神の右にいますキリスト

聖書:詩編1101節, エフェソの信徒への手紙12023

 先週は、教会の信仰告白使徒信条の中で、主イエス・キリストは天に昇られた、という告白について学びました。歴史のある時、ある所に神は人となり給いて、人の罪を負って罪の贖いを成し遂げられました。救いは、神の子イエス・キリストの十字架の死と復活によって成し遂げられたのです。こうして主イエスは御自分を信じる者に救いをもたらしてくださったのですが、ご復活の体をもって天に挙げられたと、弟子たちは証言しました。そして代々の教会は使徒たちの告白を受け継いで来たのです。主イエスはなぜ天に挙げられなければならなかったのか。それはこの救いが、ある時代の、ある人々の救いのためだけではなく、歴史を超えて、地域を超えて全人類の救いとなるためでありました。

主は使徒たちに約束されました。使徒言行録1章8節。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(213下)そして主が天に昇られた後、この約束の通りに、教会は聖霊を受けました。そして聖霊の力を受けて全世界に福音を宣べ伝え、今日に至ったのです。

さて、今日はその後、主イエスは「全能の父である神の右に座しておられます」という教会の告白を学びます。わたしたちはこの告白が、新約聖書エフェソの信徒への手紙1章20節に語られていることを知りました。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」と記されています。「神は、この力をキリストに働かせて」と言われるこの力とは、その前の19節の言葉によれば、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる」力と言われます。つまり信じる者に対して、神が絶大な働きをなさる力であります。

わたしたちの信じる神は、全能の神です。全能というと、何かスーパーマンとか、ドラえもんではありませんが、何でもわたしたちの願いを適えてくれる力なのかと思うかもしれませんが、それは神を知らない人間の願望に過ぎません。神の全能とはわたしたちがどこにいても、どんな時にも、わたしたちも愛し、わたしたちを育て、わたしたちを救ってくださるということなのです。だからこそ、わたしたちは、神の全能は、独り子を罪人の中にお遣わしになられるほどの愛の中に、表されたのだと信じるのです

さて、エフェソ1章20節の言葉は、今日同時にお読みいただいた詩編110篇1節を前提としています。「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」これはダビデの歌とされているものです。この詩の中で、ダビデは自分の子孫のことをなぜか「わが主」と呼んでいます。なぜでしょうか。その質問は主イエスからも出されました。マタイ22章41節-46節(44下)

「ファリサイ派の人々が集まっていた時、イエスはお尋ねになった。『あなたたちはメシア(ギリシャ語でキリスト)のことをどう思うか。だれの子だろうか。』彼らが、『ダビデの子です』と言うと、イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。このようにダビデがメシア(キリスト)を主と呼んでいるのであれば、どうしてメシア(キリスト)がダビデの子なのか。』これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。」この問いの答は、それはダビデの子孫からメシア、すなわちキリストがお生れになったからです。ここで主イエスが自ら証ししておられるように、主イエスこそは、ダビデが「わが主」と呼んだキリストであり、天に昇られ、神の右にいます方なのです。

それでは、神の右とはどういう意味でしょうか。このことは先週も少しお話ししました。それは、主イエスが全能の神さまと等しい力をもって、あらゆる権威や勢力を御自分の御支配の下に従わせることを意味します。その御支配はこの世の勢力の支配とは全く違います。この世の勢力の支配しか、思い当たることがない人々は、支配と言えば、お金や暴力の支配などを考えてしまいます。しかし全能の父の右におられるキリストの御支配は全く違います。その支配は愛の支配に他ならない。悪霊どもでさえ、キリストの愛の力にたじろがざるを得ない。この愛を受け、この愛を信じ、この愛に支配されている人々を、彼らはどうすることもできないのです。

その愛は、神を裏切り、キリストを裏切った人々をさえ追い求めて、滅びの穴、絶望の淵から救い出そうとする熱意です。これが人間の力ではない、全能の父の右におられるキリストの力であるならば、だれが逆らうことが出来るでしょうか。主は地上を去る前にこう祈られました。ヨハネ福音書17章21節(203上)「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります」と。この方が天におられるのですから、わたしたちがどこにいてもわたしたちを愛し続け、救いへと導いてくださる。教会が告白しているのは、正にこの信仰です。

わたしたちが常に立ち帰らなければならないのはこの信仰です。主イエスが神の右に座しておられ、わたしたちに全能の御力をもって聖霊を送り助けてくださっている、その絶大な力、お働きを、わたしたちは本当にどれだけ真剣に信じ、告白しているでしょうか。ただ、習慣的に(それでも、告白することが許されていることは、それだけでも真に幸いなことですが)、機械的に告白するのではなく、一字一句に込められた告白の言葉に込められている教会の信仰を、わたしたちは改めて心に深く受け留めましょう。

更に21節に宣言されています。神はキリストの権威、力を「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」と。反省させられることは、わたしたちの視野があまりにも狭いということです。私達は、良い意味で一人一人の人権が尊重される時代を生きたと思っていましたが、自己実現型の人間の視野はひどく狭くなってしまいました。極端な言い方をすれば、自分のことしか考えない。自分で稼いだものは自分のものだという考えを良しとしましたが、自分の働きの成果を用いて社会全体の幸福のために還元することを考える人々がどんどん少なくなったのです。高額所得者は税金を逃れるためにこの世のあらゆる知恵を駆使する一方、貧しい人々は自分が仕事を奪われているから貧しいのだと考え、不満のはけ口を自分以外にぶつけようとする有様です。

教会の中には昔から多くの貧しい人々がいました。そして少数ではあったにせよ、豊かな人々、この世の力を持った人々もいたのです。また奴隷の身分(広い意味では労働者階級の人々)もいれば、自由人もいました。要するに、この世の身分、階級においては様々であったのです。そして教会の中でみんなが全く同じ身分、同じ力を持つということにはなりませんでした。貧しい人々への配慮ということは神のご命令と受け止められていたでしょうが、教会には当初から、いろいろな意味ででこぼこがあったのです。

しかし、すべての優劣、経済的優劣、健康の優劣、社会的優劣、能力的優劣に生まれる力関係の上にイエス・キリストの恵みの御支配があったということは間違いありません。その上に、この社会の変動がありました。今地中海を粗末な船で難民が押し寄せる様子がテレビで映し出される。昔、古代ローマ帝国の衰えと共にゲルマン民族が大移動して来たことを思いました。民族の大移動は決して過去のことではなく、また欧米に限られたことではないでしょう。絶え間なく、世界のどこかで戦争が起こり、また地震や山崩れなどの災害も起こります。人類の歴史には人口が激減したという疫病が、これからの時代には核施設の起こす人災の危険があるでしょう。

