ」とは主イエスの活動の中心地であり、ガリラヤ湖の西側、当時カナンと呼ばれていた地方の北部にあたります。それに対して続いて挙げられているる「ユダヤ」とはエルサレムより南の地方、カナンの南半分をさしています。

また、「エルサレム」とはその真ん中、古くからの都というよりユダヤ人にとっては世界の中心である都を意味していました。これらの地域は、サマリヤを除くカナンの全域であり、ユダヤ人の全居住地を意味します。

続く「イドマヤ」とはユダヤの南、ネゲブ砂漠に隣接するエドム人の地、ヘロデ大王の出身地です。

また、「ヨルダン川の向こう側」とは現在のヨルダン王国であり、当時のペレア・ギレアドなどパレスティナ東部を指します。最後の「ティルスやシドン」とは、遠く現在のレバノンの海岸地方であり、これらはユダヤ人の居住地に隣接する全ての地域を含んだ広大な地域です。

この頃の主イエスが「これほど広く人々に知られていたとは考えられない」と言われますが、多分その通りでしょう。事実、これよりかなり後の主イエスが十字架に架かられた時でさえ、ユダヤの地方総督ポンテオ・ピラトはナザレのイエスのことを何も知らなかったのですから、主イエスの活動の初期の時代、ここに記されているような広範囲に及ぶ地域の評判を得ていたとは考えられません。

ここに挙げられている地名は、初めに見たとおり、ユダヤ人が住む地域と隣接するあらゆる地域です。ガリラヤの農民や漁師たちにとって、境を接する地域が、言わば庶民たちの「全世界」でありました。ですから、マルコによる福音書が語ることは、あらゆる所から人々が集まって来たということであり、主イエスの御前に立つ者は「一定の地域の人々、限られた人々」ではなく、「全ての人間がイエス・キリストに関っている」ということなのです。ファリサイ派たちの敵意とは別に、群衆は指導者たちの意に反してナザレのイエスを追い求めて集まり、今や、誰も止めることが出来ない勢いになっていたのです。それを聖書は「あらゆるところから人々がやって来た」と述べているのです。

しかしながら、大勢の人々が集まり、主イエスを取り囲んでいますが、群衆に囲まれた主イエスに、少しの喜びもないのは何故でしょうか。むしろ、主イエスはそこから「逃れたい」と思っておられると見ざるを得ません。

私たちは、神の栄光を表すことを人生の目標としています。キリストの喜びを願って日々の生活を送っている者です。その私たちは、このような「キリストの拒否」を考えたことがあるでしょうか。もし、キリストの喜び、キリストが受け容れて下さることを願うならば、何故ここで主イエスがこのような「拒否」を示されるのかを十分に理解しなければなりません。

今、「イエスは逃れようとしている」と言いました。この部分の主題は、まさに「逃れるイエス」なのです。7節に「イエスは立ち去られた」と記されています。「立ち去る」と訳されている言葉は「危険を避けて逃げ去る」という意味でもあり、マルコ福音書で、この言葉が使われているのはここ一箇所だけです。

7節に記されている「湖の方へ立ち去られた」とは、単なる移動ではなく、カファルナウムの街なかにある会堂から「湖岸へ逃げ去って行った」ということなのです。主イエスは何故彼らに背を向けたのでしょうか。

あえて言えば、「論争からの回避」と言うべきでしょう。2章1節からここ迄、ファリサイ派との論争を主イエスは続けられましたが、その論争から何がもたらされたでしょうか。議論をして相手を改心に導くことは極めて困難なことです。議論の危険性は、自分を見失ってしまう傾向が強いということです。たとえ自分の全てをかけた真面目なものであっても、いつの間にか、その言葉が自分を離れたところで空転して、議論のための議論となってしまうことがあるのです。

私たちの議論とは、自分の持っている知識や経験をひけらかすことから始まり、果ては屁理屈と感情的な反発でどうにもならなくなることがあります。議論で敗れたからと言って、直ちに態度や主張を変える人は極く稀れであり、後には憎しみと怒りが残るだけです。こんな経験は誰にもあることでしょう。主イエスの御言葉と御業の前に敗北した結果、「殺してやる」とまで考えるようになった6節のファリサイ派の人たちの姿は、憎しみしか残らなかった自己主張で凝り固まった多弁な私たち人間の典型でありました。

主イエスが背を向けた「危険」とは、ファリサイ派の人たちの心の中に増大するそのような「新たな罪」でした。神の御子と共に居りながら自分の頑なさに囚われ、自分の立場の砕かれることに怒りを感じる人間、ただ憎しみを募らせるだけの人間、罪に囚われた人間の惨めさ。その現実を前にして、これ以上、敵意と憎しみを増大させないために、主イエスは自ら立ち去られたのです。

実り少ない議論に終始する人間に対し、主イエス御自身、遠ざかることによって、新たな罪を増し加えることをさせぬ憐れみを示されたと理解すべきでしょう。私たちも、自分の雄弁がキリストを遠ざける結果になるということを自覚すべきではないでしょうか。

9節から10節には、「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからである。」と、主イエスは群衆から逃れようとしています。「押し寄せた」ことが危険なのではありません。「触れようとした」ことが問題なのです。

人間は古くから、「神聖なものに触れると力を受ける」と信じて来ました。5章25節以下に記されている「十二年間も出血の止まらない女」が、主イエスに近づき、「密かに後ろから触った」と記されています。「服にでも触れれば癒していただける」と信じたからです。

「触れれば治るのか」などと笑ってはいけません。東京名所の浅草寺の本堂正面の大きな鉢で、香が焚かれています。その煙を身体に付ければ無病息災、手のひらで煙を掴んで悪いところへ付けています。毎日、数え切れない数の人々が煙を自分の身体に付けようと一生懸命です。

