主日礼拝
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌11番
讃美歌234A番
讃美歌452番
《聖書箇所》
旧約聖書:ゼカリア書 9篇9節 (旧約聖書1,489ページ)
9:9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。
新約聖書:マルコによる福音書 11章1-11節 (新約聖書83ページ)
11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
11:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
11:4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
11:5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
11:6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
11:7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
11:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。
11:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
《説教》『主を迎える』
マルコによる福音書は四つの福音書の中で最も短く16章しかありません。今日から、その11章に入るわけですが、この11章から最後の16章にかけて記されているのは、主イエス・キリス トのご生涯の最後の一週間のことです。本日の聖書箇所には主イエスがエルサレムにお入りになったことが語られていますが、それは週の初めの日、日曜日のことだと考えられています。その日から始まる一週間の内に、主イエスは捕えられ、死刑の判決を受け、金曜日に十字架につけられて殺されるのです。そのことが15章まで語られており、最後の16章は、次の日曜日の朝の復活のことです。エルサレムに入ることから始まり、逮捕、裁判、十字架の死、そして埋葬に至るこの最後の一週間のことを「受難週」と呼びます。今日の11章はその受難週の始まりであり、マルコ福音書は、この一週間のことを語るのに全体の三分の一以上の分量を用いているのです。これまで読んできた、主イエスの教えや御業を語ってきた部分は、受難のことを語るための序文だった、ということです。私たちは本日から、マルコ福音書の最も大切な中心部分に 入って行くのです。
主イエスはいよいよ、ユダヤ人の信仰の中心地であるエルサレムに来られました。主イエスがエルサレムに到着なさったというのは特別な出来事です。マルコも これを特別なこととして語っています。
マルコ福音書が書かれた時代(紀元60年代)、教会は未だ小さなものでした。社会的な保護どころか、ユダヤ人社会からの批判を避けて地下墓地の片隅や屋根裏部屋などで密かに集会を行い、ローマ帝国の圧力を避けつつ、信仰を守り続ける極めて小さな群れでした。
さらローマ帝国のユダヤ迫害も強まり、ローマ帝国に対する絶望的な反抗であるユダヤ戦争によって、エルサレムは紀元70年の神殿崩壊に直面していました。ペトロやヤコブを初めとする使徒たちも次々と世を去り、教会が新しい世代の人々に託されて行く時代に、「この苦難の中でキリスト者が生き残る唯一の武器はこれである」と書かれたのが、マルコによる福音書でした。
マルコは、イエスの最後の一週間を、「キリストに従う者に勝利を保証するもの」として語っていることは、言うまでもありません。聖書が語ることは、この世から逃避することではなく、この世の中を強く生きて行くために、神が与えて下さった「希望の信仰」なのです。
マルコの描く主イエスの最後の一週間は、ちょっと不思議な書き出しで始まります。「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい』」。 主イエスの一行は、この時、ベタニアから出発したので、これから行く「向こうの村」とは、ベトファゲのことでしょう。今、主イエスは、エリコ街道を登りきり、反対側のエルサレムを眼下に見下ろす地点に出ようとしているところでした。
