神のわざの素晴しさ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌166番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 35章5-6節 (旧約聖書1,116ページ)

35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。

新約聖書:マルコによる福音書 7章31-37節 (新約聖書75ページ)

7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

《説教》『神のわざの素晴しさ』

先々週ご一緒に読んだ「シリア・フェニキアの女」の話と、本日の「デカポリスの耳が聞こえず舌の回らない男の物語」は、それぞれが全く異なって独立している様に見えますが、よく読んでみると、その二つの物語を結合している信仰的な背景があることが見えて来ると言えましょう。

31節に、「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」とあります。

これは驚くべき距離です。また、その経路は異常なものとしか言い様がありません。時間の関係から今日はご一緒にこの経路を辿ることはしませんが、地図を見ながらこの聖書箇所を読まれた方は、予想外の方向へ向かって歩まれるイエスのお姿を見出すでしょう。例えば、熱海へ行くのに日光街道を辿るようなものです。そこである人は、「マルコが地理を間違えた」と言い、またある人は「現在伝わっている聖書の文章が間違っているのではないのか」と考えてみたりします。そうでもしなければ説明し難い真に不思議な旅だということです。

この旅が、目的を持った旅ではなく、7章の初めから語られて来ましたように、主イエスがユダヤ人の憎しみに追われ、更にまた追われて行った先々で隠れることも出来ず、次々と留まるところを移して行かざるを得なかった結果であると考えられるのです。それ故に、この旅の道順は不自然で、常識では考えられないコースを辿っているのですが、大切なことは、この異常さを「地理の問題に終わらせてはならない」ということです。

何故なら、ここに明らかにされた「本当に異常なこと」とは、この旅の経路ではなく、神の御子をこのように追い回した「人間の罪・そのもの」に見るべきだからです。この世に来られた神の独り子を、居所を定められぬ程に追い詰める憎しみこそ、神の秩序を乱した人間の罪の姿に他ならないからです。

この旅の経路が常識では有り得ないものであると言う前に、神の御子を十字架へまで追いやった人間の罪を、「まともには考えられない程に神の秩序を逸脱したもの」と認めなければならないのです。

31節に、「ガリラヤ湖へやって来られた」とあるのは、「ガリラヤ地方」ではなく「ガリラヤ湖畔」と思われます。また、8章10節では「舟に乗っている」ので、湖の東岸と考えるのが妥当でしょう。いずれにしても、この長い旅からガリラヤへ戻るのは次の8章に入ってからですので、この物語の場所は未だ異邦人の地域と思われます。ユダヤ人たちから異邦人として差別されていた人々は、皮肉なことに、神に愛されている筈のユダヤ人自身の罪により、「思いもかけず、神の御子に巡りあった」ということなのです。

そこで人々は「耳が聞こえず、舌の回らない人を」イエスの御前に連れて来て「手を置いてくださるように」と願いました。「手を置く」とは、明らかに癒しの奇跡を求めていることを表しています。この男の苦しみの解決は「耳が聞こえるようになること」でした。言葉の不自由さは耳が聞こえないことから生じているからです。そして人々は、有名なナザレのイエスなら「耳を治すことが出来るであろう」と考えたのでした。

「そこでイエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。」と、ここに書かれています。

実に不思議なことをなさっているのですが、当時の人は「唾」に「病気を癒す力があると信じていた」のです。イエス・キリストは、常にその時代の人々の考え方の中に身をおいて行動なさる方なのです。

従って、ここで大切なことは、「唾をつける」ということではありません。それはただ、不幸な人自身が「今、自分が癒されている」ということを実感として味わうことが出来るための、「キリストによる特別な配慮」と言えましょう。

さらに注目すべきは、この時、イエスがこの男を「群衆の中から連れ出した」ということであり、文字通りには、「彼一人を引き離した」ということでした。

二千年前のこの時代、魔術師と呼ばれた者達が不思議な業を行い、人々を驚かせていました。例えば新約聖書228ページ、使徒言行録 8章9節~10節には「この町には以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さい者から大きな者に至るまで皆、『この人こそ偉大なものといわれる神の力だ』と言って注目していた。」とあります。

また、同じ使徒言行録には、キプロスでパウロが魔術師を追放したということが記されており、エフェソでも各地を巡り歩く祈祷師たちがいたことも記されています。彼らは、自分たちの力を誇示するために何時も大勢の人々を集め、その人々を観客として不思議な業を行っていたのです。

それに反し、イエス・キリストは、御自分の力をことさら人々に示すことをなさらず、不幸な障害を持つ彼一人を御業の対象とされたのでした。

主イエスは魔術師でもなければ祈祷師でもありません。主イエスは大勢の人々の喝采を得ようとして御業を行われたのではありません。ですから単なる見物人は無意味でありました。主イエスは神を見失って生きる人間を苦しみや悲しみから救うためにやって来られた独り子なる神です。

ですから、主イエス・キリストと救われる者との関係は常に一対一なのです。主に苦しみを訴え、主が招いて下さる者だけが顧みを受け、神の恵みの下に立つのです。「キリストが私を呼んでおられる」ということに気付いた者だけがキリストとの交わりに入るのであり、その声を「私への呼びかけ」として聴かない者は、その関係が結ばれないのです。