それにもかかわらず、この二千年、目に見える教会が地上に建てられているということです。わたしたちの視野の狭さ、取りあえず自分だけ生きられれば良い的な、貧弱な幸福感。自分の夢が叶えさえすれば良い的な、低いことこの上ない人生の目標。あるいはせいぜい自分の家族、自分の好きな仲間だけ守られれば良い的な視野の狭さが、わたしたちの社会の貧しさであり、その貧しさが教会の中にも浸透してきているのではないでしょうか。

そして気がつけば、超高齢化社会であります。少子化社会であります。ごく一部の人々をのぞけば、心身共にゆとりある人々はますます少なくなるばかりです。このような歴史の中の今、日本という社会の今、その中にわたしたちは生きています。狭いところで考えれば考えるほど、困難ばかりが見えます。希望が何も見えないように思われます。しかし、視野を広げましょう。この二千年の教会の旅路を。その歴史は嵐に荒れ狂う夜の闇にのみ込まれるばかりの漂流船のようであります。明日をも知れない。いつどうなるか。明るい日の光を果たして見ることが出来るのか。しかし、その時にも教会は信仰告白を唱え続けました。なぜなら、教会は主イエス・キリストの御支配の下にあるからです。

22節、23節。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」すべてのものとは神の造られたものすべてを意味します。嵐を鎮める主イエスのお姿を、地上のご生涯で弟子たちは見ておりました。その時は限られた所で、神の力を表してくださいました。天に挙げられ、神の右におられる主は、全世界の教会に、また昔も今も、そしてこれからも、その御力を表してくださる。わたしたちは、この信仰を受け継いでいるのです。

その力は、わたしたちの計り知ることのできる力をはるかに超えています。教会は全能の神と等しい御力をもって御支配くださるキリストの体である。この表現をわたしたちは初代教会から、使徒たちの信仰から受け継いで来ました。私は、今直面している困難な時代から、視野を広げて初代教会から今に至るまでの教会に、どんなに大きな恵みが注がれて来たかを考えていただきたいと申しました。そして、そこからわたしたちが理解すること。すなわち、神の右にいますキリストが、全能の父と同じ力、万物を支配する力が注がれていることを知るならば、わたしたちは教会として、キリストの体に結ばれる者として、しなければならないことがあります。

それは、この方の全能の御力を信じ、この方をいつも見上げることなのです。全能の力、それはわたしたちがどこにいても、どんな時にも、わたしたちも愛し、わたしたちを育て、わたしたちを救ってくださる力です。こんなにありがたい、慰めに満ちた信仰があるでしょうか。しかしこれは、信じなければ信仰告白にはならないのです。信じなくても信じても救われるということではありません。ですから、この信仰告白を受け入れ、いつも新たに信じることが大切です。キリストがわたしたちの頭であることをいつも告白して従って行くこと無しに、教会は建てられません。

わたしたちは人間の業、自分の業にこだわっています。しかし、わたしたちの救いはただ神の全能の御力、いつでもどこでもわたしたちを愛して救ってくださる神の力です。だからこそ、無力となった者も、貧しくなった者も、希望をいただいて、天の父の右にいます神の御子イエス・キリストを見上げ、その執り成し、その助けを待ち望むことが出来るのです。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神様

御名をほめたたえます。わたしたちは主イエス・キリストがわたしたちに先立って天に昇られ、わたしたちの罪を赦すために、執り成しの務めを担ってくださっていることを感謝します。そればかりでなく、地上で罪の誘惑、試練にさらされながら、困難な道を歩む教会を御自分のものとして助けるために、聖霊を送ってくださっていることを感謝します。

わたしたちは豊かにゆとりある生活をしている時には、理解が及ばなかったあなたの愛を日々教えられる思いです。生活の困難、仕事の困難、家族の困難、そして健康の困難を多く抱える度に、どうか教会の主に結ばれているわたしたちが心からあなたを信じ、あなたを愛し、あなたに従って行くことが出来ますように。

わたしたちは礼拝を思いながら、様々な事情で教会に来られない多くの方々のことを思います。どうか御心ならば、その困難を取り除き、教会に集まるために道を開いてください。また、わたしたちも福音を運んで行き、その方々のおられるところで礼拝を守り、聖餐式を行う事が許されますように。真に老いも若きも、明日はどうなるか分からないという思いを他人事としないで、あなたの御前に立つことが出来るように、主イエスの執り成しを受けることを切に望ませてください。

東日本連合長老会の一員として教会の歩みを与えられておりますことを感謝します。どうかこの教会が、この地で福音を宣べ伝えるために、次の世代への伝道を前進させることが出来ますように。そしてどうか新しい教師があなたの御旨によって与えられますように。

今日も教会学校から、ナオミ会の活動に至るまで、主の御導きを感謝し、御手に委ねます。どうか教会に与えられて来た伝統、恵みを受け継ぐ教会として、信仰者を増し加えてください。今、苦しんでいる兄弟姉妹を御力によって慰め、救い出してください。

この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主は天に昇られた

聖書:詩編6819節, エフェソの信徒への手紙4716

 あまり実感がないのですが、世の中は好景気なのだそうです。その証拠に今は人手不足だということで、若い人々の就職活動も順調と聞いて、まずは良かったと思っています。考えてみれば、少子高齢化社会では、人手不足は慢性的なものと思われます。私のおばあさんは、私の両親が結婚することになった時、「さあ、これからはご飯炊きから洗濯から縫物まで、全部嫁にしてもらって遊んで暮らしましょう」と言ったと聞いたことがありますが、その時祖母は40代前半だったのです。今頃それを思い出して驚きます。昔は40代半ばぐらいの年から何も労働をしないで老後を暮らそうと言えるほど人手があったのだ、と。

それから祖母は40年以上生きたのですが、今の高齢者はそうはいきません。「長生きするなら、だれにもあまりお世話をかけないように、自立した心構えで生きなくては」と互いに励まし合う時代です。そして、これからはますますそうなるでしょう。高齢になっても、できることは自分で何でもするようになります。このことは、教会の歩みに一番よく表れていると思います。地上の教会はその時代、その地域に建っているのですから、その時代、その地域の社会の姿を映し出さないはずはないからです。そしてその社会の中で、その社会が抱える問題のただ中で、教会は建てられて来たからです。

