罪を覆ってくださる神

聖書:詩編321-5節, ローマの信徒への手紙715節-83

 平和な社会とは戦争がない社会とばかりは言えません。戦争が起こらない社会であっても、最近のように次々と災害に見舞われ、避難生活を強いられる地域は、あちこちに広がっています。スマホで外出先からご飯が炊けるとか、家電や戸締りを操作できるという魔法のような生活から、アッという間に、水も電気もない生活に転落するのですから。今、わたしたちは決して平和な、無事な社会に生きているとは言えないと思います。

そして戦争の時代がそうであったように、戦わなければならないのは日々の生活、命を繋ぐためです。多くの人々が避難所に集まるけれども、行くことを諦める人々がいるのは、いろいろな理由があると思います。そこに行ってもいっぱいでいる場所がない。食べ物を配っていても、自分のところまで回って来ないうちに無くなる。プライバシーが守られず、着替えもできない。家が心配なのは、留守をしている間に貴重品がなくなってしまう。戸締りなどできるはずがないので、不審者が入りたい放題になる、等々。本当に、体験した人でなければ分からない恐ろしい試練にさらされているのではないかと思います。

イエスさまは山上の説教でお命じになりました。マタイ5章43節~45節。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」(8ページ下)けれども、わたしたちは思っているのではないでしょうか。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」なんて、だれができるだろうかと。

そこでわたしたちも、ユダヤの律法に命じられているとおりにするのが当たり前だと思うかもしれません。『隣人を愛し、敵を憎め』と。しかし、実際災害時にはどうでしょうか。だれが隣人なのか、だれが敵なのかさえ分からないのではないでしょうか。国と国とに戦争が起こる時には、政府は自分の国の人々は隣人、外国の人々は敵と教えるのです。しかし、実際は隣人であるはずの自国の指導部の過ちの結果は、多くの国民が命を落とすことになります。

それでは、どうすればよいのでしょうか。隣人も憎み、敵も憎めということになるのでしょうか。実際、70年以上続いた日本の平和の中で、起こった犯罪を考えると、家族、友人、知人に対する犯罪の割合は、非常に高いということです。つまり、だれが隣人なのか、だれが敵なのかも判別がつきにくい中で、だれも彼も信じられない辛さ。だれも彼もが敵だと感じるようになるということの恐ろしさであります。恐ろしくて、避難所のような所にはいられません。まして廃墟のように破壊された家に一人いて落ち着けるでしょうか。自然現象においても、また政治の趨勢においても、不安定な時代となっている今、改めて真剣に考えなければならないことは、イエスさまのお言葉です。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と命じられました。そしてその目的は「あなたがたの天の父の子となるためである」と言われたのです。

その目的に注目してください。わたしたちはイエスさまのお言葉を聴いています。2千年間ずっと教会に集まって聞き続けているのです。わたしたちは、イエスさまが人々にお知らせくださった神さまについて知りたいと思いました。神さまはどのようなお方であるか、そのことをイエスさまはお知らせくださいました。神さまはその独り子でいらっしゃるイエスさまをわたしたちの世界に遣わしてくださるほどわたしたちを愛しておられることを。その愛は、わたしたちをイエスさまに結ばれた者として、イエスさまの兄弟姉妹として、神さまの子として迎えてくださる愛なのです。

教会はわたしたちがイエスさまに結ばれるために洗礼を授けて参りました。これからもそうです。イエスさまに結ばれることの目的は、天の父なる神さまの子どもとされるためなのです。そのために、イエスさまは敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と命じられました。いや、実際に神さまは全世界の人々を造られたのですから、全世界の人々が敵を愛し、迫害する者のために祈るならば、本当に平和が訪れることでしょう。全く、それは理想に過ぎないというかもしれませんが、わたしたちは神のご命令として、高い目標を与えられているのであります。

そこで使徒パウロは今日の聖書に告白しています。15節。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」パウロが何か特別な中毒、依存症にかかっているのか、と想像する必要はありません。キリストに結ばれた人だからこそ、キリストの御命令を守ろうとします。そして守ろうとするからこそ、できない自分に悩むのです。すなわち、洗礼を受け、父なる神さま、子なる神さまの聖霊をいただいた者は、イエスさまによって新たに生まれたのです。だからこそ、神さまの子になるためには、遠く及ばない自分の罪に気がついているのです。

もし、そうでなければ、イエスさまのご命令に悩むことはないでしょう。イエスさまは罪人を憐れんでくださった。心動かして憐れんでくださったので、わたしたちの悩みを悩んでくださった方です。この方の愛に打たれて、ついて行きたいと思うので、共に悩むのです。そうでない人々は、他の人が困ってようがいまいが、自分のことさえうまくいけば良いということになります。つまり、キリスト者の格闘は、自分の罪、神の子にふさわしい者になろうとして慣れない罪に気がついたからこそ起こる苦しみなのです。

自分はイエスさまについて行こうとすればするほど、それに逆らう自分に気がついて格闘している訳です。聖霊が心の内に来てくださって自分を新たに造り変えてくださろうとしておられるのですが、自分の中に、それに抵抗する罪があると分かるのです。わたしたちは地上の生活に、この体をもって生きて行く限り、いつも罪との戦いをして行かなければなりません。18節。「わたしは、自分の中には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」

「肉」という言い方ですが、これは肉体、体のことを意味しているのではありません。わたしたちは、キリストに従う者として聖霊に導かれ、神のものとされる約束に生きているのですが、一方、わたしたちの内には依然として古い自分、キリストに従う以前の部分が残っています。そのことが肉という言葉で表されています。振り返って思うならば、人類最初の人アダムが神さまに背を向けてしまって以来、罪がわたしたちの魂の内に肉的な思いによって支配するようになっておりました。それはアダムに見られたように、浅はかな欲望によって誘惑されて神さまの約束をないがしろにすることであり、また神さまそのものを敬わないで、呼びかけに応えず、身を隠してしまうことであります。また自分は決して悪くないかのように、責任を転嫁し、罪を他人に擦り付けるという思い上がりに現れます。

本当に惨めで情けないことでありますが、それに対して、このような古い自分、また肉といわれるものと全く対立するものが、神さまの霊の働きです。霊はその恵みの御力によって、わたしたちが欲望のままに行動するのを、恵みによって抑えてくださいます。そればかりではありません。霊はわたしたちの心を新たにして全面的に造り変えるために働いてくださるのです。わたしたちの古い人は、言ってみれば隣人を愛し、敵を憎むどころか、隣人も愛さず、敵を愛さず、隣人を憎み、敵を憎む結果、ズタズタになり、傷だらけであります。もう誰も信じられない状態であるばかりでなく、ねじ曲がり、非常に腐敗した精神となってしまっているのです。

「わたしは、何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と使徒は申します。惨めな人間。それはわたしのことだ、と言うのです。他の人のことならば、いろいろ言うのは分かりますが、それはわたしのことだとパウロが言う時、聞いているわたしたちは驚くのではないでしょうか。しかし、この告白があるのは、主イエス・キリストの救いを世に知らせるためなのです。イエスさまの救いが与えられたからこそ、今わたしは罪が分かった。隣人さえ愛そうとして愛せない自分。敵を愛するどころか、隣人でさえ、やっつけてしまわずにはいられない敵のように思える所まで追いつめられる自分。この罪を知らされたのは、イエスさまを知ったから。イエスさまを信じたからに他ならないのです。

