生きている者の神

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌183番
讃美歌528番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 1章28節 (旧約聖書2ページ)

1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

新約聖書:マルコによる福音書 12章18-27節 (新約聖書86ページ)

12:18 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
12:19 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
12:20 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。
12:21 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。
12:22 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。
12:23 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
12:24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
12:25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

《説教》『生きている者の神』

聖書には主イエスと対立する律法に忠実なファリサイ派の姿が数多く記されていますが、本日の箇所は、ユダヤ教の別の一派、サドカイ派が正面に出て来る珍しい箇所です。

サドカイ派は、特にモーセ五書を重んじる一派で、「モーセ五書に復活という言葉がない」という理由で甦りを否定、神殿で献げる犠牲のみが人間の唯一の義務であり、大祭司を頂点とする「神殿の儀式が信仰のすべてである」と考えていました。

復活を否定するということは、おのずから、その考え方が現世的であるのです。この世の命がすべてであり、「今生きている肉体の命がすべて」であるといった世界観であるならば、今生きている現実の世界での幸福のみを追い求めることになります。そのため、彼らは時代の権力者と結びつき、この世の政治を重んじ、ユダヤの最高法院サンヘドリンの過半数を占める宗教的貴族階級に深く浸透していました。サドカイ派は「神を信じる」と言っても「この世での幸福を与える神」を求めているのであり、「肉体の死が一切の終わりである」と考えたのです。

このサドカイ派は、現代の私たちの社会に充満している現実主義、現世主義と同じです。永遠を考えず、目の前の問題の解決・生活の豊かさのみを追い求める現代の社会、そしてそれに迎合する諸宗教。サドカイ派の現代版が如何に多いかということは、誰でも気づくでしょう。サドカイ派は、宗教的装いをしていても、現実は、合理主義的唯物論者と言うべきでありました。その彼らが、主イエスに「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がないので、兄の跡継ぎをもうけなければならないので、次の弟の嫁となったが同じぐ跡継ぎが無く弟は死に、次々と7人兄弟と結婚したが誰とも跡継ぎを残せないまま女は死んだ。復活の時、彼らが復活すると、その女は誰の妻になるのでしょうか。」と詰め寄りました。

これは、申命記25章5節以下に記されている律法に基づく問題提起です。申命記では、跡継ぎを残さないで死んだ者の妻は、家族以外の他の者に嫁ぐことは許されず、死んだ夫の兄弟と再婚し、そこで産まれた長子に亡き夫の後を継がせ、死んだ者の名を残すという制度でした。このような制度をレビレート婚と言い、古代社会によくある制度と言われています。このように、未亡人の再婚に関する旧約聖書の教えは、弱い者を守り、小さな民族をメシア到来の日まで導くことに本来の目的があったのですが、サドカイ派はそれを極端に誇張し、対立するファリサイ派の復活信仰を否定するために用いたのです。

ファリサイ派は復活信仰を持ってはいました。しかし彼らの復活信仰は、この世の継続でしかありませんでした。復活の目的は、この世の報いを死後に受けるという因果応報的なもので、この世での生き方を死後の恐怖によって縛り付けるという倫理的効果を持つこと以上の効力はありませんでした。

サドカイ派が提出した問題は、一人の女性が七人の兄弟と次々と結婚したが死後、全員が復活したら、「彼女は誰の妻か」ということです。

彼らは、「こんな矛盾したことを誰が信じられるか」と言いたいのです。

そのサドカイ派に対して主イエスは「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と答えられました。同じ問答がルカによる福音書20章36節では「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」と言葉が加えられています。「もはや死ぬことはなく、神の子である。」とは、「死んだ人間が生き返る」ということではなく、この世の生活を「もう一度繰り返すこと」でもなく、「まったく新しい世界に移ること」なのです。そしてその新しい世界とは、今私たちが生きている世界とは、本質的に異なる世界で、神の子として生きる世界なのです。

夫婦は、最も素晴しい愛の交わりを実現するものとして、先程お読み頂いた創世記1章28節に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」と記されています。

人は、この世にある限り、神から世界の管理を任された者として、夫婦が助け合って生きて行かなければなりません。これが神によって造られた人間の使命であり、創造の秩序なのです。