今日のエフェソの信徒への手紙4章7節は、教会のわたしたち一人一人にキリストの賜物が恵みとして与えられていることを語っています。教会もまた人手不足。奉仕する人々が足りない。礼拝に出席する人々が不足している。そういう不足を嘆くわたしたちに、子の手紙は語りかけています。キリストの賜物は、恵みとして与えられているのだよ、と。わたしたちの思い煩いにもかかわらず、わたしたちの努力を超えて、恵みとして与えられるのだよ、と諭されているのです。

8節の聖句は、旧約の詩編68篇19節の引用と思われます。「そこで、「高い所に昇るとき、捕われ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。」ここには主語が語られていませんが、イエス・キリストのことを証ししているのです。この方は高いところ、すなわち天に昇られた方であるというのですから、それなら、天に昇る前は地上におられたことになります。キリストは地上に来てくださり、福音を宣べ伝え、神の国、天の国にわたしたちを招いてくださった方です。そしてキリストはわたしたちが天の国に入るために、わたしたちの罪を清めてくださった。それが十字架の贖いであります。

主イエスさまはわたしたちの罪のために死なれ、陰府に降り、三日目に甦らされました。それによって、わたしたちの罪の贖いがなされたのです。キリストの死は、わたしたちの罪の死であります。そして、キリストの復活はわたしたちの罪が赦されることを証しするものにほかなりません。さて、主イエスは御復活の体をもって40日弟子たちと共におられました。それから、使徒言行録1章によれば、弟子たちの見ている前で天に上げられました。それならば、キリストは御自分の御体をもって天に行かれたということではないでしょうか。「主イエスが天に昇られた」という天、新共同訳聖書では「高い所」と言われているこの言葉は、空の果て、宇宙の果てという空間を意味しているのではありません。天とはご復活の主が神と共におられる所であり、神の御支配が行われている所なのです。

ところで、マグダラのマリアは、ご復活の主に出会った時、喜びのあまり主に駆け寄ってすがりつこうとしました。その時主イエスは彼女に言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」しかし弟子たちもまた、マリアと同じ思いだったかもしれません。地上で主イエスに出会った人々は、「いつまでも主と共に地上で暮らしていたい。今までのように、目で見て、耳で聞くことのできる先生と」と思うのは無理もないことではなかったでしょうか。

しかしキリストは、ご自身が弟子たちから離れて天に上げられることの利益について教え諭しておられます。その言葉は、ヨハネ16:7にあります。200上。「しかし、実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」主が天に上げられる意義は、何と言っても、その事がわたしたちのためになる。利益となるからなのです。主イエスが天に昇った時、主は地上に残っている弟子たちに、弁護者を送ると約束されました。弁護者とはだれでしょうか。弁護者とは聖霊の神であります。

主イエス・キリストは天に昇り、父なる神の右におられることによって、父なる神と共に、全能の力をもって、わたしたちを救いに導いてくださいます。そのために主イエスは父と共に聖霊の弁護者を送ってくださり、わたしたちと共にいてくださると約束してくださったのです。思えば、キリストの地上の生涯、十字架の死と復活は、パレスチナという世界のごくごく狭いところで起こったのでした。そして時間の限られた間に起こった出来事です。歴史の中に神がご自身を現わしてくださったということは、限られた時間と空間の中に限られた命の中に御自身を現わされたということに他なりません。しかし、御子イエス・キリストは限られた命に死んで限りなき命に復活されました。そうして主は天に昇られました。このことによって、主は全世界の信じる者すべてと共に生き、昔も今もそして今より後の時代にも、信じる者と共にいてくださるのです。聖霊が教会の人々に送られるのは、「すべてのものを満たすため」なのです。

弟子たちの上に聖霊が降った最初の出来事は、ご存知のようにペンテコステの日として聖書に書かれ、人々に語り継がれました。すなわち、聖霊は、主を信じる者が皆集まって共に祈っている所に来てくださいました。聖霊によって聖書の言葉が神の言葉として与えられました。聖霊によって、語る者も聞く者もキリストが共にいらしてくださることを知る者とされたのです。このように聖霊は教会に降ったのでした。その頃は、教会堂も礼拝堂もなかったでしょう。人々は仲間の家に集まって聖書を読み、祈り、讃美しました。今も同じです。礼拝堂があれば教会なのではありません。礼拝堂に人々が集まって礼拝するから教会なのです。イエス・キリストの恵みを分かち合うために、聖霊の賜物が与えられました。

「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」キリストがもろもろの天よりも更に高く、つまり神の国にまで上られることで、主は今、わたしたちの目には今は見えない離れたお方となっておられるように思われますが、しかし実際は却ってそのために、聖霊の力によってすべての者を満たしてくださっています。つまり、キリストの霊的な力は、神の右に及ぶまで、広げられました。そして、キリストは天にあっても地上でも、その無限の力によって、至る所に現存しておられるのです。

「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」このように、教会のいろいろな役職、役割が書かれています。これは初代教会の話でありますから、今日の諸教会の教師や長老の役職とは一致しません。しかし中でも牧者は羊飼いを表す重要な役職でありまして、その務めは羊飼いです。常に先頭に立って羊の群れを導き、牧草地に連れて行って食物を与え、流れのほとりで水を飲ませ、野獣などの外敵から身をもって羊を守ることそのものであります。もちろん、絶対的な意味では、キリストがすべての信徒の牧者であることが前提となっています。

福音がその職務に遣わされたある一定の人々によって説かれるということは、教会が完全にこの世に存続して最後に全く完成されるに至るために、主が教会に、統治と、秩序を保つことを望んでおられるからです。わたしたちは自分に能力がない、力が不足していることを、大変痛感することがあります。特に高齢化社会の教会は、若い人が溢れ、我も我もと奉仕を申し出たような時代とは全く違っています。果たして自分に出来るだろうか、という思い。自分ばかりが大きな期待をかけられたらどうしようかといった不安や消極的な思いが先立つのです。

しかし、教会での奉仕においては、聖霊の助けによって賜物が与えられていることを信じることが大切です。人が神に奉仕するよう呼ばれる時には、必ずその務めに必要な賜物が与えられるのです。教会はキリストの体と呼ばれるのですから、その体は非常に多種多様な部分をもっていることは当然のことであります。もしも皆が同じ顔、同じ賜物、同じ特徴しかないなどという教会があるなら、それこそは異常なこと、異様なことではないでしょうか。キリストの体全体は多様性によって保たれております。このことによって、主イエス・キリストは求めておられるのは、おかしな競争意識、異常な妬み、世の人々が追い求める野心が蔓延らないように、教会から取り除かれることではないでしょうか。