このような行為の問題点は、「煙に力があるか否か」ということではなく、触るのが「人間自らの自発的な行為である」というところにあります。立ち上る煙に奇跡を生む力があると思う人間の意志と、その力を利用しようとする人間の行為が奇跡を生むと考えられています。それ故に、人は先を争って煙に手を差し伸べるのです。不思議な力を持つ神を自分の欲求のためにのみ利用しようとする人間の姿。これが「罪」の現実であり、現在の世界の実情を雄弁に物語っていると言えましょう。

既に見たとおり、マルコは「あらゆる所から人々が集まって来た」と語っていました。そして、その人々がただ主イエスを利用するだけであるとするならば、実は、「あらゆる人々が全て罪の中にある」という決定的な告発になっているのです。ここに記されているのが全ての人間の問題であるとするならば、全ての人間はキリスト・イエスの御前で罪の姿を示していることをマルコは語っているのです。

主イエスはその人々を拒否されたのです。罪の中にある者をキリストが拒否されるということには、理解し難いものがあるかもしれません。もちろん、キリスト・イエスは、罪の中にある者を救うためにこの世に来られた方です。しかし決して、罪の行為に迎合する人間を赦されないのです。私たちは、その罪を知り、御心から離れた自己本位な姿勢が、御子キリストから徹底的に拒否されていることに目覚めなければなりません。私たちが、その自分の罪を知り、御心から離れた自己本位な姿勢から離れること、それこそが、「悔い改め」なのです。

そして、11節には、「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ。」とあります。何とそれに続く12節では「イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」とあります。

汚れた霊たちの「あなたは神の子だ」という言葉は、確かにファリサイ派の人々や群衆より正しいと言えるでしょう。

ファリサイ派は主イエスが神の子であることを認めませんでした。群衆は主イエスが神のような力を持つことしか認めませんでした。それに反し、汚れた霊ども、つまり汚れた霊に憑かれた人たちは「イエスは神の子である」と人々の前で叫んだのです。その言葉は私たちの「信仰告白」と同じです。しかしその告白を主イエスは拒否されたのです。

「厳しく戒められた」と記されていますが、「戒める」と訳されている言葉は「叱る」という意味の言葉です。「イエスは悪霊を厳しく叱りつけ、そのようなことを絶対に口にしてはならないと命じられた」という意味です。

正しい告白が、何故、拒否されるのでしょうか。主イエスは、何故、その告白を禁じたのでしょうか。

「汚れた霊」「悪霊」とは徹底的に神に敵対するものです。主イエスが神の子であるとの正しい認識を持ったとしても、その本質は変わりません。「汚れた霊に憑かれた者」とは、昔の人々の迷信ではなく、正しい知識を十分に持ちながら、また正しくその事柄を認識しながら、なお自分自身を変えようとしない人間を意味するのです。自分自身が「小さな神」となり、永遠なる神の絶対性を信じない者、神を自分の都合のためにのみ利用しようとする者、それらを「汚れた霊に憑かれた者」「悪霊に憑かれた者」と呼ぶことが出来るでしょう。

主イエス・キリストは、そのような人々との共存を拒否されるのです。「信仰告白」とは、単なる言葉ではなく、その言葉を「生きる姿で如何に表しているか」ということを問われているのです。

ここまで、主イエス・キリストが、人間の罪に対して徹底的に背を向けられることを見て来ました。私たちはこの主イエスのお姿から、罪の世界に埋没した人間の悪に対する、毅然とした姿勢を読み取らなければなりません。主イエスは人々の罪に対して、いささかの妥協もなさらないのです。如何に多くの人々が集まろうとも、ただそれだけで喜ばれることはないのです。

この日の会堂に集まった人々は、期待外れで落胆したでしょう。自分の苦しみを解決して貰えなかった人々は、かえって絶望したかもしれません。故郷ガリラヤの人々を愛する主イエスにとって、むしろ実に辛いことであったでしょう。

しかし主イエスは、この辛さに耐えて行かれたのです。いやそれどころか、むしろそれ以上に、罪に埋没している人々の姿を見ることによって、更に、十字架への道を歩むことの意味とその必然性を確信されたと言えます。

主イエス・キリストの十字架は、自己中心に生きる私たちに対する、神の正義による拒否です。そしてその拒否こそ、愛の頂点なのです。神様が喜ばれる生き方とは、キリストの断固とした拒否の中に「愛の道標(みちしるべ)」を見出し、御前に悔い改めてヘリ下ることから始まると言えましょう。

お祈りを致します。

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主は羊飼い

講壇交換礼拝説教

聖書:エゼキエル3411-16節, マタイ93538

 本日は東日本連合長老会の講壇交換の行事によって、清瀬信愛教会に伺い、説教の務めを致します私は、成宗教会の主任担任教師で並木せつ子と申します。清瀬信愛教会には、東日本の長老会議や研修会、婦人会クリスマスの行事で、私も成宗教会の長老たちも何度も伺う機会に恵まれました。一方、成宗教会には、竹前先生を除いては長老信徒の方々にはほとんどいらしていただいたことはないと思います。2013年に東日本に加盟して以来、東日本の諸教会には、お世話になっておりますが、特に竹前先生が東日本の議長を務められ、また私は辞任しますのでその後任人事をお願いし、ご指導いただいたことを感謝申し上げます。

成宗教会は東日本に加盟する前は、日本キリスト教団の多くの教会と同じように、取りあえず自分の教会のことだけを考えて伝道牧会を行って来ました。それは、一つには自分の教会のことだけで手一杯と思っていたからです。また、近隣の教会がどんな様子なのか分からないということもあり、よく分からない他所の教会と交流することに不安があったからだと思います。しかし、現実には自分の教会だけで、教会が成り立っているはずはなかったのです。一方では教会に集まる信者が実に様々なルーツを持っていること。そして、他方では、成宗で育った人々がどこかへ行って、長い間には消息不明になっていること。そして、このことが一番大切なことですが、教会をお立てになった主イエス・キリストはお一人で、全世界に一つの信仰共同体をお立てになることが、主の御心なのだ、ということです。

