惜しまず豊かに蒔く

聖書:出エジプト25章1-2節, コリントの信徒への手紙二 9章1-7節

 使徒パウロは教会を建てようとしています。なぜなら、地上に教会を建てることは、神の御心であるからです。教会とは主イエス・キリストの体であります。わたしたちも洗礼を受けて教会の一員(メンバー)となりました。教会の中心はイエスさまです。○○牧師ではありません。また××長老でもありません。目に見える教会はコリント教会、マケドニアの諸教会、大きい教会も小さい教会もある。それぞれが違った教会です。

しかし、教会の中心、頭(かしら)は、キリストであります。わたしたちは目に見える教会を通して、目に見えない主イエス・キリストと結ばれている。そしてそれぞれが身近にいる目に見える人々、聖徒と呼ばれる信者を通して、共に礼拝と信仰の生活を守っております。信仰は、見えている、分かっているから信じるのではないのです。ヘブ11:1に次のように言われます。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(414下)

ですから、現実にわたしたちが見ているのは、目に見えるこの教会、あの教会に過ぎないとしても、しかし、目に見えない教会を信じている。主が御自分の血によって罪の支配から解放してくださった人々の群れ。教会はわたしたちはキリストに結ばれてその御体となった教会を信じているのです。現代の人々は気軽に世界中出かけますが、実際にはわたしたちがこの目で見ること、この耳で聞くことはごく限られているでしょう。まして昔は一生涯、自分の町や村を出たことがない人も少なくなかったと思います。コリント教会へ手紙を送っているパウロもほかの使徒たちも、教会から教会へ旅することは命がけでした。

それでも、彼らは旅をしました。手紙を送りました。そして何百キロ離れたエルサレム教会の信徒のために募金を呼び掛けました。こうして何十キロも何百キロも、あるいはもっと離れたところに暮らす人々と交わりを持とうとしたのです。それは、教会を建てるためです。どんなに近くても遠くても、主に在って一つの教会を信じているからこそ、そうするのです。聖書は今に至るまで、この変らない教会の信仰を伝えてわたしたちに励ましているのです。

この人口減少の国の現実に生きるわたしたちに。この高齢化社会に立つ諸教会に。だから、わたしたちは御言葉を聴きたいと願います。それは、自分が何をしたいかを知るためではありません。主の御心を尋ね求めるためにこそ、わたしたちは御言葉を聴くのではないでしょうか。わたしたちも教会を建てようとしています。わたしたちの教会の先輩の方々、教師も信徒も皆そうだったと思います。一生懸命、教会を大切にし、礼拝を守った方々のことを思い起こします。しかしもし、教会がわたしたちのものであるならば、あの先生は良かった。○○さんは立派な方だったということに終始するならば、それはその人々の教会ではあったでしょうが、主の教会であったかどうかということになります。

なぜなら、あの先生も、○○さんも地上の生活を終えて、過去の人になっているからです。わたしたちもだれ一人として、やがて地上では過去の人とならない人はいないのです。過去の人を思い、感謝することは大切です。わたしたちもそうして来ました。感謝を以て思い出すことほど、主の御心に適って美しいことがあるでしょうか。しかし、問題はそこからです。問題は、わたしたちの教会が主の教会であるのかどうか、ということです。○○先生は良かった、○○さんは良かった、あの人がいなくなったらもうお終いだ、という発言を私は、教会で聞いたことがあります。あるいは自分がいなくなったらこの教会はもう駄目だろう、などと発言する人もいたと思います。

しかし、わたしたちの信仰は、主の教会を信じるところにかかっております。成宗教会をはじめ、小さな教会が沢山あります。都心にある教会ではなく、地方の市町村にある教会があります。人口流出に悩む地域の教会があります。その所でも、またここでも、多くの困難の中で、日々の戦いをしているのは主の教会を信じるからです。もし、この教会が主の教会なら、○○さんの教会ではなくて、主の教会なら、主がここにとどまって教会を建ててくださるでしょう。この希望を、この信仰を、掲げているかいないかが、分かれ道となるでしょう。成宗教会でも、どこの教会でも。パウロがコリント教会への手紙で勧めているのは、献金のことのように見えますが、実はこのテーマは献金ではなくて、献金に象徴されている目的なのです。それは、教会を建てるということです。

1節では、「聖なる者たちへの奉仕」と言われています。つまり献金募集ではなく、奉仕とは、聖なる者たち、すなわち教会の兄弟姉妹に対する援助であると言います。自分と同じ一つの体を作り、キリストの体の部分である人たちに対する信者の義務のことであります。わたしたちが右手を痛めれば、左手で代わりをするように、キリストの肢体は、互いに相手に仕えることを当たり前のようにするでしょう。

この手紙で実際に困窮していたのは、飢饉が起こって日々の生活にも困窮しているパレスチナ地方の教会、エルサレムの教会の人々でありました。コリント教会の人々はこの困窮について知ったとき、募金活動に応じようと立ち上がったようであります。このことを聞いたパウロは、マケドニア州の教会にコリント教会の姿勢を大いにほめたのであります。「アカイア州(コリント教会)では去年から準備が出来ているそうですよ」と言って。そうするとマケドニア州の教会では、コリント教会の熱意を聞いて、自分たちも是非頑張ろうと奮い立ちました。フィリピ教会やテサロニケ教会は決して裕福ではなく、それどころか、8章によれば、彼らは現地の人々や宗教との問題、ユダヤ人社会との問題なども次々と起こり、「激しい試練を受けていた」教会であったのに、その困難、苦難の中にあって、しかし彼らは救いの喜びにあふれていたというのです。彼らは生活に全く余裕なく、どん底状態であったにも関わらず、喜びがどん底の貧しさをついに呑み込んでしまうほどにあふれ出ました。

教会の人々はむしろ、自分たちがどん底だったからこそ、エルサレム教会の人々のどん底の苦しみが他人事ではなかったのでしょう。彼らはただ単純に自分たちの身を削っても真心を尽くしたかったのでした。真心とは単純であり、「物惜しみしないこと。犠牲をいとわない気前の良さ」なのです。

それでは、この苦難、困難の中から奉仕を申し出たマケドニアの教会が、いわば、お手本としたコリント教会の方はどうでしょうか。パウロが誇りに思うと言って自慢して来たコリント教会に対して、パウロは自分が推奨した通りであるようになってくださいと願っているのです。そのために、パウロは自分の訪問の前に、福音宣教者として共に働いた二人を先にコリント教会に向かわせると言っています。そして自分が後からマケドニア州の教会の人々とコリントに到着した時には、「さすが、コリント教会は、立派な贈り物の用意が出来ましたね」と言われるように準備してください、と願っているのです。