そしてキリストの体である教会は、その部分の一部が大切にされたり、一部がないがしろにされたりすることはあり得ない。皆がキリストに呼び集められた者として大切なのですが、教会の統治については、はっきりと理解しておかなければならないことがあります。それは、教会を総べ治めるのは、キリストであるということです。キリストはみ言葉によって、統治なさるのです。この世のように鞭と飴によって、脅しとおだてによって統治されることはあり得ません。ですから教会の統治はみ言葉を語ること、聞くことによってなされることを常に覚えなければならないのです。

すなわち、教会の統治は御言葉への奉仕によって成り立っています。それは、人の考え、人の力によって造り出されるものではありません。ただ神の子イエス・キリストによって立てられるものなのです。この務めを果たすように教会に任命された者は、その務めを果たすのに十分な責任も能力も二つ同時に授けられることを信じましょう。厳しい言い方をするならば、御言葉の説教者であろうと、または御言葉を聴く会衆であろうと、この務めを拒否する者、あるいは軽蔑する者があれば、その人は、キリストを侮辱し、それに叛く者となってしまっているのです。なぜならキリストは、その務めを立てた方なのですから。

だからこそ、わたしたちの教会が後任の教師を招聘するために、連合長老会にお願いしている最も大切な条件はここにあります。それは、日本基督教団信仰告白にも唱えられている通り、御言葉を正しく宣べ伝え、聖礼典を正しく執り行うための教師です。教師が与えられる職務はキリストに励まされなければ、この務めを全うすることはあり得ないのですから、わたしたちはひたすら祈って主に委ねて参りましょう。祈りこそ、わたしたちに求められている第一の奉仕でありますから。

13-14節「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」

大変厳しいことに、今、礼拝を守るだけの体力がなくなっている信仰者がたくさんおられます。そしてそうなってますます礼拝に集まることの大切さを痛感しておられるのを、わたしたちは知っています。逆に教会に来ようと思えばいつでも来られる人々の中に、「教会に集まる必要はない、家で聖書を読んでいれば良い。教会の共同の奉仕などは全く必要ではない」と思っている人がいるとしたら、それは傲慢と言わなければなりません。

主が天の昇られたのは、教会に連なる人々に賜物を与えるためでした。互いに足りないところを助け合い、礼拝を捧げて御言葉を宣べ伝え、御言葉を聴くために、讃美の声を合わせるために、すべてが整えられるのです。教会は信仰者すべてに共通の母であります。信仰者はキリストの中に生まれ、大きい者も小さい者をも教会の主が養い始められます。それがみ言葉によって、説教と聖餐に与ることによってなされるのです。同じ教えに呼ばれ、集められるということは一致を保つための訓練なのですから。

わたしたちは本日、主が天に昇られたことの意味を学びました。「頭であるキリストに向かって成長していく」希望を与えられているのは天の昇られた主から教会に注がれている聖霊の賜物であります。主はこうしていつまでも教会と共にいてくださいます。祈ります。

 

主なる父なる神様

尊き御名をほめたたえます。今日の礼拝にもわたしたちに天から聖霊を注いで下さり、御言葉で養ってくださいました。小さな群れですが、あなたのお支えは決して小さくはなく、目に見える恵みと共に目に見えない恵みを豊かにいただいておりますことを感謝します。ここに集まる兄弟姉妹ばかりでなく、集まることのできない方々が、この礼拝を覚えて祈り、あなたの御前に静まっていることを私たちは思います。御言葉の恵み、主の愛を形に表すべく、わたしたちは今週も教会から出かけて行って働きたいと思います。

非常に苦しんでいる人々の苦しみがそれだけではないことを、どうかわたしたちに知らせてください。イエス・キリストが地上で非常に苦しまれましたが、その御苦しみがわたしたちの救いのためであったように、わたしたちは困難と向き合っている人々によってあなたを思い起こし、人々のために祈り、わたしたちも勇気と愛を主からいただけるように、祈ります。そしてどうぞ、教会に連なっている方々とあなたの恵みの下に再会することが出来ますように。

わたしたちの弱さ、思い煩いをご存じの主が、どうか絶えずわたしたちを励ますために聖霊を送ってくださいますよう。そして父、御子、御霊の豊かさに与り、喜びと感謝を以て従って、教会を建てて行くことが出来ますようにお助け下さい。本日も、遠くから困難を乗り越え、あなたに勇気を与えられて礼拝に集められ、奉仕された方々のゆえに感謝します。どうぞ帰りの道をも祝福の中にお守りお導きください。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

死者の中から甦り

聖書:ヨブ記19章25-27節, コリントの信徒への手紙一 151222

 イエス・キリストの福音を宣べ伝える礼拝、今日も守ることができる幸いを感謝します。この福音はキリスト教会の二千年の歴史を振り返ること無しに、語ることはできません。教会に新しい方が来ると、私たちはその方のことを何も知らないのですが、その方と教会とのつながりを神さまが作ってくださっていることを思います。先月ご結婚された成宗教会の兄弟が、初めて成宗教会に来た時、私は兄弟の出身の国と日本の長い歴史を思いました。それこそ千年、二千年にわたる交わりです。日本人は昔あなたの国に留学生を送って勉強したのですと、わたしは申しました。

本日は愛知県の半田教会から40年前の私たち夫婦の知り合いの方々がいらっしゃると聞いて、私は思いがけないことを思い出しました。それは、半田教会の創立者は数年前まで成宗にギリシャ語を教えに来てくださった小泉仰先生のお祖父さまご夫妻ではないかということです。小泉紋次郎先生は、今91歳の方のお爺様ですから明治の初めの頃の方でしょう。脇差を腰に徒歩で青森から東京に出て来た話や、戦争中に空襲を避けるために国策で強制的に教会堂を壊された話を伺ったことがありました。

教会は人々の労苦を経て建っています。ですから人々の労苦を忘れないことはとても大切なことです。しかし、人の労苦だけで建っているのなら、100年、200年と続いて行くのはとても困難でしょう。ところが100年、200年どころか、教会は1000年も2000年も続いているのです。とても人間の力ではできないです。しかも、全世界に建っている。それは、イエス・キリストの名によって建っているからに他なりません。もっと言えば、その時代、その時代の人々が、昔も今もイエス・キリストの御名を信じたからに他なりません。キリストは今も生きておられると。今も生きて私たちを救ってくださると。昔も今も、そして世界の津々浦々で信じられているからこそ、教会は建っているのです。