パウロは律法によって自分は正しい者と認められて神の御前に出たいと願うことによって、挫折しました。律法を喜んで、イエスさまの教えを喜んで、守りたいと思ったからこそ、挫折を知ったのです。わたしたちもパウロのように、神の律法に従順になるように整えられることを、願い、祈り求めるわたしたちであるならば、それを祈る願いそのものによって、わたしたちは神さまから招かれているのです。「イエス・キリストによって、わたしのもとに来なさい」と。

ここに計り知れない慰めが与えられました。「キリスト・イエスにある者はもはや罪に定められることはない」というのです。主が恵みのうちにひとたび受け入れ、キリストとの交わりの中に接ぎ木させ、教会の共同体の中に洗礼によって合わせ給うならば、その人たちは、キリストを信じる信仰を堅持する限り、たとえ罪に攻め込まれ、更に自分の中に罪を引きずって生きているとしても、神様に断罪されることなく罪責を免除されているのですから。

では、パウロが言う「キリスト・イエスにある者」とはだれのことでしょうか。人々の前で教会が執り行う洗礼は、キリスト・イエスにある者となるための告白です。これはわたしたち一人一人が神の民の内に加えられたいと願っていることを明白に表明するしるしなのですから。洗礼によってわたしたちは唯一の神への礼拝を捧げてすべてのキリスト者と共に一つの信仰を告白すること証しします。こうして自分自身の信仰を公に言い表して、単にわたしたちの心が神への賛美に溢れるばかりでなく、この口を用い、また全身を用いて賛美を現わすのであります。

8章3節。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」わたしたちの目標は、天の父の子とされることです。ただキリストを通して示された神の愛を知ることだけが、わたしたちの救いであります。わたしたちは、神さまの前にどのような罪も覆い隠すことはできません。しかし、イエスさまはわたしたちのために犠牲を捧げて下さり、わたしたちの罪を覆ってくださいました。わたしたちは、イエスさまによって罪赦されたことを信じます。どんな困窮の時にも、自分の願い、求めるところを、全く謙って神さまに捧げ、神さまの御旨のままにその憂いの荷をおろし、神さまに身を委ねましょう。天の父の子となるために、聖霊は信じる者の上に来てくださり、わたしたちを清めてイエスさまの体にふさわしいものと日々造り変えてくださいます。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

本日の礼拝に集められ、恵みの御言葉によって罪の赦しをいただき、感謝申し上げます。わたしたちは、本日の礼拝において、罪の赦しを信じるとは何かを学びました。わたしたちは自分の働き、努力によって罪を償うことができるどころか、罪があることさえ、分からない、気がつかないことが多い者であることを知りました。ただ、キリストに従うことによって自分の力の及ばない罪を贖ってくださるキリストの救いの恵みを知ることができ感謝です。自分で負うことも、取り除くできない罪のこの身を、キリストが覆ってくださったことを、ただ謙って信じる者とならせてください。

罪赦されたわたしたちの人生が、真の悔い改めと、喜びと感謝に満たされるものでありますように。どうか、聖霊をお遣わしください。そしてわたしたちが善い者として生きられるように助け、導いてください。

多くの困難の中にある地域の方々、その地に立つ教会を助け導いてください。真の福音が伝えられますように。あなたの慰めが人々の上にあり、

勇気と知恵とが与えられますように。主よ、厳しい暑さ、と荒天の中で7月も守られて最後の礼拝となりました。礼拝を覚えて心をあなたに向けるすべての兄弟姉妹を祝福してください。来週は8月の聖餐礼拝を守ります。大塚啓子先生がご奉仕くださる礼拝、どうぞ多くの人々が招かれますように。あなたの御名が崇められますように。私は休暇中に東日本の教師会に参加しますが、どうか成宗教会にとって、連合長老会にとって有益な学びがなされますように。教会に将来を備える道を開いてください。

また、8月、9月の諸行事のために心を一つにして準備することができますように。非常な暑さが続きます中、教会に集う皆様のご健康をお守りください。遠くにおられる、様々な事情で礼拝から遠ざかっている方々のご生活、日々の労苦を顧みてください。教会に集う子どもたちのために、夏休み中の安全をお守りください。

この尽きない感謝、願い、主イエス・キリストの尊き御名によって祈ります。アーメン。

共に苦しみ、共に喜ぶ

聖書:エレミヤ書313134節, コリントの信徒への手紙一121231

 大変な暑さの中で、先週は二階の集会室のエアコンに不具合が起こりました。急なことで無理なお願いをしましたが、原田姉の会社の方々がすぐに来てくださって、本当に助かりました。わたしたちは、今は高度な機械も指一本で操作できる時代と思っていますが、 実際には故障の原因は簡単に分かる者ではなく、作業してくださる方々は、どんどん上昇する暑さの中でエアコンの中を開けて、汗だくになってあれこれ、力と知恵の業を駆使して直す、その様子を目の当たりにして私は思いました。

わたしたちの生活は機械があれば、人の助けは要らない、ということにはならないのだと。一つの物事を解決するのに、実に多くの助けがあり、支えがあって初めてわたしたちが当たり前と思っている生活ができるのだと。人が汗だくになって働いて助けてくださることの有難さを思います。そして改めて思うことは、イエスさまがわたしたちの落ち度、失敗、過ちを、御自身の身に受けて、わたしたちの負った傷を覆ってくださるために働いてくださったことの有難さであります。

そしてわたしたちは教会の有難さを特に思っています。神さまが与えてくださったイエスさま、救い主の教会だと信じるからです。神さまがイエスさまの執り成しを受け入れてわたしたちの罪を赦してくださったことが、わたしたちにとって一番大切なことです。このことなしには生きられない、と信じるので、わたしたちは何とかして礼拝を守るのです。神さまに普段から「父なる神さま、あなたには何でもできないことはありません」と、賛美を捧げないでいながら、「神さま、わたしを助けてください」はあり得ないでしょう。神さまに常日頃、「神さま、あなたはこれまでわたしたちを恵み、導いてくださいました」と、感謝を捧げずに、「神さま、わたしの願いを聴いてください」はあり得ないからです。

ところが世の多くの人々はイエスさまの宣べ伝えられた神さまについて何も知らないので、まさか自分の救いのためにそんなに労苦してくださる神の子イエスさまがおられるとは知りません。だから残念なことに、教会の有難さ、礼拝の大切さをも理解できません。それで自分を頼りに生きるのですが、その自分自身は年を取って行くばかりなのですからどうしようもないのです。何を頼って生きるのか。自分の子供か。お金か、ということになりますが、そんなにあてにすることができるものではありません。まして最初からそれもあてにできない人は多いのですから、多くの人々の人生は惨めなことこの上ないのではないでしょうか。

わたしたちが教会に集まるのは神さまを礼拝するためであります。そして教会は主イエス・キリストの体であり、わたしたちはその肢、部分であると教えられています。この目に見える小さな教会に集まったわたしたちがキリストを信じて告白するなら、わたしたちは目に見えるこの教会のメンバーとして数えられるだけでなく、同時に、天にある目に見えない唯一つのキリストの教会のメンバー、部分として名を記されると信じます。全世界の様々な教会もこの唯一の真の教会を目指して一つとされるのであります。