これは一見すると、パウロがマケドニアにはコリントをほめ、コリントにはマケドニアの奉仕をほめて、両方から最大限の献金を引き出しているように見えるかもしれません。しかし、貧しい教会が自分たちよりもっと困窮している教会のことを知り、できる限りの援助を申し出る。またコリント教会のように、主の教会にふさわしくない思いと行いを悔い改めた教会が捧げる感謝。このすべての精一杯の努力、労苦は、だれのためでしょうか。エルサレム教会という特定の人々のためでしょうか。いいえ、実はそうではないのです。この労苦はこの奉仕はキリストの体の教会を建てるために用いられて行くのです。

だからこそ、パウロは自分の儲けのためではない、エルサレム教会だけのためではない、ただ主のために、一心に、真心を込めて、協力を呼び掛けています。5節でも、献金という言葉は使われていません。「以前あなたがたが約束した贈り物」と言っています。1節で奉仕という言葉になっていましたが、それは援助のことです。単にお金ではない広い、深い助けであります。そして5節で贈り物(ユーロギア)というのは、広い意味で祝福を表します。また、ほめたたえること。そして贈り物、献金という意味を持っています。祝福は言葉だけでなく、金銭という具体的なもので表現されることも出来るのです。

結局のところ、わたしたちが他の人を祝福することが出来るのは、神さまがわたしたちを祝福してくださっているからです。もし、「神さまは自分に厳しい」とか、「いじわるだ」とか、「ケチだ」とか思っている人は、どうして他の人を祝福することが出来るでしょうか。わたしたちが見返りを期待しないで、人に何か贈り物をすることが出来るのは、わたしたちが神様から祝福されているからにほかなりません。

だからこそパウロは申します。「渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」豊かに蒔くとは、元の意味は「祝福の中に蒔く」という意味です。つまり単純にこう言われています。「けちけちと蒔く者は、またケチな収穫しかしないであろう。しかし、祝福のうちに蒔く者は、また祝福の中に刈り取るであろう」と。

種を手から地面にまき散らし、鍬でならしておくと、種はまるでなくなってしまったも同然に見えますが、施しについても全く同じことが言えるのです。あなたの所から出て、他人の下へと移し去られたと、それだけあなたの財産が減少したかのように見えますが、しかし、時が来れば、蒔いた種の実りを取り入れることが出来るのです。なぜなら、主なる神は、人が貧しい者に施すものは、御自身に対して捧げられたものと見做し給うからです。それだから、主は後には献げ物に大きな利子をつけてその人に報いてくださるでしょう(箴言19:17)。

このように主を見上げて、祝福の種を蒔くことこそ、教会にふさわしい働きです。それでは、ここで言われる豊かな刈り入れとは何でしょうか。それはもちろん、永遠の命という霊的な報いのことであると思われます。しかしそれだけではないでしょう。刈り入れとは、貧しい者に対してもの惜しみせず与えた人々に、神が授け給うこの世の祝福のこととも解釈できるのではないか、と宗教改革者は述べています。なぜなら、神の祝福は天上においてばかりでなく、地上においても与えられているからです。

そういうことから、パウロが用意をしておきなさいと勧めている贈り物とは祝福であることが分かりました。祝福とは、すなわち、他人の栄えを願い祈ることであります。また恩恵を施し、与えることであります。祝福とは、本来神だけがおできになるもの。人間は人にたとえ祝福を与えても、神のなさり給うようには到底与えることはできません。だから、パウロは決して無理強いはしません。「仕方なく与える」とか、「強制されて与える」という贈り物では、祝福にはならないでしょう。

パウロは先に「あふれるばかりに施しをしなさい」と教えましたが、この言葉を付け加えました。すなわち「神に喜ばれる施しは、金額によるのではなく、心映えによるのですから、自分でこうしようと心に決めたとおりにしなさい」と勧めたのです。

最後にもう一度思い出しましょう。教会が、そしてわたしたちが、互いに援助し合うことの最も深い意義は、Ⅱコリ8:9の言葉にあります。334上。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っていますすなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」わたしたちが建てるのはこの主の教会です。主の貧しさによって豊かにされたわたしたちが、主に結ばれて救われるために。また主に結ばれて救われる人々を教会に招き入れるために。それは主の命と共に生きる教会、世の終わりまで続く教会です。祈ります。

 

主なる父なる神さま

5月の最後の主日礼拝の恵みを感謝し、御名をほめたたえます。5月のたくさんの行事、会議をも守り導いていただき、ありがとうございます。先週は東日本連合長老会の教会会議を感謝します。自由が丘教会、十貫坂教会では新しい教職を迎えました。また、成宗教会を会場に教職の集まりが開かれました。主の体の教会を建てるために、共に学び、共に助け合っていくことが出来ますことを感謝いたします。教会は小さな群れですが、主のご委託に応え時代の悩みを共に負い、助け合って主にお仕えできることを望んでおります。

来週はペンテコステ礼拝を守ります。主の聖霊の助けによって、主を愛し、主に従う者に、力強い福音の言葉を与えてください。また、教会は教会の始まりからそうであったように、いろいろな奉仕や社会活動によってではなく、まず御言葉を教えて教会を建てる働きにあることを多くの人々が悟るものでありますように。諸教会に主の霊によって命の御言葉をお与え下さい。そしてそれを聴く人々をお与えください。そして成宗教会においても、長老会を励まし、種々の奉仕に当たる人々を励ましてください。皆、強制されてではなく、喜んで主に奉仕し、感謝する者となりますように。教会に新しい長老を立ててくださった主の御心を感謝します。どうかこの兄弟が様々な困難を乗り越えてこの務めを全うすることが出来ますよう、上からの力によってお支えください。

今、礼拝に足を運ぶことが出来ない方々に、あなたの深い顧みがございますように。また新しい世代の方々が、喜んでできる奉仕に向かって道を開いて下さい。大変多忙な生活を送っている方々のご健康を祝してください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神にも人にも公正に

聖書:箴言3章1-7節, コリントの信徒への手紙二 8章16-24節

 成宗教会は毎年5月に墓前礼拝を行っています。教会墓地のある越生の霊園は緑豊かな美しい景色に囲まれ、桜の花の季節にどんなに良いだろうと思います。教会墓地に眠る方々は全く異なった生涯を送られ、共通点は何もありません。ただ一つのことを除いては、何もないのです。その一つとは主イエス・キリストの執り成しに結ばれているということです。そしてそのたった一つの共通点のために、その方々は何と恵まれた者とされていることでしょう。わたしたちも、今日もこうして地上で礼拝を守るために教会に集まっているわたしたちも、同じです。たった一つの共通点のために集まっています。その共通点とは、主によって呼び集められたことです。

教会、それは日本語では「教える会」と訳されていますが、元々の意味は「呼び集められた者の群れ」という意味です。神さまに呼ばれた者が、その呼びかけに応えて集まる時、そこに教会が目に見えて在ることが分かるのです。パウロはユダヤ教徒でした。教会の迫害をするほど熱心なユダヤ教徒でしたが、キリストに呼び出されました。そして、キリストの呼びかけに応えたのです。彼は自分の迫害して来た教会の一員となりました。彼の回心は、人々にはなかなか信じてもらえなかったのですが、最初に彼を信用し教会に連れて行ったのは、バルナバという人でした。この人は使徒言行録の4章に初めて登場します(4:36…220末)。彼はレビ族の人で、本名はヨセフ。使徒たちからバルナバ「慰めの子」と呼ばれていました。