キリストは今も生きておられると信じる。それはつまり、キリストは十字架にお掛かりになった。本当に死んでしまわれたこと。お墓に葬られたことを信じたのです。キリストの死を信じた上で、しかし、キリストは死人の中から甦られたことを信じている、ということなのです。教会は信仰告白において、このことをはっきりと告白しました。そして主なる神は、この告白の上に教会を絶ち続けてくださっています。

しかしながら、この告白は何の問題もなく、あっさりと教会の人々に受け入れたのではありませんでした。今日の新約聖書のテキスト15章12節で、使徒パウロは教会の人々に尋ねています。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」と。この手紙が書かれた時代は紀元五十年代です。それは、主の十字架の出来事からまだ三十年も経っていない頃でありました。それなのに、キリストが十字架に死に給うたことを信じるかどうか。そして三日目に復活されたことを信じるかどうか。そういう議論が、早くもコリント教会で問題になっていたことが分かります。つまり教会の中に、この頃早くも復活を信じない人々が現れていました。それで議論が起こっていたのです。

すごいことだと思います。ついこの間の出来事であろうと、2千年前の出来事であろうと信じない人々は信じない。そして信じる人々は信じるのです。それでは、信じない人には、「信じなくてよい、勝手にしなさい。我々は信じる者だけでやって行くから」ということになったとか、というと、全くそうではありません。復活を信じる者が福音を宣べ伝えて来たのです。復活を信じる者が教会を建てて来たのです。そして信じる者を助けるお方がおられる。すなわちご復活の主がおられるからこそ、教会は建つのです。

そこで教会を建てるためですから、使徒パウロは信じない者を放置しません。議論し、説得に努めたのです。キリストの復活を信じることは、私たちの復活を信じる根拠でありからです。そこで、もしキリストが復活したのならば、私たちも復活するでしょう。もし、キリストが復活しなかったのならば、私たちもまた復活しないでしょう。これを逆に言っても同じです。「もしわたしたちが復活するとすれば、キリストが復活されたからです。もし私たちが復活しないならば、キリストもまた、復活しなかったのです。」

それならば、キリストは復活されたが、それはわたしたちの復活とは関わりない、という話にはならないのです。またキリストは復活されなかったが、わたしたちは復活するとか、もう既に復活している、などという考えは成り立たないということなのです。なぜなら、キリストが死んで、甦られたのは、御自身のためではないからです。そうではなくて、御自身の体となった教会のためです。そして教会の中に、主に結ばれた信者であるわたしたちもいるからです。

それなのに、あなたがたの中にいる一部の人々は死者の復活などない、と言っている。よろしい、とパウロは、その人々の主張を仮に正しいものとしたらどうなるかを考えましょう、というのです。13節。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」キリストが地上の生涯の間、語られた福音を人々は聞きました。また、なされた数々の不思議な業を体験し、証言しました。キリストは神の真心を具体的に表されたのです。しかし、人々はこの方を十字架の死に至らせた。この義人の死を認める人々は多かったでしょう。しかし、神はこの方を復活させる力がないというのでしょうか。死者は死者のままで終わる。たとえキリストであっても復活はない、というのであれば、その人々がキリストの名を呼び続けるのは空しいことではないでしょうか。

キリストが死に呑み込まれ、全く滅び去り、罪の呪いによって圧倒されていたならば、つまり、キリストがサタンに打ち負かされていたならば、もはや何が残っているのでしょうか。キリストの死だけを認め、復活がないものとすれば、そこに見い出されるのは絶望の種ばかりです。それでは、全く死に打ちひしがれた人が他人に救いをもたらす者となることは不可能でしょう。

よく人の名前の付いた教会があります。○○記念教会という名前ですが、たとえそれがその教会を建設するために力を尽くした人の名であっても、その人の名を呼んで教会を建てることはできません。キリストの教会を建てるためにはキリストの名を呼ぶのです。そしてキリストの名を呼ぶのは、正にキリストが生きておられるからです。主の名を呼ぶ者を救う力がある方がキリストだからです。キリストの復活を信じない人が、自分の都合によってキリストの名によって祈り、助けを求めることほど、矛盾していることはありません。復活について信じるのか信じないのか、いい加減な考えのままで生きている。危機に直面したときだけ、いくらか真剣に考えるけれども、そうでない時には忘れている。こういう中途半端な信仰が教会に増えれば増えるほど、教会は力を失って行ったのだと言わなければなりません。パウロや使徒たちの労苦はこのような不信仰を打ち破るためにも費やされました。

大切なことは、イエス・キリストの体である教会に結ばれることです。そのために最も大切なことは、キリストは死者の中から甦られたことを信じることです。福音のすべては、ただ一重にキリストの死と復活に掛かっているからです。

わたしたちはもし福音によってその益を得ようと真剣に考えるならば、この点にこそ、自分の思いを集中しなければなりません。使徒パウロはギリギリの所まで自分を追い込んで、伝道者の存在を賭けてこう述べています。15節。「更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。」神によってその永遠の真理を宣べ伝える者として立てられた使徒が、もしも嘘偽りをもって世の人々をだましてきたことが発覚するならば、それは由々しき一大事と言わなければならないでしょう。なぜなら使徒たちは、何と神に対して大変な侮辱を与えることになるからであります。

更に不幸なのは、使徒たちの教えによって信仰に入った教会の人々ということになってしまいます。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストも復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。」もし、キリストの復活がなかったものと仮定するなら、生きている者は今もその罪の中にあることになります。なぜなら、キリストの罪の執り成しがなかったことになってしまうからです。そうだとすれば、人は以前そうであったように、自分の正しさを証明するために自分で果てしなく償いをしなければなりません。

そして更にキリストの執り成しを信じて眠りについた信者にとってもそれは空しいことになってしまうのです。罪赦され、終わりの復活の日に、御国を継ぐために召し出される希望がなければ、死者にも幸いはありません。最後に生きて労苦している信者たちも、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めなもの」だということになります。

この世の生活でキリストに在って信じるだけしか、考えていないのは、実は現代人にこそ最も特徴的ではないでしょうか。物質的繁栄の結果、すべての望みをこの世にかけるような堕落が起こっているのです。それは、私たちの信仰の実をこの世だけで結ばせようとする考えであって、私たちの信仰がこの世の果てよりも更に遠くを見通し、更に広く広がって行くことがなくなります。そうなると、ひたすら今繁栄している人々が羨ましい、苦労はただただ避けたい。苦難、困難に何の意義も感じないということになりかねない。神の御支配どころか、神がおられることすら、頭から消えてしまって考える余地もなく、時を過ごしているのです。