今日の聖書コリントの信徒への手紙一、12章は、キリストに在って一つとされる教会は、一つの体に例えられています。体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの体も一つなのです。教会にはいろいろな人々が招かれます。わたしたちが招いているように見えても、本当に招いてくださるのは主です。ですから、皆一つの体となるために洗礼を受けるのです。今は受けていない人々も主が招いて御自分の体としてくださるなら、きっとそうなるでしょう。洗礼は一つです。お国柄が違っても、人種が違っても、言葉が違っても、その他実に様々な違いがあっても、洗礼は一つです。これは全世界でこの2千年変わりないことで、世の終わりまで続くことです。

一つの洗礼を受けると、父と子から送られる聖霊が、わたしたちを清めて、教会の肢として主の体の部分として成長させ、御国の教会にふさわしいものとしてくださいます。ですからわたしたちに来てくださる聖霊も一つであることはいうまでもありません。この二千年の間、地上には多くの教会が建てられ受け継がれて今日に至ったのですが、世にある教会はいつも試練無くして建つことはありません。コリントの信徒への手紙に語られていることは、教会には実に様々な試練があり、サタンによる絶え間ない攻撃が教会を破壊しようとしていたか、そしてパウロを初め使徒たちがどんなにその攻撃と戦っていたかということなのです。

その一つが今日読んでいただいた12章にあります。それはコリント教会の中に、皆一つの霊をのませてもらったことに反対する勢力がいたということです。皆、一つの体となるために聖霊が各自に来て働いておられるという信仰に反対する理由は何でしょうか。それは聖霊があの人よりも優れた霊としてわたしに来てくださったという主張です。たとえば、わたしたちも、人のお祈りを何気なくほめたりすることがありますが、そういうことから、次第にお祈りの優劣を主張する考えが生れることに警戒しなければなりません。

ある教会では非常に長く熱心に祈る人々が多いのですが、即興で延々と祈る、自発的に立ち上がって祈るということには慣れていない者にとっては、非常にとまどうことです。しかし、初代教会にも我こそはすぐれた霊が降っていると信じ込んで、祈りや預言や、異言(誰かに説明してもらわない限り、普通には理解できない言葉)を語る能力に、優劣をつける考えが教会にはびこることになるのです。パウロは、それはキリストの体として大問題だと警告しているのではないでしょうか。

サッカー選手が活躍すれば、みんなサッカー選手になりたい。将棋の天才少年が現れれば、こぞって将棋教室に通うというのはほほえましいことですが、キリストの体ではありえないことです。みんなが目を羨んでみんなが目になってもらっては困るからです。もし、足が「わたしは手ではないから、みんなと他の人と一緒にやっていけないよ、と言ったらどうなるのでしょうか。それがもっとひどくなると、あの人は役に立たない盲腸みたいな人だから、と言って軽蔑することになるのでしょうか。それはキリストの体ではあり得ないことです。

しかし、現実にはわたしたちは皆、神さまから見れば、小学生のようなことを言ったりしたりしているのです。「お母さん、お隣の○○ちゃんがバレーを習っているから、わたしも習いたい」みたいな言動です。このようなわたしたちをキリストの体の部分としてくださるために、主はどんなに働かれたことでしょうか。もし、わたしたちが主の体の部分であるならば、わたしたちは部分としていつも首である主イエスさまのことを思うはずです。その結果、主がお建てになった体全体のことを思わずにはいられないのです。

わたしたちは体の大事な目立つところが病気になった時だけ、具合が悪くなるのではありません。小指の先でもちょっと傷ついたら、とても痛い、辛いのです。そして小指だからと、目は「ふーん、わたしとは関係ないよ」と言うとは思えません。胃が痛いと全身具合が悪い、と感じます。体全体が同情して熱を出して、痛い、痛いと苦しんで、早く治そうとするではありませんか。

また、外に出して目立った方が全体として美しく見えるところは、外に出して、目立たないように隠して、そっと守ってやらなければならないところは、体の内側に置き、更に着る物で覆っています。そのように全体として各部分が配慮し合っているのが体です。改めてパウロは訴えています。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分なのだと。そして最後にパウロは、教会での働き人について具体的な明らかにします。28節。「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡をおこなう者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」ところがどうでしょうか。教会の中ではみんなが使徒になりたいと言い出したのでしょうか。みんなが預言者になりたい、教師になりたい、奇跡を起こしたい、異言を語りたいと言い出したのでしょうか。

体の例えで考えるなら、これは笑わずにはいられないことではないでしょうか。一人が「わたしは目になりたい」と言えば、次々に「わたしも、俺も、わたしだって」みたいなことです。一人が「わたしは手になりたい」と言えば、「僕も、わたしも、俺も」みたいなことになってしまいます。小学校の授業中みたいなことを申しましたが、これは大人の話であり、教会の話であります。使徒たちは、実に生まれたばかりのコリントの教会を、この世の支配から守り、主の体の教会とするために真剣な戦いをしているのであります。

それでは、主はこのような愚かで浅ましい者たちを御自分の体に結ばれたことを後悔されたでしょうか。有り難いことにそうではなかったと思います。マルコ福音書9章33節でイエスさまは弟子たちに、何を議論していたのかとお尋ねになったのですが、弟子たちは黙っていました。なぜなら、だれがいちばん偉いかと議論し合っていたとは、恥ずかしくて言えなかったのです。コリントの教会の人々、そしてわたしたちの時代の教会でもほとんど変わりない自分中心な罪人の姿がここにあるのです。このようなわたしたちを救うために主イエスさまが来てくださったことを改めて思います。

神はその昔、旧約聖書の民にご自分を顕して神の民として生きるように律法をお与えになりました。神を唯一として礼拝し、人々を愛して共に生きるための律法です。ところがこの人々は自己中心の罪から神に背を向け、律法を守ることができませんでした。神を愛さない者は隣人を愛することもできません。愛とは、相手のことを思って共に苦しみ、相手の救いのために共に忍ぶことに他ならないからです。そして愛とは、相手の幸いを、救いを共に喜ぶことではないでしょうか。

預言者エレミヤは言いました。エレミヤ31章31節。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ計画はこれである、と主は言われる。(33節。)すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」エレミヤの預言した新しい契約はイエス・キリストによってもたらされました。そのとき、人々はキリストによって神さまの御心を知りました。キリストによって神に立ち帰り、罪の赦しを約束されました。

こうして教会は「聖徒の交わり」を信じると告白して参りました。聖徒とはわたしたち信仰者です。どれ程貧しく小さくとも、神さまが恵みによって選び集めてくださった信仰者のことです。「聖徒の交わり」を信じるとは、わたしたちがイエスさまに結ばれて、神さまから与えられた賜物をお互いに分け合うということです。こうして、救いの喜びをより豊かに、また多くの人に届けたいと願うようになります。元々自己中心的な貧しい者であるわたしたちは、しかし、教会を通して、生けるイエスさまの言葉を聴き、イエスさまの体である教会の一部分となります。教会の頭であるイエスさまの生命を、ぶどうの木が地中から吸い上げる水のようにいただいて生きることができます。それはイエスさまの心を心とし、共に苦しみ、共に喜ぶ教会に成長させられることを目指します。祈ります。

 

主なる父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。猛烈な暑さの中、わたしたちは礼拝を与えられ、こうして集められました。大変な異常気象の惹き起こす災害に見舞われてた西日本の被災地を思い、その復興を支えてくださいますようお願い申し上げます。どうか被災者の方々の上に立ちあがって行く希望をお与えください。多くの困難に立ち向かう救援の方々に道を開いてください。