私たちは、いったいどちらでしょうか。この男の友人たちは確かに彼をイエスの下に連れて来ました。「この不幸な男にはナザレのイエスが必要だ」と考えたのでしょう。しかし、そのイエスが「自分たちにも必要である」と考えていたでしょうか。

さらに、主イエスは御自分を必要とする人間をどう御覧になるでしょうか。34節には「天を仰いだ」と記されています。主イエスは先ず「天を仰いだ」のです。「天」に御顔を向けられたのです。「天」とは言うまでもなく「父なる神」のことです。「上を向いた」のではなく、「父なる神を仰いだ」のであり、「救いは神より来る」ということをハッキリと示されたのです。

旧約聖書968ページ、詩編121編1節と2節にこのように記されています。

121:1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
121:2 わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。

主イエス・キリストは、救いを求める全ての者に「救いの根拠」を示されたのです。「救いは天地を造られた主のもとから来る」のです。

続いて、主イエスは「深く息をついた」と聖書は記しています。深呼吸されたのではありません。「深く息をつく」と訳されている言葉は、「苦痛や嘆きの感情が言葉にならず、聞き取れぬ程の音声となって出ること」と辞書にありますので、「深い息」と言うより「うめき」と訳し、理解すべきでしよう。

主イエスは、全てを顧みられる父なる神の御心を「うめき」によって示されたのです。「うめき」は、この不幸な男に対する愛の豊かさと言えましょう。一人の苦しむ人間に対する激しいまでの慈しみです。そしてこれこそが、主イエス・キリストが私たちに接して下さるお姿なのです。

主イエスは、私たちをこれ程までに大切に扱って下さるのです。一人の人間の苦しみに対し、この世の片隅で誰にも相手にされずに生きて来た一人の人間の苦しむ姿に対して、神の御子は、心からの慈しみをもって接して下さり、そして「エッファタ」と言われたのです。

主イエスが「うめき」と共に叫ばれた「エッファタ」という御言葉は、決して不思議な力を持つ呪文ではなく、「開け」という意味です。そしてこの短い言葉の中に、マルコは全ての人間を救われるキリストの決断を見たのではないでしょうか。それがこの御言葉を敢えてギリシア語に翻訳せず、イエスが語られたままのアラム語で書きとめた理由でした。「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになった」とあります。

この男の耳は聞こえるようになり、話をすることが出来るようになりました。そしてこの奇跡は、私たちにおいても、現実のものとなっているのです。

私たちの罪とは何処にあるのでしょうか。それは、私たちの心の耳が御言葉に対して閉じられている処にあるのです。罪が心の耳を塞ぎ、御言葉を聞くことが出来ないようにしているのです。そしてサタンが、さらに数々の誘惑の言葉を耳元でささやき続けるために、いっそう御言葉から遠ざけられるのです。

肉体の耳の不自由な人が言葉を正しく語れないように、神の御言葉に対して心の耳を閉じている者に、「まともな言葉」が語れる筈はありません。それ故に、この世界は「まともではない言葉」ばかりが満ち満ちているのです。そしてその「まともではない言葉」が人間の心を傷つけて行くのです。

教会の中でさえ、呼びかけられる神の御声に対して心の耳を塞ぐならば、その人の語る言葉は単なる自己主張であり、人間のわがままであり、神の栄光を表す「まともな言葉」ではなくなってしまうでしょう。

神の国に生きる者の原則は、「私は何をしたいのか」「私に何が出来るのか」を考えることではなく、「キリストが、教会を通して、私に何を言われようとしておられるのか」を考えることでなければなりません。

この世界の歩みを正すものは何でしょうか。それはここに記されたキリストの御言葉のみです。「エッファタ」という御言葉によって私たちの耳が開かれ、御言葉を正しく聞くことが出来るようになったことこそが、「神様に造られた本来の人間」に立ち戻る第一歩なのです。

最後の36節から37節に、「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」とあります。「この方のなさったことはすべて、すばらしい」。この群衆の驚きは何であったのでしょうか。奇跡に対する驚きでしょうか。ここの「すっかり驚いた」とは変な日本語ですが、この言葉は、「雷にでも打たれたように、びっくり仰天して肝をつぶす」という意味であると辞書にあります。

マルコ福音書は、ここで何を語りたいのでしょうか。それほど人々が驚いたということを報告したいのでしょうか。しかし、先ほども触れましたように、この癒しの御業は人の眼を避けて行われた「隠された御業」であり、群衆の驚きを招くことに御心があったのではなかった筈です。マルコ福音書が語ることは、今、この出来事を「福音として聴く私たち」に、「驚け」と言っているのです。御子の御業の中に示された「神の御心に驚け」ということです。

旧約聖書2ページ、創世記1章31節は、天地創造の完成について、こう記しています。「神は御造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」

この「極めて良かった」。これが私たちの世界の本来の姿でした。

旧約聖書との関係を考えるならば、マルコによる福音書は、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という言葉を、単なる「人々の驚き」という側面から見るのではなく、かつて損なわれた神の創造の秩序が「ここに回復された」ということを告げているのです。神の創造の秩序「すべてを良しとされた」あの世界が、今、主イエス・キリストの愛によって、ここに回復されたということなのです。