この当然の道筋を教会の人々と分かち合って、東日本連合長老会に加盟申請し、成宗教会は東日本という地域教会の一員とさせていただきました。すると、いわば今までは他の教会のことには目を閉じ、耳を塞いでいたような小さな教会にも、いろいろな学びができるようになりました。その中で何と言っても重要なものは、日本の少子化、高齢化の中を歩む教会です。私は17年間成宗を牧会してきましたが、赴任してから15年間は高齢化と言われながらも、礼拝出席者数は23~26人で安定していました。ところが70歳になるときに辞任しようと考えた2年前あたりから、出席者数は急激に減ってきて、今は15人前後になっています。わたしたちの教会はとても小さい群れですが、この傾向はどうやら大きな教会にも言えることだということも分かりました。たとえば200人規模の教会が100人近くに減少、100人規模が50人近くに減少していると聞くとき、これは、本当に日本社会全体の傾向を映し出しているのではないか、と思わざるを得ませんでした。

しかし、今度はこの激減の内容を少し考えてみる必要があります。私は私の牧会している成宗に関することしか、確かなことは言えませんが、それでは激減した教会員はどうなったのか、ということを申しますと、例えば皆、召天したので地上に礼拝を守れなくなったということではありません。中には東京を去ってしまった。音信を断ってしまった人もいますけれど、大部分は教会と交わりを持っています。ではなぜ礼拝に出席しないのでしょうか。働き盛りの世代について(少数ですが)言えば、礼拝のある日曜日に仕事がある職業についている人がいます。介護の仕事、養護の仕事を始め、日曜日もなかなか休めない職業は少なくないと思います。もう一つの理由は、親子、夫婦で別々の教会に所属していることです。親元の教会。職場に近い教会、配偶者の教会、子供の通う教会など、いろいろあり、一つの教会に籍があるからと言っても、実際には籍がある教会を中心に考えることができないようです。その時々の都合であっちに行ったりこっちに行ったりしているうちに、自分の所属する教会、という意識が薄れることも考えられます。

以上は、若い世代の例ですが、他の大部分は高齢化のために出席できない方々です。教会の礼拝に来会する人々を見て、少なくなったなあと思う私たちですが、目に見えて足を運んで来られる人だけが教会員なのではないことを私たちは知っています。50代までは、60代でも、元気に電車やバスを乗り継いで礼拝に来ていました。しかし、70代、80代。何か病気になる。あるいは転倒して怪我をします。入院をしている間は礼拝に来られませんが、治っても、リハビリによって元の状態に戻るまでは、礼拝は無理になります。そういう訳で礼拝出席者は減少する傾向は当然のことです。

それでは、礼拝出席が出来なくなっている人々は、信者としていなくなったのでしょうか。そんなことはありません。特に高齢の教会員については、そんなことはありません。わたしたちが高齢になっても、主がお招きになり、地上の生涯を終わらせる日が来るまでは、高齢の教会員は目の前に現れなくても、わたしたちは地上の教会の会員なのです。このことを、わたしたちは重く受け止めなければならないと思います。

預言者エゼキエルは神さまの御心を次のように告げ知らせました。34章11節。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と。地上で弱り果てている人々を見ました。なぜ彼らは弱り果ててしまったのでしょうか。様々な理由、様々な事情があったでしょう。彼らの指導者、彼らを羊として世話をすべき羊飼いは、自分の務めを怠っていた。エゼキエルの時代には、それは王様であり、宗教指導者である祭司であったでしょう。

イエスさまの時代にもそうでありました。イエスさまは、人々が飼う者がいない羊の群れのように弱り果て、打ちひしがれているのをご覧になったと言われます。パレスチナはローマ帝国の支配下にあり、属国でありましたが、ヘロデ王が支配していました。人々はまた、祭司、律法学者の宗教的指導を受けていました。形のうえでは彼ら羊には羊飼いがいたはずです。しかし、いつの時代にも羊飼いはその群れを支配していてもその群れを養わないということが度々起こりました。彼ら自分たちの利益を追い求めるばかりで、羊を飼う務めには怠慢であり、貧困や、病気や様々な困難のために弱っている者たちのことに配慮しませんでした。その結果、人々は牧者のいない羊同然になっていました。

エゼキエル34章16節。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす〔見張る〕。わたしは公平をもって彼らを養う。」ここに神さまの指し示す真の羊飼いの姿が現されています。エゼキエルをはじめ多くの預言者たちが、世に告げ知らせ、祈り求めた真の神の御心、真の羊飼いは2000年前、人となって世に来てくださいました。マタイ9章35節。「イエスさまは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされ」ました。イエスさまは「また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」たのです。

真の羊飼い、人となられた神の御心は、弱り果て、打ちひしがれている羊を深く顧みられ、ご自分のことのように憐れんでくださるのです。飼う者のいない羊を自ら集め、養うために、また大きな困難の中にある人々を牧会するために、イエス・キリストは御自分を捨てて身をささげてくださいました。

良い羊飼いは羊のために命を捨てる、と言われた通り、わたしたちの救いのために十字架につかれ、その血を以てわたしたちを罪から解放してくださったのです。こうしてイエスさまは一つの羊の群れ、一つの教会を建てられ、ご自分の体としてくださいました。イエスさまが復活させられ、生きておられる。だから、主と結ばれたわたしたちも生きる者となったのです。どうか、わたしたちが片時もこのことを忘れずに、主と結ばれている自分自身を大切なものとすることができますように。

弱り果てている者、打ちひしがれている者を、主は憐れんでおられる。なぜでしょうか。わたしたちは、神さまの御国を宣べ伝えられたイエス・キリストの福音を信じて教会の中に招かれた者です。神さまの子とされた者です。だから主は信者となった人々を、ご自分の体の一部となった人々を、だれよりも憐れんでおられるのではないでしょうか。そればかりではありません。何とイエスさまは弟子たちにも言われるのです。あなたがたも行きなさいと。行ってわたしがしたように福音を宣べ伝え、神の国を証ししなさいと。

