謙遜な神様

CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌19番
讃美歌183番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 45章23-25節 (旧約聖書1,137ページ)・

45:23 わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ/すべての舌は誓いを立て
45:24 恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。主に対して怒りを燃やした者はことごとく/主に服し、恥を受ける。
45:25 イスラエルの子孫はすべて/主によって、正しい者とされて誇る。

新約聖書:フィリピの信徒への手紙 2章6-11節 (新約聖書363ページ)

2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえ

《説教》『謙遜な神様』

今日は「新型コロナウィルス感染症による緊急事態宣言」が解除されましたが、東京は引き続いて「まん延防止等重点措置」となってしまい、折角大変久し振りに礼拝堂に集い、教会学校の生徒さんや父母の方々を含めて教会学校との合同礼拝を守ることが、今日は出来ませんでしたが、ライブ配信を通しても、豊かな御言葉に出会えますことを感謝します。また、早く皆様と一堂に揃って礼拝・賛美の時が与えられます様、祈り願います。

今日の聖書箇所は、使徒パウロがキリスト・イエスの本当のお姿をフィリピ教会の信徒だけでなく私たちに熱く語られた『キリスト賛歌』と呼ばれているところです。

私たちは自分自身を省みる時、へりくだることは全く苦手な者であると言えるでしょう。とりわけ自分が目上であったり、自分が優位な立場にある相手に対しては、とてもへりくだることなどできません。そのような私たちに向かって、パウロは、少し前の5節から、へりくだることの大切さを語っているのです。そこには、「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」とあります。パウロは、信仰者がへりくだることの根拠は、キリスト・イエスのへりくだりにあると言うのです。「へりくだる」とは、自分で何か努力して、自分が頑張ってするのではなく、ただキリストを見つめることだと言うのです。

キリストを見つめるとは、キリストをお手本にして、その素晴らしい生き方を見倣うのではありません。キリストを見つめるとは、キリストを自らの救い主と受け入れ、キリストに救われ、キリストご自身の思いを、周りの人々に対して生かすことです。それは、私たちが自分の力で成し遂げられることではなく、キリストに救われた者が、その救いの恵みに感謝して行く時に自然と生まれてくることなのです。

キリスト信仰者が見つめるべき主イエスのお姿は6節から8節に記されています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で表れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。ここは、パウロ以前の初代教会時代で謳われていたキリスト讃歌として知られていました。その当時の教会でどのような礼拝讃美が行われていたか、また、パウロがこのキリスト讃歌にどのように手を加えたかなどが、大変よく研究されてきた聖書箇所と言えます。

ここには、キリストがどのようなお方かが明確に示されています。教会は、ここに記されているキリストのお姿に触れて、讃美を歌わずにはいられなかったのです。ここで先ず、キリストが神の身分であったとあります。キリストは神と等しい方、神ご自身であったのです。しかし、それに固執せず、拘らずに、神の身分を捨てて、人間と同じ者になられたのです。キリスト・イエスとは、神でありながら人となられた方なのです。この世界を創られた創造主である神は、ご自身が造られた被造物である人間と同じではないと私たちは考えます。しかし、主イエスとは、創造主である神ご自身が人となられたのです。創造主なる神、父なる神が、人であるキリスト・イエスとなって世界に来て下さったのです。それも、ただ神が人となったというだけでなく、へりくだって、十字架の死に至るまで従順だったとあるのです。

主イエスが、人間となって、力強い御言葉を語り、人々を癒し、素晴らしい生き方の見本を見せたと言っているのではありません。「十字架の死」にまで従順だったというのです。ここに「十字架の死」という言葉が出てきます。聖書は主イエスが十字架刑によって死なれたことを記しますが、聖書の中でキリストの死を「十字架の死」と言う概念をもって示すのは、今日のこの箇所だけです。十字架刑は、当時のローマ帝国で、最も重い刑罰でした。しかし、ここでの「十字架の死」とは、神様の裁きとしての死のことです。

私たちは、死と聞くと、私たちがいずれ迎える肉体の滅びとしての死を考えます。しかし、聖書は死にもっともっと深い意味を込めているのです。エデンの園から追われた人間は神様から離れて、神様ではなく自分自身が、自分の主人として生きてしまいます。そのように神様から離れることを罪と呼びます。その罪に支配された人間が受けなくてはいけない神の裁きが「十字架の死」なのです。

その十字架の死をキリストが受けて下さったというのです。本来、罪人である人間が受けなくてはならなかった神の裁きとしての死を、人間の姿をとって世に来て下さった神である主イエスが受けて下さった。その刑罰を受けることを、抵抗することもなく、それが人間を救おうとする神の御心である「十字架の死」を受けて下さったのです。私たちすべての人間の行き着く「滅びとしての死」、人間が罪人である以上、避けることが出来ないものを、罪の無い主イエスが受けて下さった。そのように考えると、十字架において主イエスは、人間以上に人間の姿をとって下さったと言っても良いでしょう。罪人が行き着く悲惨な死が、主イエスの十字架の死にあるからです。この出来事こそ、キリストの「へりくだり」ということなのです。ここに、私たちが見つめるべき、へりくだることの原型と言うべきものがあるのです。それは、私たち人間の謙遜などとは全く異なるものであり、キリストの救いにあずかることなしには生まれて来ないものなのです。