今日の聖書には直接名前は出て来ませんが、18節でパウロが「一人の兄弟を同伴させます」と言っているのは、おそらくバルナバのことだろうと一般的に考えられています。バルナバ自身、ユダヤ教の神殿に仕える祭司階級の出身からキリストを信じる者となったのですから、パウロの回心に至る苦悩を真っ先に理解し、教会に招き入れる執り成しの務めを果たしたのです。なぜなら、教会は自分たちのものではない。教会は主の体だから。主が招いておられるなら、人は悔い改めることができるのです。どんなにそれ以前の行状が悪くても、主は頑なな人の心を打ち破ってくださることがお出来になります。反対にどんなに素晴らしい人でも、こんな人が教会の中にいたら、さぞ教会の評判が良くなるだろう、とか、さぞ福音伝道に役立つだろうとわたしたちが思い描いても、主が悔い改めさせてくださらなければ、だれも主の体に結ばれることはできないでしょう。

コリント教会の中にいろいろな問題があった。深刻な問題があった。こんな教会は駄目だ、と評判が立ったかもしれません。しかし、彼らはパウロの手紙を読みました。すると、奇跡的なことが起こりました。あれほど思い上がっている人々が中心を担っていた教会が悔い改めたのです。そして自分たちの教会の恥となるような個人の行いを教会から取り除いたのです。自分が自分の悪行を認めるということはなかなか起こらないことです。これこそが、主の御支配のある教会、主の恵みの御支配のあるところを証ししています。すなわち主の体に結ばれ、主の執り成しによって罪赦されるからこそ、悔い改めが起こるのです。

パウロは喜びのあまり、かつては苦言を呈し、厳しく問題を指摘したコリント教会を、誇りに思うというまでになりました。このような変化。人々に対する不信から、同じ人々に対する信頼へと一変することもまた、主に結ばれた教会だからこそ与えられた恵みに他なりません。互いの信頼が成り立つところで、初めて勧められることが、慈善の業、奉仕であります。これは、逆ではないのです。慈善の業、奉仕をしているうちに人々の中に信頼が生れると考える人々は多いのかもしれません。しかし、実際に行ってみるとそれは逆だということが分かるでしょう。何か善い業を始めようとするなら、その前提となるものは、互いの信頼なのです。今でもあるでしょうが、街頭募金で「恵まれない子供たちに」とか、「アフリカの子供に」と呼びかけられますが、一番の問題は募金をしている人々が本当に信用できる団体なのだろうかということであります。

前にも申しましたように、パウロが呼びかけているのは、一般論的に恵まれない人々に、という名目での募金ではありません。そうではなく困窮する聖徒のために、すなわち聖なる者たちとは教会の人々のことですから、この目的は明らかに教会を建てることにあります。しかも、自分の教会を建てれば良い、ということではないのです。キリストの体の教会を建てるのです。まして、自分が生きている間だけ、教会が自分のところにあれば良い、ということであるはずがないのです。キリストの体の教会は、時間と空間の中にあり、具体的に今も建っている教会です。しかし同時に、キリストの体の教会は時間と空間を超えて、永遠に存在する。わたしたちはそれを信じ告白しているのです。

さあ、そうなると、わたしたちの生きる目標はにわかに大きくならないでしょうか。若者は未来を語るけれども、老人になれば、もう先がないので大した目標は持てない。今日を穏やかに生きることが目標だ、と言うかもしれません。確かにその通りです。しかし、わたしたちにできることがわたしたちの目標でしょうか。わたしたちはキリストに結ばれています。それならば、わたしたちにできることが目標ではないでしょう。キリストの望まれること、神の御心こそが、わたしたちの目標なのではないでしょうか。わたしたちはキリストの中に生きて、神の御心をわたしたちの心とする、それこそが目標なのです。そして、神の御心は、世を愛し、世に福音を告げ知らせ、キリストの教会を建設することなのです。皆、共にキリストの執り成しの下に罪赦されて、神の国の市民となることこそ目標です。

このような途方もない大きな広い、美しい目標を抱かせる神にパウロは感謝をささげます。神の御心によって力づけられ、テトスはコリント教会にやって来たのだ、とパウロは人々に知らせるのです。福音伝道のための働き人を起こし、その人々の必要を満たすための財源を探す人々、会計担当者のような務めを行う人々も起こしてくださるのは、教会を建てるために、神様がご配慮くださっている結果なのです。人々が自分の力でどんなに頑張っても、神の聖霊の助けによらなければ、どんな良い働きもできないのです。今や、テトスはパウロや他の人々から勧められたから、ではなく、自分から進んで、この慈善の業の先頭に立って奉仕しようとしています。

パウロはテトスのほかに二人の同伴者を紹介します。その一人は恐らくバルナバであります。彼は、「福音のことで至るところの教会で評判の高い人」と言われています。どうして彼は誉れを受けたのでしょうか。それは有能、雄弁などではありません。彼は何よりも、

福音を伝えること、そのもので高い評判を得たのです。このように初代教会の人々は福音を聞くことによって教会を建てて行ったことが分かります。だからこそ、福音を伝える働きにおいて有名な人が信頼を得たということが分かります。

しかも彼は、一つの教会の中だけで有名だったというのではなく、全教会でほめられたのでした。また19節で、この人はこの慈善の業に参加するために、パウロたちと一緒に働く者として、「諸教会から任命された」と語られています。そこにあるのは、自分のところだけで主に結ばれていれば良いというような各個教会主義ではなく、全世界に福音を宣べ伝える働きこそが考えられていたのでした。「任命する」という言葉は、ギリシャ語で「手を伸ばす」という意味から来ます。古代ギリシャの市議会で賛成の意志表示に挙手をしたことから、諸教会で特別の使命を与えるために神に選ばれた人は、教会の人々の意志表示によって承認されて任命されたということが推測されます。

しかし教会を建てるためであっても、とにかく献金を集めること、保管すること、それを送金することには大きな困難が伴います。金融のシステムが発達した現代でも、難しいことは多いのに、ましてこの時代は大変なリスクが伴うことだったと思います。「無くした。盗まれた」では済む話ではありません。一般的に公金の取り扱いほど、世の人々の中傷と悪評の種になるものはないのですが、それは「教会だから心配はない」ということには決してなりません。サタンはありとあらゆる手段を使って、教会の評判を落とし、キリストに従おうとする群れを蹴散らそうと虎視眈々と狙っております。