では、「復活」によって「永遠の神の御国」に生きるとき、このような管理者の務めが必要でしょうか。

「復活」を考えるとき、ヨハネの黙示録21章「復活の世界」である「新しい天と新しい地」を改めて思い起こさねばなりません。その3節から4節には、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」とあります。そこには、慰め合わなければならない孤独はありません。助け合わなければならない苦しみもありません。神自ら、共に居てくださり、悲しみも嘆きも労苦もないのです。

パウロもコリントの信徒への手紙 第一 15章42節から44節で、「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」と記しています。

復活を信じることが出来ない人は、この「霊の体の世界」を信じることが出来ないのです。またパウロは、コリントの信徒への手紙第二の5章6節で「わたしたちはいつも心強い」と記しています。「霊の保証を受けている」という確信がそこにあり、その信仰こそ、この世を生きる力であり、この復活を信じる信仰によって、私たちはあらゆる試練に勝利するのです。

サドカイ派に対して主イエスは26節から27節で「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」とハッキリと言われました。

「神は生きている者の神である。」とは、父なる神は、常に私たちに関わりを持ち続けられるのであるという意味です。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と現在形で記されているのであり、「神であった」と過去形で記されていないのです。アブラハムもイサクもヤコブも、みんなずっと昔に死んで過去の人です。しかし、主なる神は、彼らとの関係を「過去のもの」とは言っておられません。死を超えてなお、神は彼らとの関係を保ち続けられています。死の力をもってしても、主なる神との関係を断ち切ることは出来ないのです。

復活信仰の最大の要点は、「死んだ者が生き返る」のではなく、主なる神は「死の力を虚しくし、人との交わりをいっそう強められる」というところにあります。人は、何時も「肉体の生き返り」を問題にします。「それが可能か不可能か」と問います。しかし、「生命は何のためにあるのか」を改めて考えるならば、たとえ死から甦ったとしても、「神なき世界への生き返り」であるならば、それは「何にも値しない命」と言うべきです。

復活とは、主なる神との永遠の交わりであり、主なる神が結ばれた愛の絆を断ち切ろうとする「死の力」を無力化するものです。死を超えてなお続く永遠の世界。そこにおける交わりは、神御自身の御手の中にある安らぎであり、人にとって最高の幸福が備えられているのです。

死を、愛する者との別離ととらえるところから絶望が生じます。しかし、その絶望を希望に変えたのが、御子イエス・キリストの復活です。主イエス・キリストの復活によって、主なる神に迎えられる永遠の世界こそが、人が本来「行くべきところ」なのです。

最後に、ヨハネによる福音書 11章25節から26節の主イエスの御言葉をお読みします。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

「あなたはこれを信じるか」という主イエス・キリストの問いかけこそ、新しい希望への招きなのです。そして、私たちの前に、その道は開かれているのです。

お祈りを致しましょう。

神のものは神に

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌10番
讃美歌68番
讃美歌338番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 1章26-27節 (旧約聖書2ページ)

1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

新約聖書:マルコによる福音書 12章13-17節 (新約聖書86ページ)

12:13 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
12:14 彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
12:15 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
12:16 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
12:17 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

《説教》『神のものは神に』

先週から受難節に入りました。主イエスの十字架の受難日は今年は4月15日ですが、それまで1ヶ月ほどあります。

今私たちが礼拝において読み進めているマルコによる福音書12章に語られているのはまさに主イエスの最後の一週間、受難週における出来事です。主イエスを殺してしまおうと思っている人々が、言葉尻を捕えて陥れ、訴える口実を得ようとしていろいろなことを語りかけて来たのです。13節に「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。」とあります。人々とは11章27節以来、主イエスの陥れようとしている祭司長、律法学者、長老たちです。

もともと、この時代、ファリサイ派とヘロデ派は犬猿の仲でした。

ヘロデ派はローマ帝国の支配を受容しています。ローマ帝国の植民地でありながらガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスによる直接支配がユダヤ全土に及ぶことを認めていました。言わば現実派であり、支配するローマ帝国への納税も当然受け入れていました。

他方、ファリサイ派は伝統的な律法第一主義です。「神にのみ従え」という神の直接的支配を夢見るユダヤ民族主義が基本的主張であり、神殿税と呼ばれる神にささげる献金には大賛成ですが、ローマ帝国への納税には反対でした。