今日の聖書箇所の直前の3節で、パウロは、教会の人々にへりくだることを勧める際に、「何事も利己心や虚栄心から」しないようにと語っています。これは、キリストが自分に固執せずにむしろ自分を無にしたというその姿勢が私たちの中に生じる時にはじめて、「利己心」とか「虚栄心」によって振る舞わないという姿勢が取れるというのです。「利己心」というのは、自分の利益のみを求めて行動することです。「虚栄心」とは、自分に栄光が帰されること、人から評価されることを求める思いです。これらのことは、私たち人間の感情においては、ごく自然なものと言って良いかもしれません。「利己心」や「虚栄心」は全ての人間の本質と言っても良いでしょう。私たちは、いつも自分が高められることを求めています。周囲の人々に正当に評価されたいと思いますし、自分が見下されることは耐えられないものです。

そのような私たちにとって、自らの振る舞い全てが、いつしか、自分が高められるということを求めて行われるようになってしまうのです。そこで、個人の業績だったり、学歴だったり、財産だったり自分に栄光を帰してくれるものを求め、それに依り頼んで歩むようになるのです。6節の「固執しようとは思わず」とある「固執する」とは「略奪する」という意味の言葉です、従ってここは「奪い取ろうとは思わず」という意味です。私たちは、本来、自分の身分を高めるために必要なものを獲得しようとします。時には奪い取るようにして獲得し、そして、そのようにして得たものにしがみつき、それを離したくないと思います。固執すると言うのは、しがみつき、離れないことです。自分が人々から誉められ、あがめられることを求めるようになるのです。しかし、私たちがキリストに救われた時に、生きる歩みの中に、自分に固執せず、自分を無にする歩み、言い替えれば、利己心や虚栄心から解放された歩みが生まれていくのです。

大切なことは、キリストのへりくだり、従順の極みである「十字架の死」とは、模範を示すためのものではないのです。「十字架の死」はへりくだりの模範の極みとも言えますが、それ以上に、人間の救いの出来事そのものなのです。このことが忘れられると、キリストの十字架を模範とすることのみが、ただ、私たちの行動を規定するものとなります。例えば、主イエスのお姿から、道徳の規範のみを倣おうとすることが起こります。偉大な教えを説き、人々に良い行いの模範となって下さった主イエスに倣うと言うことのみが強調されてしまいます。主イエスに倣って、少しでも清く正しい歩みをして行こうとするのです。そこからは、周囲の人々の振る舞いを見て、裁くということが起こります。それどころか、主イエスを偉大な革命家のように捉え、主イエスの姿に倣って、その意志を実現するための活動に奔走すると言うこともあるでしょう。そこでは、自分の身近にある社会問題に取り組むことが、キリストに従うことになってしまいます。主イエスを、道徳の教師や、政治的な指導者として考えてしまうとするならば、それは誤りです。そのような時には、キリストを語ることを通して、キリストにかたどった人間の主義主張や倫理観が説かれていくのです。それは、いつしか、それを行い、あるいは、その価値に従うことがキリスト者の務めであるかのように捉えられ、周囲の人々を自分が行っている特定の活動や、特定の価値観に巻き込んでいくことになるでしょう。そこには、本当に、へりくだり、他人を敬い、その賜物を尊重する歩みは生まれて来ません。それは、キリストのへりくだりの中にある、罪の赦しに生かされることが見失われているからです。しかし、ここでは、「キリストのへりくだり」だけを言っているのではありません。今日の後半部の9節には、「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。キリストが十字架に至るまでの従順を貫いたが故に天におられる神様のもとに高く挙げられたと言うのです。このことは、何を意味しているでしょうか。

信仰者の原型となるキリストのへりくだりが語られ、それに続いて、キリストが天に高く挙げられる「キリストの高挙」が語られているのです。ここもそのように考えると、キリストのようにへりくだる歩みをした者は、キリストのように高く挙げられるのだと思ってしまうのではないでしょうか。しかし、ここは、従順を貫くことができた者は、そのご褒美としてキリストのように天に挙げてもらえると言うことではありません。このことは10節と11節では、「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストが主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」とあり、またまた、ちょっと理解しにくい話とも思われます。「天上」、「地上」、「地下」、と言われている通り、全ての被造物を含めた、この世界のあらゆるものが、イエスを主として、真に神を讃えるようになるために高く挙げられたと言われているのです。主なる神がキリストに全世界を支配する主権者としての地位を与えた、キリストは神の身分でありながらへりくだったのです。これは、私たちが「イエス・キリストは主である」と告白して、神をたたえつつ歩むことだけでしか、本当にへりくだった者となれないと言っているのです。

私たちは、この世にあって生きている限り、自分が評価されることに拘り続ける者です。何事も利己心や虚栄心から行ってしまう者です。他人のために尽くそうとする時でさえ、又、様々な奉仕に携わる時でさえ、利己心や虚栄心が潜んでいると言えましょう。困難な中にある人々のための活動も、社会の中で虐げられている人々のための奉仕も、自分の業績を評価されることのために行うのであれば、それは方向違いと言えるでしょう。

私たちは、先ず、「イエスの御名にひざまずき」、「『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえ」なければならないのです。主イエスこそが、私たちのためにへりくだって十字架の死を死んで下さったのです。ただ、主イエスのへりくだりに示された救いにあずかることを通してのみ、私たちは、自分に固執せずに、利己心や虚栄心からではなく、キリストを証しするための、愛の業に励むことが出来るのです。

今週も、神を讃美しつつ、新しい歩みを始めたいと思います。お祈りを致します。

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しっかりせよ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌68番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 107篇28-31節 (旧約聖書949ページ)

107:28 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出された。
107:29 主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。
107:30 彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。
107:31 主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。