キリストの僕として正しければ正しいほど、サタンは攻撃を仕掛けたいのです。もし攻撃がうまく行って、評判の立派な人につまずきが起こったならば、それは他の人に起こった場合よりも、はるかにもっと甚だしいものになり、教会に大きな打撃となるでしょうから。パウロという人には高ぶったところは少しもなく、仲間の中の取るに足らない者と同じように、諭されたり、責められたりされることも厭わない、福音のためなら、何事も耐え忍ぶ人でありました。しかし、お金のことや、その他の行状のことでも、人に中傷されても、気にかけない。「自分は実際献金を誤魔化したり、人のものを取ったりしていないのだから、何を言われても構わない。神様はすべてご存じなのだから・・・」という風には、決して考えてはいません。

それどころか、用心深く気をつけて、おかしな疑いをもたれる危険を避けようとしているのであります。「わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。」おそらく、コリント教会の中には、パウロがこのように釘を刺しておかないと、何かと悪口を言い出しかねない連中がいたのかもしれません。しかし、それはすべての教会について心がけるべきことなのです。

彼は、自分が神の御前において正しい良心を持とうと心がけているばかりでなく、人の前においても、立派な評判を得られるように心がけているのだと言い切っています。なぜなら、福音伝道のために働く者は、すべての人々に教えることについて、また正しい行い人々に勧め、自分もそれを行うことについて、他からそのことをどう見られるかということを、決して無視してはならないのです。その用心のためなのでしょうか、もう一人の兄弟を同伴させると伝えています。この人は医者のルカではないかと推測があります。これらの兄弟たちをパウロは諸教会の使者であり、キリストの栄光であると紹介しています。宗教改革者は言います。およそ敬虔な信仰者、神によって聖なる者とされた人は皆、キリストの栄光なのだと。なぜなら、その人々は全く神に依り頼んで、生きているのですから、その人たちが持っているものでキリストの賜物でないものは何もないのですから。こうして諸教会の使者と呼ばれる人々が立てられ、全教会に信頼される伝道者、奉仕者が建てられる。このことは初代教会の時代から始まっていたことが分かります。

今日の聖書では、わたしたちがもしキリストの栄光を表す者であるのならば、神様の前に正しいと認められればそれでよい、ということであってはならない、ということを学んだのではないでしょうか。日頃から大きな事でも小さな事でも、人々から誤解され、中傷される危険があることを避けるべきだということです。パウロは自分がほめたたえられることを求めてはいませんでしたが、自分の働き、その目的を高く評価し、人々にも知らせていました。なぜなら、自分が主の体に属する者、主に従う者である限り、福音を宣べ伝える自分の働きが素晴らしくないはずはないのですから。

そのように、わたしたちもまた、主に従う者である限り、すべての働きを主からの賜物として高く上げ、主のご栄光を表す者として、神にも人にも公正な者としてふるまうことを目標とすべきだからです。わたしたちは主の教会を建てるために、熱心に生きる者となりましょう。24節は、正にわたしたちに対するメッセージです。「だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。」祈ります。

 

御在天の父なる神様

尊き御名をほめたたえます。あなたはわたしたちをイエス・キリストの贖いによって、救いに招いて下さいました。ご復活の出来事から2000年の年月が流れ、今、教会は全国全世界に建てられていますことを感謝申し上げます。しかし、同時に、教会が真実に建てられているかどうかを思わず、あなたに従うことを忘れ、真の教会から離れ去る人々も絶えません。しかし、いつの時代にも、小さな者をお見捨てにならず、希望のない所に、希望を生み出してくださる主の愛に感謝を捧げます。初代教会では、全く道なきところに福音を宣べ伝え兄弟姉妹を助けるために、どのような労苦がなされたことでしょうか。わたしたちは本日も御言葉より多くの励ましをいただきました。御霊の助けなしに良い業を成すことはできないことを思い、ただ上よりの力が注がれることを待ち望みます。また、時には自分を思い上がるかと思えば、ひどく卑下してしまい、あなたのご栄光を表すために生かされていることを忘れてしまうわたしたちの罪を、どうか憐れんでください。御言葉によって新たに造りかえられ、主の体の肢として生きる教会となりますように。またわたしたちの背後にある家族、友人、社会に在って、わたしたちがあなたの御心を伝えるために用いられますように。世の光、地の塩として生かしてください。

東日本連合長老会の諸教会、与えられている恵みを感謝します。本日は青山教会で今年度最初の会議が行われます。どうか、共に教会を建てるためのこの労苦のすべてが、あなたの御業によって祝され、支えられますように。

 今日も、礼拝を覚えながら、参加することのできない多くの方々を覚えます。あなたの慈しみが豊かに注がれ、その日々が恵みによって支えられますように。この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

イエス・キリストの恵み

聖書:出エジプト16章12-18節, コリントの信徒への手紙二 8章8-15節

 コリントの信徒への手紙が書かれた時代に、エルサレム教会の地方では飢饉が起こったと言われます。そのことから考えると、パウロが教会に要請している募金活動は災害支援のようにも考えられます。私たちも最近のところでは、2011年に東日本大震災の被災地救援のための募金に応じて献げました。その時は教区教団に献金を送りました。しかし、昨年起こった熊本大分地震の救援募金については、教区教団に送ったのではなく、全国連合長老会を通じて被災地の教会に届くようにしたのです。

教区教団に送っても、連合長老会に送っても、同じように使われるのかどうかについて、わたしたちは自分の目で確かめることはできません。被災地に対する救援募金は自治体でも、赤十字でも、また報道機関でも行っていました。しかし、教会が、教会の名前で救援募金を集めることは、特別な意味があると思います。それは、今までわたしたちが読んで参りました聖書のみ言葉によって分かるのです。パウロは募金を呼び掛けています。パウロはエルサレム教会の人々に贈り物を送ろうとしています。しかし、それは飢饉があった地方全体の人々を助けようというのではないのです。だれでも助けようというのではないのです。「そんな狭量な、」とか、「心が狭いですね」とか言う人々がいます。「だれでもあまねく分け隔てなく、助けようと、募金するべきではないか」と言う人々もいます。教会の外の人々だけではなく、教区、教団の中にもそういう考えを述べる人々がいます。

しかし、聖書がわたしたちに教えているのはそうではありません。パウロは聖なる者たちを助けようと呼びかけているのです。聖なる者、すなわち神さまが御自分のもの、御自分の民として選び分けてくださった者たちです。何を基準にして選び分けられたのでしょうか。神さまの基準は何でしょうか。能力でしょうか。いいえ。年齢でしょうか。いいえ。人種でしょうか。いいえ。健康状態でしょうか。貧富によってでしょうか。もちろん違います。聖なる者とは、ただ神様にしか分からない基準によって聖なる者とされたのです。では、わたしたちには聖徒と呼ばれる人々は全く見分けがつかないのでしょうか。