また、わたしたちも同様の困難に備えるために日々の祈りを整えてください。全地を御支配くださる主の恵みを全世界に現わしてください。わたしたちは小さな群れの中にあって見えない主の体の教会を仰いでいます。どうかこの地の救いのために祈り、わたしたちの家族、友人、社会のためにたゆまず祈る教会でありますように。

本日は聖徒の交わりを信じることについて学びました。どうか、わたしたちの貧しさ、弱さにもかかわらず、わたしたちを招いて、罪を赦しキリストの命に結んでくださった方が、わたしたちの教会に将来を与えてください。新しい年度に牧師を迎え、78年続いた成宗教会に将来を開くことができますように。この少子高齢化の時代にも、若い人々に希望を与えてください。また高齢の世代も守られていますことを感謝します。どうか終わりの日に至るまで、キリストの体全体のために奉仕する肢として生かされますように。

今、教会に来ることができなくなっている方々を、あなたの恵みによって慰め、励ましてください。聖徒の交わりの中に立ち帰ることができますように。また、今、大きな悩み、試練の中にある方々を上よりの御力で支えてください。あなたの恵みと慈しみによって立ち上がり、主を証しする生活をいただくことができますように。

教会学校も来週で今年の前半を終えました。あなたの恵みのうちに守られたことを感謝します。8月の一日夏期学校の行事をあなたの御心に従って行い、御名が崇められますように。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖なる公同の教会

聖書:エレミヤ書138-14節, エフェソの信徒への手紙416

 教会は今朝の礼拝でも、使徒信条を告白しました。成宗教会がそうしているだけでなく、全世界の教会において礼拝毎に告白されています。また現代の教会だけがそうしているのではなく、代々の教会が、使徒信条あるいはコンスタンチノーポリス信条を告白しています。全世界の教会は歴史を通してこの告白を以て一致して参りました。

さて、今日は使徒信条の中で「教会を信じる」ということについて学びたいと思います。わたしたちは教会というと、何といっても思い出すのは建て物です。また、そこに集まっている人々です。また教会学校が開かれるとお子さんが集まって来ます。するとその人々によって教会は目に見える教会となります。しかし、教会を信じるというのはそういうことでしょうか?目に見えているものを信じるとはどういうことでしょうか。わたしたちは目に見える教会に集まっています。ここに、イエスさまがわたしたちを集めておられると信じるからです。イエスさまは今も神さまの右に、つまり天の教会におられます。だからわたしたちは目に見える地上の教会に集まって、目に見えないイエスさまによって礼拝を守るのです。それはわたしたちの礼拝が目に見えない天の教会、神さまとイエスさまがおられるところを見上げて、そこに向かって礼拝を捧げることに他なりません。

地上の教会にいるわたしたちは、今日も「聖なる公同の教会を信じます」と告白しました。聖なるとは、きよいということですが、特に衛生的な意味で「清い」ということではありません。「聖なる」とは、「わたしたちが神さまに選ばれ、集められた」という意味です。わたしたちが礼拝に集まっているのは、神さまが一人一人、名前を呼んでくださったからなのです。そして「公同の」とは、いつでもどこでも誰でもが信じることのできる、普遍的な、という意味です。これに対して様々な考え、価値観が時代によって地域によって起こり廃れ、絶えず変化するので、わたしたちは生きる上で大変大きな影響を受けています。その世界に在って聖なる公同の教会を信じるとはどういうことなのでしょうか。

本日はエレミヤ13章を読んでいただきました。13章9節。「主はこう言われた。『このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし彼らは聞き従わなかった』と主は言われる。」

主なる神さまは御自分の民をどんなに集めようとしておられるか、それは歴史を通していつも変らない神さまの御心に他なりませんでした。主は、ご自分の民を帯に例えておられます。「人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着ける」と。そして「わたしの民とする」と。帯の例えが語られます。帯と言えば、わたしたちは日本の女性の和服のことを思い出します。昔は着物よりも帯の方が高価でありました。帯は和装の全身を飾る美しさの象徴であったのです。また男の人ならボクシングの豪華なチャンピオンベルトを思い出すでしょう。帯というものは身に着ける物のうちでも本当に大切なものだったのです。

神さまは人々をどんなに愛して大切にしておられたことでしょう。神さまはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をご自分の身にしっかりと着け、ご自分の民とし、ご自分の名声、栄誉、威光を、神の民によって示したいと思われたのです。ところが人々は神さまに従いませんでした。ところが、「この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。」その結果は傷ましいもの、忌まわしいものとなりました。主はこう言われました。『見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、およびイスラエルのすべての住民を酔いで満たす。わたしは、人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす」と。

神様への反逆の結果は全世界の不幸であります。しかし、神さまはこの世界をお見捨てにならず、その罪を贖うためにイエス・キリストを世に遣わしてくださいました。イエスさまは真の人として世にお生まれになり、世の罪を負われ、十字架にすべての人の身代わりとなって死んでくださいました。ご自分を信じる者に、最後の晩餐に新しい契約を立ててくださったのです。イエスさまはパンを取り、それを裂いて弟子たちに与えて言われました。「取りなさい。これはわたしの体である」と。また杯を取り弟子たちにお渡しになって言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と。

そういうわけで、イエスさまを信じ、この方の死に結ばれて罪の赦しを受けることを信じたわたしたちは洗礼を受けました。わたしたちが「聖なる公同の教会を信じる」と告白するとき、わたしたちはイエス・キリストの体に結ばれているという、その体がどういうものであるかを知りたいと思います。それを教えられるなら学ぶことができるのです。学ぶことに向かった道が開かれるのです。今日はエフェソの信徒への手紙4章を読みます。1節以下。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように務めなさい。」

使徒パウロは聖なる公同の教会を信じ、目指して教会を建設していく道筋を勧めます。それは抽象的な、頭の中だけの理想では全くありません。実に具体的な日常に関わることなのです。2節に書かれている「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持つ」というところは特に肝心なことです。エレミヤ13章でも、主は「ユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く」と宣言されているように、教会を建てるために何よりも大きな妨げになるものは高慢、そして傲慢なのです。寛容の心を持つということも、単にニコニコと人を寛大に扱うということではなく、辛抱強く、長く耐え忍ぶということです。自分が何も痛くもかゆくもない、ただ言葉だけの広い心というのはあり得ません。そのためには、第一に傲慢な姿勢が改められなければなりません。

ところが、「自分が悔い改める必要があるとは全く思わない。悪いのはあの人だ。この人だ」と思う人々は少なくありません。私は皆さんにお話しして参りました。「イエスさまはわたしたちのためにどれ程耐え忍んで、教会を建ててくださったことでしょう。私たちはイエスさまのために忍耐して教会を建てましょう」と。しかし、17年教会に仕えて思うことは、人を赦せない、人に我慢できないということは、結局イエスさまの忍耐のことをいくら話しても無駄であるということでした。主はこう言われたからです。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」と。

振り返れば、そういう人々のために悲しむべきことはたくさんあります。しかし教会を建てるということは日々、心を低くして悔い改め、主に従うことです。具体的には互いに愛をもって忍耐し、平和に共に過ごすことです。愛そのものの性質が忍耐強いのですから、愛がわたしたちを支配し力を得るところでは、わたしたちは互いに多くのことを忍び合うのではないでしょうか。しかし、人々から遠く離れて一切付き合わず、礼拝から遠ざかっていて、「わたしは人々と愛をもって平和に過ごしている」とは言えないでしょう。