神はキリストに苦難を負わせられました。キリストは御自分の罪ではなく、罪人の罪、わたしたちの罪のために苦しまれたのです。だから、わたしたちもご復活に与る者であることを信じなければ、すべての労苦は空しくただただ辛いだけになってしまうでしょう。クリスチャンがそうでない人々よりも苦労しているように見えるのは何も不思議なことではありません。クリスチャンが皆貧乏なわけでもなく、皆病気なのでもありません。キリストを信じる人も信じない人も富める人、貧しい人、健康な人、病気の人がいます。そして共通しているのは、皆等しく年取って行くことにだけです。

しかし、クリスチャンでない人々がしばしば幸福そうに安泰に見えるのは無理もないことです。自分のことしか考えない人々は悩みが少ない。それに対して、身近な人々、更に多くの人々の集団に対して責任を感じ、いつも皆の安寧平和を考える人々は、いつも多くの悩みを共有しているのです。額にしわを寄せ、重荷を負って皆のことを思う人々は、当然キリストのご労苦が分かります。ご自分のためでなく多くの人々の幸福のために自ら労苦して、自ら不幸を負ってくださった。わたしのためにも死ぬほど苦労してくださったと思えば感謝があふれます。死者のさまよう陰府に降って霊のことさえも心配してくださったと思えば涙があふれます。

一方、そういうことを少しも考えない人はのんびりしたものです。生き生きと自分の楽しみに邁進しているように見えます。ちょうど、屠られる動物が、屠られるその日まで丸々と太らされるように、悲しむことも労苦することもないのを見て居るだとしたら、キリストを信じる者は羨ましく思ってはならないのです。キリストの福音は神の愛があふれてわたしたちに届いたのですから、わたしたちもそれに応えて、キリストを愛し、隣人を愛して教会を建てて仕えたいと願います。最後にⅡペト1:7-8を読み、祈ります。436下。「信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、私たちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。」

 

主なる父なる神様

尊き御名をほめたたえます。本日の礼拝を感謝します。わたしたちは、使徒信条の中で「三日目に死人のうちからみがえり」とはどういうことかを学びました。人間の不信仰は新約聖書の時代にも、早くも復活を曖昧にして来ました。それにもかかわらず、教会が全世界に福音の宣教によって建てられたことは、一重にあなたの憐れみと愛の勝利です。

主イエスキリストが復活され、死に勝利されましたので、わたしたちも主に結ばれて復活の希望に生きることができます。日本の社会はますます困難な時代を迎えますが、わたしたちはそれぞれの置かれたところで、過去の恵みを日毎に思い起こし、人々に証しすることを怠ることなく、恵みの教会、恵みの救いを世に宣べ伝え、残して行くことができますように。死ぬ者をも生かす愛の神。罪人を死と滅びから救い出される神に、栄光を祈り続けて参ります。

今日礼拝を守ることができなかった方々にあなたの顧みがございますように。御名を呼ぶ者を、憐れみ、悔い改めに導いてください。ご病気の方々を支え、励まし平安をお与えください。若い世代は多忙を究めていますが、あなたのご配慮によって必要を満たしてください。全国連合長老会が明日から金沢で開かれます。主よどうぞ、地方で労苦している教会、教師、長老の方々を励まし、一つのキリストの体を与えられますように助けてください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

葬られ、陰府にくだられた主

聖書:詩編139篇1-10節, ペトロの手紙一 3章18-19節

 6月を迎えました。わたしたち、それぞれの生活の中から、呼び集められこうして主の日の礼拝を捧げることが許され、真に感謝です。わたしたちは小さな群れといつも言うのですが、礼拝に出席できるわたしたちの内に家族があり、いろいろな出来事があります。結婚式という人生の一大行事を祝う一方、地上から去って行く家族を見送るという送別の儀式もあります。人生の初めから終わりまで、神様の祝福の許にしっかりと歩みたいと切に願います。

教会にわたしたちが集められているのは、この目的のためです。ここに恵みがあり、祝福がある。ここに救いがあるから、感謝がある。わたしたちを集められているのは、恵み、祝福、救い、感謝をわたしたちに証しさせてくださる神様がおられるからです。わたしたちの地上の命は、数十年です。よほど長命な人でも120年も生きることはほとんど期待できません。けれども教会は二千年も続いています。この世界が滅びる時が来るまで、地上の教会は世界に建ち続けるでしょう。教会はキリストが建ててくださったからです。教会とは、実は目に見える建物のことではありません。キリストに呼び集められた人々の群れのこと。つまり、わたしたちも集められていますから教会です。ただし、自分でここに来たのだけれども、本当は違うと知っているなら。自分でここに来たのだけれども、本当はイエスさまが今日もわたしを呼んでくださったのだと信じるならば、わたしたちも教会なのです。

ですから、わたしたちは教会に呼び集めてくださった方を知りたいと思います。招集者であるイエス・キリストを、キリストが説き明かしてくださった天の父を聖霊の神の助けによって、理解することができますように。理解して喜びに溢れますように。

さて、わたしたちはカテキズム(信仰問答)によって使徒信条を学んでいます。使徒信条は教会が代々にわたって告白して来た信仰の内容であります。わたしたちは先週、イエス・キリストが十字架に付けられたという告白を学びました。主は十字架の苦難を御自分の務めとして受けられたのです。その務めとは、わたしたちが罪のために呪われたその呪いを、わたしたちに代わって引き受けられること。そうすることで、今度は御自身の持っておられる祝福をわたしたちにお与えになることでした。

人間と人間との間で行うトレード、取引、交換では、考えられません。人間と人間との間では必ず、良いものと良いものとを交換します。お互いに損がないように、得するためです。ところが主は御自分の持つ最も良いものを、人間の持つ最も悪いものと取り換えてくださった。これこそ、神の御心。これこそ、神の業なのです。

そして、本日は「十字架につけられ」の次に来る「死んで葬られ、よみにくだり」とはどういうことか、について考えましょう。イエス・キリストは十字架の苦難を負われて、その結果、本当に死んでしまわれました。植物学者の牧野富太郎という人は長命でしたが、90代の時亡くなったので、家の者が集まって葬儀の相談をしていると、死んだと思われていた本人が、「世間が騒がしいようだねえ」と言って起きて来たという話がありました。しかし、イエスさまの場合は、決して仮に一時的に死んだとかいうことではなく、本当に、わたしたちが経験する死を御自身で経験されたのです。