ナザレのイエスこそメシア・キリストであり、罪の中で苦しむ者に「かつての幸福を取り戻して下さる方である」とマルコ福音書は語っています。

主イエス・キリストは、「失われた楽園の生活、神と共に生きる平和が回復された」という宣言を、罪の深みに沈む人間の心の耳を開いて「聴くことが出来るように」してくださったのです。

今、私たちの耳は、あの「エッファタ」という御言葉によって既に開かれ、御言葉を正しく聴き、御言葉をもとに語ることの出来る人間に造りかえられていくのです。

福音から遠く離れた異邦人さえも天の御国の交わりへ導くこと、それが御心であり、私たちはその中に生かされているのです。

お祈りを致します。

恩寵

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌122番
讃美歌420番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 56章6-7節 (旧約聖書1,154ページ)

56:6 また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら
56:7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

新約聖書:マルコによる福音書 7章24-30節 (新約聖書75ページ)

7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

《説教》『恩寵』

本日の聖書箇所、7章24節以下には、主イエスが人々から身を隠すように、「ティルスの地方」に行かれたことが語られています。この新共同訳聖書の後ろにある緑色の地図の「6.新約時代のパレスチナ」というのを見ていただきますと、地中海沿岸を北にずっと上って行ったフェニキア地方にティルスという町があります。ここはユダヤ人の国ではなくて異邦人の地です。主イエスは「だれにも知られたくないと思っておられた」と24節にあるように、ユダヤ人たちの目を避けて、ゆっくり弟子たちと語り合い、交わるためにこの地に逃れて来られたのです。それなのに「人々に気づかれてしまった」とあります。これは「隠れていることが出来なかった」と読むべきでしょう。主イエスの評判がこのティルスの町にまで伝わっており「隠れようとしても隠れられなかった」のです。
そこに、一人の女性が訪ねて来ました。26節によれば「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」とあります。ユダヤ人ではなくてギリシア人、つまり異邦人です。

先週の「けがれ」と題した説教で、主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わないことを律法学者たちが責めたことについてお話ししました。これは主イエス御自身による新しい時代の始まりを告げるものであり、もはや、全ての人間が一切の差別もなく、神の御前で「赦しの御言葉を聴く時が来た」という宣言でした。
しかし、これが、逆に律法を堅く守る伝統的なユダヤ人の憎しみと拒絶を生み出しました。何故なら、ナザレのイエスの評判は既にこの異邦人の地にまで響いており、大勢の人々が集まって来たからです。25節から「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」とあります。これまでと同じような、病気の癒しを求める物語とよく似ています。確かに、幾度も繰り返されて来たお姿です。しかしながら、今ここで、マルコ福音書は、これまでとは決定的に異なる「何か」を語ろうとしています。「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」と記されています。この女性はユダヤ人ではなく、異邦人のギリシア人だったのです。汚れた霊によって、この女性とその娘、そして家族全体が、大きな苦しみを負っていたことは確かです。そういう苦しみ悲しみをかかえていたからこそ彼女は、ユダヤ人たちの間で病気を癒し、悪霊を追い出しておられる力ある主イエスがこの町に来ていることを「すぐに聞きつけ」やって来たのです。彼女は主イエスのもとに来るとその足もとにひれ伏して、娘から悪霊を追い出してくださいと頼みました。これは随分大胆なことです。主イエスの足もとにひれ伏して願うことが大胆なのではなくて、異邦人である彼女が、ユダヤ人である主イエスにこのように救いを願うことがまことに大胆なことなのです。
ユダヤ人と異邦人の間には、私たちにはちょっと想像できないような深い隔たりがありました。それは主にユダヤ人側が、異邦人を汚れた者として付き合おうとしなかったこと、それがユダヤ人と異邦人との「分離」であると先週お話ししました。そのことから両者の間には基本的に敵意があったのです。だから、異邦人であるこの女性が、ユダヤ人である主イエスに救いを願うことは普通はあり得ないし、そもそも願ったとしても聞き入れられる筈はない、というのが当時の常識だったのです。彼女はそのことをよく知りながら、それでも主イエスに救いを求めました。それが彼女の大胆さでした。
遠い昔、父なる神は多くの人々の中からアブラハムを選び出されました。そして、アブラハムに連なるイスラエル民族を神の民として定め、歴史の中で守り続けられました。長い時の後に、イスラエル民族の中に、神の御子が「人として」お生まれになりました。これはただ、「恩寵」と言う以外、説明のしようがない出来事です。何故なら、何の優位も誉れもない「イスラエル民族の一人」として神の御子を迎えることが出来たからです。
しかし、その結果はどうであったでしょう。彼らは、世に来られた神の御子キリストを追い払ってしまったのです。神の御心に背を向け、自分たちの思いの中に閉じこもり、福音を自ら遠ざけてしまったのが、この時代のユダヤ人でした。
そして今、遠く離れた異教の地ティルスの町で、「神の選びの外に置かれたと見做されて来た異邦人の女が、キリストの足下にひれ伏した」という場面を語るマルコ福音書は何を伝えようとしているか。
ユダヤ人たちは、神から与えられた律法を自分たちの生き方の基準にして来ました。しかし、長い時の中で御心を忘れ、「神の民として生きよ」という律法本来の目的を忘れて、自分たちの社会生活を正当化するために利用し続けたのです。それ故に、今、その律法が「本来の役目を取り戻す時が来た」という、まさに歴史的な瞬間に遭遇しても、自分たちのこれ迄の生き方を守るために、新しい時の到来を告げる神の御子の言葉を聞かず、イスラエルの地での宣教を拒否したのです。
しかしながら、そこに予想外の出来事が生じました。神に選ばれたユダヤ人が追い出した御子キリストの前に、異邦人の女性、ユダヤ人から見れば救いの外に置かれ、哀れな民族と蔑まれて来た異邦人の女性が、「ひれ伏した」というのです。ユダヤ人の頑なさは、この世に来られた御子キリストを追い払って、かえって皮肉にも、福音を求める人間、キリストを求める人間を、新たに異邦人の中から生み出す結果となったのです。それが、27節にある主イエスの『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。』との御言葉です。このたとえでは、「子供たち」はイスラエルを表し、「子犬」が異邦人を表しています。ユダヤ人が異邦人を「犬」と呼んで軽蔑していたことは事実であり、そのため「イエスもそのような差別をするのか」と非難する人があります。ここでは、主イエスは異邦人を差別しておられるのではありません。長い歴史を貫く神の愛の確かさを語られたのです。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」。この言葉の中に父なる神の御心の実現に仕える主イエスの姿が示されていると言えるでしょう。かつて主なる神は、救いを実現するために、あらゆる人々の中からユダヤ人を選ばれたのであり、それが歴史を貫く神の御業でありました。
しかしユダヤ人は、選ばれた恩寵を、いつの間にか「恩寵として受け止めること」を忘れたのです。愛されたことに感謝を忘れる時、神の民は「神の民としての最も大切なあり方」を失ってしまいました。イスラエルの民は、「この世に来られた御子に導かれ、神の国に入る人々の先頭に立つ」という使命を捨ててしまったのです。