4節です。「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。」わたしたちはすべて同じキリストの命、同じ永遠の命に召されているのです。だから、いくらわたしたちが聖なる公同の教会を信じると告白しても、今わたしたちは地上の教会にいるのですから、ここで、互いに友情と和合とを保って生活しない限り、永遠の命を受けることはできないと思います。それとも天の国で、神さまの宴会に招かれた人々が、神さまに「わたしはあの人と一緒にいるのは我慢できません。あの人はひどい人だったのに、なぜここにいるのですか」などとクレームをつけるつもりなのでしょうか。人は皆、全くイエスさまの執り成しの恵みを信じてようやく入れていただくのに、そんな偉そうなことを言うのでしょうか。あり得ないことです。

5節。「主は一人、信仰は一つ、洗礼バプテスマは一つ」です。主とはキリストのことです。主は御父によってわたしたちの主となられたのです。わたしたちはこのことで一致しているのでなければ、この主の御支配の下に主の御力をいただいて生きることはできません。また信仰もいろいろあってよいということには決してなりません。すべての人に共通の信仰があるのです。またすべての人に共通の一つの洗礼があるのです。だからこそ、わたしたちは洗礼を授ける前に、代々の教会の信仰について学び、この共通の土台の上に立つ信仰を受け入れて、キリストの体に属する者となる信仰を問うのであります。また、他の教会からの転入会の場合も一人の主、一つの信仰、一つの洗礼を確認するのはこのためです。

わたしたちはその時代、その地域、個々人の都合によって信仰を変えることは決してありません。パウロがコリント(一)8章6節で述べている通りです。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰っていくと信じているのですから。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」309上末。

教会の信仰は、父・子・聖霊の神への信仰です。この神は三つの位格を持っておられますが同じ一つの神であられます。人間の知恵によっては計り知ることのできない神のご性質を、しかし教会は聖霊によって教えられ、信仰を受け継いで来たのであります。6節。「すべての者の父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」

神さまは聖霊によって主の体の教会のすべての肢々に来てくださいます。イエス様は「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」といわれたのですから、主の聖霊はわたしたちにも来てくださいます。わたしたちが元気な時も丈夫な時もですが、弱っている時にこそ、来てくださり、平安を与え、安らぎを与え、主の恵みで満たしてくださるのではないでしょうか。そしてわたしたちを清めてくださいます。「清めて」というのは聖なる公同の教会に連なる者にふさわしく造り変えてくださることにほかなりません。また、このことをわたしたちに対してバラバラに個人的にしてくださるのではありません。すべてを御自分の恵みの御支配の下に含めてくださるので、すべての者のうちにして下さる、ということなのです。

神さまは三位一体の神さまと呼ばれますが、心は一つであられ、ご自分の中に何の不調和もございません。ですから、当然わたしたちも心を一つにしなければならないのです。わたしたちは「聖なる公同の教会を信じる」と告白しました。わたしたちは、真の神さまを信頼しない世界に住んでいます。そして多くの人々は、真の神さまではなく自分の欲を満たしてくれそうなものを追い求めるので、様々な不幸、不安、争いは尽きることがありません。しかしわたしたちは、このような世界にキリストの救いを差し出し、教会を建ててくださる神さまに感謝し、主の体の一致を求めたいと願います。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

御名をほめたたえます。今日もこうして礼拝に招かれましたことを感謝します。今西日本の豪雨の被災地にある教会を励まし、その地域の救いのためにお力をお与えください。本日は聖なる公同の教会を信じるという告白の意味について学びました。わたしたちは多くの問題を抱え、困難の中にありますが、心を高く上げて主の体の教会を形成してくださる聖霊の助けを待ち望みます。どうかわたしたちの自分中心になりがちな心を打ち砕き、あなたの御前に謙る者とならせてください。自分の間違いを知らせ、あなたの愛と慈しみがどんなにわたしたちすべてに注がれているかを悟らせてください。主のご労苦とご忍耐を思い、主の愛に応える者として、兄弟姉妹助けあって行くことができますように。

今、わたしたちの多くは年を取り、力弱くなっております。しかし、あなたの御心でしたら、この地に、わたしたちの隣人に主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために教会を残してください。わたしたちは自分の力に頼ることなく、あなたの恵みの力に頼り、希望をもって将来に備えます。どうぞ、主に結ばれて終わりの日まで忠実な歩みを一人一人にお与えください。

成宗教会に遣わされる後任の人事のために、労苦してくださる連合長老会の働きのために祈ります。どうか全国のすべての教会にとって益となる人事が行われますように、そのために労を取ってくださる役職の方々を祝福し、お守りください。

成宗教会の信徒のために祈ります。どうか、今病床にある方々、これから手術を受けられる方をお支えくださり、最善の治療が受けられますように、支えているご家族、医療、介護に携わる方々を顧み、その働きを祝してください。礼拝への奉仕をあなたに捧げようと全力を挙げて努めている方々を祝してください。どうか豊かな平安、喜びをもって報いてくださいますように。礼拝を覚えながら、参加できない方々を慰め励ましてください。

また、8月教会学校の行事をはじめ、これから秋にかけて、音楽会、バザーなど、準備をしようとしております。どうかすべてのことがあなたのご栄光のために、主の体の教会にふさわしく勧められますように。

この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖霊を信じる

聖書:エゼキエル36章25-32節, ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節

 わたしたちはキリスト教徒と呼ばれておりますが、わたしたちが礼拝する神様は、父と呼ばれる神、御子と呼ばれる神、そして聖霊と呼ばれる神であられる方です。三つの位格を持つ一人なる三位一体の神に対して、教会は信仰を言い表しております。その中で最も親しく、知られているのは御子と呼ばれるキリストでしょう。この方は地上に来てくださった方。人として生まれてくださったので、わたしたちはこの方が人々に何を教え、何を行ってくださったかを知ることが出来ました。そして父と呼ばれる神について、説き明かしてくださったのはイエス・キリストであります。

「わたしを見た者は父を見たのである」とキリストはおっしゃいました。そこでわたしたちは天にはキリストの御父がおられることを知りました。そして天の父が愛する御子を地上にお遣わしになったその目的も知りました。それは世にあるわたしたちの救いのため。世に在り、世の罪にまみれて生きることしかできないわたしたちの救いのためです。御子であるキリストは、造り主であられる神様から遠く離れてしまったわたしたちの罪を贖ってくださいました。神様はわたしたちをキリストの死に結び付けられて、罪に死んでキリストの命に生きる者に、御子と共に神の子と呼ばれるようにしてくださったのです。

しかし、聖霊という神のお名前については、わたしたちはどれだけ理解しているでしょうか。教会を知らない方々に、どれだけ適切な説明ができるでしょうか。真に心もとないのではないでしょうか。先週20年以上前のオウム真理教の幹部だった人々の死刑が執行されたとのニュースが流れました。20世紀末のあの頃、世界的にも奇妙なというか奇怪な新興宗教についての報道が多かったように思いますが、宗教法人の団体が非常に凶悪な犯罪を起こしたことの影響は大変深いものがあります。「宗教は怖いものだ」という考えが社会に広がったからです。私が赴任した頃は成宗教会の礼拝にも、手を上げてかざすなどの行為を伴った宗教の青年が来ました。私の家にもやって来て、彼が言った言葉は「わたしは霊に導かれて来ました」というものでした。