イエスさまの十字架の死について記録している四つの福音書には、アリマタヤのヨセフというエルサレムの有力な議員のことが書かれています。彼は、イエスさまが十字架で息を引き取られた後、出て来てイエスさまのご遺体を引き取り、亜麻布で包み、新しい自分の墓に納めたということです。さて、それでは「陰府にくだり」とはどういうことでしょうか。当時の聖書の時代の人々の考えを表しています。まず、天には神様が住んでおられます。次に人間は生きている間は地上に住んでいますが、死んだ人は陰府の国に行くのだという考えであります。

陰府の国は、死者が陰のように無為に不活発に過ごすところです。しかし、ルカの福音書16章19節以下では、陰府はもっと大変なところとして描かれています。それは乞食のラザロと金持ちの物語です。ラザロは乞食でできものだらけの一生を終えて天国に迎えられたのに対して、金持ちは贅沢三昧の一生を終えて、陰府に落ちて苦しみ苛まされるという物語です。仏教でもそうではないかと思うのですが、地獄の恐ろしさを描き出す目的は、地上の生涯を悪から離れ善を行うように勧めるためであるかもしれません。しかし、自分で考えても、自分は陰府に落ちないという自信と確信を持つことができるでしょうか。親しい人々が地上を去って行き、見送った後はどうしているのだろうか、と思うことも多いと思いますが、何しろ、地上に生きている者には決して見えない世界であります。

そこで、教会は告白してきました。主イエス・キリストは陰府にくだり給うたと。キリストは、わたしたち人間と全く同じ死を経験されました。そして人間が行かなければならなかった死後の世界まで降りられたということなのです。わたしたちは皆罪あるものであります。そのためにわたしたちが自分自分で引き受けなければならない死を御自身で経験されました。その目的は何でしょうか。

それは、イエス・キリストの救いの恵みが届かない所はどこにもないということです。天にも地上にも、そして死者の住むという陰府にも、キリストによって神の御支配がもたらされたということなのです。ペトロの手紙一3章18節を読みます。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」

このことは、一度本当に死んだイエスさまが、その全人格において復活され、聖霊として今も生きて働き続けてくださることを意味します。わたしたちは聖霊降臨日の礼拝を守りました。ご復活のキリストはその御体をもって昇天されましたが、今も聖霊によってわたしたちを励まし、慰め、働き続けておられます。しかし他方、主は、わたしたちの生きている地上だけでなく、死者が住むという陰府にまで降ってくださいました。そして、そこで行き場を失い、神様から最も離れたところでさ迷い続けている人々を憐れみ、その魂にまで伝道されたのでした。わたしたちは、このことから教えられるのです。イエスさまは陰府にくだってくださるほど、どこまでもわたしたちを救おうと決めておられるのだと。

ですから、十字架に死んで葬られ、陰府に降られたイエスさまを、教会は真に神の子と告白するのです。このようなことは人間にできることではなく、神の子であったからこそ、人間のために、しかも罪ある人間のために死なれたのではないでしょうか。「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」この聖書箇所はペトロの手紙の中でも最も解釈が難しいところで、たくさんの説が唱えられた所であります。まず一つの解釈は、18~22節は洗礼時に歌うキリスト賛歌である。洗礼の意味が21節に述べられています。キリストは正しい方であるのに、正しくない者のために苦しまれたと語られ、その目的はわたしたちを神のもとへ導くためです。だからわたしたちの受ける洗礼はキリストの正しさを受けるため、キリストの苦難をいただき、キリストの正しい良心を願い求めるために、洗礼を受けるのだと教えられているのです。

一番多い解釈は、18-19節を、主の死と葬りそして復活との間において、キリストが経験されたことを言い表しているとする説です。すなわち主が肉において殺された後に、霊においては生かされ、信条が語るように、地獄または陰府に、すなわち死者の住む所に降り、獄にとらわれている霊どものところで宣べ伝えてくださったのだ、という説です。

この他にもいろいろあるのですが、カトリック教会は長い歴史の中で、死者のためのミサを伴う煉獄の教理や功徳の教理を作り出しました。わたしたちの親しい人々が何とか救われるようにと願う気持ちは尊いものだと思います。しかし、愛する人々の救いが他の人々の業によって達成されると教えることが、神様に許されることでしょうか。ルターの宗教改革の発端となったのは、カトリックが献金集めの手段に贖宥状を売り出したことだと言われています。煉獄で苦しんでいる死者の霊がその献金によって天国に入れられると謳ったのでした。その他、教会の業を伴う機械的手段によって獄にとらわれている霊どもを助けることが可能だと教えたのです。

わたしたちが、地上でお別れした愛する人々について思う時に、何よりも大切なことは、神の御前に謙って、慈しみを行ってくださる主の恵みにすがることです。人のことでも自分のことでもお金を積んだり、良い業を積んだり、具体的に何かをすれば、必ず救われると考えることこそ、神に背くことになるのではないでしょうか。なぜなら、キリストが世に遣わされたのは、神の慈しみ、神の恵みによる救いの道を開くためだったからです。これこれのことをすれば確実だ、というのは単に人間のこの世における営みに過ぎません。そしてこの世の営みが素晴らしい成果を上げているように見えるのは、ただただ、神がそれをお許しくださり、祝福してくださっているからに他なりません。それを忘れて誇り高ぶるからこそ、突然すべてが覆されるようなことが起こるのです。

業を誇る者は業によって救われようとします。そして恵み深い神を信頼せず、無視するのです。今日の詩編139篇を読みましょう。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上においていてくださる。」わたしたちの主はこのようなお方なのです。神とはこのようなお方でないはずがありましょうか。一体この方から離れて、この方のご存じないところで好き勝手に生きるなどということが可能でしょうか。

「その驚くべき知識はわたしを超え、あまりに高くて到達できない。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしを捕らえてくださる。」わたしたちの神はこのようなお方。背こうとする者にとっては恐ろしい支配者です。しかし、信頼し頼り行く私たちにはどんなにありがたく、感謝すべき方であることか、陰府にまで降って虜を解放し、ご自分と共に天に昇ってくださる方。御自分の命と結んでくださる方なのです。