ファリサイ派は、ヘロデ派を信仰を虚しくする世俗主義として憎み、ヘロデ派はファリサイ派を現実を無視する原理主義として批判していたのです。それなのに両者が、主イエスを陥れるために相談し、協力しているのです。

彼らは、何のためにお互いの争いを超えてまで協力しているのでしょうか。

ファリサイ派にとっても、ヘロデ派にとっても、主イエスを陥れることによって得るものは何もありません。彼らはただ、「これまでの自分の生き方を否定される」ことを嫌がり自分の立場をそのまま保っていたいと思っているのです。彼らは、古いものを打ち砕き、新しい御国をイスラエルにもたらそうとしている神の御子を拒否します。すべての者を福音のうちに包み込もうとする神の御手から必死に逃れようとする人間、それがここに現れた人々なのです。彼らは主イエスに、「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」と問いかけました。彼らは、神の御子を陥れることが出来ると思ったのです。「言葉じりをとらえる」とは「狩人が獲物を捕らえる」という意味で、単純なあげ足取りではなく、イエスを罠に掛けようとしたのです。

これが、ファリサイ派が考えに考えた末の質問でした。その初めに心ならずも語られている、イエスに対する儀礼上の褒め言葉は、皮肉にもまことに正しいものでありでありました。主イエスこそ真実な方であり、人の言葉に惑わされる方ではなく、人の顔を見て差別される方でもなく、聖書に基づいて神が示された正しい道を教える唯一の方です。

彼らが主イエスに話しかけた14節前半は、「言葉としては」まことに立派なものでした。しかし同時に、人の語る言葉は、心を規定するものであることを知らねばなれません。言葉は、語る人自身の人格を表すのです。そして言葉の醜さは、同時に、人格の醜さをさらけ出してしまいます。

彼らは、主イエスに対してまさに最高の賛辞をもって語り掛けましたが、神の御子が自分たちの本心を見抜いておられないと、思い込んでいたのではないでしょうか。

私たちは、主イエス・キリストに対する信仰告白を公にしています。主なる神への絶対的な服従を、聖霊の導きとキリストの執り成しによって告白しています。しかし、自分が言葉に出した信仰告白と、私たち自身の心と行動とが、何処まで一致しているでしょうか。私たちは、人の心を覗き見ることは出来ません。偽りの言葉を区別することは困難です。しかし、主なる神はそれを見抜くことが出来るのです。

神を偽ることは出来ません。それ故に、「最も美しい言葉が、最も醜い心を表してしまう」ことになってしまうのです。

ファリサイ派は、自分たちの言葉が、自分自身の醜さを既に暴露していることにも気づかず、彼らなりに練りに練った難問を、神の御子を陥れる罠として用意したのです。

古代世界では、支配者が課す税は、圧制による搾取とも考えられ、問題があったことも確かです。しかし、ここでの問題はそういうことではなく、ローマ帝国の税金は、ユダヤ人にとって、生活上の負担や苦しみであるという以上に、信仰上の問題でした。

14節にある「税金:ケーンソス」とは、所得税や物品税のようなものではなく「人頭税」のことです。人頭税とは、市民・国民の義務、国家に所属する証しであり、一人年額1デナリ、労働者一日分の給料に当たる金額でした。金額的には大して大きなものではありませんが、ユダヤ人の国家意識は、あくまでも神が支配する神制国家であり、彼らは、主なる神への信仰の証しとして、年額半シェケル、デナリオンに換算すればローマ帝国の人頭税の二倍に相当する金額を、イスラエル神殿へ納めていました。それがユダヤ人としてのアイデンティティであり、信仰確認でした。

ローマ帝国の人頭税は、ローマ帝国の支配権・王権を認めることになり、神の神聖性を犯すとユダヤ人は考えていたのです。それ故に、ここに提出された問題は、「税金を納めるべきか反対すべきか」という搾取に対する抵抗というような政治・社会的問題ではなく、純粋に信仰上の問題であったのです。

この時、主イエスが「納めよ」と言えば、民衆は世俗主義であるとして主イエスを見棄てるでしょう。ファリサイ派はそれをローマ帝国支配への迎合として宣伝します。反対に、「納めるな」と言えば、ヘロデ派は反政府主義者として主イエスを捕らえる口実とするでしょう。