新約聖書:マルコによる福音書 6章45-52節 (新約聖書73ページ)

6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
6:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

《説教》『しっかりせよ』

本日のテーマは、弟子たちが、主イエスとは、いかなるお方であるのかを、更にどこまで知ることが出来たかです。

様々な奇蹟を行われた主イエスが、群衆の過剰な興奮を避けるために、弟子たちをガリラヤ湖の向こう岸にあるベトサイダに行かせるために舟に乗り込ませました。そして、ご自分は群衆を解散させて、祈るために山に退かれました。

マルコは、主イエスがお一人で祈る場面を3回描いています。1章35節のカペナウムでの宣教開始の日、次に本日のこの6章、そして十字架を前にしての14章32節以下ゲッセマネの三場面です。そのいずれの祈りも群衆を避けて、純粋に父なる神の御心を求める大切な時でした。主イエスは父なる神と祈りによっていつも強く結ばれていたのです。

最初の45節は、「それからすぐ」という言葉で始まります。これはマルコ福音書の特徴的な書き方で、44節までの出来事と本日の物語とを強く結びつけており、時間的に「その後」ということだけではなく、五千人の給食という物語と強く結びついていることを表しています。

五つのパンと二匹の魚による五千人の食事、それはまさに偉大な出来事であり、奇跡そのものでした。集まった人々はその奇跡に驚きの声を上げたことでしょう。しかし、そこには、6章34節にあった、「飼い主のいない羊のような魂の飢え」を訴えていた者が、肉体の糧であるパンを与えられた結果、魂の飢えを訴えることを止めてしまった姿がありました。かつて、四十日四十夜、荒野で悪魔の試みを受けた主イエスに、三つの誘惑がありました。その第一が「石をパンに変えよ」でした。それは、「飢えた者にパンを与える社会経済的メシアになること」を意味していました。悪魔は、何故、「パンを与えるメシアになれ」と言ったのでしょうか。それは、経済的豊かさを得る時、人間は魂の飢えを忘れるということを悪魔はよく知っていたからです。

その意味から、主イエスの御言葉を中断し、「パンを与えましよう」と言った弟子たちは、まさに、かつての荒野における悪魔の役割を果たしていたとも言えるでしょう。主イエスの目的は、魂の飢えを訴える人々に応えることでした。満たされぬ魂の苦しみを忘れた人間は、救い主イエスを必要としていないのです。ここに、「弟子たちを舟に乗せ、群衆を解散させた」主イエスは、「もはや、人々は魂の満たされることを求めてはいない」ということを感じとられたことを示しているのです。

私たちは、「私たちを呼び集められる主イエス・キリスト」を知っています。「待っておられる主イエス・キリスト」を知っています。「心の扉を叩かれる主イエス・キリスト」を知っています。そのような主イエスのみが心に焼き付いているかもしれません。しかし、この「解散させる、追い散らす主イエス・キリスト」の御姿を見落としてはなりません。御子のこの厳しさを忘れていることこそ、私たちの信仰の甘さの大きな原因と言えるでしょう。

教会に人々を集められるのは主イエス・キリストであり、人々を散らされるのも主イエス・キリストなのです。何処の教会でも聖日礼拝の出席者の数「教勢」の増減を大きく問題にします。特に、この新型コロナウィルス感染症の世界的な流行下で教会のこの教勢は、大きく変化していると言えましょう。この教会に人々が集まるか否かは、世俗的なこととは根本的に違うのは言うまでもありません。「集め、散らされる」のが主イエス・キリストご自身だからです。「礼拝出席者が減少した」という問題は、その背景に「キリストの怒りと悲しみがある」ということなのです。

教会内では、「交わりの場のあり方が悪い」とか、「牧師の配慮が足りない」とか、いろいろ言われることもありますが、礼拝とは霊的な聖なる御業で、神様のみが導かれるのです。

最近の傾向として、礼拝に様々な試みが見られます。プロジェクターで聖句や讃美歌を投影したり、オルガンは時代遅れだからとギターやドラムを用いたり、礼拝をライブ配信するなど、礼拝出席者の減少に悩む教会の様々な試みが報告されています。しかし、そうではなく、むしろ、信仰告白を固く守り、キリストの福音のみを礼拝堂で語る教会が発展しているのも事実です。主イエス・キリストの救いを伝えることこそが教会の大切な働きなのです。

魂の飢えをキリストに求めて教会に集まる時、主イエス・キリストはいつもその真ん中に立たれるのです。しかし、福音の代わりに「人間が要求する何か他のこと」を置き換えたところからは、主イエスは人々を追い散らされるのです。

主イエス・キリストが山に退かれた時、何が起こるか、その恐ろしさを弟子たちの姿の中に見出さなければなりません。全ての人々を遠ざけ、祈るために山へ行かれる主イエス・キリストの御姿を何と見るべきなのでしょうか。

47節にあるように、「夕方」になって、弟子たちの乗った舟は湖の真ん中に出ていましたが、主イエスだけは祈るために山におられました。

まさに「時は夜」でした。暗い水の上で、キリストから離れた弟子たちが、「自分たちだけで」進もうとしているのです。闇の中にいる彼らの眼には主イエス・キリストが見えていません。ただ眼に入るのは、自分たちを取り囲む強い風と波だけでした

そこには平安がなく、恐れのみで、前も後ろも暗闇の世界でした。生命を脅かすもので周囲は満ち満ちていました。行くべき場所を明示するものも見えず、力の限り漕いでも、舟は進みませんでした。前へ行こうとする人間の意志を無視する力が如何に強いかを思い知らされました。