いいえ。そんなことは決してありません。聖なる者とされるのは、イエス・キリストに出会い、その福音を聞き、この方こそ真に自分を救ってくださる救い主であると信じることによってであります。更に信じたことを口で言い表し、自分のこれまでの背きを悔い改めて洗礼を受けることによって、聖徒とされるのです。主が御自身の贖いの十字架の業によってわたしたちの罪を赦し、主の命に結んで下さったからです。主に結ばれて、わたしたちはキリストの生きた体の部分、肢と呼ばれます。ですから聖徒を助けるということはキリストの体の一部が他の一部を助けるということに他なりません。

パウロは、正にそのことをコリントの信徒への前の手紙で教会に教えています。コリントの信徒への手紙一、12章26節、27節。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」316下。パウロはエルサレム教会の困窮する人々を援助しましょうと、コリントの教会の人々に呼びかけているのですが、この呼びかけの目的は、実はエルサレム教会が満たされれば、それで終わり、というものではなく、またコリント教会が献金してくれれば、それで終わりというものでもないのです。なぜなら、キリストの教会を建てることは神の御心でありますから、それはある一つの教会だけが建てられればそれで良い、ということであるはずがないからです。然しながら、わたしたちはどうでしょうか。本当になかなかそのことに思いが及ばないのではないでしょうか。

昔、越路吹雪かだれかのシャンソンだったと思うのですが「たとえ、太陽が海に落ちてしまおうとも、あなたさえいれば生きていける・・・」というような愛の歌がありましたが、しかし教会はそうではない。他の教会がひっくり返ってなくなろうが、この教会さえあれば生きていける・・・」と思うのは、全く御心に反逆しています。みんな滅びても、自分だけ生きていることができるなどという考えは全くの非現実的妄想に過ぎません。初代教会の歴史資料を見る限り、迫害があったり、災害があったりする度に、人々はあちこち、移り住み、逃げたり、戻って来たりしながら、交流を続け、援助し合っていたことを知ることができます。教会がこのように現実的に具体的に助け合っていたことこそ、聖徒の交わりとしてパウロが勧めている言葉の内容ではなかったでしょうか。

8節です。「わたしたちは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心さに照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。」神は、確かに兄弟姉妹の窮迫に対し援助の手を差し伸べるようにと、わたしたちに対して至るところで命令しておられますが、いつ、どこで、どのぐらい援助しなさい、ということはどこにも言われていないのです。細かい事まできっちり指定され、強いられていやいや捧げるような援助を、神が喜ばれるはずがないからです。ですから、ここで神が求めておられることは、愛の原則です。

9節。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」パウロは、慈愛の最も完全な、最も優れた模範として、キリストを指し示しています。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」キリストは本来神に等しい方であられます。この方がわたしたちのために一切の豊かさを捨てて、マリアに生まれた時、この方がどのような困窮の中にいらしたかを、わたしたちは知らされています。正に、宿る家も枕するところもない中に人となられたのは、なぜでしょうか。「それは、彼の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」とパウロは宣言しました。

更に宗教改革者はこう述べています。「主の貧しさの目的は、キリストを信じる者たちがもはや貧しさを恐れることがないためであった」と。主は御自身の貧しさによってわたしたち皆を富む者にしてくださったのだと。だから、この模範によって励まされ、広い心を持つようになること、兄弟の窮迫を援助することが問題である場合に、物惜しみなどしてはならないこと。このことを悟る人ほど幸いな人は無いのです。

だから、自分たちの有り余る分から切り取って兄弟たちに分かち与えることが、わたしたちに辛いことであるとしたら、わたしたちは本当に不幸ではないでしょうか。くり返して申しますが、これは、世のすべての人々に対する援助を勧めている言葉ではありません。

これは教会を建設するための言葉なのです。だから、この言葉が理解できるためには、教会とは何かが分からなければなりません。主の体の教会。主が私たちのために命を犠牲にして罪の赦しを与えてくださったと信じる者はキリストと結ばれるのです。このことを知る、悟るということは、人間的な思いではできません。このことが分からなければ、自分の懐にあるものを取って、他人に与えることが恵みであるかも理解できないでしょう。

ですから、教会は御言葉を宣べ伝えて、教会の恵みに招いているのですが、この招きを聖霊が行ってくださるように祈るのです。さて、コリントの人々はこの度の慈善の業において、既に相当進んだ段階にいました。だからこそ、もしそれを途中でやめてしまったり、中途半端な状態にしておくならば、それは神の御前に彼らの不名誉となり、神の喜び給う事業であるだけに、せっかくの業が無駄にならないことをパウロは願っています。良い志を持つことは素晴らしいことです。しかし、それを更に実行することは、志すことよりもはるかに素晴らしいことです。

11節で「自分が持っているものでやり遂げる」という勧めによって、パウロは強調しているのです。神は、あなたの力では負うことができないような分までも、「あなたは献げなさい」と要求し給わないと。わたしたちは献金感謝の祈りのなかで、「献身のしるしとして捧げます」と祈ります。献身と言うと、どうやら神学校に入って牧師になる道を進むことをいうのだと理解することが多いのですが、実は、わたしたちすべての信者は、主に従う者となった者であって、本来の意味では、すべての信者が献身者なのです。ただ、私については自発的に教師(牧師)になることを志しました。あれから19年、今日の聖句「進んで実行しようと思った通りに、自分が持っているものでやり遂げることです」を読むと、考えさせられます。

私にとって、献身するということは、進んで実行しようと思ったなどということからは程遠いものでした。むしろひどく急き立てられ、強いられて献身したというのが実感でありました。ですから人の目にはどう映ったか分かりません。よほど無謀か傲慢かと思われたかもしれません。家族にとっては、私の献身は計り知れない衝撃であったでしょう。しかし、一度たりとも後悔したことはありません。なぜならわたくしを厳しく急き立てて、献身せざるを得ないようになさったのは、主なる父なる神様、御子イエス・キリスト、そして聖霊の三位一体の神様に他ならない。私はそのことを確信したからでした。

わたしたちは同じ教会にいます。わたしたちは唯一のキリストの体である使徒的教会を信じています。この使徒的、という言葉は皆様に余り馴染みがないと思いますが、こうして新約聖書に記されているように、キリストの弟子たち、パウロも含めて使徒たちによって伝えられたキリストの教えに従って福音を宣べ伝える教会は、使徒的教会と呼ばれるのです。それは、使徒信条に「われは教会を信ず」と告白している教会です。この同じ信仰を告白していることによって、わたしたちは全国全世界に出て行くことができ、また全国全世界から人々を招き入れて交わりを与えられることができるのです。聖徒の交わりは、同じ信仰に立つ者の交わりであります。そしてこの交わりをわたしたちは今日の御言葉のように聖書を通して教えられています。

同時に、わたしたちは同じ教会にいるとわたしたちが思う時、それは地上の教会、一つ一つの教会を思うことでもあります。このことは大変重要なことです。わたしたちは東日本連合長老会という目に見える近隣の教会との交わりの中で教会形成を目指しています。目に見える、ということは大変重要なことです。教会は目に見えないキリストの体の教会を信じるところに依って立つのですが、同時にわたしたちは限られた命をいただいて地上の生活をし、この限られた時と所を得て、限られた力を尽くして、心から主を礼拝する教会を建てて行くのです。