どちらにしても主イエスを陥れる名案だと、ファリサイ派と反目し合うヘロデ派が、共に自分たちの主義主張を捨ててまで団結し、神に逆らう人間としての結論でした。主イエスは、彼らの下心を見抜いて、「デナリオン銀貨には、誰の肖像と銘があるか」と問われました。デナリオン銀貨は当時のローマ帝国内の基本的貨幣です。そして、デナリオン銀貨を初めとするローマの貨幣には、すべて表面に皇帝の肖像が浮き彫りにされていました。

古代社会において、貨幣に刻まれた肖像は、それを用いる者への主権・支配権を表すものでした。国際的な条約などはなく、また現在のような銀行制度もない時代です。貨幣の発行は、皇帝または国王の支配権を明らかにするものであり、肖像が刻まれた貨幣を使用する者は、そこに刻まれた皇帝の支配権を認めるものでした。古代世界では貨幣の通用する範囲が支配地域でした。「これは誰の肖像か」と主イエスが尋ね、「皇帝のものです」と彼らが答えた時、ローマ帝国の支配を彼らが認めていたことを意味しているのです。

彼らは、ユダヤ人の自主独立や信仰の純粋さを語って来ました。しかし実際は、後にローマ総督ピラトに訴え、主イエスの十字架刑を要求したように、ローマ帝国の支配を容認しており、必要に応じてそれを利用し、国家の権力を信仰の上においていたのです。国家の恩恵を受けているのなら、その義務も負っている筈です。権利を主張する以上、義務もまた果たすべきです。これが主イエスの考えでした。主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。この「返しなさい」とは、「支払うべきものを支払う」という意味です。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という御言葉は、よく政教分離ということで誤解されることがあります。「信仰と政治は別のものだ」という意味で、この言葉が格言のように利用されます。

しかし、主イエスは「政治や経済はこの世に属し、霊的な部分は神に属する」と言っておられるのではありません。「この世の支配者もまた、神の支配の下にある」ということを明確にしておられるのです。

17節の最後に「彼らはイエスの答えに驚き入った」と記されています。私たちは、ここで「なるほど流石見事に答えられた」と感心して終わってはなりません。

「神のものは神に」とは、どのようなことでしようか。ここに信仰の大切なことを表されているのです。では、何故、「税金を納めよ」と言われたのでしょうか。

デナリオン銀貨には皇帝の肖像が刻んであります。それを使用するということは、ローマ皇帝の支配権を認めていることになります。国家への税金支払いは主権国家への義務だからです。

それでは、「神に返すべきもの」とは何でしょうか。16節で「肖像」と訳されている「エイコーン」という言葉は、通常は「姿」「かたち」と訳されます。

余計は話ですが、この「エイコーン」という言葉はギリシャ正教の聖なる絵画「イコン」となり、英語で「icon:アイコン」となって私たちが普段スマホやパソコンでお馴染みの世界語となっています。

話を戻して、ここで、主イエスは「皇帝の“姿・かたち”が刻まれているものは皇帝のものであり、皇帝に返せ」と言われました。ですから「神のもの…」とは、「神のかたちが刻まれているものは神のものであり、神に返せ」ということになるでしょう。「神のかたち」とは何でしょうか。それは、司式者に先程お読み頂いた旧約聖書創世記1章26節~27節にある「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって人を創造された。男と女に創造された。」を思い出すとすぐに分かります。

地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むもの、神がお創りになったこの世界のすべては神のものなのです。私たちが神に返すべきものとは、私たちの生活の中の限られた部分や物ではなくて、その全てなのです。地上にあるもので、神のものでないものなどありません。「神のものは神に返しなさい」というみ言葉は、この世において、あるいは私たちの人生において、「神のもの」である領域を限定して、そこにおいてのみ神に従いなさいと言っているのではないのです。この世の全ては神のものなのです。全てを神にお返しすることによってこそ、神のものを神に返して生きることができるのです。

 

「神のもの」とは、神の似姿を刻まれて創造された私たち人間です。神は私たち人間にご自身の肖像を、似姿を刻みつけて、「あなたは私のものだ」と言っておられるのです。私たちは神の似姿を刻まれた神のものとして生きているのです。「神のもの」とはこの世界の全てですが、私たち人間に限って言えば、私たち自身こそ、神に返されるべき「神のもの」なのです。