この「逆風」とは何であったのでしようか。「暗闇」とは何でしょうか。キリストから離れた人間、キリストによって追い散らされた人間を取り囲むのは、常に、この「逆風」と「暗闇」で表現される「恐れと虚しさ」だけなのです。そして、この「恐れと虚しさ」をもたらすものの満ちているところが、神なき世界であると聖書は語ります。福音を必要としない人生の苦しさを、聖書は、弟子たちの姿を通して語っているのです。

48節に、「夜が明けるころ」とあります。正しくは「夜明け前」であり、水の上は未だ暗い時間でした。しかし、主イエスは「弟子たちが逆風のために漕ぎ悩んでいるのを見た」と記されています。弟子たちには何も見えない夜明け前の暗黒の中で主イエスは、ここに弟子たちの姿を見ているのです。一方では、主イエスから遠く離れた荒れる湖の上で、神と断絶する弟子たちの厳しさが依然として「ここにある」と言えるでしょう。

主イエスは、御自身を求めない者たちを追い散らしました。しかし、決して、見捨てられたということではないのです。散らされた者を、御心の外へ追いやってはいないのです。主イエス・キリストは、悩み苦しむ人間を見詰めておられるのです。

ここにこそ救い主としてのお姿が明確に告げられているのではないでしょうか。平安と希望を見失い、絶望の中を虚しく努力する人間を救うため、主は再び近づかれるのです。

さらに、このキリストの御業が如何に私たちの予想を超えているかということは、主イエスが「水の上を歩いて来られた」ということに尽きるでしょう。

「水の上を歩く」。それは人間にとって全く不可能なことであり、考えることも出来ないことです。それ故に、「キリストに救われる」ということは、このように「私たちには不可能と思われることが実現することである」と言えるのです。愚かさ故に遠く神から離れ、神なき世界に苦しむ者に対し、主イエス・キリストはあらゆる隔たりを除かれるのです。「私たちの苦しみを見過ごしに出来ないという愛」によって、不可能を可能にされるのです。

聖書は、この時の弟子たちの心を正直に伝えています。「そばを通り過ぎようとされた」。この物語は、ペトロの思い出に基づいて書かれたものであり、ペトロの立場から主イエスを見て書かれています。ですから、「イエスが通り過ぎようとした」のではなく、「イエスが通り過ぎてしまうように思えた」ということなのです。しかも、こともあろうに「幽霊だと思った」と記されています。何故なら、それはペトロにとっては、予想することも出来ない「有り得ないことであった」からです。

しかし51節の後半から52節には「弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」とあります。弟子たちは、主イエスが水の上を歩いて来て、舟に乗り込んで下さったら逆風が止んだことを、驚いたけれども、その本当の意味を捉えることはできなかったのです。彼らは「パンの出来事」も理解していませんでした。彼らが持っていた五つのパンと二匹の魚で主イエスが五千人を越える人々を養って下さったあの奇跡によって、弱く貧しく罪深い自分たちと、自分たちが持っているちっぽけなものを用いて、主イエスが人間の力をはるかに越える救いのみ業を行って下さったのに、彼らは心が鈍くなっていて、その恵みを受け止め、主イエスに信頼して生きることができていなかったのです。だからこそ、水の上を歩いて来て下さった主イエスのことを幽霊だと思って騒いだのです。弟子たちですら主イエスのことをこのように分かっていないのですから、他の人々が主イエスが何者であるかが分からないのは当然です。

ペトロは、主イエスが、嵐の湖を渡ってまで自分を救いに来て下さるとは、考えてもいませんでした。そしてまた、「主イエスが私のところにやって来られる筈はない」と思い込んでおり、期待もしていなかったのです。

自分を救うために近づいて来られるキリストの御姿を見ながら、なお、このように戸惑わざるを得ないのが、神なき世界に生きる人間の姿なのです。

50節の主イエスの語りかけ、「安心しなさい」と訳されたギリシャ語の“サルセオー”とは、「しっかりしなさい」と訳すべき言葉です。しかもすぐ後に続く「わたしだ」という言葉は、ギリシャ語では、“エゴー エイミー”「この私だ」という最も強く自分を指し示す言葉で、主イエスがご自身を表されるときに用いられる言葉です。ですから、あえて直訳すれば、「しっかりしなさい。この私が、あなたのところに来たのだ。恐れるな」という言葉です。そして自ら舟に乗り込み、それと同時に嵐は止みました。

神なき世界をさ迷う人間の中にも、御子キリストは入って来られるのであり、キリストの臨在と共に嵐は止むのです。そしてキリストの「私が共にいるではないか」という御言葉と共に、私たちは初めて平安を取り戻すのです。

キリストなき世界にあったペトロの不信仰の理由が、52節にある、「心が鈍くなっていた」という言葉です。この言葉は本来「石のように硬くなる」という意味であり、霊的な感受性を失うことを示しています。「鈍い・鋭い」という感覚の問題ではなく、「心が霊的なものを完全に受け付けなくなっている」という「魂のあり方」の問題なのです。

祈りを忘れた人間。御言葉を求めることを忘れた人間。魂の飢えより肉体の飢えが気になる人間。霊的豊かさよりこの世的経済性を問題にする人間。そのような人間の惨めさがここにあると言えるでしょう。

「しっかりしなさい。この私が、あなたのところに来たのだ。恐れるな」という御言葉の持つ真の意味が、弟子たちの心の中で、未だ本当の力になっていませんでした。キリストによって与えられた平安の中にありながら、キリストと共にいることの素晴しさに気がつかない弟子たちの姿は、私たちの姿でもあるのです。