日本の教会では伝統的に神の霊を御霊と呼び、また聖霊とも呼んで来たのですが、このような新興宗教団体による凶悪事件以後は、聖霊というと、幽霊を思い出すばかりでなく、悪霊の類と何もかも一緒くたにされる傾向がますます強まって来たので、教会は大きな試練を受けて来たと思います。しかし、わたしたちは悪に負けることなく、代々の教会が受け継いで来た信仰を言い表すのですから、聖霊と呼ばれる神についても聖書によって、神御自身の説き明かしをいただきたいと願います。

本日取り上げた新約聖書ガラテヤの信徒への手紙5章16節です。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」ガラテヤの教会の中には深刻な意見の対立があったようです。それはコリント教会での対立とは異なる性質のものでした。コリントの教会では人々は、キリストの福音を宣べ伝えられたのに、キリストの福音ではなく、それを宣べ伝えた人に心惹かれ、こだわって、「わたしはパウロ先生につく」、「いや、わたしはアポロ先生につく」と言って分派が出来たということがありました。どこでも起こりそうな問題です。

ガラテヤ教会の方はもっと深刻であったようです。なぜならキリストの福音そのものが否定されかねないことが、教会の中で論争となったからです。わたしたちも改めて耳を傾けなければならないことですが、キリストの福音は、ただ神の恵みによる救いを宣べ伝えるのです。キリストが世の罪を贖うために来てくださったということは、すなわちわたしたちはだれも自分で自分の罪を贖うことが出来ないからに他なりません。そして、実際ユダヤ教から多くの人々がこの福音を信じて従う者となりました。

ところが彼らの中から、律法を守って救われるというユダヤ教の教えを、キリストの体である教会の中で広めようとする人々が現れたのです。教会はキリストの体であります。わたしたちは行いを正しくして救われることはできない罪人であることを認めたのです。ただキリストに結ばれるならば、キリストの死によってわたしたちの罪も死んだとされ、ただキリストの正しさによってわたしたちも正しい者とされると信じたのであります。それが、あろうことか、また自分の正しい行いがなければ救われないという教えに逆戻りしようとしているとは、どうしたことでしょう。そこで、教会の中に深刻な対立が起こりました。同じ一つの体の部分であるわたしたちを想像して見てください。目と足が対立して、どっちかを徹底的にやっつけようと陰謀を企てるなどということはあり得ない。正気の沙汰ではありません。しかし実際そんなことが起こっているなら、どちらが勝手も負けても、体全体にとっては悲劇ではないでしょうか。そんなことになる前に手を打たなければなりません。

それではどのような手を打つのか。それは、人間的な教えによってではありません。人間的な力によってでもありません。教会はキリストの体ですから。パウロは勧めています。「霊の導きに従って歩みなさい。」この霊はキリストの霊であり、父なる神の霊であります。

地上にいらしたイエスさまが弟子たちに約束された聖霊です。ルカ24章49節にこう言われました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」162上。

わたしたちはキリストの死と結ばれて罪赦され、イエスさまが弟子たちに教えられたように、神を見上げて「天の父よ」と呼びかけ、祈ることが出来る幸いな者となりました。しかし、神の子とされた後もわたしたちは肉体をもって地上に生きている限り、地上の性質であるいろいろな誘惑、欲望、様々な悪徳にさらされており、それらと無縁で生きることはできません。しかしだからと言って、わたしたちは完全に地上的なものの奴隷となり、これに支配され、溺れてしまうばかりではなく、何とか抵抗しようと努めるのではないでしょうか。また、たとえ人々の目から見ると、素晴らしく敬虔な、聖霊に満たされているように見える人であっても、この世的な欲望から全く解放されているとか、誘惑を受けないということはないのです。

ですから聖書がわたしたちに例外なく勧めていることは、怒りやすいとか、愚痴が多いとか、だらしないとか、お酒にはまるとか、数え上げればきりがないのですが、自分の元々の性質に支配されるままにすることなく、断固としてそれに抵抗して、聖霊の神の御支配にわたしたち自身を委ねることを願うことです。17節です。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」

わたしたちはキリストに従う決心をして洗礼を受けたのです。それは聖霊の導きによって生きることにほかなりません。それがわたしたちの教会の肢であるわたしたちの願いでした。ですから自分が本当にしたいと思っているのは、聖霊の望むところなのです。実際はなかなかそれが出来ていない。なぜでしょうか。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。これは私には身に染みて分かる言葉です。

私は本当に物事を始めるのが遅い人間でしたから、起きていればなかなか寝ようとしない。朝になるとなかなか起きられない。それは本当にひどくて起きなくてよいならこのまま死んでも構わない…と思いながら寝ていました。後から考えるとひどい低血圧のせいだったかもしれませんが、今でも取り掛かるまでにひどく時間がかかります。なぜ、こんな人間を主は献身させたのだろうか、と思うのですが、今ははっきりとその答が分かります。主は人間が自分の努力で、能力で出来たと思わせないためです。ただ神の助けによって、恵みによって出来たと証しして、神の栄光を讃えるためです。

そういうわけで、使徒パウロはわたしたちに、自分の肉的な性質と戦うことなく、キリストに従って生きることはできないことを教えて、これから先も困難な闘いに備えるよう励ましているのです。実に人間性全体が、神の聖霊に対して頑固に反逆しているのだから、聖霊に従うためには日々このことを意識し、祈り、労苦して戦わなければなりません。しかしその次にパウロは、信仰者がこれからの戦いを思って、勇気を失うようなことにならないために慰めを与えています。18節。「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下もとにはいません。」

「律法の下にいる」というのは、たとえ100の中、99%のことが正しく出来たとしても1パーセントの間違いがあれば、厳しく追及されるということです。それに対して、「律法の下にはいない」という言葉の意味は、たとえ、わたしたちにまだ欠けている点があるにしても、それについてその責任を負わされず、その一方で、わたしたちの奉仕は、まるで完全に十分になされているかのように、神に祝福されているという結果になるのです。なぜなら、わたしたちはキリストに結ばれており、キリストは昔も今も後もわたしたちの罪の赦しのために執り成しの祈りを捧げてくださるからです。

さて、19~21節にはいわゆる悪徳表が並べられています。クリスチャンの生活の目標は聖霊に従い、その導きに逆らうわたしたちの性質に抵抗するために、具体的な目標を掲げて簡潔に示しています。イエスさまは人々に教えられました。マタイ7章17-18節。12上。「全て良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」と。真に、木はその実によって明らかに知られるものです。人はその結ぶ実が明らかになるまで、偽善者となっているので、実は自分が汚れた者と愚かな者であったことを認めることがなかなかできないのです。

これらの項目を一つ一つ説明は致しませんが、姦淫と偶像礼拝は大変近い関係にあることを知っていただきたいと思います。神に対する信仰も結婚の関係も誠実、忠実を前提としているからです。また聖書によっては汚れという言葉が出てきます。これは道徳的な不潔、不貞を表しています。わたしたちは魔術も悪徳の中に入っていることに注目したいと思います。世界中の子供たちにクリスマスシューボックスを送ろうというキリスト教団体の取り組みがありますが、靴箱サイズの箱の中に玩具や絵本などを入れて送るのです。その内容に、送ってはいけないものの項目がありました。戦争関連の武器、裸の女の子の人形などの他に、魔法の本も、入っているのが印象的でした。魔法や、占いなどの中に自分の願いを投影することも、聖霊の導きから遠ざかることだと思いました。