神の御子を追い出して福音を自ら締め出したユダヤ人。その現実にも拘らず、「選ばれた民を見詰める御心は変わっていない」と主イエスはこの譬えで言われているのです。ここが大切なところです。主イエスは、ティルスという遠く国境の彼方に追われながらも、そこで明らかにしたのは、御自身が選び出した者、即ち、ユダヤ人への変わることのない神の愛でした。神の愛は、何処までも愛する者への愛を変えない永遠の愛です。
それ故に、「まず、子供たち(イスラエル)のために」という「初めの愛」の神の御心を想う時、その愛を拒否する人間の罪が、更に、明らかにされて来ます。28節には、「女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。』」。
この女性は、主イエスの御言葉を正しく受け止め、御心に相応しく答えました。28節の女性の言葉は、原文では「主よ」という言葉の後ろに「そのとおりです」という意味のギリシャ語の「カイ」という言葉が記されています。この言葉は地味な言葉で、新共同訳聖書では省略されてしまっていますが、内容的には極めて重要であり、口語訳では「主よ、お言葉どおりです」と訳されています。彼女は、「主よ、お言葉どおりです」と御前にひれ伏した上で、憐れみを求めているのです。
27節で主イエスが言われたのは、今見て来たように、先ずユダヤ人への愛でした。病気に苦しむ幼い娘を抱えた女性を前にして、キリストは、父なる神が選ばれたユダヤ人への愛を、まず明らかにされたのです。病気で苦しむ娘を持つ親の気持ちを考えれば、冷たい仕打ちと思われるかもしれません。眼の前で助けを求める者を差し置いて、ユダヤ人のことを思っているからです。
しかし、驚くべきことは、その主イエスに対する女性の態度です。彼女は、それでもなお、「主よ、そのとおりです」と御心に服従し、自分の立場をへりくだっています。神への祈りは、「主よ、お言葉のとおりです」という「キリストへのまったき服従」の後に初めて意味を持つのです。この女性の告白した神の御心への服従こそ、本来、ユダヤ人が告白すべきことであった筈です。ユダヤ人は、その告白をするための民族として選ばれていたからです。
しかし、そのユダヤ人が御言葉に背を向け、異邦人の女がユダヤ人に代わって御心への服従を告白しているということこそ、実は、新しい神の民、新しいイスラエルの誕生が、ここに暗示されているのです
そして29節から30節で、主イエスは言われました。「『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出て行ってしまった。』女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出て行ってしまっていた。」とあります。
奇跡は起こりました。そしてそこで起こった奇跡とは、「娘の病気が治った」という「出来事」だけではなく、「まず、ユダヤ人に」という「神の救いの御計画」に等しく異邦人も加えられたのです。神の恵みの御業が、等しく異邦人へも向けられたのです。マルコ福音書が告げるのは、29節の「それほど言うなら」という主イエスの御言葉が異邦人にも向けられるのだという大きな転換の出来事なのです。
キリストの愛に分け隔てはないのです。ただ、キリストを受け入れる者だけが、その愛を「驚くべき奇跡」として喜ぶことが出来るのです。救われた喜びを十分に受け止めることが出来るのです。
今、私たちは福音のもとにいます。救いの御業の中にあります。
私たちを憐れまれるキリストの愛が、私たち異邦人にも注がれたという事実を忘れてはなりません。ただ、キリストの愛に基く恩寵によってのみ、私たちは生きているのです。
悪霊から解放された娘を見詰める女性の喜びが、今、私たちの心にも甦って来るでしよう。その驚きと喜び、そして感謝を共有するのがキリスト者という者の姿なのです。
この素晴らしい救いの喜びを、教会の皆様共々に、お一人でも多くの方々と共にしようではありませんか。
お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