限られた命をもって献身しているので、わたしたちは罪を免れません。お金にしても、健康にしても、その他の能力にしても、絶えず「わたしにはあれが足りない、これが足りない、もっとあったら…」とぼやいていることが何と多いことでしょうか。牧師である私自身がそうだったので、本当に15年間を振り返った時に、もっと信仰深かったら、もっと主の恵み深さに心を向けていたら・・・」と反省するときに、主に対しても、成宗教会に対しても申し訳ないという思いで一杯です。

しかしこのことは、こうして共に主の戦いを戦って来た兄弟姉妹がここにいらしたからこそ、今率直に申し述べることができるのです。主の戦いは教会を建てる戦いです。主は年老いて行くわたしたちを大切にして下さいます。これまでそうだったようにこれからも、と祈り願っております。しかし、主は教会そのものを限りあるものとなさいません。すなわち、時が来てわたしたちが主の御許に召されるように、地上の教会を無くすことが御心でしょうか。そうではない。地上の教会は世の終わりまで続くのです。ですから、わたしたちの戦いは、自分による自分のための自分だけの戦いではありません。わたしたちは主の戦いを一緒に戦うために呼び出されているのではないでしょうか。地上に生きている限り、共に集い、共に御言葉を聞き、献身の祈りを捧げる教会を共に建てる時、私たちの後ろ向きで、消極的な姿勢も、また疲れ果てた心身も、丸ごと主のものとされ、罪赦され、キリストの豊かさに結ばれるでしょう。祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を賛美します。本日、わたしたちは恵みによって成宗教会の礼拝に集められ、御言葉を聞き、賛美を捧げることができました。わたしたちの貧しさを共に担って下さり、キリストの計り知れない豊かさの中に招かれておりながら、わたしたちは自分の貧しさ、乏しさを絶えず嘆くことの多いものでありましたことを懺悔いたします。あなたがわたしたちを愛し、キリストの執り成しによって罪を赦してくださったこと。このことに優る豊かさはございません。このことに優る幸いはございません。わたしたちは、主の恵みによって豊かな者とされ、もはや自分の貧しさ、自分の力が乏しいことを嘆き、恥ずかしく思わなくても良いと知らされ感謝します。どうか必要なものを豊かにくださる主が、わたしたちに互いに助け合い、支え合う心を、知恵と力をお与え下さい。特に目に見える隣人を思いやり、共に教会を建てて、その中に招き入れるために祈る者と、わたしたちをなしてください。

本日は墓前礼拝を守るために、越生の成宗教会墓所に出かけて参ります。真に感謝です。すべてが守られ、主の御名がほめたたえられますように。このお墓は主に結ばれて地上の生涯を終えた兄姉をあなたが愛してくださったことを証しする場所です。どうか、この教会とともにあなたの祝福を注いでください。

今週の主の民の歩みのすべてを導き、教会に集えなかった方々をも顧みてください。そして多くの人々に恵みの福音を聞く時をお与え下さい。

この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

貧しさの中に溢れる豊かさ

聖書:申命記12章8-12節, コリントの信徒への手紙二 8章1-7節

 神は全世界のキリストの教会を建てることを求めておられます。人はそれに対して、まず自分を立てなくてはいけない。自分の家族を立てなくてはいけない。自分の関係する地域、社会を立てなくてはいけない、と思うのではないでしょうか。もちろん、神は一人一人を生かし、その人の家族を生かし、地域、社会を生かすことをお考えになっておられないはずありませがありません。このことを、「もちろん!」と言うわたしたちは、神が全世界をお創りになり、すべてを平和の中に守ろうと望んでおられると信じているからであります。

その上で、なお、「全世界にキリストの教会を建てることは、神の御旨、望まれることである」と主張するのはなぜか、と申しますと、神は全世界の人々をキリストの体の肢となるように招いておられるからです。キリストの体に結ばれるということは、罪の赦しに結ばれる、ということです。人生を振り返ってみると、たとえ聖書にほめたたえられているイスラエルの王でさえも、多くの罪、咎、過ちを免れなかった。そのことを聖書は静かに、率直に語るのです。人が悔いても、取り返しのつかない過去を、人に代わって償って下さり、日々新たに罪赦されて生きることができるようにしてくださった方が、わたしたちの主イエス・キリストです。教会を建てるということは、キリストの体を建てることです。教会の一員となるということは、キリストの体のメンバー、肢体、部分となることです。それは、キリストの罪の赦しに結ばれることに他なりません。

使徒パウロは、キリストが十字架の死と復活を果たされた後に、キリストに従う者となりました。他の使徒たちと比べて、自分はいちばん小さい者と、自分を呼んでいたのは、キリストに出会う前の自分の過ちを思うからです。それは大変な過ちであり、教会の人々を死に至らせるほどの罪でした。彼は教会の迫害者でした。しかし神は彼を救われ、今度は教会の救いを宣べ伝える者としてお立てになったのです。

敵であったパウロを、最終的に信頼し伝道者として送り出したのは、エルサレム教会でした。わたしたちはもう間もなくペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えますが、キリストの使徒たちに聖霊が降り、彼らが伝道を開始したのはエルサレムです。しかし、使徒言行録に語られているように、やがてエルサレム教会に対して激しい迫害が起こりました。その時、使徒たちはエルサレムにとどまりましたが、多くの者が迫害を逃れてパレスチナへ、また更に遠方へと散らされて行きました。

使徒パウロは異邦人伝道に召された者として、異邦人の世界へ出て行ったのですが、パレスチナは飢饉に見舞われ、エルサレム教会の人々は非常な困窮に陥っていたと伝えられています。パウロはエルサレムから遠く離れて伝道し、教会を各地に建設して行きましたが、貧しいエルサレムのことを決して忘れてはおりませんでした。「救いはユダヤ人から来る」(ヨハネ4章22節)とイエスさまが言われたように、今、多くのユダヤ人以外の人々が救われ、罪の赦しと永遠の命に生きる者となった。神でないものに支配され、奴隷となっていた者が解放された。この救いにまさる喜びが他にあるでしょうか。しかしながら、その喜びの源となったエルサレム教会は今困窮にあえいでいました。聖霊が注がれた教会、伝道を開始した初めの教会が苦しんでいる。

パウロはこのことを片時も忘れていなかったに違いありません。彼自身も未知の土地に入って伝道する、新しい教会を建てる。それには予想をはるかに越える困難が次々と起こりました。コリント教会のように豊かな人もいて順調な教会形成がなされたかと思えば、パウロが去った後、たちまち傲慢な人々の支配するところとなってしまう。「前の教師は駄目だ」とこき下ろし、「我こそは…」と自己宣伝するのが指導者だとしたら、そうなると、教会の有り様は、主の体とは程遠いものに変って行くのです。神の御心、キリストの恵みが正しく宣べ伝えられないということは、実に恐ろしいことであります。