神さまは教会に様々な賜物を与えられました。新約聖書の手紙の文書でも使徒や預言者、福音宣教者、牧者、教師などという分類が語られています。教会には職制が与えられ、わたしたちは長老会を組織し、教師を立てて伝道牧会を行っています。また教師を立てるために、教師を養成する神学校を建てます。私も教会に仕えるために学び必要な資格を得て、主任担任教師として伝道牧会に当たりました。私は年取ってから献身したので、17年の働きしかできませんでしたが、この年月を経て心から思うことは、「羊飼いの務めは個人に与えられているのではない」ということでした。主は真の羊飼いです。主はこの務めを個人にではなく、教会に与えておられるので、教会は人々を教育してある者を牧師に立てているということだと実感します。

私は教会に赴任してからも日々多くのことを教えられました。神学校を出てからも大学の先生方にも指導を受けたということもありますが、決してそればかりではありません。教会の人々の背後に働く聖霊がおられたので、私は人々を通して教えられたのです。沢山の困難、沢山の失敗もございました。思いがけない慰め、思ってもみなかったところからの助けもございました。一つ一つの出来事、一人一人の言葉の背後に聖霊の厳しい、そして慰めに満ちた教育を感じたのです。

特に祈りのことを教えられる日常の出来事があります。教会で今まで共に礼拝を守っていた人々が病気になる、入院する、施設に入る。徐々に礼拝を守る人々の中から姿が消えて行きます。しかしその後も、私たちはそうした信者の一人一人と、どんなに多くの対話をしたことでしょう。手紙や電話や、メール。それは喋りたいだけ喋っていて、下らない話も交えていた時とは全く違う対話になります。信者の一人一人は親戚、家族ではないし、詳しい事情は分からないことが沢山あります。分からないままに地上を去ることも多いのです。しかし、不思議にもどんな親戚より、知人より親しく、懐かしく思われます。それは私たちが主に結ばれて一つだからに違いありません。「礼拝に行きたいのに・・・」という声。「礼拝の時間を覚えて祈ります」という信者の方々の言葉が、閑散とした礼拝堂にいても心に聞こえます。

この信者の人々が、たとえどんなにさ迷った人生であっても、地上の生涯を教会に結ばれて終えることができるように。あの人は魂に勝利の確信を得て天に召されて行った、とわたしたちが思うとき、地上の教会には大きな慰めがあります。その時、わたしたちはたとえどんなに弱り果てた者でも、主は御自分を頼る者を深く憐れみ、その人を主の教会の生きた部分として、神の栄光を証しさせてくださったことを知るでしょう。そのようにしてわたしたちが地上にある限り、主の羊の群れとして留まり、飼う者のない羊となってしまわないために、教会はどんなことができるのだろうか、と思います。主は言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

イエスさまは弟子たちに言われます。「収穫は多いのだ」と。真の羊飼いの群れに入りたい、養われたい人々は沢山いるはずではないでしょうか。主は言われます。「働き人は少ない」と。そうです。本当の働き人の資格は、地位ではありません。名誉ではありません。能力でも、健康でもないのです。本当の働き人は、心から主を信頼し、謙って主に従う人です。主はそのような働き人に聖霊を送ってくださるのです。ですから、主はわたしたちを祈りへと導いてくださる、何よりもまず教会のために、その群れの人々のために祈りなさいと導いてくださるのではないでしょうか。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

本日の礼拝を感謝します。東日本連合長老会に与えられたあなたの恵みによってわたしたちは礼拝を守りました。どうぞあなたの恵みが、清瀬信愛教会の竹前牧師、長老会、信徒の方々の上に注がれますように。あなたの愛するこの地に在って伝道し、また病院の働きと共に、ここにおられる方々と共に歩む教会に、特別に与えられた尊き使命を果たすことができますように。「弱い時にこそ、わたしは強い」と証しした聖書のみ言葉を思います。弱い人々のために労苦を惜しまなかった主イエスさまの愛に、絶えず励まされる教会となりますように。この教会の喜びと悩みを聖霊の主が、いつも共にして慰めと励ましで満たしてくださいますように祈ります。

心から感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

奪ってはならない

聖書:エゼキエル459節, エフェソの信徒への手紙425節-51

 昨日、ポストに宗教の宣伝ビラが入っていました。ハローウィーンの季節を意識してか、おどろおどろしい夏のお化けのようなイラストで各宗教を説明していました。それは仏教系の新興宗教なので、仏教以外は皆ダメだと書いてあり、特にキリスト教に至っては、「神に見捨てられた人を拝んでいる」人々がいるなんて全く信じられない弱い宗教だと総括していました。思わず微笑んだのは、これとまったく同じ感想が、古代ローマ帝国時代の人々に聞かれたということを、東北学院大学の松本宣郎学長の講演で聞いたことがあるからです。

日本社会は只今、かつて経験したことのない少子高齢化社会であり、また世界的にはIT革命の時代であります。人の仕事がITに奪われると危機感を持ち、まるで人間の価値が仕事で決まるかのように騒ぎ立てる時代に、わたしたちは呆然としてしまうかもしれません。しかし、どんな時代にも教会は信仰を受け継いで来ました。今とは異なる危機ではありますが、今より軽い患難では決してない、危機の時代を生きて、教会は旅を続けております。わたしたちは「弱いときにこそ強い」というみ言葉(Ⅱコリ12章10節)を与えられています。なぜなら、イエス・キリストがわたしたちの弱さをすべて身に受けて、弱さの極みを御自分のものとし、反対に神の強さをわたしたちに与えてくださったからです。わたしたちはこの方を救い主と信じ、自分の罪を告白して、キリストに結ばれるものとなりました。