けがれ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌 2番
讃美歌520番
讃美歌98番

《聖書箇所》

旧約聖書:出エジプト記 29章33-34節 (旧約聖書143ページ)

29:33 彼らは、自分たちの任職と聖別の儀式に際して、罪の贖いとして用いられた献げ物を食べる。それは聖なるものであるから、一般の人は食べてはならない。
29:34 もし、この任職の献げ物の肉やパンが翌朝まで残ったならば、焼き捨てる。それは聖なるものであるから、だれも食べてはならない。

新約聖書:マルコによる福音書 7章14-23節 (新約聖書74ページ)

7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

《説教》『けがれ』

本日の説教題を「けがれ」とつけました。本日はマルコによる福音書第7章14節以下をご一緒に読むのですが、ここには、本当に人を汚(けが)すものは何なのか、ということについての主イエスの教えが語られています。何が人を汚(けが)すのか、ということが、当時のユダヤ人たちにとって大変大きな問題だったのです。旧約聖書には、清いものと汚(けが)れたものとを区別するための大変細かい掟が記されています。汚(けが)れたものに触れて汚(けが)れを身に負ってしまうと神様の前に出ることができなくなるからです。この汚(けが)れは衛生的な問題ではなくて宗教的な意味での汚(けが)れのことを言っています。旧約聖書には、そのように汚(けが)れてしまった人が身を清めて再び神様の前に出るためになすべき儀式や捧げものについても細かく書かれています。この旧約聖書に語られている、清いものと汚(けが)れたものについての教えは私たちキリスト者においてはもう乗り越えられているのです。しかしそれはどのようにして乗り越えられたのでしょうか。時代が新しくなって合理的な考え方が定着してくると、そのような感覚は自然に乗り越えることができたのでしょうか。そんなことではありません。私たちが、日常の生活の中で「これは清いものか、汚(けが)れているか」などと気にすることなく生きていけるのは、本日語られている主イエスの教えがあるからです。

先週の説教では、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、「食事の前の手洗いという伝統的な宗教儀式を主イエスの弟子たちが守らない」ということを非難しました。それに対し、主イエスは、律法を与えて下さった神の御心に従うことを疎かにしている彼らの形式主義の誤りを指摘しました。

本日のこの14節以下では、律法学者たちが出した問題に対する答えを、律法学者たちに向かってではなく、主イエス御自身が呼び寄せた群衆に対して語られるのです。この主イエスのお姿は、ファリサイ派の人々や律法学者たちに対する神の裁きを示すと共に、古い時代との訣別と新しい歩みを明らかにしています。

14節にある、「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい」、これは当時の人々にとって大胆な驚くべき発言でした。何故なら、当時の人々にとって、ここにある「聞く」という言葉は「聖書に聞くこと」「聞き従うこと」を意味したからです。勿論、この場合の聖書とは旧約聖書のことです。

イスラエル最古の信仰告白と言える申命記6章4節以下の御言葉は、「聞け、イスラエルよ」という言葉で始まります。「シェマー・イスラエール」という呼びかけで始まるこの聖句を、現代でもイスラエルの人々は家の全ての戸口に貼り付けており、祈りの時には身体に付けます。神は語り、人はそれを聞く。それが神の民の生き方の基本であったからです。神は聖書を通して語り、人は聖書を通して御言葉を聴く。そしてその御言葉を解釈して語る律法学者たちの言葉がイスラエルの人々の生活を支配していました。

御言葉を解釈する権威を持つ律法学者たちの前で、彼らを無視して、今、主イエスは群衆に向って「わたしに聞け」と言われたのです。神の御子としての隠されている主イエスの御業の一端を、主イエス御自身がお示しになったのです。

15節の、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」、これが御言葉の中心であり、ここに「新しいこと」が語られているのです。ペトロを初めとする弟子たちがこの御言葉を理解出来なかったということは、17節でこの御言葉を弟子たちが「たとえ」として聞いたことからも明らかです。15節の何が「たとえ」なのでしようか。

「汚(けが)れ」については、既に7章1節以下の先週の説教で詳しく述べましたが、重要なことなので、もう一度、簡単に繰り返しておきます。先ず、ここでは「ケガレ」と読み、「ヨゴレ」とは読みません。食事の前の手洗いは、ユダヤ人にとって「ヨゴレ」の問題ではなかったからです。重要なことは「ケガレ」です。「神の御前に出られない状態」を「穢(けが)れ」と言います。

イスラエル民族は小さく弱い民族でした。他の民族と一緒になったら必ず飲み込まれてしまいます。そして周辺の人々は全て偶像礼拝の民族でした。偶像礼拝によって神の御名を「汚(けが)す」ことこそ避けなければなりません。それ故に、主なる神は異民族に近づくことを禁じられました。これを「分離」と言いました。偶像礼拝から引き離された民、それを「聖なる民」と言うのであり(出エジプト記29章33節~34節)、旧約聖書ヘブライ語で「分離」「聖別」を意味した“コーディシュ”という言葉が「聖なる者」(ギリシア語ではハギオス)という意味になったと先週お話しました。