そして「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」とは、大変身近なところにあるのではないでしょうか。このような実を結ばないようにすることは、教会に結ばれているわたしたちの真剣な目標なのです。パウロの警告です。「このようなことを行う者は神の国を受け継ぐことはできません。」

さてそれに対して聖霊の結ぶ実について明らかにしましょう。それは、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」特に寛容について申しますと、寛容とは、longsuffering(辛抱強い、長く耐え忍ぶ),精神の柔和さであります。キリストのご性質そのものではないでしょうか。これらすべての徳は、聖霊によって与えられるものです。聖霊の導きによって神とキリストがわたしたちを新たに造り変えてくださるのです。「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」と勧められています。わたしたちはもはや自分自身に生きないために、キリストの死との交わりにつながれたのです。それは、人間の側の働きではなく、神の恵みによることであると信じます。

本日は聖霊を信じる教会の信仰について学びました。「わたしは聖霊を信じます」とは、どういうことでしょうか。それは、父と子と共に聖霊をあがめ、礼拝するということです。そして神さまに愛された人生を生き、イエス・キリストに救われた感謝と喜びの生活を送ることができるということです。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

本日の礼拝も、あなたの御前に祝福をいただいて捧げることが出来ました。心から感謝申し上げます。あなたはわたしたちの弱さにも、愚かさにもかかわらず、聖霊をお遣わしになり、わたしたちを愛し続け、忍耐し続けて今日まで守り導いてくださいました。わたしたちの教会の小さな歩みの中に、共に歩んだ方々をあなたはすべてご存知です。洗礼によって明らかにしてくださった救いの約束を、どうか最後まで全うしてください。わたしたちは与えられた恵みを思い起こし、これから歩む道のりをも導いてくださるあなたの御手を信じて委ねます。

多くの教会が全国に全世界に在って、労苦しながら福音を宣べ伝えキリストの体である教会を建てようとしています。その困難と喜びを共にしてくださるあなたの聖霊の導きを感謝します。特に想像を絶する水害に見舞われた地域の教会を強くし、被災者と共に支えてください。そしてわたしたちもその苦しみを思い共に祈る者とならせてください。あなたの御子イエス・キリストに結ばれているわたしたちが、教会に良い実を結ぶものとなりますようにわたしたちの生活を整えてください。人間的なものがほめたたえられることなく、ただキリストによって救いを齎したあなたの御名こそがほめたたえられますように。

多くの兄弟姉妹が高齢となり、病にあり、労苦しております。地上の歩みを終わるその日まで、そのご家族と共にお世話をする方々と共に恵みと平安を施してください。今週も成宗教会に連なる方々に、主の恵みのお導きを祈ります。また、この国に、この地域にある人々に御言葉を宣べ伝えるために労苦する連合長老会、日本基督教団の尊い務めを祝してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主が再び来られる時

聖書:申命記323539節, ルカによる福音書212528

 今日、読んでいただいた申命記32章はモーセが生涯の終わり近くに、神の民イスラエルに語り聞かせた言葉であるとされてます。イスラエルは、またの名を神の民、出エジプトの民と呼ばれています。彼らはエジプトの地で長い間奴隷として追い使われていました。彼らが苦難の叫びをあげると神はお聞きになり、神はイスラエルの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して立てた約束を思い出されました。創世記12章2節の約束です。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」

神は約束通りにイスラエルの民を奴隷の状態から救い出しました。彼らと契約を結び、神の民となさいました。しかし、それから彼らはいつも変らない信仰をもって神の民であり続けたでしょうか。モーセが「わたしが報復し、報いをする。彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。彼らの終わりは速やかに来る」と歌う「わたし」という主語は神であります。それでは、「彼らの足がよろめく」という彼らとは、だれでしょうか。彼らとは、残念なことに、神の民なのです。彼らは、神の民でありながら、他の神々を求め、それにささげた犠牲の肉やぶどう酒を飲み食いしました。だから、災いの日に、苦難の日に、主は言われます。「どこにいるのか、彼らの神々は。どこにあるのか、彼らが身を寄せる岩は。さあ、その神々に助けてもらえ、お前たちの避け所となってもらえ」と。主なる神はお怒りになっておられるのです。

何ということでしょうか。神は彼らを苦難の生活から救い出され、彼らと契約を結びご自分の民とされたのに、彼らは誰も彼は皆背いてしまったのです。しかし、この恩知らず、恥知らずの民は、神に背いた結果、力を失ってしまいました。未成年者もいない、成人の働き盛りの人々もいなくなりました。このことは神の怒りの結果でありました。。しかし、神は御自分の民が弱り果てているのを見られて、憐れまれたのではないでしょうか。36節に語られています。「主は御自分の民の裁きを行い、僕らを力づけられる」と。

主なる神は公平な裁きを行われる方であります。人々のうちにある悪を見過ごしにされることは決してありません。また反対に人々が善い務めを果たそうと人知れず労苦するならば、それを見過ごして心に留められない、ということはないのです。神はわたしたちが全能の父なる神とお呼び申し上げる方ですから、全能の御力をもって正しく裁いてくださいます。

しかしながら、旧約聖書の神の民は、神に従うことが出来なかったのですから、神から離れて滅んでしまったとしても、自業自得であったでしょう。そのことは、わたしたちも全く同じではないでしょうか。「神に従います」と約束しても、なかなか従うことが出来ず、神から離れてしまう。その一方、人々は真の神ではない、目に見える神々に従ってしまう。目に見える具体的な繁栄に、ご利益に心引かれてしまうのではないでしょうか。

わたしたちの生きている時代も、社会も全く同じではないでしょうか。神の民が少数者であるとしたら、この時代の、そしてこの社会の価値にのみ込まれてしまう危険にさらされています。この時代の、この社会の追い求める偶像、神々に振り回されてしまう危険に、わたしたちは絶えずさらされているのです。

しかし、教会はイエス・キリストによって福音を世界に宣べ伝え続けて来ました。神の裁きの前に衰え果てるしかない人間のために。この世の繁栄しか求めないために、日毎に夜毎にこの世の望みも衰えて行くしかない人間のために。いつの時代にも、どんなところでも消えない望みを宣べ伝える。日毎夜毎に輝きを増す救いを宣べ伝える。この貴い務めを教会は与えられています。

この福音は旧約聖書の神との契約を乗り越えるものです。人は神との約束を忠実に果たして救いを獲得することはできませんでした。しかし、神はそれでも人を愛し、力を失って滅びるばかりの人を憐れんでくださったのです。その愛がイエス・キリストを世にお遣わしになったことに証しされています。旧約の人々は罪を償うために、律法に従って羊や山羊などを身代わりに捧げました。しかし、この償いは罪を犯すたびに際限なく捧げられなければならないものです。憐れみ深い天の父は、御自分の愛する子を世の罪を贖う小羊として身代わりの犠牲とされました。神の御子が御自ら犠牲として十字架にご自分を捧げられたのです。教会は信じました。その死、そして葬り、三日目の復活によって、この犠牲が全人類のためにただ一度供えられた献げ物として神に受け入れられたことを

さて、最初の弟子たちは、そのほとんどが無学な田舎者でありましたし、パウロも言っております。(Ⅰコリント1:26)「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」と。また、主イエス御自身が宣べ伝えた福音も、預言者イザヤによって預言された言葉にあるように、「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしを捕らえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」それは貧しい人に宣べ伝えられ、打ち砕かれている心に受け入れられた福音なのであります。