これから行く先の村のことを、どうして主イエスは詳しく知っておられるのでしょうか。「これまでも何度か来られていたので知っていた」とは言えても、「今日、ロバの子が繋がれている」ということがお分かりになったのでしょうか。これについて、さまざまな説明がなされています。ある人はイエスの不思議な予知能力について説明しようとしますし、またある人は、予めなされていた「打ち合わせであった」とも言います。
ここで主イエスはろばの子に乗られた、これが極めて重要なことなのです。「ろばの子に乗る御姿」そのものが大切であり、主が示された「眼に見えるしるし」と言うべきでしょう。主イエスは、御自身のためにではなく、すべての人々のためにろばの子に乗られたのです。8節から「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も『ホサナ』と叫んだ」とあります。「ホサナ」とは「救い給え」という意味です。ここに記されている「自分の服を道に敷く」とは、王国時代以来の支配者に対する服従のしるしです。また、「葉の付いた枝で歓迎する」とありますが、ヨハネ福音書12章13節ではこの枝がなつめやしの枝であったと記しています。この聖書箇所を旧約聖書に見ると、かつて、シリアとの戦いに勝利し、マカベア王朝の基礎を築いたシモン・マカベウスがエルサレム入城の際、民衆が同じなつめやしの枝をかざして迎えた故事が想い起させられます。そこで、ヨハネ福音書12章15節の指摘に従って先程司会者に読んで頂いたゼカリヤ書9章9節をもう一度見てみましょう。
娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。 ゼカリヤ書 9章9節
本日のマルコ福音書11章3節で主イエスは御自身を初めて「主」と呼ばれました。主イエスは、ろばの子に乗ることによって、「神によって遣わされた平和の主である」ことを、宣言されたのです。そしてそれは、すべての人々が、真実の救いを見ることが出来るようになることを意味しているのです。
今や、「時」は、父なる神の御計画の頂点である十字架に近づいているのです。神の長い忍耐の後、人間を苦しめるサタンを完全に滅ぼす「時」が近づいたのです。主イエスが大勢の巡礼者に混じって目立たず静かにエルサレムに入られなかったのは、「時の到来」を、ここに決定的に示されるためだったのです。
エルサレム入城をゼカリヤの預言と結びつけて、新しい時代の到来として明らかにしたのです。今、イエス御自身によって成し遂げられることのすべてを、人々に分かるように、敢えてろばの子に乗ってお示しになったのです。
ろばの子に乗ったメシアは、確かに平和の主です。戦場を駆ける猛々しい戦士は強靭な馬に乗るのであり、小さなろば、ましてろばの子に乗って闘う騎士はいません。ゼカリヤ書が記しているのはこのことであり、主イエスは「この姿を見よ」と告げているのです。
神の戦いは、神の子イエス御自身のほかに何も必要としないのです。剣も槍もそして馬も必要ではありません。神の御子は、御言葉によって数々の悪霊を滅ぼされるのです。ろばの子に乗られた主の御心は、神の御業実現のために来られた「メシア・救い主である」ことの宣言と共に、この世の力の無意味さを教えておられるのです。
救われる者の見るべきものは、ただ御子キリスト・イエスのみであり、その他の全ては何の意味も持たないのです。私たちを罪の中に閉じ込め、神に背を向けさせ、偽りの生活の中に導いたサタンとの最終的対決は、このように始まり、神の勝利は、このように実現するのです。
この時の主イエスを迎えた人々の喜びの叫びが、明確な信仰的自覚に基づいたものでないことは明らかですが、少なくとも、その時の人々は、ろばの子に乗られた御姿を見て、ゼカリヤの預言を思い出し「ナザレのイエスがメシアである」ことを教えられ、それを喜ぶことが出来たのです。
それ故に、私たちもまた、歓声を上げている人々の姿こそ、主イエス・キリストが望んでおられる人間の姿であることに気付かなければなりません。そして、この喜びの叫びが消えてなくならないように、常に主を慕い求め、祈り求めなければならないのです。
「あの時のエルサレムの群衆は間違っていた」と言って、ただ批判しているだけの人は、結局、「ろばの子に乗った救い主」を迎えることさえ出来ず、群衆以下と言えましょう。
信仰とは、評論家になることではなく、幼な子になって信じることです。素朴かつ単純に、「ホサナ、今、救いたまえ」と叫ぶことです。何よりも先ず、キリスト・イエスの前に敷く上着を脱ぐべきです。そして、歓声を上げる群衆を遠くから眺めるのではなく、その中に入り、彼らと共に、今、世に来られた神の御子を迎えるべきです。
主イエスは、それを喜んで下さり、御国への招きの御手を差し伸べて下さるのです。
お祈りを致します。