しかし今、主イエスは全く新しいことを示されました。主イエスはその考え方を根本から否定されたのです。18節の、「外から人の体に入るもので、人を汚(けが)すことの出来るものは何もない」という御言葉は、異邦人という、神から遠ざけられた者を危険ではない受け入れなさいと肯定するものでした。19節では、「外から入って来るもの」の代表として食物があげられています。しかし勿論、主イエスが単なる食物のことを語っているのではないことも明らかです。

ユダヤ人にとっての食物は、レビ記11章に詳しく記されているように、食べてよいものと悪いものとが現代においても厳密に区別され、これまた分離の大切な「しるし」でありました。それ故に、ユダヤ人は「他の民族と一緒に食事をしない」ということが固く守られるようになりました。ですから、「全ての食物は清い」と主イエスが言われたことは、実は、現代のユダヤ人にとっても驚くべき宣言であるのです。

神様は、万物を創造された時、「それを見て、よしとされた」と創世記は祝福を語っています。神様が造られたものは「全て、よいもの」でありました。この世界は「清いもの」として造られたのです。

ですから、ここに語られた主イエスの御言葉は、今や、神様に造られた全てのものが「本来の姿を取り戻す時が来た」ということを告げているのです。

それでは「汚(けが)れ」は全く消滅したのでしようか。そうではありません。20節以下には、「人から出て来るものこそ、人を汚す」とあります。それは、「つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」と主イエスは言われました。

「汚(けが)れ」とは、「神の御前に出ることが出来ない状態」のことであり、私たちをそのような状態に引き落とすものが、「自分の心の中にある」というのです。この21節以下の悪のリストと言うべきものは、心の中から出る悪の代表的な例に過ぎません。

私たちは、何故、人を欺くのでしょうか。ねたみを抱き、悪口を言います。傲慢であり、無分別です。これらの醜い姿は心の中にあるのです。口から出る言葉が、目に見えない隠された心の罪を顕わにするのです。心の卑しい人は、口から出る言葉によって醜さを現し、言葉に棘のある人は、そのことによって、心に思いやりの少ないことを示すのです。

神に背を向けた人間の生きざまがさまざまな悪となって表面に現れて来ます。それは、赦されざる罪の結果であり、私たち全てが背負っている罪が「聖なる民」となることを妨げているのです。

「外からの汚(けが)れ」。即ち、異邦民族からの分離や食物などによる差別は、キリスト・イエスの一言によって消滅しました。イスラエルが長く守って来た分離の思想は、神の御子主イエスによって、それまでの意味を失いました。しかしながら、人の中に存在し続ける「汚(けが)れ」即ち「罪」は、御子の死「十字架」を待たなければ解決しなかったのです。

弟子たちはそれを理解できずに17節で主イエスに尋ねました。主イエスは、罪について実に明確に語ったのですが、弟子たちには、それが分からなかったのです。このことは、罪を背負って生きる人間、弟子たちでさえ罪の中にあれば、「汚(けが)れ」の意味が如何に理解できなかったのかに具体的な姿と言えるでしよう。

主イエスはこのように、人の汚(けが)れは外から入って来るのではなくて、人の心の中から生まれるのだとおっしゃいました。汚(けが)れは洗って落とせるような外側にあるものではない、あなたがたの心そのものが汚れの源なのだ、とおっしゃったのです。それはファリサイ派の人々や律法学者たちに対する批判であるだけではありません。私たちが、自分は清く正しい者であり、ある人を悪人であると差別しようとする時、その前提には、自分がもともと清い者であり、汚れは外から入って来る、という思いがあるのです。主イエスはそういう私たちに対して厳しい否をつきつけて、あなたがた自身の中に汚れがある、そこから悪い思いや行いが次々に外に出て来るのだと言っておられるのです。だから、外側をいくら一生懸命に清めても、私たちは清い者となることができないのです。

それでは私たちはどうすればよいのでしょうか。汚れは外側からではなく内側から、心の中から生じるのだから、外側ではなくて心の中をこそ洗い清めなさい、と主イエスは教えておられるのでしょうか。そうではありません。私たちが洗い清めることができるのはせいぜい外側だけです。心の中を自分で洗い清めることはできません。悪い思いを捨て、心を入れ替えて清い思いで生きようと決心しても、それは出来ることではありません。そのように決心する私たちの心そのものが汚れの源なのだと主イエスは言っておられるのです。

主イエスは、伝道の最初の時以来、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語って来られました。「神の国は近づいた」、つまり神様のご支配が今や実現し、あなたがたを捉えようとしている、それが主イエスの教えの根本です。この主イエスの宣言にこそ、私たちの心にある汚(けが)れ、罪からの解放、救いがあるのです。その解放、救いは、神様が私たちを支配して下さることによって実現し、与えられます。その神様のご支配が、今や主イエス・キリストによって実現しようとしている、それが「神の国は近づいた」ということです。私たちの、汚れからの、罪からの解放は、主イエス・キリストによって与えられるのです。それは、私たちを支配している罪、汚(けが)れをすべて、ご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さるためでした。キリストの十字架の死によって、神様が私たちの罪を赦し、汚れをぬぐい去り、清めて下さったのです。それが「福音」です。「悔い改めて福音を信じなさい」とは、自分の力で自分の心を洗い清めようとするのではなく、キリストの十字架による罪の赦しという福音、救いの知らせを信じ受け入れて、その神様の恵みのご支配の下に身を置くことです。お一人でも多くの方が、とりわけ身近なの人々が共々に罪から救われますよう、お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

