聖餐

『聖餐』についての学び

新約聖書は、キリスト復活の後、極めて早い時期から信仰者たちが共に集まって「パンを裂いて」いたことを記している(使徒2:42、46等)。その最初の教会とは、信仰者たちが共に集っては、「復活の主」の臨在を確信し、その再臨を熱望しつつ食事(愛餐)を共にし、当初の時点から、信じ、告白し、説教するところであった。その食事が次第に厳密な意味での聖餐として祝われるようになった。この愛餐と聖餐とが分れ始め、2世紀半ば頃までには、礼典としての聖餐と親睦の食事としての愛餐は別々に持たれるようになり、聖餐は全教会で守られるようになった。

古代の教会では、使徒教父からアウグスティヌスに至るまで、主として三つの重要な聖餐解釈が存在した。第一は、聖餐を「実体的」よりも「象徴的」に理解する立場。第二は、聖餐を「霊的」に解釈する立場。そして第三は、聖餐を「犠牲奉献」として理解する立場である。三つの立場は、それぞれ古代教会の聖餐理解の発展に重要な役割を持ち、宗教改革期の聖餐神学の道備えとなり、現代の聖餐論の前提となった。

二世紀から三世紀に活躍したアレキサンドリアのクレメンスやオリゲネスが、第一の「象徴的」な立場をとった。彼らの聖書解釈では、特に中期プラトン主義の影響を受けて、現象世界の背後にある霊的な世界の意味を強調した。彼らは、聖餐を「キリストの血と肉」とは呼ぶが、その理解は、隠喩的な傾向を強く持ち、キリストのうちに受肉した御言葉が魂を滋養することが、象徴的に聖餐でなされるとした。

第二の「霊的な解釈」の立場をとるアウグスティヌスは、聖餐に与るとは、単に可視的かつ物質的なことではなく、それが指し示す不可視的な現実性に参与することと考えた。アウグスティヌスは、物質の現実性を霊的なものとの関係によって見る世界観から、聖餐の「霊的解釈」をした。

第三は神への奉献「犠牲」としての聖餐の解釈である。ここでは、キリストからの賜物としての聖餐ではなく、反対に人間から神へ、受ける側から与える側へという方向に強調点がある。この解釈は、すでに一世紀前後の教会で日曜日ごとに行われていた聖餐の立場であった。外面的に執り行われる儀式としてではなく、罪過の告白を伴い、神への信仰が前提とされる「清い供え物」の犠牲としての聖餐だった。

しかし、中世カトリック教会で聖餐式に用いられた言葉はラテン語であり、しかも信徒のほとんどはラテン語を解さなかったので、聖餐式における会衆の役割は司祭が神に犠牲をささげるのを実質的にはただ眺めるだけという極めて受動的なものだった。実際に聖餐を受ける陪餐でも、一般信徒の場合には、パンとぶどう酒の両方によるいわゆる二種陪餐ではなく、キリストの血をこぼしたり汚したりすることのないようにとの理由から、ただパンだけに与る形が次第に慣行となり、それがローマ教会では13世紀頃までに完全に定着したと見られる。

聖餐の物素(パンとぶどう酒)自体は通常「(キリストの)体と血」と呼ばれ、教父時代において、パンとぶどう酒が聖別後にも「キリストの体と血」としての、明確な定義づけ解釈は試みられなかった。  9世紀のパスカシウス・ラドベルトゥスや11世紀のベレンガリウスの主張から起こった聖餐論争以降、定義づけが望まれ、1215年の第4ラテラノ公会議では、カタリ派に対して「真の臨在」を主張するために「実体変化」という用語が用いられた。その際、神学的な裏付けとなったのが、トマス・アクィナスを中心とするスコラ神学において教義的完成を見た「化体説(聖餐のパンとぶどう酒は司祭の聖別によって実体的にキリストの体と血とに変化するという説)」であった。

13世紀までに、この議論は論じ尽くされ、聖別はパンとぶどう酒の「実体」に変化をもたらすが、「偶有性」(外観)はそのままであると主張された。「化体説」をとるローマ・カトリック教会とギリシヤ正教会は、司祭が唱える主の聖餐制定のことばによって、パンはキリストの体に、ぶどう酒はキリストの血に実体変化するとし、聖礼典というよりは、いけにえ(犠牲)であることを打ち出した。こうした理解に立つ聖餐は、初代教会の共同体的な晩餐とかなりかけ離れたものとなった。