パウロはコリント教会に手紙を送って問題点を厳しく指摘しました。厳しく、ですが同時に誠意を尽くして、愛を込めて指摘したのでした。誠意を尽くすのは人に対してというよりも、神に対してです。たとえ言われた人には、厳しすぎる言葉であっても、神の御前に誠意をもって語る時、彼は必ず言わなければならないことを言いました。なぜなら、パウロの目的は教会を建てることだからです。ですから、愛を込めてというのも、神の御心に結び付いた愛なのです。神の愛は必ず教会に現れるはずであり、キリストの体に結ばれているところに現れるはずだからです。

そういうパウロの願いは、神に聞かれました。厳しく戒められたコリントの人々は悔い改めたからです。彼らは非常な熱意をもって、自らの間違いを正し、使徒の教えに忠実になろうとしました。このことを知らされた時のパウロの喜びは計りしれません。キリストの執り成しがここにある!だからこそ、誠実に神の御前で戒めを与え、だからこそ、誠実に神の御前で自ら悔い改める。だからこそ、今まで何事もなかったかのように、ではなく、多くの不安、不信、高慢の誤りを乗り越えた教会が、ここに建っているのです。キリストの執り成し、罪の赦しに結ばれているとは、正にこういうことです。

だから、使徒パウロは喜びに満ちあふれています。主に結ばれた者が喜びにあふれている時、自ずから心に浮かぶことがあります。それは何でしょう。それは感謝です。それは讃美です。ああ、有り難い。わたしたちはこんなに満たされている。平安と愛で満たされている。今まで、不安だったのに。またまた間違いを起こすのではないか、と。またまたひどく互いに傷つけ合い、争い合っているのではないか、と。しかし、主が助けてくださいました。これは全く主の恵みなのだ、と思ったとき、パウロはすぐに心にある計画について話し始めるのです。

それは、いつでも忘れていないエルサレム教会のことです。敵であった自分を味方と認めて、福音伝道者として認めて送り出してくれた教会。「エルサレムは、異邦人のあなたがたにとっても、また母なる教会ではないでしょうか。その教会が困窮しているのです。皆さん援助しましょう!」というのがパウロの呼びかけの趣旨です。しかし、パウロはこの呼びかけの前にマケドニア人の諸教会の話をし始めました。この援助の計画は、単にエルサレム教会が困っているから、コリントに助けを求める、ということではないのです。これは、あちらの教会、こちらの教会、どの教会も関係ある計画であります。なぜなら、どの教会もキリストの体に結ばれた教会の建設を目指しているからです。

コリントの教会はアカイア州にあり、マケドニアのフィリピ教会やテサロニケ教会はその北側にありました。パウロはマケドニアの諸教会のことをコリントの人々に称賛していますが、それは、彼らが豊かな、この世的な意味で豊かな教会であったからではありません。たとえば、礼拝出席が多いとか、建物が立派だとか、経済的に豊かな人々が多いということをわたしたちはついつい思いがちですが、フィリピ教会もテサロニケ教会もそうではなく、苦しみ、大変な試練の中にあったようです。使徒言行録にも、現地の人々や宗教との問題、ユダヤ人社会との問題、ローマ帝国の支配下での問題など、様々なことがあったでしょう。

その困難、苦難の中にあって、しかし彼らは救いの喜びにあふれていたというのです。彼らは生活に全く余裕なく、どん底状態であったにも関わらず、喜びがどん底の貧しさをついに呑み込んでしまうほどにあふれ出ました。「そんなことはあり得ないだろう」とわたしたちは思うのではないでしょうか。だからこそ、パウロは語り始めたのです。これは、マケドニアの諸教会に与えられた恵みです。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」2節で、「人に惜しまず施す豊かさ」と訳されている言葉は、「単一、単純」という意味です。それが「誠実。真心」という意味になり、「物惜しみしないこと。犠牲をいとわない気前の良さ」を表す言葉になりました。

あれこれ、考えすぎない単純さ。これが真心なのです。今の時代は何でも数値で表し、細かく計算する。80歳までにいくらいくらお金がかかる。それが100歳まで生きると・・・。いやいや、これからは120歳まで生きるかもしれない、などと計算するならば、「人に惜しまず施すほど、家にお金があるものか!」という結論に至るのは、当然かもしれません。それが全く不思議なことに、金持ちだから慈善に参加するのではなく、貧しいにも拘わらず、力に応じて、いや力以上に、慈善の業に参加したいと、進んで願い出たというのです。頼まれたから仕方なく、ではなく、自発的に、喜んで、「是非参加させてください」と熱心に頼んできたと、パウロは報告しました。

慈善事業というと、この頃はあまり聞かれない言葉かもしれません。慈善は、金持ちのするもの、というイメージを持っている人が多いかもしれません。そうすると「金持ちでない自分はしなくてよいのだ」という言い訳が立つからです。さらには、少しでも多く寄付金をする人には、「アナタはお金持ちですね」というレッテルを貼る人もいます。しかし、これはキリストの体を建てる業のことなのです。教会を建てるということが神の御心であり、キリストを信じる者に命じられている事業であることを、今日の冒頭でお話ししました。

20世紀は先進国で社会福祉が政府、自治体の事業として大々的に発展した時代でした。日本でも基本的人権という思想が定着し、だれでも思想、信条、性別、人種によって差別を受けず、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有することが憲法で定められたのです。そして、収入に応じて税金を払いますので、一般の勤労者は特に慈善事業に参加しなくても、自分が納税したお金の一部が貧しい人々の生活と健康を支えるために用いられていると考えることができて来たのです。しかし、これからはどうなって行くのか、将来が見えにくくなっていると感じる人は非常に多いと思います。格差社会と言われて久しく、目に見えない所に莫大な富が集まって行く一方、目に見えない所で大変な困窮があると言われています。しかも多くの人が豊かな方へ、ではなく、困窮の方へ落ちて行くことが懸念されているのです。

しかし、このような時代に生きる私たちだからこそ、地上に教会を建てることが目指されなくてはなりません。4節の「聖なる者たちを助けるための慈善の業、奉仕」とは、すなわち教会を建てる働きなのです。それは、神の御心ですから、私たちに与えられた義務なのでしょうか。いいえ、それは義務ではありません。カルヴァンは「援助の恵み、協力」と訳しています。パウロは施しの業を「神の恵み」と呼んで讃えているからです。わたしたちが豊かに暮らすことができるのは、恵み深い神が天から豊かに施してくださる結果であることを思う時、私たちもまた神の恵みの業によってキリストの教会を建てる業に参加できるならば、それこそは、クリスチャンに与えられた義務ではなくて、恵みであり、特別な権利であると言えるのです。