そうすると、「では貧しくない人には福音はないのか?恵まれている人には救いはないのか?」というような疑問が出されることがあります。わたしたちには何よりもまず知るべきことがあります。それは、真の神は計り知れない富を持つ豊かな方であり、その豊かさをわたしたちに分かち与えたいと思っておられる方なのだということです。最初の人間をお造りになった時、その前に豊かな自然をお造りになって多くの生き物、花と鳥と食べ物を人間に与えてくださったと聖書は語ります。最初から人を荒れ野に住まわせ、苦労して働かせたのではなかったことを思い出しましょう。

しかし、人間は罪のために恩を忘れる者となりました。豊かに与えられれば与えられるほど、豊かに感謝し、神をほめたたえる者になったでしょうか。残念ながら、人間の歴史は全くその反対であったことをわたしたちは知らされます。不思議と言えば大変不思議なことですが、逆に、貧しい人々、苦難、困難を負っている人々の中から多く、福音を熱心に聞く者が現れて来たのです。日本でも明治時代の激動の時代、幾多の困難をものともせず、福音を宣べ伝えて行った多くの伝道者がいました。西日本に伝道したバックストンというイギリス人宣教師の話を思い出します。彼は十分の一献金を勧めて、10人信者がいれば教会が出来ると言いました。なぜなら、10人が10パーセントを捧げれば、全部で100%になるから、一人の伝道者の生活を支えることが出来る、としたのです。貧しいからこそ、少人数だからこそ、主の救いに希望を高く上げるのではないでしょうか。

また、私も思い出してみると、横浜市立盲学校に勤務していた時、教員は60名ほどいましたが、キリスト教徒はそのうち10名近くいたという記憶があります。目が見えないということは想像を絶する大きな困難です。だからこそ、一歩踏み出すことが、信仰そのものに掛かっていると思います。

さて、今日のルカ福音書21章は終わりの日に、主が再び世に遣わされて来られることを述べています。「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」キリストが天に昇られて2千年が過ぎ去りました。この間、福音は熱心に世界の果てを目指して宣べ伝えられて来ました。どんなに多くの人々が労苦したことでしょうか。ある時には伝道者の純粋な思いを利用して福音を商売のタネにするという勢力も起こりました。またある時には政治的支配に利用しようとする勢力も起こりました。欧米キリスト教国の繁栄を見て、神の国を求めるのではなくこの世の繁栄のためにキリスト教に近づく人々も多く起こりました。イエス・キリストのことは知らなくても良い。キリスト教から生み出された果実だけが欲しいという訳です。

しかし、どの時代にもキリストに従って教会を建てるために捧げられた人々の労苦、苦難は計り知れないものがあります。主イエスは、ご自分が天に昇られた後、福音を宣べ伝える弟子たちの困難を思い遣って、彼らを励まそうとしておられます。大きな患難が弟子たちだけに、教会だけに起こるのではない。終わりの日には、この世界全体が天地異変に見舞われると。わたしたちは大きな天災、人災が起こるたびに、また戦争や世界的な疫病の話を聞くたびに他人事ではなく、不安になります。しかし、わたしたちの不安は個人的な不安に終わっているでしょうか。あるいは家族だけの心配に終わっているでしょうか。あるいはわたしたちの不安は教会についての心配になっているでしょうか。もし、わたしたちの思いが、心配が、祈りが教会に結びついているならば、それは、わたしたちが主の体と結ばれている何よりの証しなのです。

主イエスはわたしたちを励ましておられます。あなたがたには苦難がある。しかしあなたがたが教会と結ばれているならば、勇気を出しなさい、と主は言われます。わたしは既に世に勝っているのだから、と。(ヨハネ16:33)わたしたちの教会には、ご高齢になって、礼拝に来られなくなっている方々が少なくありません。あるいは、遠くにおられて来られない、あるいはお具合が良くない、あるいは入院しておられる、という方々です。しかし、この方々が、お若い時にもまして、お元気な時にもまして、主の日の礼拝を思ってくださっているのです。「今は讃美歌が歌われている頃、今は説教がなされている頃と、考えてお祈りします」と私は言われて、大変励まされます。

20年前、30年前には考えも及ばなかったことではなかったでしょうか。教会といえば、いろいろな行事でにぎやかに、忙しいところというイメージがありました。しかし、そういう目に見える教会の事がらの背後にある、目に見えない教会の姿があります。それはいろいろな困難に日々直面しながらも主を仰いでいる教会、いや、むしろ困難に直面しているからこそ、ますます主を仰ぐ教会です。

この世界は2千年前、主イエスによって差し出された福音を拒絶してこの方を死に追いやりました。そして教会が福音を宣べ伝えている間も、神の国を求めるより、この世の支配を追い求め続け、教会の主を悲しませ続けています。しかし、世の終わりの時に衝撃を受け、悲しみ、嘆くのは、主の教会ではありません。光よりも闇を愛し、神の国の宝よりも、この世の宝を愛すればするほど、主の日は恐ろしい日となるでしょう。主は救い主として世に来てくださいましたが、再び世に来てくださる時は神の力によって人々を正しくお裁きになります。

Ⅰテサ5:5「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは夜にも暗闇にも属していません。」378下。突然主の日、終わりの日が来るその時まで、わたしたちは闇の中に置かれているのではなくて、神の光に照らされているのです。わたしたちの救いは終わりの日に神御自身が判断されることで、わたしたちが勝手に決めることではありません。しかし、わたしたちがなすべき生活の姿勢が問われています。それは信仰によってキリストの再臨を希望のうちに目を覚まして待ち続けることであります。日々の困難の中で、キリストに表された神の愛を思い、御心を形に表したいと思います。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

尊き御名を賛美します。今年も暑い夏になりました。わたしたちを励まし、御言葉をいただき感謝を捧げるために礼拝を捧げさせていただきました。深く感謝申し上げます。本日の礼拝、世の終わりに再び来てくださる主を教会は告白していることを学びました。わたしたちは、世が裁かれるときにも、世を愛して身代わりの犠牲を捧げてくださったイエス・キリストによって、罪赦されたことを信じます。世の繁栄も含めて、すべてがわたしたちの人生に恵みとして与えられています。どうか、感謝を以て、主のご栄光のために用いる日々を送らせてください。人を愛して止まない主をわたしたちも愛して、隣人を愛し、教会を建てて行くことで、恵みに応えることが出来ますように。いつも終わりの時を目指し、心をあなたに高く上げて歩むことが出来ますようにお導きください。

わたしたちの社会を救うために、どうかこの教会を、全国全世界の主の教会と共にお用いください。あらゆる違いを越えて共に助け合って一つなる体の教会を建てることが出来ますように。特に連合長老会の交わりと学びを祝し、連なる教師、長老、信徒の上に豊かな顧みをお与えください。また新たな教師をこの教会にお与えくださいますようにお祈りいたします。わたしたちの祈りと必要な備えをお導きください。

本日は主の聖餐に恵みによって与ります。わたしたちに悔い改めと感謝を捧げさせてください。また、礼拝後の長老会議をお導きください。教会学校の上にあなたのお働きを感謝します。今日も病気に伏しておられる方、悩みの中にある方を聖霊の恵みによって慰め、励ましてください。

この感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。