私たち自身が、神の主権をこの世において顕すものなのです。私たちは、「神のかたち」に造られ、罪によって、一時、本来の姿を失っていましたが、キリストの福音によって、「神のかたち」に倣う新しいものに改めて造りかえられたのです。神の御前に、造られた者としての正しい姿を示すことが求められているのです。そしてその神様が、何処までも私たちから離れることなく、愛され導かれていることを、私たちは常に覚えるべきです。御子キリストは、御前にひれ伏す私たちに対し、「あなたは神のもの・私のもの」と、おっしゃっているのです。

お祈りを致しましょう。

クリスマス イヴ礼拝説教「言(ことば)が人となった」

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌106番
讃美歌103番
讃美歌119番
讃美歌109番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 1章1―2節 (旧約聖書1ページ)

1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

新約聖書:・・・ヨハネによる福音書 1章1―14節 (新約聖書163ページ)

1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

《説教》『言(ことば)が人となった』

新約聖書には四つの福音書があります。福音書とは、2000年前にこの地上で人として生きて働かれた主イエスの活動記録です。ヨハネによる福音書は四番目の福音書ですので、第四福音書とも呼ばれます。この第四の福音書は、他の三つの福音書とはかなり違ったものになっています。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、主イエスのご生涯を、ほぼ同じ調子で語り、共通する記事も多くあります。そのためにこの三つは並べて比較しながら読むことができます。そういう意味でこの三つを共に同じ観点から見る「共観福音書」と言います。しかしヨハネ福音書が語っている主イエスのご生涯は、共観福音書とはかなり違いますし、他の三つの福音書には語られていない話も沢山あり、かなり毛色の違う、独特な福音書です。そして、新約聖書にこのヨハネ福音書が入っていることによって、主イエス・キリストについての、また救いについての私たちの理解と認識は、大きな広がりと深まりを与えられているのです。

ヨハネ福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と語り始めています。この謎のような言葉によってこの福音書は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。「初めに」という冒頭の言葉によって、この世界の、そして私たち人間の「初め」を尋ね求めているのです。この「初め」、それは起源、根源と言う言葉です。この世界の、人間の、初め、起源、根源とは何か。それは「言」だ、と語っているのです。その「言」とは、私たち人間が語る不確かな、あやふやな、また不誠実な言葉ではありません。神の言です。神の私たちに対する語りかけです。この世界の、そして私たちの人生の、初めには、神の語りかけがある、とヨハネ福音書は宣言しているのです。そしてその神の語りかけ、言は、神と共にあり、言そのものが神であった、と続いています。それはこの福音書が、神の語りかけ、「言」を、一人の人格的な存在として見ているということです。そのお方とは主イエス・キリストです。14節まで読み進めるとそれが分かります。この福音書が「言」と書いて「ことば」と読む「言」とは、肉つまり人となって私たちの間に宿られた主イエス・キリストのことなのです。ですから、「初めに言があった」という謎めいた言葉で語り始められているこの福音書も、やはり冒頭から主イエス・キリストのことを語っているのです。主イエスとは、この世界の根源であり、私たちの人生を根底において支えている土台であるところの神の「言」、神からの語りかけなのだ、ご自身が神であられるその「言」が肉なる人となってこの世を生きて下さったのが主イエス・キリストなのだ、ということをこの福音書は語っているのです。

2節の「この言は、初めに神と共にあった」は一見、1節を言い直しているだけのように思えますが、「この言」と訳されているのは「このもの」あるいは「この方」という意味であって、それは1節の「言」を受けていると同時に、14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」を既に意識しています。肉となってこの世を生きて下さった主イエス・キリストは世の初めに既に父である神と共におられたのです。この「初めに」は創世記冒頭の「初めに神は天地を創造された」を意識しているのです。神がこの世界を創造なさった時、そこに、言である主イエス・キリストも共におられ、天地創造のみ業に共に関わっておられたのです。そのことが3節に「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と語られているのです。「言」であられる主イエス・キリストによって、この世の全てのものは造られたのです。主イエス・キリストは神によって造られた被造物ではなくて「創造主」であられるのです。主イエスは父なる神から生まれた子なる神であられ、まことの神として創造の初めから父と共におられるのです。しかしそれは父なる神と子なる神という二人の神がおられるということのではありません。神はお一人である、ということも聖書の根本的な信仰です。そこにさらに聖霊なる神が加わって、父と子と聖霊という三者でありつつお一人なる神であるという、いわゆる「三位一体の神」という神の本質的なお姿が見えてくるのです。ヨハネ福音書のこの冒頭の部分は、聖書においてご自身を啓示しておられる神が父と子と聖霊なる三位一体の神であられることを私たちが認識するための大切な役割を果しているのです。