わたしたちはキリストに結ばれ、キリストの体の教会の部分となっています。イエスさまは言われました。(ヨハネ15:4…198頁)「わたしに繋がっていなさい。わたしもあなたがたに繋がっている」と。またこうも言われます。「人がわたしに繋がっており、わたしもその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ(ヨハネ15:5)」と。わたしたちはどのようにして教会の肢となるのでしょう。それは洗礼を受けて肢となるのです。ではどのようにして教会の肢として、イエス・キリストに繋がっていることができるのでしょう。それは、礼拝を捧げ、神の言葉によって養われることによってつながっているのです。

さて、イエスさまに結ばれた者は、罪赦され救われていることを、どのように感謝したら良いでしょうか。これがわたしたちの大きなテーマです。今日まで学んで来た 十戒 も、この大きなテーマの中で学んでいます。すなわち、わたしたちが暮らす一日一日は感謝の生活であるはずだからです。今日は十戒の第八番目です。第八戒とは何でしょうか。それは、「あなたは、ぬすんではならない」です。世の中の犯罪の中で最も多いのは、窃盗、ひったくり、そして万引きだそうです。盗むというとそういうことを思い出しますので、わたしは盗んでない。だからわたしには関係ない、と思うかもしれません。

しかし、この戒めは単に物を盗むことだけを言っているのでしょうか。決してそうではないのです。この戒めも第六戒の「殺してはならない」や、第七戒の「姦淫してはならない」と同様に、人と人との関係を破壊するに至る重大な罪を指しているのです。盗みの非常に深刻な一例は誘拐であります。誘拐はすなわち人間を盗むことです。古代社会では労働力を確保するために誘拐が頻繁に行われました。先週取り上げました創世記のヨセフ物語でも、悪意ある兄たちは、穴に入れられたヨセフを、売ろうか、どうしようかと相談しているうちに、商人の一行が来て、穴の中の子供を勝手に引き上げ、奴隷として売るために連れ去ったことが語られています。このことからも、誘拐が珍しくなかったことが分かるのです。しかし、自分の身にそういうことが起こることを少しでも想像すれば、誰にでも分かることですが、自分の人生が誰かの手に握られるのは、失われたも同然であります。そして、誘拐された家族の生活も破壊されます。

本日の旧約聖書はエゼキエル45章9節を読んでいただきました。「主なる神はこう言われる。イスラエルの君主たちよ、もう十分だ。不法と強奪をやめよ。正義と恵みの業を行い、わが民を追い立てることをやめよと、主なる神は言われる。」ここでは誘拐という盗みとはまた異なった盗みについて、預言者の言葉が語られます。大国との戦争に破れたイスラエルの人々は奴隷の民となってバビロンに引いて行かれ、異国で敗戦の民の憂き目を味わいました。ペルシャ王クロスの時代から祖国への帰還ができるようになったのですが、依然としてイスラエルは外国の支配を受ける属国でありました。その属国を支配する者は同じ神の民、イスラエルでありながら、上に立つ者が権力を奮い、貧しい人々を苦しめ、搾取したのです。彼らはどうやってそれをしたのか。貧しい人々から盗んでいるとは、全く思いません。支配者たちは自分たちの都合の良い方法で、お金を貸し、作物の種を貸し、土地を耕させるからです。しかし、農耕民は借金が返せなくなると、先祖からの嗣業の土地を手放さざるを得なくなる。また、土地ばかりか、子供たちさえ売らなければならない。最後には自分自身さえも、借金の抵当として取られてしまう。こうして真に深刻な共同体の破壊が起こりました。

このようなことが起こらないように、村の人々を守り、町の人々を守ることこそ、上に立つ指導者、権力者の務めであったはずです。エゼキエル書の預言者は叫びます。正義と恵みの業を行えと。そのためには、正しい度量衡を施行することも、支配者の責任でありました。申命記25章13-16節には次のように言われます。「あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升をおいてはならない。あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができるが、このようなことをし、不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。」320頁上。ところが法に違反して、二種類の升、二種類の重りを使い分けて、不正な取引が実際行われ、その結果は貧富の差の著しい拡大となりました。

盗んではならないという戒めが指し示すものは、わたしたちの生きる社会、世界でも全く同じではないでしょうか。イエスさまの許に来た金持ちの青年がいました。マタイ19章16節です。彼は尋ねます。「永遠の命を得るには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」イエスさまは十戒によってお答えになりました。「殺すな、姦淫するな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい」と。青年はこともなげに答えました。「そういうことはみな守ってきました」と。それほど簡単に答えられることの方が不思議です。しかし彼は、「持ち物を売り払って貧しい人々に施しなさい」と勧められると、悲しみながら去っていきました。盗んではならないという戒めの意味の深さ、大きさを彼は思いめぐらすことができなかったのでしょう。今日の世界中の貧富の差を考えると、そしてますますそれが開いて行くということを知らされると、本当に深刻なことではないでしょうか。キリストの体に結ばれているわたしたちは、ただ主を仰ぐより他はありません。

今日読んでいただいた新約聖書は、エフェソの信徒への手紙4章25節からです。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」わたしたちは神さまが人間を神の形にお造りになったと教えられました。ところが、神さまに背いて以来、神の似姿を失ってしまいました。イエスさまは真の神の子であられますが、人間を救うために背きの罪を贖ってくださいました。わたしたちは真の神の子と結ばれて、神さまが最初に人間にお与えになった神の形を回復させていただいたのであります。そこで神の形と言われる人間になるとは、どんな風になることなのでしょうか。

それは神さまの似姿ですから、神さまに似たものとなることです。神さまは真実な方ですから、わたしたちもまた偽りを捨て、真実を語ることを目指します。クリスマスが近づくと聖書に読まれる祭司ザカリヤはこう歌いました。ルカ1章74節。102頁。「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」これは「わたしたちは清く神さまに仕えたい」という目標です。そして「正しく隣人と仕え合いたい」という目標です。しかし、これはわたしたちの力でできることではありません。ただ教会の主イエスさまに結ばれているからできる希望があるのです。26節。