マケドニアの諸教会は極度の貧しさの中で、乏しい自分たちを捧げることを喜びとし、神の恵みとし、光栄とするほど豊かになりました。そのようにコリントの教会も、そしてわたしたちの教会も、教会を建てるために心を高く上げて、頭(かしら)であるキリストに祈り求めることが勧められています。信仰において、言葉において、知識において、熱意において、主からいただいている、また代々の伝道者から受けている愛において豊かであることを思い起こし、わたしたちも豊かな者となるようにと勧められているのです。祈ります。

 

教会の頭であるイエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。あなたは大きな者にも小さな者にも恵みを豊かにお与えになり、主イエスの贖いに結んで下さいました。私たちは今日も礼拝に参加し、聖餐の恵みに与ります。どうか、いつも教会の頭(かしら)である主を見上げ、主が私たちのために命を捨ててくださるほどに、愛して下さり、救ってくださったことを感謝する者とならせてください。

私たちは貧しさの中に豊かさがあふれ出た初代教会の信仰を、御言葉によって学びました。どうか、時代が変わり、地上の有様が変っても、変らない救いの喜びで私たちを満たしてください。苦難の中にある人々があなたを信じ、あなたを愛し、あなたに従ったという奇跡の不思議は今も変わりません。どうか私たちの小さな群れが、乏しいことにばかり目を向ける不信仰を打ち砕かれ、あなたの豊かな恵みを喜ぶ群れとなりますように。

本日は長老会議が行われます。教会を建てるために選ばれた長老たちを助け、あなたの知恵と力によってお導きください。今年度の行事が御心に従って行われますように。そしてすべての活動を通して、御言葉の豊かな御支配がありますように。総会が終わったので、教会員の方々に報告を送っています。どうか、この教会が多くの方々の祈りによって奉仕によって、助け合いによって建設されますように、大きな者も、小さな者も、強い者も弱い者も、主の聖霊によって奮い立たせてください。

そして、連合長老会の諸教会の上に、教師、信徒の皆様の上に、主のお守り、お導きを祈ります。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によってお献げします。アーメン。

2017年5月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

興津晴枝先生のお話

聖書:フイリピの信徒への手紙 4:2~7

「祈りましょう」

興津晴枝

 今朝の学びは「お祈りについて」です。

皆さんは今日も礼拝で、ピアノの前奏を聴きながら黙祷(目を閉じて心の中で)し、賛美歌を歌い、みんなで声を合わせて「主の祈り」を祈りましたね。聖書のみ言葉を学び献金感謝のお祈りもあります。後奏を聴きながら黙とうして教会学校の礼拝はおわります。教会ってたくさんお祈りするところなんだね?って初めて来た人は思うかもしれません。「お祈りするって」どういうことなのでしょうか?「神様とお話しすること」それがお祈りなのです。だから大人の礼拝はもちろんのこと、私たち子供の礼拝でもたくさんのお祈りをします。感謝の祈り、お願い事 他の人たちのための祈りなど。神様とお話しするのです。何をするのにもお祈りで始め、お祈りで終わります。教会ってそういうところです。みなさん一人一人はどんなお祈りをしているのかしら?神様ってお姿を見たことないし、お声を聴いたこともありません。それなのにどうやって私たちは神様とお話(お祈り)できるのでしょうか?どうして私たちのお祈りを聴いていて下さるってわかるのでしょう、不思議だと思いませんか。

じつは神様とお話し出来るのは「イエスさま」のおかげなのです。思い出して下さい。お祈りの最後の言葉を。私たちは必ず「イエスさまのお名前によって」と祈っています。これは祈るときとても大切な言葉なのです。私たちは先週イエスさまのご復活を祝うイースターの礼拝をささげましたね。私たちの罪の身代わりとなって十字架上で死なれ3日目によみがえられたイエスさまを信じる信仰によって私たちの罪はゆるされました。イエスさまが神様と私たちの間をつないで下さっているのです。私たちのすべてを知りとりなして下さっているイエスさまなしでは神様とのお話しはできないのです。上手にお祈りできなくても少しまちがったお祈りをしたとしても「イエスさまのお名前によって」と祈る時神様に喜んで頂けるのです。お祈りの最後にアーメンというのは「そのとうりです」という意味があります。一人で祈る時、またみんなで声を合わせてアーメンといえる「祈りの仲間」をもっているのも神様からの大きな恵みです。

今日の聖書のみ言葉は、パウロさんがフイリピの教会の信者さんたちに牢屋の中から書き送った手紙です。パウロさんは、一人でも多くの人たちにイエスさまのことを知って欲しいと話していたところをパウロさんを妬んでいた人たちによって牢屋に入れられてしまっていたのです。殺されてしまうかもしれない絶望的な状況の中での手紙でした。フィリピの信徒への手紙4章4節。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何ごとにつけて感謝を込めて祈りと願いをささげ、神にうちあけなさい。」パウロさんは本当に信仰のあつい人だったのですね。

またマタイ6;5~8には「あなたがたの父は願う前から私たちに必要なものをご存じでいて下さる方」という御言葉があります。それなら、もうわざわざ祈る必要はないのでは?そんな疑問が湧いたかも知れませんね。でもたとえ私たちが神様を忘れたり、自分勝手に生きているときにも、イエスさまはひと時も私たちのことを忘れることなく、神様にとりなしてくださっているのです。それほどの大きな愛だからこそ、祈らずにいられないし感謝せずにはいられないのではないでしょうか。お祈り(特に人前での)が苦手だったり、心に思っていても言葉が出てこない、そんな時はイエスさまが教えて下さった「主の祈り」で祈りましょう。お願い事ばかり多く、不平や不満だらけの私たちですが、感謝の気持ちを忘れずに「イエスさまのお名前によって」とお祈りしましょう。

5月の教会学校礼拝 (毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

◎ 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。

◎ お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

5月7日 (日)   詩編119:145-146       お話の担当… 並木せつ子

14日(日)  マタイ18:1-5             勝田令子

21日(日)   使徒言行録3:1-10          並木せつ子

28日(日)   ローマ8:21-25           興津晴枝

 

教会・教会学校からお知らせ・お祈り・報告

  • 5月14日(日)は母の日、活動の時間はプレゼントのカードを作ります。
  • 今年のペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝は6月4日(日)です。どんな記念日なのかお話を聞いて下さい。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方も参加できます。また、中学生以上の方には、10時半~11時半の一般の礼拝もお勧めしています。親子連れの方も、どうぞいらしてください。
  • 真の神は、イエス・キリストの御生涯に表されました。イエス様を通して、私たちは、神の真実を知ることができます。
  • 礼拝でのお話は小学校高学年~中学生にもわかりやすく語られます。礼拝後の活動は幼少~小学生向きですが、何歳でも楽しく参加することができます。

5月の御言葉

詩編119篇145節「心を尽くして求めます。主よ、わたしに答えてください。わたしはあなたの掟を守ります。」