主日礼拝
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌11番
讃美歌183番
讃美歌528番
《聖書箇所》
旧約聖書:創世記 1章28節 (旧約聖書2ページ)
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
新約聖書:マルコによる福音書 12章18-27節 (新約聖書86ページ)
12:18 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
12:19 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
12:20 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。
12:21 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。
12:22 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。
12:23 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
12:24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
12:25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
《説教》『生きている者の神』
聖書には主イエスと対立する律法に忠実なファリサイ派の姿が数多く記されていますが、本日の箇所は、ユダヤ教の別の一派、サドカイ派が正面に出て来る珍しい箇所です。
サドカイ派は、特にモーセ五書を重んじる一派で、「モーセ五書に復活という言葉がない」という理由で甦りを否定、神殿で献げる犠牲のみが人間の唯一の義務であり、大祭司を頂点とする「神殿の儀式が信仰のすべてである」と考えていました。
復活を否定するということは、おのずから、その考え方が現世的であるのです。この世の命がすべてであり、「今生きている肉体の命がすべて」であるといった世界観であるならば、今生きている現実の世界での幸福のみを追い求めることになります。そのため、彼らは時代の権力者と結びつき、この世の政治を重んじ、ユダヤの最高法院サンヘドリンの過半数を占める宗教的貴族階級に深く浸透していました。サドカイ派は「神を信じる」と言っても「この世での幸福を与える神」を求めているのであり、「肉体の死が一切の終わりである」と考えたのです。
このサドカイ派は、現代の私たちの社会に充満している現実主義、現世主義と同じです。永遠を考えず、目の前の問題の解決・生活の豊かさのみを追い求める現代の社会、そしてそれに迎合する諸宗教。サドカイ派の現代版が如何に多いかということは、誰でも気づくでしょう。サドカイ派は、宗教的装いをしていても、現実は、合理主義的唯物論者と言うべきでありました。その彼らが、主イエスに「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がないので、兄の跡継ぎをもうけなければならないので、次の弟の嫁となったが同じぐ跡継ぎが無く弟は死に、次々と7人兄弟と結婚したが誰とも跡継ぎを残せないまま女は死んだ。復活の時、彼らが復活すると、その女は誰の妻になるのでしょうか。」と詰め寄りました。
これは、申命記25章5節以下に記されている律法に基づく問題提起です。申命記では、跡継ぎを残さないで死んだ者の妻は、家族以外の他の者に嫁ぐことは許されず、死んだ夫の兄弟と再婚し、そこで産まれた長子に亡き夫の後を継がせ、死んだ者の名を残すという制度でした。このような制度をレビレート婚と言い、古代社会によくある制度と言われています。このように、未亡人の再婚に関する旧約聖書の教えは、弱い者を守り、小さな民族をメシア到来の日まで導くことに本来の目的があったのですが、サドカイ派はそれを極端に誇張し、対立するファリサイ派の復活信仰を否定するために用いたのです。
ファリサイ派は復活信仰を持ってはいました。しかし彼らの復活信仰は、この世の継続でしかありませんでした。復活の目的は、この世の報いを死後に受けるという因果応報的なもので、この世での生き方を死後の恐怖によって縛り付けるという倫理的効果を持つこと以上の効力はありませんでした。
サドカイ派が提出した問題は、一人の女性が七人の兄弟と次々と結婚したが死後、全員が復活したら、「彼女は誰の妻か」ということです。
彼らは、「こんな矛盾したことを誰が信じられるか」と言いたいのです。
そのサドカイ派に対して主イエスは「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と答えられました。同じ問答がルカによる福音書20章36節では「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」と言葉が加えられています。「もはや死ぬことはなく、神の子である。」とは、「死んだ人間が生き返る」ということではなく、この世の生活を「もう一度繰り返すこと」でもなく、「まったく新しい世界に移ること」なのです。そしてその新しい世界とは、今私たちが生きている世界とは、本質的に異なる世界で、神の子として生きる世界なのです。
夫婦は、最も素晴しい愛の交わりを実現するものとして、先程お読み頂いた創世記1章28節に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」と記されています。
人は、この世にある限り、神から世界の管理を任された者として、夫婦が助け合って生きて行かなければなりません。これが神によって造られた人間の使命であり、創造の秩序なのです。
では、「復活」によって「永遠の神の御国」に生きるとき、このような管理者の務めが必要でしょうか。
「復活」を考えるとき、ヨハネの黙示録21章「復活の世界」である「新しい天と新しい地」を改めて思い起こさねばなりません。その3節から4節には、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」とあります。そこには、慰め合わなければならない孤独はありません。助け合わなければならない苦しみもありません。神自ら、共に居てくださり、悲しみも嘆きも労苦もないのです。
パウロもコリントの信徒への手紙 第一 15章42節から44節で、「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」と記しています。
復活を信じることが出来ない人は、この「霊の体の世界」を信じることが出来ないのです。またパウロは、コリントの信徒への手紙第二の5章6節で「わたしたちはいつも心強い」と記しています。「霊の保証を受けている」という確信がそこにあり、その信仰こそ、この世を生きる力であり、この復活を信じる信仰によって、私たちはあらゆる試練に勝利するのです。
サドカイ派に対して主イエスは26節から27節で「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」とハッキリと言われました。
「神は生きている者の神である。」とは、父なる神は、常に私たちに関わりを持ち続けられるのであるという意味です。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と現在形で記されているのであり、「神であった」と過去形で記されていないのです。アブラハムもイサクもヤコブも、みんなずっと昔に死んで過去の人です。しかし、主なる神は、彼らとの関係を「過去のもの」とは言っておられません。死を超えてなお、神は彼らとの関係を保ち続けられています。死の力をもってしても、主なる神との関係を断ち切ることは出来ないのです。
復活信仰の最大の要点は、「死んだ者が生き返る」のではなく、主なる神は「死の力を虚しくし、人との交わりをいっそう強められる」というところにあります。人は、何時も「肉体の生き返り」を問題にします。「それが可能か不可能か」と問います。しかし、「生命は何のためにあるのか」を改めて考えるならば、たとえ死から甦ったとしても、「神なき世界への生き返り」であるならば、それは「何にも値しない命」と言うべきです。
復活とは、主なる神との永遠の交わりであり、主なる神が結ばれた愛の絆を断ち切ろうとする「死の力」を無力化するものです。死を超えてなお続く永遠の世界。そこにおける交わりは、神御自身の御手の中にある安らぎであり、人にとって最高の幸福が備えられているのです。
死を、愛する者との別離ととらえるところから絶望が生じます。しかし、その絶望を希望に変えたのが、御子イエス・キリストの復活です。主イエス・キリストの復活によって、主なる神に迎えられる永遠の世界こそが、人が本来「行くべきところ」なのです。
最後に、ヨハネによる福音書 11章25節から26節の主イエスの御言葉をお読みします。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
「あなたはこれを信じるか」という主イエス・キリストの問いかけこそ、新しい希望への招きなのです。そして、私たちの前に、その道は開かれているのです。
お祈りを致しましょう。