主イエス・キリストは私たちを選び、召し出して、教会という舟に乗り込ませ、この世へと漕ぎ出させておられるのです。主イエス・キリストの促しによって教会という舟に乗り込み、漕ぎ出していく私たちの信仰の歩みも、逆風によって漕ぎ悩むことがしばしばです。主イエス・キリストは私たちの霊的鈍さ・頑なさにも拘わらず共に進まれるのです。この「キリストを中心にした舟」、即ち「教会」において、目には見えないけれども聖霊によって共にいて下さる主イエス・キリストが、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけ、私たちを守り導いて下さっているのです。

お祈りを致します。

貧しさと飢え

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌224番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:民数記 27章16-17節 (旧約聖書262ページ)

27:16 「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、
27:17 彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」

新約聖書:マルコによる福音書 6章30-44節 (新約聖書72ページ)

6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
6:42 すべての人が食べて満腹した。
6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。

《説教》『貧しさと飢え』

本日は、マルコによる福音書第6章30節以下の「五千人の給食の奇跡」をご一緒にお読みします。最初の30節にこうあります。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。これは先々週の6章7節以下の、主イエスが十二人の弟子たちを宣教のため、また悪霊を追い出し、病人を癒すために派遣されたという所を受けています。「使徒たち」とは主イエスの十二人の弟子たちのことで、「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。主イエスによって遣わされた使徒たちが、主イエスのもとに帰って来て、「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」のです。彼らが行ったことや教えたことは、この6章12節と13節に語られています。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」とあります。彼らが「行ったこと」は、「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」ことであり、「教えたこと」は「悔い改めさせるために宣教した」ということです。彼らは主イエスに遣わされてこのような働きをしてきたのです。そして帰って来て自分たちのしてきたことを主イエスに報告しました。「残らず報告した」という所に、彼らの喜び、あるいは驚き、そして興奮が感じられます。「私たちはこんなふうに語りました。その言葉を人々が聞いてくれました。そしてこんなふうに悪霊を追い出し、病を癒すことができました」と、堰を切ったように報告したのでしょう。「あれも言いたい、これも報告したい」というすばらしい体験を彼らは沢山与えられたのです。

そのように自分たちの体験を喜んで報告した弟子たちに主イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」とおっしゃいました。それは、「ご苦労だった。さぞ疲れただろう。しばらくゆっくり休んで英気を養いなさい」ということだったのでしょうか。ここに「人里離れた所へ行って」と言われています。主イエスは弟子たちを「人里離れた所」へ行かせようとしておられるのです。それは一つには31節後半にあるように、「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったから」です。しかし主イエスがこのようにおっしゃった一番の目的は、このマルコ福音書の1章35節を読むと分かります。そこには「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。主イエスご自身がしばしば「人里離れた所」に行って祈っておられたのです。それはただ休むためではなくて、祈るためでした。主イエスは人里離れた所で、父なる神様と向き合い、語り合う、神様との交わりの時を持っておられました。そのことを、今弟子たちにもさせようとしておられるのです。弟子たちには今こそ、そういう祈りの時が必要だと主イエスは判断なさったのです。

「あなたがただけで」人里離れた所へ行けとおっしゃった主イエスは、しかし結局ご自分も舟に乗って弟子たちと一緒に行かれました。このことは、弟子たちだけでは本当に休み、祈ることができない、ということを示しているのかもしれません。主イエスに「休んで祈りなさい」と言われても、ついつい動きたくなる、働きたくなる、祈るよりも活動していたくなる、それは弟子たちも私たちも同じではないでしょうか。じっと祈っているよりも、何かをして働きたくなる、「奉仕」をしたくなるのです。そうしていないと不安になるのです。

人里離れた所へ行くために、主イエスと弟子たちは舟に乗って出発しました。しかし人々は主イエスがしばしば祈りに行っておられた場所を知っていたのでしょう。一行の先回りをして待っていたのです。人里離れた所に上陸するはずが、すべての町から一斉に駆けつけて来た群衆でそこは大変な騒ぎになっていたのです。それほどまでに人々は、主イエスのみ言葉とみ業とを求めていました。主イエスはその大勢の群衆を見て「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれました。人里離れたこんな所にまで主イエスを求めて押し寄せて来るということは、彼らには、自分たちを本当に養い、守ってくれる飼い主、主人がいないのです。それはある意味では誰にも支配されずに自由ですが、実際には寄る辺ない身である、ということです。彼らは、自分の本当の主人、保護者、信頼して自分を委ねることのできる主人を求めていたのです。主イエスはそのような人々を見て、「深く憐れまれ」ました。これはただ「可哀想に思った」というのではありません。この「憐れむ」という言葉は「内蔵が揺り動かされる」という意味であり、新約聖書では、主イエスご自身にのみ用いられています。主イエスが、苦しんでいる人を、内蔵が揺り動かされるように深く特別な思いを示されたという意味の言葉です。そういう深い憐れみによって主イエスは、人々にいろいろと教え始められ、み言葉を語っていかれたのです。