一方、繰り返して申しますが、自分の業に頼る者は、絶えず神の御支配以外のもの、律法の支配に縛られる危険にさらされています。スポーツにはスポーツのルールがあります。ルール、法を守って法の支配の下に頑張っているはずが、いつの間にか理不尽な罪の支配に苦しめられ、行く道を歪めれらてしまうということが、社会では横行しています。教会といえども、罪の支配に歪められないという保証はありません。しかし、わたしたちを呼び集めてくださる方を信じて、私たちはここにいます。私たちはみ言葉を聞き、信仰を言い表しましょう。私たちは主イエス・キリスト、十字架に付けられ、死にて、葬られ、陰府にくだられた方を告白しましょう。

最後に黙示録1:17-18を読みます。453上。「わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。『恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。』」

 

主イエス・キリストの父なる神様

尊き御名を賛美いたします。4月の教会総会が終わり、教会は新しく長老の姉妹を加えられました。また、5月には東日本連合長老会の会議が行われ、西東京教区の総会が行われました。非常に困難を極めている諸教会の歩みは、私たちの社会全体の困難を反映しております。いつもどうしたらよいのか、と方法を捜し求める私たちですが、あなたの御言葉を聴く時に、いつでもどこにでも、いまし給う方、頼り行く者を決してお見捨てにならない方を改めて見上げることが許され、真に感謝に絶えません。

どうか、私たちが絶えずあなたに道を尋ね伺い、祈り求める教会でありますように。弱い者、貧しい者、無力な者をも、決してお見捨てにならず、むしろ喜んで御業を表して、あなたの慈しみの大きさ、死ぬ者も生かすほどの偉大な力を明らかにしてくださるように祈り願います。 若い人々が少ない日本社会ですが、どうか勇気と知恵をお与えください。前代未聞の社会状況にこそ、イエス・キリストの計り知れない恵みが働きますように。どうか、救い主キリストを告白する信仰をお与えください。私たちの家族に、友人に、社会に。そのためにこそ、主よ、私たちがいる場所にいつもいらしてご栄光を表してください。

本日行われる長老会議を祝し、あなたの御心によって導いてください。また、来週の花の日に例年教会学校が行っている訪問行事を今年も導いてください。また、全国連合長老会の会議が来週行われます。どうか成宗教会について行われる人事の上にあなたの恵みの御支配がございますように。

今日もこの礼拝に参加できなかったすべての兄弟姉妹のために祈ります。どうぞ主の豊かな顧みをお与えください。再び礼拝を守ることができますように道を開いてください。

今日、これから主の晩餐に与ります。

すべてを感謝し御手に委ねて、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2018年6月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

興津晴枝先生のお話

(これは今年527日の礼拝で話されたものです。)

聖書:イザヤ書5章1~4節

「甘くておいしいブドウの実」

興津晴枝

みなさんの大好きな果物はなんですか? スイカの好きなひと、いちごの好きなひとなど皆さんのまわりにはおいしい沢山のくだものがありますね。今朝はブドウのお話です。

ブドウ狩りに行ったことのある人もいることでしょう。自分でそおっと枝からもいで食べたとき、思わず「甘い!おいしい!」って、とびきりの笑顔になった楽しい思い出もあるのではないでしょうか。でも、もし口に入れたとたん,甘くなくてすっぱすぎたりしたら「まずい!」って顔をしかめて吐き出してしまうかもしれませんね。

「ブドウ園」がありました。そのお世話をしている人のお話です。甘くておいしいブドウを育てるのはとても手間のかかる仕事です。まず最初に、ブドウの苗を植える畑の手入れをします。ブドウに適した栄養豊かな土地、大きな石コロなどは取り除かなくてはなりません。次はよく耕します。育ってきたら枝の剪定をしたり、ブドウの色をいい色にするために葉っぱでかくれないようお日様にあてます。肥料も大切です。みなさん、「お米」という字を思い浮かべて下さい。八十八、つまり88回も色々と手間をかけるという意味があるそうです。

ブドウのお世話をする人は「甘い実のおいしいブドウ」が出来ますようにと心から願いながら一生懸命働きました。それなのに甘い実の美味しいブドウではなく腐ったような酸っぱい実のブドウがなったとしたら、どうでしょうか?私たちならきっと「こんなまずいもの食べられない!」と捨ててしまうに違いありません。では、このブドウ園の世話人はどうしたでしょうか?やっぱり捨ててしまう?

みなさんはもうきっとわかりましたね。ブドウ園の世話人とは神様のことです。すっぱいブドウとは私たち人間のことです。神様がなさったことは何ひとつ足りない事はなかったのでとてもがっかりして悲しまれました。どうしてこんなことが起こったのでしょう?それは私たち人間に「罪」があるからです。神様に善いものとして造られた私たちなのに、そのことを忘れ、神様との約束を破り、神様なんかいらない!と離れて自分勝手な生き方をしてしまう、そのことです。「甘いブドウ」とは神様に喜ばれる生き方をすること。けれどそれは自分の力によっては出来ません。

だから神様はそのままではすっぱいブドウの私たちに、どうしても甘いブドウになって欲しいと願い、捨てるどころかイエスさまを送ってくださいました。イエスさまは私たちの罪の身代わりとなって私たちに新しい命をくださいました.イエス様のお言葉です。「わたしはブドウの木、わたしの父は農夫である、あなた方はその枝である」神様が愛して下さっているのに私たちは神様に喜ばれる生き方がなかなか出来ません。

けれどイエスさまという木から栄養を頂いている私たちが自分勝手に離れようとしても、イエスさまが木の幹として繋いでいてくださるのです。甘いおいしい実のなるブドウになれますよう、イエスさまから離れないように毎日をすごしましょう。

6月の御言葉

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マルコによる福音書2章17節。

6月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

6月3日(日)  ローマ3:20    お話の担当…     並木せつ子

10日(日) 詩編14:1-3           並木せつ子

17日(日) マルコ2:13-17         焦  凝

24日(日) マタイ14:22-33        興津晴枝


成宗教会学校からお知らせ

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

(新約聖書、コロサイ人への手紙2章3節)

  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。
  • 6月10日(日)は花の日です・・・この日は、成田東三丁目の交番にお花を届ける活動をしています。お家にお花が咲いている方は、お持ち下されば一緒にお届けします。
  • 聖霊の神様の助けによって全世界に教会が建てられました。教会は神様の見えない恵みを、確かな宝物として皆さんにお分けしたいと思います。それはイエス様の福音(良い知らせ)という宝です。世界中の教会に与えられているこの宝を、皆さんも心に受けて、新しい一歩を元気に踏み出すことができますようにお祈りします。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。