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」カルヴァンは怒りの三段階ということを言いました。第一は、自分の一身に関わる不正、過ちに動揺して腹を立てることです。第二段階は、ひとたび動揺すると度を越して激しい怒りに走ってしまうことです。第三段階になると、自分に対して向けるべき怒りを兄弟たちに向けるようになります。いわゆる八つ当たりで、自他ともに思い当たることではないでしょうか。パウロが勧めているのは、罪を犯さないように怒りなさいということです。そのためには怒りの原因を他人よりも自分の中に求めなければなりません。また怒ることがあっても、いつまでも怒り続けることのないように努力しなさいと勧めています。

ところで、皆様は思うかもしれません。今日の第八の戒めと怒りとは関係がないのではないかと。これまで盗んではいけないのは、物だけではないことを学んで来ました。人そのものを盗んではならないのです。そうだとすれば、人の心にあるものも盗んだり、奪ったりしてはならないのです。パワハラで奪われるものは心の平安ではないでしょうか。八つ当たりされる家族は、落ち着いていられません。小さい者、弱い者ほど、激しく盗まれるのではないでしょうか。27節。

「悪魔にすきを与えてはなりません。」怒りに身を任せている人はサタンに心が占領されているのです。また、それがいつまでも根深い恨みとなって心に残れば、それは癒しがたい病となるでしょう。28節。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」くり返して申しますが、盗みを働いていた者とは、泥棒家業の人ではありません。ここでは、人間の裁きでは見逃されてしまうような、隠れた盗みのことを言っているのです。つまり、他人の利益を自分の方に引っ張って来るあらゆる種類の横領を含めて考えています。オレオレ詐欺は実に巧妙ですが、人から名誉を盗む、評判を盗む、人のことを巧みにけなしたり、持ち上げたりして自分の利益になるようにもって行く人は、自分でも盗みを働いているとは、全く気付かない。そこにわたしたちの隠れた罪があります。

しかし、わたしたちは、ただ神の言葉によって過ちが正され、悔い改めに至るように、聖霊の助けを絶えず願いましょう。教会の肢であるわたしたちには高い目標が与えられています。これまで他人の利益を密かに奪うようなことをして来たとしても、これからはだれにも害を及ぼさないように働くという目標です。それは、ただ単に自分を養うだけのものを得るために働くだけではなく、他の人々を助けることができるようにならねばならないという高い目標です。自分だけのために生きることを考えるのでなく、互いの必要に役立つように努力する。これこそがキリストが与える愛の目標なのです。

わたしはもう年取って何の役にも立たないと、言いたくなる気持ちはよく分かります。しかし、それもまた、人間の側の身勝手な判断ではないでしょうか。だれが役に立つのでしょうか。だれが役に立たないというのでしょうか。わたしたちが役に立つのはキリストに結ばれているからです。もし人が、わたしに繋がっているならば、その人は豊かに実を結ぶと主は言われたではありませんか。「生きている限り清く正しく」と歌うザカリヤの言葉は真実です。わたしたちの判断によってではなく、ただ主の恵みによって、わたしたちは第八の戒めを守る者とされるでしょう。

カテキズム問48 第八戒は何ですか。その答は、「あなたは、ぬすんではならない」です。神さまは、わたしたちに必要なものをすべて与えてくださいます。しかし、自分に与えられたものを恵みと理解せずに、むしろ不満に思って、人に与えられている神さまからの恵みを奪うことが禁じられています。」祈ります。

 

主なる父なる神さま

今、わたしたちは、必要なものはすべて豊かにあなたから与えられていることを、教えられました。真に感謝です。わたしたちの救いのために、御子をも惜しまず、すべてのことを成し遂げてくださったことに、あなたの豊かさを知る者でありますように。そして讃美礼拝する者となりますように。

わたしたちを主の体の教会に連なる者としてくださったこの計り知れない恵みを感謝します。わたしたちはこの群れに在って、互いの安否を尋ね合い、互いの喜びを喜びとし、互いの悲しみを悲しみとして、キリストの体にふさわしい教会となりますように。どうか御言葉を以てわたしたちを養い、守り、教会を建ててください。成宗教会は連合長老会に加盟し、5年が経ちました。東日本の諸教会との交わりを感謝します。また更に大きな教会の交わりを与えられ、共に助け合って、教会形成をする道が開かれますように。

目に見える教会の行事の一つ一つを顧みて、福音伝道にふさわしく整えてください。働く者が足りないと思っているわたしたちですが、あなたがいつも必要を満たしてくださいました。特に来週行われるバザーの行事、事故無く怪我無く、あなたの御旨のままに良き交わりの時が与えられますように。奉仕する者、参加する者を祝福してください。また今、ご健康を害しておられる方、いろいろな悩みの中にある方、遠くにいて教会を覚えている方々を顧み、共に主に在って一つの群れとしてください。

成宗教会は、主の恵みの下に、東日本連合長老会の指導を受けて牧師後任の人事に取り組んでいます。そのすべての上にあなたの御心が成りますように。 すべてを感謝し、御手に委ねます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖霊を信じる

聖書:エゼキエル36章25-32節, ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節

 わたしたちはキリスト教徒と呼ばれておりますが、わたしたちが礼拝する神様は、父と呼ばれる神、御子と呼ばれる神、そして聖霊と呼ばれる神であられる方です。三つの位格を持つ一人なる三位一体の神に対して、教会は信仰を言い表しております。その中で最も親しく、知られているのは御子と呼ばれるキリストでしょう。この方は地上に来てくださった方。人として生まれてくださったので、わたしたちはこの方が人々に何を教え、何を行ってくださったかを知ることが出来ました。そして父と呼ばれる神について、説き明かしてくださったのはイエス・キリストであります。