みこころを思え

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌 6番
讃美歌352番
讃美歌79番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 28章20-22節 (旧約聖書46ページ)

28:20 ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、
28:22 わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

新約聖書:マルコによる福音書 7章1-13節 (新約聖書74ページ)

7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

《説教》『みこころを思え』

今日まで、マルコによる福音書を連続して、ご一緒にお読みして来ましたが、今日から7章に入ります。最初の1節に「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」とあります。ファリサイ派と律法学者とは基本的に同じと考えてよいでしょう。旧約聖書に記されている神様の掟である律法を研究し、それを人一倍厳格に守り実践するという生活を送っていた人々です。そして彼らは一般の人々に、日々の生活の中で律法を守って生きることを具体的に教えていたのです。イスラエルの人々が、主なる神の民として相応しく、律法を守って生活するように指導していくことが彼らの働きでした。そういう人々が何人か、エルサレムから主イエスのもとに来たのです。主イエスが今活動しておられるのはガリラヤ地方です。ユダヤの北の方、ガリラヤ湖の周辺のこの地は、エルサレムからは100Km以上の距離がある「田舎」です。その田舎であるガリラヤにイエスという男が現れ、神の国の福音を宣べ伝え、癒しの奇跡を行い、多くの人々が彼の周りに集まっていることを伝え聞いたエルサレムのファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエスの語っていることと、行っていることを調べ、それが律法に適ったものかを確かめるためにやって来たのです。そのような時、主イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしているところを、たまたま見たのでした。食事の場にまで居合わせたということは、彼らは、これまでも主イエスと行動を共にしていたとみることが出来ます。主イエスと行動を共にし、御言葉を繰り返し聞きながら、何一つ自分の内に留めることなく、過ちを見出すことのみを考えていたのが、このファリサイ派の人々や律法学者たちでした。

この時の弟子たちの行動が、何故、ファリサイ派の人々にとって非難すべきことと思われたのかを、当時のユダヤの習慣を知らない人々のために、マルコはわざわざ3節と4節で説明をしています。そこには、「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人々の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台などを洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」とあります。これは聖書に記されているユダヤ人が守っていた「律法」ではなく、いわゆる「昔からの習慣」でした。

ここで「汚(けが)れ」と訳されている言葉についてですが、日本語の「ヨゴレ」と「ケガレ」とを明確に区別しておかなければなりません。特に注意しなければならないことは、「手を洗う」ということが、衛生上のことではなく、大切な宗教儀式であったということです。ユダヤ人の「手洗い」は、「汚(よご)れたから洗う」のではなく、厳密に言えば、「穢(けが)れたから潔める」ということなのです。2節に用いられている「汚(けが)れ(コイノス)」というギリシャ語の言葉は、「聖なる(ハギオス)]という言葉に対称する言葉です。「ヨゴレ」の問題ではなく、「ケガレ」の問題なのです。一言で言えば、「ケガレ」とは「神に近づくことが出来ない状態」と定義することが出来るでしょう。旧約聖書はこの「ケガレ」について数多くの戒めを記しており、それぞれに大切なことが決められていますが、全ての律法に共通する精神、それは「イスラエル民族を守る」ということでした。

イスラエルは小さく弱い民族でした。周辺の民族の中に埋没してしまう危険性が常にありました。特に周辺の諸民族は全て偶像礼拝をしています。ですから、彼らとの同化は信仰を失う危険を招く恐れが強かったと言えるでしょう。それ故に、旧約聖書をもって、イスラエル民族と他の民族を明確に分け、異民族から分け隔てる「分離の思想」というものが確立されていったのです。小さく弱いイスラエル民族を周囲の偶像礼拝から守るにはどうしたらよいのか。神様が教えられた方法は、危険から引き離すこと、危険に近寄らないこと、即ち「分離すること」でした。砂漠の民、遊牧の民として、質素で厳しい生活に耐えて来たイスラエルの民にとっては、地中海文明の覇者であるローマ帝国の下での都市生活は大きな誘惑でした。このため、神様は異民族との「分離」を御命じになったのです。神の民の歴史の中で「分離」が重要な主題となり、そしてヘブライ語の「分離(コーデシュ)」という言葉が旧約聖書の「聖」「聖い」という意味に用いられるようになりました。逆に言えば、私たちが聖書から用いる「聖」という言葉は、本来「分離する」「引き離す」という意味の言葉なのです。

それ故に、イスラエルは自分たちを自ら「分離された民族」、同じ意味で「聖なる民族」と呼び、他の民族と交わることを、「聖」の反対語を用いて「ケガレ」と呼びました。不潔なものや不衛生なものに触れたので「ヨゴレタ」というのではありません。偶像礼拝などによって、自分たちの信仰が危険に晒されることを、そこに感じたからです。ですから、ここで議論となった「手を洗う」という行為は、自分たちの信仰の純粋性を偶像礼拝の危険から守るという具体的な行動を表す言葉でした。