16世紀の宗教改革者たちは、このような中世カトリック教会の礼拝、聖餐を改革するために立ち上がった。実体変化説を非聖書的と断じて、いけにえ性を排し、パン(聖餅)をあがめることやぶどう酒を信徒に禁じることに反対した。宗教改革者たちは聖餐を、犠牲的儀式というよりもキリストとの福音的な交わりの具体的場とした。宗教改革の時代、聖餐問題は多くの論争をもたらせた。

ルターは、実体変化説に反対し、聖餐は聖別後にキリストの体と血およびパンとぶどう酒が互いに結合して共在する「共在説」を擁護した。これはキリストの遍在性がその背景をなしている。また、聖餐を、人間(司祭)が神に捧げる犠牲と理解するということは、聖餐を人間の業、人間の行う「善い業」とすることになる、と反対して、マタイによる福音書26章の聖餐制定の言葉から、聖餐は人間の業ではなくて、神がキリストを通して与えて下さる罪の赦しの「契約」であるとした。

ツヴィングリは聖餐におけるキリストの霊的現在を説きながらも、ルターの共在説に反対し、パンとぶどう酒の2品はゴルゴタで行われたキリストの犠牲を想起・記念させる“しるし”であるという側面を強調した「象徴説」を主張した。聖餐においては、キリストの体と血にあずかるのではなくて、その十字架の恵みを記念すると考えた。つまり聖餐を、神の恵みの賜物というよりも、人間が信仰によって行なう記念の行為として捉え、「しるし」を「事柄そのもの」から切り離して、「単なる象徴」とした。ルターとツヴィングリは、ドイツとスイスの宗教改革陣営の同盟を目指した1529年のマールブルク会談において、15項目中14項目までは完全に同意することができたが、この聖餐をめぐる理解の違いで同盟を実現することができなかった。

これらに対しカルヴァンは、中間の立場をとり、物素内で変化が起こることは否定したが、信徒が「キリストの体と血」の力、すなわち効力を受けるのだと主張した。聖餐を単なる回想の儀式とせず、れっきとした恵みの手段であるとし、キリストが即物的・外形的に2品の物質の中に現在するとはしなかった。カルヴァンは聖霊の働きを主張し、聖餐において、信者は目に見える“しるし”の2品を口で食べ飲むのと同じ確かさで、聖霊の働きにより、キリストの体と血、それも天にあって来らんとしているキリストの体と血に与るとした「聖霊による現在説」をとった。

カルヴァンと、チューリヒにおけるツヴィングリの後継者であるブリンガーとの間で、1551年に、聖餐の問題についての合意がなされた。それが「チューリヒ一致信条」と呼ばれるもので、この合意によって、スイス諸教会の聖餐理解は、カルヴァンの線で統一された。「神のことば」に重きを置く宗教改革は、説教重視かつ会衆中心の新しい聖餐の形をもたらしたが、教派により執行の頻度や式の内容及び形態は様々となり、現在に至っている。

20世紀になって、ローマ・カトリック教会も、1962年の第2ヴァチカン公会議以降、ミサを自国語に切り替えたり、時に応じて二種陪餐を許すなどして時代に即応した姿勢を見せ、会衆の積極的な参加による聖餐共同体的性格をも強調している。

聖餐に与るには「信仰」が不可欠である。信仰抜きの聖餐のパンとぶどう酒の拝領は、明らかに聖餐を魔術化するだけでなく、キリスト教の歴史が証言する聖餐理解の本質を曇らせ、誤解させることになる。信仰を必要とする聖餐は、聖霊の注ぎ無くしてはあり得ないのである。

長いキリスト教会の歩みの中で聖餐が担ってきた意味と役割を考える時、今日の教会は聖餐の神学を回復すべきである。未受洗者陪餐問題など日本基督教団自身が抱える聖餐問題など、私たちは今一度聖餐の重要性と復権を問うてみる必要がある。

信仰をもってしか与れないと歴史的に理解されて来た聖餐理解も誤ると、かつてカトリック教会が陥った過ちへ再び転落しかねない。われわれが教会という共同体的基盤に立って信仰生活を営むことの意味を問うことであり、より豊かな聖餐が望まれるのである。

・・・ 以  上 ・・・