「わたしを見た者は父を見たのである」とキリストはおっしゃいました。そこでわたしたちは天にはキリストの御父がおられることを知りました。そして天の父が愛する御子を地上にお遣わしになったその目的も知りました。それは世にあるわたしたちの救いのため。世に在り、世の罪にまみれて生きることしかできないわたしたちの救いのためです。御子であるキリストは、造り主であられる神様から遠く離れてしまったわたしたちの罪を贖ってくださいました。神様はわたしたちをキリストの死に結び付けられて、罪に死んでキリストの命に生きる者に、御子と共に神の子と呼ばれるようにしてくださったのです。

しかし、聖霊という神のお名前については、わたしたちはどれだけ理解しているでしょうか。教会を知らない方々に、どれだけ適切な説明ができるでしょうか。真に心もとないのではないでしょうか。先週20年以上前のオウム真理教の幹部だった人々の死刑が執行されたとのニュースが流れました。20世紀末のあの頃、世界的にも奇妙なというか奇怪な新興宗教についての報道が多かったように思いますが、宗教法人の団体が非常に凶悪な犯罪を起こしたことの影響は大変深いものがあります。「宗教は怖いものだ」という考えが社会に広がったからです。私が赴任した頃は成宗教会の礼拝にも、手を上げてかざすなどの行為を伴った宗教の青年が来ました。私の家にもやって来て、彼が言った言葉は「わたしは霊に導かれて来ました」というものでした。

日本の教会では伝統的に神の霊を御霊と呼び、また聖霊とも呼んで来たのですが、このような新興宗教団体による凶悪事件以後は、聖霊というと、幽霊を思い出すばかりでなく、悪霊の類と何もかも一緒くたにされる傾向がますます強まって来たので、教会は大きな試練を受けて来たと思います。しかし、わたしたちは悪に負けることなく、代々の教会が受け継いで来た信仰を言い表すのですから、聖霊と呼ばれる神についても聖書によって、神御自身の説き明かしをいただきたいと願います。

本日取り上げた新約聖書ガラテヤの信徒への手紙5章16節です。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」ガラテヤの教会の中には深刻な意見の対立があったようです。それはコリント教会での対立とは異なる性質のものでした。コリントの教会では人々は、キリストの福音を宣べ伝えられたのに、キリストの福音ではなく、それを宣べ伝えた人に心惹かれ、こだわって、「わたしはパウロ先生につく」、「いや、わたしはアポロ先生につく」と言って分派が出来たということがありました。どこでも起こりそうな問題です。

ガラテヤ教会の方はもっと深刻であったようです。なぜならキリストの福音そのものが否定されかねないことが、教会の中で論争となったからです。わたしたちも改めて耳を傾けなければならないことですが、キリストの福音は、ただ神の恵みによる救いを宣べ伝えるのです。キリストが世の罪を贖うために来てくださったということは、すなわちわたしたちはだれも自分で自分の罪を贖うことが出来ないからに他なりません。そして、実際ユダヤ教から多くの人々がこの福音を信じて従う者となりました。

ところが彼らの中から、律法を守って救われるというユダヤ教の教えを、キリストの体である教会の中で広めようとする人々が現れたのです。教会はキリストの体であります。わたしたちは行いを正しくして救われることはできない罪人であることを認めたのです。ただキリストに結ばれるならば、キリストの死によってわたしたちの罪も死んだとされ、ただキリストの正しさによってわたしたちも正しい者とされると信じたのであります。それが、あろうことか、また自分の正しい行いがなければ救われないという教えに逆戻りしようとしているとは、どうしたことでしょう。そこで、教会の中に深刻な対立が起こりました。同じ一つの体の部分であるわたしたちを想像して見てください。目と足が対立して、どっちかを徹底的にやっつけようと陰謀を企てるなどということはあり得ない。正気の沙汰ではありません。しかし実際そんなことが起こっているなら、どちらが勝手も負けても、体全体にとっては悲劇ではないでしょうか。そんなことになる前に手を打たなければなりません。

それではどのような手を打つのか。それは、人間的な教えによってではありません。人間的な力によってでもありません。教会はキリストの体ですから。パウロは勧めています。「霊の導きに従って歩みなさい。」この霊はキリストの霊であり、父なる神の霊であります。

地上にいらしたイエスさまが弟子たちに約束された聖霊です。ルカ24章49節にこう言われました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」162上。

わたしたちはキリストの死と結ばれて罪赦され、イエスさまが弟子たちに教えられたように、神を見上げて「天の父よ」と呼びかけ、祈ることが出来る幸いな者となりました。しかし、神の子とされた後もわたしたちは肉体をもって地上に生きている限り、地上の性質であるいろいろな誘惑、欲望、様々な悪徳にさらされており、それらと無縁で生きることはできません。しかしだからと言って、わたしたちは完全に地上的なものの奴隷となり、これに支配され、溺れてしまうばかりではなく、何とか抵抗しようと努めるのではないでしょうか。また、たとえ人々の目から見ると、素晴らしく敬虔な、聖霊に満たされているように見える人であっても、この世的な欲望から全く解放されているとか、誘惑を受けないということはないのです。

ですから聖書がわたしたちに例外なく勧めていることは、怒りやすいとか、愚痴が多いとか、だらしないとか、お酒にはまるとか、数え上げればきりがないのですが、自分の元々の性質に支配されるままにすることなく、断固としてそれに抵抗して、聖霊の神の御支配にわたしたち自身を委ねることを願うことです。17節です。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」

わたしたちはキリストに従う決心をして洗礼を受けたのです。それは聖霊の導きによって生きることにほかなりません。それがわたしたちの教会の肢であるわたしたちの願いでした。ですから自分が本当にしたいと思っているのは、聖霊の望むところなのです。実際はなかなかそれが出来ていない。なぜでしょうか。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。これは私には身に染みて分かる言葉です。