6節になると、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」と、一人の人間のことが語られ始めます。ここで私たちの目は、この世のこと、地上を生きた具体的現実的な人間のことへと向けられるのです。このヨハネとは、「洗礼者ヨハネ」と呼ばれ、ヨハネ福音書を書き記したヨハネとはまったくの別人です。主イエス・キリストが宣教活動を始められる前に、洗礼者ヨハネが現れ、主イエスの伝道のための備えをしました。しかし、その洗礼者ヨハネがどのように主イエスのための備えをしたかは、ヨハネ福音書と他の三つの福音書ではかなり違っています。他の三つの福音書では、洗礼者ヨハネは人々の罪を指摘し、悔い改めを求め、悔い改めの印としての洗礼を授けました。自分たちが罪人であることを人々に意識させ、悔い改めて神に立ち帰り、向き合うことによって、救い主イエス・キリストを迎える準備をしたのです。それに対して、ヨハネ福音書において洗礼者ヨハネがしたことは何か。7節に「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」とあります。ヨハネ福音書における洗礼者ヨハネは、証しをするために神から遣わされた人なのです。証しとは、証言です。見たり聞いたり体験して知っていることを、「こうでした」と人に伝え、それを聞いた人々が「ああそうなんだ」と知るようになる、それが証しです。洗礼者ヨハネは、「光について証しをするため」に神によって遣わされました。その光とは、初めにあった「言」に命と光があった、と言われているその光です。5節に「光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と言われているその光です。そして9節では「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と言われています。初めにあった「言」、自らが神であり、命であり、光であるその方がこの世に来られて、まことの光として全ての人を照らす、それは主イエス・キリストのことです。「言」も「命」も「光」も、主イエス・キリストのことなのです。その「光」である主イエスについて証しをするために洗礼者ヨハネが現れたのです。洗礼者ヨハネは、「証し人」です。彼は主イエスこそがまことの光であることを全ての人が知り、信じるようになるために証しして、救い主イエス・キリストの働きのための備えをしたのです。

これは、主イエス・キリストの現れとは、罪が支配するこの世の暗闇の中に、神の救いの恵みの光が輝き、罪の闇に打ち勝つ、というような象徴的なことではありません。そうではなく、人間を照らす光が、暗闇の中に輝いているのです。それは、まことの神である主イエス・キリストが人間となってこの世に来て下さり、この地上を生きて下さり、十字架の死と復活による救いを実現して下さったことを言っているのです。「人間を照らす光」とは、主イエス・キリストです。「光は暗闇の中に輝いている」というのも、私たちの罪によって深まっているこの世の暗闇の中に、主イエス・キリストが来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、それで私たちの罪を赦して下さり、その死からの復活によって、私たちにも復活と永遠の命の約束を与えて下さった、ということです。その主イエスが今、この礼拝において私たちと出会い、語りかけ、交わりを持って下さっているのです。この世の現実におけるどのような暗闇も、この主イエスの恵みの光に打ち勝つことはできません。暗闇は光を支配下に置くことはできないのです。

主イエスについての証しを聞いて、主イエスを神の言、救い主、まことの光として信じ、受け入れると、私たちには「神の子」として新しく生かされる、という救いを与えられます。

しかしそこには同時に、主イエスを受け入れず、信じない、ということも可能です。この世を生きている私たちは、自分がそのどちらの道を選び、歩むのかを問われているのです。「証しの書」であるヨハネ福音書は、そのことを私たちに問い掛けているのです。その最初の「証し」が洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネから始まった主イエスについての証しを信じて受け入れ、世に来てすべての者を照らして下さるまことの光である主イエスによって照らされるなら、私たちも神の子とされて生きることができます。その信仰の歩みにおいて私たちも、まことの光である救い主イエス・キリストの証し人として、それぞれの生活の場へと、神によって遣わされていくのです。

お祈りを致します。

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