5節でファリサイ派の人々や律法学者たちは「なぜ手を洗わないのか」と非難しました。しかし彼らは、「それでは、なぜ、手を洗うのか」という問いが、改めて主イエスから返されたことを見落としているのです。「今や、手を洗わなくても良い時代が来た」という主イエスの大切なメッセージを聞き漏らしているのです。

マルコによる福音書に記された主イエスの最初の御言葉は何であったでしょうか。それは1章15節の「時は満ちた」でした。準備の時は終わり、遂に御業の完成の時が来たのです。マルコ福音書はこのことを宣言しているのです。

他の民族との接触を避け、自分たちの立場を「分離」して固く守る時代は終わったのです。主イエス・キリストの到来は、これまで「分離すること」で守られて来たイスラエル民族が、今や遂に、全ての人々のために、神の御業の証し人として出て行く「時の始まり」でした。

主イエス・キリストの宣言はこのことでした。そして、調べに来たファリサイ派の人々や律法学者たちもこの御言葉を聴き、その「しるし」を見た筈でした。それにも拘らず、単なる習慣上の形式に囚われ、律法が目指して来たことを見落とし、弟子たちのあら捜しをして、主イエスを陥れることしか考えていませんでした。既に述べたとおり、「手を洗う」ということは、確かにユダヤ人にとって、分離され保護されている自分たちの姿を確認することでした。さらに主イエスは具体的な例を挙げ、ファリサイ派によって代表されている人間の罪を指摘するのです。9節以下で、「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対し何もしないで済むのだ』」と言われました。ここで「コルバン」とは、ここに説明されているように、「神様への献げもの」という意味です。この時代のイスラエルでは、神様への献げものは絶対視されていました。人間は神様より与えられたものを受けているのであり、「その最初のものは神様にお返しするべきである」とされ、十分の一を先ず神様に献げ、残りの十分の九で生活すべきことが聖書に記され、固く守られて来ました(創世記28章22節、レビ記27章30節、申命記14章22節、アモス書4章4節、ルカ福音書18章12節)。「コルバン」とはこの「神様への献げもの」のことであり、ひとたび「コルバン」と宣告すれば、それは、如何なることがあっても自分の生活のために用いることは許されません。そのため、「コルバン」という言葉は「聖別」という意味にもなり、「完全な献身」をも表しました。ですから、この「コルバン」という言葉も「手を洗う」ことと同じく、信仰を守るために「自分自身の決断を表明する宣言」でもあったと言うべきでしょう。

人は、お金など持っていれば使いたくなります。それは人間共通の心理であり、欲望に限界はありません。そのため、この時代の人々は「コルバン」と自ら宣言することによって、自分の欲望を抑えたのです。しかし、それが悪用され、親を養わない理由として「献げものをしなければならないから」と言う人間が続出したというのです。神様への誓いは絶対的であり、取り消し不可能です。そのため、親を養う義務を放棄するとき、人は「コルバン」を悪用しました。さらにまた、借金の催促が来た時も、「この金はコルバンです」と言えば、その場の督促を逃れることも出来ました。

このような人々は、何よりも神様への献げものを優先しているようであり、一見、神様中心の生活を送っているように見えますが、実は、それを利用して自分の義務を免れようとしているに過ぎません。神様が与えた律法の精神を悪用した形式主義の醜さがここにありました。

既に見て来ましたように、「手を洗う」ということは、「信仰の純粋性を守る」ということであり、「コルバン」とは「神への感謝を忘れるな」ということでした。何のために守るのか。何のためにそれを行うのか。手段は目的に従うものに過ぎません。ファリサイ派は、主イエスの欠点を探し出そうとする愚かな努力の結果、かえって自分たちの生きる姿の虚しさを露呈してしまったのです。主イエスは、彼らに対して、8節では「あなたたちは神の掟を捨てた」と言い、13節では、「神の言葉を無にしている」と非難しておられます。御心は私たちを冷たい戒めの中に閉じ込めることではなく、福音の光の中で真実の自由を喜ぶことにあります。

主イエス・キリストの到来によって「時は満ちた」のです。戒めによって守られる時代は終わったのです。主イエス・キリストの来臨は、新しい時代の始まりを告げています。律法によってではなく福音によって、裁きによってではなく赦しの宣言によって生きる、新しい『自由の時代』です。「コルバン」という信仰的な言葉を、自分の欲望の隠れ蓑としてしまうような「偽善」から解放されるためには、私たち自身がコルバンとなること、神様への供えものとなることが必要なのです。

主イエス・キリストは、この私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。父なる神はこのようにして、私たちの罪を赦し、清くも正しくもない私たちをご自分のものとして下さっているのです。「自分は自分のものだ」と言い張っている私たちに、神様は、「私は独り子の命を与えてまであなたの罪を赦し、あなたを私のものとした。あなたはもう私のものだ。それゆえにあなたは神の民の一人として、私の愛の中で生きることができるのだ」と語りかけて下さっているのです。

私たちの信仰はもはや、自分が神様の前に正しく清い者であろうと努力することではありません。神様が、独り子主イエス・キリストによってこの私たちを愛して下さり、ご自分のものとして下さっている、それゆえに私は神様のもの、コルバンとされている、そのことを受け入れて生きることが私たちの信仰です。その信仰に生きることによって私たちは、昔の人の言い伝えから、人の評価を気にすることから解放され、自由になれるのです。

お祈りを致しましょう。

<<< 祈  祷 >>>