私は本当に物事を始めるのが遅い人間でしたから、起きていればなかなか寝ようとしない。朝になるとなかなか起きられない。それは本当にひどくて起きなくてよいならこのまま死んでも構わない…と思いながら寝ていました。後から考えるとひどい低血圧のせいだったかもしれませんが、今でも取り掛かるまでにひどく時間がかかります。なぜ、こんな人間を主は献身させたのだろうか、と思うのですが、今ははっきりとその答が分かります。主は人間が自分の努力で、能力で出来たと思わせないためです。ただ神の助けによって、恵みによって出来たと証しして、神の栄光を讃えるためです。

そういうわけで、使徒パウロはわたしたちに、自分の肉的な性質と戦うことなく、キリストに従って生きることはできないことを教えて、これから先も困難な闘いに備えるよう励ましているのです。実に人間性全体が、神の聖霊に対して頑固に反逆しているのだから、聖霊に従うためには日々このことを意識し、祈り、労苦して戦わなければなりません。しかしその次にパウロは、信仰者がこれからの戦いを思って、勇気を失うようなことにならないために慰めを与えています。18節。「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下もとにはいません。」

「律法の下にいる」というのは、たとえ100の中、99%のことが正しく出来たとしても1パーセントの間違いがあれば、厳しく追及されるということです。それに対して、「律法の下にはいない」という言葉の意味は、たとえ、わたしたちにまだ欠けている点があるにしても、それについてその責任を負わされず、その一方で、わたしたちの奉仕は、まるで完全に十分になされているかのように、神に祝福されているという結果になるのです。なぜなら、わたしたちはキリストに結ばれており、キリストは昔も今も後もわたしたちの罪の赦しのために執り成しの祈りを捧げてくださるからです。

さて、19~21節にはいわゆる悪徳表が並べられています。クリスチャンの生活の目標は聖霊に従い、その導きに逆らうわたしたちの性質に抵抗するために、具体的な目標を掲げて簡潔に示しています。イエスさまは人々に教えられました。マタイ7章17-18節。12上。「全て良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」と。真に、木はその実によって明らかに知られるものです。人はその結ぶ実が明らかになるまで、偽善者となっているので、実は自分が汚れた者と愚かな者であったことを認めることがなかなかできないのです。

これらの項目を一つ一つ説明は致しませんが、姦淫と偶像礼拝は大変近い関係にあることを知っていただきたいと思います。神に対する信仰も結婚の関係も誠実、忠実を前提としているからです。また聖書によっては汚れという言葉が出てきます。これは道徳的な不潔、不貞を表しています。わたしたちは魔術も悪徳の中に入っていることに注目したいと思います。世界中の子供たちにクリスマスシューボックスを送ろうというキリスト教団体の取り組みがありますが、靴箱サイズの箱の中に玩具や絵本などを入れて送るのです。その内容に、送ってはいけないものの項目がありました。戦争関連の武器、裸の女の子の人形などの他に、魔法の本も、入っているのが印象的でした。魔法や、占いなどの中に自分の願いを投影することも、聖霊の導きから遠ざかることだと思いました。

そして「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」とは、大変身近なところにあるのではないでしょうか。このような実を結ばないようにすることは、教会に結ばれているわたしたちの真剣な目標なのです。パウロの警告です。「このようなことを行う者は神の国を受け継ぐことはできません。」

さてそれに対して聖霊の結ぶ実について明らかにしましょう。それは、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」特に寛容について申しますと、寛容とは、longsuffering(辛抱強い、長く耐え忍ぶ),精神の柔和さであります。キリストのご性質そのものではないでしょうか。これらすべての徳は、聖霊によって与えられるものです。聖霊の導きによって神とキリストがわたしたちを新たに造り変えてくださるのです。「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」と勧められています。わたしたちはもはや自分自身に生きないために、キリストの死との交わりにつながれたのです。それは、人間の側の働きではなく、神の恵みによることであると信じます。

本日は聖霊を信じる教会の信仰について学びました。「わたしは聖霊を信じます」とは、どういうことでしょうか。それは、父と子と共に聖霊をあがめ、礼拝するということです。そして神さまに愛された人生を生き、イエス・キリストに救われた感謝と喜びの生活を送ることができるということです。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

本日の礼拝も、あなたの御前に祝福をいただいて捧げることが出来ました。心から感謝申し上げます。あなたはわたしたちの弱さにも、愚かさにもかかわらず、聖霊をお遣わしになり、わたしたちを愛し続け、忍耐し続けて今日まで守り導いてくださいました。わたしたちの教会の小さな歩みの中に、共に歩んだ方々をあなたはすべてご存知です。洗礼によって明らかにしてくださった救いの約束を、どうか最後まで全うしてください。わたしたちは与えられた恵みを思い起こし、これから歩む道のりをも導いてくださるあなたの御手を信じて委ねます。

多くの教会が全国に全世界に在って、労苦しながら福音を宣べ伝えキリストの体である教会を建てようとしています。その困難と喜びを共にしてくださるあなたの聖霊の導きを感謝します。特に想像を絶する水害に見舞われた地域の教会を強くし、被災者と共に支えてください。そしてわたしたちもその苦しみを思い共に祈る者とならせてください。あなたの御子イエス・キリストに結ばれているわたしたちが、教会に良い実を結ぶものとなりますようにわたしたちの生活を整えてください。人間的なものがほめたたえられることなく、ただキリストによって救いを齎したあなたの御名こそがほめたたえられますように。

多くの兄弟姉妹が高齢となり、病にあり、労苦しております。地上の歩みを終わるその日まで、そのご家族と共にお世話をする方々と共に恵みと平安を施してください。今週も成宗教会に連なる方々に、主の恵みのお導きを祈ります。また、この国に、この地域にある人々に御言葉を宣べ伝えるために労苦する連合長老会、日本基督教団の尊い務めを祝してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。