主イエスの説教が続いて行く間に、弟子たちは次第に心配になってきました。ここは街中ではなくて人里離れた場所です。そこに、男だけでも五千人の人々が集まっているのです。まもなく日が暮れる。そうしたら、こんなに大勢の人々が腹をすかせたまま一夜を過ごさなければならなくなる。そうならないためには、そろそろお開きにしないと、このままではみんな家に帰り着くことができなくなる…。それで彼らは主イエスに「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」と言ったのです。すると主イエスは驚くようなことをおっしゃいました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。「そんな無理なことを…」と弟子たちは思いました。「私たちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」。一デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金です。ごく簡単に例えれば時給千円で、一日8時間働いて、8千円です。200デナリオンは約160万円になります。ですから、それくらい多額の金がなければ、この多くの群衆に食べ物を与えることはできないのです。「二百デナリオンもの」と金額を出しているのは、「そんなお金が私たちにないことは、先生あなたもよくご存じでしょう」ということです。すると主イエスは、「パンは幾つあるのか。見て来なさい」とおっしゃいました。あなたがたは今どれだけのものを持っているのか、と主イエスは問われたのです。「五つのパンと魚が二匹」それが弟子たちの持っている全てでした。その五つのパンと魚二匹で、主イエスは、男だけで五千人もの人々を満腹させるという奇跡を行われたのです。

そもそも主イエスが弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃったのは何のためだったのでしょうか。そのことと、32節までに語られていたことには関係があります。彼らに、自分たちの力がどれほどのものかを自覚させるためだったと言えるでしょう。弟子たちは、我々は素晴しいことができた、良い働きができた、神様の救いを人々に分け与えることができた、と喜んでいます。自分たちにはこんな力があったのだ、とある意味で有頂天になっていたのです。その弟子たちに主イエスは「それではあなたがたがこの群衆に食べ物を分け与えてごらん」とおっしゃったのです。弟子たちは「そんなことはできません」と言うしかありません。素晴しい働きが出来た、自分たちにはこんなに力があったのだ、と思い上がっていた彼らは、このみ言葉によって、自分たちの力がどれほどのものだったのかを思い知らされたのです。

私たちの心には不思議なバランスがあります。それは霊的なものと肉的なものです。心が霊的なものに満たされて行くにつれて、自分の思いである肉的なものは減少します。しかし、霊的なものが失われて行くと、直ちに肉的なものが勢力を盛り返してしまうのです。伝道者にとって最も大きな危険がここにあります。与えることに熱心なあまり霊的なものを受けることを忘れた時、どんな惨めさが待っているかは言うまでもありません。

主イエスが、弟子たちの喜びを見詰めながら考えたのはこのことでした。それ故に、先ず何よりも「祈りの時」を持つことを命じられたのです。

主イエスはこのようにして、有頂天になっている弟子たちの目を覚まさせたのです。それに続いて主イエスは「パンは幾つあるのか。見て来なさい」とおっしゃっています。弟子たちが今持っているものを確認させておられるのです。パンが五つと魚が二匹、それが弟子たちの持っている全てでした。彼らが人々に分け与えることができるものはそれだけなのです。それは五千人もの人々の前では、何の役にも立たないちっぽけなものです。しかしそのことを確かめた上で主イエスは、弟子たちの持っていたパンと魚を手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡して配らせ、魚も皆に分配なさったのです。すると、すべての人が食べて満腹し、さらに十二の籠にいっぱいになるくらい余りが出たのです。

彼らが持っていたパンと魚が用いられただけではありません。39節で主イエスは弟子たちに、皆を組に分けて座らせるようにお命じになりました。そして41節には、主イエスが賛美の祈りを唱えて裂いたパンと魚を弟子たちに渡して配らせたとあります。主イエスの恵み、憐れみによって与えられたパンと魚を、実際に人々に配ったのは弟子たちだったのです。このように弟子たちは、主イエスの恵みが人々に与えられるために用いられました。飼い主のいない羊のような人々に対する主イエスの憐れみは、弟子たちを通して人々に伝えられ、こうして人々は主イエスという羊飼いの下に養われる羊の群れとなったのです。「すべての人が食べて満腹した」という42節の言葉はそういうことを表していると言えるでしょう。そして43節には「そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」とあります。十二の籠は十二人の弟子たちと対応しています。十二人の弟子たちが、パンと魚とを人々に配り、そしてその残りを集めたのです。ここに集められた全ての人々が、十二人の弟子たちの手を通して、主イエスの恵みによって養われ、有り余るほどに満腹したのです。

主イエスの権限を受けて悪霊を追い出し、病人を癒すことが出来た弟子たちでさえ、霊の賜物が与えられることを祈り求めなければ、自分自身を誇るだけの何者でもないのです。私たちは、ここに神様の豊かな恵みと同時に自分自身の本当の姿を見るべきではないでしょうか。常に祈り、常に御言葉に聞き従い、霊的に満たされていなければ、まともなことは何一つ出来ない自分の貧しさを知るべきです。

そして、この貧しさに気付き、霊の賜物が与えられることを必死に祈り求める時、マタイによる福音書5章3節以下にある、あの有名な「心の貧しい者は幸いである」という御言葉が実現するのです。

主イエス・キリストこそ真の羊飼いであり、飼う者のない羊のような魂の飢えに苦しむ者を、決して見捨てられることはないからです。主イエス・キリストは、祈り求める者に、有り余る程の愛をもって応じられます。

それが、今朝、私たちに与えられたメッセージです。

お祈りを致しましょう。

おそれ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌9番
讃美歌338番
讃美歌520番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 18章1-5節 (旧約聖書190ページ)

18:1 主はモーセにこう仰せになった。
18:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。わたしはあなたたちの神、主である。
18:3 あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない。
18:4 わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従って歩みなさい。わたしはあなたたちの神、主である。
18:5 わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。

新約聖書:マルコによる福音書 6章14-29節 (新約聖書71ページ)

6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
6:15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
6:16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
6:17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
6:18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
6:23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
6:24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
6:25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
6:26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
6:27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
6:28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
6:29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

《説教》『おそれ』

本日のマルコによる福音書には、洗礼者ヨハネが殺された時のことが語られています。洗礼者ヨハネは、この福音書の1章の始めに登場した人物です。1章1節から8節をお読みします。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。“主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。”』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。『わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる』」。

このように洗礼者ヨハネは、「後から来られる方」、救い主イエス・キリストのために道を準備する働きをしました。1章14節に、主イエスがガリラヤにおいて神の御国の福音を宣べ伝え始めたとありますが、それはヨハネの逮捕の後でした。主イエスは、ご自分のために道を準備したヨハネが捕えられて舞台から退場した後に登場して来られたのです。そして本日の箇所には、捕えられたヨハネがその後どうなったかが語られているのです。ヨハネを捕えたのはヘロデ王でした。このヘロデ王は、クリスマスの話に出てくる、ベツレヘム近郊の二歳以下の男の子を皆殺しにした、あのヘロデ大王の息子で、ヘロデ・アンティパスと呼ばれた人です。父親のヘロデは「大王」と呼ばれるに相応しい権力を誇っていましたが、この息子のアンティパスは、正式には「王」とは呼べないような、ローマ帝国の権力の下で、ガリラヤとペレアの領主として認められていただけの人です。このヘロデがヨハネを捕えて監禁していましたが、ある年のヘロデの誕生日にヨハネの首を切って殺した、そのいきさつがここに語られているのです。

14節に、「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。」とあります。

主イエスの活動は、ガリラヤ各地で多くの人々に強い印象を与えました。そしてその評判は、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの耳にも当然入っていました。

ガリラヤの人々は、主イエスを「バプテスマのヨハネの再来だ」と言い、「エリヤだ」と言い、「預言者だ」と言いました。その全てが的外れであったとは言え、少なくとも、彼らの期待がそこに表されていたとも言えるでしょう。

16節には、「ところが、ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ』と言った。」とあります。ここに、ヘロデ・アンティパスの罪の自覚そのものがあるのです。彼が何を根拠にして「バプテスマのヨハネだ」と思い込んだのかは明らかではありませんが、人々の噂を聞いただけで、忘れようとしている自分の罪が甦ってくるのです。罪への恐れとはこのようなものだと言えるでしょう。

また、多くの場合、「おそれ」は「罪が発覚することに対するおそれ」と言えます。私たちは、「罪そのもの」を恐れることより、罪が発覚することを恐れるのではないでしょうか。何故なら、私たちは無数の過ちを隠しながら生活しているからであり、互いにその過ちを追求することをしないようにしています。それぞれが罪を隠しあっていることを互いに知っており、「それを追求しない」という一種の「暗黙の了解」によって、赦し合っているのではないでしょうか。

しかし、心の中まで見通す神の御前にあって、何を隠せるのでしょう。ヘロデ・アンティパスの姿は、神の御前に立つ人間の厳しさを示しているのです。

ヘロデ・アンティパスがこのように悩むいきさつは、17節以下に記されています。彼は父ヘロデ大王の死後、ガリラヤとペレアを受け継ぎましたが、ローマ帝国の支配の下、王という称号は許されず、植民地の領主という不安定な立場にありました。自分の地位を守るために生涯心を痛め続けたヘロデ・アンティパスは、強力な隣国ナバテヤの王女と政略結婚をし、安全を図りました。

しかしながら、こともあろうに、母違いの兄弟フィリポの妻ヘロディアを見染め、兄弟であるフィリポを毒殺してヘロディアと結婚、ナバテヤの王女とは離婚して国へ帰してしまいました。このことに怒ったナバテヤの王と戦争になり、ユダヤ人民衆からは不道徳の謗りを受け、さらに洗礼者ヨハネは、主の御名によってヘロデ・アンティパスの罪を非難し、神の裁きを警告しました。

「領地の民は殺すも生かすも自由」という古代世界で、ヨハネは死を恐れず、ヘロデの罪を公然と責めたため、民衆はヨハネの姿に自分たちの不満の代弁者を見たとも言えるでしょう。そのため、領主としての自分の権威を守るためにヨハネを放置することは出来ず、彼を捕らえ、死海東岸マケラスの城の地下牢に幽閉してしまいました。

しかし、ヘロデはヨハネを殺せませんでした。先ず、ヘロデはユダヤ民衆を恐れていました。不満が大きくなれば暴動になるかもしれませんし、もしそれがローマ帝国に知られたら失脚の危険もあります。さらに、ヘロデ自身に大きな負い目もありました。ヘロデ家は、純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ人であり、そのためユダヤの支配者としてことさらに「ユダヤ的」であろうと務めていたのです。そのユダヤの伝統的な保護者・主なる神への畏れを捨て去ることは出来ません。

さらにまた、20節でヘロデが、「ヨハネの教えに喜んで耳を傾けていた」とは意外です。律法に背き、兄弟の妻を奪ったことを責めるヨハネの言葉を恐れ、それ故に、彼を捕らえ地下牢に閉じ込めたのです。そのヘロデがヨハネを正しい聖なる人として、その言葉を喜んで聞いていると記されていますが、ヨハネはヘロデの耳に快い言葉を語った筈はありません。

「非常に当惑しながら」と記されています。ヘロデは自分の罪に苦しみながら、なお一筋の光をそこに感じていたのではないでしょうか。自分にとって、遥かに隔たりのあることではあっても、「神に従う人生」という希望を、微かでも夢見ることが出来たのではないでしょうか。取り巻きに囲まれた宮殿では味わえない一人の人間としての自分を、そこでは見出すことが出来たのではないでしょうか。

ヘロデ・アンティパスは、マケラスの城の地下牢でヨハネの前に立つ時のみ、虚飾から解放され、「本当の自分を取り戻しかけていた」と言うことが出来るかもしれません。

それでは何故、牢の外ではそれが出来なかったのでしょうか。ヨハネが「聖なる正しい人であることを知っていた」と述べられているのに、何故、その「正しく聖なる人」を地下牢の外へ出すことが出来なかったのでしょうか。ここに、「密室の中でのみ神の御言葉に従う人間」の姿が明らかに示されていると言えるのです。

実際の生活から離れたところ、他の人々との関わりを断ったところ、誰にも見えないところ、「そのようなところでのみ神様に従う人」がいるのです。反面、神の御言葉への服従は、決して自分の親しい人々の中では表しません。何故なら、神の御言葉は必ず私たちの罪や醜さを明らかにするからです。自分の罪や醜さを公然と明らかにされることを人は嫌がります。ヘロデも、自分の弱さを、マケラスの地下牢ではさらけ出せたのではないでしようか。神様を求める自分の魂を素直に表せたのでしょう。しかしヘロデは、自分の妻や義理の娘、まして部下の前では表せなかったのです。

権力者は自分の弱さを決して民衆の前では示しません。権力の座にある者は、真実の自分の姿を隠し、偽りの姿をとらなければりません。より大きな力に脅かされ、不安定な地位にあるヘロデはなおさらです。たとえ見せかけのものであっても、あらゆる手段を用いて、自分の力と権勢を誇示して来たのがヘロデ・アンティパスでした。

それ故に、彼は民衆の前で自分の真実をさらけ出すことが出来なかったのです。そしてヘロデにとっては、支配する民衆だけではなく、律法を犯してまで結婚した妻を始めとする家族の中にさえ、彼の悲劇があったと言えるでしょう。自分の誕生日のパーティーにおいて、義理の娘サロメに約束した軽率な言葉が彼の生涯を決定してしまったのです。

「欲しいものがあれば何でも言いなさい」「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」。その言葉は深い意味もない思い付きであったかもしれません。もともとローマの植民地の一領主に過ぎなかったアンティパスに、本国の許可もなく国の半分を与えることなど出来るはずはありません。

しかし、その、深い意味もなく虚勢を張っただけの軽率な一言が、主なる神の御前に残された最後の望みをも打ち砕く結果になったのです。見せかけの強がりをした者は、後戻りすることが出来ずに苦しむのです。その一言のために、自分で自分を苦しいところに追い詰めてしまうのです。

ヨハネを恨んでいたヘロディアは、娘のサロメに知恵を与え、サロメはヨハネの首を要求しました。そしてヨハネの死によって、ヘロデは密室におけるささやかな希望をも捨て去ることになりました。僅かに残された救いの望みを、自分の虚勢のために自ら打ち砕いたヘロデの姿は、神様の恩寵を、強がりを言いつつ台無しにする全ての人間の代表と言えるでしょう。ヘロデの罪は、真実を裏切り、見せかけの強さを誇ろうとするところに現されていたと言えるでしょう。まさに、滅び行く者の悲劇の典型です。

ヘロデは、伝え聞いた主イエスに、洗礼者ヨハネの姿を見たのです。ヨハネを通して彼に語りかけられていたあの神の御言葉が、今イエスを通して再び語られ、宣べ伝えられていることを感じたのです。彼はヨハネを殺しました。それによって、語りかけられていた神様のみ言葉を拒み、まさに抹殺したのです。み言葉によって開かれ、示されていた新しい世界への扉をぴしゃりと閉じて、元の自分の部屋の中に閉じ籠ったのです。それで事は終った、と彼は思っていたでしょう。ところがそこに、主イエスが、あのヨハネ以上の権威と力とをもって現れました。その主イエスによって、抹殺してしまった筈の神様のみ言葉が再び姿を現し、自分の心の扉を再びたたき始めたのです。「あなたは罪を犯している。悔い改めなさい」という愛のこもった語りかけが、再び自分に向けて語られ始めていることをヘロデは感じたのです。あのなつかしい当惑が彼の内に再びよみがえって来たのです。

このヨハネはあくまでも主イエス・キリストの道備えをする者でした。神様からの愛を込めた語りかけがその頂点に達したのは、主イエス・キリストにおいてこそなのです。主イエスによって与えられたのは、もはや単なる悔い改めの勧めではなくて、神様の独り子である主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、その犠牲によって私たちの罪が赦された、その救いの恵みへの招きです。ヨハネにおいては、バプテスマは悔い改めの印でしたが、主イエスにおいては、つまりキリスト教会においては、罪人である私たちが主イエスの十字架の死と復活にあずかって生まれ変わり、神の子として新しく生き始めることの印です。

洗礼者ヨハネは道備えであり、主イエスは来るべき救い主であるというのはそういうことです。

墓に納められるヨハネの姿で終わるこの物語は、人間の愚かさの時代が「ここに終わりを告げる」ことを暗示していると言えるでしょう。

私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して今も生きておられる主イエス・キリストが、今この礼拝において、み言葉において私たちに出会い、愛を込めて語りかけて下さっている「救いの時代」「救いの時」を私たちは生きて、新しい命へと、喜びをもって歩み出していくことができるのです。

お祈りを致します。